KISS 前説

KISSの「STRUTTER:ストラッター」で、全てはここからは始まったのですね。1st『KISS:キッス・ファースト 地獄からの使者』からです。

中学の時は気持ち悪し、アメリカの変なバンドが、76年高1の時は、『Destroyer:地獄の軍団』の「デトロイト・ロック・シティ 」に衝撃をうけ、学校に持ち込み音楽鑑賞でかけ、あまた多いブリティッシュ・ロックファンのロック友に聴かないといけない、アメリカのハードロックバンドとぶっていた。あれから、もう43年経つのですね。ジジイになります。

少年老い易く学成り難し、ほんと何も学んでない、でも、ブログしてロックがぶり返して、毎日ほぼ音楽聴くようになったし良いかも。





と云うことで、スティングは誘われず、U2は自己都合(笑)により断腸の思いで断念。

で、今年の最後の自己イベントの目玉、KISSです。
でも、全部他力本願(笑)

「ドーム音悪いから、ビックアーティストでも厳しい、でも小さい会場だとチケット高くなるし」とぼやきを聴いた、いつもチケットを押さえてくれる年下の友人・80年代ロック通の方が、なんと仙台を押さえてくれました。

「ゼビオアリーナ仙台」のようで、キャパは4000席ぐらいのようで、東日本大震災の後に2011年に竣工だったようで、それも、意味あるモノと感じました。

仙台・盛岡・東京・大阪・愛知 と東北2箇所なんですね。
北海道、九州、中国・四国も入れば良いのに、これは自然に思いました。大人の事情なんですかね。

まあ、取り合えず、仙台に行くこと。行き・高速バス、帰り最終新幹線日帰りだそうです。ほんと他人まかせ、別に往復新幹線でも良いのにと思いましたが、高速バスも何十年ぶり、行きは友と音楽の話で盛り上がると思いますので、それも意味あるのでしょう。






















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小林 ハル

小林ハル  
誕生:1900年1月24日  
新潟県南蒲原郡井栗村(現 三条市)  
死没:2005年4月25日(105歳没)  
新潟県北蒲原郡黒川村(現 胎内市)  
死因:老衰 
 
職業:瞽女(ごぜ)  
活動期間:1905年-2005年   
著名な実績:選択無形文化財 「瞽女唄」 保持者認定  
活動拠点:新潟県・山形県・福島県  
受賞:黄綬褒章(1979年)

生後3か月で失明し、5歳の時に瞽女修行を開始。
数多くの苦難を経て晩年に「最後の長岡瞽女」「最後の瞽女」として脚光を浴びた。
8歳で初めて巡業に出て以降、1973年(昭和48年)に廃業するまでの間、 西頸城郡を除く新潟県全域と山形県の米沢・小国地方、福島県南会津地方を巡った。
1978年(昭和53年)「瞽女唄」が「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択され、その保持者として認定される。
1979年(昭和54年)、黄綬褒章を授与される。
選択無形文化財の保持者に認定されたことをもって人間国宝と呼ばれることもある。




【黄綬褒章(おうじゅほうしょう)】
褒章の一種。
多年にわたり仕事に励んできた、人々の模範たるべき人に対して授与される栄典。

吉田兄弟 「RISING」 「PRANA」

吉田兄弟 
北海道登別出身の津軽三味線の兄弟奏者
活動期間: 1999年-現在

メンバー
吉田良一郎1977年7月26日生まれ
吉田健一1979年12月16日生まれ 

5歳より三味線を習い始め、1990年より津軽三味線奏者・初代佐々木孝に師事。
津軽三味線の全国大会などで頭角を現し、弟の吉田健一とともに吉田兄弟として1999年にメジャーデビュー。

2003年の全米デビュー以降、アメリカ・ヨーロッパ・アジア・オセアニア等世界各国での活動や国内外問わず様々なアーティストとのコラボレーションも積極的に行い、日本の伝統芸能の枠を超えて、世界的に活動している。







「津軽じょんがら節」「鼓動」






吉田兄弟は、「津軽じょんがら節」や「あいや節」などの伝統音楽を得意とする一方、ピアノ、パーカッションとの共演を通して日本古来の楽器の可能性を追求し続け、海外からも高い評価を得ている。

【津軽三味線について】
津軽三味線は、津軽地方で成立した三味線音楽。本来は津軽地方の民謡に用いられるが、現代においては特に独奏を指して「津軽三味線」と呼ぶ場合が多い。
撥(ばち)を叩きつけるように弾く打楽器的奏法と、テンポが速く音数が多い楽曲に特徴がある。

弦楽器そのものの発祥は中東とされる。その後構造的に変化しながら、インドを経て中国に入り、中国南部において「三絃」が成立。
この「三絃」が沖縄を経て畿内に持ち込まれ(異説あり)、江戸時代中期に日本各地の土着芸能を融合して様々に発達し、当時日本の最北端であった津軽地方において津軽三味線となる。

専業の演奏家では特に消耗が激しく、数年おきに買い換えることが多い。このため、演奏家が舞台で現実に使用する三味線は、おおむね200~300万円程度が上限であると言われるが、個人により差が大きい。

エレキギターの様に聴こえますねヽ(´∀`)ノ

吉田兄弟

私は、吉田兄弟がデビューした当時から注目していました
津軽三味線の激しい演奏がカッコイイですね




ストリートライブの様子もとても楽しそうで素敵です


上海万博(2010年)の日本産業館テーマ曲です
マンネリ化していたクールジャパン(COOL JAPAN)に一石を投じ新たな提案となる楽曲、イベントを目指したとのことです

Nitaboh (仁太坊 ) – 2004 – Full Sub English.

情熱的な津軽三味線が大好きです
その津軽三味線始祖である秋元仁太郎さんのアニメを見つけました
どうぞご覧ください(^_^)

『NITABOH 仁太坊-津軽三味線始祖外聞』(NITABOH にたぼう-つがるしゃみせんしそがいぶん)は、2004年2月21日に公開された日本のアニメーション映画です

アジア最大のアニメ映画祭である“SICAF2006”の長編映画部門でグランプリを受賞しています

5059.jpg




感動の涙が止まらない・・・
そんな素晴らしい作品です



仁太坊とは
本名・秋元仁太郎は、江戸末期の安政四年(1857)7月7日、金木村神原に貧しい船渡しの子どもとして誕生。生後間もなく母を失い、疱瘡のため8歳で失明。さらに、11歳で父を失い、天涯孤独の身となりました。
生きる術として三味線を取り、上方から流れてきた盲目の女三味線弾きから手ほどきを受けるなどして修行に励み、21歳の時に『叩き奏法』を生み出しました。
その個性的な奏法が津軽一円に知れ渡り、多くの盲目の少年たちが弟子入りしました。
1人で8人分の芸を演ずる八人芸を創作しました。
現代音楽として成立している情熱的で激しい演奏である津軽三味線の系譜をたどれば、仁太坊に行き着くのです。
昭和3年 1月2日 (1928年)に亡くなっています。
 

五所川原で「仁太坊祭り」 津軽三味線の腕前披露


ご視聴ありがとうございました(^_^)

David Bowie – Look Back In Anger

デヴィッド・ボウイの「Look Back In Anger:怒りをこめてふり返れ」で、アルバムは79年『Lodger:ロジャー(間借人)』ですね。

俗に言う70年代後半のベルリン3部作77年『ロウ 』・『英雄夢語り』79年『ロジャー(間借人)』ですが。

U2をビックバンドに変える前、音楽の俊英、環境音楽なり、いろいろなミュージシャンとジョイント、ブライアン・イーノの関わったモノで、素晴らしい3部作アルバムと評価されていますね。

でもな、『ロジャー(間借人)』は3部作締めには、異質!






ブリティッシュ・ロックがニューウェイヴへ、大きく舵を切った70年代末、ボウイは本能的に、又は作為的に変化し続ける方。

皆が評価した、3部作は薬から脱却、活躍場がたまたまベルリン、ヨーロッパだったかもで、この『ロジャー(間借人)』は、次への変化の始まりだったかもで…

初めて聴いた時、乗れず、絶句した80年『スケアリー・モンスターズ』と近い(笑)

小生の方がボウイに追いつけなかったと思いますが、『スケアリー・モンスターズ』は大ヒットでしたが、その前にしっかりとボウイなりに、序章的なアルバムをPOP色強しでアバンギャルドしっかりの『ロジャー(間借人)』

正に間借人だったかもですね。

と云うことでおまけは同アルバムからイーノ共作で

David Bowie - Fantastic Voyage























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JUNOON // NEW SONG 2019 // CHOOLAY AASMAN // FULL VIDEO

貧困と暴力と宗教的過激主義が混在するラーホールで育ったジュヌーン(1990年にデビューしたパキスタン伝説のスーフィーロックバンド)


パキスタンの伝説的ロックバンド、ジュヌーン(情熱)のご紹介です
木阿弥さんのリクエストにお応えして・・・



JUNOON // NEW SONG 2019 // CHOOLAY AASMAN // FULL VIDEO

Junoonは、1990年に結成されたパキスタンのパンホールのラホールとニューヨークのタッパンのスーフィーロックバンドです
オコネルとボーカリストのアリ・アズマット
Junoonはパキスタンのバンドであり、南アジアで最も成功しているバンドの1つです





96年のアルバム『Inquilaab(インキラーブ:革命)』、パキスタン国内でヒットしたことにより、翌年にインドで発売になる『Azadi(アザディ:自由)』へと繋がり、彼らの名前を一躍世界へと知らしめたそうです

U2 – The Electric Co.

U2の「The Electric Co.:ジ・エレクトリック・カンパニー 」で、アルバムは日本では1st・80年『BOY』です。

今日ですね、ライブ、チケットの転売サイトで、4万のSS券をポッチとまで、行きましたが、大人の諸事情によって、あきらめ(泣)

お金は用意しましたが、時間が時が余裕がない、勝手に生きてきましたが、もう勝手が、できない年頃・還暦前ですから、当たり前です。普通…

でもでも、音楽・ロックを聴く時は、10代と変わらないと自惚れ(笑)






で、1stを聴いて慰め、プロデューサー、スティーヴ・リリーホワイトと組んで、正に80年代サウンド、スティーヴ・リリーホワイトは多くのミュージシャンと組み、きらびやかな乾いたクールな音色にほんと夢中になりました。

小生にとってはプロデューサーにこだわるまで、聴き込んだU2・スティーヴ・リリーホワイトでした。

スティーヴ・リリーホワイトと組んだ初期3部作80年『BOY』・81年『アイリッシュ・オクトーバー』・83年『WAR(闘)』は、80年代ニューウェーブに夢中になりますが!

ロックとして、それもオンタイム同世代ロックの位置づけ、後追いで名曲を知るのでなく、ほんと新譜が楽しみなバンドU2でした。

さらに小生が敬愛するブライアン・イーノと組んで、2作目の87年『ヨシュア・トゥリー』でグレイトなバンドの地位を確立しました。

まあ文句もいろいろありますが(笑)愛憎入り交じるのは、注目している証拠。

今回の公演の後、数年後に直ぐに日本では演らないと思う、U2もロジャー・ウォーターズもニール・ヤングも海外に見に行く覚悟が必要かもです。

その前に時間を確保する事ですね。

と云うことおまけは、みちのくの参戦予定??一週間に2回のライブ参戦は無理でしたが、こちらは行くぞ!!

Kiss - I Was Made For Lovin' You



























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