評論(文芸)一覧

佐藤優 ドストエフスキー5大長編を語る

こんばんは。

  ロシアは、侵略国家へとなりさがりました。

  ロシアと言えば、あの東ローマ帝国の正当な後継者として独自の文化をはぐくんできました。キリスト教正教会を継承しながらも絵画では、シーシキンやレービンなどの巨匠を生み出し、音楽ではチャイコフスキーやストラビンスキー、文学ではトルストイやドストエフスキー、と我々人類のレガシーがきら星のように輝いています。

  2年前に起きたウクライナへの侵略殺戮以前、ロシアは最も訪れたい国の一つでした。

  もう5年も前ですが、社会人となった娘が海外旅行フリークとなっていて、ロシアのサンクトペテルブルクとモスクワに出かけました。その街並みの美しさもさることながらエルミタージュ美術館に収められた人類の至宝と言っても良い美術品の数々。そこを訪れた話を聞いたときには、次に訪れるのはロシアしかないと連れ合いと話していたものです。

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(エルミタージュ美術館の容姿 wikipediaより)

  ところが、コロナ禍による外出自粛で旅行ができなくなり、さらにはウクライナへの侵略戦争の勃発によってロシアへの旅行はテーマにも上がらなくなってしまいました。

  ウクライナではすでに、戦争とは何の関係もない市民や子供たちが1万人以上も亡くなっています。ロシアは、ウクライナの人々を殺戮し、精神的にも追い詰めることを目的として、ミサイルや無人機で主要都市を攻撃しています。ロシアの文化をはぐくんできた芸術家たちは、ロシアが受けてきた侵略や自らの国民に対して行われた殺戮に対して多くのニエットを唱えてきました。にもかかわらず、ロシアはウクライナに侵略し、他国の国民を殺戮する、という人間の尊厳を根本から否定する忌むべき犯罪を行いつつあります。

  我々人間が持つ最も優先すべき美徳は“ヒューマニズム”です。これは人道主義と訳されるのですが、言葉で定義されるよりも根源的で、普遍的な根本原理と言っても過言ではありません。それは、自分以外の人間が人として存在していることを肯定するという、もっとも基本的な規範なのです。

  元旦に能登地方をおそった大地震によって、多くの方々が一瞬にして肉親を目の前で失うという悲劇に見舞われました。この報道に本当にたくさんの人たちが胸を痛め、支援の行動を起こしてくれました。世界中の国々、人々も心を寄せ、北朝鮮さえも岸田首相宛にお見舞いのコメントをよせてくれたのです。

  災害によって人の命が突然失われることと、一方的な殺戮によって人の命が奪われることに何の差異もありません。ガザ地区におけるパレスチナの人々への殺戮もウクライナの人々の殺戮も、地震やハリケーンによる殺傷もなにも変ることはありません。ヒューマニズムとは、人が人で亡くなることを悼み、人の尊厳を敬愛する心を言います。プーチン大統領やネタニヤフ首相は、自ら手を下すことなく、数万人の人々の命と尊厳を消し去っています。自国民が災害で命を失いそうなとき、お二人はたとえ一人の命であっても必死の救出を命じるはずです。それは、政治家の役割からではなく、ヒューマニズムからだと信じています。人の命を奪う行為は一人でも、一万人でも、決して許されない犯罪です。人は誰もがヒューマニストであることを、今こそ思い返す必要があります。

  始まりからロシアの話題になったのは、今回読んでいた本が、ロシアの文豪ドストエフスキーの長編を語る本だったからです。

「生き抜くためのドストエフスキー入門-「五大長編」集中講義-」(佐藤優著 新潮文庫 2021年)

【ドストエフスキーは語り継がれる】

  2021年は、ドストエフスキー生誕200年に当たる年で、世界中でドストエフスキーに関するイベントが開催されました。ドストエフスキーの作り上げた世界は、未だに色あせることなく我々の心と知性に響き続けています。

  生誕200年の節目に日本で注目されたのは亀山郁夫さんと佐藤優さんのお二人です。

  亀山さんは、ロシア語の研究者が本業ですが、そのドフトエフスキーへの思い入れは大きく、2007年に「カラマーゾフの兄弟」の新訳を上梓しました。その後もトエフスキーに関する著作を多く上梓し、2021年にはドストエフスキーの長編小説「未成年」の新訳を上梓しています。(本ブログでも亀山さんのドストエフスキー本は何度か紹介していますので、ご参照ください。)

  一方の佐藤優さんは、この年に「ドストエフスキーの預言」という単行本を文藝春秋社から上梓しています。佐藤優さんと言えば、現代日本の知性派であるとともに元インテリジェンスオフィサーとして、世界のインテリジェンスを語ることができる論客です。佐藤さんはソビエト連邦が崩壊し、ロシア共和国が成立したときにモスクワの日本大使館に勤務する外交官で、その後は外務省で分析官を務めており、まさにインテリジェンスオフィサーそのものだったのです。

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(「ドストエフスキーの預言」 amazon.co.jp)

  この本は、そんな佐藤優さんが生誕200年に当たって新潮社主催の新潮講座のひとつに登場した際の講義記録をまとめたものとなっています。

  佐藤さんは、この本のあとがきで、自分にはドストエフスキーを語るときに他の論者とは異なる3つの体験があると語っています。その一つは、自分の基礎教育がキリスト教神学であること。(氏は、同志社大学大学院の神学研究科を修業しています。)二つ目には、自分が78ヶ月外交官としてモスクワで生活しており、ロシア気質を肌感覚で知っていること。さらに、氏は2002年に公安警察に逮捕され、東京拘置所に512日間拘留された体験があります。のみならず、氏は外務省にてモスクワ大学に語学留学の機会を提供された経験も持ちます。三つ目の体験とは、国家の恐ろしさと国家からの恩恵の両方を身をもって知った点だと言います。

  確かにドストエフスキーも作家となってからしばらくして、当時社会主義者であったペトラシェフスキーが主催する会に出席してある手紙を朗読したことで秘密警察に逮捕され、死刑判決を下されました。しかし、まさに死刑執行のその直前に恩赦が出され、4年間のシベリア流刑へと減刑される、という想像を絶する体験を味わったのです。

  お二人がそろって語るのは、21世紀の現在の状況がドストエフスキーが描いた19世紀後半のロシアの状況と極めて似ているという認識です。19世紀後半のロシアは、帝政時代が終焉を迎える時代です。そこでは、ヨーロッパでの民主革命や資本主義の思想が国民の間に広まり、帝国は国家の引き締めに躍起になっています。一方で、流入する民主主義、資本主義の流れの中で、帝国も資本を認め、農奴を解放するなど近代化にも取り組みます。

  こうした時代、ロシアには混沌とした社会情勢が蔓延していきます。それまで、官吏が最も収入が高かった社会に金持ちの資本家が現れ、職を求める解放された農奴たちも貧困層に流入し、社会には大きな格差が生れます。さらには、国王を暗殺し、国家転覆を企てる社会主義者も世にはびこり、社会は混沌につつまれていきます。

  こうした、時代を深く、鋭く洞察し小説へと昇華させたドストエフスキーの作品は、現代社会に通底する問題が様々な場面やエピソードで語られているのです。

  例えば、佐藤さんは講演のプロローグで「罪の罰」の主人公ラスコーリニコフが見た夢の描写を紹介しています。その夢では、アジアの奥地から新たな微生物が発生し、ヨーロッパのほとんどの人々を死亡させるというのです。さらに、その微生物に感染した病人は自分がすべて正しいとする狂信的な人間となり、互いに殺し合うのです。この夢は、まさにコロナ禍とウクライナやガザでの殺戮が思い起こされます。

  ドストエフスキーが語り継がれる理由はまさにここにあるのではないでしょうか。

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(「ドストエフスキー入門」amazon.co..jp)

【ドストエフスキー5大長編を語る】

  この入門編で語られる5大長編とは、「罪と罰」(186645歳)、「白痴」(186948歳)、「悪霊」(187150歳)、「未成年」(187554)、「カラマーゾフの兄弟」(187958歳)を指しています。どれも非常に長い小説ですが、ドストエフスキーの特徴は、小説の中で濃密な時間が流れているところです。それは、登場人物たちの会話が小説の大きな部分を占めるところから生じていると言っても良いと想います。

  会話で構成される小説というと我々は読みやすい小説を思い浮かべますが、ドストエフスキーの小説の登場人物たちは、「天気と健康」のような会話は交わしません。誰もが、自らの独自の主張と考え方を持ち、それぞれの主人公の性格は描写よりもむしろその発言や会話で表されているからです。

  今回の講演は、3日間にわたって行われましたが、1回の時間は限られていて、一つの作品に費やされているのは文庫本にして35ページ程度の分量です。この分量で名作のエッセンスを語るわけですから、テーマは絞られています。この本の面白さは、佐藤優さんの目の付け所とそこにひそむ意味を現代の我々にあざやかに描き出してくれるところなのです。

  少しさわりをご紹介しましょう。

  まず、「罪と罰」ですが、このミステリーと言っても良い小説で佐藤さんは現代ロシアに通じる文化ともいえる「土壌主義」に言及します。それは、2つの殺人を犯したラスコーリニコフが、家族の窮状を救うために自ら娼婦へと身を落としたソーニャとの会話の意味をつまびらかにしていくことで明らかにされていきます。

  ラスコーリニコフがサンクトペテルブルクの広場で激情に駆られて涙を流し、広場の石畳に顔をすり寄せて大地に口づける場面は小説のクライマックスですが、その意味がここで明かされます。

  「白痴」でもキリスト教正教が他のキリスト教徒の相違点に基づいて小説を解説していきますが、この章で面白いのは翻訳者解説です。新潮文庫におけるドストエフスキーの翻訳者には、江川卓さん、原卓也さん、工藤精一郎さん、木村浩さんがいますが、この小説の題名のロシア語の解釈が微妙に異なります。江川さんに対する木村さんの指摘になるほど感を覚えます。

  「悪霊」は、実在のアナーキーな革命家に題材を取ったピカレスクロマンなのですが、そこでのポイントは「人」と「神」の関係と、そこにからんでくる「死」をどのようにとらえるか、という問題です。佐藤さんは、キリスト教からその問題を解き明かすとともに、高橋和巳さんの小説「日本の悪霊」を紹介することによって、よりわかりやすく論点を説明してくれます。

  「未成年」は私も読もうとして、読みにくさに放棄してしまった作品なのですが、佐藤さんの解題は、本当に面白く読むことができました。この小説を身近に感ずるように、佐藤さんはホリエモンや村上春樹さんを引用してこの作品を解説してくれます。また、余談で語られるトルストイへの嫉妬や当てこすりも、なるほど感があります。

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(亀山郁夫訳「未成年1」 amazon.co.jp)

  そして、本好きの誰もが一度は洗礼を受ける「カラマーゾフの兄弟」です。

  この小説は以前にもご紹介したとおり、続編が想定されて執筆された「第一の小説」です。つまり、そのことも踏まえて読み解かなければ見方を誤る可能性があると言います。小説は、ドミートリー、イワン、アリョーシャの3兄弟と父フョードルが別の女性に産ませた(と思われる)スメルジャコフが織りなすドラマですが、その面白さは父親のフョードルが殺害され、その犯人が誰なのかが主題となっている点がその源泉となっています。

  この小説をたったの40ページで語るところが佐藤優さんのすごさなのですが、そのテーマは有名な「大審問官」となります。無神論者であるイワンが、敬虔なキリスト教徒である弟アリョーシャに向かってイワンが創作した「大審問官」という物語を語る、というのがその内容ですが、この中には小説のテーマのひとつが集約されているとも言われています。

  はたして「大審問官」はどのように読み解かれるのか。その面白さはぜひこの本で味わってください。もう一度、小説を読みたくなるに違いありません。


  能登ではまだ行方不明の方がおり、避難されている方々も長いストレスでお疲れのこととお見舞いを申し上げます。日本中の皆さんが寄り添っています。心も体もご自愛ください。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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お久しぶりです+宮下規久朗 名画の効用

こんばんは。

  4月を迎え、いよいよ新しい年度が始まりました。

  実は、この3月末で42年間務めた会社を雇用期間満了で退職し、晴れて自由の身となりました。通常、退職直前の1カ月はゆっくりとマイペースで業務を引き継ぐわけですが、私の場合はまったく異なっていて、ブログを更新する暇もないほど忙しく過ごしました。

  3月初旬には静岡県の桑名市に出張、美味しい焼きはまぐりを堪能することできました。次の週には、大阪で仕事をし、その足で島根県の松江に一泊で出張。大阪は、この8年間担当したところで、一緒に行った大阪の仲間が松江で送別会を開いてくれました。松江なのでカニとかウニとかノドグロとか、食べたかったところですが、3月ということもありどのお店も満員で入れません。うろうろして見つけたのは、なんと「新世界」というお店。

  大阪の方はよくご存じですが、「新世界」といえば通天閣に通じる通路界隈の名称です。そして、その名物は串揚げ。そのソースは2度付け禁止で知られています。なぜ、松江で「新世界」? なんとなく納得感がなかったのですが、考えてみれば大阪の新世界で送別会があったと思えば同じ事かと、妙に納得しました。松江では、仕事の後に飛行機までの時間があったので、国宝松江城を訪れることもでき、素晴らしい天気だったので松江城から鳥取の大山を臨むことができました。感激です。

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(国宝 松江城)

  さらにその翌週には金沢に出張。極めつけは、最終日です。

  通常の職場では、定年最後の日は心おだやかに身の回りの整理を行い、お世話になった方々に挨拶周りをし、会社から貸与を受けているパソコン、健康保険証、社員証、社章、セキュリティカードの返却を行い、お見送りを受ける、というのが一般的だと思います。ところが、3月31日の金曜日には新潟に出張し、仕事をしていたのです。

  おかげで、退職時の様々な用事は、すべて30日に終え、31日の旅費精算まで済まして、最終日には新潟でしっかりと仕事を完結しました。最後に新潟の地酒をお土産に買うことができたのが、せめてもの楽しみでした。まるで、自分の会社人生を象徴しているようでかえって感慨深いものがありました。

  さて、4月からは喪失感があるのかと思いきや、なんと暮らしも気持ちもあまり変わることなく、むしろ開放感があるというのが正直なところです。生活という面で大きかったのは、コロナ禍におけるテレワークの導入でした。最後の1年間は2週間に1度しか会社には出勤せず、打ち合わせはWeb会議、出張も家から直行という状態でした。つまり、ほぼ1日中在宅での勤務だったので、退職しても会社への出退勤報告以外には何も変わることがなかったのです。

  むしろ、自宅にいても拘束されることがなくなり、自由に出かけることができるようになった分、生活が自由なものとなったのです。コロナ禍による効用が妙なところにあると感じます。

  新たな出発で、何に人生を使っていくのか、まだ模索中ですが、まずはご無沙汰しているブログを定期的に更新すること、そして、進歩のスピードこそ遅いのですが4年半続けているテナーサックスの演奏技能を少しでも向上させたいと思っています。さらに、人のお役に立てることができれば、それ以上に幸せなことはないと思っています。

  久々にブログを更新するので、もう少し余談にお付き合いください。

  最近、心を動かされたことはいくつもありますが、最も感動したのはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)にて、侍ジャパンがみごとに世界一に輝いた瞬間でした。大谷翔平選手とアメリカを率いるキャプテンマイク・トラウト選手の対決は、手に汗握る真剣勝負でした。結果は大谷投手が、魔球「スイーパー」でトラウト選手を三振に打ち取り、日本が優勝を果たしたのです。

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(侍ジャパン世界一の瞬間 asahi.com)

  準決勝では、9回の裏にそこまで不振を続けていた村上宗隆選手がサヨナラ打を放ち、見事な勝利を収めたメキシコ戦にもしびれました。もちろん、この試合では3点ビハインドの7回に吉田正尚選手が放った起死回生の3ランホームランも忘れることができません。

  ところで、日本代表を世界一へ導いた栗山英樹監督。皆さんは、4月3日に放送されたNHKの「スポーツ×ヒューマン」というドキュメンタリーをご覧になりましたか。大谷翔平の二刀流を実現させ、日本ハムファイタースをリーグ優勝、日本一へと導き、さらに日本代表監督として侍ジャパンを世界一に導いた栗山英樹監督はどんなマジックを隠し持っていたのか。

  古い野球ファンはよくご存じですが、かつて西鉄の監督として巨人との日本シリーズで3連敗の後、4連勝を飾りみごと日本一となった名監督と言えば、三原脩監督です。あの「神さま、仏さま、稲尾さま」で有名な稲尾投手の4連投はいまだに語り継がれ、三原マジックと呼ばれました。

  この番組を見るまで全く知らなかったのですが、三原脩監督は、自らの野球に関する見分、そして、哲学を数冊もの大学ノートにぎっしりと記して残していたのです。そこには、プロ野球の監督として心に留めおくべき、多くの言葉が語られていたのです。栗山さんは、ジャーナリスト時代に三原さんの娘婿であった怪童中西太さんの元を訪れた際に、中西さんからそのノートを借り受けたのです。番組は、このノートの内容を紹介するとともに、そこから栗山さんが何を学び、何を実践したのかを紐解いていくのです。

  栗山監督が、メキシコ戦で不振だった村上選手に9回裏のあの場面を託したのはなぜだったのか。それは、栗山さんの選手を信じる信念との理由もありましたが、実は勝つための緻密な分析も伴ったうえでの決断だったのです。さらには、決勝戦で、あの究極の投手起用はどこから生まれてきたのか。この番組を見て、その采配は「マジック」のようにみえて、実は必然であったことがわかりました。

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(栗山監督 世界一の胴上げ mainichi.com)

  興味のある方は、4月15日の再放送をぜひご覧ください。

  それにしても、大リーグも日本のプロ野球も開幕を迎え、WBCで活躍した侍ジャパンの面々がそれぞれの球団で大活躍している姿を見ると、胸が躍ります。今年も野球が本当に面白い。

  さて、ブログの本題ですが、3月には、近年のコロナ禍ですっかりご無沙汰している、美術館と名画に関するエッセイ集を読んでいました。

「名画の生まれるとき 美術の力Ⅱ」 

(宮下規久朗著 光文社新書 2021年)

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(「名画の生まれるとき」 amazon.co.jp)

【なぜ人は絵画に惹かれるのか】

  このブログでは、これまで様々な美術館で開催された絵画展をご紹介してきましたが、コロナ禍に見舞われた3年間はまったく美術館に訪れることもなく、絵を鑑賞する機会は失われていました。しかし、絵画や造形美術には我々の心を動かす力があります。我々は良く「心が洗われる」との表現を使いますが、絵画を見た時の感動は、まさにこの表現がぴったりです。

  不思議なことに、ヨーロッパ印象派に連なる名作、ルネッサンス期の名画や彫刻、若冲の鶏、北斎や歌麿の浮世絵、名作と呼ばれる絵画をみると不思議なことに心を洗われるような気がします。それは、疲れた心が癒されることでもあり、落ち込んだ心に希望がさせものでもあり、生きる希望を感じるときでもあります。

  いったい、我々はなぜ絵画に心惹かれるのでしょうか。この本は、そんな問いかけに直接答えてくれるわけではありません。しかし、美術の専門家である著者が、さまざまな絵画を見て感じるところをつづる文章を読むと、紀元以来、人の心を動かし続けてきた絵画の謎の一端が紐解かれるような気がします。

  この本の目次をご紹介します。

第1章 名画の中の名画
第2章 美術鑑賞と美術館
第3章 描かれたモチーフ
第4章 日本美術の再評価
第5章 信仰と政治
第6章 死と鎮魂

  著者は、美術史家として、また大学教授として美術に対する深い造形と愛情をもって、これまで多くの本を上梓しています。この本は、2017年から2021年までの間に発表した文章を加筆修正し、再構成して上梓されたものです。

  本を読み進むと、この世の中にはいまだ知らない作者のいまだ知らない作品がいかにたくさんあるのか、ということを改めて感じます。

  この本のオープニングは、氏が専門としているイタリアのバロック美術、とくにその先駆者であったカラヴァッチョの絵画にまつわるエッセイとなります。カラヴァッチョといえば、若くして名画を描く一方、喧嘩っ早い乱暴者で、常に周囲ともめ事を起こし、殺人事件を起こしてローマを出奔、マルタやナポリでも事件を起こし、38歳で許しを請うためにローマに戻る途中、病死した画家です。

  しかし、その画力はすさまじく、バロック期の画家、ルーベンス、レンブラントに大きな影響を与えたと言われています。最初に語られるのは、そのカラヴァッチョのデビュー作である「聖マタイの召命」です。この絵は、キリストがマタイを召命するその場面を描いた絵画ですが、確かにこの絵は不思議な絵です。

  マタイは、税金を徴収する役人ですが、当時お金を扱う税収人は罪人と同じと考えられていました。キリストは、罪人であるマタイを弟子として召命するわけですが、この絵ではまるで居酒屋のような席に複数の男が描かれ、そこに入ってきたキリストがマタイを指さしているその瞬間を表わしています。問題は、いったい誰がマタイなのかよくわからないところです。キリストが指さしているので分かりそうなものですが、実際には、指さしている人物は3人描かれていて、その誰もが別の人物を指さしているように見えるからです。

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(カラヴァッチョ「聖マタイの召命」 Wikipedia)

  いったいマタイはどの人物なのか。著者の解題にはワンダーがあります。

【未知の芸術家が次々と】

  第1章は、よく知られている巨匠の絵画が次々と紹介されますが、章を重ねるにしたがって、私の知らない名前と作品が続々と登場します。

  例えば、若くして亡くなった現代のごく人アーティストであるミシェル・バスキア、15世紀の北方ルネッサンスの巨匠ファン=エイク、イギリスの作家でターナーのライバルと目されていた風景画の巨匠コンスタブル、海と波を描いてロシアでの人気を誇る画家アイヴァゾフスキー、などなど、これまで知らなかった作家たちが紹介されていきます。

  第4章では、日本美術の数々も語られますが、越後のミケランジェロと呼ばれる石川雲蝶、大正から昭和初期に活躍した木島櫻谷、日本のゴッホと呼ばれた浦上玉堂などなど未知の作家と作品が登場し、楽しむことができます。


  コロナ禍による制限も徐々に緩和され、これからは美術館で開催される展覧会も増えてくるものと期待しています。感染防止を自衛しながら、また絵画や芸術鑑賞を復活させていきたいと思わせる本でした。美術好きの皆さん、ぜひ手に取ってお楽しみください。新たなワンダーを味わえることと思います。

  それにしても毎日、メジャーリーグとプロ野球を見るのは楽しみです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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辻惟雄 よみがえる天才 伊藤若冲

こんばんは。

  美術史家の辻惟雄(のぶお)さんが1935年生まれと知って驚きました。

  時のたつのは早いもので、「生誕300年記念 若冲」と題された展覧会を東京都美術館で鑑賞し、そのあまりにも精緻な絵画に心から感動したのは2016年のことでした。

  辻惟雄さんは、そのときの図録の巻頭に「『若冲』という不思議な現象」という一文を寄せて、その人生の軌跡と主要な作品の美術的な意味を解説していました。当時すでに80歳を超えていらっしゃったわけです。

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(「若冲展」チラシ heritager.com)

  若冲の名は知っていましたが、その絵に初めて触れて、江戸時代にここまで緻密な色彩と現代的なデザインを描き印した画家が日本に存在していたこと自体が驚きでした。それよりも、その筆致のすばらしさと構図の斬新さに感動し、ことあるごとに図録を見返してはその感動を思い起こしていたのです。

  先日、本屋さんを歩いていると新書の棚に「よみがえる天才1 伊藤若冲」との題名が目に入りました。そして、著者の名前を見ると、図録の文章を寄せていた辻惟雄さんではありませんか。何はともあれその本を持ってカウンターに急いだのはいうまでもありません。

「よみがえる天才1 伊藤若冲」

(辻惟雄著 ちくまプリマー新書 2020年)

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(辻 惟雄著「伊藤若冲」 amazon.co.jp)

【伊藤若冲とは何者か】

  2016年の展覧会の目玉は、3幅の「釈迦三尊像」と30幅の「動植綵絵(どうしょくさいえ)」でした。

  東京と美術案での壮観な展示は、今でも忘れることができません。円形の会場には、360度ガラスショーケースがしつらえられており、その中央に「釈迦三尊像」が配置されてその両側をはるかに囲んで「動植綵絵」30幅が囲んでいるのです。まるでその空間は異次元のようで、若冲が心血を注ぎ描きあげた動植物の数々が我々の目に飛び込んでくる趣向となっているのです。

  その迫力はすさまじく、この絵が200年以上も前に描かれたという事実に衝撃を受けました。

  その極彩色の中にも繊細な変化を秘めた彩の万華鏡のような色彩。そして、動植物の造形のすばらしさ。そして、縦140cm、横80cmの大きさから大きくはみ出るような画像は、まるで現代アートのデザインのような斬新さにあふれていたのです。

  伊藤若冲は、とても長生きでした。若冲の30年後に生まれて江戸でその浮世絵の才能を開花させた葛飾北斎も88歳という長寿の天才でしたが、生涯を京都で過ごした若冲も亡くなったのは85歳の時でした。展覧会では、30代で描いた美しい鳳凰図や後の「群鶏図」を思わせる「雪中雄鶏図」や「「旭日鳳凰図」をはじめ、初期の絵画から墨絵や版画、フラスコ画など次々と新たな技法に挑んだ晩年の傑作まで傑作が続き、めくるめく若冲の世界を堪能することができました。

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(「動植綵絵 群鶏図」 wikipediaより)

  さて、展覧会では実際に若冲の作品を前にただただ感動するばかりでしたが、若冲はどのようにして世界にも稀に見る写実性の高い彩色日あふれる絵を描いたのか、それを系統だって知りたくてこの本を手に取ったのです。

  この本の前書きは、まるで自らの絵の未来を予言するような若冲の言葉で幕を開けます。

  それは若冲の元を訪れた川井桂山という医者によって記録された言葉です。「私は理解されるまで1000年の時を待つ。」それは、どんな気持ちから出た言葉なのでしょうか。

  若冲は、代表作「動植綵絵」を半ばまで進めたところでこの言葉を語ったのですが、それはまるで自らを予言するような言葉だったと著者は語ります。なぜなら、生前には世にその名声がとどろいていた若冲は、明治以降、日本ではまったく取り上げられることはなくほとんど無名の画家になったというのです。そして、戦後、若冲を見出したのは日本人ではなく、アメリカのエンジニアであったジョー・プライスというアメリカ人でした。

  展覧会にプライスコレクションと呼ばれる若冲の名画が惜しげもなく出展されていました。そうプライス氏は、若冲の絵を収集しましたが、決して個人で秘蔵するつもりはなく、逆に「里帰り展」や東日本大震災時には日本での若冲展を企画するなど、若冲の故郷を非常に愛してくれていたのです。辻さんは、若いころに日本の古美術商を回って若冲の絵を収集するプライスさんと出会っています。そして、若冲を通じてプライス氏と友情をはぐくみます。

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(プライスコレクション「紫陽花双鶏図」wikipedia)

  そのいきさつは、この本にもちゃんと記録されています。

  ところで、1000年を待つといった若冲ですが、その画は1000年待つことなく日本人に再発見されることになります。それは、21世紀になってからのことですが、若冲がこの予言を発してから250年後が現在です。若冲の予言は、思った以上に早く実現することになったのです。

【伊藤若冲の謎を解く】

  この本の著者は、半世紀にわたって若冲を研究してきた若冲の第一人者です。若冲の名前が埋もれていた時代に、「奇想の系譜」という著作の中でいち早く若冲の天才を取り上げ、20世紀末から21世紀にかけて様々な若冲の展覧会にもかかわり、若冲の絵画の魅力を我々に紹介してくれた美術史家です。

  この本で描かれる若冲にはいくつかの謎があります。

  ひとつは、その人生の全貌。そして、もうひとつは我々を引きつけて止まない若冲絵画に隠された謎です。

  辻氏は、その二つの謎を時代の背景、若冲85年の人生を追いながら、その時々の作品を紐解いていくことで2つの謎を並行して紐解いていきます。

  話は変わりますが、この5年ほど仕事で京都地区を担当しています。いつも仕事で寄る事務所は南北に走る烏丸通に面しています。すぐ南には東西に走る四条通があり、まさに京都の繁華街と言ってもよい場所にあります。この四条通には、大丸デパートがありますがその北側の路地を東に進んでいくと、そこに昔の面影を残す錦市場があります。

  2016年、若冲生誕300年を迎えた年にたまたまお昼ご飯を食べに烏丸方向へと向かったところ、地元職員が「この先に錦市場があるから見に行きましょう。」と誘ってくれました。四条通の路地を歩いていくと正面に「錦市場」との看板を掲げたアーケードが見えてきます。

  錦通りは、雑然としたまさに市場ですが、乾物屋あり、八百屋あり、魚屋あり、雑貨屋あり、味噌屋あり、喫茶店ありと、とにかく騒然としていて、外国人や観光客でごった返していました。驚いたことに、そのアーケードの真下に、「若冲生誕の地」という鶏が描かれた独立看板が立っているではありませんか。それもそのはず、その入り口の角は若冲が生まれた青物問屋「桝源」があった場所だったのです。

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(錦市場入口 若冲生誕の表示塔)

  そうです、今や観光地として常ににぎわっている錦市場。こここそが若冲由来の街だったのです。

  青物問屋とは、野菜を作る農家と庶民に野菜を売る八百屋さんをつなぐ問屋です。若冲は、1716年に「桝源」の四代目として生まれました。「桝源」は、本業としても栄えていて、本業の他にも不動産の賃貸業などで比較的裕福だったそうです。おそらく、少年のころから若冲は絵画に興味を持ち、絵画が大好きであったに違いありません。

  ところが、若冲が23歳のとき、父親である3代目伊藤源左衛門が42歳で亡くなります。長男であった若冲は、4代目伊藤源左衛門として跡を継ぐことになったのです。

  若冲と言えば、その師とも友人とも語られる同世代の禅僧である大典顕常の名が必ず登場します。大典は、歴史ある相国寺で修業し、そこに庵をかまえていましたが、若冲の「動植綵絵」は、「釈迦三尊像」とともに相国寺に寄進された絵画だったのです。

  その大典の残した文章によれば、若冲は、「勉強が嫌いで、字も下手で、世の中に技芸はいろいろあるけれど何一つ身につけることがなかった。」と記されています。それでよく青物問屋の主が勤まったなと思いますが、考えてみれば、今もこんなサラリーマンはざらにいます。若冲のすごさは、別の文章に記されています。曰く、「丹青に沈潜すること三十年一日のごときなり。」つまり、絵を熱心に描いて30年になる、というのです。

  若冲の絵画好きは、「好き」の域をはるかに超えていたのです。

  若冲の絵を見ると、たぐいまれなその表現と細部にまでこだわる緻密さに、とても常人ではないと思われますが、常識がなければ青物問屋の主人はとうてい勤まりません。若冲は確かに天才に間違いありませんが、決して我々と異なる奇人ではなかったのです。

  若冲は17年間「桝源」を切り盛りした後、40歳にして家督を弟に譲り、念願の絵画専念の生活に入ることになります。人の寿命が50年と言われた時代を考えれば、今のサラリーマンが60歳で定年となり、自分のやりたいことに専念するところと変わりがないと思うと、この天才にわずかに親近感を覚えます。

  さて、実は若冲には謎の4年間が存在します。

  「釈迦三尊像」と「動植綵絵」を完成させ、相国寺に寄進した55歳から、その絵筆がピタリと止んでいるのです。60歳からは再び名画の数々を世に送っているので、いったいこの期間何があったのか、なぜ筆を折っていたのかが分からなかったのです。しかし、20世紀の末、ある文章が発見されたことにより、この4年間の空白の謎が解き明かされました。その真実はこの本でお楽しみください。

  若冲への親しみがより深まること間違いなしです。

  さて、いよいよ若冲の素晴らしい絵画群の謎について。この本ではその奥深い謎をあらゆる角度から問い詰めていくのですが、その謎解きの数々はぜひこの本を読んで確かめてみて下さい。

  ひとつだけお話しすると、それは「裏色彩」の謎です。

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(裏色彩の波「群魚図」wikipediaより)

  「動植綵絵」はある事情で相国寺から宮内庁へと献上されましたが、宮内庁では1999年から5年間をかけて大規模な解体修復が行われ、その際に絵の裏面の調査研究が行われました。その中で判明したのは、作品に合わせて数多くの部分で膨大な裏色彩による色絵付けを施していたことでした。例えば、空や地面、波などの背景を描く中で、若冲は赤や青や緑、黄色などの色を裏色彩によって塗り分けることで、淡い濃淡を表現していたことが分かったのです。

  最も裏色彩が効果的に使われていたのは、「白」でした。「動植綵絵」では、「老松白鳳図」や「牡丹小禽図」など鮮やかな城に目を見張る作品が多くあります。「白鳳図」では真っ白な翼に黄金色の色彩がまぶされており、その輝きに目を見張ります。その輝きは裏側から黄土を塗り、表の白い色の厚さを変えることにより、黄金が透けて見えるという技法が使われていたのです。

  若冲は、その絵画において高度な技法を自家薬籠のものとして、その絵画世界を作り上げていたのです。それ以外にも、自らの絵画にすべてを注ぎ込んだ若冲の絵画の謎は、この本の中で次々と解き明かされていくことになるのです。


  この本を読んでいる間、まるで若冲展を再び鑑賞している気持ちになり、時間を忘れてそのワンダーに引き込まれました。

  皆さんもぜひ「若冲」の世界を味わってみて下さい。日本人に生まれた幸せを味わえること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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大竹昭子 須賀敦子、心の軌跡

こんばんは。

  本屋さんで「須賀敦子」という文字を見ると、自然に反応してしまいます。

  3年ほど前に文庫化された湯川豊氏の「須賀敦子を読む」を本屋さんでみつけたときにも、その場で手に入れてアッと言う間に読んでしまいました。湯川さんは生前の須賀さんと編集者として二人三脚で歩んでいた方で、須賀敦子文学の卓越した評論者であるだけではなく、心から須賀さんに寄り添った愛情あふれる著書を上梓したのでした。

  この本を読むと、須賀さんの文学に対する意志は物心つくころからすでに形成されていて、自らを生きることに常に真剣であり、様々な変遷を経て生き抜く間にも常に「書く」ことを意識していたことが良く理解できます。須賀さんが60歳近くに自らの文章を練り上げて、読む人の心に限りない郷愁とはかなさを感じさせることができたのも、それまでの「書く」ことに対する鍛錬が実を結んだからに他ならないのだと思います。

  語られるエピソードと語る言葉が一体となって、人の心に潜む様々な思いをいつも感じさせてくれるのです。

  そんな中で先日本屋さんを巡っていると、またしても「須賀敦子」という言葉が目に飛び込んできました。すぐに購入したのは言うまでもありません。

「須賀敦子の旅路」(大竹昭子著 文春文庫 2018年)

  この本は、2001年から2002年にかけて3冊に渡って上梓された単行本を底本としています。それは「須賀敦子のミラノ」、「須賀敦子のヴェネツィア」、「須賀敦子のローマ」と題された随筆です。須賀敦子さんは19983月に惜しまれつつ帰らぬ人となりましたが、その理知的でありながら心に染み入る美しい文章は、60歳でデビューするや文学界に衝撃をもたらしたと言います。

  大竹さんも須賀敦子さんの文章に魅せられた一人で、須賀さんの生前から親交を深めたと言います。昨年は没後20年という節目の年となり、過去に上梓した文章に新たに「須賀敦子の東京」ともいえる「東京編」を加えて文庫本として上梓したものが本書となります。

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(文庫「須賀敦子の旅路」 amazon.co.jp)

【旅路は原点 ミラノから】

  須賀さんのデビュー作は「ミラノ 霧の風景」です。

  このデビュー作には、須賀敦子さんの12のエッセイが重ねられています。相当に悩みつつ作品を選んだと思われますが、選ばれているのは長く暮らしたミラノから仕事や旅で訪れたイタリアの各都市でのエピソードや想いを書き綴っています。そこに記された都市は、ジェノワ、トリエステ、ヴェネツィア、ナポリ、ベルージャ、など多彩です。

  この作品は、講談社エッセイ賞、女流文学賞を受賞していますが、上梓された当時には「ミラノ 霧の風景」のような随筆のあり方はなかったのではないかと思います。随筆と言えば、有名作家が日常を綴ったり、交遊録を記したり、趣味や食べ物の話をする文章を思い起こします。また、都市を訪れるのであれば、旅行記としてその地を紹介する文章を思い起こします。

  須賀敦子さんのエッセイは、それ自体が文学作品であり、文章そのものが我々に様々な思いを語りかけてきて、我々の心を動かしていきます。例えば、デビュー作の題名となっている「霧」ですが、エッセイでは次のように記されています。それは、一片の詩のように響いてきます。

  「乾燥した東京の冬には一年に一度あるかないかだけれど、ほんとうにまれに霧が出ることがある。夜、仕事を終えて外に出たときに、霧がかかっていると、あ、この匂いは知っている、と思う。十年以上暮らしたミラノの風物でなにがいちばんなつかしいかと聞かれたら、私は即座に「霧」とこたえるだろう。」

  須賀敦子さんは、13年間暮らしたミラノでの生活の中で、日本文学をイタリア語に翻訳したり、イタリアの文学を日本語に翻訳することを仕事としていました。彼女はその中で、書き手が文章を書くと言う行為、想いを言葉にする方法、を客観的に見る術を身に着けたのだろうと想像します。なので、須賀さんの文章は、自分を外から見てその内側にある感情や感性を豊かに語る文章となっているのだと思います。

  竹内昭子さんは、この「須賀敦子の旅路」をまずミラノの旅からはじめています。

  なぜならば、「ミラノの霧」の言葉に込められているように、「ミラノ」を生きた須賀敦子さんこそが、その後の人生の原点であったと言っても過言ではないからなのです。竹内さんは、須賀敦子さんの透徹した文章はなぜその文章なのか。そのことを知るためにミラノ、ヴェネツィア、ローマを訪問し、そこで感じた須賀敦子さんを記憶と文章にとどめています。それは、結果として須賀敦子さんの文学の魅力を改めて解き明かす旅となりました。

  例えば、「ミラノ 霧の風景」に収められたエッセイに「鉄道員の家」という1篇があります。

  須賀敦子さんは、195829歳のときに2度目の留学先としてイタリアに渡ります。須賀さんはもともとキリスト教カトリックの考え方に強い想いをもっていましたが、ミラノの教会内にあるコルシア書店を知って、そこでの触れあい、議論、会話に魅入られます。そのテーマは宗教における思想と行動、との狭間にある何かでした。そして、そこで書店の運営に協力していたベッピーノォと知り合って1960年に結婚するのです。

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(書店のあったサン・カルロ教会 4travel.jp)

  結婚とは、ベッピーノォだけではなく、その家族と一緒になるということです。ベッピーノォの父親はミラノ・ローマ線の鉄道員であり、その住まいは鉄道員官舎だったのです。このエッセイは自分が嫁いだ実家の家を描いていました。竹内さんはミラノの旅で須賀さんの住んだアパート、毎日通っていたコルシカ書店、などゆかりの地を巡っていますが、このご両親の実家にも訪れています。

  須賀さんが暮らしたころからは、すでに40年のときが過ぎていたのですが、その鉄道員宿舎は当時のとおりその場所に建っていたのです。そこから見える裏の原っぱも全く変わらず、あまつさえ、線路を切り替える装置のある鉄道小屋も当時のまま残っており、その係員が声をかけてくれて、わざわざ鉄道小屋の中にまで招き入れてくれます。

  そうした中で、大竹さんは、須賀さんの両親の実家のベットの中で、寒い夜に線路のうえで汽車の車輪が軋む音が長い時間続き、その音で異文化の中にいる日本人である自分を感じていたとの文章を思い出して、その孤独に想いを馳せることになります。

【ヴェネツィア、そしてローマ】

  ミラノは、須賀さんがイタリアでの13年間のほぼすべてを過ごした地でしたが、ヴェネツィアとローマは少し趣が異なる地となります。

  1967年、結婚の6年後に須賀さんの夫ベッピーノォは病気によって急逝しました。そして、その傷をいやす暇もなく、母親の病気が悪化し日本に一時帰国。母親の病気は小康を得ましたが、祖母が亡くなり、さらに父親はがんに侵されます。ミラノにベッピーノォの家族を残してきた須賀さんは、その父親を日本に残してミラノへと戻ります。

  イタリアの人たちは、ヴァカンスの時期になると誰もが休暇を取り避暑地へと出かけてしまいます。避暑に出かけないのは、家族がいないか、よほどお金のない貧乏人だけであり、ミラノはその時期には人っ子一人いなくなります。長く過ごしたミラノの友人たちは、傷心の須賀敦子さんに心を寄せて避暑に誘ってくれますが、彼女自身は同情を寄せられているような気がしてすべて断ってしまいます。

  そんな中、昔からの友人であるドイツ人のインゲからヴェネツィアのリド島で部屋をシェアして過ごそうと誘われます。他の友人たちは自分をなぐさめようと誘ってくれるのに比べて、インゲは他の友人と割り勘で、とフラットに誘ってくれたので、須賀敦子さんは心を解いてヴェネツィアへと出かけるのです。著者の竹内さんは、須賀さんの後を追うように30年後にリド島を訪れます。

  須賀さんがヴェネツィアを訪れた経緯は、亡くなった後に上梓された「地図のない道」に載った作品に記されています。その旅は、須賀さんが日本に帰国した後に大学で日本文学の研究のために再びヴェネツィアを訪れた旅へとつながっていきます。須賀さんが大好きだったと言うザッテレ河岸の描写はまるで竹内さんが須賀さんと想いを一つにして語り合っているように思えて、心が温かくなりました。

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(須賀敦子さんが愛したザッテレ河岸 4travel.jp)

  あらためて、「地図のない旅」を読みたいと心を新たにします。

  さらにローマの旅は、1958年に須賀さんが29歳にて一度帰国した日本から再びイタリアへの留学へと踏み切った新たな人生がスタートを切ります。巻末に掲載されている須賀さんへのロングインタビューで、竹下さんの「カトリックに関してお話ししてください。」との質問に「その話はあまりに長い話になるので、ここではやめておきます。」と答えていますが、ローマには、キリスト教カトリックの総本山バチカン公国があり、その中心には聖ピエトロ教会の荘厳な建物がそびえています。

  須賀さんが二度目の留学でローマの寄宿舎に入った年、聖ピエトロ教会では教皇ピウス12世が亡くなり、コンクラーヴェが行われました。新たな教皇には76歳のロンカッリ枢機卿が選ばれ、ヨハネ23世となりました。ヨハネ23世は約5年間教皇を務めて亡くなりましたが、その遺体は腐ることがなく、ヨハネ・パウロ2世によって祝福されました。大竹さんの旅は、ちょうどこのヨハネ23世の復活祭の日と重なっていました。

  須賀さんのローマには、氏の人生にとって重大なテーマが埋められています。

  カトリック教会の教皇ももちろんですが、須賀さんが文学の方法に導かれたイタリアの作家ナタリア・キンズブルグやローマの街角で偶然に出会った彫刻家ファッツィーニとその弟子の日本人Oさんとの邂逅。さらには、「ハドリアヌス帝の回想」を記したユルスナールを追った「ユルスナールの靴」にも通じています。第二の留学先をイタリアとした須賀さんにとって、ローマはカトリックと芸術、そして文学と深く交わった地だったのです。

  大竹さんは、「私」として語られる「須賀敦子」の足跡を追ってローマを巡っていきます。

【須賀敦子さんの東京】

  ミラノ、ヴァネツィア、ローマで「須賀敦子」の心を追った旅は、須賀敦子さんが亡くなったのちに、その人生と文学を改めて問い直すために行われたものでした。今回、3分冊で語られた旅が一冊の本にまとまられたわけですが、この文庫には新たな「須賀敦子」への旅が記されています。

  それは、東京編です。

  須賀さんは、1967年夫のベッピーノォ氏を突然の病気で失ってからも家族を支えてミラノに留まっていましたが、1971年意を決して日本に帰国しました。氏が最初の作品を上梓したのは1990年ですから、帰国からデビューまで20年近い歳月を日本で過ごしていたことになります。その作品は、まるで昨日までイタリアに住んでいたような新鮮で繊細な筆致で穏やかに記されています。いったいなぜ、作品を上梓するまでにそれだけの歳月が必要だったのか。

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(須賀敦子全集 第1巻 amazon.co.jp)

  竹内さんは、「ローマ編」の最後の「ノマッッドのように」で、イタリアから帰国してから自らの文学を創造するまでの間、須賀敦子の中でどのような葛藤があり、何が自らの作品の執筆のきっかけとなったのか。そのことに想いを致し、なんとか謎を解消しようと言葉を重ねています。しかし、それはひとつの仮説を述べたにすぎないのです。

  それから18年の年月を経て、今、改めて東京において須賀敦子さんがどのような生を生きたのか。そのことに再び挑んだのです。

  その旅は、これまで知ることのなかった日本での遍歴の中で城あった人々への取材と須賀さんの足跡を追いかけることで成し遂げられます。これまで知られていなかった人々との深い交流。その証言によって、須賀敦子さんの生きることにかけた想い、そして文学に託した思いが解き明かされていくのです。

  その美しい文体を手に入れるまでの変遷、その文体で我々に届けたかった想いとは何か。須賀敦子さんが思い描いていた「文学」とはなにか。

  皆さんもこの本で、その謎を解き明かす旅を味わってください。生きることの深みを知ることができるに違いありません。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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