こんばんは。
面白い小説を読んでいると、いつまでも終わって欲しくないためにページをめくる手を押さえたくなる時があります。前回からご紹介しているこの小説は、まさにページをめくる手を止めたくなるほど緊張感にあふれる小説です。それもそのはず、そこに描かれているのは、12日間に渡って100人近いピアニストの中から1人の優勝者を決める芳ケ江国際ピアノコンクールのすべてなのです。
「蜜蜂と遠雷」(恩田陸著 幻冬舎文庫上下巻 2019年)
ところで、コンクールと言えばこの本を読んでいる間にうれしいニュースが飛び込んできました。世界的にも有名なピアニストの登竜門、チャイコフスキー国際コンクール。先日行われた第16回コンクールのピアノ部門で日本人が27年ぶりに2位入賞の快挙を成し遂げたのです。その日本人とは、東京音楽大学3年生で20歳の藤田真央さんです。藤田さんは、2017年に18歳でクララ・ハスキル国際ピアノコンクールで優勝したとの経歴の持ち主。
(コンクール第2位 藤田真央さん spice.eplusより)
音楽の神に祝福されたピアニストの快挙に思わず拍手してしまいました。
【心憎い小説の演出】
さて、前回、著者の恩田さんがこの著書に込めた様々な工夫についてお話ししましたが、それ以外にも著者の仕掛けはプロフェッショナルであり、数えきれません。
普通、クラシック音楽のファンでなければ国際コンクールと言っても故中村紘子さんの本で有名になったチャイコフスキー国際コンクールや最近生誕200年として、各地で話題となった国際ショパンコンクールの名前をかろうじて知っている程度です。ましてや、日本で行われるコンクールがどんな日程で、どんなプログラムで実施されるのか、知る由もありません。
著者は、小説を読むうちに素朴な疑問がいろいろ湧き上がることを考えて、小説が始まる前に事前知識を我々に開示してくれます。まず、コンクールがどのような曲で行われるのかとの情報です。それは、参加するコンテスタント(競技参加者)たちがエントリーするための課題の一覧です。
第一次予選:①バッハ平均律クラヴィーア曲集より1曲。ただし、フーガが三声以上のものとする。②ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンのソナタより第1楽章または第1楽章を含む複数の楽章。③ロマン派の作曲家の作品より1曲。*演奏時間は合計で20分をこえてはならない。
ちなみに超絶技法を持つ19歳のイケメン、マサル・カルロス・レヴィ・アナトールの第一次予選のエントリー曲は、①バッハ「平均律クラヴィーア曲集第一巻第六番」、②モーツァルト「ピアノソナタ第十三番第一楽章」、③リスト「メフィスト・ワルツ第一番 村の居酒屋の踊り」と記されています。
こうして、コンクールの予選本選のエントリー課題曲の条件と小説で描かれる4人のコンテスタントのエントリーした実際の課題曲が一覧表で示されているのです。これを見るだけで、我々はこのコンクールの奥深さと、高島明石、栄伝亜夜。マサル・カルロス・レヴィ・アナトール、風間塵がこの12日間にどんな曲で演奏に挑んでいくのか、その姿が浮かび上がってくるのです。
一次予選は20分の演奏ですが、第二次予選は40分未満、第三次予選は60分以内、と予選が進むに従ってその力量を問われることとなり、さらに本戦は、小野寺昌幸指揮、新東都フィルハーモニー管弦楽団とピアノ協奏曲を共演し、ソリストとしての存在感を問われることになります。特に第二次予選では興味深い課題が仕組まれています。それは、このコンクールのために作曲された新作のピアノ曲を演奏するとの課題です。
今回お題となる曲は、菱沼忠明作曲の「春と修羅」。
皆さんこの題名からピンとくるものがあると思います。そう、この曲はみちのくの作家宮沢賢治が書き記した詩集の題名です。このブログでもご紹介した「ビブリア古書堂の事件手帖」にもその初版本が登場しましたが、この作品には24歳で亡くなった妹トシとの別れを謳った「詠訣の朝」やトシとの交流を描いた作品など、その壮絶な心象風景が謳われています。この曲をどのように解釈し、その息吹を表現するのか、それが第二次予選のハイライトとなるのです。
(「春と修羅」初版本 中古本サイトより)
小説で丁寧に描かれていく主人公たちの優勝を目指す演奏は、読者に提示されたそれぞれのエントリー曲が次々と登場し、我々をコンクールの世界へといざなってくれるのです。そして、高島明石、栄伝亜夜、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール、風間塵。4人のコンテスタントがそれぞれの個性と人生を振り返りながら、音楽の表現者として驚くほどの成長を遂げていきます。その姿に我々は手に汗を握って小説世界に没頭します。
【伏線、そして第三の視点】
この文庫本には、下巻の最後に、この小説が雑誌に連載されていた当時の裏話を編集者が描いた解説が掲載されています。それを読むと、まず恩田さんの「国際ピアノコンクールを最初から最後まで小説にしてみたい。」との執筆の動機が語られています。小説を読み終わると、まさに著者の言う通りのことがこの小説に描かれていることが分かります。
しかし、日本で行われるピアノコンクールをその最初から最後まで描いた小説が、なぜこれほど面白いのでしょうか。そして、なぜこの小説が恩田陸さん待望の直木賞を受賞し、さらに2度の受賞はないと言われていた二度目の本屋大賞を受賞したのでしょうか。
もちろん、前回お話しした多彩の登場人物たちの視点をちりばめて、たくさんの個性豊かな登場人物がそれぞれの言葉でコンクールや演奏を語ることが、この小説の大きな魅力となっていることに間違いはありません。それにしても、だれでも親しめるわかりやすい言葉で語られているこの小説。恩田さんがこの作品の中にいかに数々のドラマを練りこんでいるのか、それを語っていきましょう。(以下、かなりのネタばれあり)
ここまで、この小説の主人公であるコンテスタント4人についてご紹介しましたが、この小説は、それだけでは語れないほど多層的です。前回、高島明石の奥さんの語りを紹介しましたが、この小説ではピアニストの家族や師匠のほかにも大切な語り部が存在しているのです。それは、コンテストの行方を左右する神のような審査員の存在です。
この小説が面白いのは、小説が一つの謎解きのような構造を持っていることです。
(文庫「蜜蜂と遠雷」下巻 amazon.co.jp)
【仕掛けられた謎とは?】
この小説に仕掛けられた最も大きな謎は、16歳のコンテスタント「風間塵」そのものです。彼は、プロローグにも、エピローグにも登場するのですが、彼の存在そのものがこの小説の謎そのものとなっているのです。謎には、それを解き明かす探偵が必要です。この小説では、コンクールの審査員たちが謎を解く探偵としての役割を果たしているのです。
最近のハリウッド映画では、エンドロールに撮影ユニットのスタッフが数多く紹介されます。例えば、ロケ地によって、ロンドンユニット、ニューヨークユニット、トウキョウユニットなどと撮影班やクリエーターたちがそれぞれ映像を作り上げていきます。それと同様にこの魅力あふれる小説では、審査員ユニットがそれぞれの予選において、小説の謎解きを担っているのです。
審査員を代表するのは、嵯峨三枝子という国際的な一流ピアニストです。小説の冒頭、「エントリー」の章では、フランスのパリで行われたコンクールのオーディションの光景が描かれます。このオーディションの審査員である三枝子、セルゲイ・スミノフ、アラン・シモンの3人は、若き謎のピアニストを目の当たりにするのです。
その名は、「ジン・カザマ」。
三枝子は、エントリーシートでこの名前を見た時、そのエピソードに目を奪われます。そこには、「師事した人」としてユウジ=フォン=ホフマンの名前が記されていたのです。ホフマンは、最近鬼籍に入った世界的なピアニストであり、その演奏はすでに伝説と化していたのです。さらに、そこには推薦状ありと記されています。5歳からホフマンに師事。伝説のホフマンは弟子を取らないことでも有名です。いったい「ジン・カザマ」はどんな演奏を聞かせるのか、その演奏を前に三枝子の鼓動は高まっていきます。
「ジン・カザマ」は、最後の演奏者。ところが、時間になっても本人は登場してきません。会場が戸惑う中、しばらくすると本人が息せき切って現れます。現れたのは、子供と見違えるような少年でした。その幼い笑顔に驚く三枝子ですが、ピアノの前に座り鍵盤に指を置いた途端、三枝子はその演奏に心をえぐられるような衝撃を覚えたのです。
オーディションの審査員3人は健啖家であると同時に無類の酒好きで、その審査も保守本流から遠く離れた破天荒な評価をすることで名が知れていました。その3人は、「シン・カザマ」の衝撃的な演奏を聴いた後、伝説のピアニスト、ホフマンの推薦状の内容について語り合います。その内容は・・・。
「皆さんに、カザマ・シンをお贈りする。
文字通り、彼は『ギフト』である。おそらくは、天から我々への。
だが、勘違いしてはいけない。試されているのは、彼ではなく、私であり、皆さんなのだ。彼を『体験』すればお分かりになるだろうが、彼は決して甘い恩寵などではない。彼は劇薬なのだ。仲には彼を嫌悪し、拒絶する者もいるだろう。しかし、それもまた彼の真実であり、彼を『体験』する者の中にある真実なのだ。
彼を本物の『ギフト』にするか、それとも『厄災』にしてしまうのかは、皆さん、いや、我々にかかっている。」
「ジン・カザマ」の弾く、モーツァルト、ベートーヴェンを聴いて三枝子は怒りに身を震わせます。「こんな音楽を私は認めない。」 三枝子は、審査に当たって彼の演奏を0点としますが、他の審査員が満点に近い点をつけたことで、彼はオーディションに合格。本番の芳ケ江国際ピアノコンクールにコンテスタントとして登場することになったのです。
(浜松国際ピアノコンクール 大ホール actcity.jpより)
いったい「ジン・カザマ」とは何者なのか。彼は、コンクールでどんな演奏を聞かせてくれるのか。その謎は、最後まで我々にこの小説を楽しませてくれるのです。
【音楽の魅力を描く】
素晴らしい語り部は、物語を魅力的にしてくれます。
恩田さんは、この小説にこれまで培ってきたすべてを注ぎ込んでいます。そのプロットももちろんですが、その中にちりばめられる音楽にかかわる様々なエピソードにも心を奪われます。
審査員の一人である高名なピアニスト、ナサニエル・シルヴァーバーグは、イギリス人でありながらアメリカのジュリアード音楽院で教授を務めています。彼は、三枝子の元夫であると同時に、コンテスタントであるマサル・カルロス・レヴィ・アナトールの師匠でもあります。彼は、かつて伝説のピアニスト、ホフマンの押しかけの弟子でした。「シン・カザマ」はそのホフマンの弟弟子。しかし、自らの弟子マサルの強力なライバルでもあるのです。彼の存在が、ジンとマサルの対決をさらに盛り上げてくれます。
また、本選でピアノコンチェルトが演奏される場面では、新東都フィルハーモニー管弦楽団を指揮する小野田昌幸のこんな述懐も披露されます。以前のコンクールでは、4人のコンテスタントが全員ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」をエントリーしたことがあり、4人のコンテスタントに対して同じテンションで演奏をしなければいけないと分かっていても、4回目には緊張感を維持することが大変だったと語ります。コンクールを担当する指揮者は、人知れぬ苦労があるのだ、と思わず同情してしまいました。
そして、この小説で最も重要な役割を担っているのは、音楽の神様です。音楽の神様は、いったいコンテスタントたちに何をもたらすのか。この小説のテーマは、そこに尽きるのです。そして、小説の題名にもそのテーマが通底しています。「蜜蜂と遠雷」、それは音楽以前の音そのものを表わしているのです。
音楽が好きな方もそうでない方も、ぜひこの小説で「音楽と人」のすばらしい関係を味わってください。興奮と感動を味わうことができること請け合いです。ただし、夜に読み始めると、必ず徹夜になってしまうのでお気を付けください。
それでは皆さんお元気で、またお会いします。
〓今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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