評論(対談)一覧

手嶋龍一 佐藤優 ウクライナ戦争の核心

こんばんは。

  地球上の生命は、環境に適応し順応することで生き残り進化してきました。

  その中でも、我々ホモ・サピエンスはその知性によって言葉を生み出し、言葉によるコミュニケーションによって集団で環境に適応し順応して生き残ってきたのです。しかし、その知性を鈍化させると想わぬ落とし穴に陥り、自らの首を絞めることにもなりかねません。

  我々が数万年かけて築いてきたホモ・サピエンスの繁栄も、数々の戦争や文明進歩によって種の中で憎しみを募らせあい、地球環境を破壊して自らの生存域を狭めつつあります。こうした危機を回避する方法は、我々が行っている行為が人類の繁栄のために資するものか否かを怜悧に分析し、有用な手段を講じることができるかどうかにかかっています。それには、我々一人一人が鈍化することなく、鋭敏に知性を働かせていくことが必要です。

  我々には、生命に必要な順応力があります。しかし、すべての物事が諸刃の剣であるように、物事になれてしまうと知性は鈍化し、観察、分析、対応を放棄してしまうのです。

  ロシアがウクライナに侵攻してから2年が経ちました。戦争はさらなる長期化の様相を呈していますが、この2年間、中東ではパレスチナとイスラエルが戦争を行い、世界中で山火事や大きな災害が発生しています。日本でも能登半島で大規模な地震によって未だに避難を余儀なくされているたくさんの方々が苦しんでいます。そんな中で、我々は、ロシアとウクライナの戦争が日々続いていることを忘れてしまうことはないでしょうか。そのような日常があって良いはずがありません。

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(占拠されたアウディウカの住居 yahoonewsより)

  今週は、佐藤優さん流れで、手嶋龍一さんと佐藤優さんのウクライナ戦争に関するインテリジェンス対談を読んでいました。

「ウクライナ戦争の嘘」

(手嶋龍一 佐藤優著 中公新書ラクレ 2023年)

【ウクライナ戦争におけるインテリジェンス】

  このブログに訪問をいただいている方々には、インテリジェンスはおなじみのお題かと思います。インテリジェンスとは、「諜報」と訳され、国の存亡にかかる戦略に必要不可欠な情報の取得とその情報の分析を言います。手嶋さんと佐藤さんのインテリジェンス対談本は、機会あるごとに出版されており、このブログでも紹介していますが、インテリジェンスが本領を発揮するのは、この世界が大きく揺れ動く時に他なりません。

  そうした意味で、今回は、「ウクライナ戦争」という歴史の転換点と言っても良いほどの動乱をテーマとしており読み応えがあります。新聞やテレビ、ラジオの報道で「真相」という言葉がよく使われますが、目の前で起きている事実から何が読み取れるのかという点で、専門家と称される人々が語る解説はものごとの表面をなぞらえているだけで、我々の「なぜ」には答えてくれていません。それは、「真相」からは遠く離れた単なる評論に他なりません。

  そうした意味で、インテリジェンスによる読みときや見立てのプロフェッショナルであるお二人の指摘は、我々の「なぜ」にストレートに答えてくれるワンダーな内容です。

  さて、まずはこの本の目次をみてみましょう。

まえがき

第1章 アメリカはウクライナ戦争の“管理人

第2章 ロシアが侵攻に踏み切った真の理由

第3章 ウクライナという国 ゼレンスキーという人物

第4章 プーチン大統領はご乱心なのか

第5章 ロシアが核を使うとき

第6章 ウクライナ戦争と連動する台湾危機

第7章 戦争終結の処方箋 日本のなすべきこと

あとがき

  目次を読んだだけでも興味津々ですが、読んでみれば、読んでいる時間を止めたくなるほど、お二人が語る「真相」に夢中になること間違いなしです。

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(「ウクライナ戦争の嘘」中公新書 amazon.co.jp)

(ここから先はネタバレがあります。)

  手嶋さんや佐藤さんのインテリジェンスのプロたる経歴はこれまでもブログでお話ししてきましたが、「真相」を語るときにつきものなのは表面をなぞるだけの誤解による批判です。

  この本でもお二人が大前提として何度も語るのは、この戦争ではロシアが国際法に違反して、主権国家の領土を侵略しているという事実です。さらに、ロシアは罪もないウクライナ市民を何万人も殺傷しており、その罪は決して許されるものではありません。しかし、その罪をどのように糾弾してもそれがウクライナの領土奪回につながることにはなりません。むしろ、ロシアのプーチン大統領はさらに殺戮を広げ、窮地となれば核戦争も辞さないと語っているのです。

  我々は、ロシアの一方的に犯している許されざる犯罪を十分に認識したうえで、冷徹に現状を知って分析を加え、現状で講じることができる最も有効な手段は何なのかを考える必要があります。しかし、冷徹に事実を見つめ、語る過程ではロシアに有利となる事実も語ることになり、短絡的な発想からは、あらぬ批判をもたれることもあります。そうした無為な批判を招かないために、お二人は大前提を確認しながら話を進めていくのです。

【政治家たちの思惑】

  罪もない市民たちが死の恐怖に脅かされている中でも、政治家たちは国家間の戦略と政治的思惑を振りかざして、日々、政治活動を続けています。

  ウクライナ戦争は、民主主義と新たな独裁主義との戦いです。ソ連が崩壊して冷戦が終わった後、世界はアメリカが主導する自由と民主の時代へと大きく舵を切ったようにみえました。ことにソ連の衛星国であった東欧の国々は次々と民主化し、独裁主義的な体制から民主体制へと移り変わりました。そうした中で、ロシアはアメリカやEU主要国のかかげる「自由と民主主義」の理念とは一線を画したスラブ主義ともいえる独裁的な体制を維持し、市民たちも大多数はそれを是と考えています。

  そうしたロシアから見れば、自らの同盟国であった社会主義国として独裁色の濃かった国々がロシア国境に向かって次々と民主化されていくことに一種の恐怖を感じているのではないでしょうか。ロシアがヨーロッパで国境を接している国は、北からフィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナとつらなり、さらに黒海をはさんで真南にジョージアとアゼルバイジャンと続きます。1991年ソ連が崩壊しロシアは新たな連邦国家として歩み始めました。

  ソビエト時代、国境を接した国々は、フィンランドを除いてワルシャワ条約機構の同盟国として、ときに独裁的な社会主義体制を取ってきましたが、ソビエトの崩壊によって次々に独立し、民族的な民主主義国家へと変っていったのです。それは、イギリスやアメリカ、フランスなどの掲げる自由と民主の国という民主主義体制でした。ベラルーシとアゼルバイジャンはかろうじてロシアに近い独裁的民族主義的な政権を保っていますが、それ以外の国々は自由と民主を是とする国家へと革命により転換していったのです。

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(ロシア国境のEU加盟諸国  国交省HPより)

  現在、ロシアと中国が独裁組織的民主主義を標榜している国で、アメリカの価値観に対抗していますが、さらにはイスラム教の価値観による法の支配を是とする勢力もアメリカ的民主主義と対峙しています。敵の敵は味方。ウクライナ戦争を抱えるプーチン大統領は、欧米の体制に対抗する勢力と主義主張を超えて手を携えようと考えているようです。

  こうした中で、政治家たちは様々な思惑を胸にこのウクライナ戦争に対応していこうとしています。ウクライナのゼレンスキー大統領は侵略が行われた当初から、すべての領土を回復するまでは戦い抜くとして戦争を続ける姿勢を堅持しています。ゼレンスキー氏の背景には、地政学的にEU諸国に接するウクライナの西側地域、中部地域の市民の支持があります。

  ロシアによる侵略当初、ロシアが企んだと言われたゼレンスキー政権転覆の思惑は阻止されました。アメリカとEU諸国の支援によりウクライナはロシアの侵攻に対して国を挙げての反抗へと転じました。しかし、ロシアの執拗な攻撃は続き、東部三州の独立を宣言してロシアは占領地の既成事実化をはかります。こうして前線は膠着してこの侵略戦争は長期化を余儀なくされたのです。

  アメリカは侵攻前からロシアの侵攻を予告し、侵攻開始から終始西側の先頭に立ってEUとともにウクライナを支援し続けています。このアメリカの体制をお二人は「ウクライナ戦争の管理人」と見立てています。アメリカは、かつて自らの領土内で外国との戦闘を行ったことはなく、モンロー宣言に象徴される孤立主義を貫いてきた歴史を持ちます。バイデン政権もロシアの戦争犯罪を糾弾しながら、直接ロシアと戦闘を行うことを避けています。

  直接の戦闘は、核兵器の使用、世界大戦への拡大を招く要因となるため、アメリカもEU諸国もこの侵略への対応を支援にとどめています。アメリカのバイデン政権はこの侵攻に支援を行うことによってロシアの弱体化を目標にしている、とお二人は見立てているのです。さらに、そこには西側の軍産共同体の経済的利益も大きく関わっているのです。

【侵略の背景 ウクライナの歴史】

  この本の冒頭、手嶋さんは、佐藤さんが侵略戦争の勃発を度のように予見し、見抜いたかを問いかけます。佐藤さんは、「いきなり豪速球ですね。」といいながらも、そのみごとな「見立て」を語っていきます。ここから話は本題へと突入していきます。日本で専門家のみ立てを、政治的思惑などからみごとに骨抜きにしながら対談が進んでいきます。

  第2章と第3章は、日本からは想像すらできないロシアとウクライナの歴史的、地政学的背景を次々と解き明かしてくれます。実はウクライナ人(民族)は、現在の国に至るまでに実に複雑な歴史を抱えているのです。

  まず、ワンダーだったのは歴史の始まりにいきなりモンゴル帝国が登場したことです。ウクライナのクリミア半島には15世紀にモンゴル人(のちにタタールと呼ばれる)によるクリミア・ハン国が建国されました。この国はオスマン帝国に押されながらも独立を維持して16世紀には当時モスクワ公国であったロシアに攻められます。しかし、オスマン帝国(のちのトルコ)との狭間で生き残り、18世紀、ロシア帝国のエカテリーナ2世のときにロシアに併合されました。そのクリミア・ハン国が1657年にモスクワ公国と結んだのがペレヤスラフ協定といい、ポーランドからの攻勢を防ぐためにモスクワ公国の宗主権を認めるという内容でした。

  それから300年後の1957年、ソ連のフルシチョフ書記長は協定締結300年を記念してクリミア半島をウクライナに返還したのです。当時、ウクライナはロシアとは軍事的にも深い関係にあり、まさかウクライナが独立するなどとは想像だにできなかったのでしょう。

  現在のウクライナは、西部、中央部、東部の3つの地域から構成されます。そして、この3つの地域は歴史も民族も大きく異なるといいます。お二人はこの地政学的な成り立ちからインテリジェンスを深めていきます。驚きだったのは、開戦以降、多くのウクライナ人が国内で避難した街、リヴィウを中心とした西部のガリツィア地域がウクライナの領土となったのは第二次世界大戦前後で、それまではポーランドの領土だったという歴史です。

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(ウクライナ全図 コトバンクHPより)

  つまり、ウクライナは古くから親ロシアだった東部地域、近代化工業化の中でロシアに染まっていった首都キーウを含む中部地域、そして、ウクライナの民族運動が最も盛んな西部地域、の3つの地域で成り立っており、それぞれが異なる歴史を持っているというのです。

  こうした歴史を知ることで、この本で語られる数々のインテリジェンスが大きな説得力を持って我々に迫ってくるのです。


  ロシアの一方的な国際法では許されない侵略によって始まったウクライナの戦いは、ついに3年目を迎えました。このブログを書いている現在もウクライナの罪もない人々は命の危機にさらされ、日々亡くなる人々、傷つく人々が増えていきます。確かにロシアの犯罪は明らかであり、プーチン大統領はその戦犯ではあります。しかし、どこかで罪のない市民の殺戮をとどめなければなりません。

  ウクライナの人々の被害と不条理、そして憤りは決して収まることはないでしょう。それでも一度、殺戮の手を止めて、命の大切さを再認識する道を模索することが必要なのではないでしょうか。この本には、そのことの必要性と、前提となる条件へのヒントがちりばめられています。いまこそ、我々はもう一度、冷静になるときなのではないでしょうか。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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半藤一利 池上彰 平成を振り返える

こんばんは。

  平成天皇が退位され、令和となって早くもまる2年が経ちました。

  考えてみれば、30代からの31年間を過ごした平成は、私にとって結婚、子供の成長、仕事と人生の実りを経験した貴重な時代でした。思い出せば汗顔の至りなのですが、健康にも恵まれて一生懸命であったことに間違いはありませんでした。

  平成に生まれた子供たちが皆仕事について巣だったことに時の流れを感じるこのごろです。

  今週は、平成時代を振り返る対談本を読んでいました。

「令和を生きる 平成の失敗を越えて」

(半藤一利 池上彰著 GS幻冬舎新書 2019年)

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(新書「令和を生きる」 amazon.co.jp)

【昭和史の歴史探偵とは】

  歴史を語る番組として長く放映されたTV番組「歴史秘話ヒストリア」が3月で終了し、新たに「歴史探偵」という歴史探求番組が始まりました。歴史探偵と言えば、思い起こすのは半藤一利さんです。半藤さんは、文芸春秋社で文芸春秋や週刊文春などの編集長を務めた後、社の役員となりましたが、1995年に退社し、執筆業に専念していました。

  奥様が夏目漱石の孫に当たり、奥様とともに夏目漱石に関する著作もあります。半藤さんと言えば、戦前戦後の昭和史に関する著作が多くあり、昭和と天皇の歴史を語らせれば深い造形を醸し出してくれ、その著作は数々の賞に輝いています。氏は、司馬遼太郎さんとも親交が深く、司馬さんがその執筆を志しながらも、構想の段階で亡くなったのちに「ノモンハンの夏」を執筆。その先頭の悲惨さとその後太平洋戦争へと突入した日本軍部のあまりにも狭量で傲慢な作戦を赤裸々に描き、昭和史の悲劇をみごとに描きました。

  その半藤さんは今年の112日、90歳で亡くなりました。

  昭和史と言えば、太平洋戦争の敗戦は最も記憶されるべき出来事でした。その終戦聖断の24時間を追った「日本のいちばん長い日」という作品は、映画にもなり、戦後生まれの我々をワンダーに導いた渾身のノンフィクション作品でした。この作品が世に出たのは1965年ですから、すでに半世紀以上がたちました。

  当時半藤さんは文芸春秋社に勤務するバリバリの編集者であり、この本は、文芸春秋社で行われた28名による終戦の日の座談会として企画され、語られた言葉に触発され、半藤さんがさらに取材を重ねて執筆した本でした。

  当時は、文芸春秋社の営業政策上、社員の執筆した本として出版せず、当時ノンフィクションライターとして高名であった大宅壮一編集の本として上梓されました。その後、半藤さんが社を退職し、作家となった1995年に半藤一利名義で「決定版」として再版されました。

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(映画「日本のいちばん長い日」 amazon.co.jp)

  今回の対談本を見つけたのは、平成が終わり令和になってすぐのことでしたので、はや2年がたちます。本屋巡りをしていて、「平成とは何だったのかを考えなくては。」という思いと、もはやレジェンドとなった半藤さんとわかりやすさで定評のある池上さんの対談をぜひ読んでみたいとの思いから、すぐに手に取ったのですが、なぜか、読み始めることがありませんでした。

  しかし、半藤さんが亡くなり、本棚を眺めていて半藤さんをしのぶとの意味も感じて読むことにしたのです。

  お二人の対談は、本当に面白かった。

【平成という時代は何を残したのか】

  上皇陛下が天皇を退位され、平成が終わるとき陛下の語られた言葉はとても印象的なものでした。

  それは、8月退位に当たってのビデオメッセージ、そして85歳の誕生日の記者会見でのお言葉ですが、

  「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。」

  としたうえで、一貫して戦争の歴史に向き合われてきたことに関し、

  「先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。」

と語られていました。

  確かに平成のときに日本国内では戦争はなく、平和な時代でした。しかし、その間、日本は幾多の災害に見舞われました。雲仙普賢岳の大噴火、阪神淡路大震災、度重なる豪雨災害、そして東日本大震災。こうした災害がおきるたび、上皇陛下は上皇后さまとともに被災地に赴いて非難されている人たちの手をとって励まし続けてきたことは、陛下の象徴としての自らの在り方を行動として体現されてきたものと、心より敬意を感じてきました。

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(被災地に訪問される両陛下 kunaichou.go.jp) 

  そんな平成をこの対談では、三題噺ではじめます。

  その口火は半藤さんが切るのですが、そのキーワードは「災害、平和、インターネット」でした。さらに半藤さんの友人は、この話を受けて「大衆の消滅、情報革命、共感」を挙げたと言います。この話を振られた池上さんは、「閉塞感、内平外乱、情報革命」と語りますが、ここからお二人の「平成噺」がはじまります。

  お二人の語る平成のテーマは、目次を見るとよくわかります。

はじめに

第一章 劣化した政治、最初の岐路

第二章 災害で失われたもの、もたらされたもの

第三章 原子力政策の明らかな失敗

第四章 ネット社会に兆す全体主義

第五章 誰がカルトを暴発させたのか

第六章 「戦争がない時代」ではなかった

第七章 日本経済、失われ続けた30

第八章 平成から令和へー日本人に天皇制は必要か

おわりに

  目次を見ただけでもお二人の語りに期待が膨らみます。

  この31年間、皆さんは何を思い出すでしょうか。目次を見れば、自民党政権が崩壊し、社会党政権となり、さきがけ政権、民主党政権、そして自公政権と一見目まぐるしく変わった政権が、実は何も変わっていないという衝撃の真実。ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、マーク・ザッカーバーグによって世界中を席巻したネット、スマホ社会の滲透。オウム真理教による地下鉄サリン事件を始めとするカルト集団のテロ攻撃。湾岸戦争から多発同時テロ、そこから始まるアフガン侵攻とイラク戦争。そして、バブル経済とその崩壊、リーマンショックと非正規雇用の世界。

  果たして我々日本人は進歩したといえるのでしょうか。

【我々は日本と地球を守っていけるのか】

  この本の面白さは、いくらでも語れるのですが、そこは是非この本を読んでお楽しみください。

  今回は、この本にちなんで平成時代を少し考えてみたいと思います。

  「平成」の日本は、昭和のモーレツ時代に構築してきた価値観が通用しなくなった時代です。モーレツ時代の象徴のようなバブル経済は平成とともに崩れ去り、経済的には長い低迷期が訪れました。平成生まれの世代では、「競争」という言葉に魅力と価値が消え失せ、ゆとり教育や「世界に一つだけの花」に象徴されるように「頑張らない」ことが大きな価値を生み出します。

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(一世を風靡した小川ローザのCM yahoo.co.jp) 

  我々も「儲けること」の価値が揺るぐ中で新たな行動の指針を見つける必要に迫られます。

  現代日本では、かつての行政単位であった村や藩は、組織としての企業にとってかわられ、企業が、人が集まり交わる場となりました。平成には、この企業の価値観を揺るがす考え方がいくつも生まれてきました。

 平成から令和にかけて、いくつかのキーワードが企業内に大きな波紋を投げ掛けています。

 まずひとつは、「コンプライアンス」です。

  私は金融業界に身を置いていますが、初めてこの言葉を聴いた時に命じられた仕事が「個人情報保護法」への対応でした。ご存知の通り、金融機関は銀行を筆頭に顧客情報として、必ず個人情報を集めています。個人情報保護法は、組織に対して個人情報の管理を厳重に求まる法律です。そこには、「安全管理措置」の条鋼があり、個人情報を取り扱う問いには、取り扱う職員以外にその情報が洩れることがないように脳死措置を取る必要があるというのです。

  個人情報は紙とデータによって管理されています。個人が特定できる情報を「個人情報」、2つ以上の個人情報が複数あわされた情報を「個人データ」といいます。これは、企業の職場ごとに施錠して管理する必要があり、職場内においてはカギのかかる保管場所の確保、顧客が情報にアクセスできないよう衝立やドアで安全管理措置を行わなければなりません。

  「コンプライアンス」とは法令順守のことですが、個人情報保護法を遵守するためには、物理的な安全防止措置と情報を管理するためのsy内規定とルールを定め、そのコンプライアンスを徹底する必要があったのです。

  この作業には膨大な予算と労力が必要であり、3カ月ほど土日出勤をして社内のルールを作成し、すべての職場、店舗で安全管理措置(お客様との隔離)を実施したことは忘れられません。当時は、あまりに負荷が高いため、「コンプライアンス倒産」と言う言葉まであったほどでした。

  「コンプライアンス」はその後形を変え、現在その中心は「ハラスメント」へと動いています。

  もうひとつのキーワードといえば、「カーボンニュートラル」です。これは、京都議定書に象徴されるように環境問題が語り始められた平成の時代を象徴しています。我々が産業革命によってもたらした二酸化炭素は、地球を守るオゾン層を破壊し、この地球に恐るべき温暖化をもたらし、地球上に温度上昇と大きな気候変動をもたらしています。「カー分ニュートラル」とは、我々が排出する二酸化炭素をゼロ(ニュートラル)にする取り組みです。企業内でも投資部門などを筆頭に、この問題に取り組むことが大きな成果につながることが注目されています。

  菅総理は先日2050年に温室効果ガスの排出をゼロにする、というボンニュートラル宣言を世界に発信しましたが、これこそが平成に新たに生まれた重要な価値観と言ってもよいのではないでしょうか。

  さらに、令和につながるキーワードは「ジェンダー」です。

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(国連のSDGsポスター unic.or.jp)

  この言葉は、「多様性」をさすのですが、平成にこれほど重要な言葉が語られることになったのは歴史に留められる出来事と言っても過言ではありません。地球規模では、動植物の種の絶滅、パンデミックを発生させる様々なウィルスなど、多岐にわたりますが、日本人社会においても極めて重要なキーワードです。「人」の世界では、人種差別や男女差別、LGBT問題など、語り始めればいくらでも語るべき課題が並んでいます。

  例えば、トイレの問題。我々は日本のトイレが男女に分かれていることが当たり前ですが、「ジェンダー」を考えるときにこれが問題になります。LGBTを考えれば、トイレが男女に分かれていることで、外出を怖がる人たちがたくさんいるという事実に我々は気づきません。LGBTには、街に入れるトイレがないのです。

  そこで、現在「だれでもトイレ」が増えています。これは、従来は「障がい者用トイレ」と呼ばれてきたトイレのことですが、男女の区別なく利用ができるということで、多様性の考え方によくマッチする、万能なトイレとなります。

  しかし、ここで問題となるのが、「誰でも」という点です。

  障がい者用トイレには、オストメイトという設備がつけられています。世の中には、様々な障がいによって直接排泄することができない方がたくさんいます。その方々は、常に排泄用の容器を体に着けて日常の生活を送っています。こうした人々は、容器にたまった排泄物を処理するためにオストメイト装置が必要です。また、車いすの方はその大きさから通常のトイレに入ることができません。障碍者用トイレは、入り口も室内も車いすが利用できるだけの間口と広さを備えており、車いすの方が安心して利用できるのです。

  ところが、「誰でも」トイレにすることで、利用者が増加する点に問題があります。男女問題で利用することは良いのですが、このトイレ以外に利用できない方が使いたいときに使えない、という事態が起きているというのです。それは、誰でもトイレが広くて気持ちいい、子供と一緒に使っても邪魔されない、空いていつでも入れるなどの理由で、特に必要がないにも関わらずに利用する人々がふえているということです。現在では、「障がい者用トイレ」と「誰でもトイレ」を別々に設置する施設も出てきています。しかし、これにはスペースと予算が必要となるのです。

  「多様性」にも様々な問題がある、ことをすべての人々が心に留めておくことが重要なのです。

  こうした新たな考え方は、現在国連によってSDGs(持続可能な開発目標)にまとめられており、そこには17の項目と目標が掲げられています。そのキーワードは「サステナブル」です。

  令和を生きるとは、まさにこのことなのかもしれません。

  皆さんもこの本を読んで、それぞれの令和を考えてみて下さい。新たな日常を見出すことができるかもしれません。

  今回は長話になりました。それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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池上彰 佐藤優 知的再武装のノウハウ

こんばんは。

  第46代のアメリカ大統領にジョー・バイデン氏が就任しました。

  歴史とは本当に面白いもので、人間の行ってきた行為とは必ず繰り返すという言葉を改めて思い出しました。というのも新大統領の就任式にトランプ氏が出席しないとの報道に関してのことです。アメリカは民主主義とフェアプレイを信条としてきた国なので、新大統領の就任式に前大統領が出席しないことがあったなどとは夢にも思いませんでした。ところが、152年前にもそうした出来事があったというのです。

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(離任式で演説するトランプ前大統領 yahoo/co/jp)

  調べてみると、新大統領就任式に出席しなかった大統領は、第17代アメリカ大統領のアンドリュー・ジョンソン氏でした。そのときの新大統領は共和党のユリ―シーズ・グラント第18代大統領です。今回は、再選を果たせなかったトランプ氏が自ら新大統領の就任式を欠席したのですが、152年前には、新大統領であったグラント氏が前大統領を嫌い、就任式に行く馬車にジョンソン氏を乗せなかったためにジョンソン氏は就任式に出席でしなかった、というのです。

  歴史は繰り返す、とはその通りなのですが、まったくおなじではなかったようです。

  アンドリュー・ジョンソン氏は、かの有名なリンカーン大統領の下で副大統領を務めており、リンカーンが暗殺されたために大統領に就任しました。ジョンソン氏は意外なことに奴隷制度を擁護する南部出身の民主党党員でしたが、南部の州が連邦政府から脱退することには反対で、そのためリンカーンに認められ、南部の代表と言う意味で副大統領となったようです。そのため、大統領に就任後も南部の奴隷制度を容認する政策を取り続け、アメリカ史上初の弾劾訴追を受けた大統領としてその名が残っているのです。

  ジョンソン氏は、あまりに南部の議員や制度を擁護したせいで、共和党員から弾劾を受ける羽目になったのですが、新大統領の就任式への欠席や弾劾訴追を受けた事実など、トランプ氏と共通点があることは間違いありません。

  当時は、南北戦争という内戦で、アメリカは真っ二つに分断されていました。その様は、トランプ氏の支持者への先導などから現代のアメリカが分断されている状況によく似ています。バイデン大統領は、その就任式で「unity」という言葉を繰り返し使い、分断されたアメリカ国民の融和と結束を語りかけていました。それは、まるで内戦によって二つに割れてしまったアメリカを再びひとつにまとめなければならなかった南北戦争の状況とよく似ています。

  ソビエト連邦が崩壊して冷戦が終わった時、世界中の人々は「自由と平等と民主主義」が世界に戻ってくると願いましたが、世界の多様性はそこには向かわず、様々な不幸を繰り返していく歴史が続いています。

  禍福はあざなえる縄のごとし、と言いますが、人間は幸福と不幸を繰り返して少しずつ進歩していく動物であることは間違いがないようです。

  我々は、物理的にも精神的にも弱い動物です。そのために、ともすれば強い力を持つ個人や団体に自らをゆだねて生きていく方が楽なのかもしれません。しかし、強い権力を持つ個人や勢力が、多くの人を幸福にするとは限りません。やはり、生きる権利を持つ個人個人が、最大公約数の幸せとは何かを真剣に考え、一人一人が自分の人生と他人の人生の両方を視野に入れて幸福を求めていく教養と意志を持つ必要があるのだと思います。

  その意味で、多様性を否定する社会は一部の人だけの幸せに甘んじる社会になるのだと思います。

  ところで、就任したバイデン大統領は、歴代大統領の中で最も高齢な78歳です。次期大統領選の時には82歳。そうした意味では、社会の高齢化を象徴する指導者と言っても過言ではありません。しかし、その穏健で様々な経験を経てきた政治家としての経歴が分断のアメリカには必要なのかもしれません。

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(就任演説を行うバイデン新大統領 asahi.com)

  翻って考えれば、我々の寿命もどんどんと延びています。このブログを始めた時、「人生楽しみ」の年齢は52歳でしたが、11年目に突入した現在は62歳となりました。

  小学校6年生の時にアポロ11号が人類初の月世界着陸に成功したとき、はじめて「21世紀」を意識しましたが、2001年の自分の年齢を計算してみると42歳。その頃は、42歳の自分など全く想像もできず、そんなに長く生きているのかさえも不確かでした。しかし、現実には、その日その日を生きてみると、気が付くとその年齢は単なる通過点でした。

  皆さんは、自分が60歳となった姿を想像できるでしょうか。人間50年と言われた安土桃山時代から、現在は人生100年時代へと変貌しつつあります。まだ、企業の定年は60歳ですが、自分のことを考えれば60歳は単なる人生の通過点に過ぎないと思えます。しかし、普通の会社員にとって仕事に生きることができるのは遅くても65歳までです。

  かつては、生きていることさえ稀であった人生の後半戦、我々はどう生きれば幸せなのでしょう。

  今週は、人生の後半生、どのように知的再武装をすべきかを語る対談集を読んでいました。

「知的再武装 60のヒント」

(池上彰 佐藤優著 文春新書 2020年)

【知的に生きるためのノウハウ】

  池上さんと佐藤さんの対談は、その汲めども尽きぬ知的な刺激が楽しく、新たな対談本が上梓されるたびに、つい読んでしまいます。

  今回も、お二人のお名前と「知的再武装」という佐藤優氏らしいその題名に惹かれて本を手に取りました。相変わらず、お二人の対談は軽妙洒脱で、なおかつ奥が深いものでした。

  これまで、お二人は歴史や世界情勢、はたまた新聞の読み方まで、さまざまな知的な対談本を上梓していますが、今回の対談は人生後半戦での知の磨き方に焦点を当てたトークとなっています。しかも、その作りは現代ではよく売れるノウハウ本のような体裁となっているのです。

(目次を紐解くと)

第一章 何を学ぶべきか
第二章 いかに学ぶべきか
第三章 いかに学び続けるか
第四章 今の時代をいかに学ぶか
第五章 いかに対話するか

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(「知的再武装対談」 amazon.co.jp)

  この本で語られる「知的再武装」とは、60歳になった人、または60歳に備えようとする人をターゲットに対話された本であり、まさに今の私がど真ん中という内容でした。実は、買った時にはあまり考えなかったのですが、題名通りに対談には60個のヒントが箇条書きにされていて、まさにノウハウ本の体裁を取っています。

  例えば、最初のヒントは、「ヒント1.45歳は重要な折り返し地点。45歳までに自分は何をやったのか。そのリスト作りをする。」、第二章では、「ヒント24.読書の間に眠たくなったり読めなくなったりしたら、腹式呼吸で音読してみる。本が読めなくなったら、オーディオブックなどを併用する。」など、かなり実践的なヒントが並んでいます。

  しかし、このブログを読んでくださる方なら知っていると思いますが、池上さんと佐藤さんの対談が、ただのノウハウ語りで終わるわけがありません。随所にお二人の体験やおすすめ本がちりばめられており、その見識にワンダーを感じる場面が次々に登場します。佐藤優氏は、「学ぶ」と言うことに関しては、45歳が一つの分かれ目だと主張します。45歳までは、新しいことにチャレンジすることがおすすめだが、45歳以降はそれまでに成し遂げた(または成し遂げようとした)事柄や築き上げてきた人間関係を充実させていく時期になると言います。その理由は、45歳を過ぎると新たなことを身に着けることや記憶することに膨大な時間を要することになるからです。

  池上さんは、記憶力は45歳を過ぎるとザルになると言います。それまでは、バケツのように記憶がたまるのに比べ、45歳を過ぎるとまるでザルのように記憶が消えていくのです。その語りの中で、佐藤さんが記憶力に関するエピソードを披露してくれます。

  佐藤さんは、ご存知の通り国策捜査によって背任と偽計の罪で拘置所に収監されました。そのときにボールペンを差し入れてもらうまでの8日間は筆記道具がなく、すべてを自分の記憶にとどめるしかなかったために記憶力が飛躍的に強くなったというのです。氏は一日56時間の取り調べの質問をすべて記憶して、翌日に弁護士に記憶したすべてを語ることを実践していたのです。記憶力は鍛えられたのですが、ボールペンが手に入ってメモするようになると、とたんに何も覚えていられなくなったそうです。

  この本には、こうしたお二人の体験談がたくさん詰まっておりまさに学ぶに持って来いなのです。

【おすすめ本も盛りだくさん】

  対談の中では、お二人が会話の中でぜひ読んでほしいというおすすめ本がたくさん紹介されています。

  特に今や古典となっている名作の紹介は面白い。特にお二人は昔読もうと志して読めなかった本の再読をすすめているのですが、古典の現代語訳や海外の古典の翻訳が新たになされており、その最新版がおすすめ、とのくだりは刺激的です。

  例えば、ドイツの哲学者ライプニッツの古典「マナドロジー」の岩波文庫版は新訳が発売されてやっと良い翻訳が発売されたとの語り。はたまた、岩波文庫の「太平記」の新たな現代語訳もおすすめだと言います。

  本の話となったとたんにお二人の話は盛り上がり、次々と本の名前が出現します。佐藤さんが最新の情報を語るための教養として「日本国勢図会」や「世界国勢図会」をあげれば、池上さんは、福沢諭吉の「学問のすすめ」と森鴎外の「舞姫」を語ります。そして、そのつながりから佐藤氏は「天は自ら助くる者を助く」で有名なスマイルズの「自助論」で切り返す、という具合です。

  この対談でおすすめの本を挙げ始まるとキリがなくなるので、ぜひ本書を紐解いてほしいのですが、特に興味深かった本をご紹介します。

  まずは、ヒトラーとレーニンの読書術に学ぼうという話です。文春文庫の「ヒトラーの秘密図書館」では、ヒトラーは、自分の机に遊個に備えてある本棚を常に入れ替えて、その時々に必要な本を常に読んでいたそうです。また、レーニンには、「哲学ノート」、「国家論ノート」などの本があり、レーニンは自分の読んだ本のエッセンスをノートにメモし、その横に「そうだ、その通り!」、「ずれてる!」などのコメントを記していたといいます。

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(「ヒトラーの秘密図書館」 amazon.co.jp)

  記憶力の話に及んだ時には、世界的なベストセラーとして、「KGBスパイ式記憶術」(水王舎)なる本を紹介しています。これは、インテリジェンス好きにはぜひ読んでみたい本です。

  さて、この対談集は確かにノウハウ本の体裁を取っていますが、このお二人の対談はそんな形式的な語りにとらわれることはありません。特に、第四章と第五章では、ヒントやノウハウなどと言う言葉は吹っ飛んでしまうほどに体験からくる面白い話がちりばめられています。

  人生後半戦の「学び」に興味のある方は、ぜひこの本を手に取ってください。人生をさらに充実させるヒントが満載です。


  緊急事態宣言が11の都府県に発出されてから2週間となりますが、新規感染者の数はなかなか減少に至りません。夜間だけではなく、なんとか昼間の人出をおさえていかなければなりませんが、テレワークができない現場仕事を止めることは難しそうです。この際、医療現場以外では、すべての国民が2週間の休暇を取得して、買い物以外は家に閉じこもることにしてどうでしょうか。思い切った自粛がなければ、重症患者の減少は実現しないのではないでしょうか。

  それでは皆さん、マスク・手洗い消毒を励行してお元気で、またお会いします。


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生命誕生の謎を巡る熱い対談!

こんばんは。

    しばらくブログをお休みしている間に世界中に新型コロナウィルスが蔓延してしまいました。

  これまでも我々人類は未知のウィルスや細菌に侵されて、絶大な被害を出してきました。古くはペストによるヨーロッパ社会の壊滅的被害、近くはスペイン風邪の大流行、エイズウィルスによる甚大な被害、アフリカではエボラ出血熱の流行と封じ込め、サーズやマーズの世界的な流行など、今回も学ぶべき事例として紹介されてきました。

  今回のウィルスは、7年前に流行したマーズ(マーズも新型コロナウィルスと解説されていたのは記憶に新しいところです。)の変型種だそうです。変型種とはいえ、今までのワクチンでは効果がなく、その感染力の強さと肺機能への絶大な影響で抵抗力の低い高齢者や既往症者などでは、死に至る病となります。アメリカでは、先日、死亡者が3,000人を超えて2001年の同時多発テロの死者を超えた、と報道されましたが、アッという間に7000人を超えました。。

  「パンデミック」、「クラスター」、「オーバーシュート」、「ロックダウン」など、過激な言葉に対する人々の反応は過剰な動揺と懐疑的な無関心を呼び起こしています。

  志村けんさんが新型コロナウィルスで亡くなってから、改めて我々はその恐ろしさを身近に実感していますが、コロナに感染するとは自らの人生の問題であると同時に身近で大切な人の命までを奪うことにまで至る無責任な不幸であるともいえます。一人一人が冷静に感染に対して適切な予防策を講じることが最も責任のある行動だと感じます。

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(小池都知事の外出自粛要請 asahi.com)

  実は、クルーズ船での感染が日本を震撼させている2月末、私も風邪の症状と発熱に見舞われました。安易に受診しないようにとの報道があったので、事前にかかりつけ医に電話したところ、「発熱者用の診察室があるので、診察ができるときに折り返し電話するので直接その部屋に入ってください。」との返事。もつべきものはかかりつけ医で、安心しました。その発熱室で診察を受けると、熱は378分。念のためにインフルエンザの検査を受けました。

  結果は、A型インフルエンザ。実は、12月に十数年ぶりにインフルエンザの予防注射を打ってもらったのですが、発熱の低さはそのせいだったようです。リレンザ吸入薬を吸って帰りましたが、熱は翌日下がり、症状も3日ほどで抜けました。もちろん、家では自室で自己隔離を行い、会社には5日後に出社したのは言うまでもありません。このときばかりは、かかりつけ医のありがたさを感じましたが、女医さん曰く「今回ばかりはA型インフルエンザでよかったわね。薬があるからすぐに良くなるから。」

  「よかったわね。」には複雑な思いがしましたが、確かに予防注射のおかげもあってすぐに回復。さらに5日ぶりに会社に行っても、すでに会社ではコロナ対策でテレワークや自宅勤務が始まっており、A型インフルで5日間休んでも、ほとんど話題にも上らない状況でした。

  それにしても不思議なのは、インフルにかかった一週間前には飲み会や仕事や会議など、周囲の人とはいわいる濃厚接触を繰り返していたのですが、不思議なことに周りでは誰一人インフルエンザにかかっていないのです。私が他人に迷惑をかけていなかったことは僥倖さったのですが、感染経路が不明であることは不可解でした。

  そこで、いろいろと振り返ってみると、原因は飛沫などによる感染なのではなく、どこかでウィルスが手についたのではないかと想像されます。例えば、通勤時の手摺についていたA型インフルウィルスが手につき、会社で目をこするなど涙から感染したのではないか、それが原因として最も濃厚です。

  つまり、新型コロナ対策は、濃厚接触を避けることはもちろんですが、外出していても仕事をしていても、家にいても、いかにこまめに手洗いをして過ごすかが、最も大切出ることを悟ったのでした。新型コロナウィルスに感染するか否か、最後は運不運ではあるものの事前にできることもたくさんあります。まずは、こまめな手洗いと消毒、その回数が感染するか否かの分水嶺なのかもしれません。

  さて、一日も早いワクチン開発を願いつつ、本屋さんの話題に戻りましょう。

  本屋さんで、本当に面白かった本の著者の名前を久しぶりに見つけたとき、その本のことを思い出しました。その著者の名前は高井研氏。海洋研究開発機構に属する生物学者です。その仕事は、海洋探査船“しんかい6500”を駆使して地球生命の起源を解き明かすことだったのです。そのときに読んだ本は、「生命はなぜ生まれたのか 地球生命の起源の謎に迫る」(幻冬舎新書)という本でした。

  昨年、NHKのプロフェッショナル仕事に流儀という番組で、高井さんが率いる“しんかい6500”が登場しました。この船は太陽の光の届かない深海の探索を行う有人深海探査船です。人を乗せ、深海にもぐること30年。番組では、2019年の夏に実施された「アルビンガイの移動生体実験」と「学生の乗船体験による人材育成」を9日間密着して取材していたのです。当然、チーフ研究員である高井氏もしっかり操縦する姿が映し出されました。

  今週は、本屋さんで見つけた高井研さんの対談本を読んでいました。

「対論! 生命誕生の謎」

(山岸明彦 高井研著 集英社インターナショナル新書 2019年)

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(「対論!生命誕生の謎」 amazon.co.jp)

【地球生命の誕生とは?】

  科学が解き明かす、まだ知られていない未知の世界。

  例えば、素粒子の世界では理論上つきつめていくと世の中は11次元でできている、とか、ある素粒子は見ているときだけ存在し、目を離した時には存在していない、とか、現代科学は思いもよらぬことが真実であることを明かしてくれます。生命に関しても地球上の最初の生命にかかる研究では、はやぶさ2の宇宙生命のカギを握る岩石を採取して帰還するプロジェクトが現在進行中です。「生命誕生」には、どんな謎が潜んでいるのでしょうか。

  まずは、この対論の目次を見てみましょう。

1:生物の共通祖先に「第3の説」!

2:生命はまだ定義されていない!

3:生命に進化は必要か?

4:生命の材料は宇宙からやってきた

5:RNAワールドはあった? なかった?

6:地球外生命は存在する! ではどこに?

7:アストロバイオロジーの未来

  さて、対論のお相手となる山岸明彦氏ですが、こちらは年長で国際宇宙センターで行われた生命期限探索研究「たんぽぽ計画」のリーダーを務めた分子生物学者です。年こそ違え、生命誕生の謎に正面から挑む両科学者が繰り広げる生命誕生にかかる丁々発止のタイロン。その展開は、まさに手に汗を握る知的論議の連続です。

  まず、お二人の論点となるのは「LUCA」です。「LUCA」とは、「最終普遍共通祖先」のことを言います。共通祖先とは、ダーウィン進化論の基本といってもよい考え方です。例えば、チンパンジーとホモ・サピエンスは同じ霊長類に属していますが、霊長類の中でも我々は約700万年前にほんの少しの遺伝子の変化によってヒトへと分岐したといわれています。つまり、この分岐前に存在した霊長類がチンパンジーとヒトの共通祖先と呼ばれるのです。

  この共通祖先をはるかに遡っていくと、哺乳類は爬虫類との共通祖先がいて、爬虫類と両生類、両生類と魚類、脊椎静物と無脊椎静物、さらには藻類などの菌類や細菌、バクテリア等々、系統図と呼ばれる樹木のような系図ができあがります。さらに遡ると、最後には「LUCA(最終普遍共通祖先)に行きつくことになるのです。

  この「LUCA」が地球上に生息する生命の最初の誕生の形である点は、ダーウィンの進化論を認める限りにおいては真実であることに間違いがありません。お二人もここまでは異論なく同意しているのです。

  それでは、何が対論となるのか。この本が面白いのはここからなのです。

  まず、「LUCA」がいつ、どこで誕生したのか。そこが議論になります。現在の生命には炭素という有機物が生成されていることが条件となります。現在、最古の化石で認められる炭素は、38億年前の化石だといいます。長い時間をかけて炭素が形作られることを考えれば、生命誕生は、38億年から40億年前と推定されます。この点は、お二人が一致する点です。

  それでは、生命誕生はどこで起きたのか。

  高井さんが提唱するのは、そのフィールドワークから研究が深められている熱水噴出孔が生命誕生の知ではないか、との仮説です。熱水噴水孔は火山などのようにマグマによって熱せられた熱水が噴出する孔ですが、高井さんが注目するのは深海に存在する熱水噴出孔です。かつて、400度にも至る高熱の中に生命がいるとは考えられませんでしたが、実際にはそこにひとつの生物社会が形成されていたのです。そこに生息するバクテリアや細菌は、硫化物や金属性物質を有機物に換えて生息しているのです。我々は、基本的に太陽エネルギーの恩恵を受けて命をはぐくんでいるのですが、高井氏は40億年前、無機物から発生する化学エネルギーや電気エネルギーが生命のもとになったのではないかとの仮説を提唱しています。

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(深海の熱水噴出孔探査”しんかい” motor-fan.jp)

  しかし、対論の相手である山岸氏は、この説とは異なる仮説を提唱しているのです。

  山岸氏は、生命誕生の地は深海にある熱水噴出孔ではなく、陸地に噴出している高熱の温泉付近だと語ります。その理由は、最初の生命が誕生するためには、豊富な水分と水分が飛んだ乾いた環境が相互にあることが必要だからだというのです。そこには、生命誕生のとき、生命はどんな機能を備えていたのか、という大きな謎がその根底を流れているのです。

【生命とは何か?】

  山岸氏の科学的論理は極めて明確です。

  我々には耳慣れないのですが、山岸氏が支持する生命誕生の仮説は「RNAワールド仮説」と呼ばれているそうです。詳しくはぜひこの本で味わっていただきたいのですが、ポイントは、生命の重要な要素として複製機能があることです。生命は遺伝子情報を持っていることによって同じ生命を複製できます。遺伝子は核を持つRNAとらせん構造で情報を保存しているDNAによって成り立っています。生命は、エネルギーを持つこと、複製機能があること、膜によって外界と区分けされた世界を持つこと、が要件とされています。

  一般的には情報保持装置がDNAで、RNAはこの情報保持の司令塔とのイメージがありますが、実は、RNAにも独自の遺伝情報を持っており、RNAはもともと複製系として自己完結をしていたとの考えが基本となっています。それにはある酵素の発見が寄与しているのですが、山岸氏の説は、現存する生命はすべて核と膜RNAから成り立っており、進化論の帰結として「LUCA(最終普遍共通祖先)」は、RNAであることが最も合理的である、との考え方から成立しています。

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(RNAは情報を伝達する gizmode.com)

  対論は、「生命の定義」と「進化論の帰結」とは何かという根源的な問いかけに突入していきます。生命とは何か、との問いに対してお二人は、生命に必要な条件とは何か、との議論を展開します。高井さんは、その条件を①エネルギーがあること、②必要な元素を有していること、③有機物であること、の3つを挙げています。これに対して、山岸さんは、①何らかの膜を有していること、エネルギーがあること、③情報を伝える核酸を持つこと、を挙げています。

  つまり、膜があり情報を持つ核酸がある。この条件を満たすのが「RNAワールド仮説」であり、最初のRNAは乾いた環境がなければ生成されることがないので、生命御誕生は陸地で、さらに熱水噴水孔のある温泉地だと主張するのです。お二人おまったく異なる仮説は、迫真の対論を巻き起こし我々を生命議論に巻き込んでいくのです。

  いったい、地球の、我々の元となる生命の素はどこから生まれたのでしょうか。お二人の議論は、真っ二つに割れながら、最後には宇宙における生命実験の神秘と科学へと進んでいきます。太陽系に果たして生命は存在するのか。土星の第二惑星エンケシドスには「水」の存在が確認されており、生命の存在が期待されています。我々生命はどこから埋めれたのか?その謎への最前線の研究を皆さんもぜひこの本で味わってください。夢とワンダーが膨らむこと間違いなしです。

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(土星の第二衛星エンゲラドス wokipediaより)

  今回は、コロナ話のせいで、いつもに増して長いブログとなってしまいました。最後までお付き合いありがとうございます。皆さん、汚染された手で唇や目にさわるのは絶対にやめましょう。頻度の高い手洗いと細心の注意が被害者、そして加害者となることを防ぎます。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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人類の起源=宗教の起源?ですか

こんばんは。

  先日、いつもの本屋さん巡りをしているとき、おもわず表題にひかれた本がありました。その題名は、「人類の起源、宗教の誕生」です。

  ブログに訪れていただいている方はご存じですが、「人類の起源」にまつわる本をみると読まずにいられない性分です。それが考古学でも歴史学でも社会学でも解剖学でも化学でも、なぜ人類が生まれたのか、との謎ほどスリリングでワンダーな謎はありません。近年は、DNA研究によってアフリカで最初の人類が立ち上がり、その後、世界中へとグレートジャーニーによって広がっていったとの説が強く支持されているようですが、それだけが真実なのではありません。

  我々ホモ・サピエンスは唯一の人類でないことも事実のようです。

  猿から猿人、類人猿、人類への進化。そこからホモ・サピエンスまでの道のりは絶滅の歴史である、と言われています。定説では、700万年前に霊長類は、人とチンパンジーに分かれたといいます。そして、700万年の間に人は人として進化し、チンパンジーはチンパンジーとして進化したと考えられています。チンパンジーは、よく人と比較されていて同じ仲間なのになぜこんなに違うのか、と語られますが、700万年前の別れたときに比較するのならまだしも、700万年進化した後の生物を並べてみてもその比較自体がナンセンスと言われても仕方がありません。

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(有名チンパンジー「プリンちゃん」asahi.com)

  現在、考古学的研究ではホモ・サピエンスと同じ枝にいた人類は、少なくとも25種はいたと考えられています。ところが、我々、ホモ・サピエンスのみがこの地球上に生き残り、他の種族たちはことごとく絶滅してしまったというのです。我々と最も近い兄弟といわれるネアンデルタール人は、最も近年まで生きていた人類です。ホモ属がこの2種になったのは約5万年前、さらにネアンデルタール人が絶滅したのは、約4万年前といわれています。

  ネアンデルタール人は、我々よりも大きな脳を備えており、その大きさもホモ・サピエンスより大きく力もあったようです。なぜ、我々は生き残り、彼らは絶滅したのか。やっぱり、「人類の起源」は最もワンダーな話題なのです。

  さて、そんなことで今週は京都大学の総長である人類学者と同志社大学神学部の宗教学者による最新の対談本を読んでいました。

「人類の起源、宗教の誕生‐ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき」

(山極寿一 小原克博著 平凡社新書 2019年)

【宗教は人間独自のものなのか】

  宗教とは何か。あまりにも広大な設問ですが、私にはまったく答えを見つけることができません。日本人の場合には、「鰯の頭も信心から」といわれるように八百万(やおよろず)の神をすべて神と崇めている多神教で、この世のものにはことごとく神様がいるわけですから、これを宗教と呼べば、ますます得たいが知れなくなります。ただ、どんな神であろうと、信じることが原点であり「ありがたや、ありがたや」との言葉そのものが宗教ではないか、とも思います。

  無節操な日本人に比べて、一神教は壮絶であり、残酷です。同じキリストを信じる宗教でも、カトリックとプロテスタントに分かれ、争いを起こして何年にもわたりあまたの人を殺してしまいます。キリスト教とイスラム教に至っては、十字軍やヨーロッパ侵略、インドのムガール帝国まで、まるで世界を奪い合うような長い歴史を持っています。どちらの神が正しいのか、が戦争に至る文化は日本人には永久に理解できないのかもしれません。

  ただ、宗教に政治が絡んでくると殺し合いが起きることはうなずけます。日本でも信長や秀吉ははじめのうち、異質で珍しい文化が交易として有効だとの考えからキリスト教を受容していましたが、キリスト教徒が為政者に逆らったとたん、キリスト教徒を弾圧し、鎖国にまで至ったのです。さらに、仏教の歴史としても信長は一向一揆を禁止し、盾突く一向宗を根こそぎ焼き殺すという暴挙までを起こしています。仏教は神を信じるわけではありませんが、自らが悟ることで極楽浄土が開けるとの信仰は、特異な位置づけにある宗教だと思います。

  さて、宗教の定義は不明ですが、ますは「信じる」ことが宗教の要件であることは間違いないようです。よくわからないのは、「信じる」とは苦悩から救われる、とか幸せが訪れる、とか願いが叶うとか、なにか現世的なものが伴うから信じるのではないのでしょうか。無償の祈りや信心というのは現代人にはわかりにくいものです。一神教の場合には、神はどうやら絶対のもののようで、そのことが現世のご利益とは関係のない「信心」を生み出すようです。

  ただ、「幸せになる」ことが現世の利益であるとすれば、すべての宗教はそこに行きつくことを目的にしているのかもしれません。

  この本を読もうと思った動機は、人類の起源への好奇心もさることながら、定義不明の宗教のことが少しは理解できるかもしれないとの思いもあったのです。

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(「人類と宗教対談」amazon.co.jpより)

  この本の目次を紐解いてみましょう。

1章 人類は「物語」を生み出した

2章 暴力はなぜ生まれたか

3章 暴走するAIの世界

4章 ゴリラに学べ!

5章 大学はジャングルだ

(補論)

◎人間、言葉、自然――我々はどこへ向かうのか  山極寿一

◎宗教が迎える新しい時代  小原克博

  大学の研究者の対談というと、堅い話を想像しますが、このお二人の対談は一味違って最新の知見に基づいた自由な語り合いが繰り広げられます。第1章は、題名そのままにホモ・サピエンスがなぜ唯一の人類として生き残ったのか。そこに宗教はあったのか、が語られます。

  皆さんは、渋谷の駅前に鎮座する忠犬ハチ公の物語をよくご存じだと思います。人が何者かを信じ、祭り、祈ることが宗教のはじまりとすれば、犬は何かを信じることがあるのでしょうか。ハチは、毎日夕方になると大学から帰宅するご主人、上野教授を待って渋谷駅に通っていました。ところが、ある日上野教授は大学での講義中に脳溢血で帰らぬ人となってしまいました。そのことを知らないハチは、毎日渋谷駅で上野教授の帰りを約10年に渡って待ち続けました。

  果たして、犬は何かを信じて渋谷駅で約10年もの間ご主人を待ち続けたのでしょうか。

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(東京大学のハチと上野教授 asahi.com)

  我々人類は、その昔長らく狩猟生活を続けていました。その中で、子供を育てるために相互に協力し、集団生活を始めたことが生き残りの大きな分岐点であったといわれています。集団は、洞窟を住処として生活していましたが、彼らは洞窟に素晴らしい壁画を残していました。先史時代の洞窟壁画は世界各地で発見されていますが、最も有名なものは2万年前に描かれたとされるラスコーの洞窟画です。その中には、みごとな写実画もあれば、デフォルメされた象徴画にみえる画もあるのです。

  象徴的な画は、そこにはアミニズムやシャーマニズムの匂いが漂います。アミニズムは、動物に霊魂を見出して祭るものであり、シャーマニズムは、巫女が霊的なものに祈り憑依することによって儀式を行い、祈りをささげるものです。宗教のはじまりを明確にすることは難しいようですが、お二人は少なくとも人類は狩猟時代には宗教的な意識を持っていたのではないか、と語ります。

【宗教のもたらすもの】

  ホモ・サピエンスが集団化していく過程で、宗教は共同体の倫理として形作られたと言います。最初は、集団の狩猟により移動生活していた我々も、農作物を育てる生活がはじまると、集団で定住するようになります。すると、共同体の人数は倍々ゲームで増えていくことになり、大集団を統率するための規範が必要となります。人が共同体をうまく統率できるのは、150人が限界だそうです。それを超える集団になると、何らかの規範が必要で、宗教はその1つになったのです。お二人は、それを「共同体のエシックス(倫理)」と語りますが、それは確かです。

  人が農耕牧畜により大集団で定住すると、そこには境界が生まれます。境界が生まれ、農作物による蓄財がはじまると、その富を狙って境界を越え強奪する行為が生まれます。狩猟時代、ホモ・サピエンスは槍や弓などの武器を使って狩猟を行っていましたが、武器を同じ人間に向けるようになったのは、農耕牧畜による定住以降のことだそうです。

  宗教が共同体のエシックスだとしても、そこに争いを戒める教えがあるにもかかわらず、なぜ宗教が戦争を引き起こすのでしょうか。対談では、明確な答えが用意されています。それは、宗教が政治や権力に使われたときに争いが起きるとの答えです。もともと宗教は、時の権力者の通年とは異なる教えを説いてきました。ところが、権力が宗教の力を利用しようとしたときに、そこには争いが勃発するのです。なるほど、宗教自体に戦いの要素があるのではなく、宗教が手段となったときに人は争うということです。なるほど納得です。

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(ベラスケス作「ブレダの開城」80年戦争より)

  この対談に面白い話がありました。それは、サルの話です。サルは、群れで生活しており、ボスが異なる群れ同志では、なわばりや食べ物を巡って争いが勃発する場合も多くあります。いがみあう2つの群れが争っていた時に、その間を年寄りのおばあさんザルが通過をしました。闘争中の群れは、おばあさんザルに手を出さないばかりか、おばあさんザルが通ると争いが止んだというのです。

  人間の場合でもいさかいの原因となった出来事について、年寄りは過去に同様の原因で争いが起きたことを経験しています。その年寄りが、経験に基づいて争いの仲介を行うと、当事者はそのことが過去に解決していたことを知り、争いが収まるというのです。含蓄のある話だと思っていたら、そのおばあさんザルは、喧嘩をしていたボスザル、両方の祖母だったのかも、とのオチで思わず笑ってしまいました。

  さて、人類学と宗教学の、汲めども尽きぬ対話は縦横無尽の広がりを見せて進んでいきます。人は、科学によって驚くべきスピードで進歩を重ねてきました。科学は、あらゆる現象の原理を明らかにし、すべてを見える化していきます。お二人の話題は、宗教が担っていた共同体のエシックス(倫理)は、科学の見える化と資本主義によるグローバル化によってその役割と意義を失いつつある、との方向に進んでいきます。

【人類と宗教はどこに行くのか】

  そして、お二人の話はAI社会となっていく我々の未来へと進んでいきます。

  対談の終盤でキーとなるのは、西田幾多郎の哲学、「善の研究」です。人間は、言葉を編み出した時からものごとを抽象化することを覚え、抽象化した言葉を語り伝えていくことであらゆる事象を共有化する術を身に付けて発展してきました。抽象化するとは、言い換えれば仮想化すること、つまりヴァーチャル化することです。

  科学の発展は、実証できない仮説を信じない世界を生み出しました。つまり、科学的に証明されないような事象を我々は不信感をもって見るようになります。人工知能は、我々が言葉で著わすものについて、それを膨大なデータとして蓄積し、分析することによって、これまで人間にはできなかったシミュレーションや未来予測を可能にしました。しかし、人工知能には我々が肉体で感じる意識を持つことはありません。そして、お二人の対談は、今、ホモ・サピエンスが直面している言葉による抽象概念の極大化というとてつもなく大きな危機へと進んでいくのです。

  この対談は、最後に「大学」という場が持つ可能性についての話に至り、読み物的に終了してしまうのですが、最後に用意されたお二人の論考が拡散された対談をもとの場所に引き戻してくれます。そして、そもそも命は何を求めてきたのか、との深遠な話に向かっていくのです。


  今年は、台風や豪雨のせいで日光の紅葉も元気がありません。被災した地域の皆さんも、まだまだ復興には程遠いと思います。世界樹のたくさんの人々はいつも被災している皆さんを応援しています。一日も早く生活が戻ることを心よりお祈りしています。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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人類の起源=宗教の起源?ですか

こんばんは。

  先日、いつもの本屋さん巡りをしているとき、おもわず表題にひかれた本がありました。その題名は、「人類の起源、宗教の誕生」です。

  ブログに訪れていただいている方はご存じですが、「人類の起源」にまつわる本をみると読まずにいられない性分です。それが考古学でも歴史学でも社会学でも解剖学でも化学でも、なぜ人類が生まれたのか、との謎ほどスリリングでワンダーな謎はありません。近年は、DNA研究によってアフリカで最初の人類が立ち上がり、その後、世界中へとグレートジャーニーによって広がっていったとの説が強く支持されているようですが、それだけが真実なのではありません。

  我々ホモ・サピエンスは唯一の人類でないことも事実のようです。

  猿から猿人、類人猿、人類への進化。そこからホモ・サピエンスまでの道のりは絶滅の歴史である、と言われています。定説では、700万年前に霊長類は、人とチンパンジーに分かれたといいます。そして、700万年の間に人は人として進化し、チンパンジーはチンパンジーとして進化したと考えられています。チンパンジーは、よく人と比較されていて同じ仲間なのになぜこんなに違うのか、と語られますが、700万年前の別れたときに比較するのならまだしも、700万年進化した後の生物を並べてみてもその比較自体がナンセンスと言われても仕方がありません。

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(有名チンパンジー「プリンちゃん」asahi.com)

  現在、考古学的研究ではホモ・サピエンスと同じ枝にいた人類は、少なくとも25種はいたと考えられています。ところが、我々、ホモ・サピエンスのみがこの地球上に生き残り、他の種族たちはことごとく絶滅してしまったというのです。我々と最も近い兄弟といわれるネアンデルタール人は、最も近年まで生きていた人類です。ホモ属がこの2種になったのは約5万年前、さらにネアンデルタール人が絶滅したのは、約4万年前といわれています。

  ネアンデルタール人は、我々よりも大きな脳を備えており、その大きさもホモ・サピエンスより大きく力もあったようです。なぜ、我々は生き残り、彼らは絶滅したのか。やっぱり、「人類の起源」は最もワンダーな話題なのです。

  さて、そんなことで今週は京都大学の総長である人類学者と同志社大学神学部の宗教学者による最新の対談本を読んでいました。

「人類の起源、宗教の誕生‐ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき」

(山極寿一 小原克博著 平凡社新書 2019年)

【宗教は人間独自のものなのか】

  宗教とは何か。あまりにも広大な設問ですが、私にはまったく答えを見つけることができません。日本人の場合には、「鰯の頭も信心から」といわれるように八百万(やおよろず)の神をすべて神と崇めている多神教で、この世のものにはことごとく神様がいるわけですから、これを宗教と呼べば、ますます得たいが知れなくなります。ただ、どんな神であろうと、信じることが原点であり「ありがたや、ありがたや」との言葉そのものが宗教ではないか、とも思います。

  無節操な日本人に比べて、一神教は壮絶であり、残酷です。同じキリストを信じる宗教でも、カトリックとプロテスタントに分かれ、争いを起こして何年にもわたりあまたの人を殺してしまいます。キリスト教とイスラム教に至っては、十字軍やヨーロッパ侵略、インドのムガール帝国まで、まるで世界を奪い合うような長い歴史を持っています。どちらの神が正しいのか、が戦争に至る文化は日本人には永久に理解できないのかもしれません。

  ただ、宗教に政治が絡んでくると殺し合いが起きることはうなずけます。日本でも信長や秀吉ははじめのうち、異質で珍しい文化が交易として有効だとの考えからキリスト教を受容していましたが、キリスト教徒が為政者に逆らったとたん、キリスト教徒を弾圧し、鎖国にまで至ったのです。さらに、仏教の歴史としても信長は一向一揆を禁止し、盾突く一向宗を根こそぎ焼き殺すという暴挙までを起こしています。仏教は神を信じるわけではありませんが、自らが悟ることで極楽浄土が開けるとの信仰は、特異な位置づけにある宗教だと思います。

  さて、宗教の定義は不明ですが、ますは「信じる」ことが宗教の要件であることは間違いないようです。よくわからないのは、「信じる」とは苦悩から救われる、とか幸せが訪れる、とか願いが叶うとか、なにか現世的なものが伴うから信じるのではないのでしょうか。無償の祈りや信心というのは現代人にはわかりにくいものです。一神教の場合には、神はどうやら絶対のもののようで、そのことが現世のご利益とは関係のない「信心」を生み出すようです。

  ただ、「幸せになる」ことが現世の利益であるとすれば、すべての宗教はそこに行きつくことを目的にしているのかもしれません。

  この本を読もうと思った動機は、人類の起源への好奇心もさることながら、定義不明の宗教のことが少しは理解できるかもしれないとの思いもあったのです。

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(「人類と宗教対談」amazon.co.jpより)

  この本の目次を紐解いてみましょう。

1章 人類は「物語」を生み出した

2章 暴力はなぜ生まれたか

3章 暴走するAIの世界

4章 ゴリラに学べ!

5章 大学はジャングルだ

(補論)

◎人間、言葉、自然――我々はどこへ向かうのか  山極寿一

◎宗教が迎える新しい時代  小原克博

  大学の研究者の対談というと、堅い話を想像しますが、このお二人の対談は一味違って最新の知見に基づいた自由な語り合いが繰り広げられます。第1章は、題名そのままにホモ・サピエンスがなぜ唯一の人類として生き残ったのか。そこに宗教はあったのか、が語られます。

  皆さんは、渋谷の駅前に鎮座する忠犬ハチ公の物語をよくご存じだと思います。人が何者かを信じ、祭り、祈ることが宗教のはじまりとすれば、犬は何かを信じることがあるのでしょうか。ハチは、毎日夕方になると大学から帰宅するご主人、上野教授を待って渋谷駅に通っていました。ところが、ある日上野教授は大学での講義中に脳溢血で帰らぬ人となってしまいました。そのことを知らないハチは、毎日渋谷駅で上野教授の帰りを約10年に渡って待ち続けました。

  果たして、犬は何かを信じて渋谷駅で約10年もの間ご主人を待ち続けたのでしょうか。

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(東京大学のハチと上野教授 asahi.com)

  我々人類は、その昔長らく狩猟生活を続けていました。その中で、子供を育てるために相互に協力し、集団生活を始めたことが生き残りの大きな分岐点であったといわれています。集団は、洞窟を住処として生活していましたが、彼らは洞窟に素晴らしい壁画を残していました。先史時代の洞窟壁画は世界各地で発見されていますが、最も有名なものは2万年前に描かれたとされるラスコーの洞窟画です。その中には、みごとな写実画もあれば、デフォルメされた象徴画にみえる画もあるのです。

  象徴的な画は、そこにはアミニズムやシャーマニズムの匂いが漂います。アミニズムは、動物に霊魂を見出して祭るものであり、シャーマニズムは、巫女が霊的なものに祈り憑依することによって儀式を行い、祈りをささげるものです。宗教のはじまりを明確にすることは難しいようですが、お二人は少なくとも人類は狩猟時代には宗教的な意識を持っていたのではないか、と語ります。

【宗教のもたらすもの】

  ホモ・サピエンスが集団化していく過程で、宗教は共同体の倫理として形作られたと言います。最初は、集団の狩猟により移動生活していた我々も、農作物を育てる生活がはじまると、集団で定住するようになります。すると、共同体の人数は倍々ゲームで増えていくことになり、大集団を統率するための規範が必要となります。人が共同体をうまく統率できるのは、150人が限界だそうです。それを超える集団になると、何らかの規範が必要で、宗教はその1つになったのです。お二人は、それを「共同体のエシックス(倫理)」と語りますが、それは確かです。

  人が農耕牧畜により大集団で定住すると、そこには境界が生まれます。境界が生まれ、農作物による蓄財がはじまると、その富を狙って境界を越え強奪する行為が生まれます。狩猟時代、ホモ・サピエンスは槍や弓などの武器を使って狩猟を行っていましたが、武器を同じ人間に向けるようになったのは、農耕牧畜による定住以降のことだそうです。

  宗教が共同体のエシックスだとしても、そこに争いを戒める教えがあるにもかかわらず、なぜ宗教が戦争を引き起こすのでしょうか。対談では、明確な答えが用意されています。それは、宗教が政治や権力に使われたときに争いが起きるとの答えです。もともと宗教は、時の権力者の通年とは異なる教えを説いてきました。ところが、権力が宗教の力を利用しようとしたときに、そこには争いが勃発するのです。なるほど、宗教自体に戦いの要素があるのではなく、宗教が手段となったときに人は争うということです。なるほど納得です。

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(ベラスケス作「ブレダの開城」80年戦争より)

  この対談に面白い話がありました。それは、サルの話です。サルは、群れで生活しており、ボスが異なる群れ同志では、なわばりや食べ物を巡って争いが勃発する場合も多くあります。いがみあう2つの群れが争っていた時に、その間を年寄りのおばあさんザルが通過をしました。闘争中の群れは、おばあさんザルに手を出さないばかりか、おばあさんザルが通ると争いが止んだというのです。

  人間の場合でもいさかいの原因となった出来事について、年寄りは過去に同様の原因で争いが起きたことを経験しています。その年寄りが、経験に基づいて争いの仲介を行うと、当事者はそのことが過去に解決していたことを知り、争いが収まるというのです。含蓄のある話だと思っていたら、そのおばあさんザルは、喧嘩をしていたボスザル、両方の祖母だったのかも、とのオチで思わず笑ってしまいました。

  さて、人類学と宗教学の、汲めども尽きぬ対話は縦横無尽の広がりを見せて進んでいきます。人は、科学によって驚くべきスピードで進歩を重ねてきました。科学は、あらゆる現象の原理を明らかにし、すべてを見える化していきます。お二人の話題は、宗教が担っていた共同体のエシックス(倫理)は、科学の見える化と資本主義によるグローバル化によってその役割と意義を失いつつある、との方向に進んでいきます。

【人類と宗教はどこに行くのか】

  そして、お二人の話はAI社会となっていく我々の未来へと進んでいきます。

  対談の終盤でキーとなるのは、西田幾多郎の哲学、「善の研究」です。人間は、言葉を編み出した時からものごとを抽象化することを覚え、抽象化した言葉を語り伝えていくことであらゆる事象を共有化する術を身に付けて発展してきました。抽象化するとは、言い換えれば仮想化すること、つまりヴァーチャル化することです。

  科学の発展は、実証できない仮説を信じない世界を生み出しました。つまり、科学的に証明されないような事象を我々は不信感をもって見るようになります。人工知能は、我々が言葉で著わすものについて、それを膨大なデータとして蓄積し、分析することによって、これまで人間にはできなかったシミュレーションや未来予測を可能にしました。しかし、人工知能には我々が肉体で感じる意識を持つことはありません。そして、お二人の対談は、今、ホモ・サピエンスが直面している言葉による抽象概念の極大化というとてつもなく大きな危機へと進んでいくのです。

  この対談は、最後に「大学」という場が持つ可能性についての話に至り、読み物的に終了してしまうのですが、最後に用意されたお二人の論考が拡散された対談をもとの場所に引き戻してくれます。そして、そもそも命は何を求めてきたのか、との深遠な話に向かっていくのです。


  今年は、台風や豪雨のせいで日光の紅葉も元気がありません。被災した地域の皆さんも、まだまだ復興には程遠いと思います。世界じゅうのたくさんの人々はいつも被災している皆さんを応援しています。一日も早く生活が戻ることを心よりお祈りしています。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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二人の異才が語る生死(しょうじ)とは?

こんばんは。

  皆さんは、「生死(しょうじ)」という言葉をご存知でしょうか。

  漢字としては当然知っているのですが、「しょうじ」という仏教の言葉としては、全く知りませんでした。今週読んだ対談本は、いきなりこの言葉の説明から始まります。

「生死(しょうじ)の覚悟」

(高村薫 南直哉著 新潮社新書 2019年)

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(新潮新書「生死の覚悟」 amazon.co.jp)

  本屋さんでこの新書を見つけたときに、やっとお二人の対談が上梓されたか、と感激しました。というのも、お二人ともにファンであることもさることながら、以前にブログでご紹介した通り、このお二人の間には不思議な因縁があるからなのです。それは、高村薫氏の上梓した小説に登場する曹洞宗の禅僧が南直哉さんに瓜二つに描かれたことにあります。南直哉さんの禅房内でのあだ名は「ダース・ベーダー」でした。驚いたことに小説の登場する禅僧のあだ名も同じ「ダース・ベーダー」だったのです。

【はじめに言葉ありき】

  高村薫さんは「マークスの山」で直木賞を受賞して以来、合田警部補シリーズを上梓し続けており、その稠密な人物描写と迫力のある情景描写、卓越したプロットはますます冴えわたっています。直哉僧のそっくりさんが登場するのは、シリーズ3作目の「太陽を曳く馬」です。この本が上梓されたのは2009年ですので、そこからがお二人の出会いと言っても良いのかもしれません。この小説が上梓されてから、直哉さんは、あまりにその設定がリアルであったため、禅房内で情報漏えい者の疑いを持たれたそうです。

  対談は、まずその疑いを払しょくするため、その確認から始まります。直哉さんは、失礼ながらと前置きをして重ねて取材の有無を問いただしますが、この小説の設定はすべて高村さんの脳内から想像されたものだと言うことが判明します。直哉さんは、プロの小説家の想像力のすさまじさに脱帽でした。

  南直哉さんは、現在、福井県の霊泉寺住職、青森県の恐山菩提寺院代を務められており、多忙な生活を送られています。氏は、「言葉」を、仏教を考え、伝えるために非常に重要な手段ととらえています。それ故、これまでに自らが考えて考え抜いてきた様々の事を、ときにはエッセイ風にときには論文風に世に問うてきました。

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(福井県 霊泉寺 fuku-e.comより)

  この本には、2011年の初めての対談、2018年の7年ぶりの対談、そして、その間にお二人が執筆した道元禅師に関わる文章と、お二人の書評が掲載されています。

  高村薫さんはもちろん言葉のプロフェッショナルですが、お二人の文章を読んでいると言葉の持つ意味の大きさを改めて思い起こします。「はじめに言葉ありき」とは、新約聖書の「ヨハネによる福音書」における最初の一言ですが、言葉は神様とともに存在したほど根源的なアイテムです。人間(ホモ・サピエンス)は200万年前に誕生したと言われます。

  類人猿から派生した第3のチンパンジーが我々人類ですが、地球上のすべての生きもののなかで我々が生き残ったのは、我々の祖先がグループ内のコミュニケーションによって協働することを覚えたことによるものだそうです。コミュニケーションは、最初表情や声であったはずですが、それが言葉として通じ合ったときに最強の協働が生み出されたのだと思います。

  言葉は、あらゆるものを共有化する名前であるとともに表現そのものです。それは、人の気持ちを表すこともできれば、環境を共有化することができ、人の姿や美しい風景をも表すことができます。さらに、ものごとの理や哲学、科学までをも深めることができるのです。人類の進歩と調和は言葉によってなされたと言っても過言ではありません。

  この本では、仏教を巡って言葉のプロフェッショナルである高村薫さんと異色の禅僧である南直哉さんが、「死と(表裏一体の)生」について、語り合い、道元と互いの上梓した本を評論するというコラボレーションが実現します。

【言葉はどこまで語れるのか】

  ところで、題名にもなっている「生死(しょうじ)」ですが、この本の中表紙にはこの言葉の定義が記されています。

  「生死(しょうじ)」 生まれることと死ぬこと。また、いのちあるものが生まれることと死を繰り返すこと。(略)仏典においても、生死の連続は苦と捉えられており、さらに、仏教においては、生死の繰り返しは、我々人間の煩悩に起因すると考えられたため、煩悩を滅失することにより、生死の連続からの解放が可能になるとされた。このように生死は、迷いのただなかにある我々自身のあり様を比喩的に表現したものである。生死の超克は苦の終焉であり、それは涅槃と等値となり、仏教の目指すべき目標とされる。(岩波仏教辞典  第二版)

  さすが辞典だけのことはあり、迷いなく説明がなされています。

  最初に掲載されたこの説明とはうらはらに、お二人の語る「生きることと死ぬこと。」と仏教の関わり方は、一筋縄ではいきません。そもそも高村薫さんは、「自分には信心がない。」と言い切ります。曹洞宗の禅僧の前で、いきなりこんなことを語ることにも驚きますが、もっと驚くのは、直哉さんが「私も同じです。」と答える所です。

  読み進むにつれて、この対談の奥深さが見えてきます。

  このお二人は、立場は異なれど、これまでの生き方の中で、常に懐疑と共に生きてきました。その懐疑とは、「なぜ」と問うことです。直哉さんが出家して曹洞宗永平寺の門をたたいたのは、「自分はどうして生まれてきたのか」、「自分とは何なのか」という心からの疑問に行き詰まったことがその理由だと言います。その答えは住職となった今も出ないと言います。

  一方の高村薫さんは、物心ついた時から「信心」が身につかず、人が仏様や神様に両手の平を合わせている姿を見て、その心持を理解することができないので、今でも自分は「信心」のない悪人(宗教的な)であることが常に心に引っかかっていると言います。そんな高村さんにとって「死」をつきつけられたのは阪神淡路大震災でした。あるとき、突然数千人もの命が奪われる大災害。命を失った人、家族を失った人とそうでなかった人を何が分けたのか。

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(小説「太陽を曳く馬」上巻 amazon.co.jp)

  その答えがあるはずのない問を目の前にして、高村さんは仏教に近づいたと言います。

  明治維新以降、日本は近代化による富国強兵を国是としてきました。その中で、脈々と根付いてきた思想は科学的合理主義でした。つまり、すべての事を合理的な行動(実験)や論理的分析によって解明し、真理(またはそこに至る仮設)を言葉で説明するとの考え方でした。高村薫さんは対談の中で、みずから疑問に感じたことを理性で分析・分解して言葉で言い表すことが身についていると語ります。しかし、「信心」やそのきっかけとなる「死」について語る言葉を持てないことに引っかかっていたのです。

  直哉さんもその話を受けて、同意します。

  出家して禅僧になることは、自分にとって「賭け」だったと言います。その意味は意外です。曹洞宗の教えは仏教の基本となるもので、殺生を禁止しています。直哉さんは、出家前に自らの生きる意味を見いだせない、死とは何かが分からないときに最後には自殺という選択肢があった、と語ります。ところが、自殺は殺生となります。つまり、出家して禅僧となることは自殺という選択肢を捨てることになるのです。

  みずからの疑問を根底まで問い続けたときに「生きる」という選択肢しかありえない世界は、直哉さんにとって「賭け」だったわけです。直哉さんが出家したのは1984年ですので、それ以来35年間、その「賭け」は続いているわけです。今のところ、その疑問の答えは言葉として語ることはできないのです。最初の対談の終わりの部分に至って、やっと「生死の覚悟」という題名の必然性が匂ってきたように思えました。

【「生死の覚悟」とは?】

  対談の間に挟まれた断章も2つの対談に結びついていきます。

  まず、曹洞宗の開祖である道元禅師にかかわる話が相互に登場します。私は無調法で、道元の著作である「正法眼蔵」を読んだことがありません。高村薫さんの言によれば、この本は75巻本と12巻本にわかれており、75巻本は難解そのもの、12巻本は分かりやすいと言います。しかし、その難解さはただならぬものがあるようです。

  高村氏曰く、「さてそれでは、どこがどう難題なのかと言えば、まさに無いと言い、有ると言い考えるなと言い、考えろと言い、考えないことを考えろと言う、自己にとらわれない心身のありよう自体を言語化している点である。」、「そもそも『正法眼蔵』は、道元自身が禅定の果てに達した身心脱落の非言語的宇宙そのものに、今度は自覚的に近接し、その全容を言い当てんとする言葉の集まりである。つまり、言語以前・存在以前を言語化し、『空』から諸々の事物を現成させる営みであるが、それにしても、言葉で言い当てられないものを言い当てる言葉とは、実際にはどんな言葉だろうか。」

  東日本大震災の傷跡が人々の心に重くのしかかる中で、高村さんは道元の言葉に思いをはせるのです。そして、それに呼応するように直哉さんの「正法眼蔵」解説が続きます。

  我々が仏教や禅に対していつも疑問に思う「悟り」。いったい「悟る」とはどうゆうことなのか。道元禅師が「正法眼蔵」の中で語る、「悟り」とは何か。直哉さんは、「悟り」を「人の実在」に例えて道元禅師のパラドックスのような文章を読み解いてくれるのです。

  そして、いよいよ2018年のお二人の対談が始まります。この間に高村薫さんは、「空海」という作品と「土の記」という大作を上梓しています。そして、直哉さんは「超越と実存 『無常』をめぐる仏教史」という氏独自の視点から描いた仏教の歴史本を上梓しています。加えていえば、この本は、昨年度の小林秀雄賞を受賞しています。

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(南直哉著「超越と実存」 amazon.co.jp)

  対談の前の断章には、南直哉さんが書いた「空海」の書評が掲載されており、さらに、高村薫さんの「超越と実存」の書評が続いています。これが枕となり、お二人の対談はその著書に対する深堀から始まります。

  後半の対談は、現代社会が抱えている危殆を互いの考えと体験から分析していくことになります。

  お二人は、前半の対談で語られた通り、「生死」への懐疑と「宗教」への懐疑の深さを確認していくことから対話を深めていきます。

  平成最後の年に地下鉄サリン事件など最悪の犯罪人を生み出した宗教集団「オウム真理教で数々の犯罪に手を染めた幹部たちの死刑が執行されました。それは、まるで「オウム真理教事件」を平成とともに幕引きをしてしまおうとするかのような刑の執行でした。お二人は、なぜこのような団体が宗教を語り、なぜ多くの若者たちがその教えに心酔し洗脳されてしまったのか、を解き明かさずに事件を終えてしまったことを痛烈に批判しています。

  令和の時代は、深く物事を問うことを忘れつつあります。人々は、インスタグラムやYou Tubeなどの視覚的な情報への反応に偏重し、文章もツイッターやフェイスブック、ラインなどの短絡的な短いセンテンスが世界中を席巻しています。すべてが瞬間芸や一発芸のような世界の中で、物事を深く問い、考察することが薄れてきたことに間違いありません。

  お二人の対談は、「生死」や「宗教」を語りながら、こうした社会に警鐘を鳴らしています。今、児童虐待やいじめ、衝動に任せた無差別殺傷事件など、自らに理由を深く問うこともなく発生する事件が多発しています。この本は、人はなぜ生きるのかを問うとともに、現代に欠けている何かをみごとに語ってくれます。

  皆さん、ぜひお読みください。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。

今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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