音楽本一覧

THE BEATLES 奇跡の47分25秒

こんばんは。

  ビートルズと聞いただけで心が躍るのは、いったいなぜなのでしょう。

  2023年112日、全世界に向けてビートルズの新曲が発表されました。その曲は、”Now And Then”。全世界のビートルズファンが心から待ち望んだ新曲は、我々に感動を運んでくれました。この曲は、全英ヒットチャートで1位を獲得。ビートルズの全英初1位の曲は、1963年の「フロム・ミー・トゥー・ユー」だったと言います。ビートルズは、60年を経て全英チャートで1位を獲得したはじめてのバンドとなったのです。

  ビートルズが解散してから53年。この間にジョン・レノンは1980年に凶弾に倒れ、2001年にはジョージ・ハリスンが病没し、現在は81歳のポール・マッカートニーと83歳のリンゴ・スターがビートルズのメンバーです。新曲は、かつてジョン・レノンがピアノ弾き語りでカセットテープに残したデモからAIによってジョンの声のみを抽出し、そこに生前のジョージのリードギターを重ね、さらにはリンゴとポールがスタジオで実際に演奏して録音し完成させた、正真正銘のビートルズの作品です。

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(最新シングル「Now And Then」amazon.co.jp)

  しかし、ビートルズの音楽に心が動かされるのは、その革新性とその革新性を創造した4人のエネルギーに人々が感応するからなのです。

  確かに新曲はそうした感動を思い起こさせてくれるアイテムではありますが、やはり彼らが残してくれた213曲の楽曲と13枚のアルバムほど我々の心を揺さぶるアイテムはありません。いったい、彼らはどのようにしてロックにあらゆる音楽の要素を融合させ、ビートルズ以外の何者にも作り出せない音楽を世に出したのでしょうか。

  その秘密は、これまでデビュー当時から彼らの成長の糧であったプロヂューサーのジョージ・マーティンやレコーディングエンジニアのジェフ・エメリックなどがその著書によって解き明かしてきました。特に、ロックを芸術にまで高め、時代を変革したと言われる「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」がスタジオでどのように創造されたか、その4人が生み出した化学反応と進化を描き、心からの感動を呼び起こしてくれました。

  ビートルズは、19668月にライブ活動を停止し、そこからスタジオでの音楽活動に専念しました。その最初のレコーディングセッションが「サージェント・ペパーズ・セッション」です。それは、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」からはじまり、アルバム最終「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のオーケストラによるクレッシェンドまでの、天才たちのアイデアと実験に満ちたおもちゃ箱のようなスタジオワークだったのです。

  ビートルズは、この後、唯一の失敗と言われる「マジカル・ミステリー・ツアー」を経て、グループとしての活動から一度距離を置き、メンバー個々の音楽性に重きを置いた2枚組のアルバム「ザ・ビートルズ」を発表します。このアルバムは、それまで父親のようだったプロデューサー、ジョージ・マーティンと距離を置き、それぞれが自由に音楽を創造する試みでした。この頃、彼らは理想の創造の場として設立した会社「アップル」が暗礁に乗り上げ、さらにデビュー当時から頼りにしていたマネージャー、ブライアン・エプスタインが亡くなり、その後継者問題も抱えていました。

  そうした背景から空中分解しそうなビートルズでしたが、ポールは昔のビートルズに帰ることを夢見てある企画を提案します。それが、映画「レット・イット・ビー」へとつながる「ゲット・バック・セッション」でした。このドキュメントは、一昨年、映画のために撮りためてあった60時間にも及ぶセッション映像を新たに編集した「ザ・ビートルズ:Get Back」として公開されました。このセッションは、ビートルズ最後のライブ、アップル社屋屋上でのルーフトップライブで幕を閉じましたが、このとき彼らはすでに解散の危機を迎えていました。

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(最後を飾るルーフトップライブ eiga.comより)

  音楽アルバムの発売としては、この映画「レット・イット・ビー」のサントラ盤となったアルバムが最後のアルバムとなりましたが、録音した順番で言えば、その前に発売された「アビイ・ロード」が、彼らがビートルズとしてスタジオで録音した最後のアルバムだったのです。そして、最終アルバムの録音時間が、4725秒であり、その作品の完成はまさに奇跡でした。

  今週は、この「アビイ・ロード・セッション」の前後を緻密な取材によって描き出したドキュメンタリー本を読んでいました。心が打ち震えました。

「ザ・ビートルズ 最後のレコーディング ソリッドステート革命とアビイ・ロード」

(ケネス・ウォマック著 湯田賢司訳 UD BOOKS 2021年)

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(「ザ・ビートルズ 最後のレコーディング」amazon.co.jp)

【最後のアルバム「アビイ・ロード」】

  ビートルズは、デビュー以来、ジョージ・マーティンのもとでEMIのスタジオでのレコーディングを続けていましたが、ホワイトアルバムからゲット・バック・セッションにおいてはそのスタジオでの録音に問題が生じていました。この本は、その問題からはじまります。その当時EMIスタジオでは、従来から使われていた録音機材に対する技術者たちの思い入れがあり、時代にアップデイトできていませんでした。その機材は、真空管式の音響装置であり、録音トラックも4トラックだったのです。

  当時、トランジスタを使用した新式の録音機材を備えたスタジオが登場し、そうしたスタジオでは8トラックでの録音が可能でした。ビートルズも兼ねてから4トラックでの録音に不満を唱えており、録音をEMIスタジオ以外で行うようになっていたのです。もっとも、EMIスタジオが利用できなかったのは、ホワイトアルバムの録音のために長期間ビートルズがスタジオを押さえていたため、他のアーティストがスタジオ待ちとなっており、ゲット・バック・セッションの間は予約が埋まっていたことも大きな要因でした。

  ゲット・バック・セッションは主にトゥイッケナムスタジオとアップルスタジオで録音され、おなじみのEMIスタジオは利用されなかったのです。そして、その間、デビュー以来のプロヂューサーであったジョージ・マーティンとリボルバー以来のエンジニア、ジェフ・エメリックはセッションに参加していなかったのです。

  ゲット・バック・セッション終了後の1969414日、新たなトランジスタを搭載した8トラックミキサーが設置されたEMIスタジオにジョージ・マーティンとジェフ・エメリックがスタンバイしていました。それは、その2日前、ポールからジョージ・マーティンに、また以前のように4人でアルバムを創りたい、との連絡があったためです。それが、アビイ・ロード・セッションのはじまりでした。そして、そのアルバムは彼らの最後の傑作アルバムとなったのです。

  この本には、アビイロードスタジオにトランジスタを使った8トラック機材が据え付けられてから、解散の危機に見舞われていたビートルズがどのようにして最後の傑作アルバムを完成させたか、すべてのドキュメントを綴った貴重な記録なのです。

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(アビイロードスタジオ webchrohasu.netより)

  そして、新たな音への挑戦は、やはりこの4人に「魔法」をかけたのです。

【アルバムはこうして完成した】

  最後のアルバム「アビイ・ロード」には、彼らの新たな姿が記録されました。

  まず、ジョージ・ハリソンの作曲才能の開花です。これまでもジョージは、アルバムに曲を提供してきましたが、このアルバムにはA2曲目のラブソング「Something」とB面オープニングを飾る「Here Comes The Sun」の傑作2曲が含まれています。「Something」は、ビートルズ作品の中で、「Yesterday」に続いて2番目にカバーの数が多い傑作です。また、「Here Comes The Sun」は、ビートルズ213曲のファン投票で数々の名曲をおさえて13位に輝いています。

  次に、このアルバムには744秒にもなる、ヘヴィなワルツ「I Want YouShe’ So Heavy)」が収められています。この曲は、ジョン・レノンがオノ・ヨーコを想って作った曲ですが、8分近い曲の中に歌詞は題名以外2つのフレーズしか入っていないのです。「So bad」と「It’s riving me mad」のフレーズ。その4つのフレーズのみで聞かせてしまう、ジョンの新境地には脱帽でした。しかもこの曲のエンディングはみごとで、突然空に投げ出された気がします。

  そして、全面に使用された当時最先端であったモーグシンセサイザーの響き。それはまるで、隠し味のようにすべての曲の魅力を引き出していますが、ロックアルバムに最初に使われたモーグシンセサイザーとして名をはせています。イエローマジックオーケストラのデビューは1978年ですからその先取り感覚にはうならされます。

  さらに、なんと言っても最後を飾る16分にもわたるメドレーです。ジョンとポールが作り上げた豊かな世界。心を打つボーカルと鍛え上げられたコーラス、円熟したドラミングとリードギターに心を奪われます。特に「Mean Mr. Mustard」から「The End」に至る922秒は、まさにザ・ビートルズのすべてが凝縮されたような奇跡のメドレーです。

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(奇跡の「アビイ・ロード」amazon.co.jp)

  この本には、ザ・ビートルズはどのようにして新たな自分たちの音楽を創造したのかが余すことなく語られています。しかし、その創造は決して順調に行われたわけではありません。

  アルバム曲の最初の録音は、ジョンの「I want You」が録音された1969222日のトライデントスタジオでのセッションから始まりました。しかし、翌月の3月、ポールはリンダと結婚。ジョンもヨーコと結婚しています。この曲は宙に浮いたまま中断しました。そして、414日からはじまった「アビイ・ロード セッション」ですが、最初に録音されたのは、シングルカットされた「ジョンとヨーコのバラード」でした。このとき、ジョージとリンゴは別の仕事があり、この曲はジョンとポールだけで録音されたのです。ドラムをたたいたのは、ポールでした。

  4月16日には、ジョージ、リンゴもスタジオ入りし、「Something」のセッションが始まります。そして、5月の初めまで、ポール、ジョージの曲を中心にスタジオセッションが進行します。しかし、59日、決定的な事件が起こり、バンドは空中分解寸前にまで陥ります。それは、グループのマネジメント契約に対する対立でした。ポール以外の3人はストーンズのマネジメントをしていたアラン・クラインとの契約を望んでおり、アランのうさんくささに気づいていたポールは、リンダの父と兄で構成される弁護士事務所にマネジメントを依頼したかったのです。アランとの契約を迫った3人とポールは、この日に完全に決裂してしまったのです。

  プロデューサー、ジョージ・マーティンは、決裂したビートルズは「アビイ・ロード・セッション」を続けることができないとあきらめていました。しかし、事件から1ヶ月後の6月中旬、ジョージ・マーティンのもとにポールから連絡があり、7月からアルバム録音を再開したいというのです。マーティンは改めてスタジオの確保に奔走します。

  この再開には、ポールとジョンのアルバムB面を連作メドレーによって完成させるとの新たな野心が原動力となっていたのです。ところが、72日、ジョンはヨーコやジュリアンとともに車でむかっていたスコットランド北部で大きな事故を起こし、入院するという大事件が起こります。ジョンがスタジオに復帰するまで、他のメンバーはポール、ジョージ、リンゴが作った曲のセッションを録音することになります。ジョージ・マーティンは、ジョンが復帰後に果たして4人はもめごともなくセッションを完了することができるのか、不安を抱えたまま録音に臨んでいました。

  そして、79日。満身創痍のジョンとヨーコ、そして絶対安静と告げられた妊娠中のヨーコとジョンのために運び込まれた豪華なダブルベットとともにビートルズのセッションは再会したのです。果たして、数々の問題を抱えたかつてのファブ・フォーはどのようにして傑作「アビイ・ロード」を完成させることができたのか。鍵を握ったのはジョンの「Come Together」でした。

  その感動さえ覚えるセッションの様子は、ぜひともこの本で味わってください。

  「She Came In Through The Bathroom Window」で窓から入ってきたのは誰だったのか。「Polythene Pan」のPanとは何のことなのか。様々な謎が語られていきます。そして、最後の「The End」において、ドラムソロに絶対拒否を続けていたリンゴがたたいた唯一無二のドラムソロ。さらに、ジョンとポールとジョージによる息詰まるようなギターインプロビゼージョン合戦はどのように行われたのか、このくだりを読んだときには、不覚にも涙が出そうになりました。

  ザ・ビートルズは、やはりひとつの奇跡だったのです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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許光俊 クラシックはここから

こんばんは。

  先日、ショッキングなニュースが飛び込んできました。

  あの大指揮者の来日公演が急遽中止になったのです。ブロムシュテット氏は今年96歳の長老ですが、その指揮ぶりは近年ますます脂がのってきており、その緊張感が生み出す感動は天下一品です。今月は、NHK交響楽団の定期演奏会で来日する予定でした。29日には所沢ミューズで演奏会が行われる予定で、チケットも手に入れて楽しみにしていたのです。

  ところが、突然のキャンセルとなりました。理由は体調不良ということですが、年齢が年齢だけに、心配はひとしおです。何とか、元気を取り戻し復帰していただけることを心からお祈りしています。今回のプログラムは、ベートーベンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」とブラームスの交響曲第3番という、類い希なる素晴らしいものでした。そのお元気な姿をこころから待ち望んでいます。

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(ブロムシュテット指揮 N響公演 チラシ)

  このショックもさめやらぬ中でしたが、今月はもう一つ楽しみにしていたコンサートがありました。

  それは、19日の夜に開かれたパーヴォ・ヤルヴィ氏によるコンサートです。今回は、彼が音楽監督を務めるチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団とショパンコンクールで優勝したピアニスト、ブルース・リウ氏の共演というなかなか味わうことのできない公演でした。そのプログラムもショパンのピアノ協奏曲第1番、ブラームスの交響曲第1番という、まさに楽しみなものになりました。

  早いもので、もう6年前になりますが、同じく所沢ミューズにヤルヴィ氏が自ら鍛えあげたドイツカンマーフィルを率いて来日したときには、そのブラームス交響曲第1番の演奏に心を奪われたことをブログに書きました。その演奏は、これまで味わったすべてのブラームスの交響曲の中で最も心を動かされた演奏でした。ときには荘厳に、ときには勇敢に、ときには美しく、ときに優しく、そして気持ちを鼓舞してくれるブラームスに心から感動しました。

  大学生の頃、部活でラジオドラマを制作していたのですが、そのときに書き下ろした脚本は、近未来の世界で戦争が起こり、愛し合う恋人たちが引き裂かれるという物語でした。約30分の脚本でしたが、当時その脚本に音声を担当してくれた先輩が選んでくれた劇中曲が、ショパンのピアノ協奏曲第1番だったのです。この曲は、母国ポーランドのワルシャワからウィーンへと出発するときの講演会で演奏された曲で、作曲した当時は20歳だったというからおどろきです。その第1楽章の哀愁を帯びた旋律は、戦争で引き裂かれる恋人たちの心情をみごとに象徴するみごとな選曲でした。

  今回のピアニスト、ブルース・リュウはさすがショパンコンクール優勝の実力通り、みごとに哀愁の旋律とショパンが協奏曲に込めた未来に向けた希望を繊細に、力強く聞かせてくれました。その静と動のアクセントは、比類亡きもので我々の心に強烈な感動を生み出してくれました。第3楽章の跳ね上がるようなロンドは、ポーランドの民族舞踊がモチーフになっていると言いますが、まさに心を躍らせる見事な演奏です。この曲をライブで聞くのは初めてですが、ココエおから感動したショパンでした。

  そして、パーヴォ・ヤルヴィ指揮のブラームス交響曲第1番。今回、最も心を動かされたのは、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の響き渡る楽器の音でした。コンサートマスターのヴァイオリンの透き通るような音色、ビオラが奏でる力強い連続和音、会場に共鳴するような美しいホルン、繊細に流れるようなフルート、クラリネットにオーボエ、そして勇壮なティンパニ。すべての音が美しく、繊細で、パルヴィ氏の指揮棒によって奏でられるすべての音がまるでアートでした。

  前回は、研ぎ澄まされた刃のようなふくよかでソリッドな演奏に心を奪われましたが、今回は研ぎ澄まされた、というよりもそこに構築された美と勇壮に感動したブラームスでした。カンマーフィルはヤルヴィ氏そのものを感じましたが、今回は、楽団の持つ美しさを最大限に引き出した演奏で、前回とは異なる感動を味わうことができました。

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(ヤルヴィ指揮 ピアノ ブルース・リウ公演) 

  話がすっかり長くなってしまいましたが、今回ご紹介する本の前置きにはうってつけの話題だったのです。

「はじめてのクラシック音楽」

(許光俊著 講談社現代新書 2023年)

【クラシックはマニアのための音楽?】

  音楽ジャンルはあまたありますが、「クラシック」はかなりオタクな分野です。

  このブログに来ていただいている皆さんは、私が音楽に節操がないことをよくご存じと思いますが、純粋なHIP-HOP以外であればどの音楽も大好きです。とくにライブには見境がなく、映画音楽、ポップス、ロック、ジャズ、ラテン、クラシック、どの分野でも聞き逃せません。先日も、八神純子の「ヤガ祭り5th」に参加してきましたし、その前の週には、フランシス・レイ楽団のコンサートで盛り上がってきました。

  ですが、ほとんどのライブでは誘えばライブにつきあってくれる友人にめぐまれているのですが、クラシックだけは「誘われてもなぁ」という友人ばかりなのです。幸いなことに連れ合いはピアノを習っていたこともあり、クラシックが好きなので、一緒にコンサートに感動してくれています。

  なぜか、クラシックはマニアの音楽、ハードルが高いという印象があります。

  この本は、クラシック初心者のための入門本なのでしょうか。実は違います。

  著者の許光俊氏は、これまでにもクラシックの本をたくさん上梓していますが、この本を書いた目的を「まえがき」でこう語っています。ひとつには、クラシックに興味を持ったり、いいなと感じたりした人たちに「クラシック」の情報を俯瞰的に提供したい、というもの。そして、もうひとつは、クラシック経験が浅い人たちにより深い感動、楽しみを知ってもらうヒントを提供したい、というものです。

  著者の語るとおり、クラシックを何度聞いても面白くなく、全く興味を持てない人にいかにその魅力を語っても、「わかったから」と疎まれるのは目に見えています。やはり、どんな音楽でも、趣味でも、スポーツでも実際に触れてみて「楽しさ」、「感動」を味わうことで、最初の1歩がはじまります。私がこの本を手に取ったのは、著者の名前を見てなのですが、それ以上に自分のまだ知らないクラシックの魅力に出会えるかもしれない、という期待感があったからに他なりません。

  この本は、「クラシック」に興味のある方には、もってこいの本です。

  まずはその目次を見てみましょう。

はじめに

第1章 クラシックとは、どんな音楽か?

第2章 クラシック音楽の「聴き方」

第3章 クラシック音楽の「種類」

第4章 楽器の話

第5章 クラシック音楽の作曲家たち――その1 リュウリからシュトラウス一家まで

第6章 クラシック音楽の作曲家たち――その2 国民楽派から武満徹まで

第7章 おすすめの演奏家たち

おわりに

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(新書「はじめての~」 amazon.co.jp)

  クラシックファンは、ほぼ耳から入っている方が多いのではないでしょうか。かくいう私も物心ついたころから、休日になると父親がかけていたクラシック音楽を聴いて育ちました。かかっていたのは、本当にポピュラーなクラシックばかりです。おかげで、小学校の音楽の時間に聞かされたベートーベンの「田園」や「トルコ行進曲」、「くるみ割り人形」などは皆、耳なじみの音楽でした。

  小学校では、朝礼と昼休みの放送当番というのがあって、放送室から始まりの音楽を流します。朝礼時の音楽は、グリーグのペールギュントから「朝」、お昼休みの音楽はビゼーのアルルの女から「メヌエット」でした。こちらも耳なじんでいた音楽ですが、音楽の力は強大で、未だに「メヌエット」がかかるとお昼休みでおなかがすいてくる気がします。まるで、パブロフの犬みたいで、少し複雑な気分になります。

  そこから、交響曲や協奏曲がすきになり、ベートーベン、モーツアルト、ブラームス、と次々にハマッテいきました。また、家では様々な演奏家のレコードがそろっていて、例えば、「田園」はラファエル・クーベリックの指揮、ベートーベンはフルトヴェングラーの指揮、モーツアルトの40番はブルーノ・ワルターの指揮、41番はカール・ベーム指揮、と定番メニューが決まっていました。ちなみにピアニストは、バックハウスかケンプがおきまりです。

  父はカラヤンが大嫌いでした。今思えば、相当のオタクだったのですね。

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(ラファエル・クーべリック指揮「田園」)

【「はじめて」本の効用】

  クラシックマニアのあなた。「はじめて」本をあなどることなかれ。

  目次を見ればわかるとおり、この本はクラシックファンが知っていることばかりが書かれているように思えます。しかし、マニアとは、ハマッタ所は徹底的に深掘りしてあらゆるアイコンを集めるわけですが、それ以外のことはまったく知らない、そんな人々のことを指す言葉です。

  実際この本を読んで、ワンダーを感じたところが随所にありました。クラシック音楽は基本的にヨーロッパの音楽ですが、その音楽表記の多くがイタリア語であることはご存じでしたか。私はオペラが苦手で、イタリアの音楽はほとんど聞きません。知らなかったなあ。アレグロ、アジャード、エスプレッシーボ、ソナタ、コンチェルト、皆なイタリア語だそうで、どうりで意味がわからないわけです。

  この本には、クラシックでは、縦糸は作曲家で横糸は演奏家だとの言葉も語られています。確かに、作曲家がいなければ幾多の素晴らしい作品はこの世にもたらされなかったわけです。また、演奏家がいなければ、これだけ長い間、人々の耳に作品が届けられることはなかったといえます。クラシックは、作曲家が創作した作品を様々な指揮者、演奏家が奏でる再現芸術です。ここから生れる多様性がマニアにはたまらないというわけです。

  その作曲家と演奏家を紹介することも、クラシックを知るためには欠かすことができません。

  また、ここでもマニアには目に入らなかった人々が紹介されていきます。

  クラシックの分野で古典と言えばバロック音楽ですが、父親が聞いていたバロックは、ビバルディ、ヘンデル、バッハの大御所だけでした。この本を読むとそこにフランスのバロックなる言葉が出てくるのです。初耳です。そこにあげられているのは、ジャン=バティスト・リュリとジャン=フィリップ・ラモーです。確かに17世紀のフランスはブルボン王朝の最盛期で太陽王などが宮廷を荘厳に盛り上げた時代です。そこにはなやかな宮廷音楽があったのは当然のことです。作品としてオペラ多いとのことで、知らないのも当然ですが、オペラ以外にも作品があり、ぜひとも聞いてみたいものです。

  演奏家についても、知らない演奏家が紹介されており興味が尽きませんでした。

  特に1970年代以降に生れた世代の演奏家たちの名前はなじみがなく、機会があればぜひ聞いてみたいと思います。指揮者では、グザヴィエ・ロト、ソヒエフ。ピアニストでは、ラン・ラン、チョ・ソンジン、ヴァイオリニストでは、イザベル・ファウシト、コバチンスカヤ。人気のある演奏家に絞ったとの紹介なので、聞くことが楽しみになります。

  クラシックファンの皆さん、またクラシックに興味のある皆さん、一度この本を手に取ってみてください。クラシックの世界にいっそう興味をそそられることに間違いありません。すべての音楽には我々の心を癒やし、勇気を与え、心を鼓舞する力があります。それを味わうにはライブで味会うことが一番です。皆さんも、ぜひマニアになれる音楽をみつけて人生を豊かにしてください。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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指揮者が語るベートーヴェンの交響曲

こんばんは。

  このブログは、もともとハンドルネームのとおり「人生の数々の楽しみ」を言葉にしていくことを目的に始めました。

  その原点が、「本」であり、「音楽」であり、「映画」であり、アスリートたちの輝きでした。

  中でも、言葉を読むことの楽しみは格別です。我々は「言葉」を発明したことによって、地球上の他の生命から枝分かれをして「特別な」存在へと進化しました。そして、言葉はあらゆる事物や事象を語ることができる「無限」の可能性を持つ道具です。そこで、ブログの中心は、大好きな本の感想をその中心とすることに決めました。

  「音楽」もあらゆる事々を表現できる、という意味では言葉と同じ力を持っています。しかし、その魅力は「音楽」を聴くことによって我々の心を動かしてくれるもので、どんな「音楽」に心を動かされるのかは、一人一人のすべての人間の個性とつながっています。

  音楽本を読む楽しみは、本来は聴かなければ味わうことができない感動を「言葉」で味わうことができることに他なりません。

  先日、新たな人生の楽しみを見つけるためにさいたま市の「生涯学習相談センター」に足を運びました。相談の後、センターの入居する大宮シーノの中に桜木図書館があることを思い出しました。図書館で本やCDを見ている時間は、まさに至福の時間です。CDのコーナーでは、上原ひろみとエドマール・カスタネーダというジャズハープ奏者とのライブ盤を発見、さらにリッキー・リー・ジョーンズのアルバム、そのほか6枚ほどのCDを借り出しました。音楽本のコーナーに行くと、そこで発見したのはブログを始める以前に読んだ本でした。

「ベートーヴェンの交響曲」

(金聖響 玉木正之著 講談社現代新書 2007年)

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(「ベートーヴェンの交響曲」amazon.co.jp)

  対談本のプレトークを読んだとたんに、かつての感動がよみがえり、借りてしまいました。

【ライブで聞くベートーヴェンの感動】

  あらためてこの本を読もうと思ったのには訳があります。

  ブログにも書きましたが、2020年、クラシック界ではベートーヴェン生誕250年という節目の年で様々なイベントが企画されました。その中でも数々のライブコンサートは最も楽しみな企画でした。そんな中、今、最も好きな指揮者の一人であるパーヴォ・ヤルヴィ氏が、自身が鍛え上げたドイツカンマーフィルハーモニーを率いて来日し、ベートーヴェンの交響曲9曲を演奏する、という奇跡のような企画があったのです。

  チケットの発売日、妻と二人でパソコンとスマホを駆使して、必死にチケットの購入にトライしました。コンサートは5日間にわたりますが、9曲の交響曲はそれぞれ演奏日が異なります。奮闘努力の甲斐があり、なんと第九、そして第3番、第8番のチケットをゲットすることに成功しました。

  ところが、2020年と言えばコロナ禍が世界を席巻し、渡航停止を含めた行動制限がピークを迎えた時期でした。そうは言っても中には厳しい検疫制限を経ても来日するアーティストもおり、いくばくかの期待がありました。しかし、さすがにオーケストラを危険にさらすわけにもいかず、来日公演は中止となったのです。コロナ禍の中で最も痛恨の出来事でした。

  あらゆるライブが中止となった中でしたが、このコンサートだけはお金が帰ってきてもあきらめることができないコンサートでした。

  昨年、世界ではコロナ禍が去ったわけではないものの、世界的不況の危機感が強く存在して、行動制限を撤廃する動きが相次ぎました。決定的だったのは、ゼロコロナ政策をかたくなに守ってきた中国が、各地で頻発する政策反対デモの嵐を受けて行動制限を緩める(事実上撤廃する)転換を行ったことでした。

  コロナ禍の中で、必ず日本の皆さんに再開したい、と語っていたアーティストたちが次々と来日することになりました。

  95歳となるレジェンド指揮者ブロムシュテット氏も元気な姿を見せてくれ、なんとベートーヴェンの「運命」を聴かせてくれました。この交響曲第5番の疾走感のある力強い演奏は、年齢をまったく感じさせない感動を呼ぶものでした。

  そして、そして、あのパーヴォ・ヤルヴィ氏がリベンジに来日したのです。忘れもしない2022129日木曜日、新宿オペラシティコンサートホール。オーケストラは、あの時と同じドイツカンマーフィルハーモニーです。さらにさらに、このときの演目が泣かせます。ベートーヴェンの「コリオラン」序曲、交響曲第8番、そして交響曲第3番「英雄」です。

  そのパーヴォ氏の作り上げた素晴らしいベートーヴェンの感動は今でも心に鳴り響いています。

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(パーヴォ・ヤルヴィ カンマーフィル ポスター)

【指揮者が語る交響曲のすばらしさ】

  かつてこの本を読んだ時にも、現役指揮者が語る第1番から第9番までの素晴らしい交響曲の魅力とスポーツライターで音楽に造詣が深い玉木さんとの対談は、時間を忘れさせてくれました。しかし、今回再読したときには、その語りが改めて深く深く心に響いてきたのです。

  実は、昨年12月にパーヴ・ヤルヴィ氏のベートーヴェンを聴いてから、あまりの感動に氏とカンマーフィルが吹き込んだベートーヴェン交響曲全集を購入しました。それを聴いては、12月のコンサートを思い出し、その感動を味わっていたわけですが、今回はそのCDを聴きながら、この本を読んでいたのです。

  第1番から第9番まで、実際に現代最高峰の演奏を聴きながら読んだ、金さんの語りはまさに至福の時間でした。

  まずは、この本の目次を読みましょう。


プレトーク:ベートーヴェンの交響曲の魅力

第1番 ハ長調 作品21

 「喜びにあふれた幕開け」(29歳)

第2番 ニ長調 作品36

 「絶望を乗り越えた大傑作」(31歳)

第3番 変ホ長調 作品55 『英雄』

 「新時代を切り拓いた『英雄』」(33歳)

第4番 変ロ長調 作品60 

 「素晴らしいリズム感と躍動感」(35歳)

第5番 ハ短調 作品67 

 「完璧に構築された究極の構造物」(37歳)

第6番 ヘ長調 作品68 『田園』

 「地上に舞い降りた天国」(37最)

第7番 イ長調 作品92 

 「百人百様に感動した、狂乱の舞踏」(42歳)

第8番 ヘ長調 作品93 

 「ベートーヴェン本人が最も愛した楽曲」(42歳)

第9番 ニ短調 作品125 『合唱付』

 「大きな悟りの境地が聴こえてくる」(53歳)

アフタートーク:新しいベートーヴェン像を求めて


  この本の魅力は、実際にオーケストラを指揮し、人々に「音楽」を届けている指揮者自身が交響曲の魅力を語るところにあります。ベートーヴェンの交響曲がなぜ我々の心を捉えて離さないのか。それは、ベートーヴェンがそれを意図して交響曲を作曲していたからなのです。

  以前にこの本を読んだとき、9つの交響曲のうち何度も聞き込んでいたのは、おなじみの「英雄」と第5番、「田園」、そして第九でした。その他には疾走感が感動的な第7番。その語りを心から嬉しく読んでいましたが、他の交響曲は読み飛ばした感が満載でした。

  今回読んで面白かったのは、第1番、第2番、第4番、第8番。この本では、いずれも名曲として語られていますが、以前には曲をよく知らないという悲しさから読んでも心に響かなかった、というのが正直なところです。これが、実際に曲を聴いてみると、金聖響氏が語ってくれる一つ一つの魅力が、実際に心に届いてくるのです。

  例えば、第2番。目次を見ると「絶望を乗り越えた大傑作」との表題。このときベートーヴェンは31歳ですが、聴覚障害がはじまっており、かの有名な「ハイリゲンシュタッの遺書」を書いた後に作曲されました。音楽を職業とする人間にとって、耳が聞こえなくなることは腕をもがれるよりもつらい出来事であり、「死」を望んでもおかしくない事実であったと思います。

  ところが、その遺書と同じ時期に同じ場所で作曲された交響曲第2番は、まるで人生を生きる素晴らしさと決意を告げるような明るく、疾走感のある交響曲なのです。この曲は、語りにもある通り、それまでハイドンやモーツァルトが創り上げてきた交響曲の構成に新しい風を吹き込み、革新的な音楽を志したベートーヴェンの意欲があふれている作品なのです。それは、各章の作曲技術にも表れており、金さんはその内容を具体的に語ってくれるのです。

  この第2番の第一楽章が、あの第九の第一楽章と同じ調性と聞いて、びっくりです。その和音や音の降下は非常に似ていると言います。もちろん、長調か短調かの違いはありますが、同じ音階を使いながらこれだけ違う印象を創りだすのは、まさに音楽の不思議であり、さらにはベートーヴェンの見事な職人技であると改めて感心します。

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(ヤルヴィ指揮 交響曲第2番CD amazon.co.jp)

【メトロノームと古楽器奏法】

  さらに楽しかったのは、ベートーヴェンの交響曲の演奏史ともいえる語りでした。

  まず、以前にもブログで紹介しましたが、ベートーヴェンが第9番の交響曲を準備していたころ、我々におなじみのメトロノームが誕生したそうです。そして、ベートーヴェンはこの技術に共感したのか、自分のすべての交響曲にさかのぼってメトロノームによるテンポを書き込んでいるのです。

  この本にも随所にベートーヴェンが記載したテンポが登場しますが、これが現在の指揮者たちを悩ませているというのです。そのわけは、ベートーヴェンが記載したテンポは現代の我々から見るととても早く、とても合理的とは思えないからなのです。例えば、交響曲第8番のテンポは、異常に早く、いかなるヴァイオリンの名手でもその3連符を引きこなすことは難しい、と言います。このためこれまでの演奏では、このテンポは、取り上げられなかったのです。

  わたしのクラシック歴は多くの人たちと同じく、父親のレコードコレクションから始まっていますが、その頃の指揮者たちはまさに大指揮者たちでした。フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、チェリビダッケ、クーベリック、まさにそうそうたる指揮者たちです。彼らのテンポはそれぞれ全く異なっていて、例えば第九。ベートーヴェンの生前の記録では、63分となっています。が、フルトヴェングラーの幻のバイロイト版は79分、早いと言われるトスカニーニは64分、ワルターは71分、ベームは74分、バーンスタインはベルリンの壁崩壊時の式典では78分の第九を披露しています。近年は、60分台後半の演奏が多いようです。

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(ワルター指揮 交響曲第9番 amazon.co.jp)

  第九の演奏時間でもわかりますが、クラシックの演奏は時代によってその演奏が異なります。フルベンからカラヤンに至る大指揮者時代には、ベートーヴェンと言えば哲学的で重厚な演奏が観客を魅了し、テンポを緩めて重々しく鳴らすことでエモい演奏を繰り広げました。その後、平成に至ると、世には古楽器系の指揮者たちが登壇してきます。

  古楽器系とは、作曲者がスコアを書いた時代の楽器と編成で作曲者の意図した演奏を再現しようとする演奏方法です。この本では、その奏法を「ピリオド奏法」と呼び、大指揮者時代から現在に至る「現代奏法」と比較しています。例えば、我々があたりまえに思っているビブラート(音を細かく震わせる奏法)ですが、これはベートーヴェンの時代にはありませんでした。つまり、古楽器の時代には音は震えず、伸ばされず、シンプルだったのです。

  テンポもこれと同様にできる限り当時のテンポに近づけるべきだというのが古楽器系の指揮者たちです。アーンノンクールやノリントンは古楽器派の代表格ですが、実はヤルヴィもかつては古楽器派の一員として認識されていました。

  確かに、最も現代的であると思うヤルヴィ氏の演奏は、小気味の良いテンポであり、緩急はわかりやすく、ピリオド奏法に近いのかもしれません。しかし、流行はどうあれ、すべての指揮者は自分の中に理想の音とテンポを持っており、そこにすこしでも近づくために毎日演奏を続けている、と金聖響氏は語っています。

  いやぁ、本当に音楽も本も楽しいですね。そろそろ紙面が尽きました。


  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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北中正和 ビートルズとは何者なのか?

こんばんは。

  ロシアを統べる独裁者プーチン大統領。そのしたたかさは、帝政ロシアから旧ソビエト連邦へと綿々と受け継がれてきたロシア帝国の歴史そのもののようです。

  それは、自らの正当性を主張するためには、自らの主張以外のすべてに対して無視するか、「ニエット」と語る、メンタリティそのものです。

  ロシアによるウクライナ侵攻は5ヶ月を超え長期化しています。ウクライナは欧米民主主義の国々から軍事支援を受け、東部、南部での領土奪回をめざし、過酷な闘いを繰り広げています。そうした中で、現在最も国際的な問題となっているのがエネルギー危機と食糧危機です。

  ロシア経済の要は、広大な領土の地下資源である天然ガスです。その液化天然ガスが、EU域内では極めて高いシェアを誇っており、その供給を停止すれば多くの国でエネルギー不足が引き起こされます。欧米諸国はロシアに強烈な経済制裁を課していますが、ロシアは経済の根幹であるエネルギーの供給が滞ることがありません。EU各国、イギリスではロシアからのエネルギーに頼らないよう代替手段を講じつつありますが、それには数年を要する状況です。

  あまつさえ、インドや中国はこれを安価なエネルギー確保の好機ととらえ、ロシアからの液化天然ガスの輸入を大きく増加させています。ロシアはほくそ笑んでいるに違いありません。しかし、世界的に見れば、エネルギー価格は高騰し、多くの国でインフレが進んでおり、ロシアは世界経済を停滞へと導いているのです。

  さらに深刻なのは世界的な食糧危機です。

  ウクライナは豊饒な穀物生産地を有する農業大国です。ウクライナの食糧輸出は、ひまわり油世界1位、大麦は世界第2位、トウモロコシは第3位、小麦は第5位となっており、その輸出先はアフリカ、アジアを含め190か国に及んでいます。(2016年)

  その「世界の食糧庫」が侵攻以来、半年近くも穀物を輸出できていないのです。それは、輸出の出口である黒海をロシアが封鎖しているからです。港湾都市マリウポリ、クリミア半島はロシアに制圧され、ウクライナが唯一輸出可能なオデーサもロシア海軍に封鎖され、ウクライナは身動きが取れません。そうする間にもアフリカなどでは穀物が手に入らず、深刻な飢餓が生じているのです。

  そうした中、722日、トルコと国連がロシア、ウクライナとそれぞれ合意文書を締結する形で、ウクライナの穀物輸出ルートの安全を確保することが合意されました。これは「ウクライナ食糧輸出」のための安全回廊の設置に他なりません。

  しかし、常に自国の優位を戦略としているロシアは、こともあろうにその翌日に合意がなされた港湾都市オデーサにミサイルを撃ち込んだのです。幸いなことに81日、ウクライナのトウモロコシを乗せた貨物船は無事にオデーサを出港し中東に向かいました。

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(穀物輸出第1弾出港 yomiuri.comより)

  常に自らを優位な位置に置くための戦略。すでにウクライナをはじめ民主主義の国々はロシアの語ることを正面切って信じることはありません。ロシアの人々やロシアの歴史、文化をこよなく愛する世界じゅうの人々の想いをプーチン大統領はすべて踏みにじっているのです。

  たとえどれだけの時間が経ち、どれだけの既成事実が現実化しても、我々はそれが侵略と蹂躙と殺人の下に行われた行為であることを決して忘れてはいけません。それは、人が人であるための最も根源的なアイデンティティだからです。

  苛立ちは常にわだかまりますが、本の話題へと移りましょう。

  世界の音楽界に衝撃を与えたバンド、ビートルズが解散してから半世紀が過ぎました。

  しかし、世界じゅうのどこにあっても、彼らの曲が奏でられない日は一日もありません。ビートルズが1962年から解散した1970年までの間に世に送ったオリジナル曲は213曲。そこからは、現代につながる様々な音楽への潮流が生まれました。

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(藤本国彦「ビートルズ213」 amazon.co.jp)

  今回読んでいた本は、「ビートルズ」。題名を見た瞬間に手に入れました。

「ビートルズ」(北中正和著 2021年 新潮新書)

【ビートルズはいつも心を突き動かす】

  皆さんは、カラオケに行ったときにまず何を歌いますか。

  一時、コロナ禍の規制でカラオケは最も感染リスクの高い娯楽のひとつとして悪者扱いされました。しかし、人にとって歌うという行動は、「祈り」にも似てなくてはならない行為です。行動制限がなされなくなった今、感染予防に万全を尽くして家族や親しいひと、はたまた一人カラオケを楽しむ方は復活しました。

  私のカラオケ持ち歌のいちばんは、昔も今も変わらずサザンオールスターズと井上陽水ですが、場が長くなり持ち歌がなくなると、最後には必ずビートルズに行きつきます。はじめのうちはおなじみの「Let It Be」や「Hey Jude」を歌いますが、興に乗ってくるとエスカレートして、「Oh! Daring」や「Lady Madonna」など次々に歌います。

  どちらにせよ周りはあまり聞いていないのですが、何と言っても一番好きな曲は、ジョージが創った「While My Guitar Gently Weeps」です。

  ジョージといえば、「Here Comes The Sun」や「Something」が最も多くカヴァーされている名曲ですが、ビートルズでのジョージの願いはギタリストとしてグループに貢献することでした。例えば、レコードデビュー直前までビートルズのドラマーであったピート・ベストはインタビューでジョージの印象を聞かれると、とにかくギターの練習に熱心で、いつも寡黙にギターと取り組んでいた、と語っています。

  この曲は、ホワイトアルバムに収録されていますが、この2枚組の録音時、4人はそれぞれが自らの音楽と考え方にとらわれていて、グループとしての結束が揺れ動いていました。リンゴスターは、このアルバムの録音途中で、自分の存在価値に疑問を持ち、失踪してしまいます。なんとかリンゴを見つけた3人は、いかにビートルズにリンゴのドラムが必要かを語り、連れ戻しています。

  そんな中で、ジョージは外部からミュージシャンを招きます。そのミュージシャンこそが、この曲でウーマントーンのギターを聴かせてくれるエリック・クラプトンだったのです。この後もジョージはセッションにビリー・プレストンなどを招きますが、ゲストを迎えることでビートルズが緊張を取り戻すとの方法はここから始まりました。

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(The Beatles「ホワイトアルバム」amazon.co.jp)

  最近、楽譜を手に入れてテナーサックスでもこの曲を奏でますが、音符を見ると、とても単純な音の構成にもかかわらず、すばらしいメロディメイクがなされており、改めてジョージの音楽センスのすばらしさに感動します。とくに、サビのパートでは絶妙な転調がなされており、この部分ではグッと心をつかまれるように感じます。

  こうしたジョージの才能の開花も、もとはといえばバンマスであったジョン・レノンの「全員平等」精神の現れです。ジョンは、ビートルズのデビュー時にいくつかルールを決めています。まず、ジョンとポールで作った曲はどんなプロセスで作ろうとレノン=マッカートニーとクレジットすること。そして、アルバムを作成するときには必ずジョージやリンゴの曲を入れること。こうしたジョンのマネジメントがビートルズをより高みへと引き上げたと思うのは私だけでしょうか。

【久しぶりのビートルズ本はいかに】

  このブログで、ビートルズ本を取り上げたのは20169月ですので、あれからかれこれ6年を経ています。そのときも、ビートルズについては、様々な研究本や全記録、さらに自らが語った「アンソロジー」も発売され、もう語るべきことは何もないのでは、と書きましたが、今回も同じ疑問を抱えつつこの本を手に取りました。

  しかし、彼らの曲がさまざまなミュージシャンにカヴァーされ、それぞれの個性に色付けされて新しい音楽へと変貌するように、「ビートルズ」という現象もその切り口が違えばそこには別のビートルズが現れるのかもしれません。

  今回、著者の疑問は、「なぜビートルズだけが、他のミュージシャンとは違うのか。」なのです。

  著者は、ビートルズに関する本が、楽曲の構成やエピソード、そして彼らの日々の行動やエピソードを事細かに記録し、出版され、その記述がどんどん稠密に、詳細に、分析されて行く現実を踏まえ、もっと大きな視点で俯瞰的にビートルズやその周辺を捉えれば、なぜビートルズが特別なのかが見えてくるはず、と語ります。

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(北中正和「ビートルズ」 amazon.co.jp)

まず、目次を見てみましょう。

序章 なぜビートルズだけが例外なのか

1.故郷リバプール 「マギー・メイ」「ペニーレイン」をめぐる章

2.ジョン・レノンはアイルランド人か 「マイ・ボニー」「悲しみはぶっとばせ」をめぐる章

3.ミンストレル・ショウの残影 「ミスター・カイト」「フリー・アズ・ア・バード」をめぐる章

4.スキッフルがなければ 「レディ・マドンナ」「ハニー・パイ」をめぐる章

5.作品の源流はどこに? 「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」「イエスタデイ」をめぐる章

6.カヴァー曲、RB、ラテン音楽 「ベサメ・ムーチョ」「ツイスト・アンド・シャウト」をめぐる章

7.カリブ海、アフリカとの出会い 「蜜の味」「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」をめぐる章

8.60年代とインド音楽 「ノルウェーの森」「トゥモロウ・ネヴァー・ノウズ」をめぐる章

9.ふたつのアップルの半世紀 「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」をめぐる章

⒑ ビートルズはなぜ4人組か 「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「ゲット・バック」をめぐる章

  お気づきの通り、音楽評論家である著者は、彼らの楽曲をヒントにしてその歴史的な背景や社会的な背景を踏まえて、「なぜビートルズなのか」を語っていくのです。

  世にいうビートルマニアにとって、この本に出てくるエピソードは、ほとんどが既知の事実であり、そこにワンダーを求める読者にとって、この本はワクワクするような内容ではありません。しかし、著者の音楽への造詣は深く、これまでのポピュラー音楽の歴史の中で、いかに多くの要素を吸収して、それを自らのオリジナルソングに仕上げ、それを音楽界にインフルエンスしていったかがよくわかります。近年、SNS上ではインフルエンサーなる言葉が流行していますが、ビートルズはポピュラー音楽のインフルエンサーだったのです。

  特に面白かったのは、20世紀から今世紀に続くワールドミュージックの隆盛がポールやジョージから始まった、と感じられたところです。ワールドミュージックは、ボブ・マーレイやウェザ―リポートのジョー・ザビイヌルによってインフルエンスしたものと思っていましたが、その源流ははるかにビートルズにあったとはワンダーでした。

  難を言えば、最後の章について、ビートルズファンにとってはあまりに凡庸な結論であったので、拍子抜けをしてしまうのは否めないというところです。

  この本は、現在の音楽に大きなインパクトをもたらし、いまやファンが3世代目に突入したビートルズ、そしてその音楽がどのように成り立ち、どのような役割を果たしたかを教えてくれる貴重な本でした。音楽好きでビートルズ好きの方にはオススメです。


  コロナ禍はついに第7波まで到達しました。いまや自らが家族とともに、あらゆる手段(マスク、消毒、密回避)を通じて感染を防ぐことが当然な時代となりました。感染数はもはや世界レベルに達していますが、皆さん、感染防止に全力を尽くして、お過ごしください。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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女性ピアニストが語るピアノソナタの魅力

こんばんは。

 早いもので、今年も師走がやってきました。

 今年は、コロナの1年でしたが、コロナ対策を打ち続けた菅総理が退陣し、岸田総理が誕生。さらに解散総選挙によって、自民党が選挙に勝つ、第二次岸田政権が誕生しました。この選挙では、若者たちの投票率を高めようと、様々な試みが行われましたが、結局投票率は55.93%と戦後3番目に低い数値になりました。国民の民主主義に対する関心の低さには絶望します。

 ただ、今回の選挙は、大阪で行政改革を行った実績のせいか、日本維新の会への投票数が大きく増加し、国政でも日本維新の会が野党第二党に躍進したことは、国民が「改革」に対して意識をして投票したあかし、と少し安心しました。

 また、今年はオリンピックの開催のおかげでプロ野球は中断があり、11月の末まで日本シリーズが行われ、野球ファンを熱狂させてくれました。

 永年のスワローズファン(私のこと)にとっては、野村監督、若松監督に続き、新たなヒーロー高津監督が日本一を勝ち取り、感無量です。

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(宙に舞うスワローズ高津監督 mainichi.jp)

 今年は、セリーグ、パリーグともに昨年最下位であったチームが優勝し、実力が拮抗した東京ヤクルトスワロースとオリックスバッファローズの対決となりました。6試合のうち5試合が1点差のゲームとなり、すべての試合が手に汗を握る展開で、テレビの野球中継から目が離せませんでした。

 下馬評では、沢村賞を受賞した四冠王の山本投手と活きがいい宮城投手を擁するバッファローズが有利と言われていましたが、そこは野村監督の下、胴上げ投手となった高津監督が率いるスワローズ。投手の心をつかむ起用法で、すべての試合を大接戦へと持ち込み、最後には粘りで優勝をもぎ取りました。奥川投手、高橋投手という若いピッチャーの力、石川投手、小川投手というベテラン投手の力、そして、中継ぎ、リリーフ陣、清水投手、石山投手、スワレス投手、マクガフ投手とすべての投手の力を結集し、バッファローズに立ち向かった采配はみごとでした。

 心から感謝と祝福を送ります!

 さて、コロナ禍で人が集まる音楽活動はすべて自粛となっていましたが、この秋以降、新規感染者が劇的に減少し、音楽界でも感染対策を講じたうえでライブやコンサートが復活してきました。そんなうれしい日常の中で、今週はロシアの女流ピアニストが語ったピアノソナタの魅力満載の本を読んでいました。

「ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ」

(イリーナ・メジューエワ著 講談社現代新書 2017年)

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(ピアニストが語る名曲たち amazon.co.jp)

【音楽ライブは生音が一番】

 10月から11月にかけて、ついに待望海外からの生音を体験してきました。

 まず、10月にはクラシックの大御所指揮者のコンサート。

 このブログでも何度か紹介していますが、1980年代からNHK交響楽団を指揮して現在は桂冠名誉指揮者となっている指揮者ブロムシュテット。今年、94歳になるマエストロは、コロナ禍の最中、日本の音楽ファンにリモートで必ず日本に戻って皆さんに遠賀気宇をお届けする、と約束してくれていました。

 そして、今年の10月、その約束がついに現実のものとなったのです。

 10月30日(土)1400.所沢ミューズのアークホール。満員の聴衆がかたずをのむ中、ブロムシュテット氏は大きな拍手に迎えられて舞台に現れ、颯爽と指揮台まで歩み、我々に一礼すると登壇しました。そして、楽団の空気が一瞬張り詰めると指揮棒を持たない手刀のようなブロムシュテットの右手が流れるように振り下ろされます。

 1曲目は、指揮者のふるさとともいえるスウェーデンの作曲家ステンハンマルの「セレナード 作品31」です。プログラムを読むと、ステンハンマルはワーグナーの音楽に影響を受け、シベリウスの交響曲に衝撃を受けてスウェーデンの文化を受け継ぐ曲を書いた、とされています。その美しい旋律は、ブロムシュテットによってさらに洗練され、あるいは力強さを増して我々の心をつかみます。印象としては、大好きなブラームスの豊潤さを秘めた心が昂揚する旋律がとても印象的な演奏でした。

 休憩を挟んで、この日の第2部は、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」が披露されました。

 かつて、フルトヴェングラーをはじめとしたマエストロたちは、ベートーヴェンの交響曲に哲学的な重厚さとゆっくりと昂揚していく感情をこめて表現していましたが、ブロムシュテットは、まったく新しいベートーヴェンを聴かせてくれました。

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(ブロムシュテット氏「運命」ポスター)

 ブロムシュテット氏はインタビューの中で、新しいベートーヴェンの創造について、近年新たな研究によって出版されたベートーヴェンの楽譜には、メトロノームによる演奏速度の指定が入っているというのです。演奏速度の指定は、かつて言葉によるものの実でした。例えば、有名な第9交響曲の第2楽章では、「アダージョ・のン・モルト・カンタービレ」と指定されていますが、この意味は、「やや遅く(ゆるやかに)、歌う様に」となります。しかし、この言葉は受け取る側によって速度が変わってしまいます。

 しかし、メトロノームの速度が指定されていれば、速度は客観的に定まります。第9の第2楽章の速度は、♪=60とされているのです。メトロノームの発明は1817年であり、ベートーヴェンは、自分の以前書いた楽譜も含め、このメトロノーム速度を記入していたというのです。ところが、この速度は曲によってあまりに早すぎるケースもあり、今でも論争が続いています。

 ブロムシュテット氏は、楽譜はバイブルと考えており、この速度を再演することにしたのです。

 その「運命」は、これまでの店舗とは異なり、よりソリッドで小気味の良い演奏でした。この指揮のすごいところは、透き通るような音による演奏にもかかわらず、この曲の持つ人生を謳う尊厳な深みがまったくそこなわれていないところです。第3楽章から切れ間なく続き第4楽章。「運命が戸を叩く」と呼ばれる部分からラストに向かって流れるパートでは、驚くようなスピードとテンポでまさに新鮮な「運命」が我々の心に響き渡ったのです。

 その感想は、言葉では言い表すことができない素晴らしさでした。

 ブロムシュテット氏は、演奏後に割れんばかりの拍手にこたえ、何度も何度も舞台に登場し、スタンディングオベーションに手を振っていましたが、横で手を添えて支えるコンサートマスターのマロさんの姿も併せて、その真摯な姿にこれまた深い感動を覚えました。

 本当に生音で味わうコンサートは何物にも代えがたい体験です。

 また、11月から12月にかけて、プログレッシブロックの生きる証言者と言ってもよい、キングクリムゾンが来日し、たっぷりとそのライブ音を日本に響かせてくれました。

 1969年にあの伝説のアルバム「クリムゾン・キングの宮殿」以来、ロックファンにはおなじみのキングクリムゾンですが、その中心であるギタリスト、ロバート・フィリップも早や75歳となります。しかし、2013年以降、新生キングクリムゾンは、今は亡きグレッグ・レイクやジョン・ウェットンに匹敵するボーカリスト兼ギタリストのジャッコ・ジャクジクという素晴らしいボーカリスト、かつての盟友でサックスフォン奏者のメル・コリンズ、ベーシストのトニー・レヴィン、さらには3人のドラムスを擁する超技巧派音楽集団となって活動しているのです。

 このメンバーとなってから、日本には2015年、2018年と来日してきましたが、今年、3度目となるツアーが実現したのです。コロナウィルスによる延期をものともせず、11月下旬から12月上旬にかけて日本全国で「MUSIC IS OUR FRIEND JAPAN 2021」と銘打たれたが行われました。そして、1128日(日)、国際フォーラムでのライブに参加してきました。

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(LIVE「MUSIC IS OUR FRIEND 2021」)

 今回のバンドのコンセプトは、これまでキングクリムゾンが創造してきた数々の作品を、当時以上に充実した技術と音響でより強力に演奏するというものです。

 今回のライブは、メタルキングクリムゾンのもっとも初期の曲、「レッド」からはじまります。あのソリッドにうねるロバート・フィリップのギター音が会場に響き渡ると、観客は一気にクリムゾンの世界へと引き込まれていきます。そこからは、感激の連続。「エピタフ」、「クリムゾン・キングの宮殿」、「アイランド」、「太陽と戦慄Ⅱ」、「堕落天使」、「再び赤い悪夢」とその名曲を底知れぬパワーで我々に披露してくれたのです。

 そのパフォーマンスは、休憩をはさんで2時間にもわたり、そのすばらしさに圧倒されました。

 コロナ禍の中、2年近くも封印されていた生音がよみがえりました。この2つのライブは音楽がいかに人々に勇気を与えてくれるかを改めて教えてくれました。

【ピアノのすばらしさはピアニストに聞け】

 そんな音楽好きがいつもの本屋さんで芽切あったのが今回ご紹介する音楽本です。

 著者は、ロシア出身の女流ピアニスト、イリーナ・メジューエワさんです。彼女は、1992年にオランダで開催されたフリブセ国際コンクールで優勝。その後、ヨーロッパで活動していましたが、1995年からは日本を拠点に活動してきた一流のピアニストです。

 彼女は、毎年、京都でコンサートを開催し、日本国内で数々の賞に輝いています。

 その彼女が日本語の本を上梓したのには驚きですが、そこにはちょっとした仕掛けがありました。それは、この本のために行われた鼎談でした。鼎談のお相手は、音楽プロヂューサーである御主人と、この本を企画した編集者です。筆者が語りたい作曲家とその作品をテーマとして行われた鼎談は、9回に及び、そのすべてが一人語りのかたちでこの本となったのです。

 ここで取り上げられるのは、バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ショパン、リスト、ムソルグスキー、ドビッシー、ラヴェル。クラシック音楽のファンにはたまらないラインアップです。

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(ショパンのワルツを弾くCD 公式HPより)

 この本の面白さは、各章がピアニストならではの視点に貫かれているところです。各章の構成はほぼ同じです。まず、その作曲家や作品に対して、著者が思い描いている印象や感じ方が記されます。それに続いて作品の紹介が1曲または2曲。そして、最後には紹介した曲の著者が選ぶ名演奏を紹介する、という流れになります。

 例えば、ベートーヴェンの章。

 彼女はピアニストとして、べートーヴェン32作品の全曲演奏に挑んでいます。そこで、経験した印象は、ベートーヴェンがピアノソナタ1曲ごとに、次々と新しいことに挑んでいたという事実でした。我々にとっておなじみの「悲愴」、「月光」、「熱情」などのピアノソナタは、聞く者の心に様々な想いと感動を運んでくれますが、著者は祖の楽譜から常に新しい音にチャレンジするベートーヴェンの姿を感じ取っているのです。

 さらに曲紹介では、ピアノソナタ「月光」と晩年の三部作の一つ「第32番」を取り上げています。我々の知っている月光は、月から静かに降り注ぐ物悲しい月の光が奏でられるのですが、その演奏は技術と言うよりも、3つの楽章を貫く、作曲者の意図をどう表現するのかにかかっているのです。その語りは音楽の用語も飛び交って、難しいのですが、ピアニストならではの視点に、なるほどと唸らせる語りの連続です。

 そして、「月光」のオススメ演奏は、シュナーベル、クラウディオ・アラウ、ヨーゼフ・ホフマンがあげられています。そのオススメの理由はこの本で確かめて下さい。

 この本は、どの章を読んでもロシア出身のピアニストならではの分析とリスペクトがあふれており時間のたつのを忘れます。ピアノと言えばショパン、ですが、ショパンの章の語りはこの本の中でも特出すべき面白さです。ピアニストのショパン弾きとベートーヴェン弾きの違いとは、ショパンがよく弾けるときとはどのような時なのか、ショパン弾きとリスト弾きはどこが違うのか。

 音楽は間違いなく人を幸福にします。皆さんもぜひ著者の音楽愛を楽しんでください。

 少し落ち着いたか見えるコロナ禍ですが、未知の変異オミクロン株もすぐそこに来ています。ご自愛ください。

 それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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西山浩 日本のジャズはこうしてできた

こんばんは。

  日本ジャズのレジェンドといえば、まずは渡辺貞夫さんです。

  その生まれは1933年ですので、今年は86歳となりました。渡辺貞夫さんのすごさは、今だに日本全国をライブパフォーマンスで走り回っているところです。先月10月のパフォーマンスは、10月の2日は浜松市ゴルフクラブ、4日から7日まで東京丸の内のコットンクラブ、10日は高崎(群馬)市芸術劇場。さらに今月は8日に長崎大村市「シーハットおおむら」、9日と10日は下関の「Jazz Club BILLIE」、12日が大分市「BRICK BLOCK」、14日には高松の「SPEAK LOW」、15日は松山の「MONK」でライブパフォーマンスを繰り広げています。

  12月にも長野、神戸、大阪、札幌、横浜と日本を駆け回り、15日の日曜日には毎年恒例のクリスマスライブが、東京渋谷のオーチャードホールで開演となります。

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(渡辺貞夫 クリスマスギフト LIVE ポスター)

  ジャズの世界では、世界的にも80歳を超える演奏者が活躍していますが、一般的には80歳を超えてライブを行っているプロフェッショナルは、加山雄三さんくらいしか思い当たりません。昨年の東京ジャズでは、日曜日のラストステージでビッグバンドの演奏を繰り広げ、衰えを知らない素晴らしいパフォーマンスを披露してくれました。渡辺貞夫といえばビパップですが、「カリフォルニア・シャワー」に代表されるフュージョンやボサノヴァでもその名前は世界に轟いており、渡辺貞夫さんと同時代に生きることができたことを神様に感謝したいと思っています。いつまでもお元気で素晴らしいジャズを聞かせてほしいと願うばかりです。

  今週は、その渡辺貞夫さんとさらなるレジェンドといってもよい秋吉敏子さんを描いた本を読んでいました。

「秋吉敏子と渡辺貞夫」(西山浩著 新潮新書 2019年)

【日本のジャズのはじまり】

  ジャズは、アメリカで生まれた音楽です。もとはといえばニューオリンズで生まれた誰もが楽しむことができるラグタイムのような演奏です。日本のジャズは、戦前にすでに日本に上陸していましたが、太平洋戦争がはじまるや敵性音楽としてすべて禁止されました。しかし、1945年に終戦を迎え、アメリカの進駐軍が日本に押し寄せてきたときに、日本にジャズが復活します。

  というのも、東京内幸町の旧第一生命ビルがGHQに撤収されマッカーサー元帥が来日すると同時に日本各地に進駐軍が駐留することになります。アメリカ軍人はみな音楽好きで、娯楽といえばジャズの演奏を聴き、ダンスすることでした。銀座や横浜には駐留軍専門のジャズクラブができ、そこでは毎日ジャズが演奏されます。その演奏者は、にわか仕込みの日本人だったのです。

(以下、敬称略)

  秋吉(穐吉)敏子は1929年生まれ。渡辺貞夫は1933年生まれです。終戦の時には、それぞれ16歳、13歳でした。二人は子供のころから音楽にあこがれを持ち、秋吉敏子はピアノ、渡辺貞夫はクラリネットとアルトサックスを演奏していました。終戦後、日本に駐留した米軍の影響で、二人はジャズに目覚めます。そして、この本のオープニングに描かれるように、1953年の夏、横浜の進駐軍クラブ「ハーレム」で秋吉敏子と渡辺貞夫は、お互いの演奏と出会うことになるのです。

  この出会いが、日本のジャズの幕開けの一つになったのです。

  題名のとおり、この本では日本のジャズの発展に大きく影響を与えたお二人の軌跡をたどるわけですが、著者の視点は広く、お二人を語ることが同時に日本のジャズ界全体を語る、との構成になっているのです。そこに登場する人物たちはジャズファンにとっては、おあなじみの人たちで、その名前が語られているだけで心を動かされます。

  日本の洋楽ブームは、戦後、ジャズから始まりました。歌謡曲のバックで指揮を執る原信夫とシャープ&フラッツ、クラリネットの第一人者北村英二、ジャズ歌手からキャリアを始めたペギー葉山や江利チエミ、今のジャニーズに負けないほどのアイドルだったジョージ川口(ドラムス)、小野満(ベース)、中村八大(ピアノ)、松本英彦(テナーサックス)がメンバーだった4人組、ビッグ・フォー、とにかくこの本にはその後の日本音楽界を代表する人たちの名前が次々と登場します。

  さらに現在にも通じる日本のジャズミュージシャンたち。渡辺貞夫教室で学んだ、菊池雅章、増尾好秋、富樫雅彦や日野皓正、渡辺香津美など、錚々たるジャズミュージシャンが顔を出し、読む人の胸を熱くしてくれます。著者の意図には、お二人を描くと同時に日本のジャズから派生した音楽文化全体を俯瞰したいとの想いがあったのだと思います。そして、この本でその想いは成功しています。

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(日本のジャズを語る amazon.co.jp)

  この本の目次を紐解いてみましょう。

序章 出会い

1章 ピアノに魅せられた少女

2章 アメリカにあこがれた少年

3章 ジャズで生計を立てる

4章 黄金時代の主役たち

5章 シンデレラガール

6章 「ナベさん、バークリーで勉強してみない」

7章 不遇と栄光

8章 フリージャズからフュージョンへ

9章 「世界のナベサダ」の誕生

10章 呼ばれればどこにでも

11章 歩みは続く

終章 二人の役割

おわりに

【ジャズを創る人】

  秋吉敏子と渡辺貞夫。このレジェンドお二人を結ぶキーワードは、2つ。「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院(現バークリー音楽大学)です。

  まずは「コージー・カルテット」。「コージー・カルテット」は、ジャズバンドの名前です。1949年、九州から東京へと上京してきた秋吉敏子は、進駐軍相手に日銭を稼ぐジャズプレイからアイデンティティ豊かなジャズジャズプレイへの変化を求めて、自分が主催するバンドを結成します。1951年に結成されたバンドは、当時は珍しい月給制のバンド。自分たちの求める音楽をお金に煩わされることなく追求するためには、安定した。

  バンド結成から2年。1953年に横浜の「ハーレム」で渡辺貞夫の演奏を聴いた(見た?)秋吉は、その演奏力を買ってバンドへの加入を申し入れます。こうして、「コージー・カルテット」は、宮沢昭、原田長政、白木英雄、秋吉敏子に渡辺貞夫を加えたスーパーバンドとして日本人のジャズを展開していきました。

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(秋吉敏子 コージーカルテット仲間とのLIVE盤)

  しかし、秋吉敏子は自らのジャズピアノをより高めるために常に挑戦を続けていたのです。渡辺貞夫が加入した1953年、アメリカの名プロデューサーであるノーマン・グランツが来日しました。そのときにピアニストであったのはあのオスカー・ピ-ターソンです。略歴によると、「来日中のオスカー・ピ-ターソンに認められて(アメリカ盤録音)」と紹介されていますが、そのときに起きた出来事は驚きの出来事です。それは、秋吉敏子でなければ起きなかった出来事でしょう。

  何が起きたのかは、ぜひこの本を読んでほしいのですが、とにかくこの出来事によって秋吉敏子の録音したジャズアルバムがアメリカで紹介されることになります。このことが、渡辺貞夫の音楽人生を大きく変えることになるのです。

  さて、「バークリー音楽院」といえば、日本のミュージシャンも数多く輩出しています。はるか後年の話になりますが、ビブラフォンのゲイリー・バートンが音楽院の講師をしていたことはよく知られています。今や日本のジャズをけん引しているといっても過言ではない小曽根真もバークリーに留学していました。小曽根は、ゲイリー・バートンにバンド加入を勧められ自らのキャリアをスタートさせたといっても良いのですが、はじめて顔を合わせたとき、ゲイリーは小曽根を自分とは関係のないミュージシャンだと思ったといいます。

  そのときの小曽根真はオスカー・ピーターソンにあこがれていたのですが、とにかく速弾きのテクニック習得を目指していたといいます。つまり、ジャズピアノのテクニックを身に付けることが目標で、その演奏はとにかく速弾きだったと自ら語っています。その後、ゲイリーは改めて小曽根の演奏をじっくりと聴いて、彼の中の音楽をともに育てようと考えたのかもしれません。

  2017年、川口リリアでゲイリー・バートンと小曽根真のデュオライブが開催されました。ゲイリーは、このとき74歳を迎え、現役最後のライブは小曽根と行いたいとの希望を持ち、このライブに臨んだといいます。ライブは、お二人の数十年の間に培った様々な想いが行きかう、素晴らしいものでした。強く、リリカルに交わされるインタープレイに思わず眼がしらが熱くなりましたが、お二人の心温まるMCにも心が洗われました。

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(ゲイリー・バートン LASTLIVE ポスター)

  「バークリー音楽院」と聴くと、いつもこのライブのことを思い出します。

  話を戻します。

  秋吉敏子は、常々バークリー音楽院への留学を希望し、願書を提出していたそうですが、音楽院からはなしのつぶてだったと語っています。ところが、アメリカでアルバムが発売され、その取材記事が有名雑誌に掲載されると、音楽院から連絡がきたのです。なんと、その内容は学費免除で入学を認めるという申し入れだったのです。そして、1956年1月、秋吉敏子は単身ボストンに渡り、Berkeley音楽学院に入学しました。

  バンマスがバークリーへと渡ってしまい、「コージー・カルテット」はいったいどうなったのでしょうか。なんと、秋吉敏子は自らのバンドを渡辺貞夫に託したのでした。進駐軍の占領が終わり、ジャズマンの収入減がなくなる中、秋吉敏子の信念で給料制を取っていたバンドの維持は並大抵ではありません。バンドの維持のために渡辺貞夫は奔走します。最終的にバンドは解散し、彼はジョージ川口が主催するビッグ・フォーに参加することになります。

  ところが、バークリー音楽院を卒業し、日本に帰国した秋吉から渡辺貞夫に驚きの申し出がなされることになります。それは、秋吉の次の留学生への指名でした。1961年に初のリーダーアルバムを世に出し、次のステップを探る渡辺貞夫にとって、バークリー音楽院への留学は願ってもない話でした。1962年、彼は秋吉敏子からの推薦を受けてバークリーに旅立ちました。

  「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院」。こうして日本のジャズはかけがえのない二人のジャズミュージシャンをその歴史に刻むこととなるのです。

  

  この本は、あまりにも面白いので、その接点を語ってしまいましたが、それはほんの触りにしかすぎません。ジャズファンならご存じの通りここからお二人のジャズが花開き、日本のジャズの歴史が刻まれていきます。ニューヨークでサックス奏者のチャーリー・マリアーノと結婚しバンドを結成する秋吉。さらに後年には、テナーサックス奏者のルー・タバキンと再婚してビッグバンドを結成します。秋吉は、作曲家としても活躍。「すみ絵」、「孤軍」、「みなまた」と次々にオリジナル曲を発表していきます。

  一方、渡辺貞夫はバークリーから帰国後、従来のジャズの枠、ビパップの枠にとどまることなく次々と新たな感性を広げていきます。ゲイリー・マクフ-ランドやチャーリー・マリアーノからボサノヴァやラテンへの広がりを学び、ブラジル音楽を取り入れます。さらに「マイ・ディア・ライフ」では、リー・リトナーやデイブ・グルーシンとあらたな境地へと進みます。1978年に発表した「カリフォルニア・シャワー」では日本にフュージョンブームを巻き起こし、一躍時の人になるのです。

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(渡辺貞夫「カリフォルニア シャワー」)

 

  音楽を語ればキリがありませんが、この本ほどジャズを楽しみながら語ってくれる本は久しぶりに読みました。音楽好きのあなた、一気読み間違いありません。ぜひ、お読みください。ジャズが聞きたくなること請け合いです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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西山浩 日本のジャズはこうしてできた

こんばんは。

  日本ジャズのレジェンドといえば、まずは渡辺貞夫さんです。

  その生まれは1933年ですので、今年は86歳となりました。渡辺貞夫さんのすごさは、今だに日本全国をライブパフォーマンスで走り回っているところです。先月10月のパフォーマンスは、10月の2日は浜松市ゴルフクラブ、4日から7日まで東京丸の内のコットンクラブ、10日は高崎(群馬)市芸術劇場。さらに今月は8日に長崎大村市「シーハットおおむら」、9日と10日は下関の「Jazz Club BILLIE」、12日が大分市「BRICK BLOCK」、14日には高松の「SPEAK LOW」、15日は松山の「MONK」でライブパフォーマンスを繰り広げています。

  12月にも長野、神戸、大阪、札幌、横浜と日本を駆け回り、15日の日曜日には毎年恒例のクリスマスライブが、東京渋谷のオーチャードホールで開演となります。

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(渡辺貞夫 クリスマスギフト LIVE ポスター)

  ジャズの世界では、世界的にも80歳を超える演奏者が活躍していますが、一般的には80歳を超えてライブを行っているプロフェッショナルは、加山雄三さんくらいしか思い当たりません。昨年の東京ジャズでは、日曜日のラストステージでビッグバンドの演奏を繰り広げ、衰えを知らない素晴らしいパフォーマンスを披露してくれました。渡辺貞夫といえばビパップですが、「カリフォルニア・シャワー」に代表されるフュージョンやボサノヴァでもその名前は世界に轟いており、渡辺貞夫さんと同時代に生きることができたことを神様に感謝したいと思っています。いつまでもお元気で素晴らしいジャズを聞かせてほしいと願うばかりです。

  今週は、その渡辺貞夫さんとさらなるレジェンドといってもよい秋吉敏子さんを描いた本を読んでいました。

「秋吉敏子と渡辺貞夫」(西山浩著 新潮新書 2019年)

【日本のジャズのはじまり】

  ジャズは、アメリカで生まれた音楽です。もとはといえばニューオリンズで生まれた誰もが楽しむことができるラグタイムのような演奏です。日本のジャズは、戦前にすでに日本に上陸していましたが、太平洋戦争がはじまるや敵性音楽としてすべて禁止されました。しかし、1945年に終戦を迎え、アメリカの進駐軍が日本に押し寄せてきたときに、日本にジャズが復活します。

  というのも、東京内幸町の旧第一生命ビルがGHQに撤収されマッカーサー元帥が来日すると同時に日本各地に進駐軍が駐留することになります。アメリカ軍人はみな音楽好きで、娯楽といえばジャズの演奏を聴き、ダンスすることでした。銀座や横浜には駐留軍専門のジャズクラブができ、そこでは毎日ジャズが演奏されます。その演奏者は、にわか仕込みの日本人だったのです。

(以下、敬称略)

  秋吉(穐吉)敏子は1929年生まれ。渡辺貞夫は1933年生まれです。終戦の時には、それぞれ16歳、13歳でした。二人は子供のころから音楽にあこがれを持ち、秋吉敏子はピアノ、渡辺貞夫はクラリネットとアルトサックスを演奏していました。終戦後、日本に駐留した米軍の影響で、二人はジャズに目覚めます。そして、この本のオープニングに描かれるように、1953年の夏、横浜の進駐軍クラブ「ハーレム」で秋吉敏子と渡辺貞夫は、お互いの演奏と出会うことになるのです。

  この出会いが、日本のジャズの幕開けの一つになったのです。

  題名のとおり、この本では日本のジャズの発展に大きく影響を与えたお二人の軌跡をたどるわけですが、著者の視点は広く、お二人を語ることが同時に日本のジャズ界全体を語る、との構成になっているのです。そこに登場する人物たちはジャズファンにとっては、おあなじみの人たちで、その名前が語られているだけで心を動かされます。

  日本の洋楽ブームは、戦後、ジャズから始まりました。歌謡曲のバックで指揮を執る原信夫とシャープ&フラッツ、クラリネットの第一人者北村英二、ジャズ歌手からキャリアを始めたペギー葉山や江利チエミ、今のジャニーズに負けないほどのアイドルだったジョージ川口(ドラムス)、小野満(ベース)、中村八大(ピアノ)、松本英彦(テナーサックス)がメンバーだった4人組、ビッグ・フォー、とにかくこの本にはその後の日本音楽界を代表する人たちの名前が次々と登場します。

  さらに現在にも通じる日本のジャズミュージシャンたち。渡辺貞夫教室で学んだ、菊池雅章、増尾好秋、富樫雅彦や日野皓正、渡辺香津美など、錚々たるジャズミュージシャンが顔を出し、読む人の胸を熱くしてくれます。著者の意図には、お二人を描くと同時に日本のジャズから派生した音楽文化全体を俯瞰したいとの想いがあったのだと思います。そして、この本でその想いは成功しています。

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(日本のジャズを語る amazon.co.jp)

  この本の目次を紐解いてみましょう。

序章 出会い

1章 ピアノに魅せられた少女

2章 アメリカにあこがれた少年

3章 ジャズで生計を立てる

4章 黄金時代の主役たち

5章 シンデレラガール

6章 「ナベさん、バークリーで勉強してみない」

7章 不遇と栄光

8章 フリージャズからフュージョンへ

9章 「世界のナベサダ」の誕生

10章 呼ばれればどこにでも

11章 歩みは続く

終章 二人の役割

おわりに

【ジャズを創る人】

  秋吉敏子と渡辺貞夫。このレジェンドお二人を結ぶキーワードは、2つ。「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院(現バークリー音楽大学)です。

  まずは「コージー・カルテット」。「コージー・カルテット」は、ジャズバンドの名前です。1949年、九州から東京へと上京してきた秋吉敏子は、進駐軍相手に日銭を稼ぐジャズプレイからアイデンティティ豊かなジャズジャズプレイへの変化を求めて、自分が主催するバンドを結成します。1951年に結成されたバンドは、当時は珍しい月給制のバンド。自分たちの求める音楽をお金に煩わされることなく追求するためには、安定した収入が必要と考えたのです。

  バンド結成から2年。1953年に横浜の「ハーレム」で渡辺貞夫の演奏を聴いた(見た?)秋吉は、その演奏力を買ってバンドへの加入を申し入れます。こうして、「コージー・カルテット」は、宮沢昭、原田長政、白木英雄、秋吉敏子に渡辺貞夫を加えたスーパーバンドとして日本人のジャズを展開していきました。

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(秋吉敏子 コージーカルテット仲間とのLIVE盤)

  しかし、秋吉敏子は自らのジャズピアノをより高めるために常に挑戦を続けていたのです。渡辺貞夫が加入した1953年、アメリカの名プロデューサーであるノーマン・グランツが来日しました。そのときにピアニストであったのはあのオスカー・ピ-ターソンです。略歴によると、「来日中のオスカー・ピ-ターソンに認められて(アメリカ盤録音)」と紹介されていますが、そのときに起きた出来事は驚きの出来事です。それは、秋吉敏子でなければ起きなかった出来事でしょう。

  何が起きたのかは、ぜひこの本を読んでほしいのですが、とにかくこの出来事によって秋吉敏子の録音したジャズアルバムがアメリカで紹介されることになります。このことが、渡辺貞夫の音楽人生を大きく変えることになるのです。

  さて、「バークリー音楽院」といえば、日本のミュージシャンも数多く輩出しています。はるか後年の話になりますが、ビブラフォンのゲイリー・バートンが音楽院の講師をしていたことはよく知られています。今や日本のジャズをけん引しているといっても過言ではない小曽根真もバークリーに留学していました。小曽根は、ゲイリー・バートンにゲイリーバンド加入を勧められ自らのキャリアをスタートさせたといっても良いのですが、はじめて顔を合わせたとき、ゲイリーは小曽根を自分とは関係のないミュージシャンだと思ったといいます。

  そのときの小曽根真はオスカー・ピーターソンにあこがれていたのですが、とにかく速弾きのテクニック習得を目指していたといいます。つまり、ジャズピアノのテクニックを身に付けることが目標で、その演奏はとにかく速弾きだったと自ら語っています。その後、ゲイリーは改めて小曽根の演奏をじっくりと聴いて、彼の中の音楽をともに育てようと考えたのかもしれません。

  2017年、川口リリアでゲイリー・バートンと小曽根真のデュオライブが開催されました。ゲイリーは、このとき74歳を迎え、現役最後のライブは小曽根と行いたいとの希望を持ち、このライブに臨んだといいます。ライブは、お二人の数十年の間に培った様々な想いが行きかう、素晴らしいものでした。強く、リリカルに交わされるインタープレイに思わず眼がしらが熱くなりましたが、お二人の心温まるMCにも心が洗われました。

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(ゲイリー・バートン LASTLIVE ポスター)

  「バークリー音楽院」と聴くと、いつもこのライブのことを思い出します。

  話を戻します。

  秋吉敏子は、常々バークリー音楽院への留学を希望し、願書を提出していたそうですが、音楽院からはなしのつぶてだったと語っています。ところが、アメリカでアルバムが発売され、その取材記事が有名雑誌に掲載されると、音楽院から連絡がきたのです。そして驚くことにその内容は学費免除で入学を認めるという申し入れだったのです。そして、1956年1月、秋吉敏子は単身ボストンに渡り、バークリー音楽学院に入学しました。

  バンマスがバークリーへと渡ってしまい、「コージー・カルテット」はいったいどうなったのでしょうか。なんと、秋吉敏子は自らのバンドを渡辺貞夫に託したのでした。進駐軍の占領が終わり、ジャズマンの収入がなくなる中、秋吉敏子の信念で給料制を取っていたバンドの維持は並大抵ではありません。バンドの維持のために渡辺貞夫は奔走します。最終的にバンドは解散し、彼はジョージ川口が主催するビッグ・フォーに参加することになります。

  ところが、バークリー音楽院を卒業し、日本に帰国した秋吉から渡辺貞夫に驚きの申し出がなされることになります。それは、秋吉の次の留学生への指名でした。1961年に初のリーダーアルバムを世に出し、次のステップを探る渡辺貞夫にとって、バークリー音楽院への留学は願ってもない話でした。1962年、彼は秋吉敏子からの推薦を受けてバークリーに旅立ちました。

  「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院」。こうして日本のジャズはかけがえのない二人のジャズミュージシャンをその歴史に刻むこととなるのです。

  

  この本は、あまりにも面白いので、その接点を語ってしまいましたが、それはほんの触りにしかすぎません。ジャズファンならご存じの通りここからお二人のジャズが花開き、日本のジャズの歴史が刻まれていきます。ニューヨークでサックス奏者のチャーリー・マリアーノと結婚しバンドを結成する秋吉。さらに後年には、テナーサックス奏者のルー・タバキンと再婚してビッグバンドを結成します。秋吉は、作曲家としても活躍。「すみ絵」、「孤軍」、「みなまた」と次々にオリジナル曲を発表していきます。

  一方、渡辺貞夫はバークリーから帰国後、従来のジャズの枠、ビパップの枠にとどまることなく次々と新たな感性を広げていきます。ゲイリー・マクファーランドやチャーリー・マリアーノからボサノヴァやラテンへの広がりを学び、ブラジル音楽を取り入れます。さらに「マイ・ディア・ライフ」では、リー・リトナーやデイブ・グルーシンとあらたな境地へと進みます。1978年に発表した「カリフォルニア・シャワー」では日本にフュージョンブームを巻き起こし、一躍時の人になるのです。

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(渡辺貞夫「カリフォルニア シャワー」)

 

  音楽を語ればキリがありませんが、この本ほどジャズを楽しみながら語ってくれる本は久しぶりに読みました。音楽好きのあなた、一気読み間違いありません。ぜひ、お読みください。ジャズが聞きたくなること請け合いです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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