こんばんは。
日本ジャズのレジェンドといえば、まずは渡辺貞夫さんです。
その生まれは1933年ですので、今年は86歳となりました。渡辺貞夫さんのすごさは、今だに日本全国をライブパフォーマンスで走り回っているところです。先月10月のパフォーマンスは、10月の2日は浜松市ゴルフクラブ、4日から7日まで東京丸の内のコットンクラブ、10日は高崎(群馬)市芸術劇場。さらに今月は8日に長崎大村市「シーハットおおむら」、9日と10日は下関の「Jazz Club BILLIE」、12日が大分市「BRICK BLOCK」、14日には高松の「SPEAK LOW」、15日は松山の「MONK」でライブパフォーマンスを繰り広げています。
12月にも長野、神戸、大阪、札幌、横浜と日本を駆け回り、15日の日曜日には毎年恒例のクリスマスライブが、東京渋谷のオーチャードホールで開演となります。
(渡辺貞夫 クリスマスギフト LIVE ポスター)
ジャズの世界では、世界的にも80歳を超える演奏者が活躍していますが、一般的には80歳を超えてライブを行っているプロフェッショナルは、加山雄三さんくらいしか思い当たりません。昨年の東京ジャズでは、日曜日のラストステージでビッグバンドの演奏を繰り広げ、衰えを知らない素晴らしいパフォーマンスを披露してくれました。渡辺貞夫といえばビパップですが、「カリフォルニア・シャワー」に代表されるフュージョンやボサノヴァでもその名前は世界に轟いており、渡辺貞夫さんと同時代に生きることができたことを神様に感謝したいと思っています。いつまでもお元気で素晴らしいジャズを聞かせてほしいと願うばかりです。
今週は、その渡辺貞夫さんとさらなるレジェンドといってもよい秋吉敏子さんを描いた本を読んでいました。
「秋吉敏子と渡辺貞夫」(西山浩著 新潮新書 2019年)
【日本のジャズのはじまり】
ジャズは、アメリカで生まれた音楽です。もとはといえばニューオリンズで生まれた誰もが楽しむことができるラグタイムのような演奏です。日本のジャズは、戦前にすでに日本に上陸していましたが、太平洋戦争がはじまるや敵性音楽としてすべて禁止されました。しかし、1945年に終戦を迎え、アメリカの進駐軍が日本に押し寄せてきたときに、日本にジャズが復活します。
というのも、東京内幸町の旧第一生命ビルがGHQに撤収されマッカーサー元帥が来日すると同時に日本各地に進駐軍が駐留することになります。アメリカ軍人はみな音楽好きで、娯楽といえばジャズの演奏を聴き、ダンスすることでした。銀座や横浜には駐留軍専門のジャズクラブができ、そこでは毎日ジャズが演奏されます。その演奏者は、にわか仕込みの日本人だったのです。
(以下、敬称略)
秋吉(穐吉)敏子は1929年生まれ。渡辺貞夫は1933年生まれです。終戦の時には、それぞれ16歳、13歳でした。二人は子供のころから音楽にあこがれを持ち、秋吉敏子はピアノ、渡辺貞夫はクラリネットとアルトサックスを演奏していました。終戦後、日本に駐留した米軍の影響で、二人はジャズに目覚めます。そして、この本のオープニングに描かれるように、1953年の夏、横浜の進駐軍クラブ「ハーレム」で秋吉敏子と渡辺貞夫は、お互いの演奏と出会うことになるのです。
この出会いが、日本のジャズの幕開けの一つになったのです。
題名のとおり、この本では日本のジャズの発展に大きく影響を与えたお二人の軌跡をたどるわけですが、著者の視点は広く、お二人を語ることが同時に日本のジャズ界全体を語る、との構成になっているのです。そこに登場する人物たちはジャズファンにとっては、おあなじみの人たちで、その名前が語られているだけで心を動かされます。
日本の洋楽ブームは、戦後、ジャズから始まりました。歌謡曲のバックで指揮を執る原信夫とシャープ&フラッツ、クラリネットの第一人者北村英二、ジャズ歌手からキャリアを始めたペギー葉山や江利チエミ、今のジャニーズに負けないほどのアイドルだったジョージ川口(ドラムス)、小野満(ベース)、中村八大(ピアノ)、松本英彦(テナーサックス)がメンバーだった4人組、ビッグ・フォー、とにかくこの本にはその後の日本音楽界を代表する人たちの名前が次々と登場します。
さらに現在にも通じる日本のジャズミュージシャンたち。渡辺貞夫教室で学んだ、菊池雅章、増尾好秋、富樫雅彦や日野皓正、渡辺香津美など、錚々たるジャズミュージシャンが顔を出し、読む人の胸を熱くしてくれます。著者の意図には、お二人を描くと同時に日本のジャズから派生した音楽文化全体を俯瞰したいとの想いがあったのだと思います。そして、この本でその想いは成功しています。
(日本のジャズを語る amazon.co.jp)
この本の目次を紐解いてみましょう。
序章 出会い
第1章 ピアノに魅せられた少女
第2章 アメリカにあこがれた少年
第3章 ジャズで生計を立てる
第4章 黄金時代の主役たち
第5章 シンデレラガール
第6章 「ナベさん、バークリーで勉強してみない」
第7章 不遇と栄光
第8章 フリージャズからフュージョンへ
第9章 「世界のナベサダ」の誕生
第10章 呼ばれればどこにでも
第11章 歩みは続く
終章 二人の役割
おわりに
【ジャズを創る人】
秋吉敏子と渡辺貞夫。このレジェンドお二人を結ぶキーワードは、2つ。「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院(現バークリー音楽大学)です。
まずは「コージー・カルテット」。「コージー・カルテット」は、ジャズバンドの名前です。1949年、九州から東京へと上京してきた秋吉敏子は、進駐軍相手に日銭を稼ぐジャズプレイからアイデンティティ豊かなジャズジャズプレイへの変化を求めて、自分が主催するバンドを結成します。1951年に結成されたバンドは、当時は珍しい月給制のバンド。自分たちの求める音楽をお金に煩わされることなく追求するためには、安定した。
バンド結成から2年。1953年に横浜の「ハーレム」で渡辺貞夫の演奏を聴いた(見た?)秋吉は、その演奏力を買ってバンドへの加入を申し入れます。こうして、「コージー・カルテット」は、宮沢昭、原田長政、白木英雄、秋吉敏子に渡辺貞夫を加えたスーパーバンドとして日本人のジャズを展開していきました。
(秋吉敏子 コージーカルテット仲間とのLIVE盤)
しかし、秋吉敏子は自らのジャズピアノをより高めるために常に挑戦を続けていたのです。渡辺貞夫が加入した1953年、アメリカの名プロデューサーであるノーマン・グランツが来日しました。そのときにピアニストであったのはあのオスカー・ピ-ターソンです。略歴によると、「来日中のオスカー・ピ-ターソンに認められて(アメリカ盤録音)」と紹介されていますが、そのときに起きた出来事は驚きの出来事です。それは、秋吉敏子でなければ起きなかった出来事でしょう。
何が起きたのかは、ぜひこの本を読んでほしいのですが、とにかくこの出来事によって秋吉敏子の録音したジャズアルバムがアメリカで紹介されることになります。このことが、渡辺貞夫の音楽人生を大きく変えることになるのです。
さて、「バークリー音楽院」といえば、日本のミュージシャンも数多く輩出しています。はるか後年の話になりますが、ビブラフォンのゲイリー・バートンが音楽院の講師をしていたことはよく知られています。今や日本のジャズをけん引しているといっても過言ではない小曽根真もバークリーに留学していました。小曽根は、ゲイリー・バートンにバンド加入を勧められ自らのキャリアをスタートさせたといっても良いのですが、はじめて顔を合わせたとき、ゲイリーは小曽根を自分とは関係のないミュージシャンだと思ったといいます。
そのときの小曽根真はオスカー・ピーターソンにあこがれていたのですが、とにかく速弾きのテクニック習得を目指していたといいます。つまり、ジャズピアノのテクニックを身に付けることが目標で、その演奏はとにかく速弾きだったと自ら語っています。その後、ゲイリーは改めて小曽根の演奏をじっくりと聴いて、彼の中の音楽をともに育てようと考えたのかもしれません。
2017年、川口リリアでゲイリー・バートンと小曽根真のデュオライブが開催されました。ゲイリーは、このとき74歳を迎え、現役最後のライブは小曽根と行いたいとの希望を持ち、このライブに臨んだといいます。ライブは、お二人の数十年の間に培った様々な想いが行きかう、素晴らしいものでした。強く、リリカルに交わされるインタープレイに思わず眼がしらが熱くなりましたが、お二人の心温まるMCにも心が洗われました。
(ゲイリー・バートン LASTLIVE ポスター)
「バークリー音楽院」と聴くと、いつもこのライブのことを思い出します。
話を戻します。
秋吉敏子は、常々バークリー音楽院への留学を希望し、願書を提出していたそうですが、音楽院からはなしのつぶてだったと語っています。ところが、アメリカでアルバムが発売され、その取材記事が有名雑誌に掲載されると、音楽院から連絡がきたのです。なんと、その内容は学費免除で入学を認めるという申し入れだったのです。そして、1956年1月、秋吉敏子は単身ボストンに渡り、Berkeley音楽学院に入学しました。
バンマスがバークリーへと渡ってしまい、「コージー・カルテット」はいったいどうなったのでしょうか。なんと、秋吉敏子は自らのバンドを渡辺貞夫に託したのでした。進駐軍の占領が終わり、ジャズマンの収入減がなくなる中、秋吉敏子の信念で給料制を取っていたバンドの維持は並大抵ではありません。バンドの維持のために渡辺貞夫は奔走します。最終的にバンドは解散し、彼はジョージ川口が主催するビッグ・フォーに参加することになります。
ところが、バークリー音楽院を卒業し、日本に帰国した秋吉から渡辺貞夫に驚きの申し出がなされることになります。それは、秋吉の次の留学生への指名でした。1961年に初のリーダーアルバムを世に出し、次のステップを探る渡辺貞夫にとって、バークリー音楽院への留学は願ってもない話でした。1962年、彼は秋吉敏子からの推薦を受けてバークリーに旅立ちました。
「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院」。こうして日本のジャズはかけがえのない二人のジャズミュージシャンをその歴史に刻むこととなるのです。
この本は、あまりにも面白いので、その接点を語ってしまいましたが、それはほんの触りにしかすぎません。ジャズファンならご存じの通りここからお二人のジャズが花開き、日本のジャズの歴史が刻まれていきます。ニューヨークでサックス奏者のチャーリー・マリアーノと結婚しバンドを結成する秋吉。さらに後年には、テナーサックス奏者のルー・タバキンと再婚してビッグバンドを結成します。秋吉は、作曲家としても活躍。「すみ絵」、「孤軍」、「みなまた」と次々にオリジナル曲を発表していきます。
一方、渡辺貞夫はバークリーから帰国後、従来のジャズの枠、ビパップの枠にとどまることなく次々と新たな感性を広げていきます。ゲイリー・マクフ-ランドやチャーリー・マリアーノからボサノヴァやラテンへの広がりを学び、ブラジル音楽を取り入れます。さらに「マイ・ディア・ライフ」では、リー・リトナーやデイブ・グルーシンとあらたな境地へと進みます。1978年に発表した「カリフォルニア・シャワー」では日本にフュージョンブームを巻き起こし、一躍時の人になるのです。
(渡辺貞夫「カリフォルニア シャワー」)
音楽を語ればキリがありませんが、この本ほどジャズを楽しみながら語ってくれる本は久しぶりに読みました。音楽好きのあなた、一気読み間違いありません。ぜひ、お読みください。ジャズが聞きたくなること請け合いです。
それでは皆さんお元気で、またお会いします。
〓今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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