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終わりに

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辻村深月 建物に刻まれた人々の記憶(その1)

こんばんは。


  今年、定年を迎えた友人は、仕事を辞めて悠々自適の生活に入りました。


  最後の出勤日、今後の悠々自適生活について語りましたが、彼にはいくつかの人生計画がありました。その中の一つに、「歴史的建物の徒歩による探訪」が含まれていました。


  友人は、一級建築士の資格を持ち、かつて某ゼネコン(総合建設業)に籍を置いていましたが、30年前にわが金融業界へと転職してきたのです。その建物への造形の深さはもちろんなのですが、彼には、高血糖値の持病があり、糖尿病予備軍として体調管理を医師から言い渡されているのです。つまり、取得するカロリーを抑えて、消費するカロリーを増やすことを課せられているわけです。


  そのために最も適しているのがウォーキングです。生活習慣病予備軍にとって、一日一万歩は健康への道標です。しかし、我々は何の目的もなく歩くのには忍耐力を要します。最近はPokemon GOのような歩くこと自体で報酬をもらえるスマホゲームが人気を呼んでおり、街にはスマホを片手に歩き回る高齢者たちをよく見かけるようになりました。


  話は逸れましたが、その友人は退職後、ウォーキングを継続的に行う目的として歴史的建造物を巡り、街を歩くことにしたわけです。確かに、東京近県には様々な歴史を包含した名建築が数多く残されています。東京では、東京駅や丸の内の三菱一号館美術館、上野に行けば東京国立博物館、国立西洋美術館、国立科学博物館など、数え切れないほどの名建築がひしめいています。それを巡るウォーキングは、人生の楽しみと健康の両方を満喫する一石二鳥の計画と言えるのではないでしょうか。


  こんなことを思い出したのも先週から読んでいるある小説のワンダーのためです。


「東京會舘とわたし(上)旧館」(辻村深月著 文春文庫 2019年)


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(「東京會舘とわたし(上 旧館)」 amazon.co.jp)


【レトロ建築に秘められたワンダー】


  東京會舘と言えば、現在はリニューアルにより最新の建物に生まれ変わりましたが、建物の中には1920年(大正11年)の初代東京會舘から継承された様々な内装や造作が今も残されており、我々にその歴史に秘められた記憶を呼び起こしてくれるのです。


  閑話休題


  最近は、NHKの番組を見ることが多く、家族からはNHKオタクと呼ばれてあきれられています。特に動物写真家岩合光昭さんの「世界ネコ歩き」とEテレの「クラシック音楽館」は面白い。そのNHK Eテレに「美の壺」という番組があることをご存知でしょうか。この番組はあらゆる美術の鑑賞マニュアルとの副題のとおり、毎回様々なアートを取り上げてその鑑賞ノウハウを伝えてくれます。


  その番組で「レトロ建築」が取り上げられました。しかも90分のスペシャル版。見ごたえがありました。この番組では、レトロ建築を味わうための5つのツボを紹介してくれます。


■レトロ建築のツボ その1:建物で味わう世界旅行

  まず紹介されるのは、新宿区にある木造建築「小笠原伯爵邸」です。この建物は旧小倉藩主で伯爵であった小笠原当主が1927年に建築した歴史的建造物であり、東京都選定歴史的建造物にも認定されています。旧小倉藩と聞くと木造数寄屋造りの建物が想像されますが、さにあらず。この建物は、鉄筋コンクリート2階建て、スパニッシュ様式で建てられたヨーロッパが香るようなファサード、そして優雅な内装に魅了されます。さらに応接間の内装にはアラビアを思わせる装飾が施され、異国情緒に満ち溢れています。


  レトロ建物めぐりが大好きという女優内田有紀さんの案内で建物の中で世界旅行気分を味わいます。その他にもレンガ造りの旧事務所、三菱1号館美術館、ギリシャ様式の柱を配置した明治生命ビル、白金にあるアールデコ様式の旧朝香宮邸と見どころ満載の建物が紹介されます。


■レトロ建築のツボ その2:時代を映す、店の顔

  日本には多くの外国人がいますが、あの大ヒットアニメ「君の名は」の背景を描いたアーティストがポーランドの方とは知りませんでした。その名もマテウシュ・ウルバノヴィッチさん。現在、ウルバノヴィッチさんは東京の古き良き商店の建物をデッサンし独自のイラストを制作しているのだそうです。イラストは、「東京店構え」との題名で本にもなっているといいます。


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(書籍「東京店構え」 amazon.co.jp)


  番組では、築地にある築地木村家というサンドイッチ専門店の店構えに魅せられたウルバノヴィッチさんが、木村家の4代当主を訪ね、その店構えを独特のタッチでイラストに仕上げるまでを紹介してくれます。その古さに風情がある看板は秀逸な出来です。


  さらに番組は、東京小金井市にある「江戸東京たてもの園」を訪問します。その中には、実際に使われていた商店6件を移築した一角があり、どれも個性あふれる建物です。


■レトロ建築のツボ その3:時が重ねた心地よさ

  次に番組が訪れたのは、なんと「銭湯」です。今や家庭には必ず内風呂がある時代。銭湯はもはや一部のファンの楽しみとなりましたが、昭和30年代には「内風呂」があっても広く大きなお風呂屋さんの湯舟を味わいたくて家族でお風呂屋さんを訪れました。驚いたことに都内には、総木造り、宮構えのお風呂屋さんが現役で営業しているのです。


  かつて、家族ドラマとして「時間ですよ」というTV番組が放映されていました。その舞台は銭湯。そこの住込みの使用人堺正章が、冒頭に「おかみさーん。時間ですよー。」と声を挙げて始まる番組は、一世を風靡し、皮肉なことに番組が始まると銭湯から人がいなくなると言われるほどでした。(「戦後すぐのラジオ番組「君の名は」みたいですが・・・。」


  ともあれ、この昭和32年に建築されたという銭湯は、吹き抜けを見上げれば、織り上げ格天井(おりあげごうてんじょう)が広く施され、昔、パーマ屋さんにあった、座ってドームをかぶる方式のドライヤーまで設置されてレトロ感満載です。


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(大田区のレトロ銭湯 Tokyosentou.com)


  いつもはナレーションを務める木村多江さんが、あこがれだったと語る番台に座って、男湯も女湯も見渡し、その建築のすばらしさを紹介してくれました。続いて、木村さんが訪れるのはフランク・ロイド・ライトと弟子の遠藤新が設計した名建築「自由学園明日館」です。


  この建築は、大正10年(1910年)に建てられたといいます。すでに100年以上を経ているのですが、驚くことにこの建物は「動態保存」という保存方法を用いており、現在も現役として利用されつつ保存されているのです。もともと学園ですので、子供たちの教育の場なのですが、光がふんだんに入る講堂やすべての人々が対面して食事をとる食堂は、まるでハリーポッターに出てくるフォグワースを思わせる様々な工夫に溢れています。


  番組では、この建物の中で開催されているオカリナの市民講座の様子を映しており、高齢の受講者たちがここに通ってくることを楽しみにしながら、永年オカリナを葺いている姿に感動しました。


  いよいよ番組も佳境に入っていきます。次なるレトロ兼特は、こだわりの職人技が光る建築物となります。


■レトロ建築のツボ その4:手仕事が生み出す華やぎ

  京都に銭湯?その意外な銭湯は北区所在の「船岡温泉」です。こちらの銭湯もレトロと言えば負けていません。大正昭和の香りをまとった内装はなつかしさでいっぱいで、京都らしく木船医師のある露天風呂や脱衣所を囲むように彫り込まれた京の祭りの欄干など見どころに溢れています。しかし、番組で紹介するのは、職人技と言えるマジョリカタイルの美しさです。


  マジョリカ焼とは、イタリアのマヨリカ焼が発祥の彩色タイルのことですが、19世紀半ばにイギリスのミルトン社、ウエッジウッド社が制作したマジョリカタイルが世界に流行しました。日本でも輸入されましたが、その値段が硬化であることから和製摩距離方いるが開発され、大正から昭和10年代にかけて多く生産されました。大半は輸出されましたが、2から3割は国内の建築に利用されました。そのレトロな美しさは、我々の心を捉えて離しません。


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(船岡温泉のマジョリカタイル funaokaonnsen.net)


  そして、もう一つの職人技。これこそフランク・ロイド・ライトによって図面が起こされた旧帝国ホテルのテラコッタです。テラコッタとは粘土を素焼きにしたものをさし、彫刻や土器などに利用されますが、建築に使う装飾としても使われます。


  旧帝国ホテルの本館では、ライトが作図したテラコッタが450万個も使われるため、このテラコッタ製造のために常滑市に「帝国ホテルレンガ製作所」という会社を作り、テラコッタの制作に当たったのです。実は、この会社が現在のINAX社(旧伊那製陶社)に変わったというのはワンダーでした。さらに驚いたことに、この製作所の職人たちの気質は求道的で、実際に焼きあがったテラコッタはライトの作図したものよりも複雑で合理的な造形だったというのです。


  そういえば、人気番組テレ東の「開運 なんでも鑑定団」に旧帝国ホテルのテラコッタが出品され、本人評価額20万円のところ、鑑定結果が250万円となり、本物であることも驚きでしたが、その金額にも驚きました。


  このテラコッタと旧帝国ホテル本館のファサードは現在愛知県犬山市の明治村に移築され、いつでも見ることができます。


  さて、最後のツボは、「■レトロ建築のツボ その5:レトロを未来へ」なのですが、本の紹介に至る前に紙面が尽きてしまいました。最後のツボのご紹介は次回に繋げたいと思います。


【建物の歴史は人が紡いでいく】


  さて、今回の小説は、辻村さんが「東京會舘」が大正11年に創業されてから現在に至るまでの物語です。


  東京會舘の建物は、その間に2度の建て替えを行っています。大正11年、創業時の本館はルネサンス様式の洋館で、帝国劇場と並んでモダンで壮麗な建築でした。「民間初の社交場」とのコンセプトで創業された東京會舘は、ホテルの認可が下りずに宿泊施設こそありませんが、バンケットホール、バー、レストランを兼ね備えただれでも利用できる會舘として、長きにわたり日本人に愛されてきた會舘です。しかし、新築1年もたたないうちに會舘は関東大震災に襲われます。未曾有の地震に建物は耐えられたのか。その結末はこの小説でお楽しみください。


  この本館が老朽化のために建て替えられたのは、昭和47年のこと。(ちなみに2度目の建て替えは平成27年(2015年)からはじまり、この文庫本が上梓された平成31年(2019年)に地上30階建てのビルとして竣工しました。)


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(竣工当時の東京會舘と帝国劇場 wikipediaより)


  上巻には、創業時から昭和39年までの5つの短編小説が収められています。


  辻村さんの筆は、人の心の動くさまを見事なタッチで描きだします。東京會舘の歴史を創ってきたのは、この會舘にかかわったすべての人々です。辻村さんは、その時代の會舘の出来事とそこにかかわる人たちのエピソードを語るのですが、それぞれの時代、人の心が動く瞬間を見逃しません。


  第一話。大正1254日、帝国劇場で素晴らしい演奏会が催されました。当時、世界で最も有名な演奏家、ヴァイオリニストのフリッツ・クライスラーが来日し、5日間の公演を行ったのです。作家志望の寺井は、この公演を聴くために都落ちした故郷の金沢から東京へと夜行列車に乗ってやってきます。そして、様々な想いが交錯する中で、寺井はクライスラーのヴァイオリンが奏でる音に心の底から感動します。


  いったい帝国劇場で聞いた奇跡のような音楽は、どこで東京會舘と交わるのか。寺井は、そのクライスラーの演奏に勝るとも劣らない感動を東京會舘で味わうことになるのです。そのワンダー。皆さんぜひこの小説で味わってください。


  他にも「民間の社交場」が戦争激化の中で、東京會舘が政府に徴用されることの無念。戦時下の東京會舘で結婚式を挙げた花嫁はどのように戦争を終えたのか。東京會舘で伝説となったバーテンダーはどのように生まれたのか。高度成長期に新たなスウィーツの開発に尽力した東京會舘の事業部長と菓子職人の意地と信念のぶつかり合い。この小説には、東京會舘と言う建物の中で繰り広げられた人々の心の様々なムーヴメントが詰まっています。


  辻村さんの確かな筆致に感動です。


  新型コロナウィルスは新たなデルタ株の侵攻で四度目の感染拡大フェイズに進んでいます。我々にできることは、手洗い、消毒、そして密の回避です。皆さん、一致団結してこの危機を乗り越えましょう。


  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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池内紀 ドイツ文学者最後の仕事

こんばんは。


  このブログで敬愛する池内紀さんを礼讃する記事を書いてから10年以上がたちました。


  その池内紀さんが20198月に亡くなったことを知ったのは、2020年に入って本屋さんを巡っているときに「池内紀 追悼」というポップを見つけた時でした。最後に上梓された新書はそのときに購入したのですが、池内さんの言葉を読むことができなくなったと思うと、その本を手に取ることができずに1年以上が過ぎてしまいました。


  前回、亡くなった半藤一利さんの対談本を読んで、ふとその隣に並べてあった池内さんの本に目が留まりました。そして、この本を読もうと思ったのです。


「ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」

(池内紀著 中公新書 2019年)


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(新書「ヒトラーの時代」 amazon.co.jp)


【この本が書かれたわけ】


  ドイツ文学と言えば、個人的にはトーマス・マン、ヘッセ、カフカが思い浮かびます。


  最も近くに読んだ池内さんの本は、「戦う文豪とナチス・ドイツ」というスイスに亡命したトーマス・マンが記した日記を解読したエッセイです。トーマス・マンはドイツ文化をこよなく愛し、第一次世界大戦の時にはそのドイツの戦争を擁護し、ドイツ文化のために「非政治的人間の省察」というドイツ独自の体制の在り方を擁護する著作を発表しています。


  しかし、敗戦後には新たに立ち上げられたワイマール共和国を礼讃し、その民主主義をたたえました。ドイツは、第一次世界大戦での敗戦によりヴェルサイユ条約によって莫大な賠償金を課せられ、さらに未曾有の世界恐慌のあおりも受け、想像を絶するインフレに見舞われます。1921年には、1ドル=350マルクであったレートが、アッという間に下落を重ね、1923年の11月には1ドル=10億マルクという想像すらできない金額に下落しました。


  こうした混乱の最中、ワイマール共和国では政権を担うべき与党が脆弱であり、小党乱立の状態でまともな政治を行う状況ではありませんでした。ナチス(国民社会主義労働党)の前身であるドイツ労働党もそのなかの一つでしたが、1919年ヒトラーは30歳にしてこの党に入党したのです。


  ヒトラーは、ナチス党の公開討論会でみごとな演説を重ねに重ね、徐々に頭角を現していきます。


  民主主義の根幹をなすのは選挙制度です。ワイマール共和国では議会議員を総選挙で選出し、過半数の議員の票によって大統領が選出される仕組みでした。寄せ集めで立ち上げられた内閣は確固たる政策を打つことはできず、内閣は解散を繰り返します。19307月の解散総選挙のとき、それまで12議席に過ぎなかったナチスは、107議席と大躍進を果たし第二党へと躍り出ます。


  さらに総選挙後に発足した内閣は19326月、組閣3日後に解散し、またしても選挙が行われます。ここで、ナチスは230議席を獲得し第一党となり、内閣の総辞職が重なる中で、大統領ヒンデンブルグは、第一党の党首ヒトラーに首相を要請したのです。


  ここから、民主主義の仕組みを巧妙に利用し独裁を実現していくヒトラーとナチスの謀略がはじまったのです。


  トーマス・マンは、かねてから国家社会主義を標榜し国民をあおるナチスに悲観を繰り返していましたが、19332月にスイスに夫婦で講演旅行に出かけている最中、ドイツでひとつの事件が起こります。それがベルリン国会議事堂炎上事件です。この事件は共産党の若者が議事堂に放火し、全焼した事件ですが、ヒトラーはこの事件を最大限利用します。テロ防止のために、言論の自由や結社の自由などの権利を制限し、権限を首相に集めていくのです。当時、共産党は81の議席を保有していましたが、ヒトラーはその議席を廃止。これにより、288議席を持つナチスが議席の過半数を占めることとなったのです。


  長男からこの状況を聴いたトーマス・マンは、そのままスイスに亡命します。


  ナチスとヒトラーは、こうして独裁の道をひた走り、反体制分子をすべて粛清し、領土を拡大。第二次世界大戦を勃発させ、世界中で4000万人もの民間人と2000万人以上の軍人が命を落としました。あまつさえ、ユダヤ人に対する殺戮(ホロコースト)によって570万人もの命が奪われたと言われています。


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(虐殺施設 アウシュビッツ収容所 jiji.com)


  それにしても、池内紀さんはなぜ最後にヒットラーの時代を描く仕事を成したのでしょうか。


  この本の「あとがき」にこの本を書いたわけが記されていました。


  自らのドイツ文学者の仕事をしながら常に意識にあったとのくだり。「いずれの場合にも、背後に一人の人物がいた。独裁者ヒトラーとして極悪人の名を歴史にとどめた。だが、その男に歓呼して手を振り、熱狂的に迎え、いそいそと権力の座に押し上げた国民がいた。私が様々なことを学んだドイツの人々である。こういったことを、どう考えたらいいのだろう。ついては『ドイツ文学者』をなのるかぎり、『ヒトラーの時代』を考え、自分なりの答えを出しておくのは課せられた義務ではないのか。誰に課せられたというのでもない。自分が選んだ生き方の必然の成り行きなのだ。」


  そして、文章はこう続きます。「そう思いながら、とりかかるのを先送りにしてきた。気がつくと、自分の能力の有効期間が尽きかけている。もう猶予ができない。」


  池内さんの文章は、常に変わらず、淡々と、しかし瀟洒につむがれていきます。


  この遺作ともいえる最後の本を読んで、改めてこれまで数々の著作で池内紀さんが教えてくれた様々な楽しみと教訓が思い出されてなりません。本当に感謝です。そして、改めて、ご冥福をお祈りします。


【独裁者に成り上がることができた理由】


  話は変わりますが、皆さんは望月三起也という漫画家を覚えているでしょうか。


  そうです、かつて「少年キング」で連載されていた「ワイルド7」の作者です。バイクにまたがって走ることが三度の飯より好きな荒くれ男7人が、警視庁の特別警官隊として無法を持って無法をつぶしていく物語です。毎回、バイオレンスな世界が描かれながらも内側に隠れた正義感をニヒルににおわせて最後にはホロリとさせられる展開がたまらなく面白い名作でした。


  その望月三起也さんが描いた作品に「ジャパッシュ」という名作があります。


  この物語は、ある日本人考古学者がメキシコのマヤ文明の遺跡である石碑を発見する場面から始まります。その石碑には、良く知られた名前が彫り込まれていました。アレキサンダー、アッチラ、ジンギスカン、ナポレオン、ヒトラーと掘られた横には、彼らの生年月日と没年が刻まれていたのです。そして、その最後に刻まれていたのが「ジャパッシュ」。その生年は読み取れますが、没年はかすれており読み取ることができません。


  果たして、この石碑は未来を予言したものなのか。


  翻って、場面は現代日本へとは展開します。主人公である日向光は、生まれながらに「悪」の化身でした。生まれたとき、その目力のまがまがしさに思わず首を絞めてしまおうとする産婆を、逆に殺してしまう恐るべきエピソード。そして、小学生のときに日向は、石碑を発見した考古学者の孫、石狩五郎と同級生となり、その家に遊びに行きます。老学者は日向の生年月日を知って、彼こそが石碑にかかれた「ジャパッシュ」であることを確信し、彼を絞め殺そうとします。しかし、最後の際に慈悲心を感じ、逆に日向に返り討ちにされ、家ごと燃やされてしまいます。


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(望月三起也「ジャパッシュ」 amazon.co.jp)


  日向光は、その後長じると自らの美貌とその弁舌の魅力により、周囲の人間を魅了して親衛隊を組織していきます。その親衛隊は、徐々に拡大していき、「正義」の集団へと拡大していきます。しかし、その「正義」は隠れ蓑にしかすぎません。日向は、とある海運業者に取り入って、そこにはびこる悪をつぶすことにより、会社の経営にまで入り込んで財力を手にします。


  さらに、その「悪」を否定するアジテーションによって日本の民衆を味方につけ、暴力集団テロに対抗する自衛組織「ジャパッシュ」の首領へと駆け上ります。そして、大規模な騒擾を鎮圧するとの名目からついに警察権を手にすることに成功します。


  周囲の大人たちは、日向の立ち振る舞いの胡散臭さを知りながらも、その力を利用して自らの権力を強めようとし、逆に日向に利用され、日向はその人気を不動のものにしていきます。さらに過激派グループの武装集団との対決のために日向は自衛隊の武力さえも操るまでの力を手に入れます。ついには、国民投票によって日本のトップへと登りつめるのです。独裁者の誕生です。


  その徹底して人を利用し尽し、合法的な「悪」を繰り返してすべての権力を手にしていく過程は、まるでヒトラーを描いているようです。


  望月三起也さんは、当初、祖父を殺害された石狩五郎の復讐劇をメインにしたストーリーを構想していたそうですが、日向光の極悪な魅力が読者をとらえてしまい、意図とは異なって「悪」のプロセスを描く物語として人気が出てしまいました。その悪影響を考慮し、自ら連載を打ち切ったといわれています。


  いったいなぜジャパッシュは、独裁者となったのか。


  この本を読みながら望月三起也さんの「ジャパュシュ」を思い出しました。


  さて、話を戻します。今回の本は、フィクションではありません。そこには、歴史的事実が記されているのですが、その視点は本当に池内さんらしい、ウィットにとんだ題材が取り上げられています。


  描かれているのは、ナチス(国民社会主義ドイツ労働党)ができた(改名)1920年からヒトラーがポーランドに侵攻した1939年までの出来事です。編年体の歴史、もしくは歴史小説であれば、ヒトラーが生活保護を受けていた街角の画家からナチスの党首となり、ナチスが国会で第一党に躍り出て首相、そして完全な独裁者となるまでの時代をまるで教養小説の様に描いたかもしれません。


  しかし、池内さんは時系列にヒトラーが権力を手にしていく過程をわかりやすく示しながら、歴史家がスポットをあてていない人々のエピソードを連ねていくという手法をとっています。それは、これまでの池内エッセイの手法の集大成と言えるかもしれません。


  「ナチス式選挙」の章では、南ドイツ、ボ―デン湖の北にあるメスキルヒにおけるナチスのやり方が描かれています。この街の人口は4500人。この町の名前はドイツ語でミサ教会と言う意味であり、古来カトリック中央党の基盤でした。この地では、ナチス党への得票率は1933年のナチス統制下における選挙でさえ、34.7%であり、中央党の得票率は44.4%で議会は中央党に握られていました。


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(ハイデッガーの生地 メスキルヒ wikipedia)


  まず起きたのは、地元新聞への弾圧です。中央党の新聞「ホイベルグ民衆新聞」は、ナチスを批判した報復を受け発行禁止処分にあい、新聞社にはカギ十字が掲げられました。この地区では他に「メスキルヒ民衆新聞」、「メスキルヒ新聞」が発行されていましたが、1935年には廃刊され、残ったのはナチス党の「ボーデンゼー評論」のみとなりました。


  議会でも弾圧がひどくなります。ナチスは1933年、親衛隊などの組織を使って地区の組織の役職者を排除し、親ナチス派の幹部にすり替えます。そして、その年の6月には社会民主党が禁止され、市議会の社会民主党議員もすべて辞職。その後、中央党も解散させられることになり、その年のうちに市議会はナチス一党支配となったのです。


  皆さん、これを読んで今起きている出来事とダブらないでしょうか。そうです。今、香港で起きていることが約90年前にドイツで起きていたのです。読んでいて背筋がゾッとしました。


  今、世界では独裁的な政権が大きな力を得つつあります。独裁政権は自らの基盤となる一部の国民の幸せのために強力な政策を打ち出し、政権基盤を固めます。しかし、自らに盾突く者は容赦なく封殺します。独裁者の世界はいかに効率的な社会であったとしても、「最大多数の幸福」とは程遠い世界なのではないでしょうか。


  池内さんは、文学者人生の最後に我々に強い警鐘を鳴らしてくれました。皆さんもぜひこの本を手に取って、改めてジェンダー(多様性)の重要性に思いをはせてみて下さい。


  それでは今日はこのへんで。皆さんどうぞお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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半藤一利 池上彰 平成を振り返える

こんばんは。

  平成天皇が退位され、令和となって早くもまる2年が経ちました。

  考えてみれば、30代からの31年間を過ごした平成は、私にとって結婚、子供の成長、仕事と人生の実りを経験した貴重な時代でした。思い出せば汗顔の至りなのですが、健康にも恵まれて一生懸命であったことに間違いはありませんでした。

  平成に生まれた子供たちが皆仕事について巣だったことに時の流れを感じるこのごろです。

  今週は、平成時代を振り返る対談本を読んでいました。

「令和を生きる 平成の失敗を越えて」

(半藤一利 池上彰著 GS幻冬舎新書 2019年)

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(新書「令和を生きる」 amazon.co.jp)

【昭和史の歴史探偵とは】

  歴史を語る番組として長く放映されたTV番組「歴史秘話ヒストリア」が3月で終了し、新たに「歴史探偵」という歴史探求番組が始まりました。歴史探偵と言えば、思い起こすのは半藤一利さんです。半藤さんは、文芸春秋社で文芸春秋や週刊文春などの編集長を務めた後、社の役員となりましたが、1995年に退社し、執筆業に専念していました。

  奥様が夏目漱石の孫に当たり、奥様とともに夏目漱石に関する著作もあります。半藤さんと言えば、戦前戦後の昭和史に関する著作が多くあり、昭和と天皇の歴史を語らせれば深い造形を醸し出してくれ、その著作は数々の賞に輝いています。氏は、司馬遼太郎さんとも親交が深く、司馬さんがその執筆を志しながらも、構想の段階で亡くなったのちに「ノモンハンの夏」を執筆。その先頭の悲惨さとその後太平洋戦争へと突入した日本軍部のあまりにも狭量で傲慢な作戦を赤裸々に描き、昭和史の悲劇をみごとに描きました。

  その半藤さんは今年の112日、90歳で亡くなりました。

  昭和史と言えば、太平洋戦争の敗戦は最も記憶されるべき出来事でした。その終戦聖断の24時間を追った「日本のいちばん長い日」という作品は、映画にもなり、戦後生まれの我々をワンダーに導いた渾身のノンフィクション作品でした。この作品が世に出たのは1965年ですから、すでに半世紀以上がたちました。

  当時半藤さんは文芸春秋社に勤務するバリバリの編集者であり、この本は、文芸春秋社で行われた28名による終戦の日の座談会として企画され、語られた言葉に触発され、半藤さんがさらに取材を重ねて執筆した本でした。

  当時は、文芸春秋社の営業政策上、社員の執筆した本として出版せず、当時ノンフィクションライターとして高名であった大宅壮一編集の本として上梓されました。その後、半藤さんが社を退職し、作家となった1995年に半藤一利名義で「決定版」として再版されました。

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(映画「日本のいちばん長い日」 amazon.co.jp)

  今回の対談本を見つけたのは、平成が終わり令和になってすぐのことでしたので、はや2年がたちます。本屋巡りをしていて、「平成とは何だったのかを考えなくては。」という思いと、もはやレジェンドとなった半藤さんとわかりやすさで定評のある池上さんの対談をぜひ読んでみたいとの思いから、すぐに手に取ったのですが、なぜか、読み始めることがありませんでした。

  しかし、半藤さんが亡くなり、本棚を眺めていて半藤さんをしのぶとの意味も感じて読むことにしたのです。

  お二人の対談は、本当に面白かった。

【平成という時代は何を残したのか】

  上皇陛下が天皇を退位され、平成が終わるとき陛下の語られた言葉はとても印象的なものでした。

  それは、8月退位に当たってのビデオメッセージ、そして85歳の誕生日の記者会見でのお言葉ですが、

  「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。」

  としたうえで、一貫して戦争の歴史に向き合われてきたことに関し、

  「先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。」

と語られていました。

  確かに平成のときに日本国内では戦争はなく、平和な時代でした。しかし、その間、日本は幾多の災害に見舞われました。雲仙普賢岳の大噴火、阪神淡路大震災、度重なる豪雨災害、そして東日本大震災。こうした災害がおきるたび、上皇陛下は上皇后さまとともに被災地に赴いて非難されている人たちの手をとって励まし続けてきたことは、陛下の象徴としての自らの在り方を行動として体現されてきたものと、心より敬意を感じてきました。

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(被災地に訪問される両陛下 kunaichou.go.jp) 

  そんな平成をこの対談では、三題噺ではじめます。

  その口火は半藤さんが切るのですが、そのキーワードは「災害、平和、インターネット」でした。さらに半藤さんの友人は、この話を受けて「大衆の消滅、情報革命、共感」を挙げたと言います。この話を振られた池上さんは、「閉塞感、内平外乱、情報革命」と語りますが、ここからお二人の「平成噺」がはじまります。

  お二人の語る平成のテーマは、目次を見るとよくわかります。

はじめに

第一章 劣化した政治、最初の岐路

第二章 災害で失われたもの、もたらされたもの

第三章 原子力政策の明らかな失敗

第四章 ネット社会に兆す全体主義

第五章 誰がカルトを暴発させたのか

第六章 「戦争がない時代」ではなかった

第七章 日本経済、失われ続けた30

第八章 平成から令和へー日本人に天皇制は必要か

おわりに

  目次を見ただけでもお二人の語りに期待が膨らみます。

  この31年間、皆さんは何を思い出すでしょうか。目次を見れば、自民党政権が崩壊し、社会党政権となり、さきがけ政権、民主党政権、そして自公政権と一見目まぐるしく変わった政権が、実は何も変わっていないという衝撃の真実。ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブス、マーク・ザッカーバーグによって世界中を席巻したネット、スマホ社会の滲透。オウム真理教による地下鉄サリン事件を始めとするカルト集団のテロ攻撃。湾岸戦争から多発同時テロ、そこから始まるアフガン侵攻とイラク戦争。そして、バブル経済とその崩壊、リーマンショックと非正規雇用の世界。

  果たして我々日本人は進歩したといえるのでしょうか。

【我々は日本と地球を守っていけるのか】

  この本の面白さは、いくらでも語れるのですが、そこは是非この本を読んでお楽しみください。

  今回は、この本にちなんで平成時代を少し考えてみたいと思います。

  「平成」の日本は、昭和のモーレツ時代に構築してきた価値観が通用しなくなった時代です。モーレツ時代の象徴のようなバブル経済は平成とともに崩れ去り、経済的には長い低迷期が訪れました。平成生まれの世代では、「競争」という言葉に魅力と価値が消え失せ、ゆとり教育や「世界に一つだけの花」に象徴されるように「頑張らない」ことが大きな価値を生み出します。

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(一世を風靡した小川ローザのCM yahoo.co.jp) 

  我々も「儲けること」の価値が揺るぐ中で新たな行動の指針を見つける必要に迫られます。

  現代日本では、かつての行政単位であった村や藩は、組織としての企業にとってかわられ、企業が、人が集まり交わる場となりました。平成には、この企業の価値観を揺るがす考え方がいくつも生まれてきました。

 平成から令和にかけて、いくつかのキーワードが企業内に大きな波紋を投げ掛けています。

 まずひとつは、「コンプライアンス」です。

  私は金融業界に身を置いていますが、初めてこの言葉を聴いた時に命じられた仕事が「個人情報保護法」への対応でした。ご存知の通り、金融機関は銀行を筆頭に顧客情報として、必ず個人情報を集めています。個人情報保護法は、組織に対して個人情報の管理を厳重に求まる法律です。そこには、「安全管理措置」の条鋼があり、個人情報を取り扱う問いには、取り扱う職員以外にその情報が洩れることがないように脳死措置を取る必要があるというのです。

  個人情報は紙とデータによって管理されています。個人が特定できる情報を「個人情報」、2つ以上の個人情報が複数あわされた情報を「個人データ」といいます。これは、企業の職場ごとに施錠して管理する必要があり、職場内においてはカギのかかる保管場所の確保、顧客が情報にアクセスできないよう衝立やドアで安全管理措置を行わなければなりません。

  「コンプライアンス」とは法令順守のことですが、個人情報保護法を遵守するためには、物理的な安全防止措置と情報を管理するためのsy内規定とルールを定め、そのコンプライアンスを徹底する必要があったのです。

  この作業には膨大な予算と労力が必要であり、3カ月ほど土日出勤をして社内のルールを作成し、すべての職場、店舗で安全管理措置(お客様との隔離)を実施したことは忘れられません。当時は、あまりに負荷が高いため、「コンプライアンス倒産」と言う言葉まであったほどでした。

  「コンプライアンス」はその後形を変え、現在その中心は「ハラスメント」へと動いています。

  もうひとつのキーワードといえば、「カーボンニュートラル」です。これは、京都議定書に象徴されるように環境問題が語り始められた平成の時代を象徴しています。我々が産業革命によってもたらした二酸化炭素は、地球を守るオゾン層を破壊し、この地球に恐るべき温暖化をもたらし、地球上に温度上昇と大きな気候変動をもたらしています。「カー分ニュートラル」とは、我々が排出する二酸化炭素をゼロ(ニュートラル)にする取り組みです。企業内でも投資部門などを筆頭に、この問題に取り組むことが大きな成果につながることが注目されています。

  菅総理は先日2050年に温室効果ガスの排出をゼロにする、というボンニュートラル宣言を世界に発信しましたが、これこそが平成に新たに生まれた重要な価値観と言ってもよいのではないでしょうか。

  さらに、令和につながるキーワードは「ジェンダー」です。

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(国連のSDGsポスター unic.or.jp)

  この言葉は、「多様性」をさすのですが、平成にこれほど重要な言葉が語られることになったのは歴史に留められる出来事と言っても過言ではありません。地球規模では、動植物の種の絶滅、パンデミックを発生させる様々なウィルスなど、多岐にわたりますが、日本人社会においても極めて重要なキーワードです。「人」の世界では、人種差別や男女差別、LGBT問題など、語り始めればいくらでも語るべき課題が並んでいます。

  例えば、トイレの問題。我々は日本のトイレが男女に分かれていることが当たり前ですが、「ジェンダー」を考えるときにこれが問題になります。LGBTを考えれば、トイレが男女に分かれていることで、外出を怖がる人たちがたくさんいるという事実に我々は気づきません。LGBTには、街に入れるトイレがないのです。

  そこで、現在「だれでもトイレ」が増えています。これは、従来は「障がい者用トイレ」と呼ばれてきたトイレのことですが、男女の区別なく利用ができるということで、多様性の考え方によくマッチする、万能なトイレとなります。

  しかし、ここで問題となるのが、「誰でも」という点です。

  障がい者用トイレには、オストメイトという設備がつけられています。世の中には、様々な障がいによって直接排泄することができない方がたくさんいます。その方々は、常に排泄用の容器を体に着けて日常の生活を送っています。こうした人々は、容器にたまった排泄物を処理するためにオストメイト装置が必要です。また、車いすの方はその大きさから通常のトイレに入ることができません。障碍者用トイレは、入り口も室内も車いすが利用できるだけの間口と広さを備えており、車いすの方が安心して利用できるのです。

  ところが、「誰でも」トイレにすることで、利用者が増加する点に問題があります。男女問題で利用することは良いのですが、このトイレ以外に利用できない方が使いたいときに使えない、という事態が起きているというのです。それは、誰でもトイレが広くて気持ちいい、子供と一緒に使っても邪魔されない、空いていつでも入れるなどの理由で、特に必要がないにも関わらずに利用する人々がふえているということです。現在では、「障がい者用トイレ」と「誰でもトイレ」を別々に設置する施設も出てきています。しかし、これにはスペースと予算が必要となるのです。

  「多様性」にも様々な問題がある、ことをすべての人々が心に留めておくことが重要なのです。

  こうした新たな考え方は、現在国連によってSDGs(持続可能な開発目標)にまとめられており、そこには17の項目と目標が掲げられています。そのキーワードは「サステナブル」です。

  令和を生きるとは、まさにこのことなのかもしれません。

  皆さんもこの本を読んで、それぞれの令和を考えてみて下さい。新たな日常を見出すことができるかもしれません。

  今回は長話になりました。それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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宮城谷昌光 呉越春秋ついに最終巻!

こんばんは。

  宮城谷昌光さんが描く中国の春秋時代。その魅力は尽きることがありません。

  今週は、ついに最終巻を迎えた文庫版「呉越春秋」を読んでいました。

「呉越春秋 湖底の城 九」

(宮城谷昌光著 講談社文庫 2020年)

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(文庫版「呉越春秋 第9巻」 amazon.co.jp.)

【ライフワークともいえる大作】

  宮城谷さんと言えば、12年の歳月をかけて書き上げた「三国志」はまさにライフワークと言ってもよい作品ではありますが、この「呉越春秋」も匹敵する面白い作品です。

  「小説現代」に作品の連載がはじまったのは、2009年7月号のこと。そこから単行本を経て最初の文庫本が発売されたのが、2013年のことでした。雑誌への連載は、営々と書き進められていき、最終回を迎えたのは2018年8月号のことでした。実に書き続けられたのは、9年間。まさにライフワークと言っても過言ではありません。

  さらなる驚きは、その奥深さと面白さです。

  9巻に渡る文庫本の発売は、完結までに7年を費やしました。呉の宰相であった伍子胥(ごししょ)を描く巻が6冊、越の宰相である范蠡(はんれい)を描いた巻が3冊。その壮大な物語には、宮城谷さんのエッセンスがすべて盛り込まれています。

  宮城谷さんは、生きた物語を描くことを信条にされています。この「呉越春秋」もはじめには「范蠡」を主人公に物語を開始するはずでした。物語の「あとがき」には、この小説の開始に当たってなかなか書き出しを定められなかったご苦労が語られています。

  「・・・ひとつのイメージにこだわった。少年の范蠡が、のちに暗殺者となる呉の鱄設諸(せんせつしょ)と会うシーンからはじめたい。だが、このシーンには暗さがつきまとっている。冒頭が暗ければ、小説全体が暗くなってします。それがわかるので筆が竦んでしまうのである。」

  宮城谷さんの小説は、常に凛とした颯爽とした気分が全体を支配しています。今回の「呉越春秋」は水を意識して書いている、と著者が語っていますが、その水は濁っているものではなく、常に淡い透明度を保ちながら、しなやかに時には激しい潮流を生み出しているように思えます。そうした意味で、あとがきにかかれているこのご苦労のおかげで、この小説はこれだけ長きにわたり語られることになったのです。この面白さを導き出してくれた伍子胥に感謝です。

  ここで語られる幼い范蠡と鱄設諸が会うシーンとは、小説の第4巻に描かれているのですが、確かにそこには、そこはかとない暗さがつきまといます。しかし、このシーンはこの物語に范蠡が初めて登場する重要な場面となるのです。以前のブログを読んだ方はご存知ですが、鱄設諸は伍子胥を腹心とする呉王闔閭が前王を暗殺する、まさにその暗殺者となる人物なのです。

  そして、その鱄設諸が訪れるのは、楚の国で大きな力を持つ商人(賈人)である范氏の屋敷です。伍子胥の命を受けた鱄設諸は、范氏に黄金の盾の制作を依頼するために楚の国まで赴いたのです。そして、このエピソードがはるか後、范蠡が越の国の宰相となり、越が最後の復讐を成し遂げる場面への伏線へとつながっていくのです。

  その伏線の妙はぜひ最終巻で存分に味わってください。

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(「呉越春秋」の登場人物関係図  文庫本付録より)

  全巻を読み終えてみると、1巻から6巻までの伍子胥編、7巻から9巻までの范蠡編、それぞれの宰相の徳と個性の違いを味わうことができる長い物語でした。

  伍子胥は、一族が代々楚国の王室を助ける役目を担ってきた中では、最も大きな徳を備えた宰相でした。楚への復讐という目的はありましたが、呉の王、闔閭の側近として政治と軍事を支え、楚を滅ぼすほどの国力を実現しました。一方。呉への復讐をなすために越の政治と軍事を支えた范蠡は、代々商家を営んできた一族の末裔であり、政治家や官僚、軍人たちよりもその視野は広く、さらに懐が大きな人物として描かれています。

  呉と越の長年にわたる抗争もついに終わりの時を迎えます。その2国を支えた伍子胥と范蠡の物語も。この第9巻でいよいよ最後を迎えます。

【復讐するは我にあり】

  今回の大長編作は、一言でいってしまえば壮大な復讐の物語です。

  復讐と言えば、「復讐するは我にあり」という題名が有名ですが、この言葉は新訳聖書からの引用だそうです。言葉から受ける印象は、復讐を成すべく、決意を披露したように受け止められますが、この言葉は、神が人に向かって語った言葉なのです。それは、復讐は神に任せなさい、と諭したことに神が答えた台詞です。つまり、悪人への「復讐(報復)」は神がおこなう、という意味なのです。

  人は心に負った深い傷を、それを負わせた相手に復讐することで晴らそうとします。

  これまで、呉越春秋の物語で壮大な復讐劇を演じるのは、呉の王と越の王でした。「臥薪嘗胆」とはこの物語から発せられた言葉。それは、恨みを忘れないために薪の上に寝て痛みを思い出し、苦い肝をなめてその苦さで恨みを思い出す、という意味です。

  楚の国から亡命した伍子胥は、流浪の末、呉の国の公子光の右腕として仕えましたが、公子光は時の王をクーデターで暗殺し王となり、闔閭と名乗りました。闔閭は参謀の伍子胥と孫武とともに楚に攻め込み、滅亡の淵に追い詰めます。しかし、その都を制圧し楚王を追撃する最中、本国が越に攻め込まれたとの急報に接します。急ぎ引き返した闔閭は、越の王、允常率いる軍を追い払うことに成功します。

  このことを恨みに思った闔閭は、10年後、允常の跡を継いだ勾践が王となった越へと攻め込みます。しかし、待ち構えていた勾践の策略にはまり、敗退。撤退時に負った弓矢の傷によって闔閭は亡くなります。闔閭は死に際に跡継ぎの夫差を呼び、必ず越の勾践に復讐せよ、と遺言したのです。夫差は父親の恨みを忘れることがないよう薪のうえで寝たということです。

  夫差は、国力を蓄えちゃくちゃくと復讐の準備を整えます。このままでは、富国強兵の呉に攻め込まれると考えた勾践は、先手を取って呉に攻め込もうと計画します。しかし、情報収集にも疎漏のない伍子胥は、この計画を事前に察知します。そして、準備万端整えた呉軍は、攻め込んできた越を迎え討ち、見事勝利を収めました。降伏した勾践は、命乞いをします。処刑を主張する伍子胥の言を夫差は受け入れず、勾践の命を救いました。

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(「呉越春秋」時代の中華 文庫本付録より)

  勾践は、捕虜となって呉の国に幽閉され、奴隷同様の生活を送ります。しかし、その苦難を飲み込んで、表向きは呉への忠誠を誓い、復讐の心をひた隠しにしてすべてを耐え忍びます。勾践は、その恨みを忘れることがないよう、幽閉を解かれ越に帰還してからも自らは倹約に倹約を重ね、越の民を富ませ、兵力を増強することに全力を注ぎます。そして、苦い肝をなめてこの恨みを忘れないように肝に銘じたのです。

  この長編、呉越春秋は臥薪嘗胆の物語なのですが、宮城谷さんが描いたのは、決して夫差と勾践の復讐の物語ではありません。

  そこに描かれたのは、伍子胥が実現したあまりにも巨大な復讐劇と范蠡の復讐を超えた身の処し方なのです。

【伍子胥と范蠡の壮大な復讐劇】

  宮城谷さんは、これまでも数々の古代中国を描く小説で、人の志の大きさと人が織りなす世の不思議さを描いてきましたが、今回の「呉越春秋」も伍子胥と范蠡を中心に据えて、様々な人々の心の在り方とその交流を描いています。

  曰く、「伍子胥を楚都の津(みなと)に立たせることに決めると、小説世界がむりなくひらけた。」と語っています。楚の名門、連尹家の次男として生まれた伍子胥には、人を魅了するパワーに満ち溢れています。

  小説の伍子胥編は、最初から最後まで伍子胥の人としての大きさと、その魅力にほれ込んだ多くの人々によってその小説世界が構築されています。

  小説の始まりは、楚の国で大臣を務め王子の教育係をまかされる父、五奢と兄の五尚のもとで過ごす伍子胥の旅姿からはじまります。そして、父のライバルである費無極の陰謀と讒言によって、父と兄は平王から死を賜ることになります。伍子胥は、旅の中で慕ってきた仲間たちとともに、処刑場に連行された父と兄の救出を試みますが、その分厚い警護に阻まれて、寸でのところで救出に失敗します。

  こうして、伍子胥は慟哭し、楚の平王に対する復讐劇がはじまるのです。

  第1巻から第6巻までに語られる伍子胥の物語は、復讐が目的ではありながら、一人の人間が人々の間で成長を遂げ、ついには一国の宰相までに押し上げられていく姿が語られています。その姿は、かつて宮城谷さんが描いた流浪の王、際の重耳(ちょうじ)の姿に重なります。そして、その戦略のみごとな様は、これまた名作である、中山国を守り抜いた名将楽毅の姿を彷彿とさせます。それは、復讐と言うよりも人生そのものと言ってもよいのではないでしょうか。

  そして、今回の最終巻では、伍子胥のライバルともいえる越の宰相である范蠡の物語も完結することになるのですが、そこでは悲しい伍子胥の最後も描かれます。。

  さて、范蠡の復讐とはどのようなものでしょうか。

  范蠡は楚の国で商家を営む范家の出身です。しかし、范家はある日何者かによって襲撃を受け、蓄えた財産をすべて奪われてしまします。そのときに伍子胥が政策を依頼した黄金の盾も行方が分からなくなってしまったのです。さらに、親族はすべて殺され、范蠡は天涯孤独の身となるのです。范蠡には幼くして婚約した相手がいました。その名は西施。後に絶世の美女といわれた彼女は幼き日に范蠡と言い名付けだったのです。

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(越の国へと引き渡される西施 文庫本挿絵より)

  ところが、運命は二人を引き裂きます。その後西施は、その美貌から越王の側室となりますが、越王が呉の夫差に敗れたとき、人質の一人として夫差のもとに入ります。范蠡は、元の婚約者の存在を心に留めながらも、なすすべなく過ごすしかありませんでした。

  心に大きな傷を負った范蠡ですが、越王 勾践が嘗胆の末に呉に勝利し、夫差が自死した後には、その復讐を成し遂げるチャンスが巡ってくるのです。しかし、呉から戻ってきた西施は、一度呉王のものとなったために越王から疎まれ、越に帰国するや幽閉され、あまつさえ、邪魔な存在として湖に沈められることになるのです。

  生死と父親の敵。范蠡の復讐劇がどのような形で終わるのか、その顛末が最終巻では語られることになるのです。

  そして、そのあざやかな身の処し方は感動的です。

  宮城谷さんの本を語ると話はいつまでも続きますが、紙面もつきました。本日はここでお開きとします。皆さん、どうぞ最終巻をお楽しみに。

 

  昨年に続き、今年のゴールデンウィークもコロナウィルスに翻弄され、外出もままなりません。しかし、ワクチン確保もめどが立ち、まさに、ここが我慢のしどころです。皆さん、手洗い、消毒、マスク、密回避を徹底し、ウィルスに打ち勝ちましょう。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。

 

 

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やっぱり我々は宇宙からできている

こんばんは。


  今、宇宙船を利用した宇宙の探求が次々に広がっています。


  皆さんは、「宇宙」と聴いて何を思うでしょうか。今日はワンダーの宝庫、宇宙の話にお付き合いください。


【「宇宙」へのロマンを語りましょう。】


  我々の世代で「宇宙」といって思い浮かぶのは、何と言ってもアメリカのアポロ計画です。


  しかし、宇宙開発競争ではじめに一歩抜きに出たのは、旧ソビエト連邦でした。この世界はじめて、宇宙の軌道に衛星を送り込んだのは1957年に打ち上げられたソ連の衛星スプートニク1号です。旧ソ連は同じ年にメスのワンちゃん、ライカを乗せたスプートニク2号を打ち上げ、宇宙に初めて地球の生命を送り込みました。


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(宇宙旅行犬ライカ記念切手  wikiwand.com)


  当時は、アメリカと旧ソビエトの間で、民主主義の共産主義の熾烈な冷戦が繰り広げられており、宇宙開発競争もこの冷戦の一部となっていました。アメリカも時を同じくして、衛星を宇宙に送り込むのですが、エクスプローラー1号の成功も後塵を拝した形となりました。


  さらに旧ソ連は、有人宇宙飛行となるボストーク号の打ち上げを計画。1961年には、ボストーク1号が打ち上げられ、ユーリイ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行者となりました。かの有名な「地球は青かった。」との言葉は、この時に発せられたものです。その後も、ボストークは二人による有人飛行やワレンチナ・テレシコワによる初の女性宇宙飛行など、次々と成果を上げていったのです。


  しかし、アメリカも旧ソ連の成功に指をくわえていたわけではありません。


  1961年、当時のケネディ大統領は、連邦議会での演説で10年以内にアメリカは月に人類を送り込むことを発表します。これこそが人類の宇宙への夢を花開かせることになったアポロ計画です。アポロ計画ははじめ、単なる月軌道に衛星を乗せ探査する月探査計画でしたが、ケネディ大統領の決断によって、月への有人探査計画へと変貌したのです。


  こうして、1969712日、アポロ11号の船長であったニール・アームストロングは人類として初めて鉄面に降り立ちました。「一人の人にとっては小さな一歩だが、人類のとっては飛躍の一歩だ。」との言葉はその後長く語り継がれることになったのです。続くアポロ12号によって持ち帰られた月の石は、1970年に大阪で開かれた万国博覧会のアメリカ館で展示され、多くの日本人が月の石を間近に目にすることとなりました。


  確かに人類が宇宙に飛び出してその活動を広げることには大きなロマンがありますが、宇宙の魅力やロマンはなにも宇宙旅行だけにあるわけではありません。


【はやぶさの快挙とかぐやの活躍】


  このブログを始めた時に話題となっていたのは、日本の小惑星探査機「はやぶさ」の偉業でした。


  「はやぶさ」は、200359日に鹿児島県の内之浦宇宙空間観測所から打ち上げられました。その目的は30億km離れた小惑星「イトカワ」です。この探査機は、少ない予算ながら日本の英知を結集した技術とロマンに溢れた素晴らしい衛星でした。


  当時、世界の宇宙技術は大きく発展しており、アメリカや旧ソ連によって太陽系の惑星に探査機が着陸し、多くの研究成果がもたらされていました。そんな中で、日本が世界初、世界一を目標に立案されたのが「はやぶさ」プロジェクトだったのです。


  詳しくは、過去のブログを見ていただければ幸いですが、「小惑星探索」、「サンプルリターン」、「イオンエンジン」、「スウィングバイ」、「タッチダウン」と、当時の世界ではどれもが日本独自の技術が結集したオリジナルな計画でした。


  この「はやぶさ」計画が我々に感動を与えてくれたのは、そのプロジェクトに降りかかった様々な困難と、それを乗り越えて計画を成功に導いたJAXA(当初はISAS)のプロジェクトメンバーたちの並々ならぬ愛情とオペレーションでした。当初、2007年の帰還を計画した「はやぶさ」が実際に地球にたどり着いたのは、2010年の613日です。この時の感動は、小学生のときに見ていたアームストロング船長の月世界への第一歩をみたときの感動に勝るとも劣らない劇的なものだったのです。


  20051124日、はやぶさは、世界で初めて小惑星イトカワへのタッチダウンを成功させました。しかし、ここまでの段階で、すでに多くの苦難を乗り越えていたのです。太陽放射線による太陽光パネルの損傷破損、イオンエンジン用の燃料の流出、姿勢制噴射装置の故障など、様々な苦難を乗り越えてはやぶさは、地球への危難の途に着きました。ところが、その後、はやぶさはその消息を絶ってしまったのです。


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(はやぶさCG画 wikipedia)

  管制官が再び微弱なはやぶさの通信電波をとらえたのは、年が明けた2006年の123日のことでした。通信の復旧により判明したのは、満身創痍の「はやぶさ」の姿です。燃料もなく、噴射装置も故障したはやぶさをどのようにして帰還させるのか。そこには、イトカワで採集した微量ではあれど貴重な粒子が格納されているのです。プロジェクトは、地球への帰還を20106月に再計画し、ここから苦難のオペレーションが開始されました。


  「失敗は成功の母」と言われますが、「失敗」の原因を特定・解析し、それを次につなげるプロセスがなければ、失敗は成功を生み出すことはできません。「はやぶさ」の苦難は次世代機、「はやぶさ2」計画へと引き継がれたのです。「はやぶさ」からの数々の教訓を改善した「はやぶさ2」は、みごとそのミッションを成功させ、昨年の123日に無事カプセル回収に至ったことは皆さんご存知の通りです。はやぶさ2は現在2031年に小惑星1998KY26を間近で観測するため再び太陽系を旅しています。


  ところで、宇宙好きの皆さんは、NHKBSプレミアムで毎週木曜日の夜10:00に放送されている「コズミックフロント」という番組をご存じだと思います。宇宙にかかわる最新の情報をドキュメンタリーとして語ってくれるこの番組は、ときどき驚くようなワンダーを我々に提供してくれます。


  先週放送された「8億年前の地球大異変 月が教えてくれたこと」は、最新科学のワンダーを我々に教えてくれる面白い番組でした。


【数々の研究が交わるところに成果がある】


  この番組は、昨年大阪大学の寺田健太郎教授のチームが発表した驚くべき仮説に焦点を当てて、その仮説がどのように形作られたのかをさぐるドキュメンタリーです。


  そのワンダーな仮設とは、8億年前の月と地球に、40兆トンを超える量の隕石が降り注いだとする驚きの研究なのです。40兆トンというと、富士山がまるまる40個納まるほどの量になるのです。


  地球に落ちた隕石としては、6550万年前に地球に落ちた隕石が当時地球に謳歌していた恐竜たちを絶滅させたとの話を思い出しますが、8億年前に地球を襲った隕石群は、その数十倍にもなるというのには驚きました。


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(月を襲う幾多の隕石群 hotozaro.com)


  この仮説はいったいどのように導き出されたのか。


  事の発端は、日本の月探査衛星「かぐや」がもたらした超高精細映像でした。そこに映った月のクレーターは緻密で詳細な図形や組成を映し出していたのです。寺田教授はこれまでも月の酸素の研究など、月を研究対象としてきましたが、月のクレーターはどのように創られてきたのかに興味を持ったのです。月のクレーターの研究では、今回の論文の共同研究者でもある東京大学の諸星准教授が以前からクレーターの形成年代の研究を行っていました。


  月の模様は、日本ではお餅を搗くうさぎに見立てられてきましたが、その図形を織りなしているのがクレーターと色の異なる平らな土地です。平らな土地は、月の火山活動によって噴火した溶岩がクレーターを覆って平らになった場所なのです。クレーターの研究は、周辺の大地がいつどのように蘇生されたかを調査することにより、稠密な観察と計算から導くことができるというのです。


  寺田教授は、この研究を知り諸星さんから直径20m以上のクレーター59基の年代測定データの提供を受け、その生成時期を分析しました。すると、そのクレーターのうちの多くが6.6億年前にできたものだということが分かりました。さらに、元のデータの前提条件を補正してみると、なんと8基(モデルによっては17基)ものクレーターが同じ8億年前の隕石落下によってできたものであるとの結論が導き出されたのです。


  月のクレーター年代測定では、月の石による年代の測定も行われています。初の人類月面着陸を果たしたアポロ11号に続くアポロ12号は、嵐の海に着陸し、大クレーターコペルニクスから飛び散った岩石の採取に成功しました。そして、その測定からコペルニクスを作った隕石の落下は8億年前であったことが判明しました。


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(月でお餅を搗くうさぎ  weathernews.jp)


  さらに、アメリカではやぶさ2と時を同じくして小惑星からのサンプルリターン計画のける探査機「オシリス・レックス」によって小惑星ベンヌの石が採取されていますが、このチームの研究者は小惑星帯はいくつかの属性に分かれており、リュウグウやベンヌはオイラリア族と呼ばれる小惑星帯に属していると考えていますが、このオイラリア小惑星帯が創られた星の爆発が起きたのが8億年前である、との仮説が発表されています。


  こうして、8億年前に何らかの理由により、大量の隕石が月、そして我々の地球に降り注いだ、との仮説が導き出されたのです。


【生命の爆発的進化】


  地球上で最初の生命はどのように生まれたのか。


  この謎には、2つの仮説が唱えられています。ひとつは、地球上にある物質がとある環境下で命に変化したというもの。もう1つは、生命の素となる物質が宇宙から隕石で地球に運ばれて生命が生まれたとする説です。この謎には、過去から様々な科学者が地球環境の再現による生命の誕生実験を繰り返してきましたが、環境実験によって生物が生まれることは確認されていません。そこから、現在は生命外来説が有力な説とされています。


  そして、生命の謎の一つに、生命の爆発的な進化がなぜ起きたのかとの疑問があります。爆発的進化として最も有名なものは、54000万年前のカンブリア紀に起きた進化の大爆発です。このとき動物は陸上に進出しておらず、海の中で様々な種類の生物が生まれたのです。三葉虫やアンモナイトなど我々が知る古代生物はこの時代に進化したと言われています。


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(カンブリア紀生物アノマロカリス blast.jp)


  また、生命38億年の歴史では、生命は何度も絶滅の危機を経験していると言います。例えば、少なくとも三度起きたと言われる地球全凍結では、海中2000mまでが氷結しほとんどの生命は絶滅したと考えられています。また、25100万年前には「海洋無酸素事変」が起こり、海中の生物のうち96%の種が絶滅したと言われています。


  もしも8億年前に大量の隕石が地球に飛来したとするなら、我々生命に対しても大きな影響があったはずです。これまでの生命の記録は、地質考古学による地層の化石や成分分析によって明らかになったものです。今のところ、8億年前の地層に生命絶滅の記録は発見されていません。


  しかし、7億年前の地球全凍結直前、海中でリンの濃度が通常の4倍に高まったという研究があります。リンは酸素濃度に大きく影響する物質で、リンの濃度は進化爆発に影響するというのです。そして、隕石の大量落下によって降り注いだリンの量は、当時の海中に存在したリンの10倍程度だったと考えられているのです。


  果たして、8億年前に月と地球に大量の隕石が飛来したとの事実はあったのでしょうか。そして、そのことにより我々生命は大きく進化したのでしょうか。


  この世界と宇宙は、ワンダーに満ち溢れています。


  皆さんも、この番組で宇宙のロマンに浸ってみてはいかがでしょうか。


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釈徹宗 なにわの天才富永仲基を読む

こんばんは。

  富永仲基とは、いったい誰なのでしょうか。

  この本を手に取ったのは、著者が釈徹宗さんだったからです。釈さんは、自らも浄土真宗の寺の住職でありながら、宗教学や思想史を研究する学者でもあります。以前ブログでも紹介した新書、「法然親鸞一遍」があまりにも面白い分析本であったので、その名を覚えていたのです。今週は、久しぶりに釈さんが語る本を読んでいました。

「天才 富永仲基 独創の町人学者」

(釈徹宗著 新潮新書 2020年)

  さて、釈さんの本ですから当然仏教を語る本になるわけですが、今回は著者が仏教を語るのではなく、富永仲基という人物が仏教典をどう分析し、語ったかを紐解く本なのです。しかし、そのユニークな点はこの人物が江戸時代中頃の大阪の町民であり、さらには31歳と言う若さで夭折した天才であったという事実なのです。

【恐るべき仏教の経典体系】

  富永仲基が生まれたのは、1715年の大阪です。醤油醸造家の三男と言いますから、裕福な家の生まれです。彼が天才といわれるのは、江戸時代の中期、今だ封建時代の最中でありながら、仏教経典を研究し、儒教、道教、神教との客観的な比較分析を行い、現代の思想史にもつながる大乗非仏説を唱えた点にあります。

  確かに江戸時代には、和算の関孝和、エレキテルの平賀源内、天文学から新たな暦を生み出した渋川晴海など、きらめくような才能が開花したことはよく知られています。しかし、文献学や思想史において、近代社会学の発想をいち早く切り開いた冨中仲基の名はまったく知りませんでした。しかも、彼は病弱で32歳で夭折していますが、その偉業ともいえる著作は彼が20代の時にはすでに構想されていたというのです。

  彼の功績とはいったいどのようなものだったのでしょうか。

  日本人にとってお寺とは今や、檀家以外の方にとってはパワースポツトとして、また御朱印をもらう場所として認識される場所になりました。日本に神代からある神様を祭る神社と仏さま(ご先祖様)が眠っているお寺ですが、パワースポットや御朱印帖の観点から見るとその差異がわからなくなっています。そもそも語れば、蘇我氏と物部氏の世界に至ってしまいますが、神教と仏教は政治的な変遷のおかげで混在していることが混乱のもととなっています。

  神様系は、もともと「日本」が認識されたときに大和系の支配者が自らを正当化するために日本独自の神話を日本の歴史書に作り上げたところから記録された歴史として始まります。そして、神社には八百万の神のうちの神々が祭られています。一方、仏教は中国から朝鮮を経由してもたらされた宗教であり、奈良王朝の支配者が当時最先端の仏教を日本に浸透させることによって日本を最先端の国として統一しようと、その手段に選んだ宗教です。仏教には神様はいないのです。

  以来、平安、鎌倉とこの仏教の奥深さに魅入られた人々が、脈々と仏教の教えを日本に広め、さまざまな宗派が日本各地にいきわたることになったのです。

  日本の国策として導入された仏教ですが、その普及には多くの仏僧たちの命を懸けた歴史が折り重なってできています。初期には遣隋使や遣唐使として命がけで中国に渡りその経典を日本にもたらした先陣たちが日本仏教の礎となりました。奈良時代には、唐から鑑真が招かれ、日本に帰化し「律(戒)」による仏教を日本に根付かせます。

  その後、平安時代から鎌倉時代にかけて日本では絢爛たる仏教の広がりが展開します。平安時代には、遣唐使として空海、最澄が唐に派遣され、帰国後にはそれまでの律宗や華厳宗に対抗して、密教の流れをくむ真言宗(高野山)、天台宗(比叡山)を開きます。

  さらに鎌倉時代に至ると、念仏思想が広まり、法然が「南無阿弥陀仏」を唱える浄土宗を開き、浄土宗をさらに進めた親鸞が浄土真宗を開きます。さらに念仏思想があまり拡大したことに対し、日蓮が「南無妙法連華経」を唱える日蓮宗を立ち上げました。庶民への普遍とともに、幕府を構える武士たちにも禅宗に連なる臨済宗や曹洞宗も中国からもたらされました。

  江戸時代には、禅宗の一つとして黄檗宗(おうばくしゅう)も開かれます。

  仏教の宗派は、ここで紹介した以外でも数多くの宗派が乱立し、そのすべての宗派において部週ごとの仏教経典が作られていきます。日本の神教は伝説や説話によって形作られていますが、仏教は仏様(コーダマ・シッダルタ)の教えを教義として構築・系統づける膨大な経典に基づく教えによって形作られているのです。

  と、こう書いてくると、この本の主人公、富永仲基は難しい経典の解説をしているのかと思われる方がいると思いますがさにあらず。彼は、これまでの膨大な仏教典を俯瞰して、彼以前には誰も持ちえなかった視点から仏教典のあるべき読み方を語っているのです。

【「出定後語」は何を語るのか】

  私事になりますが、父が亡くなって早いもので四半世紀が経とうとしています。父は歴史と仏教が好きで、家には仏教全集のための書庫があり、晩年はいつもクラシック音楽を聴きながらリクライニングチェアで仏教の本を読んでいました。専用の書庫を持つほど仏教の本を集めていましたが、宗派を決めて読んでいたわけではなく、仏教とは何なのかを自問していたのかもしれません。

  仏教と言えば、本を読んでいる父親の姿が目に浮かびます。

  富永仲基が世に残ったのは、一冊の著作が刊行されたことによります。その本の名は「出定後語(しゅつじょうこうご)」と言います。

  この題名には仲基の並々ならぬ自信がみなぎっています。「出定」とは仏陀が悟りを開いた(禅定というそうです。)後に俗世に戻ることを言います。つまり題名は、仏陀は悟りを開いた後に世俗に戻って語る、との意味なのですが、語っているのは仲基自身なわけですから、この題名は自らを仏陀に模していることになります。つまり、仲基は自らを仏陀に見立てて仏陀の悟り以後の言葉をこの本を記す、との決意を題名にしているのです。

  釈徹宗氏は、この本で富永仲基がどのように江戸期に現代に通じる思考を語ったのかを我々に教えてくれるのです。その現代性と天才にはなるほど驚かされます。

  「出定後語」は、「序」から始まり全25章に渡って仏教のあらゆる経典とその考え方に対する考察を重ねていく著作です。そこには、それまでの歴史では出てこない、新しい発想(客観性)がちりばめられています。

  その語られるところは、この本を読んで味わって欲しいのですが、ここではその「さわり」の部分をご紹介します。

  まず、仲基の経歴ですが、彼は当時大阪で幕府から私塾として認められていた懐徳堂で、15歳の時まで儒教を学んでいました。その頃よりものごとの本質へのこだわりがあり、儒教の教えに対してもその考え方には批判的でした。現在は実在しない「説蔽」という書を著したといわれていますが、釈さんはこの頃からの思考がのちの「出定後語」につながるものと分析しています。

  儒教は、ご存じの通り孔子の教えからはじまっているわけですが、その教えは弟子によって継承され、孟子の「性善説」や荀子の「性悪説」などその教えは深みを加えて進化しています。

  仲基が記した「説蔽」は残っていませんが、彼はその後、24歳のころに「翁の文」という著作を書いており、この本でもその本の内容が紹介されています。釈さんは、「翁の文」の中で仲基が儒教について述べている文章に注目し、儒教に対する批判がその後の思考につながっていると分析しています。

  その考え方は、「加上」です。江戸時代の文章は、漢字のみで書かれている場合が多く、レ点をつけて読むのは漢文で習うとおりです。そのように読めば、「加上」は上に加えると読むことができます。つまり、今学んでいる儒教は、本質である孔子の思想のうえにその弟子たちの主張が載せられたものであり、それを知ったうえで解釈するべきだというのです。つまり、「性善説」や「性悪説」は、孟子や荀子が自らの説を強めるために孔子の教えの上に「加上」したものであり、孔子の教えではない、というのです。

  仲基は、この批判書のために懐徳堂から追い出された、とする説もあるそうですが、当時、儒教も含めて尊い教えに対する批判は頭から否定されたであろうことは想像に難くありません。

  その後、仲基は田中洞江のもとで詩文を学び、さらに宇治の萬福寺で仏教経典を研究したといわれています。その中で、「出定後語」で分析、批評されている合理性に富んだ思考がはぐくまれていったものです。今でこそ、その考え方には何の違和感もありませんが、当時の封建社会の中ではあまりにも突飛な考え方で、受け入れられる土壌はなかったのでしょう。

【すべてから自由な発想】

  富永仲基の現代性は、その思考の基本的な考え方に顕著に現れます。

  例えば、儒教や仏教、道教などの教えを紐解くときには、それが語られた国の民族性を考慮することが必要と語ります。仏教が生まれたインドでは民族的に「幻説」が修飾として必要とされ、それは空想的、神秘的になるといいます。また、中国の民族性は「文飾」にあり、誇張された修辞が用いられます。そして、日本の文化は「清介質直」を好み、要点簡潔で素を良しとするといいます。

  また、経典を読む中で、言葉に潜む落とし穴?にも言及しています。

  文献の中に語られる「言葉」には、気を付けなければいけない点があるといいます。まず、言葉は

  語る人によってその意味が異なるという特徴です。同じ言葉でも、その意味は経典を語る人、それを書いた部派によって異なるのでそれを踏まえることが必要となります。次に、言葉はそれが語られた時代や世代によって意味が異なる点です。確かに同じ言葉であっても使われる時代によってその意味は違ってきます。古典の時間に習った「いと、おかし」も当時は面白いものではありませんでした。

  仲基は、言葉に対するこうしたポリシーを、「出定後語」の中に一章を設け、自らのオリジナルな考え方として語っています。この章の題名は、「言に三物あり」となります。それは、前出の「言は人なり」、「言は世なり」と記されていますが、さて、三物の3つめはいったい何でしょうか。

  それは、仲基自身によって、「言は類なり」と語られています。「類」とは養蜂のことなのですが、それには5種類の用法区分があるというのです。実は、この類については、なんでも編集してしまう知の巨人、松岡正剛さんもその著書「遊学」の中で取り上げているのですが、その「類」はぜひこの本で確かめて下さい。


  この本には確かに仏教経典を合理的な目で批判した江戸期の天才が描かれていますが、その曇りのない目は、明らかに物事の本質をつきつめる哲学的な姿勢に貫かれています。若冲と言い、仲基といい、江戸時代は天才に満ち溢れていることに驚きます。

  明日からまた新年度を迎えますが、コロナウィルスとの闘いはまだまだ続いています。皆さん、気を緩ませることなく、マスク、消毒、3密回避を徹底し、みんなで命を守りましょう。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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野村克也 宮本慎也 引継がれる思考

こんばんは。

 野村克也氏が亡くなってから早くも1年が過ぎました。

 しかし、野村さんが育てた人々がその精神を受け継いで、さらに次の世代へと野村野球を伝えていこうとしています。

  今年、東日本を襲った震災から10年の節目の年に、あの田中マー君が楽天に戻ってきました。マー君と言えば、星野監督が指揮を執った楽天が優勝した都市のエースです。震災から2シーズン目、2013年のシーズン。仙台を本拠地とする東北楽天イーグルスは、リーグ優勝。さらにクライマックスシリーズにも勝利。巨人との日本シリーズも制して日本一に輝きました。

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(田中マー君入団会見 sanspo.com)

  震災で苦しんでいる人々に勇気をあたえたい。監督選手はもちろん、楽天イーグルスにかかわるすべての人の悲願がここにかなったのです。もちろん闘将、星野仙一監督の統率力も大きな要因ではありましたが、何と言ってもそのシーズン無敗で24連勝を挙げたマー君は、捕手と務めた嶋選手とともに大きな要因であったことに間違いありません。

  この年のマー君は、神がかっていたと言っても過言ではありません。シーズン28試合に登板して無敗はもちろん日本プロ野球界では初めてですし、シーズン24連勝も初の偉業です。さらに、通産での連勝記録は28連勝。(翌年は大リーグに移籍)。また、この年は、最多勝、最優秀防御率、最優秀勝率と3冠に輝くとともに、沢村賞も受賞しています。

  日本シリーズの日本一を決める瞬間に、連投にもかかわらず最後の一人を打ち取った時の鬼気迫る形相は忘れることができません。最後に起用した星野監督の心意気もさることながら、それにこたえて、登板したときの感動は今思い起こしても胸が熱くなります。

  そんなマー君ですが、プロ野球の世界に入った時の監督が野村克也氏でした。野村さんは2006年から2009年まで4年間楽天イーグルスの指揮を執り、2009年にはリーグ2位となり球団初となるクライマックスシリーズ進出を果たしました。2007年のドラフトで野村監督は田中将大投手の交渉権を引き当て、マー君は楽天イーグルス入団したのです。

  マー君は、野村監督について、「プロ野球の世界で生きていくために必要なすべてのことを野村監督に教えてもらいました。」と言っています。

  野村監督は、長い監督人生で「再生工場」と呼ばれ、他の球団でトレードや契約外通告で出された選手を一流選手へと再生することで有名です。その極意は、気づかせる言葉と語っています。例えば、開幕戦で3打席連続ホームランを放った小早川選手、楽天でホームラン王に輝いた山崎武司選手、リリーフに転向しセーブ王となった江夏豊投手など、その手腕には枚挙のいとまがありません。

  マー君の場合には、バリバリの新人ですので直接指導することは少なかったと思いますが、楽天監督時代には、新人捕手の嶋選手を常に横に置き、常に教育していたので、嶋捕手を通じてマー君にも様々な教えが伝わったのではないでしょうか。一つ覚えているのは、ルーキーの年、いきなり一軍で先発を任されて、3試合続けて打ち込まれていた時に、野村監督の一言がマー君を救ったというエピソードです。

  3試合で打ち込まれ、その悔しさに悩みに悩んでいるとき野村監督は、「マウンドで声を出してみろ。」とアドバイスしたそうです。それは、マー君に「気持ち」が最も大切であることを気づかせる言葉でした。その後、マー君はマウンドで雄たけびを挙げ、ルーキー年度から二ケタ勝利、11勝を挙げる活躍を見せたのです。

  野村さんが亡くなって1年。様々なメディアで野村さんをしのぶ特集が組まれています。先日、本屋さん巡りをしていると、文庫本の棚に宮本慎也さんとの共著本をみつけました。お二人の師弟関係は有名ですが、お二人の本は本当に面白く、気がついた時には読み終わっていました。

「師弟」(野村克也 宮本慎也著 講談社文庫 2020年)

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(「師弟」講談社文庫 amazon.co.jpより)

【宮本慎也選手 2000本安打の偉業】

  日本の国語辞典と言えば「広辞苑」の名がすぐに思い浮かびますが、野球の国語辞典といえば「球辞苑」と言われているのをご存知でしょうか。

  野球のコアなファンならその名は有名ですが、この辞典はNHKBSで放送されている番組のタイトルなのです。番組のナビゲーターはお笑いコンビのナイツですが、毎回、野球にまつわる「キーワード」を取り上げて、まるで「広辞苑」のようにそのキーワードの意味や歴史を解明していく番組です。毎週土曜日の夜11時から放送され、月曜日の午後8時からは再放送がなされています。

  この番組では、元ロッテマリーンズの名キャッチャーであった里崎さんがご意見番を務め、さらにはその回の「キーワード」に沿ったゲストが招かれます。先日のお題は「DH(指名打者)」でしたが、ゲストは元ソフトバンクホークスのスラッガー、松中信彦さん。松中さんは膝の故障からDHで活躍したスラッッガーですが、ナイツの塙さんが松中さんの登場時に「三冠王」の会にお招きしないといけなかったのに、と話していたのには敬服しました。松中さんは、2004年に三冠王を獲得しており、平成唯一の三冠王として有名なのです。塙さんは本当に野球好きなのですね。

  さて、話は逸れましたが、この「球辞苑」の「ヒットエンドラン」の回にゲスト出演していたのが宮本慎也さんでした。宮本さんと言えば、19年間の現役時代をすべてヤクルトスワローズで過ごし、守備の名手でありながら2000本安打を達成。名球会に入った選手として有名です。番組では、ヒットエンドランのサインが出た時、何を思いましたか、と聞かれて「気が楽でしたね。」と答えて、メンバーを不思議がらせていました。

  その心は、サインを出したのはベンチなので、失敗してもベンチの責任と割り切れたので気楽だったということです。宮本さんと言えば、ヤクルト時代の野村監督の教え子で、全日本の稲葉監督と並んで野村克也さんとの師弟関係はよく知られています。宮本さんは、常にチームの勝利を第一に考える選手であり、名球会のメンバーで2000本安打とともに400犠打も記録している唯一の会員として有名です。そんな宮本さんだからこそ、ベンチからヒットエンドランのサインがでるとホッとするという心境に至ったのではないか、と妙に納得してしまいました。

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(球辞苑「ヒットエンドラン」の回 nhk.jp)

  ヒットエンドランに関しては、ヤクルト時代の野村監督の教え子として有名な橋上秀樹さんが登場しました。橋上さんはヤクルトに捕手として入団しましたが、そこに古田敦也捕手がいたため外野手に転向、その後手堅い打撃でファンを沸かせた選手でした。引退後には、野村野球を理解するコーチとして、楽天、巨人、西武の強化に貢献したのです。

  コーチ時代、橋上さんはヒットエンドランのサインを任されていたと言います。ヒットエンドランは、一塁に走者がいる場合に走者にはスタート、打者にはヒットを同時に求める戦術で、成功すればランナー一塁三塁となり、圧倒的な得点チャンスを実現することができます。この作戦はアウトカウントにもよるのですが、華々しい反面、はずされれば一塁走者が飛び出しており簡単に一塁で刺されてしまします。また、打者が内野ゴロを打てば、ダブルプレーとなり一瞬にしてチャンスは潰えます。

  それでは、ヒットエンドランへの心構えとは何か。

  橋上さんは、ヒットエンドランについて野村監督が何度も口にしていた言葉を紹介します。「ヒットエンドランは奇襲であり慢心してはいけない。」ヒットエンドランのサインが成功したときに、人はその気持ちよさに酔ってしまい、また成功するのではないかとの慢心してしまうが、ヒットエンドランはよほどのことがなければ使う戦術ではない、ということだそうです。

  確かに近年は得点の確立を挙げるため、一塁ランナーが出るとバントで送ることが常道となっています。勝つための確率としてヒットエンドランは賭けのようなものなのかもしれません。しかし、それを十分にしっていれば、場面によってヒットエンドランは勝利を導く見事な作戦となる可能性があるわけです。

  話を戻せば、野村克也さんのプロ野球における実践的理論は、その教え子である橋上さん、宮本さん、稲葉さん、古田さんに脈々と受け継がれていることに間違いはありません。

  今回読んだ「師弟」は、野村さんが野球漬けの60年以上の生活の中で培ってきた野村野球論とその愛弟子である宮本慎也さんが野球に対する考え方の集大成なのです。

【名将 野村監督が語る8項目】

  今回の本は、野村さんが野球戦略の柱と考える8つの項目を掲げ、それを野村さんと宮本さんの二人が語っていく、という野球ファンにとってはこたえられない内容となっています。

  まずは、野村さんが掲げる8つの項目を見てみましょう。

  「第一章 プロセス重視」、「第二章 頭脳は無限」、「第三章 鈍感は最大の罪」、「第四章 適材適所」、「第五章 弱者の兵法」、「第六章 組織」、「第七章 人心掌握術」、「第八章 一流とは」

  ここにかかれた各章のみだしを見ただけで、お二人が何を語るのか、読むのが待ち遠しくなります。

  野村さんは監督時代にミーティングによって優勝を争うことができるチームを育ててきました。特に専業監督として初めて指揮を執ったヤクルト時代、キャンプでは毎日の野村塾ともいえるミーティングがおこなわれました。その内容が野球の技術戦術よりも、人生をいかに生きるかとの話であったことは有名な話です。この本を読むと、野村さんが選手に、まず人間として優勝にふさわしい人間になることが大切であることを教えたかったということがよくわかります。

  一方、宮本さんは、その野村さんの6年目のシーズンに稲葉選手とともにヤクルトに入団しました。宮本さんは、そのミーティングの内容を毎年ノートに記録し、それを実践してきたのです。

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(1995年 ヤクルトの入団会見 nikkansports)

  この本には、題名の通り「師弟」と言える野村さんと宮本さんが、人生と野球に何を基軸に打ち込んできたのかが描かれています。その面白さは無類です。

  例えば、「頭脳は無限」の項では、野村さんが現役時代に3割を打ち、ホームラン王になったのちのことを語っています。それは4年目のシーズンでしたが、その後の2年間、成績が低迷しました。そのわけは、各球団のバッテリーが野村さんのバッティングを徹底的に研究してきたことにありました。そのことに野村さんは気づかなかったのですが、先輩のとある一言でそれを理解しました。そのときから野村さんの頭脳戦が始まります。

  それは、相手の配給とくせを徹底的に研究し、次に来る球を読むことでした。これが、ID野球の始まりだったのです。広島から小早川選手を獲得し、開幕第一線で当時の巨人のエース斎藤投手から三打席連青くホームランという成果で「再生工場」といわれたわけもここにあったのです。

  野村さんには、「とは理論」と提唱している考え方があります。それは、ものを考える原点として、まず「○○とは?」と考えて答えを探すというプロセスのことです。野村さんは、良く選手に「野球とは?」と質問してその人の思考を観察していたと言います。楽天時代でも、その質問に答えのない選手が多かったと言います。たぶん、野村さんが怖くて答えられなかったというのが真相と思いますが、宮本さんは、「野球とは頭のスポーツです。」と即座に答えたと言います。

  さすが優秀な教え子。

  この項目の宮本さんの話も興味津々です。ここでは、ヤクルトの優勝監督だった真中さんが1番、宮本さんが2番を打っていた時のエピソードが語られていますが、その話はみごとなまでに野村さんの話と重なっています。

  そのワンダーはぜひ、この本でお楽しみください。


  コロナウィルスとの付き合いも早1年を超えました。我々の心がけることは変わりません。手洗い、消毒、蜜を避ける、会話の時にはマスクを外さない、その基本が守られれば感染者数の再拡大は起きることはありません。みんなで、今を乗り越えましょう。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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原田マハ ゴッホ小説はこうして生まれた?

こんばんは。

  組織のトップに立つ人には、清廉さが求められるのは言うまでもありません。

  東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の森嘉朗氏が辞任しました。その直接の要因は、氏が日本オリンピック委員会の会合の中で、「女性がたくさんはいっている理事会は時間がかかる。」と発言し、これが女性を差別する発言として、世界も含めた世論の顰蹙をかったことでした。たしかに、「ダイバーシティ(多様性)」が常識の一つとなっている現在ではありえない発言であり、聖火ランナーやボランティアの方々がその役目を辞退したくなる気持ちも当然のことと思います。

  辞任は当たり前のこととして、今回の出来事に一抹の不安も感じます。

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(新たに会長に就任した橋本聖子氏 asahi.com)

  それは、人の心にゆとりがなくなってきていることです。

  誤解を恐れずにいうならば、余裕と癒しのあるおおらかな組織であれば、どなたかが「森さん、理事会が長くなるのは、女性でも男性でも同じです。私もよく言われます。」と話せば、昭和の人が少々「ボケ」をかましたな、との雰囲気になったのではないか、と思うのです。当然、カリスマの森さんにそんなことを言えるわけがないとも言えますが、お年を考えればそんな場面があるのは当たり前だとも思えます。

  この言葉の前後の脈略はわかりませんが、おそらく森さんは、話の枕としてなごみも期待して語ったと思われます。それは森さんの中で昭和が延々と続いていることの証であると思います。考えてみれば、76歳で請われて東京オリンピック・パラリンピック組織委員会という大組織の長となってから7年間。森さんなくしては国際社会で組織委員会の仕事が回せなかったことも事実です。83歳というお年を考えたときに、誰もフォローできなかった、というこの狭量な世界に忸怩たる思いを感じるのは私だけでしょうか。

  人は、必ず間違いを犯します。特に若いとき、老齢のときには間違いもあります。とくに高齢者は永年刷り込まれてきたことを塗りなおすのは容易ではありません。そうした間違いが起きた時、人も社会もその「多様性」を問われるのだと思います。犯罪やいじめは許されませんが、若者や老人の過ちをゆとりを持って受け入れ、その過ちを質すことも「多様性」の一面ではないかと思います。

  小説「変身」の著者であるフランツ・カフカのエピソードがあります。若い詩人のグスタフ・ヤノーホがカフカの事務所を訪れたっとき、そこにギュートリングという詩を書いている役人がきていました。その中で、ギュートリング氏が「私自身、詩人ですから。」と語ったのに対し、カフカは「ええ、あなたは詩人です。」と答えました。ギュートリングが部屋を去った後、ヤノーホは「本当に彼が詩人だとお考えなのですか。」と問いました。カフカは、「彼は確かに詩人(ディヒター)です。」と返しました。

  「ディヒター」には詩人と言う意味と同時に「隙間のない人」と言う意味もあります。そして、「ディヒター」には釘で打ち付けられたとの意味から、「頑迷、愚鈍」という言葉になるのですが、ヤノーホはカフカが彼を頑迷、愚鈍な人と言ったと思い笑い声をあげました。

  カフカは、語ります。「そうではないのです。彼は自分の言葉に埋め尽くされて、現実に対して完全に(心の)隙間を塞がれているのです。」

  さて、今週は原田マハさんのゴッホ小説の副読本を読んでいました。

「ゴッホのあしあと」

(原田マハ著 GS幻冬舎新書 2018年)

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(「ゴッホのあしあと」 amazon.co.jp)

【ゴッホは日本に住みたかった?】

  この本をおなじみ本屋さん巡りで見つけたのは、2年以上も前の話です。

  この本が新書で発売されたのは、「たゆたえども沈まず」が単行本で上梓された後ですので、ターゲットは単行本で読んだ人たちでした。以前に「モネのあしあと」を読んでいたので、見てすぐに購入したのですが、目次を見ると小説のネタばれが随所にありそうで、まずは本編を読んでからと決めて本棚で眠っていたのです。

  まさか文庫化されるまでにこれほどの年月が経とうとは、幻冬舎さんは商売が上手で、文庫化したと同時に副読本としてこの「ゴッホのあしあと」も文庫化されたのです。

  ということで、本編を読み終わるとすぐにこの本を読み始めました。さすが、副読本と銘打たれているだけあって、読むにつれて小説のどこまでがノンフィクションで、どこからがフィクションなのか。はたまた、なぜこの小説がこれまでのマハさんの小説と異なっているのか、がとてもよくわかりました。

  まずは、目次をチラ見です。

プロローグ 私とゴッホの出会い

第1章 ゴッホの日本への愛、日本のゴッホへの愛

第2章 パリと林忠正

第3章 ゴッホの夢

第4章 小説「たゆたえども沈まず」について

第5章 ゴッホのあしあとを巡る旅

  小説を読んだ方には、興味が尽きない内容に間違いありません。

  今回の小説は、あまりネタばれの心配がありません。それは、謎解きの要素が少ないからです。ゴッホの人生はあまりにも知られており、そのエピソード自体は有名なものばかりです。また、ゴッホが画業に専念できたのは、弟のテオが仕送りを行ってその画業を応援していたおかげですが、その陰でこの兄弟がどれだけの辛苦を味わいながら生きていたのか、これもすでにその手紙によってよく知られています。

  しかし、実際にゴッホの絵をみると、そうした彼のエピソードよりもなによりも、その画自体が発するオーラがすべてを吹き飛ばして「絵」に込められたパワーに呆然としてしまいます。

  そんなゴッホが日本にあこがれていたとは、どういうことなのでしょう。

  ゴッホが日本を知っていたのは、当時パリで大流行していたジャポニズムによるものでした。そこで紹介されたエキゾチックな日本美術の魅力は当時パリの万博での展示がその出発点でした。特にこれまでの伝統的なアカデミー派の絵から脱却しようとしていた画家たちにとって、日本の浮世絵の技法は驚異的なものでした。その遠近法を無視するような構図や版画とは思えない豊かな色彩、そして単なる線を駆使した写実表現。

  印象派やポスト印象派と呼ばれる画家たちは、皆、浮世絵の技法を研究しました。そして、ゴッホもそのひとりだったのです。ゴッホは浮世絵に描かれた明るさと華やかさから日本にあこがれを持っていたに違いありません。そして、マハさんはその思いに焦点を当てて、当時パリで画商を営んでいた日本人、林忠正とゴッホとの出会いを描いたのです。

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(ゴッホ模写の広重作浮世絵  wikipediaより)

  オランダ出身のゴッホとテオは、どんよりと雲の垂れ込める国で育ちました。彼らは太陽の光にあこがれていました。そして、ゴッホはあこがれの日本に行くことができない代わりに、光に溢れたアルルへと旅立ったのです。アルルでは、若き芸術家たちのコミュニティを創りたい、そんな夢を描き、彼がゴーギャンをアルルへと誘ったのです。

  アルルと日本。その関係は、ぜひこの本で読み解いてください。

【ゴッホの絵画を巡る旅】

  この本は、題名の通りゴッホの足跡を追っています。

  第3章では、ゴッホがめざし、夢見た絵画とはどのような作品だったのかが、作品の変遷とともに語られていきます。そこで語られる作品は、アルル時代に描かれた「夜のカフェテラス」。この作品が所蔵されているのはクレラー・ミュラー美術館。この美術館には、ゴッホの作品が数多く収蔵されていることで有名なオランダの美術館です。

  他にも「アルルの跳ね橋」、「種まく人」、「じゃがいもを食べる人々」、「糸杉と星の見える道」などの作品が収蔵されていますが、その作品は何度か日本にも来てくれています。

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(ゴッホ「夜のカフェテラス」 wikipediaより)

  マハさんは、アルル時代の絵画にはゴッホの心の奥に秘められた「孤独」がその画面に感じられると言います。その孤独は、アルルにきて一緒に生活したゴーギャンがたった2カ月で家を出ていったことで頂点に達します。ゴッホが住んでいたのは黄色い家と呼ばれており、その家を題材にしていくつも絵を残しています。そこには、「ゴーギャンの肘掛け椅子」、「ゴッホの椅子」という作品があるのですが、この2枚には椅子だけが描かれていて、そこにいるゴーギャンもゴッホもあがかれていません。

  この孤独な2枚の絵は小説でも重要な役割を果たしています。

  ゴッホは、ゴーギャンが出ていったときに自らの耳を切り取るという驚きの行動に出ますが、その行動が災いして精神病院で療養することになります。アルルの市民病院から紹介されたサン=レミにある修道院に付属する精神病院でゴッホは1年を過ごすことになります。ここでは、数多くの作品が生まれていますが、マハさんはここでゴッホの強さを感じたと語っています。

  この修道院に着いた頃にかかれた「アイリス」という作品やサン=レミで観られる糸杉を題材とした作品は、ゴッホの代表作となりました。また、このころに弟とテオとヨー夫妻の間に生まれた甥へのお祝いに「花咲くアーモンドの木の枝」という作品を描き、贈っています。修道院の部屋は三畳ほどの狭苦しい閉鎖空間で、訪れたマハさんはこの環境で次々と名作を描いたゴゥホの強さに驚嘆しています。

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(ゴッホ「花咲くアーモンドの木の枝」wikipedia)

  そして、その後ゴッホは終焉の地となるオーヴェル=シュル=オワーズへと移り住みます。この地では、下宿屋であるラヴー亭で生活しましたが、そこでの暮らしはたったの60日間に過ぎません。その60日の間、「オーヴェルの役場」、「ガッシュ石の肖像画」、「オーヴェルの教会」、「オ-ヴェルの階段」、「ドービニーの庭」、「カラスのいる麦畑」、「アザミの花」など数多くの名作を残しています。

  最後にこの本は、ゴッホの絵を見ることができる日本の美術館を紹介してその旅を締めくくります。

  この本は、ぜひ小説を読み終わったのちに手に取ってください。マハさんのゴッホへの想いが伝わってくると同時に小説の解読に役立つことに間違いありません。


  大阪、名古屋周辺では、緊急事態宣言の解除も検討されているようですが、油断大敵です。ここまで縮小してきた感染者数や重症患者の数も、人が接する機会が増えればアッという間に再びうなぎのぼりとなることは目に見えています。皆さん、ここまで頑張ってきた自分をほめつつ、ワクチン接種が万人にいきわたるまで、お互い自粛に務めましょう。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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原田マハ たゆたえども沈まず、とは?

こんばんは。

  原田マハさんの書いたゴッホ小説をついに読みました。

「たゆたえども沈まず」

(原田マハ著 幻冬舎文庫 2020年)

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(原田マハ 「たゆたえども沈まず」amazonより)

【アート小説とフィクションの妙】

  マハさんの小説の魅力は何度となくこのブログで紹介してきましたが、またまたアートの世界を描く素晴らしい小説が上梓されました。今回、マハさんが挑んだのはあのフィンセント・ファン・ゴッホです。その「ひまわり」の絵が数十億と言う金額で取引され、なんどとなく美術展が開催される孤高の画家ゴッホ。そのゴッホを原田さんはどのように描くのか。興味は尽きません。

  マハさんのアート小説は、変幻自在です。

  初めてのアート小説である「楽園のカンヴァス」は、本格的な謎解きを織り込んだ素晴らしいミステリー小説でしたが、そこに描かれていたのはアンリ・ルソーの作品に対する限りない愛情とリスペクトでした。かの有名なルソーの「夢」に描かれた女性、その名前はヤドヴィガです。いったいルソーはどのように宿ヴィかと出会い、彼女を描いたのか。そして、ルソーの絵に新たな絵画の力を感じ取った若き日のピカソ。ピカソはルソーを応援するために自ら選択戦と呼ばれたアトリエに仲間を呼んで「夜会」を催しました。

  かの有名な夜会も題材とした謎解きの小説はアート小説に新境地を切り開きましたが、それはその後の序章にしか過ぎなかったのです。

  その後、マハさんは次々とアート小説の傑作を世に問うて行きます。画家たちにかかわりのある女性たちの視点から印象派の巨匠たちを描いた中短編集「ジュヴェルニーの食卓」では、印象派の絵にも通ずる抒情と感性を作品に昇華しました。さらにニューヨーク近代美術館を舞台とした短編集「モダン」でのコント。スペイン内戦の時代から第二次世界大戦までのパリ時代のピカソを描いた「暗幕のゲルニカ」では、ピカソの愛人を語り部としながらピカソの「ゲルニカ」の作品としての変遷を語りました。

  若くして夭折した天才オーブリー・ビアズリーとオスカー・ワイルドの邂逅を描き、最後には読者の背筋をぞっとさせるスリラータッチの作品「サロメ」は、記憶に新しいところです。

  そんなマハさんがこの作品ではどんなワンダーを味合わせてくれるのか、本当に文庫本になるのが待ち遠しい作品でした。

  そして、期待をたがえることなく、今回も新たな手法で我々を驚きと感動の世界に導いてくれました。それは、大胆な着想によるゴッホと日本の物語だったのです。

【炎の人 ゴッホとは?】

  皆さんは、ゴッホと聞いて何を思うでしょうか。

  「炎の人ゴッホ」との名称は、映画の題名です。ゴッホの伝記映画としては昨年制作された「永遠の門 ゴッホの見た未来」が話題になったのは記憶に新しいですが、この題名は1956年に名匠ヴィンセンt・ミネリ監督が撮った映画の邦題となります。この映画は牧師であった父親の後を継ごうと聖職者を目指した青年時代から亡くなる37歳までを描いた力作で、ゴッホを演じたのはカーク・ダグラス。ゴーギャンを演じたアンソニー・クインはこの映画でアカデミー助演女優賞を受賞しています。

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(「炎の人ゴッホ」DVD  amazonより)

  この映画は、かつて日曜映画劇場で観て感動した映画で、私の中ではゴッホといえば「炎の人」という印象が定着略してしまいました。実は原題は「Lust For Life」との題名で、これは「生への渇望」を意味しています。原題通りであれば、ゴッホへの印象も大きく変わったと思われます。

  映画の題名はともかく、ゴッホの絵は確かに我々を魅了してやみません。鮮やかで現職のようなエキゾチックな色使いもさることながら、油絵の具をまるで3Dのように画布に盛り上げて表現する技法は独自のもので、見る者に強烈な迫力を持って迫ってきます。

  これまで、美術展では数多くのゴッホを見てきました。

  いったいなぜゴッホの絵はこれほど我々を魅了するのでしょうか。印象派の絵が我々を魅了するのは、描かれている対象が単なる風景なのではなく、作家の目や心に映った光や事象であり画家の心がそこに反映されているからに違いありません。ゴッホやセザンヌ、ゴーギャンなどの作品は、ポスト印象派と呼ばれています。それは、シスレーやピサロ、マネなどの印象派をもう一歩進めた作品を描いたという意味でもあります。

  印象派が「眼」に映った光のうつろいをカンヴァスに写し取るのに対して、ゴッホは「眼」よりも「心」に作り上げた事象をカンヴァスに焼き付けようとしています。花瓶に生けられたひまわりを何度も何度もカンヴァスに描くには、自らの心にあるひまわりと、カンヴァスに焼き付けたひまわりにギャップがあるからに違いありません。

  マハさんがこの小説で究極のゴッホとして描いているのは「星月夜」と言う作品です。晩年、アルル北東にあるサン=レミ・ド・プロヴァンス村のサン=ポール・ド・モゾル療養所で生活していたゴッホがその部屋から見える糸杉をモチーフに数々の作品を書き残しました。「星月夜」は、明け方のまだ三日月が残る夜空を背景に黒い糸杉が夜空に身かって伸び、渦巻く夜に向かって佇む姿を描いています。その迫力は唯一無二の作品です。

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(ゴッホ「星月夜」wikipediaより)

  これまで、様々な場面で見たゴッホの絵は、いかにして自分の心をそこに映し出そうかと苦悩しているように思えます。コスモポリタン美術館展で観た「糸杉」は、昼の淡い青空に黒く大きな糸杉が屹立していて、糸杉の命に自らを託しているように見えました。また、最晩年に麦畑に種まきを飛び交うカラスを描いた作品では、暗い夕日を背景に飛ぶカラスが黒く描かれており、ゴッホが自らを塗りつぶしてしまいたいと思っている心が見えてくるようでした。

  ゴッホと言えば病的なまでにつきつめた精神性と緊迫感を思い出しますが、これまで見たゴッホの中で一番好きな作品は、松方コレクションの一枚で、現在では上野の国立西洋美術館に収蔵されている「ばら」という作品です。

  この小説には、アルルでゴーギャンとの共同生活が破たんして耳の一部を切り落とす事件の後、「星月夜」を描いた療養所からパリに一時帰った時のゴッホの姿が描かれています。結婚して、優しい奥さんと子供(子供の名前は、ゴッホの名と同じフィンセントです。)に恵まれた弟テオのもとを訪れたゴッホは、本当に穏やかで幸せな3日間を過ごします。この「ばら」を見ると、その静謐な筆致の中にテオの新居を訪れて幸福感の中にいるゴッホが思い起こされます。

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(ゴッホ「ばら」国立西洋美術館HPより)

  37年の間に素描も含めて2100もの作品を残し、最後は自らを銃で打ち抜いたエキセントリックな生涯。マハさんがその絵画と生涯をどのように描いたのか、読み逃すわけにはいきません。

【ゴッホと日本と浮世絵と】

  マハさんの中短編集「ジヴェルニーの食卓」に「タンギー親父さん」を描いた作品が収められています。タンギー親父さんはパリの画装具店の店主です。彼は若き芸術家が大好きで、その店には絵具代を払えない画家たちが後払いで絵具を買っていき、支払の代わりに作品を置いていくのでまるでギャラリーのようになっていたのです。

  ゴッホも絵具代の代わりに「タンギー親父」の肖像画を描いているのですが、その背景にはたくさんの浮世絵が飾られており、ゴッホはその浮世絵を描いています。ゴッホを始めとする印象派やポスト印象派の画家たちは、当時「ジャポニズム」が流行するパリにいて、日本の浮世絵の手法に大きな影響を受けていたのです。当時、パリには熱狂的な日本の美術収集家がおり、その人たちは「ジャポニザン」と呼ばれていました。

  1986年の3月、ゴッホは当時「グーピル商会」という画商のパリ支店の支配人であった弟のテオを頼ってパリにやってきます。そこで、ゴッホは浮世絵に出あいその技法の虜となります。丁度その年の5月、流行の絵入り雑誌「パリ・イリュストレ」で日本特集が組まれ、発売されました。その特集の表紙を飾ったのは渓斎英泉の浮世絵「雲龍打掛の花魁」だったのです。この浮世絵は、「タンギー親父さんの肖像」の背景に描かれたのはもちろんですが、ゴッホはこの絵を模写しているのです。

  実は、この「パリ・イリュストレ」の日本美術の特集記事は日本人によって書かれた記事が掲載されています。その記事の執筆者は林忠正。この雑誌が発売された19865月、林忠正はパリで美術商を営んでいたのです。その美術勝の名は、「若井・林商会」。林忠正は、その美術勝の社長としてパリの美術界で辣腕をふるっていたのです。

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(雑誌「パリ・イリュストレ」wikipediaより)

  丁度この時期、フィンセント・ファン・ゴッホの弟であるテオは、当時ヨーロッパ屈指の美術商である「グーピル商会」のモンマルトル大通り支店の支配人を務めていたのです。そして、テオは、画家を志す兄フィンセントに仕送りを行い、兄の画業をささえていました。フィンセントは、テオの仕送りによってまったく売れるあてのない絵を好きなだけ描くことができたのです。しかし、一家の長兄であるフィンセントは無一文で稼ぎのない厄介者である自分を常に苛んでいたのも事実でした。

  マハさんが描くゴッホは、同じ時代にパリの空の下にいた日本美術を扱う美術商林忠正とその下で働く加納重吉、フィンセントとテオドールたちの間で繰り広げられる絵画の物語なのです。果たして、ゴッホはどのようにして日本の浮世絵と出会ったのか。フィンセントとテオの兄弟は、パリでどのように過ごしていたのか。現在、我々が知るゴッホの絵のほとんどは、この浮世絵との出会い以降に描かれた絵となります。マハさんはこの小説で、ゴッホが自らの絵画に目覚めた理由を我々に提示してくれるのです。

【ゴッホにかかわる数々の謎】

  ゴッホは周囲の人たちにたくさんの手紙を書いており、多くの手紙が現代に残されています。とりわけゴッホの生活費のほとんどを仕送りによって賄っていた弟テオとの間で交わされた手紙は、「ゴッホの手紙」として上梓されており、多くの研究者がゴッホの人生を追っています。

  にもかかわらず、ゴッホには多くの謎が残されています。

  特に、死の直接の原因となった行為、リボルバーによって自らの腹を打ち抜いたとされる行為は謎につつまれています。そこには目撃者はおらず、真実は藪の中にあります。そもそも、彼が手にしていたリボルバーはどこから現れたものなのか。果たして、その日にゴッホは本当に一人だったのか。研究者の中には、それは自殺なのではなく他殺だったとの説を唱える人さえいるほどです。

  さらに、ゴッホが最後まで追求してやまなかった絵画。彼が目指した絵はどんな絵だったのか。

  今回の小説は、ミステリー小説ではありません。しかし、この小説ではその謎がみごとに解き明かされています。そして、セーヌ川に囲まれ、そのセーヌ川に翻弄されたパリ。「たゆたえども沈まず」とはパリを表わす言葉ですが、マハさんは、そこに人が生きていく想いを幾重にも重ね合わせてこの小説を完成させています。

  絵画が好きな方もそうでない方も、一度この本を手に取ってみて下さい。ゴッホの秘密の一端が皆さんの心を開いてくれるに違いありません。

  新型コロナウィルス封じ込めのための緊急事態宣言が続いています。皆さん、くれぐれも手洗い消毒、マスク着用、脱3密を心がけ、脱コロナ禍を実現しましょう。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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