エッセイ一覧

原田マハ ゴッホ小説はこうして生まれた?

こんばんは。

  組織のトップに立つ人には、清廉さが求められるのは言うまでもありません。

  東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の森嘉朗氏が辞任しました。その直接の要因は、氏が日本オリンピック委員会の会合の中で、「女性がたくさんはいっている理事会は時間がかかる。」と発言し、これが女性を差別する発言として、世界も含めた世論の顰蹙をかったことでした。たしかに、「ダイバーシティ(多様性)」が常識の一つとなっている現在ではありえない発言であり、聖火ランナーやボランティアの方々がその役目を辞退したくなる気持ちも当然のことと思います。

  辞任は当たり前のこととして、今回の出来事に一抹の不安も感じます。

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(新たに会長に就任した橋本聖子氏 asahi.com)

  それは、人の心にゆとりがなくなってきていることです。

  誤解を恐れずにいうならば、余裕と癒しのあるおおらかな組織であれば、どなたかが「森さん、理事会が長くなるのは、女性でも男性でも同じです。私もよく言われます。」と話せば、昭和の人が少々「ボケ」をかましたな、との雰囲気になったのではないか、と思うのです。当然、カリスマの森さんにそんなことを言えるわけがないとも言えますが、お年を考えればそんな場面があるのは当たり前だとも思えます。

  この言葉の前後の脈略はわかりませんが、おそらく森さんは、話の枕としてなごみも期待して語ったと思われます。それは森さんの中で昭和が延々と続いていることの証であると思います。考えてみれば、76歳で請われて東京オリンピック・パラリンピック組織委員会という大組織の長となってから7年間。森さんなくしては国際社会で組織委員会の仕事が回せなかったことも事実です。83歳というお年を考えたときに、誰もフォローできなかった、というこの狭量な世界に忸怩たる思いを感じるのは私だけでしょうか。

  人は、必ず間違いを犯します。特に若いとき、老齢のときには間違いもあります。とくに高齢者は永年刷り込まれてきたことを塗りなおすのは容易ではありません。そうした間違いが起きた時、人も社会もその「多様性」を問われるのだと思います。犯罪やいじめは許されませんが、若者や老人の過ちをゆとりを持って受け入れ、その過ちを質すことも「多様性」の一面ではないかと思います。

  小説「変身」の著者であるフランツ・カフカのエピソードがあります。若い詩人のグスタフ・ヤノーホがカフカの事務所を訪れたっとき、そこにギュートリングという詩を書いている役人がきていました。その中で、ギュートリング氏が「私自身、詩人ですから。」と語ったのに対し、カフカは「ええ、あなたは詩人です。」と答えました。ギュートリングが部屋を去った後、ヤノーホは「本当に彼が詩人だとお考えなのですか。」と問いました。カフカは、「彼は確かに詩人(ディヒター)です。」と返しました。

  「ディヒター」には詩人と言う意味と同時に「隙間のない人」と言う意味もあります。そして、「ディヒター」には釘で打ち付けられたとの意味から、「頑迷、愚鈍」という言葉になるのですが、ヤノーホはカフカが彼を頑迷、愚鈍な人と言ったと思い笑い声をあげました。

  カフカは、語ります。「そうではないのです。彼は自分の言葉に埋め尽くされて、現実に対して完全に(心の)隙間を塞がれているのです。」

  さて、今週は原田マハさんのゴッホ小説の副読本を読んでいました。

「ゴッホのあしあと」

(原田マハ著 GS幻冬舎新書 2018年)

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(「ゴッホのあしあと」 amazon.co.jp)

【ゴッホは日本に住みたかった?】

  この本をおなじみ本屋さん巡りで見つけたのは、2年以上も前の話です。

  この本が新書で発売されたのは、「たゆたえども沈まず」が単行本で上梓された後ですので、ターゲットは単行本で読んだ人たちでした。以前に「モネのあしあと」を読んでいたので、見てすぐに購入したのですが、目次を見ると小説のネタばれが随所にありそうで、まずは本編を読んでからと決めて本棚で眠っていたのです。

  まさか文庫化されるまでにこれほどの年月が経とうとは、幻冬舎さんは商売が上手で、文庫化したと同時に副読本としてこの「ゴッホのあしあと」も文庫化されたのです。

  ということで、本編を読み終わるとすぐにこの本を読み始めました。さすが、副読本と銘打たれているだけあって、読むにつれて小説のどこまでがノンフィクションで、どこからがフィクションなのか。はたまた、なぜこの小説がこれまでのマハさんの小説と異なっているのか、がとてもよくわかりました。

  まずは、目次をチラ見です。

プロローグ 私とゴッホの出会い

第1章 ゴッホの日本への愛、日本のゴッホへの愛

第2章 パリと林忠正

第3章 ゴッホの夢

第4章 小説「たゆたえども沈まず」について

第5章 ゴッホのあしあとを巡る旅

  小説を読んだ方には、興味が尽きない内容に間違いありません。

  今回の小説は、あまりネタばれの心配がありません。それは、謎解きの要素が少ないからです。ゴッホの人生はあまりにも知られており、そのエピソード自体は有名なものばかりです。また、ゴッホが画業に専念できたのは、弟のテオが仕送りを行ってその画業を応援していたおかげですが、その陰でこの兄弟がどれだけの辛苦を味わいながら生きていたのか、これもすでにその手紙によってよく知られています。

  しかし、実際にゴッホの絵をみると、そうした彼のエピソードよりもなによりも、その画自体が発するオーラがすべてを吹き飛ばして「絵」に込められたパワーに呆然としてしまいます。

  そんなゴッホが日本にあこがれていたとは、どういうことなのでしょう。

  ゴッホが日本を知っていたのは、当時パリで大流行していたジャポニズムによるものでした。そこで紹介されたエキゾチックな日本美術の魅力は当時パリの万博での展示がその出発点でした。特にこれまでの伝統的なアカデミー派の絵から脱却しようとしていた画家たちにとって、日本の浮世絵の技法は驚異的なものでした。その遠近法を無視するような構図や版画とは思えない豊かな色彩、そして単なる線を駆使した写実表現。

  印象派やポスト印象派と呼ばれる画家たちは、皆、浮世絵の技法を研究しました。そして、ゴッホもそのひとりだったのです。ゴッホは浮世絵に描かれた明るさと華やかさから日本にあこがれを持っていたに違いありません。そして、マハさんはその思いに焦点を当てて、当時パリで画商を営んでいた日本人、林忠正とゴッホとの出会いを描いたのです。

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(ゴッホ模写の広重作浮世絵  wikipediaより)

  オランダ出身のゴッホとテオは、どんよりと雲の垂れ込める国で育ちました。彼らは太陽の光にあこがれていました。そして、ゴッホはあこがれの日本に行くことができない代わりに、光に溢れたアルルへと旅立ったのです。アルルでは、若き芸術家たちのコミュニティを創りたい、そんな夢を描き、彼がゴーギャンをアルルへと誘ったのです。

  アルルと日本。その関係は、ぜひこの本で読み解いてください。

【ゴッホの絵画を巡る旅】

  この本は、題名の通りゴッホの足跡を追っています。

  第3章では、ゴッホがめざし、夢見た絵画とはどのような作品だったのかが、作品の変遷とともに語られていきます。そこで語られる作品は、アルル時代に描かれた「夜のカフェテラス」。この作品が所蔵されているのはクレラー・ミュラー美術館。この美術館には、ゴッホの作品が数多く収蔵されていることで有名なオランダの美術館です。

  他にも「アルルの跳ね橋」、「種まく人」、「じゃがいもを食べる人々」、「糸杉と星の見える道」などの作品が収蔵されていますが、その作品は何度か日本にも来てくれています。

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(ゴッホ「夜のカフェテラス」 wikipediaより)

  マハさんは、アルル時代の絵画にはゴッホの心の奥に秘められた「孤独」がその画面に感じられると言います。その孤独は、アルルにきて一緒に生活したゴーギャンがたった2カ月で家を出ていったことで頂点に達します。ゴッホが住んでいたのは黄色い家と呼ばれており、その家を題材にしていくつも絵を残しています。そこには、「ゴーギャンの肘掛け椅子」、「ゴッホの椅子」という作品があるのですが、この2枚には椅子だけが描かれていて、そこにいるゴーギャンもゴッホもあがかれていません。

  この孤独な2枚の絵は小説でも重要な役割を果たしています。

  ゴッホは、ゴーギャンが出ていったときに自らの耳を切り取るという驚きの行動に出ますが、その行動が災いして精神病院で療養することになります。アルルの市民病院から紹介されたサン=レミにある修道院に付属する精神病院でゴッホは1年を過ごすことになります。ここでは、数多くの作品が生まれていますが、マハさんはここでゴッホの強さを感じたと語っています。

  この修道院に着いた頃にかかれた「アイリス」という作品やサン=レミで観られる糸杉を題材とした作品は、ゴッホの代表作となりました。また、このころに弟とテオとヨー夫妻の間に生まれた甥へのお祝いに「花咲くアーモンドの木の枝」という作品を描き、贈っています。修道院の部屋は三畳ほどの狭苦しい閉鎖空間で、訪れたマハさんはこの環境で次々と名作を描いたゴゥホの強さに驚嘆しています。

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(ゴッホ「花咲くアーモンドの木の枝」wikipedia)

  そして、その後ゴッホは終焉の地となるオーヴェル=シュル=オワーズへと移り住みます。この地では、下宿屋であるラヴー亭で生活しましたが、そこでの暮らしはたったの60日間に過ぎません。その60日の間、「オーヴェルの役場」、「ガッシュ石の肖像画」、「オーヴェルの教会」、「オ-ヴェルの階段」、「ドービニーの庭」、「カラスのいる麦畑」、「アザミの花」など数多くの名作を残しています。

  最後にこの本は、ゴッホの絵を見ることができる日本の美術館を紹介してその旅を締めくくります。

  この本は、ぜひ小説を読み終わったのちに手に取ってください。マハさんのゴッホへの想いが伝わってくると同時に小説の解読に役立つことに間違いありません。


  大阪、名古屋周辺では、緊急事態宣言の解除も検討されているようですが、油断大敵です。ここまで縮小してきた感染者数や重症患者の数も、人が接する機会が増えればアッという間に再びうなぎのぼりとなることは目に見えています。皆さん、ここまで頑張ってきた自分をほめつつ、ワクチン接種が万人にいきわたるまで、お互い自粛に務めましょう。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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鈴木敏夫 ジブリ映画の秘密を語る

こんばんは。

  新型コロナの感染リスクを管理しつつ、街は日常を取り返しつつあります。

  日本では、人口に対する感染者数、死亡者数は圧倒的に少なく、新規感染者も北海道、首都圏、福岡以外ではほとんど発生していません。しかし、世界に目を向けると南米やアフリカではまだまだ感染者は斧鉞どけており、パンデミック第二波が起きるのか否か予断を許しません。

  世界中で徐々に経済活動が再開され、日本でも612日から東京でも夜の街での自粛が緩和され、19日には都道府県をまたぐ移動も解禁されると言われています。自粛初期のころ、東京から沖縄などに遊びに行って暗線した芸能人が顰蹙を買いましたが、我々も新規感染者が出ている地域から都道府県外に出かける場合には、感染防止に十分留意して、節度を持って立ち振る舞うことを心掛けなければありません。

  いつもよりも緊張感を持った行動を心がけましょう。

  話は変わりますが、皆さんはスタジオジブリの映画と聞いて、どの作品を思い出しますか?

  「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「魔女の宅急便」「紅の豚」「となりのトトロ」「火垂るの墓」「おもひでぽろぽろ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「崖の上のポニョ」「風立ちぬ」などなどすぐに思い起こすだけでも名作の数々が並びます。

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(「天空の城ラピュタ」prcm.jpより)

  今週は、スタジオジブリの要ともいえるプロデューサー鈴木敏夫さんが語るジプリ本を読んでいました。この本は、スタジオジブリが世に送ったすべての作品を鈴木敏夫さんが語る、という作品のエピソードがギッシリ詰まった面白い本です。

「天才の思考 高畑薫と宮崎駿」

(鈴木敏夫著 文春新書 2019年)

【鈴木敏夫氏は何者?】

  スタジオジブリの作品と言えば、何と言っても宮崎駿さんとその先輩に当たる高畑薫さんという2人の名アニメーターが創りだしてきた世界です。しかし、いつからかスタジオジブリのプロデューサーとして鈴木敏夫さんがマスコミに登場するようになりました。「この人はいったい何をする人なのだろう。」、登場するたびにその謎は深まりました。

  「プロデュース」とは、英語で「生み出す」という意味ですが、日本のプロデューサーは「生み出す人」と言う意味とは異なります。それは、作品を制作する上での総括責任者としての役割を果たす人間のことをさすようです。

  いったい、なぜ鈴木敏夫さんはスタジオジブリのプロデューサーになったのでしょうか。

  この本を読めば、鈴木さんが数々のスタジジブリ作品を世に出すために何をなしてきたのかが分かります。もちろん、ジブリの作品は高畑薫さんと宮崎駿さんというクリエーターがいなければ存在することはありませんでした。しかし、映画は一人のクリエーターで制作することは不可能です。そこにはスポンサーはもちろん、脚本、美術、音楽、映像、アニメーター、声優、そして監督が必要です。さらに言えば、上映する映画館への配給、集客のための宣伝がなければ、映画は我々の目に触れることがないのです。

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(文春新書「天才の思考」amazon.co.jp)

  皆さんは、アニメーション専門の「アニメージュ」なる雑誌をご存知でしょうか。

  今もアニメ雑誌の御三家と言われる「アニメージュ」は、1978年に産声を上げました。その頃は、松本零士さんの「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」が絶大の人気を誇り、その創刊号は7万部を売り上げました。編集販売は、徳間書店。今やスタジオジブリの顔ともいえる鈴木敏夫さんは、何とこの「アニメージュ」の初代編集担当者だったのです。

  この本は、スタジオジブリの映画を製作年代別に語るとの体裁を取っていますが、その最初の作品は当時のアニメーション界に衝撃を与えた「風の谷のナウシカ」です。そして、この映画の製作、そして公開を後押ししたのが当時、徳間書店の社長であった徳間康快その人だったのです。

  人間たちの起こした最終戦争「火の7の日間」によって破壊された後、1000年後の世界。破壊された自然は自らを守るために、地球は世界を「腐海」と呼ばれる毒素に満ちた空間で覆い尽くしました。しかし、戦いをやめることのない人間は、「腐海」に侵されていないわずかな大地に国を建て、勢力争いに明け暮れていました、

  「風の谷」は、そんな中で平和を愛する人々が集う小さな村でした。ナウシカは、「風の谷」の族長の娘。このファンタジックな世界観と登場するメカニカルな「メーヴェ」(一人用軽飛行機)や「ガンシップ」(小型飛行機)は、まさに宮崎駿さんの世界観全開の傑作でした。

  しかし、この名作はその後のスタジオジブリ作品の序章にしか過ぎなかったのです。

  鈴木敏夫さんは、徳間書店の「アニメージュ」編集者として、「ナウシカ」の制作、公開に奔走しました。そのいきさつは、この本でたっぷりご堪能ください。

  ここで少し「ネタばれ」です。皆さんは「チンチロリン」という遊びをご存知でしょうか。サイコロ3個をドンブリに投げ入れて、その賽の目によって勝ち負けが決まる賭け事です。「ナウシカ」を映画化するにあたって、鈴木さんは何とか徳間書店に映画制作を認めてもらうように働きかけます。しかし、当時の「アニメージュ」の発行部数では、社内で到底映画化の賛同が得られません。

  そこで、鈴木さんは一計を案じます。当時、社内でも発言力を持っていたのは宣伝部長でした。そして、この宣伝部長は賭け事に目がなかったのです。そこで鈴木さんは同僚とつるんで宣伝部長を「チンチロリン」に誘います。もちろん、鈴木さんと同僚は勝つわけにはいきません。二人で特訓をして5万円ずつ負けようと決めていました。そして、「チンチロリン」の間中、「ナウシカ」映画化の話をし続けたのです。

  そして、その努力?が「ナウシカ」の制作決定に繋がったのです。

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(ナウシカ愛用の「メーヴェ」)

  この本は、スタジオジブリの作品に鈴木敏夫プロデューサーがどんな役割を果たしたのかをご本人の語りで教えてくれるのです。

【二人の天才のあいだで】

  「千と千尋の神隠し」でアカデミー賞にも輝いた宮崎駿。「かぐや姫の物語」で日本の動画に新たな「線」を創造した高畑薫。スタジオジブリは、この二人の天才とその天才に才能を発揮する場所を創り続けた鈴木敏夫さんが三位一体で作り上げた会社だったと言っても過言ではありません。

  この本のもう一つの楽しみは、それぞれの作品を作り上げていく過程で、このお二人がどのように作品を作り上げていったのかが垣間見えるところです。

  スタジオジブリ誕生のいきさつは意外でした。

  「ナウシカ」は、宮崎駿さんが「アニメージュ」に連載していた漫画を原作としていますが、漫画とは異なり一作品で物語が完結しています。この作品のプロデューサーは、ジブリのもう一人の天才高畑勲さんでした。宮崎駿さんは、高畑さんが創ったテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」をはじめとした一連の作品でアニメーターを務めていたのです。

  もともとアニメーターとして優れた技術を持っていた宮崎駿さんです。アニメーションは、漫画と違って一人で作れる作品ではありません。美術、背景、作画、色塗り、演出など多くの腕の良いスタッフたちが必要となります。宮崎さんは、こうしたプロセスのすべてに対して非常に高い技術や表現を要求します。良い作品を作るためには、一片の妥協もありません。

  宮崎さんの厳しさを知っている東映や東京ムービーなど名だたる制作会社は、ことごとく「ナウシカ」の作画制作を断ったのです。それは、宮崎さんのクオリティに対する姿勢があまりに厳しいがために、人がついていけないことが理由でした。「ナウシカ」のプロデューサーであった高畑さんと徳間の担当であった鈴木さんは、ほとほと困って阿佐ヶ谷にある制作会社トップクラフトに相談します。その社長はかつて高畑映画のプロデューサーを務めていた人物で、「ナウシカ」の制作を引き受けてくれたのです。

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(高畑監督遺作「かぐや姫の物語」ポスター)

  そして、その製作期間は8カ月に及びますが、みごとに「風の谷のナウシカ」は完成し、世に出ることとなりました。

  しかし、「ナウシカ」の後、宮崎さんは「二度と監督はやりたくない。」と鈴木さんに語ります。その理由は、これ以上仲間が自分から離れていくことに耐えられない、というものでした。宮崎さんのアニメーション創りには、宮崎基準の高いクオリティが求められます。そこに到達しない仕事に宮崎さんは容赦なくダメ出しを続けます。すべてのスタッフとクオリティの闘いを演ずるわけですから、普通の才能の持ち主は付いていけず辞めていってしまうのです。

  もう二度と監督はしない、との言葉は本音でした。一方、高畑さんは「ナウシカ」の後、自らの監督作品を作ることになります。しかし、高畑さんは映画に常に新たな創造を求めていくタイプの天才です。そこには、世間のしがらみは関係なく、とにかく良いものを創ることしか目に入らないのです。映画は、高畑さんのそうした想いをつぎ込んだおかげで大幅な予算不足となり、制作の見通しが立たなくなりました。

  その姿を見かねた宮崎駿さんは、「ナウシカ」の収入をその映画に出資します。しかし、まだまだ資金は足りません。困った宮崎さんは鈴木さんに相談します。そのときの回答は、「もう一本映画を創ればよい。」という一言でした。「ラピュタ」の構想は、この一言から始まったのです。

  「ラピュタ」は、構想から絵コンテまでアッという間に宮崎さんが紡ぎ出しました。しかし、困ったことにアニメーションを制作する会社がありません。「ナウシカ」を創ったトップクラフトは、宮崎さんと仕事をした優秀なスタッフがほとんど辞めてしまい、開店休業状態です。そこで、「ラピュタ」制作のために、借金だらけで立ち上げたのがスタジオジブリだったのです。

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(スタジオジブリの壁紙  hypebeast.com)

  この本には、こうした本当に面白い話が満載されています。

【名作たちのメイキングエピソード】

  「ジブリ」という名前の発案は宮崎駿さんだそうですが、ここにも楽しいエピソードがあります。

  宮崎さんは、「紅の豚」や「風立ちぬ」で知られる通り戦闘機に対して一方ならぬ思い入れがあります。スタジオの名前を考えるときに宮崎さんはイタリアの軍用偵察機「GHIBLI」が良いと言いだしました。高畑さんは、これはイタリア語で読むとギブリと読むのではないか、と疑問を投げ掛けますが、宮崎さんはイタリアの友人がジブリと読むと言っていると言い、結局この名前になるのです。

  ところが、のちにイタリア語ではギブリと読むことが判明します。ことは後の祭り。日本では「スタジオジブリ」なのですが、世界では「スタジオギブリ」と呼ばれているそうです。

  さて、皆さんがジブリ映画と言えばどの作品を思い出すか、答えは出ましたか?

  この本には、スタジオジブリすべての作品の制作エピソードが語られています。スタジオジブリが創りだしたのは映画だけではありません。ジブリの森には美術館もあれば託児所もあります。そして、日本のアニメ界をけん引していくアニメーターたちもスタジオジブリで育ちました。庵野さんも押井さんも、高畑さんと宮崎さんのアニメスタッフで多くのことを学んだのです。

  ジブリ映画のファンの方もそうではない方も一度この本を読んでみて下さい。日本に一つの時代を築いたクリエーターたちの仕事を垣間見ることができるに違いありません。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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ドナルド・キーン自伝 氏を偲ぶ

こんばんは。

  アメリカ出身の日本文学者ドナルド・キーン氏が97歳の生涯を閉じてから、来月で1年になろうとしています。

  氏は、中央公論社、朝日新聞などで日本語での執筆者として、数々の評論を執筆することはもちろん、日本の文化をこよなく愛し、コロンビア大学、ケンブリッジ大学などで教鞭をとり、日本文学を広く世界に紹介してくれました。氏が初めて日本の地を踏んだのは1953年、31歳のときでした。そこから60年以上も氏はアメリカと日本を往復して、日本人以上に日本文化を深く研究し続けました。

  2011年の東日本大震災の時には、日本人とともに日本を襲った未曾有の災害に心を痛め、亡くなった方、被災した方々に寄り添ってくれました。氏は、これを機会に日本国籍を取得することを表明。9月にはついに日本への永住のための来日を果たしました。2012年には晴れて日本国籍を取得。最後には、愛する日本の地で生涯を終えたのです。

  1周忌を目前にして、キーンさんがどのように日本を愛したのかを知りたくて本屋さんでキーンさんの本を探しました。本当は、氏の作品を読むべきと考えていたのですが、あの笑顔を思い浮かべると、まず読んでみたいのは自伝だと気づいたのです。文庫でも何冊か自からを語る本がありましたが、補追として最近年に記した2つの文章が収められている中公新書の新版を手に入れました。それは、素晴らしい自伝でした。

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(「ドナルド・キーン自伝」amazon.co.jp)

「ドナルド・キーン自伝-増補新版」(ドナルド・キーン著 角地幸男訳 中公文庫 20193月)

【八月十五日に吹く風】

  ドナルド・キーンさんは、外国人として日本文学の研究を本格的に行った草分け的な人物でした。ことに川端康成や三島由紀夫とは人として友情をはぐくみ、親友と呼ばれる仲でした。ひと月の半分は日本で過ごし、日本人よりも日本的な日本語を話し、評論やエッセイも日本語で記す、日本通でした。日本でも読売文学賞をはじめ多くの賞を受賞し、2008年には外国人の日本研究者としてはじめて文化勲章を受勲しました。

  1982年からは10年間、朝日新聞社で客員編集委員も務め、朝日新聞には多くの論考を掲載していました。もちろん、当時はオンタイムでその文章を読んでいてその謦咳に接していたのですが、キーン氏の印象を強く意識したのは、一編の小説からでした。

  その小説は、松岡圭祐氏が上梓した「八月十五日に吹く風」でした。

  この小説は、太平洋戦争で日本が劣勢に立った19435月を舞台としています。その年、日本軍の精神的支柱と言われていた山本五十六連合軍司令長官が戦死し、勢いに乗ったアメリカ軍は、アリューシャン列島で唯一日本軍に占領されていたアッツ島とキスカ島の奪回作戦を敢行したのです。この2島には日本軍の兵士7800人余りが日本の最前線基地を守備していました。

  アメリカ軍の襲来を知った軍部は、キスカ島が先に上陸されるとの目算から多くの兵士をキスカ島へと移動させました。しかし、その移動を知ったアメリカ軍は侵攻先を手薄になったアッツ島へと変更したのです。2600人余りでアッツ島を守備していた日本軍は、物量で圧倒的なアメリカ軍に対し、一歩も引くことなく最後の隊までも「バンザイ」突撃を敢行し、文字どおり全滅しました。

  物語は、アッツ島で日本軍が玉砕した戦闘後、キスカ島を守る5200人の日本軍を見殺しにするのか、撤退に導くのか、究極の作戦遂行を描くのです。その小説で、カギを握るがドナルド・キーン氏だったのです。この小説が上梓された当時、キーン氏はまだご存命でしたので、小説上の名前はロナルド・リーンとなっていましたが、その人物は間違いなくキーン氏でした。

  この小説は、現代とキスカ島戦闘当時の二つの時制で語られますが、キーン氏はその両方をつなぐ日米の絆として重要な役割を担っていました。過去の時制では、劇的なキスカ島救援作戦が遂行されるのですが、キスカ島での戦闘は日本軍とアメリカ軍の両面から語られることになります。  

  このとき、キーン氏は日本語翻訳将校としてアメリカ軍とともにキスカ島にいたのです。その経緯は、この自伝に語られています。

  当時、アメリカでは日本語を学ぶ学生はごく少数で、通訳は急増の状態だったようですが、「源氏物語」に魅せられたキーン青年は日本への想いを胸に通訳を志望したのです。キスカ島の奇跡については、ぜひ「八月十五日に吹く風」で味わって欲しいのですが、小説を読むと松岡氏が小説執筆にあたってこの自伝を参考とし、ロナルド・リーンを造形したことがよくわかります。

  この小説のラストシーンで、キスカ島作戦の従軍記者であった菊池雄介が流浪の末に朝日新聞社の記者となったとき、アメリカ軍の従軍記者であったリーン氏が朝日新聞社の客員編集委員となり、歴史の偶然によって再開する場面は、この小説のクライマックスとして感動的でした。

【日本を愛し、日本に愛されたキーン氏】

  キーン氏は、自伝の中で人生の分岐点について触れており、自らの意思で歩んできたことを語っていますが、随所に触れられているのは人との繋がりと知り合うことができたすべての人への限りない感謝の念です。日本では、文部大臣も務めた永井道雄氏、中央公論社の社長、嶋中鵬二氏、小説家、三島由紀夫、川端康成、安部公房などなど、時代を作ってきた人々との深い交流が描かれています。

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(日本文学者たちを描く amazon.co.jp)

  キーン氏は、31歳ではじめて日本に留学するまでは、アメリカのコロンビア大学、ハーヴァード大学、イギリスのケンブリッジ大学で日本研究を行い、その後は、月の半分をコロンビア大学で日本文学研究の教授として学生たちへの教鞭をとっていました。

  自伝では、数々の賞を受賞した日本文化の著作についても語られていますが、学生に日本文学を教える教師としての仕事にも触れています。日本学について各大学で学ぶ中、キーン氏の観察眼の鋭さが鋭いことに感銘を受けます。コロンビア大学では、角田隆作教授の話が印象的です。当時、コロンビア大学で日本文学を専攻する学生は数少なく、キーン氏が先行したときには、学生が氏一人であったといいます。

  教授は、自らの研究を学生に教える際には事前の準備を怠らなかったそうですが、キーン氏は教授の研究分野にかかわらず日本文学に関する数々の質問を投げかけました。角田教授は、キーン氏の質問に対してできる限りの知見を尽くして答えてくれたのです。あまつさえ、キーン氏が希望する浄瑠璃について、専門外にもかかわらず深く準備し、講義を行ってくれたといいます。キーン氏の教授としての生き方は、角田氏という氏がいてこそ成立したのだ、と感動します。

  また、ハーヴァード大学では、日本文学の講義をセルゲイ・エリセーエフ教授が行っていました。この教授は日本研究の第一人者として名声があったそうですが、その講義に対する姿勢についてキーン氏は完全に失望したと語ります。その失望は強烈で、徹底的なのですが、最後には教授に出会って幸運だったと収めます。その心は、これから学生に教えるときにエリセーエフ教授のやり方と反対のことをすればよいと気づかせてくれたからだ、そうです。

  キーン氏のユーモアとアイロニーに思わずにやりとさせられます。

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(自ら日本語名を発表 asahi.com)

  自伝は、4つの章に分かれています

第一章は、ブルックリンで生まれてから大学生になるまで

第二章は、コロンビア大学での学究と兵役、日本留学まで

第三章は、著作者として、また三島、川端、安部との交流

第四章は、1980年代から手掛けた数々の仕事の話

  さらに増補新版には、「日本国籍取得決断の記」、「六十年の月日との終生の友人たち」が補追されています。

  この本はどこを読んでもキーン氏の人柄がにじみ出て感動的です。

【作家たちとの友情の記】

  昨年は、旭化成名誉フェローの吉野彰さんがノーベル化学賞を受賞し、その快挙に日本中が沸き立ちました。日本人のノーベル賞受賞者は吉野さんが28人目となります。その中で、ノーベル文学賞の受賞者は3名。直近では、2017年に英国籍ではあるものの日本で生まれたカズオ・イシグロさんが受賞し、本屋さんはその著書であふれました。それ以前の受賞者といえば、1994年に受賞した大江健三郎さん、そして、ノーベル文学賞を日本人として初めて受賞した川端康成さんは1968年に受賞しています。(以下、敬称略)

  1953年31歳で日本に留学し京都に下宿したキーン氏は、そこで永井道雄と知り合い強い友情をはぐくむことになります。永井はキーン氏に中央公論社の嶋中鵬二を紹介し、嶋中は碧い目の日本文学研究者に日本の現代作家たちを紹介します。その中で、川端康成と三島由紀夫はドナルド・キーンにとって無二の友人となったのでした。

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(ドナルド・キーンと三島由紀夫 note.com)

  三島由紀夫と川端康成の関係は、戦後間もないころに始まります。1946年、当時21歳でまだ大学生でした。川端は26歳年上ですでに文壇で名を成していましたが、三島が作品「中世」を川端に見せ、以前から三島の作品を知っていた川端がその才を認めて、三島を文壇に紹介しました。三島由紀夫は生涯、川端を、自らを世に出してくれた恩人として敬っていたのです。

  三島由紀夫は、その後「仮面の告白」、「潮騒」、「金閣寺」と次々に名作を上梓し、日本国内のみではなく世界に紹介されるようになります。1957年、「潮騒」、「近代能楽集」が英訳された機に三島はニューヨークに招待されました。三島は、現地の演劇プロデューサーから能の上演をオファーされました。この上演のために三島は半年間滞在するのですが、自伝にはこのときの三島の姿がリアルに描かれています。

  それから10年。数々の作品が世界に紹介された三島は、ノーベル文学賞の候補としてその名前が挙がるまでになっていました。自伝の著者もこのときのノーベル賞の最右翼は三島であると思っており、さらに、選考委員からも直接三島が有力であることを聞かされていたといいます。しかし、実際にノーベル文学賞に選ばれたのは、川端康成でした。1968年、川端康成はノーベル賞を受賞。その2年後の1970年、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地を占拠し、演説を行った後に壮絶な自決を決行します。三島はまだ45歳でした。そして、さらにその2年後、1972年、川端康成は逗子マリーナの部屋で自ら命を絶ちました。享年72歳。

  このことを知ったうえでこの自伝を読むと、ドナルド・キーンが語る二人の文学者との交流に胸が熱くなります。

【日本人よりも日本らしく】

  キーンさんは、司馬遼太郎氏がはなった「朝日は駄目だ!」「今、朝日を良い新聞にする唯一の方法はドナルド・キーンを雇うことだ。」との言葉がきっかけで朝日新聞の客員編集委員になったそうです。そこから、キーン氏は「日本」に迫る著書を次々に上梓していきます。その著作の裏舞台はぜひこの本で読んでほしいのですが、この自伝で感じるのは、彼が日本人よりもはるかに日本に愛情を持っていることです。

  そのことは、この本に頻繁に登場する日本に住む自らに対するウィットに富んだ表現によく表れています。

  例えば、31歳で来日した頃、京都のバーで年齢を聞かれると、ときに「18歳」、ときに「55歳」と言っても誰も異を唱えなかったと言います。いったい何のことかと思えば、次のセンテンスで、先日街を歩いているとある婦人が自分に地下鉄の駅への行き方を訪ねてきたことを語ります。そして曰く、「それはまさに喜びの瞬間だった。」「その婦人は私の外見にお構いなしに、私が駅の場所を知っていると判断したのだ。」60年かかって日本人が外国人を受け入れるようになった、との喜びは、キーンさんならではです。

  その日本に対する愛情が我々にドナルド・キーンという贈り物を届けてくれたに違いありません。

  淡々とした自伝の語り口にかかわらず、その人生には熱い想いが常にみなぎっていました。この自伝は日本人にこそ読んでほしい一冊です。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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ドナルド・キーン自伝 氏を偲ぶ

こんばんは。

  アメリカ出身の日本文学者ドナルド・キーン氏が97歳の生涯を閉じてから、来月で1年になろうとしています。

  氏は、中央公論社、朝日新聞などで日本語での執筆者として、数々の評論を執筆することはもちろん、日本の文化をこよなく愛し、コロンビア大学、ケンブリッジ大学などで教鞭をとり、日本文学を広く世界に紹介してくれました。氏が初めて日本の地を踏んだのは1953年、31歳のときでした。そこから60年以上も氏はアメリカと日本を往復して、日本人以上に日本文化を深く研究し続けました。

  2011年の東日本大震災の時には、日本人とともに日本を襲った未曾有の災害に心を痛め、亡くなった方、被災した方々に寄り添ってくれました。氏は、これを機会に日本国籍を取得することを表明。9月にはついに日本への永住のための来日を果たしました。2012年には晴れて日本国籍を取得。最後には、愛する日本の地で生涯を終えたのです。

  1周忌を目前にして、キーンさんがどのように日本を愛したのかを知りたくて本屋さんでキーンさんの本を探しました。本当は、氏の作品を読むべきと考えていたのですが、あの笑顔を思い浮かべると、まず読んでみたいのは自伝だと気づいたのです。文庫でも何冊か自からを語る本がありましたが、補追として最近年に記した2つの文章が収められている中公新書の新版を手に入れました。それは、素晴らしい自伝でした。

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(「ドナルド・キーン自伝」amazon.co.jp)

「ドナルド・キーン自伝-増補新版」(ドナルド・キーン著 角地幸男訳 中公文庫 20193月)

【八月十五日に吹く風】

  ドナルド・キーンさんは、外国人として日本文学の研究を本格的に行った草分け的な人物でした。ことに川端康成や三島由紀夫とは人として友情をはぐくみ、親友と呼ばれる仲でした。ひと月の半分は日本で過ごし、日本人よりも日本的な日本語を話し、評論やエッセイも日本語で記す、日本通でした。日本でも読売文学賞をはじめ多くの賞を受賞し、2008年には外国人の日本研究者としてはじめて文化勲章を受勲しました。

  1982年からは10年間、朝日新聞社で客員編集委員も務め、朝日新聞には多くの論考を掲載していました。もちろん、当時はオンタイムでその文章を読んでいてその謦咳に接していたのですが、キーン氏の印象を強く意識したのは、一編の小説からでした。

  その小説は、松岡圭祐氏が上梓した「八月十五日に吹く風」です。

  この小説は、太平洋戦争で日本が劣勢に立った19435月を舞台としています。その年、日本軍の精神的支柱と言われていた山本五十六連合軍司令長官が戦死し、勢いに乗ったアメリカ軍は、アリューシャン列島で唯一日本軍に占領されていたアッツ島とキスカ島の奪回作戦を敢行したのです。この2島では日本軍の兵士7800人余りが日本の最前線基地を守備していました。

  アメリカ軍の襲来を知った軍部は、キスカ島が先に上陸されるとの目算から多くの兵士をキスカ島へと移動させました。しかし、その移動を知ったアメリカ軍は侵攻先を手薄になったアッツ島へと変更したのです。2600人余りでアッツ島を守備していた日本軍は、物量で圧倒的なアメリカ軍に対し、一歩も引くことなく最後の隊までも「バンザイ」突撃を敢行し、文字どおり全滅しました。

  物語は、アッツ島で日本軍が玉砕した戦闘後、キスカ島を守る5200人の日本軍を見殺しにするのか、撤退に導くのか、究極の作戦遂行を描くのです。その小説で、カギを握るがドナルド・キーン氏だったのです。この小説が上梓された当時、キーン氏はまだご存命でしたので、小説上の名前はロナルド・リーンとなっていましたが、その人物は間違いなくキーン氏でした。

  この小説は、現代とキスカ島戦闘当時の二つの時制で語られますが、キーン氏はその両方をつなぐ日米の絆として重要な役割を担っていました。過去の時制では、劇的なキスカ島救援作戦が遂行されるのですが、キスカ島での戦闘は日本軍とアメリカ軍の両面から語られることになります。  

  このとき、キーン氏は日本語翻訳将校としてアメリカ軍とともにキスカ島にいたのです。その経緯は、この自伝に語られています。

  当時、アメリカでは日本語を学ぶ学生はごく少数で、通訳は急造の状態だったようですが、「源氏物語」に魅せられたキーン青年は日本への想いを胸に通訳を志望したのです。キスカ島の奇跡については、ぜひ「八月十五日に吹く風」で味わって欲しいのですが、小説を読むと松岡氏が小説執筆にあたってこの自伝を参考とし、ロナルド・リーンを造形したことがよくわかります。

  この小説のラストシーンで、キスカ島作戦の従軍記者であった菊池雄介が流浪の末に朝日新聞社の記者となったとき、アメリカ軍の従軍記者であったリーン氏が朝日新聞社の客員編集委員となり、歴史の偶然によって再会する場面は、この小説のクライマックスとして感動的でした。

【日本を愛し、日本に愛されたキーン氏】

  キーン氏は、自伝の中で人生の分岐点について触れており、自らの意思で歩んできたことを語っていますが、随所に触れられているのは人との繋がりと知り合うことができたすべての人への限りない感謝の念です。日本では、文部大臣も務めた永井道雄氏、中央公論社の社長、嶋中鵬二氏、小説家、三島由紀夫、川端康成、安部公房などなど、時代を作ってきた人々との深い交流が描かれています。

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(日本文学者たちを描く amazon.co.jp)

  キーン氏は、31歳ではじめて日本に留学するまでは、アメリカのコロンビア大学、ハーヴァード大学、イギリスのケンブリッジ大学で日本研究を行い、その後は、月の半分をコロンビア大学で日本文学研究の教授として学生たちへの教鞭をとっていました。

  自伝では、数々の賞を受賞した日本文化の著作についても語られていますが、学生に日本文学を教える教師としての仕事にも触れています。日本学について各大学で学ぶ中、キーン氏の観察眼の鋭さに感銘を受けます。コロンビア大学では、角田隆作教授の話が印象的です。当時、コロンビア大学で日本文学を専攻する学生は数少なく、キーン氏が専攻したときには、学生が氏一人であったといいます。

  教授は、自らの研究を学生に教える際には事前の準備を怠らなかったそうですが、キーン氏は教授の研究分野にかかわらず日本文学に関する数々の質問を投げかけました。角田教授は、キーン氏の質問に対してできる限りの知見を尽くして答えてくれたのです。あまつさえ、キーン氏が希望する浄瑠璃について、専門外にもかかわらず深く準備し、講義を行ってくれたといいます。キーン氏の教授としての生き方は、角田氏という氏がいてこそ成立したのだ、と感動します。

  また、ハーヴァード大学では、日本文学の講義をセルゲイ・エリセーエフ教授が行っていました。この教授は日本研究の第一人者として名声があったそうですが、その講義に対する姿勢についてキーン氏は完全に失望したと語ります。その失望は強烈で、徹底的なのですが、最後には教授に出会って幸運だったと収めます。その心は、これから学生に教えるときにエリセーエフ教授のやり方と反対のことをすればよいと気づかせてくれたからだ、そうです。

  キーン氏のユーモアとアイロニーに思わずにやりとさせられます。

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(自ら日本語名を発表 asahi.com)

  自伝は、4つの章に分かれています

第一章は、ブルックリンで生まれてから大学生になるまで

第二章は、コロンビア大学での学究と兵役、日本留学まで

第三章は、著作者として、また三島、川端、安部との交流

第四章は、1980年代から手掛けた数々の仕事の話

  さらに増補新版には、「日本国籍取得決断の記」、「六十年の月日との終生の友人たち」が補追されています。

  この本はどこを読んでもキーン氏の人柄がにじみ出て感動的です。

【作家たちとの友情の記】

  昨年は、旭化成名誉フェローの吉野彰さんがノーベル化学賞を受賞し、その快挙に日本中が沸き立ちました。日本人のノーベル賞受賞者は吉野さんが28人目となります。その中で、ノーベル文学賞の受賞者は3名。直近では、2017年に英国籍ではあるものの日本で生まれたカズオ・イシグロさんが受賞し、本屋さんはその著書であふれました。それ以前の受賞者といえば、1994年に受賞した大江健三郎さん、そして、ノーベル文学賞を日本人として初めて受賞した川端康成さんは1968年に受賞しています。(以下、敬称略)

  1953年31歳で日本に留学し京都に下宿したキーン氏は、そこで永井道雄と知り合い強い友情をはぐくむことになります。永井はキーン氏に中央公論社の嶋中鵬二を紹介し、嶋中は碧い目の日本文学研究者に日本の現代作家たちを紹介します。その中で、川端康成と三島由紀夫はドナルド・キーンにとって無二の友人となったのでした。

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(ドナルド・キーンと三島由紀夫 note.com)

  三島由紀夫と川端康成の関係は、戦後間もないころに始まります。1946年、三島は当時21歳でまだ大学生でした。川端は26歳年上ですでに文壇で名を成していましたが、三島が自作「中世」を川端に見せ、以前から三島の作品を知っていた川端がその才を認めて、三島を文壇に紹介しました。三島由紀夫は生涯、川端を、自らを世に出してくれた恩人として敬っていたのです。

  三島由紀夫は、その後「仮面の告白」、「潮騒」、「金閣寺」と次々に名作を上梓し、日本国内のみではなく世界に紹介されるようになります。1957年、「潮騒」、「近代能楽集」が英訳された機に三島はニューヨークに招待されました。三島は、現地の演劇プロデューサーから能の上演をオファーされました。この上演のために三島は半年間滞在するのですが、自伝にはこのときの三島の姿がリアルに描かれています。

  それから10年。数々の作品が世界に紹介された三島は、ノーベル文学賞の候補としてその名前が挙がるまでになっていました。自伝の著者もこのときのノーベル賞の最右翼は三島であると思っており、さらに、選考委員からも直接三島が有力であることを聞かされていたといいます。しかし、実際にノーベル文学賞に選ばれたのは、川端康成でした。1968年、川端康成はノーベル賞を受賞。その2年後の1970年、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地を占拠し、演説を行った後に壮絶な自決を決行します。三島はまだ45歳でした。そして、さらにその2年後、1972年、川端康成は逗子マリーナの部屋で自ら命を絶ちました。享年72歳。

  このことを知ったうえでこの自伝を読むと、ドナルド・キーンが語る二人の文学者との交流に胸が熱くなります。

【日本人よりも日本らしく】

  キーン氏は、司馬遼太郎氏がはなった「朝日は駄目だ!」「今、朝日を良い新聞にする唯一の方法はドナルド・キーンを雇うことだ。」との言葉がきっかけで朝日新聞の客員編集委員になったそうです。そこから、キーン氏は「日本」に迫る著書を次々に上梓していきます。その著作の裏舞台はぜひこの本で読んでほしいのですが、この自伝で感じるのは、彼が日本人よりもはるかに日本に愛情を持っていることです。

  そのことは、この本に頻繁に登場する日本に住む自らに対するウィットに富んだ表現によく表れています。

  例えば、31歳で来日した頃、京都のバーで年齢を聞かれると、ときに「18歳」、ときに「55歳」と言っても誰も異を唱えなかったと言います。いったい何のことかと思えば、次のセンテンスで、先日街を歩いているとある婦人が自分に地下鉄の駅への行き方を訪ねてきたことを語ります。そして曰く、「それはまさに喜びの瞬間だった。」「その婦人は私の外見にお構いなしに、私が駅の場所を知っていると判断したのだ。」60年かかって日本人が外国人を受け入れるようになった、との喜びは、キーンさんならではです。

  その日本に対する愛情が我々にドナルド・キーンという贈り物を届けてくれたに違いありません。

  淡々とした自伝の語り口にかかわらず、その人生には熱い想いが常にみなぎっていました。この自伝は日本人にこそ読んでほしい一冊です。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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ロングセラー 「京都の謎」

こんばんは。

  昨年、紅葉の時期には早いと思いつつ訪れた古都、京都。その訪問記は、昨年末に一日目のワンダーをお知らせしたまま、途切れていました。その後、名古屋に長期出張したり、桜の季節には弘前城、角館を訪ねて雨の桜いかだに感動し、伊豆のジオパークを巡り、黒部立山アルペンルートで立山の星空を眺めたり、とワンダーを重ねて、ついつい京都のことを報告せずにここまで来てしまいました。

  500回を迎えたときに「しばらく京都の話をします。」と書いておきながら、まったくお話しできず内心忸怩たるものがありました。京都旅行は、昨年(2018年)114日から34日の工程でした。事前に紅葉の状況を確認していたのですが、どの情報を見ても「まだ青い」マークが並んでいました。しかし、京都は盆地。東西南北の山々は高台になっているので山沿いにある名刹の紅葉は燃えているのではないか、そう思って旅に出たのです。

  ところで、先日、本屋さんで文庫棚を眺めていると、「京都の謎」という本の表紙が目に飛び込んできました。著者に日本史では有名な奈良本辰也氏の名前が高野澄氏と並んで記されています。思わず手に取ると、昭和47年に上梓された本の再販でした。京都の思い出も冷めやらぬ中、それほどのロングセラーならば読むにしかず、と思い、購入しました。さすがに面白い。

「京都の謎」

(祥伝社黄金文庫 奈良本辰也 高野澄著 2019年)

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(祥伝社黄金文庫「京都の謎」 amazon.co.jp)

  本を読んでいて、まず思い出したのは京都旅行のことでした。

【京都の紅葉は格別です】

  旅の1日目は、以前にブログでご紹介した通りですが、2日目には私が40年来夢に見たお稲荷さんの総本山である伏見稲荷を訪れました。そこでは、奈良線の伏見稲荷駅からすぐのふもとから頂上の一の峰まで数千本の朱色の鳥居が並んでおり、そこを歩いていくのは荘厳な体験です。今は、外国人が多い観光スポットとなっていますが、1000年以上も前に清少納言がここを上ったのかと思うと歴史ロマンに心が躍ります。

  伏見山は標高233mなので、それほどの行程ではないと思っていましたが、実際に一の峰まで登るのは運動不足の体には結構キツイ行程です。入口にある本殿から右手に進むと、まず有名な千本鳥居が始まります。ここから奥社奉拝所までは人・人・人。英語とフランス語とイタリア語とスペイン語、さらには中国語と韓国語。まるで万国博覧会の様相を見せます。写真を撮ると人の間に顔が出ているので、その混雑度合いがよくわかります。

  それでも奥社奉拝所から熊鷹社に至ると徐々に観光客は減っていき、四ツ辻から先は、写真も人が入らずに撮影することができるようになりました。しかし、人の数に反比例して登り坂は急になり登るのがしんどくなるのは当然なのかもしれません。それでも、はるかに見渡せる朱色の鳥居のトンネルと、展望台から見える京都の遠望は見事で、自然に清新な気持ちが沸き上がってきます。

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(伏見稲荷大社の延々と続く朱稲荷)

  伏見稲荷を満喫したために時間は午後3時を過ぎてしまいました。この日のもう一つの目的が醍醐寺です。時間短縮のため、駅前からタクシーを奮発しました。閲覧時間終了直前に駆け込み、誰もいない境内で、かなり色づいた紅葉と有名な五重塔を見ることができました。

  11月5日は紅葉には早く、こちらはまだいろづいたばかりという状況でした。さて、翌日ですが、6日は紅葉を期待して北山方向を歩きました。地下鉄の終点である国際会館の駅からバスで修学院へと向かいます。

  修学院離宮よりも北に行くと赤山禅院というお寺があるというので、まずはそちらに足を延ばしました。少し山間にあるためか、赤山禅院の紅葉は満開一歩手前。そのもみじの美しさに息をのみました。実はこのお寺は神社と一体になっており、最も古い七福神の神様が祭られており、その由緒に思わずほっこりでした。ガイドブックでは、赤山禅院から修学院離宮はそれほどの距離ではないと書かれていましたが、実際に歩くとかなりの時間がかかります。

  修学院離宮は、天皇陛下にゆかりの離宮なので、その管轄は宮内庁となります。その入り口に行くと、1400から宮内庁による離宮の案内があるとのことで、まだ数人の空きがあるのでぜひとのお誘いを受けました。有難く申し込むと、見学には身分証明書が必要とのこと。さもありなん。実は離宮に入場するためには事前の予約が必要だったのです。ラッキーでした。1時間30分ほどでしたが、紅葉も7分ほどで美しく、枯山水も本山水も備えた情緒あふれる離宮内を堪能できたのです。皆さんも訪問の際には事前の予約をお忘れなく。

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(宮内庁管理 修学院離宮の紅葉)

  ところで、京都での旅情報ですが、京都には地下鉄とバスの乗り放題乗車券があるのをご存じでしょうか。観光名所や紅葉名所はこの件があればほとんど訪問が可能です。券には、1日券と二日券があり、観光するにはとても経済的です。我々は、3日目と4日目にこの2日券を利用し、便利でお得を実感しました。京都最後の日程は、南禅寺と禅林寺です。

  地下鉄の東西線、蹴上駅で降り、歩くこと7分~10分の距離にあります。こちらからは南禅寺の三門手前の参道の横に出る道なのですが、そこに至るまでがなかなか見どころにあふれています。まずは、「ねじりまんぼ」と呼ばれるレンガでできたトンネルを抜けると近道です。この日は様々な施設の特別拝観日が重なり、途中にある「大寧軒」、「金地院」などの施設が公開されており、その癒しの庭に感動します。

  そして、南禅寺。三門の手前から参道に出て南禅寺を望むと、その荘厳な三門と本堂に圧倒されます。そして、その背景にはみごとな紅葉を見ることができ、これぞ京都という景色に目を見張ります。三門をはじめ見どころは満載ですが、その奥にある疎水のアーチは、壮大で見事です。この近代建築が、京都古来の南禅寺となじんでいる風景が新たな京都を表現していると思うと感慨もひとしおでした。

  11月7日。あらゆるサイトで紅葉には早いと書かれていたにもかかわらず、南禅寺と次に訪れた禅林寺の紅葉は満開一歩手前の華やかな色付きを誇っていました。禅林寺の参道を歩く時からすでに寺院内の紅葉が塀の上に広がっており、それほど多くはない観光客がまぶしげに紅葉を見やっています。そして、敷地内に入るとみごとな紅葉が我々を迎えてくれます。永観堂は中への拝観が可能ですが、永観堂自体もその建築と広大なお堂が見事なのですが、中からはるかに眺める紅葉にひときわ風情を感じました。

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(ほぼ満開に近い禅林寺の紅葉)

  早い時期で期待が薄かった京都の紅葉でしたが、修学院離宮と禅林寺の紅葉は、それは鮮やかな色合いを見せてくれ、感動しました。この時期、どこもほどほどの人出で、どこの学芸員の方もゆったりとした時間の中で話を聞かせてくれ、ゆっくり京都を楽しむことができました。京都に行くなら、少し早めの時期がお勧めです。

【そして、「京都の謎」】

  本の紹介のつもりが、すっかり京都の旅の報告となってしまいましたが、初めて読んだロングセラー「京都の旅」は、著者の名調子もあいまってさすが古典的な面白さに舌を巻きました。基本的には、歴史の沿ってその謎を提起していくわけですが、その「謎」は、著者が読者に提起する問いかけにほかなりません。

  奈良本辰也氏といえば、明治維新前後の歴史的人物を語れば右に出る方のいない京都派の歴史学者です。吉田松陰、高杉晋作などを新書で著し、林家辰三郎と並んで有名です。かといって、この本が歴史学者の書いた難しい本かといえば、そうではありません。むしろ、よき相棒の高野澄氏とともに、京都のことをこよなく愛する著者たちが、ユーモアを込めてわが町のことを語る、という体で本当に楽しく読むことができます。

  いったいどんな謎が語られるのでしょうか。ここで一気に目次をみてみましょう。

  「なぜ桓武帝は平安遷都を急いだか」、「なぜ東寺が栄え、西寺は消えたか」、「なぜ天神様が学問の神様になったか」、「なぜ白河上皇は賭博を禁止したか」、「なぜ『平家物語』は清盛ご落胤を説くか」、「なぜ鞍馬山は天狗の巣になったか」、「なぜ義仲は六十日天下で終わったか」、「後白河法皇は本当に建礼門院を訪ねたか」、「西芳寺の“枯山水”は古墳の跡だ」、「銀閣寺は義政の妻のへそくりで建った」、「大文字送り火は誰が始めたか」、「なぜ秀吉は聚楽第を破壊したか」、「なぜ“京おんな”は心中が嫌いか」、「井伊直弼は愛人をスパイに仕立てた?」、「志士はどこから活動資金を得たか」、「孝明天皇ははたして毒殺されたのか」、「なぜ明治幼帝は倒幕を決意したか」、「なぜ京都に日本初の市電が走ったか」。

  さすが、京都を愛するお二人が選んだ謎です。平安遷都1200年といわれたのはついこの間でしたが、この本は、平安時代から始まって平家による武士の時代の幕開け、室町時代の銀閣寺から豊臣秀吉、さらには大政奉還を経て明治時代まで、18の謎が京都の土地を中心に論ぜられることになります。そこには、うんちく有り、ロマン有り、事件有り、サスペンス有り、と様々な要素が絡まりあって楽しめる記事となっています。

  また、それぞれの章には、ゆかりの寺社や碑などが地図とともに紹介され、そこに登場する人物たちも示されます。今年の春、東寺の講堂に収められた国宝の仏像曼荼羅が上野にやってきて展覧会が開催されました。昨年、11月に訪れたライトアップ公開時も講堂に安置された21体の立体曼荼羅仏像を見ることができましたが、その圧倒的な迫力に魅了されました。

  東寺は、794年に平安京が誕生したときに西寺とともに建立されました。ところが、今、新幹線から五重塔を眺めることができる東寺はその名を知られていますが、西寺はすでにその姿を見ることはできません。第2章では、その謎が語られますが、まずは京都駅を中心とした洛内の地図が登場します。地図には、東寺は当たり前として、「羅生門跡」、「西寺跡」、「将軍塚」、「神泉苑」、「船岡山石碑」の場所が記されています。さらにこの章の登場人物、弘法大師(空海)、守敏大徳、嵯峨天皇、淳和天皇の4人の名前が紹介されます。

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(美しい東寺のライトアップ)

  東寺と西寺、そこをまかされたカリスマ大師の処世術はどんなものだったのか、2人の天皇と2つの寺の因縁は何だったのか。その謎が名調子とともに語られていくのです。

【京おんなとスパイ、そして明治維新】

  今年は、平成から令和へと年号が変わり、新しい時代に突入しましたが、令和にちなんで太宰府の天神様が大盛況となったようです。この本でも天神様の謎が語られます。日本人には絶大な人気を誇る「平家物語」を題材とした謎が4つも取り上げられているのは、必然でしょうか。平家物語フリークの私には、うれしい限りです。さらに、悪女といわれる日野富子は悪女までは言い過ぎだ、との話。そして、豊臣秀吉と京都の話など、興味が尽きることはありません。

  しかし、この本で本当に面白かったのは、幕末から明治維新に至る謎です。

  まず、京おんなの話。皆さんは、吉野太夫という京都で有名な女性をご存じでしょうか。「太夫」というくらいですから、花魁です。その名称は、花魁中の花魁で舞踊、箏・三味線もよくし、教養溢れる花魁のみに許される名称です。特に二代目吉野太夫はその美しさとともに伝説となっている花魁です。その面白さは、いきなり同じ江戸期に有名であった女性と並べたところです。

  江戸代表は火事と喧嘩は江戸の花といわれる中で恋のために火付けをした八百屋お七、難波の代表は曽根崎心中のモデルとなった天満屋お初。江戸と大阪と京都。江戸時代の3人の女性からひも解く京おんなの謎は、この本の中でも白眉の章でした。

  最後の章は、明治維新で天皇陛下を失った京都がどのようにそれを乗り越えたのかが語られます。ここで語られるのは、琵琶湖から京都に新たな水路を構築し、京都を再生する遠大なプロジェクトにかけた男たちの物語です。その名は、京都疎水。京都旅行の時に南禅寺で見た壮大な上水道施設、疎水の記憶がよみがえり、その謎ときに感動でした。

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(南禅寺境内に凛と立つ疎水の流水路)

  ロングセラーの本には、それだけの魅力があることを知らされた面白い本でした。皆さんも一度京都のロマンに浸ってみてはいかがでしょうか。改めて、京都に行きたくなること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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