こんばんは。
美術史家の辻惟雄(のぶお)さんが1935年生まれと知って驚きました。
時のたつのは早いもので、「生誕300年記念 若冲」と題された展覧会を東京都美術館で鑑賞し、そのあまりにも精緻な絵画に心から感動したのは2016年のことでした。
辻惟雄さんは、そのときの図録の巻頭に「『若冲』という不思議な現象」という一文を寄せて、その人生の軌跡と主要な作品の美術的な意味を解説していました。当時すでに80歳を超えていらっしゃったわけです。
(「若冲展」チラシ heritager.com)
若冲の名は知っていましたが、その絵に初めて触れて、江戸時代にここまで緻密な色彩と現代的なデザインを描き印した画家が日本に存在していたこと自体が驚きでした。それよりも、その筆致のすばらしさと構図の斬新さに感動し、ことあるごとに図録を見返してはその感動を思い起こしていたのです。
先日、本屋さんを歩いていると新書の棚に「よみがえる天才1 伊藤若冲」との題名が目に入りました。そして、著者の名前を見ると、図録の文章を寄せていた辻惟雄さんではありませんか。何はともあれその本を持ってカウンターに急いだのはいうまでもありません。
「よみがえる天才1 伊藤若冲」
(辻惟雄著 ちくまプリマー新書 2020年)
(辻 惟雄著「伊藤若冲」 amazon.co.jp)
【伊藤若冲とは何者か】
2016年の展覧会の目玉は、3幅の「釈迦三尊像」と30幅の「動植綵絵(どうしょくさいえ)」でした。
東京と美術案での壮観な展示は、今でも忘れることができません。円形の会場には、360度ガラスショーケースがしつらえられており、その中央に「釈迦三尊像」が配置されてその両側をはるかに囲んで「動植綵絵」30幅が囲んでいるのです。まるでその空間は異次元のようで、若冲が心血を注ぎ描きあげた動植物の数々が我々の目に飛び込んでくる趣向となっているのです。
その迫力はすさまじく、この絵が200年以上も前に描かれたという事実に衝撃を受けました。
その極彩色の中にも繊細な変化を秘めた彩の万華鏡のような色彩。そして、動植物の造形のすばらしさ。そして、縦140cm、横80cmの大きさから大きくはみ出るような画像は、まるで現代アートのデザインのような斬新さにあふれていたのです。
伊藤若冲は、とても長生きでした。若冲の30年後に生まれて江戸でその浮世絵の才能を開花させた葛飾北斎も88歳という長寿の天才でしたが、生涯を京都で過ごした若冲も亡くなったのは85歳の時でした。展覧会では、30代で描いた美しい鳳凰図や後の「群鶏図」を思わせる「雪中雄鶏図」や「「旭日鳳凰図」をはじめ、初期の絵画から墨絵や版画、フラスコ画など次々と新たな技法に挑んだ晩年の傑作まで傑作が続き、めくるめく若冲の世界を堪能することができました。
(「動植綵絵 群鶏図」 wikipediaより)
さて、展覧会では実際に若冲の作品を前にただただ感動するばかりでしたが、若冲はどのようにして世界にも稀に見る写実性の高い彩色日あふれる絵を描いたのか、それを系統だって知りたくてこの本を手に取ったのです。
この本の前書きは、まるで自らの絵の未来を予言するような若冲の言葉で幕を開けます。
それは若冲の元を訪れた川井桂山という医者によって記録された言葉です。「私は理解されるまで1000年の時を待つ。」それは、どんな気持ちから出た言葉なのでしょうか。
若冲は、代表作「動植綵絵」を半ばまで進めたところでこの言葉を語ったのですが、それはまるで自らを予言するような言葉だったと著者は語ります。なぜなら、生前には世にその名声がとどろいていた若冲は、明治以降、日本ではまったく取り上げられることはなくほとんど無名の画家になったというのです。そして、戦後、若冲を見出したのは日本人ではなく、アメリカのエンジニアであったジョー・プライスというアメリカ人でした。
展覧会にプライスコレクションと呼ばれる若冲の名画が惜しげもなく出展されていました。そうプライス氏は、若冲の絵を収集しましたが、決して個人で秘蔵するつもりはなく、逆に「里帰り展」や東日本大震災時には日本での若冲展を企画するなど、若冲の故郷を非常に愛してくれていたのです。辻さんは、若いころに日本の古美術商を回って若冲の絵を収集するプライスさんと出会っています。そして、若冲を通じてプライス氏と友情をはぐくみます。
(プライスコレクション「紫陽花双鶏図」wikipedia)
そのいきさつは、この本にもちゃんと記録されています。
ところで、1000年を待つといった若冲ですが、その画は1000年待つことなく日本人に再発見されることになります。それは、21世紀になってからのことですが、若冲がこの予言を発してから250年後が現在です。若冲の予言は、思った以上に早く実現することになったのです。
【伊藤若冲の謎を解く】
この本の著者は、半世紀にわたって若冲を研究してきた若冲の第一人者です。若冲の名前が埋もれていた時代に、「奇想の系譜」という著作の中でいち早く若冲の天才を取り上げ、20世紀末から21世紀にかけて様々な若冲の展覧会にもかかわり、若冲の絵画の魅力を我々に紹介してくれた美術史家です。
この本で描かれる若冲にはいくつかの謎があります。
ひとつは、その人生の全貌。そして、もうひとつは我々を引きつけて止まない若冲絵画に隠された謎です。
辻氏は、その二つの謎を時代の背景、若冲85年の人生を追いながら、その時々の作品を紐解いていくことで2つの謎を並行して紐解いていきます。
話は変わりますが、この5年ほど仕事で京都地区を担当しています。いつも仕事で寄る事務所は南北に走る烏丸通に面しています。すぐ南には東西に走る四条通があり、まさに京都の繁華街と言ってもよい場所にあります。この四条通には、大丸デパートがありますがその北側の路地を東に進んでいくと、そこに昔の面影を残す錦市場があります。
2016年、若冲生誕300年を迎えた年にたまたまお昼ご飯を食べに烏丸方向へと向かったところ、地元職員が「この先に錦市場があるから見に行きましょう。」と誘ってくれました。四条通の路地を歩いていくと正面に「錦市場」との看板を掲げたアーケードが見えてきます。
錦通りは、雑然としたまさに市場ですが、乾物屋あり、八百屋あり、魚屋あり、雑貨屋あり、味噌屋あり、喫茶店ありと、とにかく騒然としていて、外国人や観光客でごった返していました。驚いたことに、そのアーケードの真下に、「若冲生誕の地」という鶏が描かれた独立看板が立っているではありませんか。それもそのはず、その入り口の角は若冲が生まれた青物問屋「桝源」があった場所だったのです。
(錦市場入口 若冲生誕の表示塔)
そうです、今や観光地として常ににぎわっている錦市場。こここそが若冲由来の街だったのです。
青物問屋とは、野菜を作る農家と庶民に野菜を売る八百屋さんをつなぐ問屋です。若冲は、1716年に「桝源」の四代目として生まれました。「桝源」は、本業としても栄えていて、本業の他にも不動産の賃貸業などで比較的裕福だったそうです。おそらく、少年のころから若冲は絵画に興味を持ち、絵画が大好きであったに違いありません。
ところが、若冲が23歳のとき、父親である3代目伊藤源左衛門が42歳で亡くなります。長男であった若冲は、4代目伊藤源左衛門として跡を継ぐことになったのです。
若冲と言えば、その師とも友人とも語られる同世代の禅僧である大典顕常の名が必ず登場します。大典は、歴史ある相国寺で修業し、そこに庵をかまえていましたが、若冲の「動植綵絵」は、「釈迦三尊像」とともに相国寺に寄進された絵画だったのです。
その大典の残した文章によれば、若冲は、「勉強が嫌いで、字も下手で、世の中に技芸はいろいろあるけれど何一つ身につけることがなかった。」と記されています。それでよく青物問屋の主が勤まったなと思いますが、考えてみれば、今もこんなサラリーマンはざらにいます。若冲のすごさは、別の文章に記されています。曰く、「丹青に沈潜すること三十年一日のごときなり。」つまり、絵を熱心に描いて30年になる、というのです。
若冲の絵画好きは、「好き」の域をはるかに超えていたのです。
若冲の絵を見ると、たぐいまれなその表現と細部にまでこだわる緻密さに、とても常人ではないと思われますが、常識がなければ青物問屋の主人はとうてい勤まりません。若冲は確かに天才に間違いありませんが、決して我々と異なる奇人ではなかったのです。
若冲は17年間「桝源」を切り盛りした後、40歳にして家督を弟に譲り、念願の絵画専念の生活に入ることになります。人の寿命が50年と言われた時代を考えれば、今のサラリーマンが60歳で定年となり、自分のやりたいことに専念するところと変わりがないと思うと、この天才にわずかに親近感を覚えます。
さて、実は若冲には謎の4年間が存在します。
「釈迦三尊像」と「動植綵絵」を完成させ、相国寺に寄進した55歳から、その絵筆がピタリと止んでいるのです。60歳からは再び名画の数々を世に送っているので、いったいこの期間何があったのか、なぜ筆を折っていたのかが分からなかったのです。しかし、20世紀の末、ある文章が発見されたことにより、この4年間の空白の謎が解き明かされました。その真実はこの本でお楽しみください。
若冲への親しみがより深まること間違いなしです。
さて、いよいよ若冲の素晴らしい絵画群の謎について。この本ではその奥深い謎をあらゆる角度から問い詰めていくのですが、その謎解きの数々はぜひこの本を読んで確かめてみて下さい。
ひとつだけお話しすると、それは「裏色彩」の謎です。
(裏色彩の波「群魚図」wikipediaより)
「動植綵絵」はある事情で相国寺から宮内庁へと献上されましたが、宮内庁では1999年から5年間をかけて大規模な解体修復が行われ、その際に絵の裏面の調査研究が行われました。その中で判明したのは、作品に合わせて数多くの部分で膨大な裏色彩による色絵付けを施していたことでした。例えば、空や地面、波などの背景を描く中で、若冲は赤や青や緑、黄色などの色を裏色彩によって塗り分けることで、淡い濃淡を表現していたことが分かったのです。
最も裏色彩が効果的に使われていたのは、「白」でした。「動植綵絵」では、「老松白鳳図」や「牡丹小禽図」など鮮やかな城に目を見張る作品が多くあります。「白鳳図」では真っ白な翼に黄金色の色彩がまぶされており、その輝きに目を見張ります。その輝きは裏側から黄土を塗り、表の白い色の厚さを変えることにより、黄金が透けて見えるという技法が使われていたのです。
若冲は、その絵画において高度な技法を自家薬籠のものとして、その絵画世界を作り上げていたのです。それ以外にも、自らの絵画にすべてを注ぎ込んだ若冲の絵画の謎は、この本の中で次々と解き明かされていくことになるのです。
この本を読んでいる間、まるで若冲展を再び鑑賞している気持ちになり、時間を忘れてそのワンダーに引き込まれました。
皆さんもぜひ「若冲」の世界を味わってみて下さい。日本人に生まれた幸せを味わえること間違いなしです。
それでは皆さんお元気で、またお会いします。
〓今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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