音楽本一覧

女性ピアニストが語るピアノソナタの魅力

こんばんは。

 早いもので、今年も師走がやってきました。

 今年は、コロナの1年でしたが、コロナ対策を打ち続けた菅総理が退陣し、岸田総理が誕生。さらに解散総選挙によって、自民党が選挙に勝つ、第二次岸田政権が誕生しました。この選挙では、若者たちの投票率を高めようと、様々な試みが行われましたが、結局投票率は55.93%と戦後3番目に低い数値になりました。国民の民主主義に対する関心の低さには絶望します。

 ただ、今回の選挙は、大阪で行政改革を行った実績のせいか、日本維新の会への投票数が大きく増加し、国政でも日本維新の会が野党第二党に躍進したことは、国民が「改革」に対して意識をして投票したあかし、と少し安心しました。

 また、今年はオリンピックの開催のおかげでプロ野球は中断があり、11月の末まで日本シリーズが行われ、野球ファンを熱狂させてくれました。

 永年のスワローズファン(私のこと)にとっては、野村監督、若松監督に続き、新たなヒーロー高津監督が日本一を勝ち取り、感無量です。

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(宙に舞うスワローズ高津監督 mainichi.jp)

 今年は、セリーグ、パリーグともに昨年最下位であったチームが優勝し、実力が拮抗した東京ヤクルトスワロースとオリックスバッファローズの対決となりました。6試合のうち5試合が1点差のゲームとなり、すべての試合が手に汗を握る展開で、テレビの野球中継から目が離せませんでした。

 下馬評では、沢村賞を受賞した四冠王の山本投手と活きがいい宮城投手を擁するバッファローズが有利と言われていましたが、そこは野村監督の下、胴上げ投手となった高津監督が率いるスワローズ。投手の心をつかむ起用法で、すべての試合を大接戦へと持ち込み、最後には粘りで優勝をもぎ取りました。奥川投手、高橋投手という若いピッチャーの力、石川投手、小川投手というベテラン投手の力、そして、中継ぎ、リリーフ陣、清水投手、石山投手、スワレス投手、マクガフ投手とすべての投手の力を結集し、バッファローズに立ち向かった采配はみごとでした。

 心から感謝と祝福を送ります!

 さて、コロナ禍で人が集まる音楽活動はすべて自粛となっていましたが、この秋以降、新規感染者が劇的に減少し、音楽界でも感染対策を講じたうえでライブやコンサートが復活してきました。そんなうれしい日常の中で、今週はロシアの女流ピアニストが語ったピアノソナタの魅力満載の本を読んでいました。

「ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ」

(イリーナ・メジューエワ著 講談社現代新書 2017年)

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(ピアニストが語る名曲たち amazon.co.jp)

【音楽ライブは生音が一番】

 10月から11月にかけて、ついに待望海外からの生音を体験してきました。

 まず、10月にはクラシックの大御所指揮者のコンサート。

 このブログでも何度か紹介していますが、1980年代からNHK交響楽団を指揮して現在は桂冠名誉指揮者となっている指揮者ブロムシュテット。今年、94歳になるマエストロは、コロナ禍の最中、日本の音楽ファンにリモートで必ず日本に戻って皆さんに遠賀気宇をお届けする、と約束してくれていました。

 そして、今年の10月、その約束がついに現実のものとなったのです。

 10月30日(土)1400.所沢ミューズのアークホール。満員の聴衆がかたずをのむ中、ブロムシュテット氏は大きな拍手に迎えられて舞台に現れ、颯爽と指揮台まで歩み、我々に一礼すると登壇しました。そして、楽団の空気が一瞬張り詰めると指揮棒を持たない手刀のようなブロムシュテットの右手が流れるように振り下ろされます。

 1曲目は、指揮者のふるさとともいえるスウェーデンの作曲家ステンハンマルの「セレナード 作品31」です。プログラムを読むと、ステンハンマルはワーグナーの音楽に影響を受け、シベリウスの交響曲に衝撃を受けてスウェーデンの文化を受け継ぐ曲を書いた、とされています。その美しい旋律は、ブロムシュテットによってさらに洗練され、あるいは力強さを増して我々の心をつかみます。印象としては、大好きなブラームスの豊潤さを秘めた心が昂揚する旋律がとても印象的な演奏でした。

 休憩を挟んで、この日の第2部は、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」が披露されました。

 かつて、フルトヴェングラーをはじめとしたマエストロたちは、ベートーヴェンの交響曲に哲学的な重厚さとゆっくりと昂揚していく感情をこめて表現していましたが、ブロムシュテットは、まったく新しいベートーヴェンを聴かせてくれました。

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(ブロムシュテット氏「運命」ポスター)

 ブロムシュテット氏はインタビューの中で、新しいベートーヴェンの創造について、近年新たな研究によって出版されたベートーヴェンの楽譜には、メトロノームによる演奏速度の指定が入っているというのです。演奏速度の指定は、かつて言葉によるものの実でした。例えば、有名な第9交響曲の第2楽章では、「アダージョ・のン・モルト・カンタービレ」と指定されていますが、この意味は、「やや遅く(ゆるやかに)、歌う様に」となります。しかし、この言葉は受け取る側によって速度が変わってしまいます。

 しかし、メトロノームの速度が指定されていれば、速度は客観的に定まります。第9の第2楽章の速度は、♪=60とされているのです。メトロノームの発明は1817年であり、ベートーヴェンは、自分の以前書いた楽譜も含め、このメトロノーム速度を記入していたというのです。ところが、この速度は曲によってあまりに早すぎるケースもあり、今でも論争が続いています。

 ブロムシュテット氏は、楽譜はバイブルと考えており、この速度を再演することにしたのです。

 その「運命」は、これまでの店舗とは異なり、よりソリッドで小気味の良い演奏でした。この指揮のすごいところは、透き通るような音による演奏にもかかわらず、この曲の持つ人生を謳う尊厳な深みがまったくそこなわれていないところです。第3楽章から切れ間なく続き第4楽章。「運命が戸を叩く」と呼ばれる部分からラストに向かって流れるパートでは、驚くようなスピードとテンポでまさに新鮮な「運命」が我々の心に響き渡ったのです。

 その感想は、言葉では言い表すことができない素晴らしさでした。

 ブロムシュテット氏は、演奏後に割れんばかりの拍手にこたえ、何度も何度も舞台に登場し、スタンディングオベーションに手を振っていましたが、横で手を添えて支えるコンサートマスターのマロさんの姿も併せて、その真摯な姿にこれまた深い感動を覚えました。

 本当に生音で味わうコンサートは何物にも代えがたい体験です。

 また、11月から12月にかけて、プログレッシブロックの生きる証言者と言ってもよい、キングクリムゾンが来日し、たっぷりとそのライブ音を日本に響かせてくれました。

 1969年にあの伝説のアルバム「クリムゾン・キングの宮殿」以来、ロックファンにはおなじみのキングクリムゾンですが、その中心であるギタリスト、ロバート・フィリップも早や75歳となります。しかし、2013年以降、新生キングクリムゾンは、今は亡きグレッグ・レイクやジョン・ウェットンに匹敵するボーカリスト兼ギタリストのジャッコ・ジャクジクという素晴らしいボーカリスト、かつての盟友でサックスフォン奏者のメル・コリンズ、ベーシストのトニー・レヴィン、さらには3人のドラムスを擁する超技巧派音楽集団となって活動しているのです。

 このメンバーとなってから、日本には2015年、2018年と来日してきましたが、今年、3度目となるツアーが実現したのです。コロナウィルスによる延期をものともせず、11月下旬から12月上旬にかけて日本全国で「MUSIC IS OUR FRIEND JAPAN 2021」と銘打たれたが行われました。そして、1128日(日)、国際フォーラムでのライブに参加してきました。

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(LIVE「MUSIC IS OUR FRIEND 2021」)

 今回のバンドのコンセプトは、これまでキングクリムゾンが創造してきた数々の作品を、当時以上に充実した技術と音響でより強力に演奏するというものです。

 今回のライブは、メタルキングクリムゾンのもっとも初期の曲、「レッド」からはじまります。あのソリッドにうねるロバート・フィリップのギター音が会場に響き渡ると、観客は一気にクリムゾンの世界へと引き込まれていきます。そこからは、感激の連続。「エピタフ」、「クリムゾン・キングの宮殿」、「アイランド」、「太陽と戦慄Ⅱ」、「堕落天使」、「再び赤い悪夢」とその名曲を底知れぬパワーで我々に披露してくれたのです。

 そのパフォーマンスは、休憩をはさんで2時間にもわたり、そのすばらしさに圧倒されました。

 コロナ禍の中、2年近くも封印されていた生音がよみがえりました。この2つのライブは音楽がいかに人々に勇気を与えてくれるかを改めて教えてくれました。

【ピアノのすばらしさはピアニストに聞け】

 そんな音楽好きがいつもの本屋さんで芽切あったのが今回ご紹介する音楽本です。

 著者は、ロシア出身の女流ピアニスト、イリーナ・メジューエワさんです。彼女は、1992年にオランダで開催されたフリブセ国際コンクールで優勝。その後、ヨーロッパで活動していましたが、1995年からは日本を拠点に活動してきた一流のピアニストです。

 彼女は、毎年、京都でコンサートを開催し、日本国内で数々の賞に輝いています。

 その彼女が日本語の本を上梓したのには驚きですが、そこにはちょっとした仕掛けがありました。それは、この本のために行われた鼎談でした。鼎談のお相手は、音楽プロヂューサーである御主人と、この本を企画した編集者です。筆者が語りたい作曲家とその作品をテーマとして行われた鼎談は、9回に及び、そのすべてが一人語りのかたちでこの本となったのです。

 ここで取り上げられるのは、バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ショパン、リスト、ムソルグスキー、ドビッシー、ラヴェル。クラシック音楽のファンにはたまらないラインアップです。

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(ショパンのワルツを弾くCD 公式HPより)

 この本の面白さは、各章がピアニストならではの視点に貫かれているところです。各章の構成はほぼ同じです。まず、その作曲家や作品に対して、著者が思い描いている印象や感じ方が記されます。それに続いて作品の紹介が1曲または2曲。そして、最後には紹介した曲の著者が選ぶ名演奏を紹介する、という流れになります。

 例えば、ベートーヴェンの章。

 彼女はピアニストとして、べートーヴェン32作品の全曲演奏に挑んでいます。そこで、経験した印象は、ベートーヴェンがピアノソナタ1曲ごとに、次々と新しいことに挑んでいたという事実でした。我々にとっておなじみの「悲愴」、「月光」、「熱情」などのピアノソナタは、聞く者の心に様々な想いと感動を運んでくれますが、著者は祖の楽譜から常に新しい音にチャレンジするベートーヴェンの姿を感じ取っているのです。

 さらに曲紹介では、ピアノソナタ「月光」と晩年の三部作の一つ「第32番」を取り上げています。我々の知っている月光は、月から静かに降り注ぐ物悲しい月の光が奏でられるのですが、その演奏は技術と言うよりも、3つの楽章を貫く、作曲者の意図をどう表現するのかにかかっているのです。その語りは音楽の用語も飛び交って、難しいのですが、ピアニストならではの視点に、なるほどと唸らせる語りの連続です。

 そして、「月光」のオススメ演奏は、シュナーベル、クラウディオ・アラウ、ヨーゼフ・ホフマンがあげられています。そのオススメの理由はこの本で確かめて下さい。

 この本は、どの章を読んでもロシア出身のピアニストならではの分析とリスペクトがあふれており時間のたつのを忘れます。ピアノと言えばショパン、ですが、ショパンの章の語りはこの本の中でも特出すべき面白さです。ピアニストのショパン弾きとベートーヴェン弾きの違いとは、ショパンがよく弾けるときとはどのような時なのか、ショパン弾きとリスト弾きはどこが違うのか。

 音楽は間違いなく人を幸福にします。皆さんもぜひ著者の音楽愛を楽しんでください。

 少し落ち着いたか見えるコロナ禍ですが、未知の変異オミクロン株もすぐそこに来ています。ご自愛ください。

 それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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西山浩 日本のジャズはこうしてできた

こんばんは。

  日本ジャズのレジェンドといえば、まずは渡辺貞夫さんです。

  その生まれは1933年ですので、今年は86歳となりました。渡辺貞夫さんのすごさは、今だに日本全国をライブパフォーマンスで走り回っているところです。先月10月のパフォーマンスは、10月の2日は浜松市ゴルフクラブ、4日から7日まで東京丸の内のコットンクラブ、10日は高崎(群馬)市芸術劇場。さらに今月は8日に長崎大村市「シーハットおおむら」、9日と10日は下関の「Jazz Club BILLIE」、12日が大分市「BRICK BLOCK」、14日には高松の「SPEAK LOW」、15日は松山の「MONK」でライブパフォーマンスを繰り広げています。

  12月にも長野、神戸、大阪、札幌、横浜と日本を駆け回り、15日の日曜日には毎年恒例のクリスマスライブが、東京渋谷のオーチャードホールで開演となります。

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(渡辺貞夫 クリスマスギフト LIVE ポスター)

  ジャズの世界では、世界的にも80歳を超える演奏者が活躍していますが、一般的には80歳を超えてライブを行っているプロフェッショナルは、加山雄三さんくらいしか思い当たりません。昨年の東京ジャズでは、日曜日のラストステージでビッグバンドの演奏を繰り広げ、衰えを知らない素晴らしいパフォーマンスを披露してくれました。渡辺貞夫といえばビパップですが、「カリフォルニア・シャワー」に代表されるフュージョンやボサノヴァでもその名前は世界に轟いており、渡辺貞夫さんと同時代に生きることができたことを神様に感謝したいと思っています。いつまでもお元気で素晴らしいジャズを聞かせてほしいと願うばかりです。

  今週は、その渡辺貞夫さんとさらなるレジェンドといってもよい秋吉敏子さんを描いた本を読んでいました。

「秋吉敏子と渡辺貞夫」(西山浩著 新潮新書 2019年)

【日本のジャズのはじまり】

  ジャズは、アメリカで生まれた音楽です。もとはといえばニューオリンズで生まれた誰もが楽しむことができるラグタイムのような演奏です。日本のジャズは、戦前にすでに日本に上陸していましたが、太平洋戦争がはじまるや敵性音楽としてすべて禁止されました。しかし、1945年に終戦を迎え、アメリカの進駐軍が日本に押し寄せてきたときに、日本にジャズが復活します。

  というのも、東京内幸町の旧第一生命ビルがGHQに撤収されマッカーサー元帥が来日すると同時に日本各地に進駐軍が駐留することになります。アメリカ軍人はみな音楽好きで、娯楽といえばジャズの演奏を聴き、ダンスすることでした。銀座や横浜には駐留軍専門のジャズクラブができ、そこでは毎日ジャズが演奏されます。その演奏者は、にわか仕込みの日本人だったのです。

(以下、敬称略)

  秋吉(穐吉)敏子は1929年生まれ。渡辺貞夫は1933年生まれです。終戦の時には、それぞれ16歳、13歳でした。二人は子供のころから音楽にあこがれを持ち、秋吉敏子はピアノ、渡辺貞夫はクラリネットとアルトサックスを演奏していました。終戦後、日本に駐留した米軍の影響で、二人はジャズに目覚めます。そして、この本のオープニングに描かれるように、1953年の夏、横浜の進駐軍クラブ「ハーレム」で秋吉敏子と渡辺貞夫は、お互いの演奏と出会うことになるのです。

  この出会いが、日本のジャズの幕開けの一つになったのです。

  題名のとおり、この本では日本のジャズの発展に大きく影響を与えたお二人の軌跡をたどるわけですが、著者の視点は広く、お二人を語ることが同時に日本のジャズ界全体を語る、との構成になっているのです。そこに登場する人物たちはジャズファンにとっては、おあなじみの人たちで、その名前が語られているだけで心を動かされます。

  日本の洋楽ブームは、戦後、ジャズから始まりました。歌謡曲のバックで指揮を執る原信夫とシャープ&フラッツ、クラリネットの第一人者北村英二、ジャズ歌手からキャリアを始めたペギー葉山や江利チエミ、今のジャニーズに負けないほどのアイドルだったジョージ川口(ドラムス)、小野満(ベース)、中村八大(ピアノ)、松本英彦(テナーサックス)がメンバーだった4人組、ビッグ・フォー、とにかくこの本にはその後の日本音楽界を代表する人たちの名前が次々と登場します。

  さらに現在にも通じる日本のジャズミュージシャンたち。渡辺貞夫教室で学んだ、菊池雅章、増尾好秋、富樫雅彦や日野皓正、渡辺香津美など、錚々たるジャズミュージシャンが顔を出し、読む人の胸を熱くしてくれます。著者の意図には、お二人を描くと同時に日本のジャズから派生した音楽文化全体を俯瞰したいとの想いがあったのだと思います。そして、この本でその想いは成功しています。

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(日本のジャズを語る amazon.co.jp)

  この本の目次を紐解いてみましょう。

序章 出会い

1章 ピアノに魅せられた少女

2章 アメリカにあこがれた少年

3章 ジャズで生計を立てる

4章 黄金時代の主役たち

5章 シンデレラガール

6章 「ナベさん、バークリーで勉強してみない」

7章 不遇と栄光

8章 フリージャズからフュージョンへ

9章 「世界のナベサダ」の誕生

10章 呼ばれればどこにでも

11章 歩みは続く

終章 二人の役割

おわりに

【ジャズを創る人】

  秋吉敏子と渡辺貞夫。このレジェンドお二人を結ぶキーワードは、2つ。「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院(現バークリー音楽大学)です。

  まずは「コージー・カルテット」。「コージー・カルテット」は、ジャズバンドの名前です。1949年、九州から東京へと上京してきた秋吉敏子は、進駐軍相手に日銭を稼ぐジャズプレイからアイデンティティ豊かなジャズジャズプレイへの変化を求めて、自分が主催するバンドを結成します。1951年に結成されたバンドは、当時は珍しい月給制のバンド。自分たちの求める音楽をお金に煩わされることなく追求するためには、安定した収入が必要と考えたのです。

  バンド結成から2年。1953年に横浜の「ハーレム」で渡辺貞夫の演奏を聴いた(見た?)秋吉は、その演奏力を買ってバンドへの加入を申し入れます。こうして、「コージー・カルテット」は、宮沢昭、原田長政、白木英雄、秋吉敏子に渡辺貞夫を加えたスーパーバンドとして日本人のジャズを展開していきました。

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(秋吉敏子 コージーカルテット仲間とのLIVE盤)

  しかし、秋吉敏子は自らのジャズピアノをより高めるために常に挑戦を続けていたのです。渡辺貞夫が加入した1953年、アメリカの名プロデューサーであるノーマン・グランツが来日しました。そのときにピアニストであったのはあのオスカー・ピ-ターソンです。略歴によると、「来日中のオスカー・ピ-ターソンに認められて(アメリカ盤録音)」と紹介されていますが、そのときに起きた出来事は驚きの出来事です。それは、秋吉敏子でなければ起きなかった出来事でしょう。

  何が起きたのかは、ぜひこの本を読んでほしいのですが、とにかくこの出来事によって秋吉敏子の録音したジャズアルバムがアメリカで紹介されることになります。このことが、渡辺貞夫の音楽人生を大きく変えることになるのです。

  さて、「バークリー音楽院」といえば、日本のミュージシャンも数多く輩出しています。はるか後年の話になりますが、ビブラフォンのゲイリー・バートンが音楽院の講師をしていたことはよく知られています。今や日本のジャズをけん引しているといっても過言ではない小曽根真もバークリーに留学していました。小曽根は、ゲイリー・バートンにゲイリーバンド加入を勧められ自らのキャリアをスタートさせたといっても良いのですが、はじめて顔を合わせたとき、ゲイリーは小曽根を自分とは関係のないミュージシャンだと思ったといいます。

  そのときの小曽根真はオスカー・ピーターソンにあこがれていたのですが、とにかく速弾きのテクニック習得を目指していたといいます。つまり、ジャズピアノのテクニックを身に付けることが目標で、その演奏はとにかく速弾きだったと自ら語っています。その後、ゲイリーは改めて小曽根の演奏をじっくりと聴いて、彼の中の音楽をともに育てようと考えたのかもしれません。

  2017年、川口リリアでゲイリー・バートンと小曽根真のデュオライブが開催されました。ゲイリーは、このとき74歳を迎え、現役最後のライブは小曽根と行いたいとの希望を持ち、このライブに臨んだといいます。ライブは、お二人の数十年の間に培った様々な想いが行きかう、素晴らしいものでした。強く、リリカルに交わされるインタープレイに思わず眼がしらが熱くなりましたが、お二人の心温まるMCにも心が洗われました。

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(ゲイリー・バートン LASTLIVE ポスター)

  「バークリー音楽院」と聴くと、いつもこのライブのことを思い出します。

  話を戻します。

  秋吉敏子は、常々バークリー音楽院への留学を希望し、願書を提出していたそうですが、音楽院からはなしのつぶてだったと語っています。ところが、アメリカでアルバムが発売され、その取材記事が有名雑誌に掲載されると、音楽院から連絡がきたのです。そして驚くことにその内容は学費免除で入学を認めるという申し入れだったのです。そして、1956年1月、秋吉敏子は単身ボストンに渡り、バークリー音楽学院に入学しました。

  バンマスがバークリーへと渡ってしまい、「コージー・カルテット」はいったいどうなったのでしょうか。なんと、秋吉敏子は自らのバンドを渡辺貞夫に託したのでした。進駐軍の占領が終わり、ジャズマンの収入がなくなる中、秋吉敏子の信念で給料制を取っていたバンドの維持は並大抵ではありません。バンドの維持のために渡辺貞夫は奔走します。最終的にバンドは解散し、彼はジョージ川口が主催するビッグ・フォーに参加することになります。

  ところが、バークリー音楽院を卒業し、日本に帰国した秋吉から渡辺貞夫に驚きの申し出がなされることになります。それは、秋吉の次の留学生への指名でした。1961年に初のリーダーアルバムを世に出し、次のステップを探る渡辺貞夫にとって、バークリー音楽院への留学は願ってもない話でした。1962年、彼は秋吉敏子からの推薦を受けてバークリーに旅立ちました。

  「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院」。こうして日本のジャズはかけがえのない二人のジャズミュージシャンをその歴史に刻むこととなるのです。

  

  この本は、あまりにも面白いので、その接点を語ってしまいましたが、それはほんの触りにしかすぎません。ジャズファンならご存じの通りここからお二人のジャズが花開き、日本のジャズの歴史が刻まれていきます。ニューヨークでサックス奏者のチャーリー・マリアーノと結婚しバンドを結成する秋吉。さらに後年には、テナーサックス奏者のルー・タバキンと再婚してビッグバンドを結成します。秋吉は、作曲家としても活躍。「すみ絵」、「孤軍」、「みなまた」と次々にオリジナル曲を発表していきます。

  一方、渡辺貞夫はバークリーから帰国後、従来のジャズの枠、ビパップの枠にとどまることなく次々と新たな感性を広げていきます。ゲイリー・マクファーランドやチャーリー・マリアーノからボサノヴァやラテンへの広がりを学び、ブラジル音楽を取り入れます。さらに「マイ・ディア・ライフ」では、リー・リトナーやデイブ・グルーシンとあらたな境地へと進みます。1978年に発表した「カリフォルニア・シャワー」では日本にフュージョンブームを巻き起こし、一躍時の人になるのです。

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(渡辺貞夫「カリフォルニア シャワー」)

 

  音楽を語ればキリがありませんが、この本ほどジャズを楽しみながら語ってくれる本は久しぶりに読みました。音楽好きのあなた、一気読み間違いありません。ぜひ、お読みください。ジャズが聞きたくなること請け合いです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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西山浩 日本のジャズはこうしてできた

こんばんは。

  日本ジャズのレジェンドといえば、まずは渡辺貞夫さんです。

  その生まれは1933年ですので、今年は86歳となりました。渡辺貞夫さんのすごさは、今だに日本全国をライブパフォーマンスで走り回っているところです。先月10月のパフォーマンスは、10月の2日は浜松市ゴルフクラブ、4日から7日まで東京丸の内のコットンクラブ、10日は高崎(群馬)市芸術劇場。さらに今月は8日に長崎大村市「シーハットおおむら」、9日と10日は下関の「Jazz Club BILLIE」、12日が大分市「BRICK BLOCK」、14日には高松の「SPEAK LOW」、15日は松山の「MONK」でライブパフォーマンスを繰り広げています。

  12月にも長野、神戸、大阪、札幌、横浜と日本を駆け回り、15日の日曜日には毎年恒例のクリスマスライブが、東京渋谷のオーチャードホールで開演となります。

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(渡辺貞夫 クリスマスギフト LIVE ポスター)

  ジャズの世界では、世界的にも80歳を超える演奏者が活躍していますが、一般的には80歳を超えてライブを行っているプロフェッショナルは、加山雄三さんくらいしか思い当たりません。昨年の東京ジャズでは、日曜日のラストステージでビッグバンドの演奏を繰り広げ、衰えを知らない素晴らしいパフォーマンスを披露してくれました。渡辺貞夫といえばビパップですが、「カリフォルニア・シャワー」に代表されるフュージョンやボサノヴァでもその名前は世界に轟いており、渡辺貞夫さんと同時代に生きることができたことを神様に感謝したいと思っています。いつまでもお元気で素晴らしいジャズを聞かせてほしいと願うばかりです。

  今週は、その渡辺貞夫さんとさらなるレジェンドといってもよい秋吉敏子さんを描いた本を読んでいました。

「秋吉敏子と渡辺貞夫」(西山浩著 新潮新書 2019年)

【日本のジャズのはじまり】

  ジャズは、アメリカで生まれた音楽です。もとはといえばニューオリンズで生まれた誰もが楽しむことができるラグタイムのような演奏です。日本のジャズは、戦前にすでに日本に上陸していましたが、太平洋戦争がはじまるや敵性音楽としてすべて禁止されました。しかし、1945年に終戦を迎え、アメリカの進駐軍が日本に押し寄せてきたときに、日本にジャズが復活します。

  というのも、東京内幸町の旧第一生命ビルがGHQに撤収されマッカーサー元帥が来日すると同時に日本各地に進駐軍が駐留することになります。アメリカ軍人はみな音楽好きで、娯楽といえばジャズの演奏を聴き、ダンスすることでした。銀座や横浜には駐留軍専門のジャズクラブができ、そこでは毎日ジャズが演奏されます。その演奏者は、にわか仕込みの日本人だったのです。

(以下、敬称略)

  秋吉(穐吉)敏子は1929年生まれ。渡辺貞夫は1933年生まれです。終戦の時には、それぞれ16歳、13歳でした。二人は子供のころから音楽にあこがれを持ち、秋吉敏子はピアノ、渡辺貞夫はクラリネットとアルトサックスを演奏していました。終戦後、日本に駐留した米軍の影響で、二人はジャズに目覚めます。そして、この本のオープニングに描かれるように、1953年の夏、横浜の進駐軍クラブ「ハーレム」で秋吉敏子と渡辺貞夫は、お互いの演奏と出会うことになるのです。

  この出会いが、日本のジャズの幕開けの一つになったのです。

  題名のとおり、この本では日本のジャズの発展に大きく影響を与えたお二人の軌跡をたどるわけですが、著者の視点は広く、お二人を語ることが同時に日本のジャズ界全体を語る、との構成になっているのです。そこに登場する人物たちはジャズファンにとっては、おあなじみの人たちで、その名前が語られているだけで心を動かされます。

  日本の洋楽ブームは、戦後、ジャズから始まりました。歌謡曲のバックで指揮を執る原信夫とシャープ&フラッツ、クラリネットの第一人者北村英二、ジャズ歌手からキャリアを始めたペギー葉山や江利チエミ、今のジャニーズに負けないほどのアイドルだったジョージ川口(ドラムス)、小野満(ベース)、中村八大(ピアノ)、松本英彦(テナーサックス)がメンバーだった4人組、ビッグ・フォー、とにかくこの本にはその後の日本音楽界を代表する人たちの名前が次々と登場します。

  さらに現在にも通じる日本のジャズミュージシャンたち。渡辺貞夫教室で学んだ、菊池雅章、増尾好秋、富樫雅彦や日野皓正、渡辺香津美など、錚々たるジャズミュージシャンが顔を出し、読む人の胸を熱くしてくれます。著者の意図には、お二人を描くと同時に日本のジャズから派生した音楽文化全体を俯瞰したいとの想いがあったのだと思います。そして、この本でその想いは成功しています。

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(日本のジャズを語る amazon.co.jp)

  この本の目次を紐解いてみましょう。

序章 出会い

1章 ピアノに魅せられた少女

2章 アメリカにあこがれた少年

3章 ジャズで生計を立てる

4章 黄金時代の主役たち

5章 シンデレラガール

6章 「ナベさん、バークリーで勉強してみない」

7章 不遇と栄光

8章 フリージャズからフュージョンへ

9章 「世界のナベサダ」の誕生

10章 呼ばれればどこにでも

11章 歩みは続く

終章 二人の役割

おわりに

【ジャズを創る人】

  秋吉敏子と渡辺貞夫。このレジェンドお二人を結ぶキーワードは、2つ。「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院(現バークリー音楽大学)です。

  まずは「コージー・カルテット」。「コージー・カルテット」は、ジャズバンドの名前です。1949年、九州から東京へと上京してきた秋吉敏子は、進駐軍相手に日銭を稼ぐジャズプレイからアイデンティティ豊かなジャズジャズプレイへの変化を求めて、自分が主催するバンドを結成します。1951年に結成されたバンドは、当時は珍しい月給制のバンド。自分たちの求める音楽をお金に煩わされることなく追求するためには、安定した。

  バンド結成から2年。1953年に横浜の「ハーレム」で渡辺貞夫の演奏を聴いた(見た?)秋吉は、その演奏力を買ってバンドへの加入を申し入れます。こうして、「コージー・カルテット」は、宮沢昭、原田長政、白木英雄、秋吉敏子に渡辺貞夫を加えたスーパーバンドとして日本人のジャズを展開していきました。

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(秋吉敏子 コージーカルテット仲間とのLIVE盤)

  しかし、秋吉敏子は自らのジャズピアノをより高めるために常に挑戦を続けていたのです。渡辺貞夫が加入した1953年、アメリカの名プロデューサーであるノーマン・グランツが来日しました。そのときにピアニストであったのはあのオスカー・ピ-ターソンです。略歴によると、「来日中のオスカー・ピ-ターソンに認められて(アメリカ盤録音)」と紹介されていますが、そのときに起きた出来事は驚きの出来事です。それは、秋吉敏子でなければ起きなかった出来事でしょう。

  何が起きたのかは、ぜひこの本を読んでほしいのですが、とにかくこの出来事によって秋吉敏子の録音したジャズアルバムがアメリカで紹介されることになります。このことが、渡辺貞夫の音楽人生を大きく変えることになるのです。

  さて、「バークリー音楽院」といえば、日本のミュージシャンも数多く輩出しています。はるか後年の話になりますが、ビブラフォンのゲイリー・バートンが音楽院の講師をしていたことはよく知られています。今や日本のジャズをけん引しているといっても過言ではない小曽根真もバークリーに留学していました。小曽根は、ゲイリー・バートンにバンド加入を勧められ自らのキャリアをスタートさせたといっても良いのですが、はじめて顔を合わせたとき、ゲイリーは小曽根を自分とは関係のないミュージシャンだと思ったといいます。

  そのときの小曽根真はオスカー・ピーターソンにあこがれていたのですが、とにかく速弾きのテクニック習得を目指していたといいます。つまり、ジャズピアノのテクニックを身に付けることが目標で、その演奏はとにかく速弾きだったと自ら語っています。その後、ゲイリーは改めて小曽根の演奏をじっくりと聴いて、彼の中の音楽をともに育てようと考えたのかもしれません。

  2017年、川口リリアでゲイリー・バートンと小曽根真のデュオライブが開催されました。ゲイリーは、このとき74歳を迎え、現役最後のライブは小曽根と行いたいとの希望を持ち、このライブに臨んだといいます。ライブは、お二人の数十年の間に培った様々な想いが行きかう、素晴らしいものでした。強く、リリカルに交わされるインタープレイに思わず眼がしらが熱くなりましたが、お二人の心温まるMCにも心が洗われました。

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(ゲイリー・バートン LASTLIVE ポスター)

  「バークリー音楽院」と聴くと、いつもこのライブのことを思い出します。

  話を戻します。

  秋吉敏子は、常々バークリー音楽院への留学を希望し、願書を提出していたそうですが、音楽院からはなしのつぶてだったと語っています。ところが、アメリカでアルバムが発売され、その取材記事が有名雑誌に掲載されると、音楽院から連絡がきたのです。なんと、その内容は学費免除で入学を認めるという申し入れだったのです。そして、1956年1月、秋吉敏子は単身ボストンに渡り、Berkeley音楽学院に入学しました。

  バンマスがバークリーへと渡ってしまい、「コージー・カルテット」はいったいどうなったのでしょうか。なんと、秋吉敏子は自らのバンドを渡辺貞夫に託したのでした。進駐軍の占領が終わり、ジャズマンの収入減がなくなる中、秋吉敏子の信念で給料制を取っていたバンドの維持は並大抵ではありません。バンドの維持のために渡辺貞夫は奔走します。最終的にバンドは解散し、彼はジョージ川口が主催するビッグ・フォーに参加することになります。

  ところが、バークリー音楽院を卒業し、日本に帰国した秋吉から渡辺貞夫に驚きの申し出がなされることになります。それは、秋吉の次の留学生への指名でした。1961年に初のリーダーアルバムを世に出し、次のステップを探る渡辺貞夫にとって、バークリー音楽院への留学は願ってもない話でした。1962年、彼は秋吉敏子からの推薦を受けてバークリーに旅立ちました。

  「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院」。こうして日本のジャズはかけがえのない二人のジャズミュージシャンをその歴史に刻むこととなるのです。

  

  この本は、あまりにも面白いので、その接点を語ってしまいましたが、それはほんの触りにしかすぎません。ジャズファンならご存じの通りここからお二人のジャズが花開き、日本のジャズの歴史が刻まれていきます。ニューヨークでサックス奏者のチャーリー・マリアーノと結婚しバンドを結成する秋吉。さらに後年には、テナーサックス奏者のルー・タバキンと再婚してビッグバンドを結成します。秋吉は、作曲家としても活躍。「すみ絵」、「孤軍」、「みなまた」と次々にオリジナル曲を発表していきます。

  一方、渡辺貞夫はバークリーから帰国後、従来のジャズの枠、ビパップの枠にとどまることなく次々と新たな感性を広げていきます。ゲイリー・マクフ-ランドやチャーリー・マリアーノからボサノヴァやラテンへの広がりを学び、ブラジル音楽を取り入れます。さらに「マイ・ディア・ライフ」では、リー・リトナーやデイブ・グルーシンとあらたな境地へと進みます。1978年に発表した「カリフォルニア・シャワー」では日本にフュージョンブームを巻き起こし、一躍時の人になるのです。

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(渡辺貞夫「カリフォルニア シャワー」)

 

  音楽を語ればキリがありませんが、この本ほどジャズを楽しみながら語ってくれる本は久しぶりに読みました。音楽好きのあなた、一気読み間違いありません。ぜひ、お読みください。ジャズが聞きたくなること請け合いです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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