宮脇淳子 「元寇」と「蒙古襲来」の違いとは

こんばんは。

  初めて感じた興味や関心は、年齢に関係なくちょっとしたきっかけでよみがえります。

  日本は周囲を海に囲まれているおかげで、国内での争いはともかく、外敵から攻められるということがきわめてまれな国家です。

  ヨーロッパやユーラシア大陸において、国家はすべて陸地でつながっており、強力な軍事を備えれば容易に隣国に攻め入ることができます。そのために、何百年にもおよぶ戦争が国家間で続くこともまれではありませんでした。

  すでに1年半にも及んでいる、ロシアによるウクライナへの侵略戦争もその地政学的な歴史が大きな要因となっています。その歴史は、有史以前までさかのぼるといっても過言ではなく、両国の歴史はまさに併合と独立運動の繰り返しに他なりません。ウクライナの独立戦争は帝政ロシアの時代から繰り返されており、陸続きであるための悲劇ともいえるのではないでしょうか。

  歴史的な背景とウクライナの東南部に住むロシア人への弾圧がロシアの言い訳ですが、無垢の市民や子供、学校や病院、教会や住宅をミサイルで殺戮するロシアの攻撃は、人類の歴史を100年近くも昔に引き戻す蛮行以外のなにものでもありません。ロシア国内はまるで独裁国家のような情報統制がなされ、「戦争」と口に出す人間を次々と拘束しています。反抗したワグネル代表のブリゴジンが搭乗した自家用飛行機を墜落させ、その命を奪うなどの行為は、まさに独裁政権の本性を現している悪魔のような所行です。反欧米という基軸で中国や北朝鮮はロシアの孤立を阻んでいますが、その殺戮に対して目をつぶるのは、独裁者ヒトラーと手を組もうとした世界観と同じ卑劣な行動に他なりません。

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(ブリゴジン氏の葬儀  nhk.or.jp)

  ウクライナの話になると話がエスカレートしてしまいますね。

  話を戻すと、日本は海に囲まれているおかげで、安全と平和を保つことができたことは歴史的な事実です。それでも、長い歴史の中では他国家からの侵略を受けたことがあります。それは、鎌倉時代末期に起きた「元寇」です。それは「蒙古襲来」と呼ばれ、13世紀に中国を支配した「元」のフビライ・ハンによって企図された日本侵略戦争だったのです。

  今週は、この「元寇」を東アジア側からの視点で解析した本を読んでいました。

「世界史の中の蒙古襲来」

(宮脇淳子著 扶桑社新書 2022年)

【蒙古襲来とは何だったのか】

  以前、250回記念のブログに堺屋太一氏の著した「世界を創った男 チンギス・ハン」を紹介したときに話しましたが、私がはじめて「元寇」に興味を持ったのは、中学校の図書館で「竹崎季長」の本を読んだときでした。皆さんも日本史の教科書で、「蒙古襲来絵詞」という当時記された絵巻物の写真を見たことがあると思います。

  1274年旧暦の10月、元軍は兵船900艘に23000人の兵を率いて日本を侵略します。その軍は、対馬、壱岐の両島を攻め落とし、博多湾へと押し寄せます。日本では、鎌倉幕府の奉行であった少弐家、大友家、松浦党などが迎え撃ちました。そして、その中で御家人として死力を尽くして戦った武士の一人が竹崎季長だったのです。

  当時、武士は一所懸命と言われるとおり、手柄を立て土地を得るために懸命に戦いました。季長も第1回目の元寇、文永の役で博多を守り抜く成果を上げました。彼は自らあげた戦果をみとめてもらうために奉行に申し立てますが、鎌倉では季長に対して何の報償もありません。一族総出で戦った季長は、納得できずに自ら鎌倉に出向き、自らの戦いをアピールしました。その結果、報償の対象となったのです。

  季長は、その7年後に起きた2度目の襲来である弘安の役にも出陣し、元を日本から撃退します。二度の戦役を戦い抜いた季長は、この戦いを絵師に描かせ、自ら詞書きを書き入れました。そして完成したのが、この元寇を今に伝える「蒙古襲来絵詞」なのです。

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(「蒙古襲来絵詞 竹崎季長」)

  それまで日本史では日本は閉じられた世界で、独自の歴史を刻んできたとの印象が強かったのですが、あのチンギス・ハンが創ったモンゴル帝国が日本にも版図拡大の手を伸ばしていたというスケールの大きな歴史に心を動かされました。それ以来、「元寇」、「蒙古襲来」という言葉を聞くたびに反応してしまうのです。

  日本側から見ると、当時の政府は北条氏が執権を振るっていた鎌倉幕府でした。そのときに執権の座についていたのは、「鉢の木」などのエピソードでも有名な北条時頼の息子、北条時宗でした。2001年にはNHKの大河ドラマになりましたが、北条時宗は「元寇」を退けるために生れてきたのか、と思わせる人生を歩みました。

  1268年、はじめて元のフビライ・ハンからの詔書が日本に届きます。そのとき、18歳になっていた時宗は、第8代の幕府執権の座につきます。それから何度かフビライからの詔書が届きますが、時宗はそのすべてを無視します。そして、24歳にして最初の戦い、文永の役が勃発します。そこで元軍を退けた後、再来に備えて九州の防備を固めました。その7年後、時宗31歳の時に元軍は再び日本に攻め入って来るのです(弘安の役)。時宗は、二度の元からの大軍を退けた3年後、病を得て亡くなりました。まさに天が元軍の侵略に立ち向かわせるために時宗を日本に降臨させたと思うような人生です。

  我々の知る「元寇」はまさに「蒙古襲来」そのものであり、日本史から見た海外からの侵略戦争なのですが、この本はそんな我々の常識に異なる視点を与えてくれます。

【東アジア史の中での元寇とは】

  それでは、まずこの本の目次を見てみましょう。

まえがき

第1章 日本人のモンゴル観

第2章 モンゴルとは

第3章 高麗とは

第4章 蒙古襲来前夜

第5章 大陸から見た元寇

第6章 「元寇」後の日本と世界

終  章 国境の島と「元寇」

あとがき

  宮脇さんは、中国、チベット、モンゴル、朝鮮の歴史と言語の研究者で、まさに「蒙古襲来」を語るのには適任です。この本の第一章は、まず日本人のモンゴル感はどこから生れているのか、を解説していきます。

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(「世界史の中の蒙古襲来」 amazon.co.jp)

   はじまりは「義経チンギス・ハン伝説」。駐日モンゴル大使館の方々は、訪問してくる日本人のほとんどが必ず「チンギス・ハン義経伝説」を語るそうで、辟易としているとの話が語られています。モンゴルの人々にとって、チンギス・ハンは世界にその名をとどろかせた英雄のひとりです。その英雄が日本人であるはずもありません。その心中は察するに余りあるといえます。

  そして、チンギス・ハンを描いた井上靖の作品「蒼き狼」。著者は、日本人にチンギス・ハンとモンゴル人のイメージを定着させた作品として紹介しますが、その認識の誤りを次々と指摘していきます。その女々しさは、モンゴル人ではなく日本人そのものだというのです。さらに著者は、北方謙三の「チンギス紀(1)火眼」、浅田次郎の「蒼穹の昴」、司馬遼太郎最後の小説「韃靼疾風録」を取り上げて、そこに描かれるモンゴル、女真族、満州人が間違った印象を我々に与えていることを語ります。

  その語りのいきおいに我々も思わず身を乗り出してしまいます。

  しかし、第一章はこの本の「つかみ」の部分であり、本論ではありません。

  第二章からはじまる13世紀のモンゴル、中国、朝鮮の歴史は、日本史で語られる「元寇」からは想像もできない、東アジアの歴史を踏まえた奥深いものです。

【浮かび上がる「元」と「高麗」】

  この本のワンダーは随所にちりばめられています。

  その一つに中国王朝の歴史があります。皆さんも中国の王朝が、古代から北方にいる騎馬民族に侵略を受ける歴史をご存じと思います。「匈奴」、「鮮卑」、「柔然」、「突厥」、「契丹」など、様々な騎馬民族が中国の王朝に攻め込んでいます。秦の始皇帝からはじまる世界遺産、万里の長城は、こうした北方の騎馬民族の侵入を防ぐために築かれた防壁だったのです。

  この本のモンゴルの歴史を読んで驚いたのは、「隋」や「唐」の皇帝は漢人ではなく、騎馬民族である鮮卑の出身だったという事実です。すると、「晋」以降、漢民族の建てた王朝は「元」の前にあった「宋」だけであり、その前後はすべて騎馬民族の血を引く王朝だったということです。驚きですね。

  ハンガリーからベトナム、朝鮮にまで及んだモンゴル帝国はチンギス・ハン亡き後、5代目のフビライの時代には4つのハン国へと分裂します。そこで、「宋」を南へと追いやって中華を治めたのが「元」を興したフビライ・ハンでした。フビライ・ハンは「南宋」を攻めると同時に、ベトナムにも遠征、さらには朝鮮にあった高麗国を属国とし、日本への遠征を計画します。

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(モンゴル帝国の最大版図  wikipediaより)

  フビライは、日本が黄金の国であるとの情報や火薬の原料となる硫黄が豊富にあることから日本侵攻を決断したといわれていますが、どうもモンゴルに服従した一部の高麗の人々がフビライの意向を忖度して日本への侵攻を積極的に進めた節があるといいます。

  というのも元は支配地を統治するために各地域に「省」という行政組織を立ち上げて、属国となった国にその組織を任せたのです。北部朝鮮地区には「遼陽行省」という組織がありました。フビライは日本を侵略するに当たり、朝鮮半島に新たな組織「征東行省」を新設し、そこに日本への遠征計画をまかせました。ところが、第二次遠征(弘安の役)が日本の反撃と台風のために失敗した後、「征東行省」は廃止されました。しかし、フビライは第三次日本遠征を企て、その計画を「遼陽行省」に任せます。「遼陽行省」ではモンゴル側におもねった高麗の人々が仕事を任されていたのです。その人々は、自らの存在意義をフビライに示すために第三次日本遠征の計画を積極的にすすめたと考えられるのです。

  幸いなことに高齢のフビライが亡くなったため、第三次日本遠征は行われませんでした。

  とはいえ高麗にとってモンゴルはあまりにも無慈悲な征服者でした。

  モンゴル軍が高麗に第一次遠征を行ったのは、2代目オゴタイ・ハンの1231年ですが、その後は1235年から1259年に渡り6回もの征伐軍を迎えることとなり、国内は完全に蹂躙されました。しかし、高麗国の王とその一族はモンゴル軍が侵入してくると迎え撃つことなく、江華島と呼ばれる島に逃げ込み籠城してしまうのです。一般市民はモンゴル軍に好きなように蹂躙され、国内は完全に荒廃したのです。

  モンゴル軍の二度にわたる日本への遠征は、鎌倉時代から長らく「蒙古襲来」と呼ばれてきました。しかし、江戸時代から明治時代にかけて、日本は東アジアの諸国から、日本の「倭冦」によって国が侵害された、とのクレームを受け続けます。それにに対して、日本だって「元寇」に苦しんだのだ、と言い訳するために「元寇」が正式な呼称となったと言います。

  宮脇さんは、高麗国や南宋などモンゴル軍に征服された国を使って行った日本への侵略では、モンゴル人は司令官などほんの一握りの人員が随行したのみで、兵士のほとんどは被征服民だったのではないか、と推定しています。であれば、この遠征は「蒙古(モンゴル)襲来」というよりも、「元」が行った侵略という意味で「元寇」との名称が適切なのではないか、と語るのです。


  この本は、「元寇」について、日本遠征を行った側の歴史や時代の情勢を踏まえた視点から語り尽くしており、これまでにないワンダーを感じることができました。「元寇」に興味のある方もない方も、ぜひ一度この本を手に取ってみてください。日本は決して孤高の国として存在しているわけではないことを改めて感じるに違いありません。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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