ドナルド・キーン自伝 氏を偲ぶ

こんばんは。

  アメリカ出身の日本文学者ドナルド・キーン氏が97歳の生涯を閉じてから、来月で1年になろうとしています。

  氏は、中央公論社、朝日新聞などで日本語での執筆者として、数々の評論を執筆することはもちろん、日本の文化をこよなく愛し、コロンビア大学、ケンブリッジ大学などで教鞭をとり、日本文学を広く世界に紹介してくれました。氏が初めて日本の地を踏んだのは1953年、31歳のときでした。そこから60年以上も氏はアメリカと日本を往復して、日本人以上に日本文化を深く研究し続けました。

  2011年の東日本大震災の時には、日本人とともに日本を襲った未曾有の災害に心を痛め、亡くなった方、被災した方々に寄り添ってくれました。氏は、これを機会に日本国籍を取得することを表明。9月にはついに日本への永住のための来日を果たしました。2012年には晴れて日本国籍を取得。最後には、愛する日本の地で生涯を終えたのです。

  1周忌を目前にして、キーンさんがどのように日本を愛したのかを知りたくて本屋さんでキーンさんの本を探しました。本当は、氏の作品を読むべきと考えていたのですが、あの笑顔を思い浮かべると、まず読んでみたいのは自伝だと気づいたのです。文庫でも何冊か自からを語る本がありましたが、補追として最近年に記した2つの文章が収められている中公新書の新版を手に入れました。それは、素晴らしい自伝でした。

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(「ドナルド・キーン自伝」amazon.co.jp)

「ドナルド・キーン自伝-増補新版」(ドナルド・キーン著 角地幸男訳 中公文庫 20193月)

【八月十五日に吹く風】

  ドナルド・キーンさんは、外国人として日本文学の研究を本格的に行った草分け的な人物でした。ことに川端康成や三島由紀夫とは人として友情をはぐくみ、親友と呼ばれる仲でした。ひと月の半分は日本で過ごし、日本人よりも日本的な日本語を話し、評論やエッセイも日本語で記す、日本通でした。日本でも読売文学賞をはじめ多くの賞を受賞し、2008年には外国人の日本研究者としてはじめて文化勲章を受勲しました。

  1982年からは10年間、朝日新聞社で客員編集委員も務め、朝日新聞には多くの論考を掲載していました。もちろん、当時はオンタイムでその文章を読んでいてその謦咳に接していたのですが、キーン氏の印象を強く意識したのは、一編の小説からでした。

  その小説は、松岡圭祐氏が上梓した「八月十五日に吹く風」でした。

  この小説は、太平洋戦争で日本が劣勢に立った19435月を舞台としています。その年、日本軍の精神的支柱と言われていた山本五十六連合軍司令長官が戦死し、勢いに乗ったアメリカ軍は、アリューシャン列島で唯一日本軍に占領されていたアッツ島とキスカ島の奪回作戦を敢行したのです。この2島には日本軍の兵士7800人余りが日本の最前線基地を守備していました。

  アメリカ軍の襲来を知った軍部は、キスカ島が先に上陸されるとの目算から多くの兵士をキスカ島へと移動させました。しかし、その移動を知ったアメリカ軍は侵攻先を手薄になったアッツ島へと変更したのです。2600人余りでアッツ島を守備していた日本軍は、物量で圧倒的なアメリカ軍に対し、一歩も引くことなく最後の隊までも「バンザイ」突撃を敢行し、文字どおり全滅しました。

  物語は、アッツ島で日本軍が玉砕した戦闘後、キスカ島を守る5200人の日本軍を見殺しにするのか、撤退に導くのか、究極の作戦遂行を描くのです。その小説で、カギを握るがドナルド・キーン氏だったのです。この小説が上梓された当時、キーン氏はまだご存命でしたので、小説上の名前はロナルド・リーンとなっていましたが、その人物は間違いなくキーン氏でした。

  この小説は、現代とキスカ島戦闘当時の二つの時制で語られますが、キーン氏はその両方をつなぐ日米の絆として重要な役割を担っていました。過去の時制では、劇的なキスカ島救援作戦が遂行されるのですが、キスカ島での戦闘は日本軍とアメリカ軍の両面から語られることになります。  

  このとき、キーン氏は日本語翻訳将校としてアメリカ軍とともにキスカ島にいたのです。その経緯は、この自伝に語られています。

  当時、アメリカでは日本語を学ぶ学生はごく少数で、通訳は急増の状態だったようですが、「源氏物語」に魅せられたキーン青年は日本への想いを胸に通訳を志望したのです。キスカ島の奇跡については、ぜひ「八月十五日に吹く風」で味わって欲しいのですが、小説を読むと松岡氏が小説執筆にあたってこの自伝を参考とし、ロナルド・リーンを造形したことがよくわかります。

  この小説のラストシーンで、キスカ島作戦の従軍記者であった菊池雄介が流浪の末に朝日新聞社の記者となったとき、アメリカ軍の従軍記者であったリーン氏が朝日新聞社の客員編集委員となり、歴史の偶然によって再開する場面は、この小説のクライマックスとして感動的でした。

【日本を愛し、日本に愛されたキーン氏】

  キーン氏は、自伝の中で人生の分岐点について触れており、自らの意思で歩んできたことを語っていますが、随所に触れられているのは人との繋がりと知り合うことができたすべての人への限りない感謝の念です。日本では、文部大臣も務めた永井道雄氏、中央公論社の社長、嶋中鵬二氏、小説家、三島由紀夫、川端康成、安部公房などなど、時代を作ってきた人々との深い交流が描かれています。

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(日本文学者たちを描く amazon.co.jp)

  キーン氏は、31歳ではじめて日本に留学するまでは、アメリカのコロンビア大学、ハーヴァード大学、イギリスのケンブリッジ大学で日本研究を行い、その後は、月の半分をコロンビア大学で日本文学研究の教授として学生たちへの教鞭をとっていました。

  自伝では、数々の賞を受賞した日本文化の著作についても語られていますが、学生に日本文学を教える教師としての仕事にも触れています。日本学について各大学で学ぶ中、キーン氏の観察眼の鋭さが鋭いことに感銘を受けます。コロンビア大学では、角田隆作教授の話が印象的です。当時、コロンビア大学で日本文学を専攻する学生は数少なく、キーン氏が先行したときには、学生が氏一人であったといいます。

  教授は、自らの研究を学生に教える際には事前の準備を怠らなかったそうですが、キーン氏は教授の研究分野にかかわらず日本文学に関する数々の質問を投げかけました。角田教授は、キーン氏の質問に対してできる限りの知見を尽くして答えてくれたのです。あまつさえ、キーン氏が希望する浄瑠璃について、専門外にもかかわらず深く準備し、講義を行ってくれたといいます。キーン氏の教授としての生き方は、角田氏という氏がいてこそ成立したのだ、と感動します。

  また、ハーヴァード大学では、日本文学の講義をセルゲイ・エリセーエフ教授が行っていました。この教授は日本研究の第一人者として名声があったそうですが、その講義に対する姿勢についてキーン氏は完全に失望したと語ります。その失望は強烈で、徹底的なのですが、最後には教授に出会って幸運だったと収めます。その心は、これから学生に教えるときにエリセーエフ教授のやり方と反対のことをすればよいと気づかせてくれたからだ、そうです。

  キーン氏のユーモアとアイロニーに思わずにやりとさせられます。

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(自ら日本語名を発表 asahi.com)

  自伝は、4つの章に分かれています

第一章は、ブルックリンで生まれてから大学生になるまで

第二章は、コロンビア大学での学究と兵役、日本留学まで

第三章は、著作者として、また三島、川端、安部との交流

第四章は、1980年代から手掛けた数々の仕事の話

  さらに増補新版には、「日本国籍取得決断の記」、「六十年の月日との終生の友人たち」が補追されています。

  この本はどこを読んでもキーン氏の人柄がにじみ出て感動的です。

【作家たちとの友情の記】

  昨年は、旭化成名誉フェローの吉野彰さんがノーベル化学賞を受賞し、その快挙に日本中が沸き立ちました。日本人のノーベル賞受賞者は吉野さんが28人目となります。その中で、ノーベル文学賞の受賞者は3名。直近では、2017年に英国籍ではあるものの日本で生まれたカズオ・イシグロさんが受賞し、本屋さんはその著書であふれました。それ以前の受賞者といえば、1994年に受賞した大江健三郎さん、そして、ノーベル文学賞を日本人として初めて受賞した川端康成さんは1968年に受賞しています。(以下、敬称略)

  1953年31歳で日本に留学し京都に下宿したキーン氏は、そこで永井道雄と知り合い強い友情をはぐくむことになります。永井はキーン氏に中央公論社の嶋中鵬二を紹介し、嶋中は碧い目の日本文学研究者に日本の現代作家たちを紹介します。その中で、川端康成と三島由紀夫はドナルド・キーンにとって無二の友人となったのでした。

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(ドナルド・キーンと三島由紀夫 note.com)

  三島由紀夫と川端康成の関係は、戦後間もないころに始まります。1946年、当時21歳でまだ大学生でした。川端は26歳年上ですでに文壇で名を成していましたが、三島が作品「中世」を川端に見せ、以前から三島の作品を知っていた川端がその才を認めて、三島を文壇に紹介しました。三島由紀夫は生涯、川端を、自らを世に出してくれた恩人として敬っていたのです。

  三島由紀夫は、その後「仮面の告白」、「潮騒」、「金閣寺」と次々に名作を上梓し、日本国内のみではなく世界に紹介されるようになります。1957年、「潮騒」、「近代能楽集」が英訳された機に三島はニューヨークに招待されました。三島は、現地の演劇プロデューサーから能の上演をオファーされました。この上演のために三島は半年間滞在するのですが、自伝にはこのときの三島の姿がリアルに描かれています。

  それから10年。数々の作品が世界に紹介された三島は、ノーベル文学賞の候補としてその名前が挙がるまでになっていました。自伝の著者もこのときのノーベル賞の最右翼は三島であると思っており、さらに、選考委員からも直接三島が有力であることを聞かされていたといいます。しかし、実際にノーベル文学賞に選ばれたのは、川端康成でした。1968年、川端康成はノーベル賞を受賞。その2年後の1970年、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地を占拠し、演説を行った後に壮絶な自決を決行します。三島はまだ45歳でした。そして、さらにその2年後、1972年、川端康成は逗子マリーナの部屋で自ら命を絶ちました。享年72歳。

  このことを知ったうえでこの自伝を読むと、ドナルド・キーンが語る二人の文学者との交流に胸が熱くなります。

【日本人よりも日本らしく】

  キーンさんは、司馬遼太郎氏がはなった「朝日は駄目だ!」「今、朝日を良い新聞にする唯一の方法はドナルド・キーンを雇うことだ。」との言葉がきっかけで朝日新聞の客員編集委員になったそうです。そこから、キーン氏は「日本」に迫る著書を次々に上梓していきます。その著作の裏舞台はぜひこの本で読んでほしいのですが、この自伝で感じるのは、彼が日本人よりもはるかに日本に愛情を持っていることです。

  そのことは、この本に頻繁に登場する日本に住む自らに対するウィットに富んだ表現によく表れています。

  例えば、31歳で来日した頃、京都のバーで年齢を聞かれると、ときに「18歳」、ときに「55歳」と言っても誰も異を唱えなかったと言います。いったい何のことかと思えば、次のセンテンスで、先日街を歩いているとある婦人が自分に地下鉄の駅への行き方を訪ねてきたことを語ります。そして曰く、「それはまさに喜びの瞬間だった。」「その婦人は私の外見にお構いなしに、私が駅の場所を知っていると判断したのだ。」60年かかって日本人が外国人を受け入れるようになった、との喜びは、キーンさんならではです。

  その日本に対する愛情が我々にドナルド・キーンという贈り物を届けてくれたに違いありません。

  淡々とした自伝の語り口にかかわらず、その人生には熱い想いが常にみなぎっていました。この自伝は日本人にこそ読んでほしい一冊です。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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ドナルド・キーン自伝 氏を偲ぶ

こんばんは。

  アメリカ出身の日本文学者ドナルド・キーン氏が97歳の生涯を閉じてから、来月で1年になろうとしています。

  氏は、中央公論社、朝日新聞などで日本語での執筆者として、数々の評論を執筆することはもちろん、日本の文化をこよなく愛し、コロンビア大学、ケンブリッジ大学などで教鞭をとり、日本文学を広く世界に紹介してくれました。氏が初めて日本の地を踏んだのは1953年、31歳のときでした。そこから60年以上も氏はアメリカと日本を往復して、日本人以上に日本文化を深く研究し続けました。

  2011年の東日本大震災の時には、日本人とともに日本を襲った未曾有の災害に心を痛め、亡くなった方、被災した方々に寄り添ってくれました。氏は、これを機会に日本国籍を取得することを表明。9月にはついに日本への永住のための来日を果たしました。2012年には晴れて日本国籍を取得。最後には、愛する日本の地で生涯を終えたのです。

  1周忌を目前にして、キーンさんがどのように日本を愛したのかを知りたくて本屋さんでキーンさんの本を探しました。本当は、氏の作品を読むべきと考えていたのですが、あの笑顔を思い浮かべると、まず読んでみたいのは自伝だと気づいたのです。文庫でも何冊か自からを語る本がありましたが、補追として最近年に記した2つの文章が収められている中公新書の新版を手に入れました。それは、素晴らしい自伝でした。

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(「ドナルド・キーン自伝」amazon.co.jp)

「ドナルド・キーン自伝-増補新版」(ドナルド・キーン著 角地幸男訳 中公文庫 20193月)

【八月十五日に吹く風】

  ドナルド・キーンさんは、外国人として日本文学の研究を本格的に行った草分け的な人物でした。ことに川端康成や三島由紀夫とは人として友情をはぐくみ、親友と呼ばれる仲でした。ひと月の半分は日本で過ごし、日本人よりも日本的な日本語を話し、評論やエッセイも日本語で記す、日本通でした。日本でも読売文学賞をはじめ多くの賞を受賞し、2008年には外国人の日本研究者としてはじめて文化勲章を受勲しました。

  1982年からは10年間、朝日新聞社で客員編集委員も務め、朝日新聞には多くの論考を掲載していました。もちろん、当時はオンタイムでその文章を読んでいてその謦咳に接していたのですが、キーン氏の印象を強く意識したのは、一編の小説からでした。

  その小説は、松岡圭祐氏が上梓した「八月十五日に吹く風」です。

  この小説は、太平洋戦争で日本が劣勢に立った19435月を舞台としています。その年、日本軍の精神的支柱と言われていた山本五十六連合軍司令長官が戦死し、勢いに乗ったアメリカ軍は、アリューシャン列島で唯一日本軍に占領されていたアッツ島とキスカ島の奪回作戦を敢行したのです。この2島では日本軍の兵士7800人余りが日本の最前線基地を守備していました。

  アメリカ軍の襲来を知った軍部は、キスカ島が先に上陸されるとの目算から多くの兵士をキスカ島へと移動させました。しかし、その移動を知ったアメリカ軍は侵攻先を手薄になったアッツ島へと変更したのです。2600人余りでアッツ島を守備していた日本軍は、物量で圧倒的なアメリカ軍に対し、一歩も引くことなく最後の隊までも「バンザイ」突撃を敢行し、文字どおり全滅しました。

  物語は、アッツ島で日本軍が玉砕した戦闘後、キスカ島を守る5200人の日本軍を見殺しにするのか、撤退に導くのか、究極の作戦遂行を描くのです。その小説で、カギを握るがドナルド・キーン氏だったのです。この小説が上梓された当時、キーン氏はまだご存命でしたので、小説上の名前はロナルド・リーンとなっていましたが、その人物は間違いなくキーン氏でした。

  この小説は、現代とキスカ島戦闘当時の二つの時制で語られますが、キーン氏はその両方をつなぐ日米の絆として重要な役割を担っていました。過去の時制では、劇的なキスカ島救援作戦が遂行されるのですが、キスカ島での戦闘は日本軍とアメリカ軍の両面から語られることになります。  

  このとき、キーン氏は日本語翻訳将校としてアメリカ軍とともにキスカ島にいたのです。その経緯は、この自伝に語られています。

  当時、アメリカでは日本語を学ぶ学生はごく少数で、通訳は急造の状態だったようですが、「源氏物語」に魅せられたキーン青年は日本への想いを胸に通訳を志望したのです。キスカ島の奇跡については、ぜひ「八月十五日に吹く風」で味わって欲しいのですが、小説を読むと松岡氏が小説執筆にあたってこの自伝を参考とし、ロナルド・リーンを造形したことがよくわかります。

  この小説のラストシーンで、キスカ島作戦の従軍記者であった菊池雄介が流浪の末に朝日新聞社の記者となったとき、アメリカ軍の従軍記者であったリーン氏が朝日新聞社の客員編集委員となり、歴史の偶然によって再会する場面は、この小説のクライマックスとして感動的でした。

【日本を愛し、日本に愛されたキーン氏】

  キーン氏は、自伝の中で人生の分岐点について触れており、自らの意思で歩んできたことを語っていますが、随所に触れられているのは人との繋がりと知り合うことができたすべての人への限りない感謝の念です。日本では、文部大臣も務めた永井道雄氏、中央公論社の社長、嶋中鵬二氏、小説家、三島由紀夫、川端康成、安部公房などなど、時代を作ってきた人々との深い交流が描かれています。

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(日本文学者たちを描く amazon.co.jp)

  キーン氏は、31歳ではじめて日本に留学するまでは、アメリカのコロンビア大学、ハーヴァード大学、イギリスのケンブリッジ大学で日本研究を行い、その後は、月の半分をコロンビア大学で日本文学研究の教授として学生たちへの教鞭をとっていました。

  自伝では、数々の賞を受賞した日本文化の著作についても語られていますが、学生に日本文学を教える教師としての仕事にも触れています。日本学について各大学で学ぶ中、キーン氏の観察眼の鋭さに感銘を受けます。コロンビア大学では、角田隆作教授の話が印象的です。当時、コロンビア大学で日本文学を専攻する学生は数少なく、キーン氏が専攻したときには、学生が氏一人であったといいます。

  教授は、自らの研究を学生に教える際には事前の準備を怠らなかったそうですが、キーン氏は教授の研究分野にかかわらず日本文学に関する数々の質問を投げかけました。角田教授は、キーン氏の質問に対してできる限りの知見を尽くして答えてくれたのです。あまつさえ、キーン氏が希望する浄瑠璃について、専門外にもかかわらず深く準備し、講義を行ってくれたといいます。キーン氏の教授としての生き方は、角田氏という氏がいてこそ成立したのだ、と感動します。

  また、ハーヴァード大学では、日本文学の講義をセルゲイ・エリセーエフ教授が行っていました。この教授は日本研究の第一人者として名声があったそうですが、その講義に対する姿勢についてキーン氏は完全に失望したと語ります。その失望は強烈で、徹底的なのですが、最後には教授に出会って幸運だったと収めます。その心は、これから学生に教えるときにエリセーエフ教授のやり方と反対のことをすればよいと気づかせてくれたからだ、そうです。

  キーン氏のユーモアとアイロニーに思わずにやりとさせられます。

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(自ら日本語名を発表 asahi.com)

  自伝は、4つの章に分かれています

第一章は、ブルックリンで生まれてから大学生になるまで

第二章は、コロンビア大学での学究と兵役、日本留学まで

第三章は、著作者として、また三島、川端、安部との交流

第四章は、1980年代から手掛けた数々の仕事の話

  さらに増補新版には、「日本国籍取得決断の記」、「六十年の月日との終生の友人たち」が補追されています。

  この本はどこを読んでもキーン氏の人柄がにじみ出て感動的です。

【作家たちとの友情の記】

  昨年は、旭化成名誉フェローの吉野彰さんがノーベル化学賞を受賞し、その快挙に日本中が沸き立ちました。日本人のノーベル賞受賞者は吉野さんが28人目となります。その中で、ノーベル文学賞の受賞者は3名。直近では、2017年に英国籍ではあるものの日本で生まれたカズオ・イシグロさんが受賞し、本屋さんはその著書であふれました。それ以前の受賞者といえば、1994年に受賞した大江健三郎さん、そして、ノーベル文学賞を日本人として初めて受賞した川端康成さんは1968年に受賞しています。(以下、敬称略)

  1953年31歳で日本に留学し京都に下宿したキーン氏は、そこで永井道雄と知り合い強い友情をはぐくむことになります。永井はキーン氏に中央公論社の嶋中鵬二を紹介し、嶋中は碧い目の日本文学研究者に日本の現代作家たちを紹介します。その中で、川端康成と三島由紀夫はドナルド・キーンにとって無二の友人となったのでした。

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(ドナルド・キーンと三島由紀夫 note.com)

  三島由紀夫と川端康成の関係は、戦後間もないころに始まります。1946年、三島は当時21歳でまだ大学生でした。川端は26歳年上ですでに文壇で名を成していましたが、三島が自作「中世」を川端に見せ、以前から三島の作品を知っていた川端がその才を認めて、三島を文壇に紹介しました。三島由紀夫は生涯、川端を、自らを世に出してくれた恩人として敬っていたのです。

  三島由紀夫は、その後「仮面の告白」、「潮騒」、「金閣寺」と次々に名作を上梓し、日本国内のみではなく世界に紹介されるようになります。1957年、「潮騒」、「近代能楽集」が英訳された機に三島はニューヨークに招待されました。三島は、現地の演劇プロデューサーから能の上演をオファーされました。この上演のために三島は半年間滞在するのですが、自伝にはこのときの三島の姿がリアルに描かれています。

  それから10年。数々の作品が世界に紹介された三島は、ノーベル文学賞の候補としてその名前が挙がるまでになっていました。自伝の著者もこのときのノーベル賞の最右翼は三島であると思っており、さらに、選考委員からも直接三島が有力であることを聞かされていたといいます。しかし、実際にノーベル文学賞に選ばれたのは、川端康成でした。1968年、川端康成はノーベル賞を受賞。その2年後の1970年、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地を占拠し、演説を行った後に壮絶な自決を決行します。三島はまだ45歳でした。そして、さらにその2年後、1972年、川端康成は逗子マリーナの部屋で自ら命を絶ちました。享年72歳。

  このことを知ったうえでこの自伝を読むと、ドナルド・キーンが語る二人の文学者との交流に胸が熱くなります。

【日本人よりも日本らしく】

  キーン氏は、司馬遼太郎氏がはなった「朝日は駄目だ!」「今、朝日を良い新聞にする唯一の方法はドナルド・キーンを雇うことだ。」との言葉がきっかけで朝日新聞の客員編集委員になったそうです。そこから、キーン氏は「日本」に迫る著書を次々に上梓していきます。その著作の裏舞台はぜひこの本で読んでほしいのですが、この自伝で感じるのは、彼が日本人よりもはるかに日本に愛情を持っていることです。

  そのことは、この本に頻繁に登場する日本に住む自らに対するウィットに富んだ表現によく表れています。

  例えば、31歳で来日した頃、京都のバーで年齢を聞かれると、ときに「18歳」、ときに「55歳」と言っても誰も異を唱えなかったと言います。いったい何のことかと思えば、次のセンテンスで、先日街を歩いているとある婦人が自分に地下鉄の駅への行き方を訪ねてきたことを語ります。そして曰く、「それはまさに喜びの瞬間だった。」「その婦人は私の外見にお構いなしに、私が駅の場所を知っていると判断したのだ。」60年かかって日本人が外国人を受け入れるようになった、との喜びは、キーンさんならではです。

  その日本に対する愛情が我々にドナルド・キーンという贈り物を届けてくれたに違いありません。

  淡々とした自伝の語り口にかかわらず、その人生には熱い想いが常にみなぎっていました。この自伝は日本人にこそ読んでほしい一冊です。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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