沢木耕太郎 人生の「在り方」を描く

こんばんは。

  久しぶりに沢木耕太郎さんの作品を読み終えました。

  沢木さんと言えば、日本を代表するノンフィクションライターですが、今回読んだ本は上下巻に渡る小説です。この小説は、佐藤浩市さんと横浜流星さんの主演で映画化され、昨年公開されたのでご存じの方も多いのではないでしょうか。

「春に散る」(沢木耕太郎著 朝日文庫上下巻 2020年)

【ボクシングを描いたフィクション】

  この小説は、ある初老の男の最後の1年間を描いているのですが、その主人公、広岡仁一は、かつて世界チャンピオンを目指してアメリカに渡った元プロボクサーなのです。

  沢木耕太郎さんについては、迫真の著書、「キャパの十字架」を紹介したときに記しましたが、その独自の手法から紡ぎ出されるノンフィクションの文章は、我々の胸に迫ってくるものがあります。それは、取材の対象そのものに迫るためのアクションの見事さからはじまり、その中から生まれてくる言葉を、自ら第三者の目でとらえなおして、綴られる文章であり、そのアプローチの方向と深いところにまでたどり着く感性が読者の心に響いてくるのです。

  2000年以降、沢木さんは小説も上梓していますが、これまで、沢木さんの小説にはあまり興味がわきませんでした。しかし、ボクシングを題材とした小説であれば話は別です。

  沢木さんが、自らのノンフィクションへのアプローチ方法を深めて上梓した作品が、1981年に上梓された傑作ノンフィクション「一瞬の夏」でした。この作品に描かれたのがまさにボクシングの世界だったのです。

  はじまりは、沢木さんが2冊目の作品として上梓したノンフィクション作品集「敗れざる者たち」に収められた小編「クレイになれなかった男」でした。

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(文春文庫「敗れざる者たち」 amazon.co.jp)

  「敗れざる者たち」は、スポーツノンフィクションの先駆けとなる作品集でしたが、この本の最初を飾った作品が「クレイになれなかった男」と名付けられたあるボクサーのノンフィクション作品でした。当時は、ルポルタージュと呼ばれていました。主人公は、かつてミドル級の東洋チャンピオンだったカシアス内藤、というプロボクサーです。

  彼は、かつて、6人の日本人世界チャンピオンを育て上げた名トレーナー、エディ・タウンゼントから世界チャンピオンとなった藤猛や海老原博幸よりもボクシングがうまく、才能があると呼ばれたほどのボクサーでした。そして、東洋チャンピオンにまで駆け上がりました。

  そのリングネーム、「カシアス」は世界最強のボクサーと言われたカシアス・クレイから命名された名前です。カシアス・クレイは、その後モハメッド・アリと改名しました。しかし、カシアス内藤はその才能にもかかわらず、東洋チャンピオンのタイトルを韓国のボクサー柳済斗に奪われます。そして、この作品では、柳済斗との4度目のタイトル戦が描かれますが、それはすでに柳のコンディションのための対戦ととらえられていました。

  しかし、取材する沢木さんは、カシアス内藤がすべての力を出し切って燃え尽きることを願っていたのです。その後、彼はボクシングの表舞台に姿を現さなくなりました。

  そして、ここから沢木さんにとっての第2章がはじまります。

  カシアス内藤は、1978年にプロボクシングの試合に突然復帰します。そして、そのカシアス内藤を沢木光太郎は徹底的に取材します。その取材は、決して外からの取材ではなく、カシアス内藤とそのトレーナーと一体となって、生活を共にし、練習から試合のマッチアップまでをすべてともに作り上げていくという、自分までもルポルタージュの対象としてしまうプロセスになったのです。

  その「『私』ノンフィクション」ともいえる物語は、1981年に「一瞬の夏」という素晴らしいノンフィクション作品に結実します。

  沢木さんは、1978年に上梓した「テロルの決算」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、思わぬ印税収入を手にしました。「一瞬の夏」は、その印税を復帰するカシアス内藤との生活に使おうと決意する場面がとても印象的でした。

  いったい、世界に届くだけの才能を認められたプロボクサーがなぜ燃え尽きるまでボクシングを極めることができなかったのか。その疑問に対する、数え切れないほどの要素が、毎日の生活のうちに垣間見ることができます。しかし、トレーナーとボクサーと沢木の3人は、すべてのことを乗り越えて、ボクシングに対する情念を燃焼し尽くすことを目標に邁進していきます。

  そして、ついに因縁のソウルで、時の東洋王者であった朴鐘八とタイトルを懸けて戦うことになるのです。

  沢木さんの「一瞬の夏」は、読みすすむうちに心を突き動かされ、共感し、感動する、初めて味わうノンフィクションの名作でした。ここから、沢木耕太郎さんの大ファンとなったことに間違いはありません。そして、この本は沢木さんに第1回新田次郎文学賞をもたらしました。

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(新潮文庫「一瞬の夏 上巻」amazon.co.jp)

  そして、沢木さんは、かつてすべてを注ぎ込んだボクシングを舞台にして小説を書き上げました。

【小説の感動は細部にこそ宿る】

  沢木さんは、この小説を一人の男の生き方でも死に方でもなく、在り方を描こうと思ったと語っています。

  その言葉は、最後の章を読み切ったときに始めて納得できます。主人公の広岡仁一の在り方を描いて、感動を生む物語ですが、小説が人の心を動かすのは、そこにリアルがなければなりません。そして、リアルを生み出すのは、日常生活では気づくことがない感情や出来事を積み重ねていくプロセスに他なりません。

  そして、ボクシングとボクサーの世界を知り尽くした沢木さんだからこそ、感動を生む物語を創造することができたのではないでしょうか。

  以下、ネタバレとなります。

  広岡仁一は、かつてボクシングの世界チャンピオンになるために日本を飛び出して、アメリカに渡りました。そこで、3試合を戦い、無敗のまま世界ランキング5位までランクを上げます。しかし、4試合目にTKO 負けを喫してボクシングをやめてしまします。その後は、まさに底辺を味わいながら苦労に苦労を重ねてホテルのオーナーにまで登りつめ、食べるのに困らない暮らしを手に入れました。

  物語は、広岡が心臓発作を起こし手術を受けなければ命が危ないと宣告されるところから始まります。いったい自分は何を望むのか。キーウェストを訪れた広岡は、遙か遠くにかすむキューバの島影を見ながら、突然、40年ぶりに日本に帰ることを決意します。

  ここから、濃密な小説世界が展開されていくことになります。

  小説は本当に読み応えのある作品なのですが、それは、沢木さんが培ってきたボクシングに対する造形とボクサーの心の繊細な描写のたまものです。

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(朝日文庫「春に散る 上巻」amazon.co.jp)

  例えば、広岡が日本に帰ることを決断するキーウェストで、たまたま寄った街のカフェでボクシングの試合が放映されていました。ボクシングに距離をおいてきた広岡ですが、ナカニシというアナウンスを耳にして、その試合に日本人がマッチしていることに惹かれてその試合に目を向けます。

  試合は、1818勝世界ランク1位の黒人選手ブラウンとナカニシと呼ばれる元日本チャンピオンとの一戦でした。ナカニシは、次にチャンピオン戦にチャレンジするであろう黒人選手のかませ犬として試合が組まれているのは明らかでした。

  試合は予想通どおり第1ラウンドからブラウンが一方的にパンチを繰り出し、ナカニシはディフェンス一方の展開になります。ブラウンのパンチは強力でディフェンスの上からでも威力があり、ナカニシは徐々に追い込まれていきます。しかし、ナカニシは第5ラウンドまでディフェンスに徹して、しのぎきります。第6ラウンド、業を煮やしたブラウンは、ラッシュを懸けてナカニシをロープに追い込みます。

  誰もがブラウンのノックアウト勝ちを確信します。ブラウンが後ろにのけぞるナカニシに最後の一撃とばかりにボディに渾身のフックを打ち込みます。その瞬間、ブラウンの左ボディにナカニシのカウンターが打ち込まれました。ブラウンはスピンスするように回転し、マットに沈みました。そして、一度起き上がりかけたブラウンですが、再度床に落ち、10カウントが数え終わります。

  ナカニシは、カウンターの右フックを打ち込んだ直後、さらにフックをブラウンのあごにたたき込んだのです。ナカニシは、インタビューで、ブラウンの試合をビデオで何度も何度も見て、ラッシュの時に左のディフェンスが下がる癖があることを見つけた、ブラウンのディフェンスが空くのはこのときだけ、そこに1%の勝機を懸けました、そう語りました。

  それは、まるでアリがフォアマンを倒した試合の再現のようでした。広岡は、ボクシングの奥深さに改めて心を奪われるとともに自らのボクシングを顧みることになるのです。

  序章からいきなりこうしたエピソードが語られ、我々はボクシングの深遠な世界へと引き込まれていくことになります。

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(映画「春に散る」ポスター)

  物語は、何の当てもなく日本に帰ってきた広岡が、かつて所属した真拳ジムを訪れ、その近所に古いアパートを借りるところから展開していきます。

  沢木さんの筆は、広岡の視点と記憶から様々のディテールを描き込んでいきます。真拳ジムに広岡が入所したとき、同時期に4人のプロがジムに所属して合宿生活を送っていました。ジムではこの四天王と呼ばれた4人を世界チャンピオンに育て上げるとの目標を掲げていました。この4人の存在感がこの小説を面白くしていきます。広岡以外の3人の人生もさることながら、40年前の姿までがリアリティを持ちます。広岡のクロスカウンター、佐瀬健三のジャブ三段打ち、藤原次郎のインサイドアッパー、星弘のキドニー寸前のボディフック、それぞれが必殺技を持ち、その個性が際立っているのです。

  この小説は、その長さをまったく意識させない面白さにあふれています。小説には、欠かせない愛すべきキャラクターも登場します。その名は、土井佳菜子。彼女は若い女性でふとしたことから知り合うのですが、彼女には研ぎ澄まされた第六感が備わっています。いったいなぜ?その人生の秘密は下巻の第17章で明らかになります。お楽しみに。

  さらには、小説の終わり近くには、世界チャンピオンのベルトを持ちながら23才で交通事故のため夭折したボクサー、大場政夫の名前も語られます。

  長編小説には、その小説の独自な時間が流れています。この小説にはボクシングを触媒にして、ある人生を築いてきた男の1年間の「在り方」が語られています。そこに刻まれる時間は、我々をワンダーな世界へと運んでくれます。


  皆さんもこの小説で、時間を忘れて主人公の、さらには沢木耕太郎さんの語る人生の在り方を味わってみてはいかがでしょうか。自分のこれからの人生を見直してみたくなること間違いなしです。

それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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沢木耕太郎 人生の「在り方」を描く

こんばんは。

  久しぶりに沢木耕太郎さんの作品を読み終えました。

  沢木さんと言えば、日本を代表するノンフィクションライターですが、今回読んだ本は上下巻に渡る小説です。この小説は、佐藤浩市さんと横浜流星さんの主演で映画化され、昨年公開されたのでご存じの方も多いのではないでしょうか。

「春に散る」(沢木耕太郎著 朝日文庫上下巻 2020年)

【ボクシングを描いたフィクション】

  この小説は、ある初老の男の最後の1年間を描いているのですが、その主人公、広岡仁一は、かつて世界チャンピオンを目指してアメリカに渡った元プロボクサーなのです。

  沢木耕太郎さんについては、迫真の著書、「キャパの十字架」を紹介したときに記しましたが、その独自の手法から紡ぎ出されるノンフィクションの文章は、我々の胸に迫ってくるものがあります。それは、取材の対象そのものに迫るためのアクションの見事さからはじまり、その中から生まれてくる言葉を、自ら第三者の目でとらえなおして、綴られる文章であり、そのアプローチの方向と深いところにまでたどり着く感性が読者の心に響いてくるのです。

  2000年以降、沢木さんは小説も上梓していますが、これまで、沢木さんの小説にはあまり興味がわきませんでした。しかし、ボクシングを題材とした小説であれば話は別です。

  沢木さんが、自らのノンフィクションへのアプローチ方法を深めて上梓した作品が、1981年に上梓された傑作ノンフィクション「一瞬の夏」でした。この作品に描かれたのがまさにボクシングの世界だったのです。

  はじまりは、沢木さんが2冊目の作品として上梓したノンフィクション作品集「敗れざる者たち」に収められた小編「クレイになれなかった男」でした。

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(文春文庫「敗れざる者たち」 amazon.co.jp)

  「敗れざる者たち」は、スポーツノンフィクションの先駆けとなる作品集でしたが、この本の最初を飾った作品が「クレイになれなかった男」と名付けられたあるボクサーのノンフィクション作品でした。当時は、ルポルタージュと呼ばれていました。主人公は、かつてミドル級の東洋チャンピオンだったカシアス内藤、というプロボクサーです。

  彼は、かつて、6人の日本人世界チャンピオンを育て上げた名トレーナー、エディ・タウンゼントから世界チャンピオンとなった藤猛や海老原博幸よりもボクシングがうまく、才能があると呼ばれたほどのボクサーでした。そして、東洋チャンピオンにまで駆け上がりました。

  そのリングネーム、「カシアス」は世界最強のボクサーと言われたカシアス・クレイから命名された名前です。カシアス・クレイは、その後モハメッド・アリと改名しました。しかし、カシアス内藤はその才能にもかかわらず、東洋チャンピオンのタイトルを韓国のボクサー柳済斗に奪われます。そして、この作品では、柳済斗との4度目のタイトル戦が描かれますが、それはすでに柳のコンディションのための対戦ととらえられていました。

  しかし、取材する沢木さんは、カシアス内藤がすべての力を出し切って燃え尽きることを願っていたのです。その後、彼はボクシングの表舞台に姿を現さなくなりました。

  そして、ここから沢木さんにとっての第2章がはじまります。

  カシアス内藤は、1978年にプロボクシングの試合に突然復帰します。そして、そのカシアス内藤を沢木光太郎は徹底的に取材します。その取材は、決して外からの取材ではなく、カシアス内藤とそのトレーナーと一体となって、生活を共にし、練習から試合のマッチアップまでをすべてともに作り上げていくという、自分までもルポルタージュの対象としてしまうプロセスになったのです。

  その「『私』ノンフィクション」ともいえる物語は、1981年に「一瞬の夏」という素晴らしいノンフィクション作品に結実します。

  沢木さんは、1978年に上梓した「テロルの決算」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、思わぬ印税収入を手にしました。「一瞬の夏」は、その印税を復帰するカシアス内藤との生活に使おうと決意する場面がとても印象的でした。

  いったい、世界に届くだけの才能を認められたプロボクサーがなぜ燃え尽きるまでボクシングを極めることができなかったのか。その疑問に対する、数え切れないほどの要素が、毎日の生活のうちに垣間見ることができます。しかし、トレーナーとボクサーと沢木の3人は、すべてのことを乗り越えて、ボクシングに対する情念を燃焼し尽くすことを目標に邁進していきます。

  そして、ついに因縁のソウルで、時の東洋王者であった朴鐘八とタイトルを懸けて戦うことになるのです。

  沢木さんの「一瞬の夏」は、読みすすむうちに心を突き動かされ、共感し、感動する、初めて味わうノンフィクションの名作でした。ここから、沢木耕太郎さんの大ファンとなったことに間違いはありません。そして、この本は沢木さんに第1回新田次郎文学賞をもたらしました。

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(新潮文庫「一瞬の夏 上巻」amazon.co.jp)

  そして、沢木さんは、かつてすべてを注ぎ込んだボクシングを舞台にして小説を書き上げました。

【小説の感動は細部にこそ宿る】

  沢木さんは、この小説を一人の男の生き方でも死に方でもなく、在り方を描こうと思ったと語っています。

  その言葉は、最後の章を読み切ったときに始めて納得できます。主人公の広岡仁一の在り方を描いて、感動を生む物語ですが、小説が人の心を動かすのは、そこにリアルがなければなりません。そして、リアルを生み出すのは、日常生活では気づくことがない感情や出来事を積み重ねていくプロセスに他なりません。

  そして、ボクシングとボクサーの世界を知り尽くした沢木さんだからこそ、感動を生む物語を創造することができたのではないでしょうか。

  以下、ネタバレとなります。

  広岡仁一は、かつてボクシングの世界チャンピオンになるために日本を飛び出して、アメリカに渡りました。そこで、3試合を戦い、無敗のまま世界ランキング5位までランクを上げます。しかし、4試合目にTKO 負けを喫してボクシングをやめてしまします。その後は、まさに底辺を味わいながら苦労に苦労を重ねてホテルのオーナーにまで登りつめ、食べるのに困らない暮らしを手に入れました。

  物語は、広岡が心臓発作を起こし手術を受けなければ命が危ないと宣告されるところから始まります。いったい自分は何を望むのか。キーウェストを訪れた広岡は、遙か遠くにかすむキューバの島影を見ながら、突然、40年ぶりに日本に帰ることを決意します。

  ここから、濃密な小説世界が展開されていくことになります。

  小説は本当に読み応えのある作品なのですが、それは、沢木さんが培ってきたボクシングに対する造形とボクサーの心の繊細な描写のたまものです。

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(朝日文庫「春に散る 上巻」amazon.co.jp)

  例えば、広岡が日本に帰ることを決断するキーウェストで、たまたま寄った街のカフェでボクシングの試合が放映されていました。ボクシングに距離をおいてきた広岡ですが、ナカニシというアナウンスを耳にして、その試合に日本人がマッチしていることに惹かれてその試合に目を向けます。

  試合は、1818勝世界ランク1位の黒人選手ブラウンとナカニシと呼ばれる元日本チャンピオンとの一戦でした。ナカニシは、次にチャンピオン戦にチャレンジするであろう黒人選手のかませ犬として試合が組まれているのは明らかでした。

  試合は予想通どおり第1ラウンドからブラウンが一方的にパンチを繰り出し、ナカニシはディフェンス一方の展開になります。ブラウンのパンチは強力でディフェンスの上からでも威力があり、ナカニシは徐々に追い込まれていきます。しかし、ナカニシは第5ラウンドまでディフェンスに徹して、しのぎきります。第6ラウンド、業を煮やしたブラウンは、ラッシュを懸けてナカニシをロープに追い込みます。

  誰もがブラウンのノックアウト勝ちを確信します。ブラウンが後ろにのけぞるナカニシに最後の一撃とばかりにボディに渾身のフックを打ち込みます。その瞬間、ブラウンの左ボディにナカニシのカウンターが打ち込まれました。ブラウンはスピンスするように回転し、マットに沈みました。そして、一度起き上がりかけたブラウンですが、再度床に落ち、10カウントが数え終わります。

  ナカニシは、カウンターの右フックを打ち込んだ直後、さらにフックをブラウンのあごにたたき込んだのです。ナカニシは、インタビューで、ブラウンの試合をビデオで何度も何度も見て、ラッシュの時に左のディフェンスが下がる癖があることを見つけた、ブラウンのディフェンスが空くのはこのときだけ、そこに1%の勝機を懸けました、そう語りました。

  それは、まるでアリがフォアマンを倒した試合の再現のようでした。広岡は、ボクシングの奥深さに改めて心を奪われるとともに自らのボクシングを顧みることになるのです。

  序章からいきなりこうしたエピソードが語られ、我々はボクシングの深遠な世界へと引き込まれていくことになります。

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(映画「春に散る」ポスター)

  物語は、何の当てもなく日本に帰ってきた広岡が、かつて所属した真拳ジムを訪れ、その近所に古いアパートを借りるところから展開していきます。

  沢木さんの筆は、広岡の視点と記憶から様々のディテールを描き込んでいきます。真拳ジムに広岡が入所したとき、同時期に4人のプロがジムに所属して合宿生活を送っていました。ジムではこの四天王と呼ばれた4人を世界チャンピオンに育て上げるとの目標を掲げていました。この4人の存在感がこの小説を面白くしていきます。広岡以外の3人の人生もさることながら、40年前の姿までがリアリティを持ちます。広岡のクロスカウンター、佐瀬健三のジャブ三段打ち、藤原次郎のインサイドアッパー、星弘のキドニー寸前のボディフック、それぞれが必殺技を持ち、その個性が際立っているのです。

  この小説は、その長さをまったく意識させない面白さにあふれています。小説には、欠かせない愛すべきキャラクターも登場します。その名は、土井佳菜子。彼女は若い女性でふとしたことから知り合うのですが、彼女には研ぎ澄まされた第六感が備わっています。いったいなぜ?その人生の秘密は下巻の第17章で明らかになります。お楽しみに。

  さらには、小説の終わり近くには、世界チャンピオンのベルトを持ちながら23才で交通事故のため夭折したボクサー、大場政夫の名前も語られます。

  長編小説には、その小説の独自な時間が流れています。この小説にはボクシングを触媒にして、ある人生を築いてきた男の1年間の「在り方」が語られています。そこに刻まれる時間は、我々をワンダーな世界へと運んでくれます。


  皆さんもこの小説で、時間を忘れて主人公の、さらには沢木耕太郎さんの語る人生の在り方を味わってみてはいかがでしょうか。自分のこれからの人生を見直してみたくなること間違いなしです。

それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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