3賢人が語る現代日本の「歪み」とは

こんばんは。

  先月の解散総選挙の結果は、日本の未来のためになるものなのでしょうか。

  選挙にて我々日本の国民は、自ら成立させた政治資金規正法を自らの手で破るような億単位での報告書不記載が露呈した自民党と公明党にお灸をすえ、衆議院での過半数割れに追い込みました。衆議院の議席数は465議席で、過半数は233議席ですが、自公の獲得議席は215と過半数を割り込みました。

  しかし、野党は235という数の議席を取りながら、立憲民主党148議席、日本維新の会38議席、国民民主党28議席、れいわ新撰組9議席他となり、それぞれの党が主導権争いを演じた結果、自公政権を変えるまでには至りませんでした。

  結果、石破さんが再び総理に指名されましたが、国民は成り行きに安堵していると思います。

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(第2次石破内閣閣議  官邸HPより)

  結果はともかく、今回も残念だったのは投票率の低さです。

  今回の選挙は、日本の政治が変革を求められる歴史的にも節目となるはずの選挙にもかかわらず、その投票率は前回を下回る53.85%という戦後3番目に低い数字だったのです。世界では、アメリカのトランプ政権をはじめとして、自国ファーストを掲げる右傾化政党がが議席数を伸ばし、あらゆる場所で分断が進んでいます。ウクライナやパレスチナでの戦争を見れば、分断の先に戦争が待っていることは間違いありません。

  日本は、国連を中心とした平和堅持を国是とする、(今はまだ)経済大国です。その民主主義による平和を代表する国が、その舵取りを決める選挙で「投票」する国民が6割を切るとは、世界中から冷ややかな目で見られてもしかたがない惨状です。日本では、4割の人々が、思考停止となっており、何も考えていないと言われても言い返すことが出来ません。民度が低いのです。

  話は変りますが、今月、連れ合いと一緒に10日間、イタリア旅行を楽しんできました。

  コロナ蔓延、ウクライナ戦争の勃発と海外旅行が出来なくなって5年以上が経ちますが、やっと念願のイタリア旅行に行くことが出来ました。前回イタリアに行ったのはもう40年以上前です。そのときにはローマ、バチカン、ナポリ、ポンペイ、ミラノを観光しましたが、フィレンツェとヴェネツイアにはいけませんでした。その後、娘がイタリアファンとなり何度かイタリアに旅行するのを横目に、うらやんでいたのです。

  今回は、フィレンツェではドゥオーモ大聖堂、ヴェネチアではサン・マルコ大聖堂を貸しきりで見学するという贅沢な旅行で、シスチィーナ礼拝堂のミケランジェロ「最後の審判」、ミラノのダビンチ「最後の晩餐」と併せて、ルネサンスの芸術を堪能する旅となりました。

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(ヴェネチア サン・マルコ広場から見た大聖堂)

  そのお話はまた改めてするとして、まずは今週読んだ本の紹介です。

「日本の歪み」(養老孟司 茂木健一郎 東浩紀著 講談社現代新書 2023年) 

【日本の「歪み」を語る3賢人】

  久しぶりに海外旅行に行って思うのは、日本の良さです。

  第一に日本は清潔です。町中の清潔さはもちろん、公共の場でも人々は場も汚すこともなく、トイレもとてもきれいに使います。イタリアでは、公共トイレは少なく、ほとんどはバルやレストランのトイレや土産物屋にあるトイレを使います。一番驚いたのは、トイレに便座がないことです。

  便座がないと、直接ホーローに腰掛けて用を足すしかないのですが、それがまた特大で、腰掛けると中に落ちてしまうほどです。21世紀の現代でその状況には驚きました。しかし、聴けばそれには理由がありました。イタリアの観光地では、観光客が乱暴で便座を破壊してしまうと言うのです。壊れたら直すのが普通ですが、イタリアでは直しても、直しても即座に壊されるので、観光地のオーナーは直すことをあきらめてしまったそうです。

  やはり日本人の公共的なメンタリティは、世界に冠たるものがあるようです。

  そんな日本ですが、近年、様々な「歪み」がSNSを賑わせています。例えば、夫婦別姓や同性婚問題、ティーンエージャーの自殺の増加、不登校や心を病む人々の拡大、ヤングケアラーの増加、母子家庭の格差、高齢者の孤立、などなど社会の「歪み」は枚挙にいとまがありません。

  いったい現代日本は、なぜこんなに「歪んで」いるのか。

  この本の題名と鼎談の著者名を見て、即座に購入しました。

  鼎談のメンバーは、名著「バカの壁」で知られる解剖学者の養老孟司さん(1937年生まれ)、クオリア研究で名をなす脳科学者の茂木健一郎さん(1962年生まれ)、数々の評論で受賞している批評家の東浩紀さん(1971年生まれ)。この顔ぶれを見ただけで、切れ味するどい会話が目に浮かぶようです。

  その切れ味鋭い鼎談の内容やいかに。

  目次を見てみましょう。

第1章 日本の歪み    第2章 先の大戦
第3章 維新と敗戦    第4章 死者を悼む
第5章 憲法       第6章 天皇
第7章 税金       第8章 未来の戦争
第9章 あいまいな社会  第0章 地震

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(鼎談「日本の歪み」 amazon.co.jp)

  憲法とはその国の基本理念を語るものですが、我が国の憲法はまさに「歪み」を象徴する憲法といえるかもしれません。この本でも、まずこの話題から切り込んでいきます。

  憲法論議は政治的な側面が強いのですが、なんと言っても日本の憲法は第9条で「戦争の永久放棄」とそのための「陸海空軍その他の戦力不保持、交戦権の放棄」が謳われています。現在の政治的な論議は、平和主義国としてこの第9条を守るべきという護憲論と現実に自衛隊という軍隊を自衛のために保持していることを明記すべきと言う改憲論がまっこうから対立しています。

  そもそも現在の日本憲法は、戦後日本の国家理念をどのように反映しているのでしょうか。

  茂木さんは、法学部の学生のときに聴いた長谷部恭男教授が安保法制は違憲であるとの言葉に従って、2015年の強行採決のときに国会前に出向いて忌野清志郎の歌をうたってきた、との話からこの対談を始めています。その話がどう「歪み」につながるのか。

  茂木さんは、その後、日本の憲法が英語で書かれた草案としてGHQから一方的に示され、たったの15分の間に承諾を迫られたとの記事を読み、原爆という暴力的な兵器を背景に、憲法が脅しによって成立したことを思って、日本憲法に疑問を感じるよういになったと語ります。

  そして、東さんは、2004年に多くの知識人により、憲法9条を護るために設立された「9条の会」のルーツに、1991年にアメリカで結成された団体「9条の会」が影響を与えていることを指摘しています。日本の基本理念を形作る「憲法」が、まさに歪みを持って成立していることに焦点を当て、鼎談はさまざまな「歪み」に進んでいくのです。

  養老さんは、まさにそうした歪んだ戦後を生き抜いてきた知識人の一人であり、茂木さんと東さんはさまざまな時代の移り変わりでの時代のとらえ方を養老さんに質問し、その答えも踏まえて「歪み」をあぶりだしていきます。

【日本の「歪み」はどこから?】

  現在の日本はどこから始まったのか。戦後生まれの我々は、「戦後の日本」しか知らないので、我々にとって「戦争」が歴史の始まりと言っても過言ではありません。日本が、アジア諸国を侵略し、満州国を建国、さらに「大日本帝国」によってアジアに幸福をもたらすとばかりに南方に支配を拡大してゆき、さらにはアメリカに奇襲をしかけて破滅への道を突き進みました。

  そして、アメリカに負け、占領統治され、戦後世界が幕を開けました。

  現代の「歪み」は、日本の戦後世界が敗戦により大転換し、アメリカの体制と文化で染められたことによって生じたものなのでしょうか。

  この本では、「先の戦争」についても象徴的な話題が語られます。それは、我々の中で「先の戦争」の名称が確定していないという事実です。戦前、この戦争は「大東亜戦争」とよばれていましたが、戦後は「太平洋戦争」と呼ばれています。しかし、「日中戦争」、「アジア太平洋戦争」と呼ばれることもあり、さらには、満州事変から始まったとする「15年戦争」と呼ぶこともあるそうです。

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(満州事変 満州国の首都 新京 wikipedia)

  東さんは、先の戦争の始まりや起点も曖昧で、名称さえ明確ではないところが「日本の歪み」を象徴しているようだと語ります。

  しかし、鼎談が進むにつれて、先の戦争の話から「歪み」の文化の起点はさらに遡られていきます。日本のこれまでの歴史は、そもそも日本の外からの力で創られてきているということが原点ではないかとの問題提起です。

  古くは日本語の成り立ちから、古代、白村江の戦いから日本は好むと好まざるとに関わらず、外国の文化を取り込んで、それを日本の文化に変えながら歴史を作ってきました。先の戦争の前には、明治維新と呼ばれる大事件が起き、すべての価値観が大転換することになります。そこに見られるのは、「西洋対日本」のトラウマなのです。

  明治維新は、まさに西洋文明を取り入れて日本を強くしようという価値観の転換運動でしたが、そこに「歪み」があったとの見立てです。西郷隆盛は、自ら西洋化政策を進めながら、最後には日本文化を代表する士族の頭領として西南戦争を戦うことになります。それは、太平洋戦争へと続く、「西洋対日本」の象徴としての戦いだったのではないでしょうか。

  明治を語る中で、養老さんが語る「吾輩は猫である」の話は秀逸でした。この小説は、語り部である「猫」がある正月に拾われてくるところから始まります。家人は「猫」にお雑煮を食べさせるのですが、猫はそのお餅が歯にひっついてしまい噛むことも飲み込むことも出来ずに、踊ってしまうのです。我々はそれを読んで笑うわけですが、養老さんはこの「猫」こそ、西洋文化を上手に飲み込むことが出来なかった漱石のカリカチュアだ、と読み解くのです。深いなあ・・・。

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(「吾輩は猫である」初版本 wikipedia)

  この鼎談では、どこを読んでも日本に存在する「歪み」への指摘と洞察に富んでいます。

  とても面白かったのは、日本語がいかに特殊な言語であり、英語をはじめとする海外言語と親和性の低い言語なのか、との洞察です。東さん曰く、言語は2つの機能を持っています。ひとつは「事実確認的機能」、もうひとつは「行為遂行的機能」だと語ります。

  ヨーロッパ言語は、書き言葉と話し言葉に差異が少なく機能的には「事実確認的」です。それに比して日本語は、語り言葉と話し言葉が異なっており「行為遂行的」なのだと言います。つまり、日本の言葉は簡潔に事実を説明することが苦手であり、人の行為に寄り添っているのだそうです。例えば、「禁煙」を示すときに英語は「No Smoking」、以上終わり、ですが、日本語では「ここでの喫煙はご遠慮ください。」となります。

  日本語は説明することが苦手であり、相手をおもんぱかることで成り立つ言語だというのです。

  さて、ここから話は佳境に入っていきますが、その続きはぜひ本書で味わってください。なるほど、とうなっている間に次々とページが進んでいき、「ちょっと待って」と言いたくなること間違いなしです。やっぱり、賢人たちの世間話ほど面白いものはありません。


  そろそろ紙面も尽きました。今年も秋がなく、先日までの冷房から、突如、暖房を使うほど朝晩冷え込んできました。どうぞ、ご自愛ください。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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