日記一覧

ロシア プーチン翁の老いの妄執

<PR>

music.jp

こんばんは。

 平和と調和、そして多様性の祭典である北京オリンピックが閉会し、第2幕である北京パラリンピックの開会式が待たれる間隙の合間を縫って、ロシア軍が隣国ウクライナに侵攻し、事実上の戦争を仕掛けました。今もウクライナでは罪なき市民がロシアの攻撃によって殺戮され、死の恐怖に直面しています。

russia01.jpg

(ミサイル攻撃を受けたハリコフの住宅 jiji.com)

 我々人類は、ここまで4000年の歴史の中で常に闘いに明け暮れていました。しかし、産業革命以降、我々は大いなる技術力を身に着け、一度に大量の命を奪うことができる兵器を手にしてしまいました。銃弾による殺戮、戦車や装甲車による衣食住や命の殲滅、航空機による空からの爆撃、海上では戦艦や空母による地上への砲撃、さらにはミサイルやICBMによる遠距離殺戮。

 20世紀の戦争は、まさにそうした大量殺りく兵器によって世界が分断され、ある統計資料によれば、第一次大戦で亡くなった人は約852万人、第二次世界大戦では約912万人もの人々が戦争によって命を落としたといいます。

 一口に912万人と言えば、それは単なる数値に聞こえますが、そこには亡くなった一人一人の人生、物語があります。我々は、コロナや災害で亡くなった方々には父親や母親、愛する娘や息子、そしていとおしい孫がいることを知っています。そして、人が生きている限り、そこに関わるたくさんの友人たちが取り巻いてくれているのです。

 人はいくら生きても200年は生きられません。命は必ず尽きますが、命が続く間、我々は大勢の人々とかかわりながらなすべきことをなし、最後の瞬間まで命を燃やします。ところが、戦争は自らの意志、もっと言えば自然から授かっている寿命と関係なく、人の命を奪っていくのです。それは、そこに関わるすべての人の幸福を奪い、悲しみと苦しみのどん底へと叩き落す残酷な行為に他なりません。

 理不尽な殺戮で大量の幸福を奪い、大量の不幸と絶望を生み出す人類の冒す最大の罪、それが戦争なのです。

【20世紀 我々は何を学んだのか】

 第二次世界大戦で生み出された最終兵器は核兵器です。

 科学は、この宇宙が創りだした物質の謎を次々に解き明かし、ついに原子をつなぎとめている途方もないパワーを引き出す技を手に入れました。実際に核爆弾は第二次大戦で我々の国、日本に投下され、広島では一瞬にして9万人以上の命が一瞬にして消え去りました。さらに、原爆の放射能により、その後、56万人もの人々が放射線に苦しんだとも言われています。さらに長崎にも原爆が投下され、7万人もの人々が亡くなりました。そして、被爆した方々は16万人以上に及んでいます。

 核兵器は、一つの都市を地上から消し去るだけではなく、放射能により世界を不毛の大地と化してしまう恐ろしい兵器です。現在、核兵器を保有する国はアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、そして北朝鮮であり、その数は13,000発と言われており、その90%をアメリカとロシアが保有しています。この数は、地球上の人類を35回以上殺戮できる数だとの計算もあります。

 かつて、アメリカとソ連の冷戦下では、ソ連がキューバに核を持ち込むとの事件が持ち上がり、当時のケネディ大統領は核の使用さえも覚悟し、あわや核戦争にいたる一歩手前まで、事態は進みました。しかし、ソ連のフルシチョフ第一書記が最後の最後にキューバへのミサイル配備を取りやめるという理性ある判断に至たり核戦争は回避されました。

 このときにアメリカ大統領とソ連書記長の間に直通のホットラインが敷かれたのは有名な話です。

russia02.jpg

(キューバ危機後のフルシチョフケネディ会談)

 こうして核兵器は世界大戦の抑止力となりました。

 しかし、核兵器が抑止力となった後も、世界では地域紛争が絶えることはありません。

 1991年にゴルバチョフソ連大統領が辞任し、ソビエト連邦は崩壊しました。ソ連に変わりロシアが復活しましたが、それは共産主義ではなく共和国でした。アメリカとソ連の2極化した世界で繰り広げられた冷戦は終焉を迎え、世界にはアメリカ主導の平和が訪れると期待した人もいます。

 アメリカは、冷戦終了後も戦争と紛争に明け暮れていました。

 クウェートに侵攻したフセイン大統領の野望をくだくべく国連公認のもと連合軍を率いて行った湾岸戦争。21世紀に入ってからは、アルカイダによって仕掛けられた同時多発テロへの報復として、アフガニスタンへと攻め入り、タリバン政権を崩壊させ、民主政権を樹立させました。それに続いて、イラクのフセイン大統領が大量破壊兵器を隠し持っている証拠があるとの理由で、イラクに攻め入るや嵐のような空爆でフセイン大統領を逮捕し、死刑に処したのです。

 21世紀のアメリカの戦争は、まさに「報復」ですが、アフガニスタンでは民主政権がイスラム国やタリバンの反抗、反撃に耐えられず、長くアメリカ軍が駐留し政権を支えてきました。しかし、昨年、バイデン政権がアメリカ軍を撤退するや否や、アッという間にアルカイダが各都市を占領。結局、アフガニスタンではアルカイダの政権が返り咲いたのです。

 さらに、イラク戦争では、攻め入って勝利を得たアメリカ連合軍ですが、実はイラクに大量破壊兵器は存在していなかったというお粗末な結果が公表されました。

 アメリカだけではなく、新たな共和国を立ち上げたロシアもアメリカに負けず劣らず紛争に明け暮れています。

 崩壊後のソ連では、ロシア共和国を巡って権力の座に就いたエリツイン大統領は、自らの健康不安のために、後継者にプーチン氏を指名し、2000年5月にプーチン大統領が誕生しました。皮肉なことに後継者を指名した理由が、プーチン氏が民族主義者であると同時にエリツイン大統領の言うことに素直に従いそうだ、というものでした。しかし、元KGBのプーチン大統領は、まれにみる切れものだったのです。

russia03.jpg

(大統領就任式のプーチン氏 wikipediaより)

 プーチン大統領は「強いロシアの復活」をかかげ、まず、国内で独立のために兵を挙げたチェチェン紛争に対し、徹底的な戦闘による力での解決で臨みました。チェチェンでは、多くの市民がこの内戦に巻き込まれ亡くなりましたが、ロシア政府軍は強大な軍事力でチェチェン独立派に『打ち勝ち、チェチェン紛争を抑え込んだのです。

 さらに、エネルギー政策により経済力を回復させたプーチン大統領は、反民主主義へと大きく舵を切り始めます。アサド政権が強権を発動するシリアでは、イスラミックステイツや反政府軍の攻勢などが複雑に絡み合い、欧米が反政府軍を支援しましたが、プーチン大統領はアサド政権の政府軍を支援し、シリアでの空爆を遂行しました。

 はたして我々人類は、二つの世界大戦を経験した20世紀の間に何を学んできたのでしょうか。

【侵略戦争はあってはならない暴挙】

 今回のウクライナ侵攻の下地は、2014年にロシアがクリミア半島を併合しようとしたことがことの始まりのように見えます。

 クリミア半島は、ロシア帝国の時代からロシアの貴重な不凍港のひとつとして、重要な戦略的役割を果たしてきました。しかし、ロシア帝国とオスマントルコ帝国の争いでクリミア戦争が起こり、その帰属はめまぐるしく変わり、さらには第一次世界大戦、そしてロシア革命を経て旧ソ連共和国の自治区の一つとしてウクライナの一部となりました。ところが、ソ連が崩壊したのち、2004年の選挙で親ロシア政権の大統領が当選しましたが、ウクライナ国民はその選挙に不正があったとして、再選挙を求めました。この運動はオレンジ革命とも呼ばれますが、再選挙によってロシアに距離を置く政権が発足しました。これ以降、ウクライナの大統領はあるときには西側の支援を受け、あるときには親ロシアの政策をかかげることを繰り返してきました。

russia04.jpg

(オレンジ革命時の首都キエフ wikipediaより)

 クリミア半島はと言えば、歴史的に多くのロシア人が流入して居住していましたが、ソ連時代の1954年、ウクライナ出身のフルシチョフ書記長が主導し、当時のウクライナ・ソビエト社会主義共和国の州としてウクライナに帰属することとしたのです。これ以降、クリミア半島はウクライナ領とされてきましたが、そこに住むロシア人たちは、ソ連崩壊後、西側に揺れ動いていくウクライナの政権に反感を覚えていたことは想像に難くありません。

 そして、2014年、クリミア州はクリミア自治共和国としてセヴァストプリ特別区とともに自らロシア連邦と一員となるとする条約に調印し、ロシアへの併合が行われました。

 さらに今回、ロシアのプーチン大統領は軍事侵攻の前々日、ウクライナ国内のロシア人居住地であるドネツク州を「ドネツク人民共和国」、ルガンスク州を「ルガンスク人民共和国」として独立承認することを閣議決定し、独立を承認する大統領令に署名しました。

 そして、2月24日、ウクライナがロシア人に対してジェノサイド(大量虐殺)を行っており、ロシア人の命を守るためにウクライナに侵攻する、と宣言しベラルーシ国境近くの北側とクリミア半島から、そして、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国からの軍事派遣要請に従って東側からウクライナ国内に侵攻を行ったのです。

russia05.jpg

(独立承認を発表するプーチン大統領 mainichi.com)

 それは、ロシアの一方的な宣言によって行われ、首都キエフにはロシア軍が迫り、南部や東部の中核都市が一斉にロシア軍に侵略されるという事態に至りました。

 ウクライナとロシアの間には歴史的にも近年にも領土をめぐる紛争があったことは事実ですが、ドネツクやルガンスクの東部では紛争停戦のため、2015年にミンスク合意が締結されました。にもかかわらず、ロシアはこれを無視して一方的にウクライナに攻め入ったのです。

 ウクライナという国際的にもその主権が認められた国家に理由はともあれ、一方的に軍事浸入を行い、国家、国民を殺戮することは国際ルールを無視した一方的な宣戦布告に他なりません。これは、これまでの国際法に照らしても国際ルールをすべて無視する暴挙、国家侵略としか言いようがありません。

【一日も早く市民の殺戮をとめなくては】

 ウクライナの市民は、突然蹂躙された国家がロシアに征服されないために高齢者や子供とその母親を除いてすべての国民がロシアと闘う決意を固めています。そして、欧米からの軍事支援も効果を挙げて、ウクライナはロシアのキエフ侵攻を強い抵抗によって食い止めている状況です。

 恐らく侵攻後、数日でキエフを制圧し、ロシアの傀儡政権を打ち立てようともくろんだプーチン大統領の戦略は、ウクライナ国民の予想外の頑強な抵抗により侵攻後1カ月以上も遅れ、破たんしつつあります。このため、ロシアはロシア国内黒海に進出した戦艦から数百発ものミサイルを発射し、ウクライナの主要都市を空爆しています。その初期には、軍事施設を攻撃していたミサイル郡ですが、思わぬ抵抗へのイラダチと停戦をできる限り優位すすめるとの目的で、学校や病院、避難先である劇場など、市民が避難している施設への無残な攻撃を続けています。

russia06.jpg

(ミサイル攻撃を受けた避難先の劇場 news.yahooより)

 ソ連崩壊後にロシア共和国の大統領に就任して以来22年間、プーチン大統領は極めて冷静で的確な政策を強力に推し進めることにより、ロシアをエネルギー大国に押し上げてその経済を立て直し、チェチェン独立に対しても強権を発動して軍事力で制圧して国内をまとめてきました。しかし、旧ソ連時代の衛星国が次々に革命のために民主主義政権へと移行し、その最後の砦がベラルーシであり、ジョージアやモルドヴァなども独立し、確かにウクライナはクリミアも含めてロシアにとっては死守すべき砦となったとき、プーチン大統領はその戦略を誤ったとしか思えません。

 市民を狙い、無差別殺戮を行うプーチン大統領は、もはやかつてロシアを侵略したナポレオンやヒトラーと何ら変わらない犯罪人、殺戮者に成り下がりました。

 心ある国際社会の国々とその市民は、あらゆる手段を使ってロシアの暴挙を止めることが必要です。東部の都市マリウポリでは、40万人の住民が避難もできず、電気、ガス、水道も止まり、食料さえもなくなっていると言います。あまつさえ、ロシアはマリウポリに降伏を申し入れ、さらなるミサイル攻撃を続けています。ウクライナ市民は降伏を拒否しましたが、この都市の市民を救うためにもプーチン大統領に不毛な戦争の停止を選択させる必要があります。

 皆さん、ウクライナ市民のためにも、我々の未来のためにも、心を一つにしてこの戦争にNOを言い続けましょう。

 それでは皆さんお元気で、またお会いします。

 

今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。


ロシア プーチン翁の老いの妄執

こんばんは。

 平和と調和、そして多様性の祭典である北京オリンピックが閉会し、第2幕である北京パラリンピックの開会式が待たれる間隙の合間を縫って、ロシア軍が隣国ウクライナに侵攻し、事実上の戦争を仕掛けました。今もウクライナでは罪なき市民がロシアの攻撃によって殺戮され、死の恐怖に直面しています。

russia01.jpg

(ミサイル攻撃を受けたハリコフの住宅 jiji.com)

 我々人類は、ここまで4000年の歴史の中で常に闘いに明け暮れていました。しかし、産業革命以降、我々は大いなる技術力を身に着け、一度に大量の命を奪うことができる兵器を手にしてしまいました。銃弾による殺戮、戦車や装甲車による衣食住や命の殲滅、航空機による空からの爆撃、海上では戦艦や空母による地上への砲撃、さらにはミサイルやICBMによる遠距離殺戮。

 20世紀の戦争は、まさにそうした大量殺りく兵器によって世界が分断され、ある統計資料によれば、第一次大戦で亡くなった人は約852万人、第二次世界大戦では約912万人もの人々が戦争によって命を落としたといいます。

 一口に912万人と言えば、それは単なる数値に聞こえますが、そこには亡くなった一人一人の人生、物語があります。我々は、コロナや災害で亡くなった方々には父親や母親、愛する娘や息子、そしていとおしい孫がいることを知っています。そして、人が生きている限り、そこに関わるたくさんの友人たちが取り巻いてくれているのです。

 人はいくら生きても200年は生きられません。命は必ず尽きますが、命が続く間、我々は大勢の人々とかかわりながらなすべきことをなし、最後の瞬間まで命を燃やします。ところが、戦争は自らの意志、もっと言えば自然から授かっている寿命と関係なく、人の命を奪っていくのです。それは、そこに関わるすべての人の幸福を奪い、悲しみと苦しみのどん底へと叩き落す残酷な行為に他なりません。

 理不尽な殺戮で大量の幸福を奪い、大量の不幸と絶望を生み出す人類の冒す最大の罪、それが戦争なのです。

20世紀 我々は何を学んだのか】

 第二次世界大戦で生み出された最終兵器は核兵器です。

 科学は、この宇宙が創りだした物質の謎を次々に解き明かし、ついに原子をつなぎとめている途方もないパワーを引き出す技を手に入れました。実際に核爆弾は第二次大戦で我々の国、日本に投下され、広島では一瞬にして9万人以上の命が一瞬にして消え去りました。さらに、原爆の放射能により、その後、56万人もの人々が放射線に苦しんだとも言われています。さらに長崎にも原爆が投下され、7万人もの人々が亡くなりました。そして、被爆した方々は16万人以上に及んでいます。

 核兵器は、一つの都市を地上から消し去るだけではなく、放射能により世界を不毛の大地と化してしまう恐ろしい兵器です。現在、核兵器を保有する国はアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、そして北朝鮮であり、その数は13,000発と言われており、その90%をアメリカとロシアが保有しています。この数は、地球上の人類を35回以上殺戮できる数だとの計算もあります。

 かつて、アメリカとソ連の冷戦下では、ソ連がキューバに核を持ち込むとの事件が持ち上がり、当時のケネディ大統領は核の使用さえも覚悟し、あわや核戦争にいたる一歩手前まで、事態は進みました。しかし、ソ連のフルシチョフ第一書記が最後の最後にキューバへのミサイル配備を取りやめるという理性ある判断に至たり核戦争は回避されました。

 このときにアメリカ大統領とソ連書記長の間に直通のホットラインが敷かれたのは有名な話です。

russia02.jpg

(キューバ危機後のフルシチョフケネディ会談)

 こうして核兵器は世界大戦の抑止力となりました。

 しかし、核兵器が抑止力となった後も、世界では地域紛争が絶えることはありません。

 1991年にゴルバチョフソ連大統領が辞任し、ソビエト連邦は崩壊しました。ソ連に変わりロシアが復活しましたが、それは共産主義ではなく共和国でした。アメリカとソ連の2極化した世界で繰り広げられた冷戦は終焉を迎え、世界にはアメリカ主導の平和が訪れると期待した人もいます。

 アメリカは、冷戦終了後も戦争と紛争に明け暮れていました。

 クウェートに侵攻したフセイン大統領の野望をくだくべく国連公認のもと連合軍を率いて行った湾岸戦争。21世紀に入ってからは、アルカイダによって仕掛けられた同時多発テロへの報復として、アフガニスタンへと攻め入り、タリバン政権を崩壊させ、民主政権を樹立させました。それに続いて、イラクのフセイン大統領が大量破壊兵器を隠し持っている証拠があるとの理由で、イラクに攻め入るや嵐のような空爆でフセイン大統領を逮捕し、死刑に処したのです。

 21世紀のアメリカの戦争は、まさに「報復」ですが、アフガニスタンでは民主政権がイスラム国やタリバンの反抗、反撃に耐えられず、長くアメリカ軍が駐留し政権を支えてきました。しかし、昨年、バイデン政権がアメリカ軍を撤退するや否や、アッという間にアルカイダが各都市を占領。結局、アフガニスタンではアルカイダの政権が返り咲いたのです。

 さらに、イラク戦争では、攻め入って勝利を得たアメリカ連合軍ですが、実はイラクに大量破壊兵器は存在していなかったというお粗末な結果が公表されました。

 アメリカだけではなく、新たな共和国を立ち上げたロシアもアメリカに負けず劣らず紛争に明け暮れています。

 崩壊後のソ連では、ロシア共和国を巡って権力の座に就いたエリツイン大統領は、自らの健康不安のために、後継者にプーチン氏を指名し、20005月にプーチン大統領が誕生しました。皮肉なことに後継者を指名した理由が、プーチン氏が民族主義者であると同時にエリツイン大統領の言うことに素直に従いそうだ、というものでした。しかし、元KGBのプーチン大統領は、まれにみる切れものだったのです。

russia03.jpg

(大統領就任式のプーチン氏 wikipediaより)

 プーチン大統領は「強いロシアの復活」をかかげ、まず、国内で独立のために兵を挙げたチェチェン紛争に対し、徹底的な戦闘による力での解決で臨みました。チェチェンでは、多くの市民がこの内戦に巻き込まれ亡くなりましたが、ロシア政府軍は強大な軍事力でチェチェン独立派に『打ち勝ち、チェチェン紛争を抑え込んだのです。

 さらに、エネルギー政策により経済力を回復させたプーチン大統領は、反民主主義へと大きく舵を切り始めます。アサド政権が強権を発動するシリアでは、イスラミックステイツや反政府軍の攻勢などが複雑に絡み合い、欧米が反政府軍を支援しましたが、プーチン大統領はアサド政権の政府軍を支援し、シリアでの空爆を遂行しました。

 はたして我々人類は、二つの世界大戦を経験した20世紀の間に何を学んできたのでしょうか。

【侵略戦争はあってはならない暴挙】

 今回のウクライナ侵攻の下地は、2014年にロシアがクリミア半島を併合しようとしたことがことの始まりのように見えます。

 クリミア半島は、ロシア帝国の時代からロシアの貴重な不凍港のひとつとして、重要な戦略的役割を果たしてきました。しかし、ロシア帝国とオスマントルコ帝国の争いでクリミア戦争が起こり、その帰属はめまぐるしく変わり、さらには第一次世界大戦、そしてロシア革命を経て旧ソ連共和国の自治区の一つとしてウクライナの一部となりました。ところが、ソ連が崩壊したのち、2004年の選挙で親ロシア政権の大統領が当選しましたが、ウクライナ国民はその選挙に不正があったとして、再選挙を求めました。この運動はオレンジ革命とも呼ばれますが、再選挙によってロシアに距離を置く政権が発足しました。これ以降、ウクライナの大統領はあるときには西側の支援を受け、あるときには親ロシアの政策をかかげることを繰り返してきました。

russia04.jpg

(オレンジ革命時の首都キエフ wikipediaより)

 クリミア半島はと言えば、歴史的に多くのロシア人が流入して居住していましたが、ソ連時代の1954年、ウクライナ出身のフルシチョフ書記長が主導し、当時のウクライナ・ソビエト社会主義共和国の州としてウクライナに帰属することとしたのです。これ以降、クリミア半島はウクライナ領とされてきましたが、そこに住むロシア人たちは、ソ連崩壊後、西側に揺れ動いていくウクライナの政権に反感を覚えていたことは想像に難くありません。

 そして、2014年、クリミア州はクリミア自治共和国としてセヴァストプリ特別区とともに自らロシア連邦と一員となるとする条約に調印し、ロシアへの併合が行われました。

 さらに今回、ロシアのプーチン大統領は軍事侵攻の前々日、ウクライナ国内のロシア人居住地であるドネツク州を「ドネツク人民共和国」、ルガンスク州を「ルガンスク人民共和国」として独立承認することを閣議決定し、独立を承認する大統領令に署名しました。

 そして、224日、ウクライナがロシア人に対してジェノサイド(大量虐殺)を行っており、ロシア人の命を守るためにウクライナに侵攻する、と宣言しベラルーシ国境近くの北側とクリミア半島から、そして、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国からの軍事派遣要請に従って東側からウクライナ国内に侵攻を行ったのです。

russia05.jpg

(独立承認を発表するプーチン大統領 mainichi.com)

 それは、ロシアの一方的な宣言によって行われ、首都キエフにはロシア軍が迫り、南部や東部の中核都市が一斉にロシア軍に侵略されるという事態に至りました。

 ウクライナとロシアの間には歴史的にも近年にも領土をめぐる紛争があったことは事実ですが、ドネツクやルガンスクの東部では紛争停戦のため、2015年にミンスク合意が締結されました。にもかかわらず、ロシアはこれを無視して一方的にウクライナに攻め入ったのです。

 ウクライナという国際的にもその主権が認められた国家に理由はともあれ、一方的に軍事浸入を行い、国家、国民を殺戮することは国際ルールを無視した一方的な宣戦布告に他なりません。これは、これまでの国際法に照らしても国際ルールをすべて無視する暴挙、国家侵略としか言いようがありません。

【一日も早く市民の殺戮をとめなくては】

 ウクライナの市民は、突然蹂躙された国家がロシアに征服されないために高齢者や子供とその母親を除いてすべての国民がロシアと闘う決意を固めています。そして、欧米からの軍事支援も効果を挙げて、ウクライナはロシアのキエフ侵攻を強い抵抗によって食い止めている状況です。

 恐らく侵攻後、数日でキエフを制圧し、ロシアの傀儡政権を打ち立てようともくろんだプーチン大統領の戦略は、ウクライナ国民の予想外の頑強な抵抗により侵攻後1カ月以上も遅れ、破たんしつつあります。このため、ロシアはロシア国内黒海に進出した戦艦から数百発ものミサイルを発射し、ウクライナの主要都市を空爆しています。その初期には、軍事施設を攻撃していたミサイル郡ですが、思わぬ抵抗へのイラダチと停戦をできる限り優位すすめるとの目的で、学校や病院、避難先である劇場など、市民が避難している施設への無残な攻撃を続けています。

russia06.jpg

(ミサイル攻撃を受けた避難先の劇場 news.yahooより)

 ソ連崩壊後にロシア共和国の大統領に就任して以来22年間、プーチン大統領は極めて冷静で的確な政策を強力に推し進めることにより、ロシアをエネルギー大国に押し上げてその経済を立て直し、チェチェン独立に対しても強権を発動して軍事力で制圧して国内をまとめてきました。しかし、旧ソ連時代の衛星国が次々に革命のために民主主義政権へと移行し、その最後の砦がベラルーシであり、ジョージアやモルドヴァなども独立し、確かにウクライナはクリミアも含めてロシアにとっては死守すべき砦となったとき、プーチン大統領はその戦略を誤ったとしか思えません。

 市民を狙い、無差別殺戮を行うプーチン大統領は、もはやかつてロシアを侵略したナポレオンやヒトラーと何ら変わらない犯罪人、殺戮者に成り下がりました。

 心ある国際社会の国々とその市民は、あらゆる手段を使ってロシアの暴挙を止めることが必要です。東部の都市マリウポリでは、40万人の住民が避難もできず、電気、ガス、水道も止まり、食料さえもなくなっていると言います。あまつさえ、ロシアはマリウポリに降伏を申し入れ、さらなるミサイル攻撃を続けています。ウクライナ市民は降伏を拒否しましたが、この都市の市民を救うためにもプーチン大統領に不毛な戦争の停止を選択させる必要があります。

 皆さん、ウクライナ市民のためにも、我々の未来のためにも、心を一つにしてこの戦争にNOを言い続けましょう。

 それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。




北京オリンピック 心からの感動

こんばんは。

 今年の冬季オリンピックは、東京オリンピックに引き続いてコロナ禍の中での開催となりました。

 中国は一党支配の国であり、共産党の威信にかけてこのオリンピックを成功させようと万全の体制を敷いてきました。そのバブル政策は徹底していて、選手はもちろん取材陣もその滞在力は一歩も外に出られない隔離を行っています。その徹底ぶりはすさまじく、民主国家ではとてもマネできない強制的な仕組みです。

 そのおかげもあり、一部のスタッフに入国後の検査で陽性者も出ましたが、それぞれの会場は安全が保たれ、出場選手たちは思う存分実力を発揮できたのではないでしょうか。

 その政治的思惑はともかく、北京オリンピックもこれまでのオリンピック以上に我々の心に熱い感動を生んでくれました。

【心に刻まれた日本選手たち】

 フィギアスケートでは、初の団体銅メダルという快挙もありましたが、なんといっても注目は、男子フィギアの面々です。

 今回のオリンピックで、日本は過去最多のメダルを獲得しました。そのうち4つのメダルはフィギアスケートで獲得。日本選手の層の厚さが際立ちました。男子フィギア陣は2つのメダルに輝きました。銀メダルに輝いた新星、鍵山優真選手と銅メダルを獲得した宇野昌磨選手です。メダル獲得のカギを握ったのはやはり4回転ジャンプでした。もちろん、前提としては芸術点につながる全身を使った大きな演技やステップ、そしてスピンなどのしなやかさや正確性が求められるわけですが、最後にポイントとなったのはやはり4回転ジャンプでした。

 宇野昌磨千選手は前回大会に銀メダルを取得し、その後一時期、完璧なジャンプが飛べない時期もありました。しかし、自らの迷いを振り切り、前回大会のリベンジに燃えるアメリカのネイサン・チェン選手の演技や元オリンピアンの父親がコーチのつく鍵山選手の躍進を肌で感じながら、自らの技に磨きをかけ、納得のいく演技を目指しました。そして、新たなコーチ、ステファン・アンビエールしとの出会いが自らを覚醒させたと語って言います。

 そのフリーのプログラムは、4回転ジャンプが5本入るという超高難度。まさに自ら高い目標を掲げて果敢に挑戦する姿勢に感動します。

 そして、今回新たにオリンピックに登場した18歳の鍵山優真選手。そのジャンプは高さも回転スピードも美しく、その技のすばらしさは特別です。

 そんな鍵山選手にも大きな課題がありました。

 それは、演技を魅せる力の不足です。オリンピアンの解説者たちは、大きく伸びやかな演技、世界観を表わす表現、華麗なステップなど、様々な表現で語りますが、オリンピアンは確かにその演技に表現すべき世界観を持っています。フリーの演技に独自の世界が必要と考えた鍵山親子は、浅田真央選手の振り付けも担当したロシアの振付師、ローリー・ニコルさんに振り付けを依頼します。その振り付けは、「アバター」でした。そう、ジェイムス・キャメロン監督の傑作SF映画の世界観を表現した振り付けです。

 NHKBSの「スポーツ&ヒューマン」の中に鍵山優真選手親子に密着したドキュメンラリーがありました。その題名は「殻をやぶるなら、いま フィギアスケート 鍵山優真」。厳しい練習、厳しいアリンピアンスケーターだった父の指導。そして、覚醒。この番組の中で、はじめは鍵山の演技に細かすぎるほどの注文を付け続け、限りないダメ出しを続けるローリー・ニコルさんが、覚醒しつつある景山選手の演技の変化を、リモートの画面で観ながら、「まるでリンクの横で見ているような素晴らしい演技をみせてくれた。」と感動したのです。

 そして、初出場のオリンピックでみごと齗メダルに輝いたのです。

 さらに、メダルには届きませんでしたが、メダルとは別の感動を我々に届けてくれたのが、フィギアスケートの象徴ともいえる羽生弓弦選手でした。

 羽生選手がはじめてオリンピックで金メダルに輝いたのは2014年のソチオリンピック。このとき19歳だった羽生選手は、アジア男子初の金メダル、そして、史上二人目の十代での金メダリストとなったのです。そして、2018年のピョンチャンオリンピックでは、右足にけがをかかえながらも完ぺきな4回転ジャンプと演技を見せてオリンピック連覇を成し遂げました。

 北京オリンピックでは3連覇かと期待が高まる中、彼が挑んだのは新たなる挑戦への道でした。

 それは、フィギアスケート界で前人未到の4回転アクセルへの挑戦です。

 オリンピックといえば、すべてのアスリートたちが目標とするのは金メダルです。それ故に大会ではどの国がどれだけのメダルを獲得したかが話題となります。しかし、羽生選手は違いました。それは、9歳のころから自らの夢であった「アクセルジャンプを極める」ことの実現だったのです。その挑戦がどれほど険しいものだったのか。それは、オリンピック演技後の羽生選手のコメントからもうかがい知ることができます。

 4回転アクセルは、前を向いた状態からジャンプに踏み切るために回転数は実際には4回転半となります。キチンと着氷し、演技を連続させるためにはこれまでよりも半回転多く飛ぶ必要があるのです。そして、この挑戦は5回転にもつながる挑戦ともいえるのです。それゆえに女子フィギア界でも3回転アクセル(トリプルアクセル)が選手の代名詞となる大技と呼ばれるのです。

 羽生選手は、9歳のころに手ほどきを受けていた都築さんが語っていた「アクセルジャンプは王者のジャンプだ」との言葉を胸に、競技を続けてきました。そして、会見では、「僕の中にいる9歳の自分が4回転アクセルと飛べとずっと言っている。」とも語っています。しかし、前人未到の4回転半は、羽生選手をしてもはるかに高みの目標だったのです。

 様々なインタビューでも、「練習でもまるで壁に向かって飛んでいるようなもの。」、「まぜこんなに苦しい思いをするのか、初めてスケートをやめたいとまで思った。」、「やっと壁にほんの少しのとっかかりを見つけつあります。」など体を酷使し、血のにじむような努力を続けていたことをうかがい知ることができます。そして、北京オリンピック後のインタビューでは、「努力が報われないことがあると思った。」とまで語っています。

 今回、ショートプログラムでは氷についた傷穴にエッジがはまり、最初の4回転が1回転になってしまいショートプログラムは8位。さらにフリーの練習で足をくじき、痛み止めの注射で感覚を麻痺させてフリーに臨んだと言います。それでも羽生選手は、フリーの演技で4回転アクセルを飛びました。そのジャンプは着氷できず、転倒という結果となりましたが、その後の演技を完璧にやり遂げ、4位となりました。最後まで滑り切ったその姿に、羽生選手の覚悟と生き方を見ることができました。そして、心から感動しました。

 その4回転アクセルは、国際スケート連盟主催の大会ではじめて「4回転アクセル」として認定され、歴史のその名を刻みました。

 世界から注目を集めた羽生選手は、その後の合同記者会見で、「みんな生活の中で何かしら挑戦していると思います。それが生きることだと思いますし、守ることだって挑戦です。何一つ朝鮮じゃないことは存在していないと思うから、」と語りました。いったい世界中のどれだけの人々がこの言葉に勇気づけられたことでしょうか。まさに生きる力を思い出させてくれる一言でした。

 今回のオリンピックでは、目標に届かなかった人たちの姿にも心を動かされました。

 スノーボードでは、アメリカのレジェンド、ジョーン・ホワイト選手が引退を表明した最後のオリンピックになりました。これまで2大会、彼の姿を追いかけて2度金メダルを阻まれて連続齗メダルとなっていた平野歩選手が、人類最強の技を携えてハーフパープに挑戦し、みごとな金メダルに輝きました。2回目の演技で前人未到の技を成功させたにもかかわらず、2位の得点であった歩選手が、「怒り」を力に変えて3回目の演技で最高得点をたたき出した姿は涙ものでした。

 さらに感動したのは、この決勝の部舞台に日本人選手が4人もいたことです。歩夢選手の弟の海祝選手、戸塚優斗選手、平野流佳選手。すべての選手が果敢におおきなトリックに挑戦しました。これまで、ショーン選手と平野歩選手の間で行われていた切磋琢磨が日本人の中で行われるのかと思うと、より大きな感動が呼び起こされます。

 スノ-ボードと言えば、スノーホード女子ビッグエアでは村瀬心椛選手が最年少で銅メダルに輝きました。もちろん、1回目、2回目と素晴らしいトリックを成功させた姿に心を動かされましたが、同じく決勝に残った岩淵麗楽選手、そして鬼塚雅選手の演技には感動しました。岩淵選手は、村瀬選手と同じく1回目、2回目で得点を確保するトリックを手堅く決めましたが、3回目に繰り出したのは、大技「トリプルアンダーフリップ(後方3回宙返り)でした。技はおしくも着地に失敗しましたが、演技を終えた岩淵選手の下に各国の選手が駆け寄って、大技に挑戦した岩淵選手を抱き合い、たたえる姿には本当に心を動かされました。

 そして、鬼塚雅選手です。彼女は19歳の時にピョンチャン大会の日本代表に選抜され、はじめてのオリンピックでは思うような成果は上げられませんでした。そのくやしさをバネにすべてを費やして練習を重ね、2020年のXゲームでは「キャブダブルコーク1260」(縦2回転横3回転半)を決めて優勝していました。前回のリベンジを期した鬼塚選手は、守りに入ることなく、1回目から果敢にこの技に挑戦してきました。

 しかし、北京のビッグエア着地点は角度が急激で着地点を見極められずに転倒し、斜面に頭から突っ込みました。ふつう、頭からの転倒を味わうと怖さが出てしましますが、彼女は、第2回、第3階と果敢にこの技に挑戦したのです。その姿は、順位や結果を超えて我々に大きな感動を感じさせてくれました。

【リベンジを目指したオリンピアン】

 今年の日本代表には、前回から引き続いて出場した選手たちが多くいました。

 コロナ禍の中、この北京オリンピックをめざして費やしてきた4年と言う歳月。それを背負った彼らの闘いは、我々に勇気と希望を与えてくれました。

 スキージャンプでは、ピョンチャンオリンピックで7位だった小林陵侑選手が、この4年間で培ってきた技術力と体力をみごとに表現し、ノーマルヒルで金メダル、ラージヒルでの銀メダルの2冠に輝きました。

 女子では、前回銅メダルを獲得した日本のエース高梨沙羅選手が北京に臨みます。

 高梨選手は、ピョンチャンオリンピックでこれまで作り上げてきた自分のスキージャンプではこれ以上の飛躍にはつながらない、と冷静に判断し、オリンピック終了後に自らのジャンプをゼロベースで見直す取り組みに着手しました。にもかかわらず、ワールドカップではしっかりと優勝回数を更新し、昨年は通算優勝60勝の記録を打ち立てました。しかし、今回のオリンピックでは高梨選手を不運が襲います。

 女子スキージャンプの第2回目では、3位の選手にわずか0.3ポイント差で4位となりメダルを逃しました。3位の選手の飛距離は94m、高梨選手の飛距離は100mでしたが、高梨選手の時にはわずかに向かい風なっており、風補正と飛型点の得点差によって4位となってしまったのです。さらに団体戦。高梨選手は103mの大ジャンプを決めて首位になりましたが、スーツ規定にひっかかり失格となってしまったのです。今までの努力を知る我々にはなんとも納得のいかない判定でした。

 審判やジャッジは絶対、ルールは守ることがフェアなプレーの基本ですが、そこには透明性が必要と考えるのは私だけでしょうか。

 しかし、高梨選手はその時こそ『涙にくれていましたが、オリンピック後に気持ちを切り替えて、次のワールドカップへと転戦しています。その姿に我々も再び心を動かされます。

 スピ-ドスケートでは、前回大会でも活躍した高木美帆選手の4つのメダル獲得には胸が躍りました。中でも、世界記録保持者でもある1500mが齗メダルで悔しい思いをした後の1000m。オリンピック記録をたたき出す会心のレースでみごと金メダルを勝ち取った姿は、やりきった明るい表情が素晴らしく、心が晴れやかになりました。

 ここでもメダルの画下に不運が潜んでいました。高木美帆選手の姉で3大会出場を果たした高木菜那選手を襲った出来事です。前回大会、高木兄弟と佐藤綾乃選手は女子スピードスケート団体パシュートでみごと世界新記録をたたき出し、金メダルを獲得しています。また、高木菜那選手はマススタートで金メダルを獲得し、2種目を制覇しました。

 ところが、今年のパシュートでは、決勝でカナダと対戦、最終コーナー残り100mまで日本はトップを走っている、まさに2連覇が目の前でした。ところが、最終のカーブをまわるときに最後を走る高木菜那選手のエッジが氷面からはずれ、痛恨の転倒となってしまったのです。菜那選手にとってはまさに悲しみの齗メダルでした。しかし、涙にくれる七選手に無言で寄り添い方を抱き合っていた高木美帆選手と佐藤綾乃選手。そして、その3人を囲むように静かに見守るチーム日本の面々。そこにこれまで築き上げてきた努力を共有してきた人々の温かい想いを感じて、胸が熱くなりました。

 驚くことに高木菜那選手は、その後の2連覇がかかるマススタートの予選でも、パシュートと同じカーブにさしかかったとき同じように転倒し、予選敗退となりました。しかし、高木菜那選手は、今回の大会で今まで気づかなかった大切なものに気づかされたと語りました。それこそが、支えてきてくれたチームの人々の心の絆だったのです。

 さて、北京オリンピックの感動を語りだすとキリがありませんが、最後に前回大会に続き日本代表として出場し、涙と笑顔と元気で見事に銀メダルを獲得した女子カーリングの「ロコ・ソラーレ」が今回の大会の有終の美を飾ってくれました。ロコ・ソラーレは、本大会、予選で9チームと総当たりの試合で54敗。予選敗退と思ったところが、予選最終戦で韓国がスウェーデンに敗退、奇跡のように決勝にコマを進めました。決勝でのスイスとの闘いは、まさに氷を読み切りすべてのショットがはまった会心の試合でした。

 今回のオリンピックで、最も長時間観戦したのがカーリングでした。すべての試合で興奮と感動を呼ぶ素晴らしい時間を過ごすことができ、ロコ・ソラーレの皆さんに感謝しています。

 オリンピックには参加した選手の数だけドラマが秘められています。

 それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。




明けましておめでとうございます

令和四年 
 明けましておめでとうございます。


2022.jpg
 新春を迎え、皆様のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

 今年も、新たなコロナウィルスとの生活が続いていきます。日本では、お辞儀とマスクの文化で感染対策が奏功しているように見えます。今年も皆さん心を一つにして、感染対策によって新しい世界が開けることをを目指しましょう。

 「日々雑記」も外出自粛の影響もあり、ご無沙汰する日々が多くなりましたにもかかわらず、ご訪問頂いている皆様にはただただ感謝々々です。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。

気になる衆議院選挙と経済成長

こんばんは。

  菅総理大臣が自民党総裁選への出馬を取りやめ、事実上辞任を表明してから、総裁任期を迎えて自民党内での総裁選挙を経て、岸田文雄氏が100代目の内閣総理大臣に就任しました。

  戦後、長きにわたり総理大臣の最長任期を更新してきたのは自民党政権でした。

  その政治的戦略は、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘を経て安倍晋三へと引き継がれ、現在に至っています。その途中には、さきがけの村山さんが中心となった野党連合政権、社会党の村山さんを総理とした連立政権、そしてフィクサーである小沢さんが仕掛けた民主党政権がありましたが、日本の政治の本流は自由民主党によって形作られてきました。

sennkyo01.jpg

(岸田内閣の政策を語る総理 toyokeizai.net)

  しかし、エコノミーアニマルと世界から揶揄されつつも驚異の経済成長を遂げて、たった20年余りの間に世界第2位の経済大国へと登りつめた日本は、平成の始まりとともに成長することをやめてしまったのです。

  いったい何が日本を停滞させてきたのでしょうか。

【失われたのは30年もの年月】

  日本の停滞が始まったのは、バブル崩壊からでした。

  1990年代に始まったバブル崩壊後、金融機関の多くが大小にかかわらず破たんし、日本の担保物件である不動産は無価値となって、すべての債権(借金)は担保と価値の両方を失いました。担保のない債権が不良債権として回収不可能となり、日本経済は破たんの危機に直面したのです。

  このときに政治はどう対応したのか。

  1990年代の政治状況は惨憺たるものでした。1992年に佐川急便事件が起き、金丸信が議員辞職。小沢一郎が新生党を立ち上げて自民党政権が崩壊し、細川護熙政権が誕生しました。しかし、この内閣は迷走し、1994年には自社さきがけ連合が政権を取り、村山内閣が誕生します。この状況では効果的な経済政策の出動もできず、すべては後手に回ったのです。

  不良債権の処理は、1997年頃にはめどがついたのですが、その影響はすべての企業の先行投資を消極的にし、企業の活力の下である職員の新規採用さえも見送られ、日本経済の低迷は就職氷河期とともにその後、日本を長く苦しめることになります。

  バブル崩壊に端を発した経済の低迷は、その後30年を経た今でも尾を引いています。

  2000年代にはインターネットバブルで一時景気は持ち直しましたが、2009年にはリーマンショックが世界経済を不況に陥れ、その後、安倍政権によって安定を得た自民党政権がアベノミクスによって株価を押し上げましたが、それは成長経済とは程遠いものでした。

  確かにアベノミクスは三本の矢によって景気に刺激を与えました。とくに金融政策の発動は、株価を押し上げて一時日経平均は3万円の大台を回復したのです。しかし、30年前、バブル崩壊前夜には、日経平均は38915円をつけていました。

  アメリカ経済は、2009年にリーマンショックにより一時不況に突入しましたが、緊急経済対策が功を奏し、早くに危機を脱しました。

  株価を見てみると、日本の株価が30年前の日経平均の最高値をいまだに越えられないのに比べて、アメリカの株価指数(「S&P500」)は、この30年間で353.4から3230.89.14倍も成長しています。また、ヨーロッパの優等生と言われるドイツでは、株価指数が1989年の1790.37から2019年には13249.01へと7.4倍に成長しているのです。

sennkyo02.jpg

(好調を続けるNYダウ平均株価 yomiuri.co.jp) 

  一方で、世界経済内での日本の経済力のウエイトですが、1989年には15.3%であったものが、2018年には5.3%まで下がっています。ちなみにアメリカも28.3%から23.3%と下がっていますが、日本ほど凋落してはいないといえます。この間には、中国が2.3%から16.1%、さらに新興国、開発途上国全体で18.3&から40.1%へと飛躍的に高まっています。

  こうした低迷は、日本経済が世界の経済構造の変化についていけてないことが大きな要因です。

  この夏、2021年の世界企業ランキングがフォーチュンから発表されましたが、その1位はアメリカのスーパーチェーン、ウォルマート。第2位は中国の電力会社、第3位はアマゾンでした。第4位と第5位は中国の石油天然ガスの供給企業、そして、第6位はアップルです。

  日本企業では、世界のトヨタ自動車が第9位ですが、そこから日本企業を探すと大きく下って、第48位にホンダが入っています。このランキングは上位500位までが発表されるのですが、今年入った日本企業は52社でした。ちなみに1989年のランキングでは日本企業は111社が名を連ねていたのです。

  日本の技術やそれを支える技術者、職人のスキルは今だ世界トップレベルですが、世界ではIT企業が経済の成長を支えています。アマゾン、アップルを筆頭に、フェイスブックやグーグル、中国ではファーウェイ、アリババ、TikTokなど、ネット社会のインフラを支える企業がのきなみ高成長をあげているのです。

【日本では誰もが既得権と身の保身が第一】

  日本が世界の構造変化についていけていない理由は、その保守性にあります。かつて、日本は海外の工業製品の技術を学び、日本人独自のきめ細かさで世界の水準を上回る製品を作り上げ、その製品を輸出することで経済成長を遂げました。高度経済成長を経て、豊かになった日本はバブルの崩壊とともにその豊かさを守るため新しい分野に打って出ることをやめてしまったのです。

  かつては、日本の官僚たちも守るものはなにもなく、リスクを冒しても発展するために新しい製品の開発と輸出に主導的な役割を果たしました。自動車産業も電気産業も総合商社も、民と官が一体となって創造と販売に打って出ていました。ところが、今や官僚たちは豊かになった自らの権限を守り、不必要なまでの規制をかざし、そのためには政治家への忖度までもいとわない体質へと変わってしまいました。

sennkyo03.jpg

(官僚たちの熱き心を描いた名作 amazon.co.jp)

  政治家はどうでしょう。

  アベノミクスの第三の矢は、成長戦略でした。しかし、総理大臣が成長を促しても身の保身を第一に考える大企業は、人件費の増加を渋り、デジタル化や設備・研究への投資も行わず内部留保だけを着実に増やしていきました。その票をあてにする政治家たちもその姿勢におもねります。

  さらに官僚もIT技術を日本国内で経済に繋げようとは考えていません。例えば、携帯電話の通信を司る総務省では、これまでの権益を守ることばかりに熱心で、ITCの発展や新規研究開発を制限こそしても、発展、産業化させようとは毛頭考えていないように見えます。

  政治家は、豊かになった社会を守るため、赤字国債を垂れ流して借金を増やすばかりで、成長戦略を法制化して本気で新たな経済ネタ(税収)を創造しようとしてはいないのです。

  今回、岸田総理の就任直後解散によって、衆議院選挙が行われようとしています。岸田さんはコロナで疲弊した経済にカンフル剤を投入しようと、数十兆円規模の経済支援予算を公約しています。もちろん、国民の生活を守るための経済支援も大切ですが、それよりも頭の良い官僚たちが数十年をかけて築き上げてきた規制と権益の城を崩し、新たな産業の創出のために規制撤廃法の制定と資金の拠出を行わなければ、失われた30年は、失われた40年、50年になっていき、日本の未来は消えていくのです。

  今回の選挙で、野党は口をそろえて「改革」なき自公政権を交代させよう、と演説しますが、果たして立憲民主党に日本を成長させることができるのでしょうか。前民主党政権では、自民党を否定することに終始し、優秀である官僚に進むべき方向をしめすこともなく、事業仕分けなど、自己満足の政策に時間をかけていました。演説では、その経験を糧とすると語りますが、ぜひその言葉通りにお願いしたいものです。

sennkyo04.jpg

(大阪で選挙演説を行う枝野代表 asahi.com)

  日本の未来に危機感を持って臨む政治家はどこにいるのでしょうか。

【日曜日にはみんなで選挙に行こう!】

  選挙とは、民主主義国家の民度を図るバロメーターです。

  確かに、この衆議院選挙では、立候補者に本気で日本の国内に築かれた古い壁を打ち壊そうとする気概を感じることができません。近年の投票率の低さは、政治家たちの姿勢に身の保身を感じてしまい、自らの票をたくそうと思えないことが原因だと思えます。

  しかし、たとえ白紙でも構いません。選挙で投票することは、民主主義、自由主義の形態をとる限り、民意を表明するために必要な、根幹をなす行動なのです。投票率が50%前後であれば、信認か不信認かは不明ですが、投票率が80%でそのうち無効票が30%あったとすればどうでしょう。

  これは、日本の政治家への大いなる警鐘となるに違いありません。さらに、その無効票を獲得するために変革を巻き起こす候補者が出現するかもしれません。

  大阪大学の研究では、日本の経済が世界に比して活性化しにくいのは、日本人が成功者を「ねたむ」気質を持ち、成功者の足を引っ張っているためだ、とも言われています。確かに江戸時代から下を見ることを強いられてきた農耕民族では、出る杭を打って村八分にする文化が根付いたのかもしれません。しかし、昭和の高度成長を見れば、日本経済が停滞を続けているのは決してそれが理由ではないはずです。

  今回の選挙後の政治家には、コロナ禍で苦しんでいる経済弱者の救済とともに、失われた30年が継続しないための規制改革と冒険促進政策を推進してほしいと心から願います。それは、政権を担う政党が、自民党であって、も公明党であっても、立憲民主党であっても、維新の会であっても変わらない日本人の願いなのです。

  コロナウィルスの新規感染は落ち着きつつありますが、寒さが募る冬、再び感染拡大に急変するかもしれません。皆さん、油断なく感染対策を行い、安全に投票へと向かいましょう、

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。



気になる衆議院選挙と経済成長

こんばんは。

  菅総理大臣が自民党総裁選への出馬を取りやめ、事実上辞任を表明してから、総裁任期を迎えて自民党内での総裁選挙を経て、岸田文雄氏が100代目の内閣総理大臣に就任しました。

  戦後、長きにわたり総理大臣の最長任期を更新してきたのは自民党政権でした。

  その政治的戦略は、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘を経て安倍晋三へと引き継がれ、現在に至っています。その途中には、さきがけの村山さんが中心となった野党連合政権、社会党の村山さんを総理とした連立政権、そしてフィクサーである小沢さんが仕掛けた民主党政権がありましたが、日本の政治の本流は自由民主党によって形作られてきました。

sennkyo01.jpg

(岸田内閣の政策を語る総理 toyokeizai.net)

  しかし、エコノミーアニマルと世界から揶揄されつつも驚異の経済成長を遂げて、たった20年余りの間に世界第2位の経済大国へと登りつめた日本は、平成の始まりとともに成長することをやめてしまったのです。

  いったい何が日本を停滞させてきたのでしょうか。

【失われたのは30年もの年月】

  日本の停滞が始まったのは、バブル崩壊からでした。

  1990年代に始まったバブル崩壊後、金融機関の多くが大小にかかわらず破たんし、日本の担保物件である不動産は無価値となって、すべての債権(借金)は担保と価値の両方を失いました。担保のない債権が不良債権として回収不可能となり、日本経済は破たんの危機に直面したのです。

  このときに政治はどう対応したのか。

  1990年代の政治状況は惨憺たるものでした。1992年に佐川急便事件が起き、金丸信が議員辞職。小沢一郎が新生党を立ち上げて自民党政権が崩壊し、細川護熙政権が誕生しました。しかし、この内閣は迷走し、1994年には自社さきがけ連合が政権を取り、村山内閣が誕生します。この状況では効果的な経済政策の出動もできず、すべては後手に回ったのです。

  不良債権の処理は、1997年頃にはめどがついたのですが、その影響はすべての企業の先行投資を消極的にし、企業の活力の下である職員の新規採用さえも見送られ、日本経済の低迷は就職氷河期とともにその後、日本を長く苦しめることになります。

  バブル崩壊に端を発した経済の低迷は、その後30年を経た今でも尾を引いています。

  2000年代にはインターネットバブルで一時景気は持ち直しましたが、2009年にはリーマンショックが世界経済を不況に陥れ、その後、安倍政権によって安定を得た自民党政権がアベノミクスによって株価を押し上げましたが、それは成長経済とは程遠いものでした。

  確かにアベノミクスは三本の矢によって景気に刺激を与えました。とくに金融政策の発動は、株価を押し上げて一時日経平均は3万円の大台を回復したのです。しかし、30年前、バブル崩壊前夜には、日経平均は38915円をつけていました。

  アメリカ経済は、2009年にリーマンショックにより一時不況に突入しましたが、緊急経済対策が功を奏し、早くに危機を脱しました。

  株価を見てみると、日本の株価が30年前の日経平均の最高値をいまだに越えられないのに比べて、アメリカの株価指数(「S&P500」)は、この30年間で353.4から3230.89.14倍も成長しています。また、ヨーロッパの優等生と言われるドイツでは、株価指数が1989年の1790.37から2019年には13249.01へと7.4倍に成長しているのです。

sennkyo02.jpg

(好調を続けるNYダウ平均株価 yomiuri.co.jp) 

  一方で、世界経済内での日本の経済力のウエイトですが、1989年には15.3%であったものが、2018年には5.3%まで下がっています。ちなみにアメリカも28.3%から23.3%と下がっていますが、日本ほど凋落してはいないといえます。この間には、中国が2.3%から16.1%、さらに新興国、開発途上国全体で18.3&から40.1%へと飛躍的に高まっています。

  こうした低迷は、日本経済が世界の経済構造の変化についていけてないことが大きな要因です。

  この夏、2021年の世界企業ランキングがフォーチュンから発表されましたが、その1位はアメリカのスーパーチェーン、ウォルマート。第2位は中国の電力会社、第3位はアマゾンでした。第4位と第5位は中国の石油天然ガスの供給企業、そして、第6位はアップルです。

  日本企業では、世界のトヨタ自動車が第9位ですが、そこから日本企業を探すと大きく下って、第48位にホンダが入っています。このランキングは上位500位までが発表されるのですが、今年入った日本企業は52社でした。ちなみに1989年のランキングでは日本企業は111社が名を連ねていたのです。

  日本の技術やそれを支える技術者、職人のスキルは今だ世界トップレベルですが、世界ではIT企業が経済の成長を支えています。アマゾン、アップルを筆頭に、フェイスブックやグーグル、中国ではファーウェイ、アリババ、TikTokなど、ネット社会のインフラを支える企業がのきなみ高成長をあげているのです。

【日本では誰もが既得権と身の保身が第一】

  日本が世界の構造変化についていけていない理由は、その保守性にあります。かつて、日本は海外の工業製品の技術を学び、日本人独自のきめ細かさで世界の水準を上回る製品を作り上げ、その製品を輸出することで経済成長を遂げました。高度経済成長を経て、豊かになった日本はバブルの崩壊とともにその豊かさを守るため新しい分野に打って出ることをやめてしまったのです。

  かつては、日本の官僚たちも守るものはなにもなく、リスクを冒しても発展するために新しい製品の開発と輸出に主導的な役割を果たしました。自動車産業も電気産業も総合商社も、民と官が一体となって創造と販売に打って出ていました。ところが、今や官僚たちは豊かになった自らの権限を守り、不必要なまでの規制をかざし、そのためには政治家への忖度までもいとわない体質へと変わってしまいました。

sennkyo03.jpg

(官僚たちの熱き心を描いた名作 amazon.co.jp)

  政治家はどうでしょう。

  アベノミクスの第三の矢は、成長戦略でした。しかし、総理大臣が成長を促しても身の保身を第一に考える大企業は、人件費の増加を渋り、デジタル化や設備・研究への投資も行わず内部留保だけを着実に増やしていきました。その票をあてにする政治家たちもその姿勢におもねります。

  さらに官僚もIT技術を日本国内で経済に繋げようとは考えていません。例えば、携帯電話の通信を司る総務省では、これまでの権益を守ることばかりに熱心で、ITCの発展や新規研究開発を制限こそしても、発展、産業化させようとは毛頭考えていないように見えます。

  政治家は、豊かになった社会を守るため、赤字国債を垂れ流して借金を増やすばかりで、成長戦略を法制化して本気で新たな経済ネタ(税収)を創造しようとしてはいないのです。

  今回、岸田総理の就任直後解散によって、衆議院選挙が行われようとしています。岸田さんはコロナで疲弊した経済にカンフル剤を投入しようと、数十兆円規模の経済支援予算を公約しています。もちろん、国民の生活を守るための経済支援も大切ですが、それよりも頭の良い官僚たちが数十年をかけて築き上げてきた規制と権益の城を崩し、新たな産業の創出のために規制撤廃法の制定と資金の拠出を行わなければ、失われた30年は、失われた40年、50年になっていき、日本の未来は消えていくのです。

  今回の選挙で、野党は口をそろえて「改革」なき自公政権を交代させよう、と演説しますが、果たして立憲民主党に日本を成長させることができるのでしょうか。前民主党政権では、自民党を否定することに終始し、優秀である官僚に進むべき方向をしめすこともなく、事業仕分けなど、自己満足の政策に時間をかけていました。演説では、その経験を糧とすると語りますが、ぜひその言葉通りにお願いしたいものです。

sennkyo04.jpg

(大阪で選挙演説を行う枝野代表 asahi.com)

  日本の未来に危機感を持って臨む政治家はどこにいるのでしょうか。

【日曜日にはみんなで選挙に行こう!】

  選挙とは、民主主義国家の民度を図るバロメーターです。

  確かに、この衆議院選挙では、立候補者に本気で日本の国内に築かれた古い壁を打ち壊そうとする気概を感じることができません。近年の投票率の低さは、政治家たちの姿勢に身の保身を感じてしまい、自らの票をたくそうと思えないことが原因だと思えます。

  しかし、たとえ白紙でも構いません。選挙で投票することは、民主主義、自由主義の形態をとる限り、民意を表明するために必要な、根幹をなす行動なのです。投票率が50%前後であれば、信認か不信認かは不明ですが、投票率が80%でそのうち無効票が30%あったとすればどうでしょう。

  これは、日本の政治家への大いなる警鐘となるに違いありません。さらに、その無効票を獲得するために変革を巻き起こす候補者が出現するかもしれません。

  大阪大学の研究では、日本の経済が世界に比して活性化しにくいのは、日本人が成功者を「ねたむ」気質を持ち、成功者の足を引っ張っているためだ、とも言われています。確かに江戸時代から下を見ることを強いられてきた農耕民族では、出る杭を打って村八分にする文化が根付いたのかもしれません。しかし、昭和の高度成長を見れば、日本経済が停滞を続けているのは決してそれが理由ではないはずです。

  今回の選挙後の政治家には、コロナ禍で苦しんでいる経済弱者の救済とともに、失われた30年が継続しないための規制改革と冒険促進政策を推進してほしいと心から願います。それは、政権を担う政党が、自民党であって、も公明党であっても、立憲民主党であっても、維新の会であっても変わらない日本人の願いなのです。

  コロナウィルスの新規感染は落ち着きつつありますが、寒さが募る冬、再び感染拡大に急変するかもしれません。皆さん、油断なく感染対策を行い、安全に投票へと向かいましょう、

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。



明けましておめでとうございます

 
令和三年 
 明けましておめでとうございます。

2021あけおめ.jpg

 新春を迎え、皆様のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

 昨年は、コロナウィルスとの闘いに誰もが厳しい毎日を味わいました。今年は、皆さん心を一つにして明るい世界を目指しましょう。

 「日々雑記」も人やイベントとのつながりがなくなり、月一ブログとなっていました。にもかかわらず、ご訪問頂いた皆様にはただただ感謝です。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。

ベートーベン生誕250年にちなんで

こんばんは。

  コロナ禍は、第2波がピークを過ぎ、落ち着くかに見えましたが一転またも猛威を振るい、第3波の拡大が懸念される様相を呈してきました。

  ウィルスの感染防止と経済再生を両立させるのは本当に難しい。

  ところで、近年最も残念だったことのひとつに12月のベートーベン生誕250年にちなんだコンサートがキャンセルになったことがあります。

  今や日本ではファンが増えた指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ氏が、自ら育て上げたドイツ・カンマーフィルを率いて来日。12月の9日(水)から13日(日)にかけて東京オペラシティにて、ベートーベンの交響曲9曲をすべて演奏する、という夢のようなコンサートだったのです。その情報を知ったときには、すでに抽選が終了を迎える寸前で、木曜日の4番と5番は何とか手に入れましたが、3番「英雄」や6番「田園」、7番や第九はすべて売り切れだったのです。

  残るは一般発売。発売開始にはネット販売がパンクするのが通例なので、日曜日の第九ワンチャンスに賭けることに決めて、連れ合いと二人で予約サイトにアクセスしました。案の定開始直後にはアクセス不能となり、購入はできないのかと落胆しました。ところが、連れ合いのスマホが奇跡的につながります。なんと、日曜日の交響曲第8番と第九のチケットを手にすることができたのです。

  今年一番の暁光と手に手を取って喜び合いました。

  ところがです。喜びもつかの間、10月14日、運命のメールがパソコンに届きました。なんと、カーマンフィルコンサートキャンセルと払い戻しの連絡だったのです。この連絡は残念と言うよりもショックでした。環境から見て、ドイツの交響楽団が来日することができないことは頭では理解できますが、あのパッシブで流麗な響きで聞くベートーベンがかなわぬ夢となったことは、納得できることではありません。

  心の傷が和らぎ、チケットを払い戻すまでには1カ月ほどかかりました。

  ところで、残念なこともあれば、うれしいこともありました。

  今年の2月に最後のライブに足を運んで以来、ライブはのきなみキャンセルとなっていましたが、久しぶりにライブに参加することができました。そのライブは、日本のボサノヴァの第一人者、小野リサさんの「2020 Love joy and Bossa Nova」コンサートです。小野リサさんのライブは、6年ぶりですが、その変わらないボサボヴァのセンスと優しい歌声にすっかり癒されました。

Beet25002.jpg

(小野リサさん コンサートの会場チラシ)

  ライブのパフォーマーは、ピアノの林正樹さん、ベースの織原良次さん、ドラムスの斉藤良さんです。コロナ禍の中、優しさと癒しを意識したライブは、メロディアスなバラードを意識したセットリストで、「愛の賛歌」、「街の灯り」、「コーヒールンバ」、「テイクファイブ」などおなじみの名曲が並びました。ピアノの林さんは名バイプレーヤーで、その楽しそうにインプロヴィゼーションを繰り広げる姿が印象的でした。

  優しさと癒しとはいえ、ボサノヴァとサンバではノリの良さで会場を盛り上げていました。前半最後には、「テイクファイブ」がアップテンポなリズムで会場を盛り上げ、最後のプレスリーナンバー「GIブルース」では、みごとなブサノヴァアレンジで会場は大いに盛り上がりました。さらには、第2部の最後は、とどめの「マシケナダ」。やっぱり、サンバは盛り上がります。

  さて、キャンセル続きの昨今ですが、今、NHKで放映されている「ベートーベン250プロジェクト」は、クラシックファンならずとも心が躍るなかなか素晴らしい企画です。

【ベートーベンって何が凄いの?】

  10月18日日曜日に放送された「ベートーベン250プロジェクト 第2回」をご覧になったでしょうか。以前にもご紹介した日曜クラシック音楽館の一環なのですが、この番組が本当に素晴らしかったのです。この番組のナビゲーターは、元?SMAPの稲垣吾郎さんです。不覚にも知らなかったのですが、稲垣さんは「NO.9 不滅の旋律」と題された舞台で、ベートーベンを演じていたというのです。まさに主役。そうした意味で、このプロジェクトのナビゲーターとして白羽の矢が立ったのもうなずけます。

  第2回目のお題は、「革命家・ベートーベン」です。

  革命家、といえば確かにフランス革命後、自由・平等・友愛をかかげて市民革命の反動に対し、フランス軍を率いて戦ったナポレオン・ブナパルトに感銘を受けて交響曲第3番「英雄」を作曲したベートーベンですが、そのこととは異なります。ここれの「革命」は、それまでのクラシック音楽に「革命」を起こしたベートーベンンがテーマであることを示しています。

  今回の解説は、指揮者の高関健さんです。高関健さんは、カラヤン最後の弟子と言われ、カラヤンの薫陶を受けた名指揮者ですが、その語り口はとてもわかりやすく、聞き手の吾郎さんとのやりとりも軽妙で楚お話しに引き込まれます。高関さんは、ベートーベンが音楽に巻き起こした3つの革命について、実際にオーケストラを指揮しながら解説してくれるのです。

Beet25003.jpg

(NHK 250プロジェクト twitter.com)

  まず、第一の革命。それは、あの交響曲第5番「運命」の冒頭に象徴されていたという話。世界で最も有名な交響曲と言っても過言ではない「運命」その冒頭は「ジャジャジャジャーン」というたった4つの音です。この交響曲はベートーベンをして最高の交響曲を創るとの思いから捜索されましたが、それはこの4つの音からどれだけの交響曲を作曲することができるか、という課題への挑戦だったのです。

  それを象徴しているのがこの「ジャジャジャジャーン」でした。

  これまで、「運命」の楽譜をまじまじと見たことがありませんでしたが、その最初にかかれているのは音符ではなく、休符だというのです。なぜ休符が最初にかかれているのか。それは、音楽が始まる前に一拍のタメがあるということです。あの「ジャジャジャジャーン」は、正確には「(ン)ジャジャジャジャーン」だということです。

  高関さんは、その(ン)がどれだけ指揮者にとって難題なのかを、実際の指揮によって教えてくれます。その(ン)によって、ベートーベンはこの交響曲の始まりを4つの音から進化させて渾身の響きへと進化させようとしたのです。実際の指揮では、高関さんの解説に合わせて、吾郎さんもオーケストラの指揮に挑戦します。この流れで、我々はベートーベンがどれほど「凄い」ことを考えていたのかを身を持って体験します。

  この(ン)から始まり、その変奏のすばらしさを知った後に聞かせてくれた「運命」は。な・な・なんと、ドイツ・カーマンフィルと指揮者パーヴ・ヤルヴィによる交響曲第5番だったのです。ヤルヴィ氏の緊迫感と高揚感にあふれる「(ン)ジャジャジャジャーン」は、我々の心を射抜きます。東京オペラシティでのベートーメンがコロナ禍のために聞けなくなったことは残念でしたが、この番組がその感動を補ってくれたのです。本当に涙ものの「運命」でした。

Beet25001.jpg

(ヤルヴィ氏 交響曲全集 amazon.co.jp)

  さて、皆さんはベートーベンが起こした革命のあとの二つがきになりますよね。ここから番組は、改めて我々にワンダーを感じさせてくれるのです。

  「感情を音楽で表現する。」

  第二の革命はこれです。今でこそ、J-POPSでも歌謡曲でもジャズでも音楽は我々の感情を表現し、我々の心とのキャッチボールを創りだします。しかし、ベートーベン以前の音楽は、貴族たちスポンサーのために作られたバックグラウンドミュージックでした。そこに大げさな感情がはいることは、スポンサーである貴族たちのサロンでは邪魔臭いものだったのです。しかし、ベートーベンは音楽をサロンから解放し、市民のもとへと取り戻したのです。

  交響曲第5番「運命」と同時に作曲された第6番「田園」。この曲は各章に彼自身が表題をつけています。例えば第一楽章は「田舎に到着したときの愉快な感情のめざめ」と記されています。高関さんは、オーケストラを指揮しながらバート―版がどのようにしてこの曲で感情を表現したかを語ってくれます。木々のささやきや小鳥のさえずりをおなじみの楽器を響かせ合いながら表現し、我々はベートーベンとともに、田舎の田園を散策するすがすがしさを感じることができるのです。

  ことに田舎が夕立に襲われる情景の表現。高関さんはその予兆から雷がとどろくまでを、それぞれの楽器で雷や豪雨にひとビオが逃げ惑う様までがみごとに描かれていることを我々に教えてくれ、我々にさらなるワンダーを味合わせてくれるのです。

  そして、第5番はヤルヴィ氏の名演でしたが、「田園」の指揮者はあのブロムシュテット氏でした。この94歳のマエストロの「田園」は、「感情を音楽で表現する」という言葉を体現する素晴らし演奏です。この日のプログラムは心躍る素晴らしいものです。

  さて、革命その3は「楽章をつなげる。」ことです。

  高関さんは、あの名作ピアノソナタ23番「熱情」の第2楽章の最後の章を奏でます。第2楽章の最後の音は、そのまま第3楽章へとつながり、そこに切れ目を感じることがありません。この音楽を途切れさせることなく、さらなる高みへとつなげていく手法が、ベートーベンの革命であったのです。この手法は、あの「運命」の第3楽章から第4楽章にも使われており、我々は、「運命が戸を叩く」と呼ばれるあの感動を予感から味わうことができるのです。

  番組では、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章から第3楽章への間のこのつながりを、ブオrムシュテット氏の指揮、ピアノ、ルドルフ・ブフビンダー氏の名演で聞かせてくれるのです。ブフビンダー氏は、時には感動し、ときにはうれし気に旋律を指から醸し出し、心からこの曲を奏でることが好きであることが伝わってきます。

  この番組が示してくれたベートーベンの「革命」は、大いなる感動をもたらしてくれました。

【ベートーベンはいつまでも続く】

  この番組ののちにも「クラシック音楽館では、ベートーベン特集が続いています。

  「オーケストラでつなぐ希望のシンフニー」と題されたシリーズは、日本各地のオーケストラによるベート-ベン交響曲の演奏をつないでいきます。

  11月15日には、群馬交響楽団と指揮者高関健氏による交響曲第3番「英雄」と九州交響楽団と指揮者小泉和裕氏による交響曲第4番が放映されました。特に九州フィルが奏でた4番は、緊張感あふれる緩急をみごとに表現して、心から感動しました。

  また、23日には名古屋フィルハーモニー管弦楽団と若手の雄、川瀬健太郎氏の指揮による交響曲第7番。番組では、各地のオケの特長を紹介するとともにリハーサル風景も紹介してくれるのですが、川瀬氏のリハは本当に面白かった。第7番はクレッシェンドが何度も繰り返されることが特長ですが、川瀬氏はそのひとつひとつにいかに緊張感を持たせるかを何度も語っています。そして、本番では、その言葉の通り、緊迫感あふれるクレッシェンドが繰り返されるのです。

Beet25007.jpg

(名古屋フィル 交響曲第7番 twitter.com)

 さらに札幌交響楽団とマエストロ秋山和慶氏のよる北海道のようにおおらかな交響曲第8番。そして、広島交響楽団と指揮者下野竜也氏による劇音楽「エグモント」が披露されました。下野さんがインタビューで、「ベートーベンの音楽は、当たり前のことを力強く、感動を持って語る音楽だ」という言葉は至言でした。確かにとてもわかりやすい音階で感動を呼ぶベートーベンの音楽は「当たり前のことを感動的に奏でる」唯一無二の音楽に違いありません。

 さて、すっかりベートーベン話で盛り上がりましたが、紙面も尽きましたので今夜はこの辺で失礼します。

 それでは皆さんお元気で、感染防止対策を万全に、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。



映画はドキュメンタリーが面白い!

こんばんは。

  新型コロナウィルスは、我々人類に様々な試練を与えています。

  元官房長官であった菅さんが総理大臣となった要因にも、新型ウィルス感染症への対応とそのため冷え込んでしまった経済活動再開の両立という課題が横たわっていることが挙げられます。近年の政治家は2世、3世が幅を利かせており、本当に我々国民のことを身に染みて感じている政治家はなかなか表舞台に出てくることがありません。

  そうした意味で、秋田の農家出身で多くの苦労と努力の末に総理大臣となった菅氏の政策には大いに期待が持てます。一国のトップとしてその外交手腕に不安を感じることはありますが、安倍政権の前は、半年ごとに総理大臣が変わってきたわけですから、それに比べれば7年間安倍政権の外交姿勢を経験してきた菅さんならば、外交も無難にこなすに違いありません。

eigadocu01.jpg

(菅 新内閣発足 asahi.com)

  今、一番心配なのは財政問題です。消費税を10%としてもなお財政再建はめどがつかない中、経済活動の維持を最大のテーマとしてコロナ対策のために何兆円もの借金で日本を救おうとしています。もちろん、優先すべきはコロナ対策と経済の再生ですが、そこに費やす税金がすべて借金というのはいかがなものかと思います。

  あまつさえ、来年度の概算要求では、これまで予算を抑えるために先送りされてきた政策を、コロナ対策の名のもとにここぞとばかりラベルを張り替えて提出する各省庁の姿勢には、本来日本の未来を憂うべき政治家と官僚のメンタリティがいかに低いかを物語っている気がしてなりません。

  コロナ対策はコロナ対策、財政規律は財政規律と、「省益を忘れ、国益を思え。」という故後藤田さんの言葉は今こそ思い出されるべきだと強く思います。

  さて、思わず話が政治の話に行ってしまいましたが、コロナ対策と言えば、「映画」も最も大きな被害を受けた業界のひとつです。考えてみれば、ライブの最後も2月でしたが、映画館に最後に足を運んだのも2月でした。

  そして、先月、半年ぶりに映画館に足を運んだのです。久しぶりの映画は本当に面白かった。

【ハリウッド映画の音響はこうして生まれた】

  先月ですが、例の王様のブランチの映画コーナーを見ているとシアター映画の特集をやっていました。そこで紹介されていたのが、「ようこそ映画音響の世界へ」という一作でした。その紹介では、「スター・ウォーズ」のチューバッカやR22の声?や「トップ・ガン」のジェット機音がどのように創られたのか、クイズ形式で語られていましたが、その音響がライオンやサルの声を多重録音したものだったというのは驚きでした。

  たしかに近年のハリウッド映画では、あらゆる映画に音響が大活躍しています。「スター・ウォーズ」フリークとしては、映画の音響の秘密を描いたこの作品を見逃すわけにはいきません。上映館を探すと、勤務先である新宿のシネマカリテで上映していました。(今日現在、まだ上映中です。)土日は混むようなので、仕事を休んで見に行くことにしました。

eigadocu02.jpg

(「ようこそ映画音響の世界へ」ポスター)

(映画情報)

・作品名:「ようこそ映画音響の世界へ」(2019年米・94分)

 (原題:「Making Waves」)

・スタッフ  監督:ミッジ・スコティン

        脚本:ボベット・バスター

・キャスト  ウォルター・マーチ ベン・ハート

       ゲイリー・ライドストローム

       ジョージ・ルーカス アン・リー

       スティーブン・スピルバーグ

       デヴィッド・リンチ 

(以下、ネタばれありです。)

  さて、映画はその歴史から語られていきます。音の録音は発明王エジソンの手で発明されましたが、エジソンの夢は、人が動く映像に同時に音をつけることでした。しかし、その技術は実用化されることなく、映画は音声のないトーキーの時代からはじまったのです。劇場では、オーケストラや役者、弁士などを使って映画の上映時に生音をつけることによって映画を楽しんでいたのです。そこに革命が起きたのは、フィルムの横に音の波を記録するサウンドトラックの発明でした。

  映画に音が組み込まれて以来、音響がどのような歴史をだどってきたのか。

  映画は、その音響に革命を起こしてきた人々へのインタビューで。めくるめくような映画の音響世界を我々に語ってくれるのです。

  映画の音響は、「VOICE(声)」「SOUND EFFECT(効果音)」「MUSIC(音楽)」と大きく3つのジャンルに分かれますが、それぞれの分野でおきた革命的なできごとが語られていきます。

  本作で革命を起こした映画として語られる作品を挙げてみると、特撮映画の草分け「キングコング」(1933年)、オーソン・ウェルズの名作「市民ケーン」(1941年)、ヒッチコック監督の名作「鳥」(1963年)、コッポラ監督のアカデミー賞受賞作「ゴッドファーザー」(1972年)、バーブラ・ストライザンド主演の名作「スター誕生」(1976年)、ジョージ・ルーカスの大ヒット作「スター・ウォーズ」(1977年)、当時いち早くベトナム戦争を題材とした「地獄の黙示録」(1979年)などなど、197年代までの歴史はまさに音響革命が次々と起きた奇跡の時代でした。

eigadocu05.jpg

(映画「地獄の黙示録」ポスター)

【コッポラとルーカスが作った会社?】

  それぞれのエピソードがワンダーで、本当に面白いのですが、何と言っても最も盛り上がったのはコッポラ、ルーカス、スピルバーグによる「音」へのこだわりです。映画の音響について、3度のアカデミー賞を受賞した巨匠アン・リー監督は、「映画は映像と音に2つでできている。」と語っていますが、映画の中で、ルーカスは、「音は感情を伝える。映画体験の半分は音だ。」と語り、スピルバーグは、「音が瞬間を永遠にする。」と語っています。

  実は、この映画で初めて知った事実があります。それは、コップラとルーカスが映画に対する夢を実現するために映画スタジオを設立していたという事実です。その会社の名は、アメリカン・ゾエトロープ社と言います。若きコッポラとルーカスは、自らの夢をかなえる映画制作の場としてこの会社を設立しました。しかし、会社はルーカスのデビュー作品であるあまりに実験的な作品がヒットせず、破産の危機に見舞われます。しかい、設立にかかわったメンバーの中に「音響部門」を手掛けるウォルター・マーチがいたのです。

  彼が手掛けた作品がコッポラの大ヒット作「地獄の黙示録」でした。映画では、「地獄の黙示録」の音響がどのように作られていたのか、マーチ自らがぁ立ってくれており、ここが映画音響のひとつの分岐点となりました。現在では当たり前のように使われている5.1サラウンドシステムが初めて採用されたのもこの作品だったのです。この作品のおかげで、ゾエトロープ社は破産を免れたと語られています。

  ルーカスは「スター・ウォーズ」を企画したときに音響は、ウォルター・マーチを希望し指名しました。しかし、彼はコッポラ作品を一手に任されており、他の作品を引き受ける時間がありませんでした。そして、マーチは一人のプロフェッショナルな若者をルーカスに紹介します。それが、のちにこの作品でアカデミー賞を受賞する音響デザイナーのベン・バートです。

  映画では、ルーカスとバートが「スター・ウォーズ」の音響をどのように創っていったか、インタビューで明らかにしていきます。

  ルーカスが音響のためにバートをスカウトしたのは、映画の撮影が始まる1年も前のことでした。それほどルーカスは音響の重要さを認識していたのです。確かに「スター・ウォーズ」では、印象に残る音響が数え切れないほど盛り込まれています。ライトセーバーの震えるような電子音、宇宙人たちの話声、ワープの時のエンジン音、R22の機械音、そしてチューバッカの雄たけび、ありとあらゆる音響が「スター・ウォーズ」の世界を彩っているのです。

  そうした数々の音響がいかに作られたか、ルーカスとバートは我々に語ってくれるのです。

eigadocu03.jpg

(ルーカス「映画音響」を語る screenonline.jp)

  一つご紹介すると、バートは当時チューバッカの声を作るのに世界中のあらゆる動物たちの声を録音し続けたそうです。どの声を聴いてもルーカスとバートのもつチューバッカのイメージには重なりません。録音の泰美を続けること約1年、バートはその声と出会います。あのチューイの声は・・・。それは映画を見てのお楽しみです。

【音響革命は続いていく】

  新たな音響の世界へと足を踏み入れたハリウッド。

  映画の後半は、1980年代から現代までの「声」「効果音」「音楽」におけるめくるめくような革命の数々を、それを手掛けた監督や音響デザイナーたちが語っていきます。

  ここで新たな音響デザイナーとして登場するのがルーカスフィルムで働いていたゲイリー・ライドストロームです。彼が手掛けた映画を聴けばその音響のすばらしさに驚くに違いありません。「ターミネーター」「ターミネーター2」「バックドラフト」「ジュラシック・パーク」「タイタニック」「プライベート・ライアン」「トイ・ストーリー」「ファイティング・ニモ」などなど、とにかく参画した映画は枚挙にいとまがありません。

  映画のオープニングで語られていたのは、「プライベート・ライアン」で描かれたノルマンディー上陸作戦の戦場を経験した主人公の映像とそこで使われた音響効果です。その音響の使い方を監督であるスピルバーグが語ってくれます。それは、まるで観客が線上にいるような錯覚を覚える銃弾、砲撃、爆弾、機関銃の音、音、音の嵐です。それは、決して音の大きさだけではなく、一つ一つの音が、独立して鮮明に聞こえること、映像とともに音響がサラウンドし、流れていくことへのワンダーなのです。

eigadocu04.jpg

(スピルバーグ「映画音響」を語る benger.jp)

  ライドストロームは、「ターミネーター2」「ジュラシック・パーク」に続いてこの「プライベート・ライアン」で3度目のアカデミー賞のダブル受賞(音響効果賞・録音賞)に輝いているのです。映画では、彼が少年のころからいかにして音響に興味を持ち、あらゆる音の挑戦に身を投じてきたかが語られていきます。

  さらに紹介される音響の世界は、「マトリックス」(1999年)、「パイレーツ・オブ・カリビアン」(2003)、「インセプション」(2010年)、「アルゴ」(2012年)、「ワンダー・ウーマン」(2017年)、「ブラック・パンサー」(2018年)、「ROMA/ローマ」(2018年)と現代まで続く音響の革命を語り続けてくれます。


  この映画は、これまで我々が感動してきた映画の中で音響が創りだしてきた、映像と双璧を成す音が果たしてきた役割を教えてくれるのです。

  本当に面白いドキュメンタリー作品でした。まだ見ていないあなた。映画に興味があるのならぜひご覧ください。これから味わう映画の感動が倍増するに違いありません。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。



明日へのアンサンブルと伝説の名指揮者たち

こんばんは。

  28日金曜日、安倍総理大臣の辞任会見には驚きました。

  第一次内閣の時にも同じ病で辞任に至りましたが、憲政史上最も長い在位を記録した総理大臣の辞任。来年の9月まで自民党総裁の任期を残しての辞任には、非常に悔しい想いがあるものと思います。それまで半年ごとに交代し、世界中からあきれられていた日本の政治でしたが、久しぶりに腰を据えて日本の政治を行った功績は大変大きなものがあったと敬意を表するばかりです。

  個人的には、やはり70年余り政権の座にあった自民党の人材の厚さに野党はかなわないのかな、と思いつつ、日本の未来に明るい指針を与える総理大臣が誕生することを切に願っています。それには、まず選挙の投票率を80%程度にすることが国民の責務だと痛感します。

  ところで、今年の223日、サックスフォン四重奏のクワチュオール・ザイールと日本の女性サックス四重奏のルミエ・サックスフォンカルテットの素晴らしい8重奏を味わって以来、予約したすべてのコンサートとライブがキャンセルとなりました。思い出すほどに無念です。

sikisya01.jpg

(クワチュオール・ザイールコンサート チラシ)

  新型コロナウィルスの猛威を考えれば当たり前なのですが、さすがに東京JAZZをはじめ楽しみにしていたライブがすべてなくなってしまうと悲しくなります。人がその心を表現する演奏を味わうのは、歌にせよ楽器にせよ、奏でる人と聞く人のコラボレーションに他なりません。奏でる人のムーブメントが聞く人に語りかけ、聞く人がそれを受け止めて自らのムーブメントとして感動する。そして、演奏が終わった後にはその感動を大きな拍手と歓声で答えるのです。

  確かにチケット代はキャンセルによって帰ってくるわけですが、お金ではこの心の穴を埋めることはできません。

  一日も早く音楽ライブが再開することを願う中で、先日心を動かされる音楽番組を目にしました。

【孤独と明日へのアンサンブル】

  その番組は、NHKで放送された「明日へのアンサンブル」と題した音楽番組でした。

  緊急事態宣言のさなか、日本フィルを始めとして日本中の交響楽団の演奏者は人前での演奏を封じられ、自粛する中で自宅で練習を重ねる以外に演奏の場を持つことがありませんでした。いったい彼らは何を思い、何を糧にして自粛期間を過ごしたのでしょうか。

  NHKでは、首都圏の名だたる交響楽団の団員たちが自宅で演奏する様子を2度にわたって放送しました。その番組が「孤独のアンサンブル」と題された番組です。出演者は名だたるプロフェッショナルたちです。楽団は、NHK交響楽団をはじめとして、東京都交響楽団、神奈川フィルハーモニー管弦楽団。日本フィルハーモニー管弦楽団などのコンサートマスターや首席演奏者たちがリモート演奏を聞かせてくれました。

  2回にわたった番組では、ヴァイオリン、チェロ、ホルン、トランペット、フルート、オーボエ、クラリネット、など管弦楽を構成する一流のプレイヤーたちがソロで演奏する楽曲に、ひとりひとりの様々な思いが込められており、どの演奏からもあふれる心の旋律が響いていました。

  そして、自粛期間中に一人一人で演奏してきた孤独のプレイヤーたちが、緊急事態宣言の解除を受けて、感染対策を万全に取りながら一堂に会することとなったのです。その番組名は「明日へのアンサンブル」。アンサンブルを構成するのは、「孤独のアンサンブル」を彩った13名の管弦楽奏者です。

sikisya02.jpg

(13人の演奏者が集結 NHKondemanndoより)

  ヴァイオリンでは、N響の第一コンサートマスターの篠崎さん、神奈川フィルの首席ソロ・コンサートマスターの石田さん、東京都響のソロ・コンサートマスターの矢部さん。チェロでは日本フィルから菊池さん。フルートは、東京フィルの神田さんとN響の梶川さん(お二人はご夫婦です。)、ファゴットは東京フィルの石井さん、ホルンは読売響の日橋さん、トランペットはN響の長谷川さん、などなど、その一流のメンバーに驚嘆します。

  「明日へのアンサンブル」は、他のメンバーと音と息を合わせながら演奏ができない長い孤独な時間の果てにたどりついたアンサンブルの世界です。番組は、演奏家たちそれぞれの対談、そして、「孤独のアンサンブル」で演奏したソロの想いを紹介し、続けてアンサンブルでの演奏が奏でられます。舞台の上で13名が和になって一つの曲を演奏する。そして、その演奏の間には、人々が三々五々に歩く街や公園の風景がバックに流れていくのです。

  例えば、エルガーの「威風堂々」。バッティングセンターで打撃に興じる演奏家が映し出されます。彼は野球の大ファン。しかし、コロナ禍でプロ野球の開幕は延期され、ファンとして観客で応援することがかないません。選手や監督と一体となって野球に熱狂する。そんな夢を乗せて、黙々と「威風堂々」を練習するホルン奏者。その紹介を受けて13人で一体となって演奏する「威風堂々」が流れていきます。まさにその演奏が彼の想いを我々に届けてくれるのです。

  クラリネットの吉野さんは、「孤独のアンサンブル」でくるみ割り人形から「花のワルツ」を演奏しました。くるみ割り人形は、バレエ音楽ですが、その演奏はオーケストラでなされます。オーケストラで主旋律を奏でるのはヴァイオリンやホルンです。クラリネットも重要な役割を担いアンサンブルに欠かすことはできませんが、オーケストラではけっして主役ではありません。

  「花のワルツ」は、チャイコフスキーの魅惑的な主旋律が様々な楽器で次々と引き継がれ、変奏されていき、すべての楽器がひとつになってその世界を創造していきます。吉野さんは、クラリネットで他の楽器が奏でる主旋律を変奏しながら奏で、たった一人で「アンサンブルの音を再現したのです。その演奏には、一日も早く皆で演奏がしたいとの思いが詰まっていたのです。

  アンサンブル演奏の当日、この演奏をテレビで見ていた他のメンバーが、いよいよ「花のワルツ」をみんなで演奏できることとなったことを心から楽しみにしている、と声をかけて吉野さんの笑顔を誘っていました。13人が心を一つに合わせた「花のワルツ」は心から感動を覚える見事な演奏でした。

 その他にもフルートの神田さん、梶川さんが変奏する「ケ・セラ・セラ」やエンリオ・モリコーネの名曲「ニュー・シネマ・パラダイス」、3人のコンサートマスターがトリオで奏でる「エニグマ変奏曲」など、それぞれの演奏家の思いがこもったみごとなアンサンブルが披露されました。そして、最後の曲は、オーケストラで壮大に奏でられる「展覧会の絵」の終曲「キエフの大門」です。13人の心からアンサンブルを楽しむ思いは決してオーケストラに勝るとも劣らず、我々の心に勇気と癒しを運んでくれたのです。

sikisya03.jpg

(コンサートマスター3人が集う spice.eplus.jp)

  インタビューの中で、「自粛期間中一人で演奏しているといろいろな思いが湧き出ます。音楽よりもおにぎりひとつの方が大切なのかもしれない、とか、でもこの音楽を心から待っていてくれる人もいるとも思えます。」とある演奏家が語っていましたが、音楽は間違いなくコロナ禍で委縮してしまった我々の心を解きほぐして、明日に向かう心を取り戻してくれました。

20世紀を彩った名指揮者たち】

  さて、「明日へのアンサンブル」が放送された前の週、毎週日曜日に放送されるEテレの「クラシック音楽館」をご覧になった方はいるでしょうか。

  驚いたことに番組は、ドイツの映像プロダクションの保管庫から始まりました。そのプロダクションでは、昔の貴重な35mmフィルムをマイナス4℃で冷凍保管しているというのです。どうやらNHKが今力を入れている「8K」放送の目玉とする目的で、この貴重なコレクションから「伝説の名演奏」を借り出してきたようなのです。そのフィルムには驚きの映像が保存されていました。

  皆さんもご存知のまさに伝説の指揮者たちの演奏です。

  永くベルリンフィルの首席指揮者を務め「クラシックの帝王」とまで称されたヘルベルト・フォン・カラヤン。ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」を作曲し、世界を股に掛けた指揮者レナード・バーンスタイン。最後の巨匠と称されウィーンフィルを率いて来日を果たしたカール・ベーム。はたまた、完全主義者の名をほしいままにし、その演奏回数の少なさから「伝説の指揮者」と呼ばれたカルロス・クライバー。

  この名前を聴いただけで、その映像と演奏に限りない期待で胸がいっぱいになりませんか。

  いすれも1970年から1991年までの脂がのっていたころの演奏です。カラヤンが指揮するのはチャイコフスキーの交響曲第4番。残念ながらEテレでは第一楽章だけでしたが、その華麗な音は「ベルリンフィルの帝王」の名にふさわしい華麗な演奏でした。番組ではカラヤンの最後の弟子となった指揮者の高関健さんが解説をしてくれ、その映像に対するカラヤンのこだわりが半端ないことを語ってくれワンダーでした。

  さて、次に登場するのはバーンスタインのベートーベン交響曲第9番合唱付です。これは感動しました。映像は1979年にウィーンフィルを指揮した演奏ですが、そのエネルギッシュな姿は、ウィーンフィルとウィーン国立歌劇合唱団を一体にまとめあげ「喜びの歌」を歌い上げる素晴らしい演奏です。残念ながら第四楽章のみの放送でしたが、最も脂がのっていたころのバーンスタインのすごみがそのえんそうに凝縮されていて、終わった瞬間に思わず拍手してしまいました。ブラヴォー!

  バーンスタインは1989年にベルリンの壁が崩壊したときに、その「自由」を記念してベルリンで特別公演を行い、その際に第九を演奏しています。第九の歌詞である“Freude(歓喜)”を“Freiheit(自由)”に変えて歌い上げたとのエピソードでも知られていますが、このとき、バーンスタインはゆっくりとしたテンポで壮大な第九として表現しており、その演奏は78分に及びました。このときの演奏はその場にいればその荘厳さに心を打たれると思うのですが、CDで聞くとそのテンポの遅さが気になってしまいます。

sikisya04.jpg

(第九を振るバーンスタイン mainichi.com)

  しかし、今回発見された1979年の映像では、そのテンポの良さは明らかです。確かに演奏時間も70分と8分も短く、その歯切れの良さと緩急の妙が本当に素晴らしく、思わず演奏に引き込まれてしまいました。

  ベームの指揮は、巨匠ならではの安定した美しさが際立ちます。演奏されたモーツアルトの40番は彼のオハコですが、その解説がワンダーでした。ベームはその飄々とし指揮ぶりで有名なのですが、が演奏する楽団員にとっては油断できないのだそうです。そのわけは、鋭いひと睨みです。ベームは淡々と指揮を続ける最中に、ここぞというポイントでは要となる演奏す兄するどいひと睨みを聴かせる、というのです。番組ではその証拠とばかりにベームがひと睨みする瞬間を映像で確認していました。確かにストップモーションの瞬間、彼は楽団員をひと睨みしています。

  このひと睨みは、「そうそうちゃんと演奏がまとまるだろう。」と言っているというのですが、確かに演奏中にひと睨みを浴びた演奏者は、おもわず背筋が伸びでベストパフォーマンスを演じるに違いありません。なるほど納得でした。

  今回のハイライトは、何と言ってもカルロス・クライバーのブラームスの交響曲第2番の全曲演奏でした。カルロス・クライバ-と言えば、ベートーベンの交響曲第7番の演奏は伝説となっており、そのしなやかでタイトな名演は、7番と言えばクライバーと言われるほど完璧奏です。今回のブラームスは1991年の映像ですが、驚きました。

sikisya06.jpg

(伝説の指揮者クライバー wikipedeiaより)

  彼の演奏会はめったに開かれることがなく幻とまで呼ばれていましたが、その指揮ぶりを映像で見るのはこれが初めてでした。その姿には、「華麗で壮観」との言葉がピッタリです。指揮者は、先の未来を示している、とは先日チコちゃんが述べた言葉ですが、彼の示す未来は華やかです。その量腕の振りは鮮やかで、まるで指揮台のうえでダンスを演じているようにも見えます。その演奏たるや一部の隙もないほど一音一音に緊迫感があるのですが、映像では彼の指揮ぶりに目を奪われてしまいます。

  なるほど、完璧な音作りには完璧な演技も必要なのかと改めて感動しました。


  感染対策に自粛は欠かせませんが、素晴らしい音楽は我々に明るい未来と希望を提示してくれます。人数制限やソーシャルディスタンスなど、感染対策のスタンダードを確立して、一日も早くライブコンサートが日常として楽しめることを心から待ち望んでいます。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。