評論(対談)一覧

人類の起源=宗教の起源?ですか

こんばんは。

  先日、いつもの本屋さん巡りをしているとき、おもわず表題にひかれた本がありました。その題名は、「人類の起源、宗教の誕生」です。

  ブログに訪れていただいている方はご存じですが、「人類の起源」にまつわる本をみると読まずにいられない性分です。それが考古学でも歴史学でも社会学でも解剖学でも化学でも、なぜ人類が生まれたのか、との謎ほどスリリングでワンダーな謎はありません。近年は、DNA研究によってアフリカで最初の人類が立ち上がり、その後、世界中へとグレートジャーニーによって広がっていったとの説が強く支持されているようですが、それだけが真実なのではありません。

  我々ホモ・サピエンスは唯一の人類でないことも事実のようです。

  猿から猿人、類人猿、人類への進化。そこからホモ・サピエンスまでの道のりは絶滅の歴史である、と言われています。定説では、700万年前に霊長類は、人とチンパンジーに分かれたといいます。そして、700万年の間に人は人として進化し、チンパンジーはチンパンジーとして進化したと考えられています。チンパンジーは、よく人と比較されていて同じ仲間なのになぜこんなに違うのか、と語られますが、700万年前の別れたときに比較するのならまだしも、700万年進化した後の生物を並べてみてもその比較自体がナンセンスと言われても仕方がありません。

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(有名チンパンジー「プリンちゃん」asahi.com)

  現在、考古学的研究ではホモ・サピエンスと同じ枝にいた人類は、少なくとも25種はいたと考えられています。ところが、我々、ホモ・サピエンスのみがこの地球上に生き残り、他の種族たちはことごとく絶滅してしまったというのです。我々と最も近い兄弟といわれるネアンデルタール人は、最も近年まで生きていた人類です。ホモ属がこの2種になったのは約5万年前、さらにネアンデルタール人が絶滅したのは、約4万年前といわれています。

  ネアンデルタール人は、我々よりも大きな脳を備えており、その大きさもホモ・サピエンスより大きく力もあったようです。なぜ、我々は生き残り、彼らは絶滅したのか。やっぱり、「人類の起源」は最もワンダーな話題なのです。

  さて、そんなことで今週は京都大学の総長である人類学者と同志社大学神学部の宗教学者による最新の対談本を読んでいました。

「人類の起源、宗教の誕生‐ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき」

(山極寿一 小原克博著 平凡社新書 2019年)

【宗教は人間独自のものなのか】

  宗教とは何か。あまりにも広大な設問ですが、私にはまったく答えを見つけることができません。日本人の場合には、「鰯の頭も信心から」といわれるように八百万(やおよろず)の神をすべて神と崇めている多神教で、この世のものにはことごとく神様がいるわけですから、これを宗教と呼べば、ますます得たいが知れなくなります。ただ、どんな神であろうと、信じることが原点であり「ありがたや、ありがたや」との言葉そのものが宗教ではないか、とも思います。

  無節操な日本人に比べて、一神教は壮絶であり、残酷です。同じキリストを信じる宗教でも、カトリックとプロテスタントに分かれ、争いを起こして何年にもわたりあまたの人を殺してしまいます。キリスト教とイスラム教に至っては、十字軍やヨーロッパ侵略、インドのムガール帝国まで、まるで世界を奪い合うような長い歴史を持っています。どちらの神が正しいのか、が戦争に至る文化は日本人には永久に理解できないのかもしれません。

  ただ、宗教に政治が絡んでくると殺し合いが起きることはうなずけます。日本でも信長や秀吉ははじめのうち、異質で珍しい文化が交易として有効だとの考えからキリスト教を受容していましたが、キリスト教徒が為政者に逆らったとたん、キリスト教徒を弾圧し、鎖国にまで至ったのです。さらに、仏教の歴史としても信長は一向一揆を禁止し、盾突く一向宗を根こそぎ焼き殺すという暴挙までを起こしています。仏教は神を信じるわけではありませんが、自らが悟ることで極楽浄土が開けるとの信仰は、特異な位置づけにある宗教だと思います。

  さて、宗教の定義は不明ですが、ますは「信じる」ことが宗教の要件であることは間違いないようです。よくわからないのは、「信じる」とは苦悩から救われる、とか幸せが訪れる、とか願いが叶うとか、なにか現世的なものが伴うから信じるのではないのでしょうか。無償の祈りや信心というのは現代人にはわかりにくいものです。一神教の場合には、神はどうやら絶対のもののようで、そのことが現世のご利益とは関係のない「信心」を生み出すようです。

  ただ、「幸せになる」ことが現世の利益であるとすれば、すべての宗教はそこに行きつくことを目的にしているのかもしれません。

  この本を読もうと思った動機は、人類の起源への好奇心もさることながら、定義不明の宗教のことが少しは理解できるかもしれないとの思いもあったのです。

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(「人類と宗教対談」amazon.co.jpより)

  この本の目次を紐解いてみましょう。

1章 人類は「物語」を生み出した

2章 暴力はなぜ生まれたか

3章 暴走するAIの世界

4章 ゴリラに学べ!

5章 大学はジャングルだ

(補論)

◎人間、言葉、自然――我々はどこへ向かうのか  山極寿一

◎宗教が迎える新しい時代  小原克博

  大学の研究者の対談というと、堅い話を想像しますが、このお二人の対談は一味違って最新の知見に基づいた自由な語り合いが繰り広げられます。第1章は、題名そのままにホモ・サピエンスがなぜ唯一の人類として生き残ったのか。そこに宗教はあったのか、が語られます。

  皆さんは、渋谷の駅前に鎮座する忠犬ハチ公の物語をよくご存じだと思います。人が何者かを信じ、祭り、祈ることが宗教のはじまりとすれば、犬は何かを信じることがあるのでしょうか。ハチは、毎日夕方になると大学から帰宅するご主人、上野教授を待って渋谷駅に通っていました。ところが、ある日上野教授は大学での講義中に脳溢血で帰らぬ人となってしまいました。そのことを知らないハチは、毎日渋谷駅で上野教授の帰りを約10年に渡って待ち続けました。

  果たして、犬は何かを信じて渋谷駅で約10年もの間ご主人を待ち続けたのでしょうか。

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(東京大学のハチと上野教授 asahi.com)

  我々人類は、その昔長らく狩猟生活を続けていました。その中で、子供を育てるために相互に協力し、集団生活を始めたことが生き残りの大きな分岐点であったといわれています。集団は、洞窟を住処として生活していましたが、彼らは洞窟に素晴らしい壁画を残していました。先史時代の洞窟壁画は世界各地で発見されていますが、最も有名なものは2万年前に描かれたとされるラスコーの洞窟画です。その中には、みごとな写実画もあれば、デフォルメされた象徴画にみえる画もあるのです。

  象徴的な画は、そこにはアミニズムやシャーマニズムの匂いが漂います。アミニズムは、動物に霊魂を見出して祭るものであり、シャーマニズムは、巫女が霊的なものに祈り憑依することによって儀式を行い、祈りをささげるものです。宗教のはじまりを明確にすることは難しいようですが、お二人は少なくとも人類は狩猟時代には宗教的な意識を持っていたのではないか、と語ります。

【宗教のもたらすもの】

  ホモ・サピエンスが集団化していく過程で、宗教は共同体の倫理として形作られたと言います。最初は、集団の狩猟により移動生活していた我々も、農作物を育てる生活がはじまると、集団で定住するようになります。すると、共同体の人数は倍々ゲームで増えていくことになり、大集団を統率するための規範が必要となります。人が共同体をうまく統率できるのは、150人が限界だそうです。それを超える集団になると、何らかの規範が必要で、宗教はその1つになったのです。お二人は、それを「共同体のエシックス(倫理)」と語りますが、それは確かです。

  人が農耕牧畜により大集団で定住すると、そこには境界が生まれます。境界が生まれ、農作物による蓄財がはじまると、その富を狙って境界を越え強奪する行為が生まれます。狩猟時代、ホモ・サピエンスは槍や弓などの武器を使って狩猟を行っていましたが、武器を同じ人間に向けるようになったのは、農耕牧畜による定住以降のことだそうです。

  宗教が共同体のエシックスだとしても、そこに争いを戒める教えがあるにもかかわらず、なぜ宗教が戦争を引き起こすのでしょうか。対談では、明確な答えが用意されています。それは、宗教が政治や権力に使われたときに争いが起きるとの答えです。もともと宗教は、時の権力者の通年とは異なる教えを説いてきました。ところが、権力が宗教の力を利用しようとしたときに、そこには争いが勃発するのです。なるほど、宗教自体に戦いの要素があるのではなく、宗教が手段となったときに人は争うということです。なるほど納得です。

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(ベラスケス作「ブレダの開城」80年戦争より)

  この対談に面白い話がありました。それは、サルの話です。サルは、群れで生活しており、ボスが異なる群れ同志では、なわばりや食べ物を巡って争いが勃発する場合も多くあります。いがみあう2つの群れが争っていた時に、その間を年寄りのおばあさんザルが通過をしました。闘争中の群れは、おばあさんザルに手を出さないばかりか、おばあさんザルが通ると争いが止んだというのです。

  人間の場合でもいさかいの原因となった出来事について、年寄りは過去に同様の原因で争いが起きたことを経験しています。その年寄りが、経験に基づいて争いの仲介を行うと、当事者はそのことが過去に解決していたことを知り、争いが収まるというのです。含蓄のある話だと思っていたら、そのおばあさんザルは、喧嘩をしていたボスザル、両方の祖母だったのかも、とのオチで思わず笑ってしまいました。

  さて、人類学と宗教学の、汲めども尽きぬ対話は縦横無尽の広がりを見せて進んでいきます。人は、科学によって驚くべきスピードで進歩を重ねてきました。科学は、あらゆる現象の原理を明らかにし、すべてを見える化していきます。お二人の話題は、宗教が担っていた共同体のエシックス(倫理)は、科学の見える化と資本主義によるグローバル化によってその役割と意義を失いつつある、との方向に進んでいきます。

【人類と宗教はどこに行くのか】

  そして、お二人の話はAI社会となっていく我々の未来へと進んでいきます。

  対談の終盤でキーとなるのは、西田幾多郎の哲学、「善の研究」です。人間は、言葉を編み出した時からものごとを抽象化することを覚え、抽象化した言葉を語り伝えていくことであらゆる事象を共有化する術を身に付けて発展してきました。抽象化するとは、言い換えれば仮想化すること、つまりヴァーチャル化することです。

  科学の発展は、実証できない仮説を信じない世界を生み出しました。つまり、科学的に証明されないような事象を我々は不信感をもって見るようになります。人工知能は、我々が言葉で著わすものについて、それを膨大なデータとして蓄積し、分析することによって、これまで人間にはできなかったシミュレーションや未来予測を可能にしました。しかし、人工知能には我々が肉体で感じる意識を持つことはありません。そして、お二人の対談は、今、ホモ・サピエンスが直面している言葉による抽象概念の極大化というとてつもなく大きな危機へと進んでいくのです。

  この対談は、最後に「大学」という場が持つ可能性についての話に至り、読み物的に終了してしまうのですが、最後に用意されたお二人の論考が拡散された対談をもとの場所に引き戻してくれます。そして、そもそも命は何を求めてきたのか、との深遠な話に向かっていくのです。


  今年は、台風や豪雨のせいで日光の紅葉も元気がありません。被災した地域の皆さんも、まだまだ復興には程遠いと思います。世界じゅうのたくさんの人々はいつも被災している皆さんを応援しています。一日も早く生活が戻ることを心よりお祈りしています。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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二人の異才が語る生死(しょうじ)とは?

こんばんは。

  皆さんは、「生死(しょうじ)」という言葉をご存知でしょうか。

  漢字としては当然知っているのですが、「しょうじ」という仏教の言葉としては、全く知りませんでした。今週読んだ対談本は、いきなりこの言葉の説明から始まります。

「生死(しょうじ)の覚悟」

(高村薫 南直哉著 新潮社新書 2019年)

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(新潮新書「生死の覚悟」 amazon.co.jp)

  本屋さんでこの新書を見つけたときに、やっとお二人の対談が上梓されたか、と感激しました。というのも、お二人ともにファンであることもさることながら、以前にブログでご紹介した通り、このお二人の間には不思議な因縁があるからなのです。それは、高村薫氏の上梓した小説に登場する曹洞宗の禅僧が南直哉さんに瓜二つに描かれたことにあります。南直哉さんの禅房内でのあだ名は「ダース・ベーダー」でした。驚いたことに小説の登場する禅僧のあだ名も同じ「ダース・ベーダー」だったのです。

【はじめに言葉ありき】

  高村薫さんは「マークスの山」で直木賞を受賞して以来、合田警部補シリーズを上梓し続けており、その稠密な人物描写と迫力のある情景描写、卓越したプロットはますます冴えわたっています。直哉僧のそっくりさんが登場するのは、シリーズ3作目の「太陽を曳く馬」です。この本が上梓されたのは2009年ですので、そこからがお二人の出会いと言っても良いのかもしれません。この小説が上梓されてから、直哉さんは、あまりにその設定がリアルであったため、禅房内で情報漏えい者の疑いを持たれたそうです。

  対談は、まずその疑いを払しょくするため、その確認から始まります。直哉さんは、失礼ながらと前置きをして重ねて取材の有無を問いただしますが、この小説の設定はすべて高村さんの脳内から想像されたものだと言うことが判明します。直哉さんは、プロの小説家の想像力のすさまじさに脱帽でした。

  南直哉さんは、現在、福井県の霊泉寺住職、青森県の恐山菩提寺院代を務められており、多忙な生活を送られています。氏は、「言葉」を、仏教を考え、伝えるために非常に重要な手段ととらえています。それ故、これまでに自らが考えて考え抜いてきた様々の事を、ときにはエッセイ風にときには論文風に世に問うてきました。

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(福井県 霊泉寺 fuku-e.comより)

  この本には、2011年の初めての対談、2018年の7年ぶりの対談、そして、その間にお二人が執筆した道元禅師に関わる文章と、お二人の書評が掲載されています。

  高村薫さんはもちろん言葉のプロフェッショナルですが、お二人の文章を読んでいると言葉の持つ意味の大きさを改めて思い起こします。「はじめに言葉ありき」とは、新約聖書の「ヨハネによる福音書」における最初の一言ですが、言葉は神様とともに存在したほど根源的なアイテムです。人間(ホモ・サピエンス)は200万年前に誕生したと言われます。

  類人猿から派生した第3のチンパンジーが我々人類ですが、地球上のすべての生きもののなかで我々が生き残ったのは、我々の祖先がグループ内のコミュニケーションによって協働することを覚えたことによるものだそうです。コミュニケーションは、最初表情や声であったはずですが、それが言葉として通じ合ったときに最強の協働が生み出されたのだと思います。

  言葉は、あらゆるものを共有化する名前であるとともに表現そのものです。それは、人の気持ちを表すこともできれば、環境を共有化することができ、人の姿や美しい風景をも表すことができます。さらに、ものごとの理や哲学、科学までをも深めることができるのです。人類の進歩と調和は言葉によってなされたと言っても過言ではありません。

  この本では、仏教を巡って言葉のプロフェッショナルである高村薫さんと異色の禅僧である南直哉さんが、「死と(表裏一体の)生」について、語り合い、道元と互いの上梓した本を評論するというコラボレーションが実現します。

【言葉はどこまで語れるのか】

  ところで、題名にもなっている「生死(しょうじ)」ですが、この本の中表紙にはこの言葉の定義が記されています。

  「生死(しょうじ)」 生まれることと死ぬこと。また、いのちあるものが生まれることと死を繰り返すこと。(略)仏典においても、生死の連続は苦と捉えられており、さらに、仏教においては、生死の繰り返しは、我々人間の煩悩に起因すると考えられたため、煩悩を滅失することにより、生死の連続からの解放が可能になるとされた。このように生死は、迷いのただなかにある我々自身のあり様を比喩的に表現したものである。生死の超克は苦の終焉であり、それは涅槃と等値となり、仏教の目指すべき目標とされる。(岩波仏教辞典  第二版)

  さすが辞典だけのことはあり、迷いなく説明がなされています。

  最初に掲載されたこの説明とはうらはらに、お二人の語る「生きることと死ぬこと。」と仏教の関わり方は、一筋縄ではいきません。そもそも高村薫さんは、「自分には信心がない。」と言い切ります。曹洞宗の禅僧の前で、いきなりこんなことを語ることにも驚きますが、もっと驚くのは、直哉さんが「私も同じです。」と答える所です。

  読み進むにつれて、この対談の奥深さが見えてきます。

  このお二人は、立場は異なれど、これまでの生き方の中で、常に懐疑と共に生きてきました。その懐疑とは、「なぜ」と問うことです。直哉さんが出家して曹洞宗永平寺の門をたたいたのは、「自分はどうして生まれてきたのか」、「自分とは何なのか」という心からの疑問に行き詰まったことがその理由だと言います。その答えは住職となった今も出ないと言います。

  一方の高村薫さんは、物心ついた時から「信心」が身につかず、人が仏様や神様に両手の平を合わせている姿を見て、その心持を理解することができないので、今でも自分は「信心」のない悪人(宗教的な)であることが常に心に引っかかっていると言います。そんな高村さんにとって「死」をつきつけられたのは阪神淡路大震災でした。あるとき、突然数千人もの命が奪われる大災害。命を失った人、家族を失った人とそうでなかった人を何が分けたのか。

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(小説「太陽を曳く馬」上巻 amazon.co.jp)

  その答えがあるはずのない問を目の前にして、高村さんは仏教に近づいたと言います。

  明治維新以降、日本は近代化による富国強兵を国是としてきました。その中で、脈々と根付いてきた思想は科学的合理主義でした。つまり、すべての事を合理的な行動(実験)や論理的分析によって解明し、真理(またはそこに至る仮設)を言葉で説明するとの考え方でした。高村薫さんは対談の中で、みずから疑問に感じたことを理性で分析・分解して言葉で言い表すことが身についていると語ります。しかし、「信心」やそのきっかけとなる「死」について語る言葉を持てないことに引っかかっていたのです。

  直哉さんもその話を受けて、同意します。

  出家して禅僧になることは、自分にとって「賭け」だったと言います。その意味は意外です。曹洞宗の教えは仏教の基本となるもので、殺生を禁止しています。直哉さんは、出家前に自らの生きる意味を見いだせない、死とは何かが分からないときに最後には自殺という選択肢があった、と語ります。ところが、自殺は殺生となります。つまり、出家して禅僧となることは自殺という選択肢を捨てることになるのです。

  みずからの疑問を根底まで問い続けたときに「生きる」という選択肢しかありえない世界は、直哉さんにとって「賭け」だったわけです。直哉さんが出家したのは1984年ですので、それ以来35年間、その「賭け」は続いているわけです。今のところ、その疑問の答えは言葉として語ることはできないのです。最初の対談の終わりの部分に至って、やっと「生死の覚悟」という題名の必然性が匂ってきたように思えました。

【「生死の覚悟」とは?】

  対談の間に挟まれた断章も2つの対談に結びついていきます。

  まず、曹洞宗の開祖である道元禅師にかかわる話が相互に登場します。私は無調法で、道元の著作である「正法眼蔵」を読んだことがありません。高村薫さんの言によれば、この本は75巻本と12巻本にわかれており、75巻本は難解そのもの、12巻本は分かりやすいと言います。しかし、その難解さはただならぬものがあるようです。

  高村氏曰く、「さてそれでは、どこがどう難題なのかと言えば、まさに無いと言い、有ると言い考えるなと言い、考えろと言い、考えないことを考えろと言う、自己にとらわれない心身のありよう自体を言語化している点である。」、「そもそも『正法眼蔵』は、道元自身が禅定の果てに達した身心脱落の非言語的宇宙そのものに、今度は自覚的に近接し、その全容を言い当てんとする言葉の集まりである。つまり、言語以前・存在以前を言語化し、『空』から諸々の事物を現成させる営みであるが、それにしても、言葉で言い当てられないものを言い当てる言葉とは、実際にはどんな言葉だろうか。」

  東日本大震災の傷跡が人々の心に重くのしかかる中で、高村さんは道元の言葉に思いをはせるのです。そして、それに呼応するように直哉さんの「正法眼蔵」解説が続きます。

  我々が仏教や禅に対していつも疑問に思う「悟り」。いったい「悟る」とはどうゆうことなのか。道元禅師が「正法眼蔵」の中で語る、「悟り」とは何か。直哉さんは、「悟り」を「人の実在」に例えて道元禅師のパラドックスのような文章を読み解いてくれるのです。

  そして、いよいよ2018年のお二人の対談が始まります。この間に高村薫さんは、「空海」という作品と「土の記」という大作を上梓しています。そして、直哉さんは「超越と実存 『無常』をめぐる仏教史」という氏独自の視点から描いた仏教の歴史本を上梓しています。加えていえば、この本は、昨年度の小林秀雄賞を受賞しています。

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(南直哉著「超越と実存」 amazon.co.jp)

  対談の前の断章には、南直哉さんが書いた「空海」の書評が掲載されており、さらに、高村薫さんの「超越と実存」の書評が続いています。これが枕となり、お二人の対談はその著書に対する深堀から始まります。

  後半の対談は、現代社会が抱えている危殆を互いの考えと体験から分析していくことになります。

  お二人は、前半の対談で語られた通り、「生死」への懐疑と「宗教」への懐疑の深さを確認していくことから対話を深めていきます。

  平成最後の年に地下鉄サリン事件など最悪の犯罪人を生み出した宗教集団「オウム真理教で数々の犯罪に手を染めた幹部たちの死刑が執行されました。それは、まるで「オウム真理教事件」を平成とともに幕引きをしてしまおうとするかのような刑の執行でした。お二人は、なぜこのような団体が宗教を語り、なぜ多くの若者たちがその教えに心酔し洗脳されてしまったのか、を解き明かさずに事件を終えてしまったことを痛烈に批判しています。

  令和の時代は、深く物事を問うことを忘れつつあります。人々は、インスタグラムやYou Tubeなどの視覚的な情報への反応に偏重し、文章もツイッターやフェイスブック、ラインなどの短絡的な短いセンテンスが世界中を席巻しています。すべてが瞬間芸や一発芸のような世界の中で、物事を深く問い、考察することが薄れてきたことに間違いありません。

  お二人の対談は、「生死」や「宗教」を語りながら、こうした社会に警鐘を鳴らしています。今、児童虐待やいじめ、衝動に任せた無差別殺傷事件など、自らに理由を深く問うこともなく発生する事件が多発しています。この本は、人はなぜ生きるのかを問うとともに、現代に欠けている何かをみごとに語ってくれます。

  皆さん、ぜひお読みください。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。

今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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