こんばんは。
ここ数年、桜の開花がどんどん早くなり、今年も桜が散り始めています。お花見も今週末が最後となりそうです。とはいえ、日本の桜は本当に美しく、毎年桜の美しい姿を見るにつけ、この国に生まれたことの幸せを味わっています。
(散歩中に味わった満開のソメイヨシノ)
さて、その日本の話です。
すべての物事の起源を知ることには、大きなワンダーを覚えます。それは、人類が「知る」ことを追求することで進化してきたことの証ではないでしょうか。宇宙の起源、地球の起源、生命の起源、人類の起源、細胞の起源、日本人の起源。我々人類は、すべての起源を探求してここまで歩んできました。その最新地点を知ることは、人生の楽しみ、そのものでもあります。
このブログでも、日本人の起源や歴史の本を読むたびに、その楽しみを紹介してきました。特に、謎に包まれた日本の古代史は、本屋めぐりのテーマの一つです。先日、目にとまった本はNHK出版から上梓された仁尾本の古代史を取材した一冊でした。
「新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト政権」
(NHKスペシャル取材班著 NHK出版新書 2025年)
【邪馬台国はどのように成立したのか】
邪馬台国といえば、これまで何度もご紹介してきたように、その所在地について九州説と近畿説が古くから唱えられており、未だに決着を見ていません。直近では、大分の別府温泉付近がその所在地であり、阿蘇山の噴火によって埋もれてしまったとの説を読みました。
その説は、これまで基本となった新井白石の説に疑問を投げかけるところから始まっています。それは、有名な「魏志倭人伝東夷伝」に記載された邪馬台国に至る各地の名称を日本の地名と比定することで、邪馬台国の場所を特定する説です。これまで、この地名特定式の方法で邪馬台国の場所は、九州説と近畿説に分かれてきました。
別府温泉説は、「倭人伝」に記載された「1里」をこれまでの説とは異なる77mとすることによって、読み解くといおう新たな考え方で唱えられていますが、とても新鮮な仮説でした。
この本は、日本の古代史の最前線を取材し、「邪馬台国」が記載された3世紀中盤からヤマト王権が日本を統合していく6世紀までの「謎」に迫っていくことを目的にしています。
(NHK出版「新・古代史」 amazon.co.jp)
ここで、この本の目次に目を通しておきましょう。
第1章 邪馬台国と古代中国
第2章 最新研究で迫る邪馬台国連合
第3章 漢王朝の崩壊と「倭国大乱」
第4章 卑弥呼×三国志──知られざるグローバル戦略
第5章 卑弥呼の最期と歴史の断絶
第6章 「空白の四世紀」に何が起きたのか
第7章 ヤマト王権と朝鮮半島情勢
第8章 激動の東アジアと倭の五王
第9章 「日本」はいかに誕生したか
目次を読むと、その謎の解明がどこまで進んでいるのか、期待に胸が膨らみます。
さて、「邪馬台国」です。我々はともすると、「邪馬台国」が九州にあったのか、近畿にあったのか、その結論に興味を持ちますが、この本は、そのどちらに与するのではなく、「考古学」の視点からその謎がどこまで解明されつつあるのかに焦点を当てて取材しているのです。
古代史ファンならば、「吉野ヶ里遺跡」と「纏向遺跡」の発見に胸を躍らせたことを覚えているのではないでしょうか。
九州説を唱える人々にとって、1986年、工業団地開発の事前調査時に発見された佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、まさに邪馬台国の遺跡だと躍り上がるような発見でした。この遺跡からは、外敵からの防御のための環壕や複数の櫓跡が発見され、大規模集落が存在したことが明らかになります。さらに出入り口に当たる門跡からは、戦国時代の中国を発祥とする防御のための角方の道路が備えられていたことも解明され、中国との接点となりました。
最新の研究では、弥生時代の墓地が発見され、2023年にはそこから「石棺墓」が出土、当時の有力なリーダーの墓であることが想定されました。さらに、遺跡の近郊には、いくつもの墓墳も発見されており、そこからは剣や鏡が副葬品として発掘されており、大規模集落のリーダーの墓であることが推定されています。
(佐賀の吉野ヶ里遺跡 yomiuri.co.jpより)
一方、近畿説を唱える人々にとっても弥生時代の大規模集落の遺跡が発見されています。それは、奈良の桜井市にある「纏向遺跡」です。この遺跡は三輪山近くにあり、奈良時代までに様々な遺跡が積み重なっています。その遺跡調査で、弥生時代の地層から最古のベニバナ栽培の痕跡や桃の種が発見されました。卑弥呼は鬼道をよく使うと「倭人伝」に記されていますが、当時の鬼道と言われる道教では、桃が重要な役割を果たしたとされており、この遺跡で鬼道が行われた者と考えられています。
第2章では、邪馬台国が複数の集団群がひとつの勢力を形作るために卑弥呼をりーだーとして祭り上げたのではないか、との説を九州説、近畿説の双方から紐解いていきます。
近年の歴史史観にグローバルヒストリーという考え方がありますが、NHK はこの考え方で様々な特集番組を制作してきました。この本でも東アジア全体の視点、中国からの視点、朝鮮半島からの視点から捉えた「日本古代」との切り口で歴史を読み解いています。
その中で、ワンダーを感じたのは、世界最古の地図のひとつと言われる「混一きょ理歴代国都之図」という東アジアを描いた世界地図です。この地図は、李氏朝鮮によって15世紀初頭に作られたとされていますが、この地図で日本は北から南に延びる細長い列島として描かれています。「邪馬台国近畿説」では、「倭人伝」の邪馬台国までの行程で「南」と書かれた方角は「東」の間違いだ、との仮説によって近畿説を主張しますが、この地図の概念が古代と同じとすれば、「南」のままでも近畿説は成り立つことになります。
(李氏朝鮮「歴代国都の図」 wikipediaより)
ワンダーでした。
【「空白の四世紀」を埋めるピ-ス】
歴史で最も雄弁であるのは文献資料ですが、日本の古代が記されている同時代文献は中国にしかありません。それは、中国の歴代王朝は王朝の歴史を史書として記し残していくことを文化として持っていい他ことに由来します。
初めて日本が文献に登場する「魏志倭人伝」は、三国志の魏が残した史書。それは、三世紀の中頃ですが、この後に「日本」が中国の史書に登場するのは、同じく三世紀の「後漢書」。そして、その後、登場するのは五世紀。南朝の宋の史書に倭の5人の王の名が登場するのを待たなければなりません。つまり、邪馬台国と狗奴国が争いを起こし、卑弥呼が亡くなってからヤマト王権が成立して天皇が国を治めるまでの歴史は、中国の史書に登場していないのです。
このため、日本の古代史ではこの間を「空白の四世紀」と呼んでいるのです。
現代の我々から見れば「空白」ですが、卑弥呼亡き後、日本の歴史がダイナミックな変遷を遂げていたのが四世紀であり、その意味ではまったく「空白」とはかけ離れた世界であることは間違いありません。そして、この時代を現代の我々は、「古墳時代」と呼んでいます。逆に言えば、古墳を調べることが「四世紀」を明らかにする最も確実な手段だということです。
以前、古墳の本をご紹介したときに、古墳は天皇の墓であり、すべてを宮内庁が管轄して調査どころか敷地に入ることさえ宮内庁の許可がいることをお話しました。
(卑弥呼の墓か? 箸墓古墳 asahi.comより)
確かに、戦時中にはやむを得なかったのでしょうが、現代でも宮内庁が立ち入りを許さないというのは前時代的な発想ではないのかと疑います。その一方で、天皇墓として認定されている以外の古墳では、様々な研究成果が上がっています。この本では、こうした発見から見えてくる「四世紀」のワンダーを語ってくれるのです。
古墳には、円墳・前方後円墳・前方後方墳などの種類がありますが、以前ご紹介したように日本の関東以北に数が多いのは前方後方墳で、西に多いのは前方後円墳です。前方後円墳が天皇墓中心とすれば、前方後円墳の多い地域は邪馬台国の末裔のヤマト王権、前方後方墳の多い地域は、もともと邪馬台国と闘いを繰り広げた狗奴国の領地だったのではないかとも考えられます。
この本の古墳を巡るワンダーは、まさにグローバルです。
皆さんは、韓国の海岸沿いの地域にたくさんの前方後円墳が発見されているのをご存じでしょうか。朝鮮半島の前方後円墳は、1980年代からその存在が語られるようになり、以降多くの前方後円墳が発見されてきました。2022年には、韓国羅州(ナジュ)市で15基目の前方後円墳が発見されて話題となりました。
一時期には、前方後円墳が朝鮮半島から日本にもたらされたのではないか、との仮説も唱えられましたが、発見された古墳がすべて五世紀末から六世紀にかけて築かれていることから、前方後円墳は日本固有の形態で、何らかの理由で日本から朝鮮半島に渡ったのだと考えられるようになったのです。
(朝鮮半島南部の前方後円墳 wikipediaより)
邪馬台国からヤマト王権へと日本が移行していく過程で、王権が最も重視したものは何だったのか。それは、「鉄」でした。「鉄」は、農耕機具、武器として飛躍的な強度を誇り、大量生産の要であると同時に、争いでは決定的な力を発揮したのです。当時、「鉄」は日本国内では手に入らず、もっぱら朝鮮半島からの輸入に頼っていました。
しかも三世紀から四世紀にかけて、朝鮮半島で日本と交易を行ったのは半島の南端にある百済国に他なりませんでした。邪馬台国からヤマト王権へとゆっくりと全国をまとめ上げていく過程で、鉄は各地の豪族たちに王権のパワーを見せつけるための重要な文物だったのです。百済との絆を強固にすることは、イコール自らの存在感を高めることに他なりませんでした。
朝鮮半島に築かれた数々の前方後円墳は、利害が一致した当時のやまと王権と百済国が文武で親密な交流を続けていた証ではないのでしょうか。
当時、中国は三国時代から南北朝時代への変換期であり、朝鮮半島への支配はゆるやかになりました。そこで、力で半島の制覇を狙ったのが高句麗国です。高句麗国は、当時朝鮮半島を3分割していた新羅国と百済国へと攻め入りました。百済国と同盟とも言える関係を結んでいたヤマト王権は、利権を守り、絆を深めるために百済とともに高句麗と戦ったことが想像されます。
ちなみに、韓国には、この高句麗の広開土王の功績を記した石碑が414年に建立され、その中には当時「倭」が百済とともに連合軍を打ち立て、王は打ち破ったと記されていることが紹介されています。「空白の四世紀」を埋める碑文。ワンダーです。詳しくは、ぜひこの本で。
さらに、高句麗国は騎馬民族で、騎馬軍団がおり、この流れの中で馬も百済を通じて日本にもたらされた、ということが考古学からもわかってきているそうです。
時代は日進月歩で進んでいきます。皆さんもこの本で最新の日本古代史に思いをはせてはいかがでしょうか。こうした研究が実を結び、近い将来、古代日本の真の姿が語られることを楽しみにしています。
それでは皆さんお元気で、またお会いします。
〓今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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