酒井正士 別府温泉に眠る邪馬台国

こんばんは。

  ここのところ、コロナ感染者の最多人数が毎日更新されています。

  2月頃、クルーズ船でのクラスターが世界中の注目を集めていました。未知のウィルスへの対応は人類VSウィルスの闘いの様相を呈しており、予想通りその戦いは長期戦に突入しています。その頃に、インフルエンザにかかった顛末は以前にもブログでお話ししましたが、新型ウィルスの猛威に対抗するには、やはりワクチン接種が決め手になるに違いありません。

  日本でも早い時期の緊急事態宣言で、一時は感染拡大が落ち着いたように見えましたが、経済活動再開によって夏には第二波に見舞われ、第三波は今やとどまることがないように見えます。

  この年末は、会食や移動を控えて静かに過ごすことが望まれます。

  とても不思議に思うのは、大人数での会食の自粛、お酒を出す飲食店の営業時間の制限、移動の自粛を同じように呼びかけながら、地域によって効果に差が生じている点です。北海道や大阪では、11月の下旬から呼びかけられた自粛により、繁華街での人手が減少し、それに比例して新規感染者の数が減りました。ところが、東京では一向に減少する気配が見えません。

  報道によれば、東京では自粛の呼びかけにもかかわらず、人出が減っていないというのです。確かにウィルスによる自粛が半年を超えて、職を失って収入が亡くなる人や売り上げがなくなり店を閉めるお店が増え、生活が立ち行かなる人々が増加しています。そこでさらに経済活動を自粛すれば、生活に困る人が続出します。しかし、大阪や北海道では減少した人出がなぜ東京では減らないのでしょうか。

  大阪や北海道の人々は自粛してもお金に困らないのでしょうか。

  東京には、世界中の人々が集中しています。そのために大阪や北海道に比べて、知事の呼びかけに対して「他人事感」が強いのかもしれません。経済的な厳しさは、大阪でも北海道でも同じですし、例えば期間を限定する限り、自粛によって生きていけなくなることにまで追い込まれる場合には、行政や福祉によって援助する仕組みを作ることは可能です。

  神奈川、埼玉、千葉などを含めた首都圏では、新規感染者の増加によって医療機関が機能不全になる直前まで追い詰められています。このままでは、コロナ以外の疾患が悪化した人を受け入れる病院がなくなり、救えなくなる命が生じるリスクがどんどん増加していきます。首都圏には、外国人や多様な地域の人たちが集中し、隣にだれが住んでいるのかさえ分からないような日常があたりまえになっています。そうした中では、なかなか首長たちの呼びかけや危機感が届きにくいことは当然です。しかし、今年の年末年始に感染者が減少しなければ、首都圏の経済活動が新型ウィルスのために停止してしまう事態までが想定されます。

  自らの命や生活を守るために皆さん、改めてマスク、手洗い、消毒は当たり前、外出を自粛し、大人数での会食や会話は控えるという「密」をさける行動を徹底しましょう。

  さて、話は変わりますが、10年前の今日、皆さんは何をしていたか覚えていますか。

  実は、10年前、このブログはすでに始まっていて、ちょうど10年前に読んでいた本がちくま新書の「倭人伝を読みなおす」という邪馬台国に関する本だったのです。この本は、考古学者として有名な森浩一博士の書いた本でしたが、氏は2013年に85歳で亡くなりました。時のたつのは早いものですが、そのときから邪馬台国と書かれた本は読まずにはいられません。

  先日、本屋さんで久しぶりに邪馬台国を題名にした本に出合いました。

「邪馬台国は別府温泉だった!」(酒井正士著 小学館新書 2020年)

【邪馬台国は永遠の謎なのか】

  昔から、「邪馬台国」、「魏志倭人伝」という文字を読むとロマンを感じてしまいます。

  古代とは、古今東西を問わず我々人類が歴史を刻む最も早い時期を示します。そこにはまだ言葉は少なく、我々人類はその初期のころ、何を考え、どのように行動し現在の姿を作り上げてきたのか。そのことに想いを寄せると、自らが人として生まれてきたことの意味に少しでも近づけるような気がして、たまらないワンダーを感じるのです。

  ブログでも人類の起源や文明の起源に関する本をたくさん紹介してきました。

  日本においては、日本書記や古事記の世界、古墳の世界、木簡の世界など、日本人の起源にかかわる本は数え切れないほどたくさん上梓されています。しかし、書き残された資料以前の世界は、考古学によって解き明かしていくしかありません。それは、古代遺跡の発掘による遺物からわかる歴史に他なりません。

  日本書記や古事記には、神話の世界が記されていますが、日本という国が大和朝廷によって統合される以前、日本列島にはどのような人々が住み、どのような暮らしをしていたのか。それは、様々な遺跡の発掘によってしか解明されないのです。

  しかし、日本では有史以前でも朝鮮半島をはさんだ西には4000年の歴史を持つ中国が存在していました。中国では殷(商)が3000年も前に漢字を発明し、紀元前1300年ころには記録を残しているのです。「史記」をはじめとした紀元前後の中国の歴史書は、人類最古の歴史書といっても過言ではありません。

  そして、そこに記された中国の東の果ての記録の中に当時の日本の姿が語られているのです。

  その最も古いものが正史である「三国志」の「魏志」に記されていた東夷伝のなかに倭人の条があり、それが「魏志倭人伝」と呼ばれているのです。そこに登場する邪馬台国は3世紀の日本において中国に朝見の使者を送るほどの勢力を持っており、当時の日本では最も権力を有していたと想像することができます。

  魏志倭人伝には、当時の魏の勢力範囲内であった朝鮮半島にある帯方郡(ソウル近郊らしい)から対馬、壱岐を渡って邪馬台国に至る道程が記されているのです。そこに費やされている文字数は1986文字もあり、東夷伝の中では最も多くの文字数が割かれています。さらには、邪馬台国周辺の国々の名前や邪馬台国の風俗生活、卑弥呼の記載など、おおくの情報が盛り込まれているのです。

  これまで、数え切れないほどの歴史学者、考古学者、作家などが、邪馬台国が日本のどこにあったのかを推理し、その仮説を書き残してきました。ご存知の方には煩わしいと思いますが、邪馬台国の場所は大きく近畿説と九州説に分かれています。いったい方向と距離が記されている歴史書に従って進んでいくのに近畿説と九州説が両方成り立ちうるのでしょうか。不思議です。

  それは、倭人伝の記述を素直に解釈すると、邪馬台国は太平洋上にあることになってしまうからです。

  帯方郡は今のソウル近くですので、韓国から日本に渡るには、対馬、壱岐を経由して海路で至るしか方法はありません。倭人伝で、壱岐の島は「一大国」と記されます。ここまでは、約9000余里と記載され、異論はありません。問題は日本に到着してからの記述です。日本到着の国は、「末蘆国」であり、ここから東南に陸行500里で「伊都国」に、さらに東南に100里で「奴国」、さらに東へ100里いくと「不彌国」に至ります。

  ここまでは、記述の通りに進んでいけばよいのですが、ここから不彌国から先の書きぶりが変わってしまうのです。このさきの記載は、「南至投馬国 水行二十日」、「南至邪馬台国 女王之所都 水行十日陸行一月」となっているのです。いくらなんでも十日も二十日も船で海を南に渡れば、日本をはるかに突き抜けて太平洋上に至ってしまいます。

  これまでの近畿説は、南というのが実は南東のことで近畿地方への方角を言っているとして経路を仮定します。九州説では、この水行を「帯方郡」から「投馬国」、「邪馬台国」への道のりを語っていると仮定して場所の推定を行っています。

  つまり、邪馬台国の場所を特定するためには、「魏志倭人伝」に記載された地名の謎と「方角と距離」の謎を解き明かす必要があるわけです。

【謎を解くために必要なことは?】

  この本の著者は、歴史学とは何の関係のない職業に就いています。それは、生命科学、生物工学です。氏は、かの有名なバイオ飲料に会社の研究員として、人に有用な細菌や代謝の研究を行ってきた専門家なのです。人文科学の分野、とりわけ文献学や考古学などの歴史を扱う世界と自然科学の世界では、そのアプローチや発想はかなり異なります。著者は、現在、全国邪馬台国連絡協議会の会員にも名を連ねており、この著書は、協議会で行われた長年の研究成果の発表をもとにしているそうです。

  氏は、科学者らしく、まず、これまでの邪馬台国論争の前提となっている一つの推論に疑問を持ちます。それは、江戸時代に最初に「倭人伝」に注目した新井白石の仮説です。白石は、一行が日本に上陸した「末慮国」を地名の類似から唐津市の松浦郡に否定し、そこから各地域を地名の類似に従って特定していきました。

  驚くべきことにその後の長年にわたる研究は、ほぼこの説によって推定を重ねてきているのです。著者は、まずこの前提に疑問を投げかけます。では、その前提に代わる考え方とは何か。それは、「方角と距離」の関係です。近畿説は、方角、九州説は距離について仮説を立ち上げることで、邪馬台国の場所を推定しています。「魏志倭人伝」を著した陳寿の時代、その方角と距離はどのように理解されていたのでしょうか。

  著者はその特定から論を進めていきます。

  現代の日本に暮らす我々は、現代の科学水準は秀でており2000年近くも前の人間は科学的な見識では我々に及ばないとの考えにとらわれがちです。しかし、古代における方向と距離への見識は、彼らの軍事的な必要性や移動の重要性を考えれば現代と何の遜色もないといえます。

  氏は、三国時代の数学書「九章算術」からその測量に関する後代に「海島算経」呼ばれた測量法を解説してくれます。さらに航海時にはすでに三角測量の技術も発達しており、海上での距離はすでに直線距離での正確なり距離を把握することができたとして、「魏志倭人伝」に記される「方角と距離」は正確である、との前提を解き明かします。

  氏は、当時の数学書「九章算術」と同じく当時の天文数学書である「周髀算経」からそこに記されている「1里=約77m」との距離を採用します。里には様々な解釈があり、1里は438m、1里は140m、などいくつかの考え方がありますが、氏は自然科学者の強みを発揮してその約77mの合理性を次々に説明していきます。

  その「方向と距離」から導かれる結論とは?

  皆さんも邪馬台国を巡る鮮やかな謎解きをご堪能ください。別府温泉の扇状地の火山灰の下には、纒向(まきむく)遺跡に匹敵する弥生時代の遺跡が埋まっているのかもしれません。

  今年も残るところわずかとなりました。コロナウィルスに翻弄された年ではありましたが、まさに我々人類の英知が試された1年でもありました。皆さん、感染対策に万全を尽くしてよいお年をお迎えください。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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ベートーベン生誕250年にちなんで

こんばんは。

  コロナ禍は、第2波がピークを過ぎ、落ち着くかに見えましたが一転またも猛威を振るい、第3波の拡大が懸念される様相を呈してきました。

  ウィルスの感染防止と経済再生を両立させるのは本当に難しい。

  ところで、近年最も残念だったことのひとつに12月のベートーベン生誕250年にちなんだコンサートがキャンセルになったことがあります。

  今や日本ではファンが増えた指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ氏が、自ら育て上げたドイツ・カンマーフィルを率いて来日。12月の9日(水)から13日(日)にかけて東京オペラシティにて、ベートーベンの交響曲9曲をすべて演奏する、という夢のようなコンサートだったのです。その情報を知ったときには、すでに抽選が終了を迎える寸前で、木曜日の4番と5番は何とか手に入れましたが、3番「英雄」や6番「田園」、7番や第九はすべて売り切れだったのです。

  残るは一般発売。発売開始にはネット販売がパンクするのが通例なので、日曜日の第九ワンチャンスに賭けることに決めて、連れ合いと二人で予約サイトにアクセスしました。案の定開始直後にはアクセス不能となり、購入はできないのかと落胆しました。ところが、連れ合いのスマホが奇跡的につながります。なんと、日曜日の交響曲第8番と第九のチケットを手にすることができたのです。

  今年一番の暁光と手に手を取って喜び合いました。

  ところがです。喜びもつかの間、10月14日、運命のメールがパソコンに届きました。なんと、カーマンフィルコンサートキャンセルと払い戻しの連絡だったのです。この連絡は残念と言うよりもショックでした。環境から見て、ドイツの交響楽団が来日することができないことは頭では理解できますが、あのパッシブで流麗な響きで聞くベートーベンがかなわぬ夢となったことは、納得できることではありません。

  心の傷が和らぎ、チケットを払い戻すまでには1カ月ほどかかりました。

  ところで、残念なこともあれば、うれしいこともありました。

  今年の2月に最後のライブに足を運んで以来、ライブはのきなみキャンセルとなっていましたが、久しぶりにライブに参加することができました。そのライブは、日本のボサノヴァの第一人者、小野リサさんの「2020 Love joy and Bossa Nova」コンサートです。小野リサさんのライブは、6年ぶりですが、その変わらないボサボヴァのセンスと優しい歌声にすっかり癒されました。

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(小野リサさん コンサートの会場チラシ)

  ライブのパフォーマーは、ピアノの林正樹さん、ベースの織原良次さん、ドラムスの斉藤良さんです。コロナ禍の中、優しさと癒しを意識したライブは、メロディアスなバラードを意識したセットリストで、「愛の賛歌」、「街の灯り」、「コーヒールンバ」、「テイクファイブ」などおなじみの名曲が並びました。ピアノの林さんは名バイプレーヤーで、その楽しそうにインプロヴィゼーションを繰り広げる姿が印象的でした。

  優しさと癒しとはいえ、ボサノヴァとサンバではノリの良さで会場を盛り上げていました。前半最後には、「テイクファイブ」がアップテンポなリズムで会場を盛り上げ、最後のプレスリーナンバー「GIブルース」では、みごとなブサノヴァアレンジで会場は大いに盛り上がりました。さらには、第2部の最後は、とどめの「マシケナダ」。やっぱり、サンバは盛り上がります。

  さて、キャンセル続きの昨今ですが、今、NHKで放映されている「ベートーベン250プロジェクト」は、クラシックファンならずとも心が躍るなかなか素晴らしい企画です。

【ベートーベンって何が凄いの?】

  10月18日日曜日に放送された「ベートーベン250プロジェクト 第2回」をご覧になったでしょうか。以前にもご紹介した日曜クラシック音楽館の一環なのですが、この番組が本当に素晴らしかったのです。この番組のナビゲーターは、元?SMAPの稲垣吾郎さんです。不覚にも知らなかったのですが、稲垣さんは「NO.9 不滅の旋律」と題された舞台で、ベートーベンを演じていたというのです。まさに主役。そうした意味で、このプロジェクトのナビゲーターとして白羽の矢が立ったのもうなずけます。

  第2回目のお題は、「革命家・ベートーベン」です。

  革命家、といえば確かにフランス革命後、自由・平等・友愛をかかげて市民革命の反動に対し、フランス軍を率いて戦ったナポレオン・ブナパルトに感銘を受けて交響曲第3番「英雄」を作曲したベートーベンですが、そのこととは異なります。ここれの「革命」は、それまでのクラシック音楽に「革命」を起こしたベートーベンンがテーマであることを示しています。

  今回の解説は、指揮者の高関健さんです。高関健さんは、カラヤン最後の弟子と言われ、カラヤンの薫陶を受けた名指揮者ですが、その語り口はとてもわかりやすく、聞き手の吾郎さんとのやりとりも軽妙で楚お話しに引き込まれます。高関さんは、ベートーベンが音楽に巻き起こした3つの革命について、実際にオーケストラを指揮しながら解説してくれるのです。

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(NHK 250プロジェクト twitter.com)

  まず、第一の革命。それは、あの交響曲第5番「運命」の冒頭に象徴されていたという話。世界で最も有名な交響曲と言っても過言ではない「運命」その冒頭は「ジャジャジャジャーン」というたった4つの音です。この交響曲はベートーベンをして最高の交響曲を創るとの思いから捜索されましたが、それはこの4つの音からどれだけの交響曲を作曲することができるか、という課題への挑戦だったのです。

  それを象徴しているのがこの「ジャジャジャジャーン」でした。

  これまで、「運命」の楽譜をまじまじと見たことがありませんでしたが、その最初にかかれているのは音符ではなく、休符だというのです。なぜ休符が最初にかかれているのか。それは、音楽が始まる前に一拍のタメがあるということです。あの「ジャジャジャジャーン」は、正確には「(ン)ジャジャジャジャーン」だということです。

  高関さんは、その(ン)がどれだけ指揮者にとって難題なのかを、実際の指揮によって教えてくれます。その(ン)によって、ベートーベンはこの交響曲の始まりを4つの音から進化させて渾身の響きへと進化させようとしたのです。実際の指揮では、高関さんの解説に合わせて、吾郎さんもオーケストラの指揮に挑戦します。この流れで、我々はベートーベンがどれほど「凄い」ことを考えていたのかを身を持って体験します。

  この(ン)から始まり、その変奏のすばらしさを知った後に聞かせてくれた「運命」は。な・な・なんと、ドイツ・カーマンフィルと指揮者パーヴ・ヤルヴィによる交響曲第5番だったのです。ヤルヴィ氏の緊迫感と高揚感にあふれる「(ン)ジャジャジャジャーン」は、我々の心を射抜きます。東京オペラシティでのベートーメンがコロナ禍のために聞けなくなったことは残念でしたが、この番組がその感動を補ってくれたのです。本当に涙ものの「運命」でした。

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(ヤルヴィ氏 交響曲全集 amazon.co.jp)

  さて、皆さんはベートーベンが起こした革命のあとの二つがきになりますよね。ここから番組は、改めて我々にワンダーを感じさせてくれるのです。

  「感情を音楽で表現する。」

  第二の革命はこれです。今でこそ、J-POPSでも歌謡曲でもジャズでも音楽は我々の感情を表現し、我々の心とのキャッチボールを創りだします。しかし、ベートーベン以前の音楽は、貴族たちスポンサーのために作られたバックグラウンドミュージックでした。そこに大げさな感情がはいることは、スポンサーである貴族たちのサロンでは邪魔臭いものだったのです。しかし、ベートーベンは音楽をサロンから解放し、市民のもとへと取り戻したのです。

  交響曲第5番「運命」と同時に作曲された第6番「田園」。この曲は各章に彼自身が表題をつけています。例えば第一楽章は「田舎に到着したときの愉快な感情のめざめ」と記されています。高関さんは、オーケストラを指揮しながらバート―版がどのようにしてこの曲で感情を表現したかを語ってくれます。木々のささやきや小鳥のさえずりをおなじみの楽器を響かせ合いながら表現し、我々はベートーベンとともに、田舎の田園を散策するすがすがしさを感じることができるのです。

  ことに田舎が夕立に襲われる情景の表現。高関さんはその予兆から雷がとどろくまでを、それぞれの楽器で雷や豪雨にひとビオが逃げ惑う様までがみごとに描かれていることを我々に教えてくれ、我々にさらなるワンダーを味合わせてくれるのです。

  そして、第5番はヤルヴィ氏の名演でしたが、「田園」の指揮者はあのブロムシュテット氏でした。この94歳のマエストロの「田園」は、「感情を音楽で表現する」という言葉を体現する素晴らし演奏です。この日のプログラムは心躍る素晴らしいものです。

  さて、革命その3は「楽章をつなげる。」ことです。

  高関さんは、あの名作ピアノソナタ23番「熱情」の第2楽章の最後の章を奏でます。第2楽章の最後の音は、そのまま第3楽章へとつながり、そこに切れ目を感じることがありません。この音楽を途切れさせることなく、さらなる高みへとつなげていく手法が、ベートーベンの革命であったのです。この手法は、あの「運命」の第3楽章から第4楽章にも使われており、我々は、「運命が戸を叩く」と呼ばれるあの感動を予感から味わうことができるのです。

  番組では、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第2楽章から第3楽章への間のこのつながりを、ブオrムシュテット氏の指揮、ピアノ、ルドルフ・ブフビンダー氏の名演で聞かせてくれるのです。ブフビンダー氏は、時には感動し、ときにはうれし気に旋律を指から醸し出し、心からこの曲を奏でることが好きであることが伝わってきます。

  この番組が示してくれたベートーベンの「革命」は、大いなる感動をもたらしてくれました。

【ベートーベンはいつまでも続く】

  この番組ののちにも「クラシック音楽館では、ベートーベン特集が続いています。

  「オーケストラでつなぐ希望のシンフニー」と題されたシリーズは、日本各地のオーケストラによるベート-ベン交響曲の演奏をつないでいきます。

  11月15日には、群馬交響楽団と指揮者高関健氏による交響曲第3番「英雄」と九州交響楽団と指揮者小泉和裕氏による交響曲第4番が放映されました。特に九州フィルが奏でた4番は、緊張感あふれる緩急をみごとに表現して、心から感動しました。

  また、23日には名古屋フィルハーモニー管弦楽団と若手の雄、川瀬健太郎氏の指揮による交響曲第7番。番組では、各地のオケの特長を紹介するとともにリハーサル風景も紹介してくれるのですが、川瀬氏のリハは本当に面白かった。第7番はクレッシェンドが何度も繰り返されることが特長ですが、川瀬氏はそのひとつひとつにいかに緊張感を持たせるかを何度も語っています。そして、本番では、その言葉の通り、緊迫感あふれるクレッシェンドが繰り返されるのです。

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(名古屋フィル 交響曲第7番 twitter.com)

 さらに札幌交響楽団とマエストロ秋山和慶氏のよる北海道のようにおおらかな交響曲第8番。そして、広島交響楽団と指揮者下野竜也氏による劇音楽「エグモント」が披露されました。下野さんがインタビューで、「ベートーベンの音楽は、当たり前のことを力強く、感動を持って語る音楽だ」という言葉は至言でした。確かにとてもわかりやすい音階で感動を呼ぶベートーベンの音楽は「当たり前のことを感動的に奏でる」唯一無二の音楽に違いありません。

 さて、すっかりベートーベン話で盛り上がりましたが、紙面も尽きましたので今夜はこの辺で失礼します。

 それでは皆さんお元気で、感染防止対策を万全に、またお会いします。


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宮城谷昌光 後漢王朝統一の大司馬を描く

こんばんは。

  菅内閣が仕事を始めてから「行政改革」がひとつのキーワードになっています。

  行政改革担当大臣の河野さんのキャラクターもひと役かって、発足初期に特有の「何かやるぞ」感を漂わせています。そんな中、日本学術会議の次期構成員を巡って議論が巻き起こっています。これまで日本学術会議のメンバーは、会議から推薦された内定者を総理大臣が任命することと規定されおり、総理大臣は推薦者をそのまま任命する形を続けてきました。

  ところが、菅総理は推薦された内定者のうち6名を任命しなかったのです。

  日本学術会議とは、日本の学者の集まりで210名の会員と約2000名の連携会員によって運営される国家組織です。そもそもは、戦後の日本において、科学は文化国家の基礎との認識から、行政、産業及び国民生活に科学を浸透させることを目的として、国の予算をもって設立された団体です。この会議の在り方については、これまで何度となく論議が行われてきた経緯があるようですが、近年ではその活動が形骸化しているのではないか、とも言われているようです。

  総理が推薦者の任命を行わないことが、政府の考え方の変更だ、とか、法令違反に値する、とか、様々な議論が行われています。総理大臣が日本学術会議の内定者を任命することには、「科学」を国家の指針、さらに財産とする強い決意があったのだと思いますが、戦後75年が過ぎて「科学」への取り組みから自体が変化しているのではないでしょうか。

  憲法では、宗教、学問、職業など国民が自ら選択できる自由への国家の介入を否定しています。しかし、日本学術会議のメンバーが国家公務員である以上、憲法の保障する自由の枠外であることは明らかです。そうした意味で、総理が推薦者の任命を認めないこと自体に問題はないと思います。問題は、日本学術会議の構成員に何を求めるか、ではないでしょうか。

  このブログでも近代史への新たな視点からの教育を本にした「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」の著者である加藤陽子氏は、「科学技術基本法」が改訂され、「人文科学」が法的に科学技術として謳われたタイミングで、日本学術会議のメンバー選定から「人文科学分野」の6名がはずされたことに追記如何を感じる、と述べています。

  確かに、政府が民間の科学分野や研究に介入したのであれば言語道断ですが、個人的には70年以上も続いている、税金を使う組織において、その構成員を「科学者たち」だけで決めるのはいかがなものか、と感じます。人間は、数が増えれば増えるほど、良貨が駆逐されていくとの原則があります。そうした意味で、日本学術会議の人選手段も見直す時期に来ているのではないでしょうか。

  さらに、日本の行政機関が、既得権益を守ることによって存続している事実です。確かに行政機関で働く人たちも消費者の一員であり、日本経済に貢献をしているわけですが、一度、成立した外郭団体が行政機関の退職後の受け皿となり延々と存続したり、名前を変えて生き残ったり、と国の組織ではあまりにも税金が惰性で使われていると思われてなりません。

  日本学術会議が無駄とは言いませんが、今回の議論を機会に日本学術会議は一度、各大学や企業の拠出制にし、民営化する、という案は非現実的なのでしょうか。かつて、日本は敗戦国で学問の徒はなかなか地位を維持することが難しく、会議には国として経済的にも支援すべき、という側面もあったかもしれません。しかし、現代は産学協同によって、企業からノーベル賞学者が排出される時代になっています。科学アカデミーが国の機関であることは逆にナンセンスなのかもしれません。

  もちろん、その存在が国民に貢献するのであれば、税金から補助金を払えばよいではありませんか。今回任命から外れた方々は、加藤陽子先生をはじめ、皆さん素晴らしい実績をお持ちと拝察します。そうした方々は、国家公務員にこだわる必要があるのでしょうか。総理が任命する、しないをあげつらうよりも、これを機に科学アカデミーのあるべき姿を徹底討論してはいかがでしょうか。

  さて、またしても世間話になってしまいましたが、今週は愛読書でもある宮城谷昌光さんの本を読んでいました。やはり、宮城谷さんの中国古代史小説は面白かった。

「呉漢」 (宮城谷昌光著 中公文庫上下巻 2020年)

【劉邦から劉秀に引き継がれた漢王朝】

  昔、人生50年と言われましたが、いまでも人の命は長くても100年程度です。世の中、なかなか200年生きた人はいません。

  人間の寿命は短いのか、長いのか。

  本来哺乳類の一員として人間の寿命は30年程度と聞いたことがあります。確かに、物理的な人の成長は18歳で止まり、あとはすべての機能が衰えていくばかり、というのは事実のようです。しかし、歴史を見ると一つに時代を作った英雄は、人生が50年もあれば十分と言う生き様を示しています。アレキサンダー大王にしても、ナポレオンにしても英雄は若くして頂点に君臨しました。

  中国の王朝を建てた英雄たちも人間であることに変わりはありません。人は、寿命があるからその業績の偉大さをなおさら感じるのかもしれません。

  宮城谷さんは、これまで中国の春秋戦国時代の英雄たちを描いてきましたが、ここ数年は「漢」の時代に焦点を当ててその英雄たちの姿を描いてきました。一つの王朝が倒れ、新しい国が生まれるときに、そこには必ず英雄が現れます。王朝が倒れるときには、腐った王権に反旗を翻す反乱が全土に広がっていきます、

  全国を統一して王朝を建てた秦は、始皇帝が亡くなるとすぐに混乱し、陳勝・呉広の乱が勃発します。乱は全国に及び、その混乱に乗じて西楚王を名乗った項羽が反乱を起こします。陳勝・呉広の乱は秦の将軍、章邯によって鎮圧されますが、章邯は項羽に敗れ、項羽はいよいよ秦に攻め入ります。ここで項羽軍から離脱し、反旗を翻したのは劉邦でした。

  項羽と劉邦の闘いは、楚漢戦争とも呼ばれ、紀元前209年に勃発した陳勝・呉広の乱から数えて6年にわたって中国全土の闘いが続いたのです。そして、最後に漢王朝を建てたのは劉邦でした。時に紀元前202年、劉邦は高祖として漢王朝を開いたのです。

  以前にブログでも紹介した宮城谷さんの「劉邦」は、司馬遼太郎さんの「項羽と劉邦」とは異なる史観で見事な小説世界を我々に味合わせてくれました。

  宮城谷さんは、「劉邦」を執筆する以前、劉邦の前漢の後に後漢の祖となる光武帝を主人公とする小説を上梓しています。小説の名は、「草原の風」。2011年の作品です。劉邦が建国した漢は約200年続きましたが、劉秀が再統一を果たした後漢も約200年続きました。漢王朝は約400年続いたわけですから劉邦と劉秀の築いた礎は英雄の所作と言ってもよいと思います。

  ちなみに単独王朝では7世紀に始まった唐は289年続き、最長の王朝と考えられます。

  さて、宮城谷さんの「漢」をめぐる物語は、どうやら「三国志」に端を発しているようです。というのも宮城谷三国志は、「三国志演義」とは異なり、史書である三国志を基本としており、その始まりは後漢の退廃からはじまっているからです。「前漢」から続く「漢王朝」は、三国志の「魏」によって最後の王が廃されて「漢」は滅亡します。

  宮城谷さんが「草原の風」を描こうと考えた動機は「三国志」にあったのではないでしょうか。後漢の最後を描いた宮城谷さんには、その始まりである劉秀(光武帝)を描くことが必然と感じられたに違いありません。そして、後漢の始まりを描くうちに劉秀の祖である劉邦を描くことが必然だと感じたのだと思います。

【光武帝の武を担った呉漢の物語】

  宮城谷さんの最新作「呉漢」を本屋さんで見つけた時には小躍りしました。その帯には、次の文字が刻まれています。「作家生活30周年記念 光武帝・劉秀が行った中国全土統一、後漢建国事業。天下の平定と、光武帝のためにすべてを捧げた武将の闘いを描く。」

  すでに「草原の風」で光武帝の天下統一を描いた宮城谷さんが、いったいどのような視点で光武帝の将軍であった呉漢という人物を描いていくのか、興味が尽きません。

  最後の行を読み終えての感想は、宮城谷さんの小説に終わりはない、という感慨でした。

  司馬遼太郎さんから歴史作家のバトンを引き継いだと言われる宮城谷さんですが、司馬さんが1987年の「韃靼疾風録」以降、64歳で小説を卒業し、以後はもっぱらエッセイでその史観を語ったこととは異なり、70歳を超えてなお、旺盛に小説を描き続けています。もちろん、司馬さんはもともとジャーナリストであり、そこから小説家になったという経歴の違いもありますが、はじめから小説家としてスタートした宮城谷さんが、今もなお尽きずに物語を語り続けてくれていることにうれしさを感じるのは私だけでしょうか。

  今回の「後漢」は、宮城谷さんらしく、登場人物や時代の背景をしっかりとした史観で支えつつも小作農家出身の後漢がどのようにして光武帝の右腕として王朝の軍事部門を司る大司馬まで登りつめたのか、をあますことなく描きだしています。

  それにしても今や宮城谷さんの物語は名人の域に達しています。

  その物語は、人と人の出会いと時と、そして人とのつながりを語ることによって次々とワンダーが深まっていき、我々はその世界へとのめりこんでいくのです。

  今回、物語のはじまりは小作農の次男である呉漢が、自作農では食べていけず出稼ぎで農地を耕す仕事をしている場面です。呉漢は、無口で黙々と仕事をこなすどこにでもいる、雇われ農民でした。しかし、自然からの賜りものである土地に真摯に向き合い、まじめに仕事をこなしていました。そんな呉漢に声をかけてきた人物がいます。潘臨と名乗った男は、まじめに働く呉漢に目を止め、夜になったら話をしたいと声をかけました。

  もちろん、呉漢には初めてあった男に心を開くような余裕はありません。そのこぎれいな男につっけんどんな態度をしめします。しかし、夜、呉漢を月が照らす外へと誘い、男はこんな言葉を告げたのです。

「農場で働いている者の中で、あなただけが天に背をむけつづけていた。それほど休まずに働いていたともいえますが、あなたには希望がまったくない、とも見えました。たまには天を仰ぐべきです。といっても、あなたはそうしないでしょうから、それならそれで、地をうがつほどみつめることです。ぼんやりながめていてはいけません。人が念(おも)う力とは小石を黄金に変えるのです。」

  この言葉が、その後呉漢の生涯の道しるべとなります。

  このときに呉漢が働いていた農地の地主は、郡の太守を勤めている彭宏です。潘臨は、その息子である彭寵の学友でした。潘臨は、学友の将来のためにその農地で働く者の中に彭寵を助けるような人材がいないか、探していたのです。そこで、目を付けたのが呉漢の懸命で真摯な働きぶりだったのです。

  呉漢は、この後、隣の州で募集している割の良い墾拓の仕事に応募しますが、そこで、二人の男と出会うことになります。ひとりは、その開墾仕事の裏側を知る郵解という男。彼は今回の仕事が新たな王朝・新を建てる王莽からの仕事だと語ります。そして、もう一人が祇登(きとう)と名乗る胡散臭い男。祇登は、呉漢に今回の開墾話のさらなる背景と王莽の世界を語りかけてきます。

  さて、宮城谷さんのファンならすぐにピンとくるはずです。

  そうです、この彭寵、郵解、祇登はこれから17年後の光武帝即位、そして天下統一まで呉漢とともにこの歴史物語におおきくかかわっていくことになるのです。

  呉漢の徳とは、土地を知ること、そして常に周りから知を学び取ること、にあります。そして、土を知ることは、終生仕えることになる光武帝との共通の「徳」となるのです。

  この物語は、宮城谷中国の中でも一段と練達な語りが際立ちます。皆さんもぜひお読みください。やはり、物語は人が創るものだと、改めて感動すること請け合いです。

  まだまだコロナ禍は続きそうです。手洗い、消毒、3密の回避に励みましょう。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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映画はドキュメンタリーが面白い!

こんばんは。

  新型コロナウィルスは、我々人類に様々な試練を与えています。

  元官房長官であった菅さんが総理大臣となった要因にも、新型ウィルス感染症への対応とそのため冷え込んでしまった経済活動再開の両立という課題が横たわっていることが挙げられます。近年の政治家は2世、3世が幅を利かせており、本当に我々国民のことを身に染みて感じている政治家はなかなか表舞台に出てくることがありません。

  そうした意味で、秋田の農家出身で多くの苦労と努力の末に総理大臣となった菅氏の政策には大いに期待が持てます。一国のトップとしてその外交手腕に不安を感じることはありますが、安倍政権の前は、半年ごとに総理大臣が変わってきたわけですから、それに比べれば7年間安倍政権の外交姿勢を経験してきた菅さんならば、外交も無難にこなすに違いありません。

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(菅 新内閣発足 asahi.com)

  今、一番心配なのは財政問題です。消費税を10%としてもなお財政再建はめどがつかない中、経済活動の維持を最大のテーマとしてコロナ対策のために何兆円もの借金で日本を救おうとしています。もちろん、優先すべきはコロナ対策と経済の再生ですが、そこに費やす税金がすべて借金というのはいかがなものかと思います。

  あまつさえ、来年度の概算要求では、これまで予算を抑えるために先送りされてきた政策を、コロナ対策の名のもとにここぞとばかりラベルを張り替えて提出する各省庁の姿勢には、本来日本の未来を憂うべき政治家と官僚のメンタリティがいかに低いかを物語っている気がしてなりません。

  コロナ対策はコロナ対策、財政規律は財政規律と、「省益を忘れ、国益を思え。」という故後藤田さんの言葉は今こそ思い出されるべきだと強く思います。

  さて、思わず話が政治の話に行ってしまいましたが、コロナ対策と言えば、「映画」も最も大きな被害を受けた業界のひとつです。考えてみれば、ライブの最後も2月でしたが、映画館に最後に足を運んだのも2月でした。

  そして、先月、半年ぶりに映画館に足を運んだのです。久しぶりの映画は本当に面白かった。

【ハリウッド映画の音響はこうして生まれた】

  先月ですが、例の王様のブランチの映画コーナーを見ているとシアター映画の特集をやっていました。そこで紹介されていたのが、「ようこそ映画音響の世界へ」という一作でした。その紹介では、「スター・ウォーズ」のチューバッカやR22の声?や「トップ・ガン」のジェット機音がどのように創られたのか、クイズ形式で語られていましたが、その音響がライオンやサルの声を多重録音したものだったというのは驚きでした。

  たしかに近年のハリウッド映画では、あらゆる映画に音響が大活躍しています。「スター・ウォーズ」フリークとしては、映画の音響の秘密を描いたこの作品を見逃すわけにはいきません。上映館を探すと、勤務先である新宿のシネマカリテで上映していました。(今日現在、まだ上映中です。)土日は混むようなので、仕事を休んで見に行くことにしました。

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(「ようこそ映画音響の世界へ」ポスター)

(映画情報)

・作品名:「ようこそ映画音響の世界へ」(2019年米・94分)

 (原題:「Making Waves」)

・スタッフ  監督:ミッジ・スコティン

        脚本:ボベット・バスター

・キャスト  ウォルター・マーチ ベン・ハート

       ゲイリー・ライドストローム

       ジョージ・ルーカス アン・リー

       スティーブン・スピルバーグ

       デヴィッド・リンチ 

(以下、ネタばれありです。)

  さて、映画はその歴史から語られていきます。音の録音は発明王エジソンの手で発明されましたが、エジソンの夢は、人が動く映像に同時に音をつけることでした。しかし、その技術は実用化されることなく、映画は音声のないトーキーの時代からはじまったのです。劇場では、オーケストラや役者、弁士などを使って映画の上映時に生音をつけることによって映画を楽しんでいたのです。そこに革命が起きたのは、フィルムの横に音の波を記録するサウンドトラックの発明でした。

  映画に音が組み込まれて以来、音響がどのような歴史をだどってきたのか。

  映画は、その音響に革命を起こしてきた人々へのインタビューで。めくるめくような映画の音響世界を我々に語ってくれるのです。

  映画の音響は、「VOICE(声)」「SOUND EFFECT(効果音)」「MUSIC(音楽)」と大きく3つのジャンルに分かれますが、それぞれの分野でおきた革命的なできごとが語られていきます。

  本作で革命を起こした映画として語られる作品を挙げてみると、特撮映画の草分け「キングコング」(1933年)、オーソン・ウェルズの名作「市民ケーン」(1941年)、ヒッチコック監督の名作「鳥」(1963年)、コッポラ監督のアカデミー賞受賞作「ゴッドファーザー」(1972年)、バーブラ・ストライザンド主演の名作「スター誕生」(1976年)、ジョージ・ルーカスの大ヒット作「スター・ウォーズ」(1977年)、当時いち早くベトナム戦争を題材とした「地獄の黙示録」(1979年)などなど、197年代までの歴史はまさに音響革命が次々と起きた奇跡の時代でした。

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(映画「地獄の黙示録」ポスター)

【コッポラとルーカスが作った会社?】

  それぞれのエピソードがワンダーで、本当に面白いのですが、何と言っても最も盛り上がったのはコッポラ、ルーカス、スピルバーグによる「音」へのこだわりです。映画の音響について、3度のアカデミー賞を受賞した巨匠アン・リー監督は、「映画は映像と音に2つでできている。」と語っていますが、映画の中で、ルーカスは、「音は感情を伝える。映画体験の半分は音だ。」と語り、スピルバーグは、「音が瞬間を永遠にする。」と語っています。

  実は、この映画で初めて知った事実があります。それは、コップラとルーカスが映画に対する夢を実現するために映画スタジオを設立していたという事実です。その会社の名は、アメリカン・ゾエトロープ社と言います。若きコッポラとルーカスは、自らの夢をかなえる映画制作の場としてこの会社を設立しました。しかし、会社はルーカスのデビュー作品であるあまりに実験的な作品がヒットせず、破産の危機に見舞われます。しかい、設立にかかわったメンバーの中に「音響部門」を手掛けるウォルター・マーチがいたのです。

  彼が手掛けた作品がコッポラの大ヒット作「地獄の黙示録」でした。映画では、「地獄の黙示録」の音響がどのように作られていたのか、マーチ自らがぁ立ってくれており、ここが映画音響のひとつの分岐点となりました。現在では当たり前のように使われている5.1サラウンドシステムが初めて採用されたのもこの作品だったのです。この作品のおかげで、ゾエトロープ社は破産を免れたと語られています。

  ルーカスは「スター・ウォーズ」を企画したときに音響は、ウォルター・マーチを希望し指名しました。しかし、彼はコッポラ作品を一手に任されており、他の作品を引き受ける時間がありませんでした。そして、マーチは一人のプロフェッショナルな若者をルーカスに紹介します。それが、のちにこの作品でアカデミー賞を受賞する音響デザイナーのベン・バートです。

  映画では、ルーカスとバートが「スター・ウォーズ」の音響をどのように創っていったか、インタビューで明らかにしていきます。

  ルーカスが音響のためにバートをスカウトしたのは、映画の撮影が始まる1年も前のことでした。それほどルーカスは音響の重要さを認識していたのです。確かに「スター・ウォーズ」では、印象に残る音響が数え切れないほど盛り込まれています。ライトセーバーの震えるような電子音、宇宙人たちの話声、ワープの時のエンジン音、R22の機械音、そしてチューバッカの雄たけび、ありとあらゆる音響が「スター・ウォーズ」の世界を彩っているのです。

  そうした数々の音響がいかに作られたか、ルーカスとバートは我々に語ってくれるのです。

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(ルーカス「映画音響」を語る screenonline.jp)

  一つご紹介すると、バートは当時チューバッカの声を作るのに世界中のあらゆる動物たちの声を録音し続けたそうです。どの声を聴いてもルーカスとバートのもつチューバッカのイメージには重なりません。録音の泰美を続けること約1年、バートはその声と出会います。あのチューイの声は・・・。それは映画を見てのお楽しみです。

【音響革命は続いていく】

  新たな音響の世界へと足を踏み入れたハリウッド。

  映画の後半は、1980年代から現代までの「声」「効果音」「音楽」におけるめくるめくような革命の数々を、それを手掛けた監督や音響デザイナーたちが語っていきます。

  ここで新たな音響デザイナーとして登場するのがルーカスフィルムで働いていたゲイリー・ライドストロームです。彼が手掛けた映画を聴けばその音響のすばらしさに驚くに違いありません。「ターミネーター」「ターミネーター2」「バックドラフト」「ジュラシック・パーク」「タイタニック」「プライベート・ライアン」「トイ・ストーリー」「ファイティング・ニモ」などなど、とにかく参画した映画は枚挙にいとまがありません。

  映画のオープニングで語られていたのは、「プライベート・ライアン」で描かれたノルマンディー上陸作戦の戦場を経験した主人公の映像とそこで使われた音響効果です。その音響の使い方を監督であるスピルバーグが語ってくれます。それは、まるで観客が線上にいるような錯覚を覚える銃弾、砲撃、爆弾、機関銃の音、音、音の嵐です。それは、決して音の大きさだけではなく、一つ一つの音が、独立して鮮明に聞こえること、映像とともに音響がサラウンドし、流れていくことへのワンダーなのです。

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(スピルバーグ「映画音響」を語る benger.jp)

  ライドストロームは、「ターミネーター2」「ジュラシック・パーク」に続いてこの「プライベート・ライアン」で3度目のアカデミー賞のダブル受賞(音響効果賞・録音賞)に輝いているのです。映画では、彼が少年のころからいかにして音響に興味を持ち、あらゆる音の挑戦に身を投じてきたかが語られていきます。

  さらに紹介される音響の世界は、「マトリックス」(1999年)、「パイレーツ・オブ・カリビアン」(2003)、「インセプション」(2010年)、「アルゴ」(2012年)、「ワンダー・ウーマン」(2017年)、「ブラック・パンサー」(2018年)、「ROMA/ローマ」(2018年)と現代まで続く音響の革命を語り続けてくれます。


  この映画は、これまで我々が感動してきた映画の中で音響が創りだしてきた、映像と双璧を成す音が果たしてきた役割を教えてくれるのです。

  本当に面白いドキュメンタリー作品でした。まだ見ていないあなた。映画に興味があるのならぜひご覧ください。これから味わう映画の感動が倍増するに違いありません。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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辻惟雄 よみがえる天才 伊藤若冲

こんばんは。

  美術史家の辻惟雄(のぶお)さんが1935年生まれと知って驚きました。

  時のたつのは早いもので、「生誕300年記念 若冲」と題された展覧会を東京都美術館で鑑賞し、そのあまりにも精緻な絵画に心から感動したのは2016年のことでした。

  辻惟雄さんは、そのときの図録の巻頭に「『若冲』という不思議な現象」という一文を寄せて、その人生の軌跡と主要な作品の美術的な意味を解説していました。当時すでに80歳を超えていらっしゃったわけです。

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(「若冲展」チラシ heritager.com)

  若冲の名は知っていましたが、その絵に初めて触れて、江戸時代にここまで緻密な色彩と現代的なデザインを描き印した画家が日本に存在していたこと自体が驚きでした。それよりも、その筆致のすばらしさと構図の斬新さに感動し、ことあるごとに図録を見返してはその感動を思い起こしていたのです。

  先日、本屋さんを歩いていると新書の棚に「よみがえる天才1 伊藤若冲」との題名が目に入りました。そして、著者の名前を見ると、図録の文章を寄せていた辻惟雄さんではありませんか。何はともあれその本を持ってカウンターに急いだのはいうまでもありません。

「よみがえる天才1 伊藤若冲」

(辻惟雄著 ちくまプリマー新書 2020年)

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(辻 惟雄著「伊藤若冲」 amazon.co.jp)

【伊藤若冲とは何者か】

  2016年の展覧会の目玉は、3幅の「釈迦三尊像」と30幅の「動植綵絵(どうしょくさいえ)」でした。

  東京と美術案での壮観な展示は、今でも忘れることができません。円形の会場には、360度ガラスショーケースがしつらえられており、その中央に「釈迦三尊像」が配置されてその両側をはるかに囲んで「動植綵絵」30幅が囲んでいるのです。まるでその空間は異次元のようで、若冲が心血を注ぎ描きあげた動植物の数々が我々の目に飛び込んでくる趣向となっているのです。

  その迫力はすさまじく、この絵が200年以上も前に描かれたという事実に衝撃を受けました。

  その極彩色の中にも繊細な変化を秘めた彩の万華鏡のような色彩。そして、動植物の造形のすばらしさ。そして、縦140cm、横80cmの大きさから大きくはみ出るような画像は、まるで現代アートのデザインのような斬新さにあふれていたのです。

  伊藤若冲は、とても長生きでした。若冲の30年後に生まれて江戸でその浮世絵の才能を開花させた葛飾北斎も88歳という長寿の天才でしたが、生涯を京都で過ごした若冲も亡くなったのは85歳の時でした。展覧会では、30代で描いた美しい鳳凰図や後の「群鶏図」を思わせる「雪中雄鶏図」や「「旭日鳳凰図」をはじめ、初期の絵画から墨絵や版画、フラスコ画など次々と新たな技法に挑んだ晩年の傑作まで傑作が続き、めくるめく若冲の世界を堪能することができました。

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(「動植綵絵 群鶏図」 wikipediaより)

  さて、展覧会では実際に若冲の作品を前にただただ感動するばかりでしたが、若冲はどのようにして世界にも稀に見る写実性の高い彩色日あふれる絵を描いたのか、それを系統だって知りたくてこの本を手に取ったのです。

  この本の前書きは、まるで自らの絵の未来を予言するような若冲の言葉で幕を開けます。

  それは若冲の元を訪れた川井桂山という医者によって記録された言葉です。「私は理解されるまで1000年の時を待つ。」それは、どんな気持ちから出た言葉なのでしょうか。

  若冲は、代表作「動植綵絵」を半ばまで進めたところでこの言葉を語ったのですが、それはまるで自らを予言するような言葉だったと著者は語ります。なぜなら、生前には世にその名声がとどろいていた若冲は、明治以降、日本ではまったく取り上げられることはなくほとんど無名の画家になったというのです。そして、戦後、若冲を見出したのは日本人ではなく、アメリカのエンジニアであったジョー・プライスというアメリカ人でした。

  展覧会にプライスコレクションと呼ばれる若冲の名画が惜しげもなく出展されていました。そうプライス氏は、若冲の絵を収集しましたが、決して個人で秘蔵するつもりはなく、逆に「里帰り展」や東日本大震災時には日本での若冲展を企画するなど、若冲の故郷を非常に愛してくれていたのです。辻さんは、若いころに日本の古美術商を回って若冲の絵を収集するプライスさんと出会っています。そして、若冲を通じてプライス氏と友情をはぐくみます。

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(プライスコレクション「紫陽花双鶏図」wikipedia)

  そのいきさつは、この本にもちゃんと記録されています。

  ところで、1000年を待つといった若冲ですが、その画は1000年待つことなく日本人に再発見されることになります。それは、21世紀になってからのことですが、若冲がこの予言を発してから250年後が現在です。若冲の予言は、思った以上に早く実現することになったのです。

【伊藤若冲の謎を解く】

  この本の著者は、半世紀にわたって若冲を研究してきた若冲の第一人者です。若冲の名前が埋もれていた時代に、「奇想の系譜」という著作の中でいち早く若冲の天才を取り上げ、20世紀末から21世紀にかけて様々な若冲の展覧会にもかかわり、若冲の絵画の魅力を我々に紹介してくれた美術史家です。

  この本で描かれる若冲にはいくつかの謎があります。

  ひとつは、その人生の全貌。そして、もうひとつは我々を引きつけて止まない若冲絵画に隠された謎です。

  辻氏は、その二つの謎を時代の背景、若冲85年の人生を追いながら、その時々の作品を紐解いていくことで2つの謎を並行して紐解いていきます。

  話は変わりますが、この5年ほど仕事で京都地区を担当しています。いつも仕事で寄る事務所は南北に走る烏丸通に面しています。すぐ南には東西に走る四条通があり、まさに京都の繁華街と言ってもよい場所にあります。この四条通には、大丸デパートがありますがその北側の路地を東に進んでいくと、そこに昔の面影を残す錦市場があります。

  2016年、若冲生誕300年を迎えた年にたまたまお昼ご飯を食べに烏丸方向へと向かったところ、地元職員が「この先に錦市場があるから見に行きましょう。」と誘ってくれました。四条通の路地を歩いていくと正面に「錦市場」との看板を掲げたアーケードが見えてきます。

  錦通りは、雑然としたまさに市場ですが、乾物屋あり、八百屋あり、魚屋あり、雑貨屋あり、味噌屋あり、喫茶店ありと、とにかく騒然としていて、外国人や観光客でごった返していました。驚いたことに、そのアーケードの真下に、「若冲生誕の地」という鶏が描かれた独立看板が立っているではありませんか。それもそのはず、その入り口の角は若冲が生まれた青物問屋「桝源」があった場所だったのです。

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(錦市場入口 若冲生誕の表示塔)

  そうです、今や観光地として常ににぎわっている錦市場。こここそが若冲由来の街だったのです。

  青物問屋とは、野菜を作る農家と庶民に野菜を売る八百屋さんをつなぐ問屋です。若冲は、1716年に「桝源」の四代目として生まれました。「桝源」は、本業としても栄えていて、本業の他にも不動産の賃貸業などで比較的裕福だったそうです。おそらく、少年のころから若冲は絵画に興味を持ち、絵画が大好きであったに違いありません。

  ところが、若冲が23歳のとき、父親である3代目伊藤源左衛門が42歳で亡くなります。長男であった若冲は、4代目伊藤源左衛門として跡を継ぐことになったのです。

  若冲と言えば、その師とも友人とも語られる同世代の禅僧である大典顕常の名が必ず登場します。大典は、歴史ある相国寺で修業し、そこに庵をかまえていましたが、若冲の「動植綵絵」は、「釈迦三尊像」とともに相国寺に寄進された絵画だったのです。

  その大典の残した文章によれば、若冲は、「勉強が嫌いで、字も下手で、世の中に技芸はいろいろあるけれど何一つ身につけることがなかった。」と記されています。それでよく青物問屋の主が勤まったなと思いますが、考えてみれば、今もこんなサラリーマンはざらにいます。若冲のすごさは、別の文章に記されています。曰く、「丹青に沈潜すること三十年一日のごときなり。」つまり、絵を熱心に描いて30年になる、というのです。

  若冲の絵画好きは、「好き」の域をはるかに超えていたのです。

  若冲の絵を見ると、たぐいまれなその表現と細部にまでこだわる緻密さに、とても常人ではないと思われますが、常識がなければ青物問屋の主人はとうてい勤まりません。若冲は確かに天才に間違いありませんが、決して我々と異なる奇人ではなかったのです。

  若冲は17年間「桝源」を切り盛りした後、40歳にして家督を弟に譲り、念願の絵画専念の生活に入ることになります。人の寿命が50年と言われた時代を考えれば、今のサラリーマンが60歳で定年となり、自分のやりたいことに専念するところと変わりがないと思うと、この天才にわずかに親近感を覚えます。

  さて、実は若冲には謎の4年間が存在します。

  「釈迦三尊像」と「動植綵絵」を完成させ、相国寺に寄進した55歳から、その絵筆がピタリと止んでいるのです。60歳からは再び名画の数々を世に送っているので、いったいこの期間何があったのか、なぜ筆を折っていたのかが分からなかったのです。しかし、20世紀の末、ある文章が発見されたことにより、この4年間の空白の謎が解き明かされました。その真実はこの本でお楽しみください。

  若冲への親しみがより深まること間違いなしです。

  さて、いよいよ若冲の素晴らしい絵画群の謎について。この本ではその奥深い謎をあらゆる角度から問い詰めていくのですが、その謎解きの数々はぜひこの本を読んで確かめてみて下さい。

  ひとつだけお話しすると、それは「裏色彩」の謎です。

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(裏色彩の波「群魚図」wikipediaより)

  「動植綵絵」はある事情で相国寺から宮内庁へと献上されましたが、宮内庁では1999年から5年間をかけて大規模な解体修復が行われ、その際に絵の裏面の調査研究が行われました。その中で判明したのは、作品に合わせて数多くの部分で膨大な裏色彩による色絵付けを施していたことでした。例えば、空や地面、波などの背景を描く中で、若冲は赤や青や緑、黄色などの色を裏色彩によって塗り分けることで、淡い濃淡を表現していたことが分かったのです。

  最も裏色彩が効果的に使われていたのは、「白」でした。「動植綵絵」では、「老松白鳳図」や「牡丹小禽図」など鮮やかな城に目を見張る作品が多くあります。「白鳳図」では真っ白な翼に黄金色の色彩がまぶされており、その輝きに目を見張ります。その輝きは裏側から黄土を塗り、表の白い色の厚さを変えることにより、黄金が透けて見えるという技法が使われていたのです。

  若冲は、その絵画において高度な技法を自家薬籠のものとして、その絵画世界を作り上げていたのです。それ以外にも、自らの絵画にすべてを注ぎ込んだ若冲の絵画の謎は、この本の中で次々と解き明かされていくことになるのです。


  この本を読んでいる間、まるで若冲展を再び鑑賞している気持ちになり、時間を忘れてそのワンダーに引き込まれました。

  皆さんもぜひ「若冲」の世界を味わってみて下さい。日本人に生まれた幸せを味わえること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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明日へのアンサンブルと伝説の名指揮者たち

こんばんは。

  28日金曜日、安倍総理大臣の辞任会見には驚きました。

  第一次内閣の時にも同じ病で辞任に至りましたが、憲政史上最も長い在位を記録した総理大臣の辞任。来年の9月まで自民党総裁の任期を残しての辞任には、非常に悔しい想いがあるものと思います。それまで半年ごとに交代し、世界中からあきれられていた日本の政治でしたが、久しぶりに腰を据えて日本の政治を行った功績は大変大きなものがあったと敬意を表するばかりです。

  個人的には、やはり70年余り政権の座にあった自民党の人材の厚さに野党はかなわないのかな、と思いつつ、日本の未来に明るい指針を与える総理大臣が誕生することを切に願っています。それには、まず選挙の投票率を80%程度にすることが国民の責務だと痛感します。

  ところで、今年の223日、サックスフォン四重奏のクワチュオール・ザイールと日本の女性サックス四重奏のルミエ・サックスフォンカルテットの素晴らしい8重奏を味わって以来、予約したすべてのコンサートとライブがキャンセルとなりました。思い出すほどに無念です。

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(クワチュオール・ザイールコンサート チラシ)

  新型コロナウィルスの猛威を考えれば当たり前なのですが、さすがに東京JAZZをはじめ楽しみにしていたライブがすべてなくなってしまうと悲しくなります。人がその心を表現する演奏を味わうのは、歌にせよ楽器にせよ、奏でる人と聞く人のコラボレーションに他なりません。奏でる人のムーブメントが聞く人に語りかけ、聞く人がそれを受け止めて自らのムーブメントとして感動する。そして、演奏が終わった後にはその感動を大きな拍手と歓声で答えるのです。

  確かにチケット代はキャンセルによって帰ってくるわけですが、お金ではこの心の穴を埋めることはできません。

  一日も早く音楽ライブが再開することを願う中で、先日心を動かされる音楽番組を目にしました。

【孤独と明日へのアンサンブル】

  その番組は、NHKで放送された「明日へのアンサンブル」と題した音楽番組でした。

  緊急事態宣言のさなか、日本フィルを始めとして日本中の交響楽団の演奏者は人前での演奏を封じられ、自粛する中で自宅で練習を重ねる以外に演奏の場を持つことがありませんでした。いったい彼らは何を思い、何を糧にして自粛期間を過ごしたのでしょうか。

  NHKでは、首都圏の名だたる交響楽団の団員たちが自宅で演奏する様子を2度にわたって放送しました。その番組が「孤独のアンサンブル」と題された番組です。出演者は名だたるプロフェッショナルたちです。楽団は、NHK交響楽団をはじめとして、東京都交響楽団、神奈川フィルハーモニー管弦楽団。日本フィルハーモニー管弦楽団などのコンサートマスターや首席演奏者たちがリモート演奏を聞かせてくれました。

  2回にわたった番組では、ヴァイオリン、チェロ、ホルン、トランペット、フルート、オーボエ、クラリネット、など管弦楽を構成する一流のプレイヤーたちがソロで演奏する楽曲に、ひとりひとりの様々な思いが込められており、どの演奏からもあふれる心の旋律が響いていました。

  そして、自粛期間中に一人一人で演奏してきた孤独のプレイヤーたちが、緊急事態宣言の解除を受けて、感染対策を万全に取りながら一堂に会することとなったのです。その番組名は「明日へのアンサンブル」。アンサンブルを構成するのは、「孤独のアンサンブル」を彩った13名の管弦楽奏者です。

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(13人の演奏者が集結 NHKondemanndoより)

  ヴァイオリンでは、N響の第一コンサートマスターの篠崎さん、神奈川フィルの首席ソロ・コンサートマスターの石田さん、東京都響のソロ・コンサートマスターの矢部さん。チェロでは日本フィルから菊池さん。フルートは、東京フィルの神田さんとN響の梶川さん(お二人はご夫婦です。)、ファゴットは東京フィルの石井さん、ホルンは読売響の日橋さん、トランペットはN響の長谷川さん、などなど、その一流のメンバーに驚嘆します。

  「明日へのアンサンブル」は、他のメンバーと音と息を合わせながら演奏ができない長い孤独な時間の果てにたどりついたアンサンブルの世界です。番組は、演奏家たちそれぞれの対談、そして、「孤独のアンサンブル」で演奏したソロの想いを紹介し、続けてアンサンブルでの演奏が奏でられます。舞台の上で13名が和になって一つの曲を演奏する。そして、その演奏の間には、人々が三々五々に歩く街や公園の風景がバックに流れていくのです。

  例えば、エルガーの「威風堂々」。バッティングセンターで打撃に興じる演奏家が映し出されます。彼は野球の大ファン。しかし、コロナ禍でプロ野球の開幕は延期され、ファンとして観客で応援することがかないません。選手や監督と一体となって野球に熱狂する。そんな夢を乗せて、黙々と「威風堂々」を練習するホルン奏者。その紹介を受けて13人で一体となって演奏する「威風堂々」が流れていきます。まさにその演奏が彼の想いを我々に届けてくれるのです。

  クラリネットの吉野さんは、「孤独のアンサンブル」でくるみ割り人形から「花のワルツ」を演奏しました。くるみ割り人形は、バレエ音楽ですが、その演奏はオーケストラでなされます。オーケストラで主旋律を奏でるのはヴァイオリンやホルンです。クラリネットも重要な役割を担いアンサンブルに欠かすことはできませんが、オーケストラではけっして主役ではありません。

  「花のワルツ」は、チャイコフスキーの魅惑的な主旋律が様々な楽器で次々と引き継がれ、変奏されていき、すべての楽器がひとつになってその世界を創造していきます。吉野さんは、クラリネットで他の楽器が奏でる主旋律を変奏しながら奏で、たった一人で「アンサンブルの音を再現したのです。その演奏には、一日も早く皆で演奏がしたいとの思いが詰まっていたのです。

  アンサンブル演奏の当日、この演奏をテレビで見ていた他のメンバーが、いよいよ「花のワルツ」をみんなで演奏できることとなったことを心から楽しみにしている、と声をかけて吉野さんの笑顔を誘っていました。13人が心を一つに合わせた「花のワルツ」は心から感動を覚える見事な演奏でした。

 その他にもフルートの神田さん、梶川さんが変奏する「ケ・セラ・セラ」やエンリオ・モリコーネの名曲「ニュー・シネマ・パラダイス」、3人のコンサートマスターがトリオで奏でる「エニグマ変奏曲」など、それぞれの演奏家の思いがこもったみごとなアンサンブルが披露されました。そして、最後の曲は、オーケストラで壮大に奏でられる「展覧会の絵」の終曲「キエフの大門」です。13人の心からアンサンブルを楽しむ思いは決してオーケストラに勝るとも劣らず、我々の心に勇気と癒しを運んでくれたのです。

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(コンサートマスター3人が集う spice.eplus.jp)

  インタビューの中で、「自粛期間中一人で演奏しているといろいろな思いが湧き出ます。音楽よりもおにぎりひとつの方が大切なのかもしれない、とか、でもこの音楽を心から待っていてくれる人もいるとも思えます。」とある演奏家が語っていましたが、音楽は間違いなくコロナ禍で委縮してしまった我々の心を解きほぐして、明日に向かう心を取り戻してくれました。

20世紀を彩った名指揮者たち】

  さて、「明日へのアンサンブル」が放送された前の週、毎週日曜日に放送されるEテレの「クラシック音楽館」をご覧になった方はいるでしょうか。

  驚いたことに番組は、ドイツの映像プロダクションの保管庫から始まりました。そのプロダクションでは、昔の貴重な35mmフィルムをマイナス4℃で冷凍保管しているというのです。どうやらNHKが今力を入れている「8K」放送の目玉とする目的で、この貴重なコレクションから「伝説の名演奏」を借り出してきたようなのです。そのフィルムには驚きの映像が保存されていました。

  皆さんもご存知のまさに伝説の指揮者たちの演奏です。

  永くベルリンフィルの首席指揮者を務め「クラシックの帝王」とまで称されたヘルベルト・フォン・カラヤン。ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」を作曲し、世界を股に掛けた指揮者レナード・バーンスタイン。最後の巨匠と称されウィーンフィルを率いて来日を果たしたカール・ベーム。はたまた、完全主義者の名をほしいままにし、その演奏回数の少なさから「伝説の指揮者」と呼ばれたカルロス・クライバー。

  この名前を聴いただけで、その映像と演奏に限りない期待で胸がいっぱいになりませんか。

  いすれも1970年から1991年までの脂がのっていたころの演奏です。カラヤンが指揮するのはチャイコフスキーの交響曲第4番。残念ながらEテレでは第一楽章だけでしたが、その華麗な音は「ベルリンフィルの帝王」の名にふさわしい華麗な演奏でした。番組ではカラヤンの最後の弟子となった指揮者の高関健さんが解説をしてくれ、その映像に対するカラヤンのこだわりが半端ないことを語ってくれワンダーでした。

  さて、次に登場するのはバーンスタインのベートーベン交響曲第9番合唱付です。これは感動しました。映像は1979年にウィーンフィルを指揮した演奏ですが、そのエネルギッシュな姿は、ウィーンフィルとウィーン国立歌劇合唱団を一体にまとめあげ「喜びの歌」を歌い上げる素晴らしい演奏です。残念ながら第四楽章のみの放送でしたが、最も脂がのっていたころのバーンスタインのすごみがそのえんそうに凝縮されていて、終わった瞬間に思わず拍手してしまいました。ブラヴォー!

  バーンスタインは1989年にベルリンの壁が崩壊したときに、その「自由」を記念してベルリンで特別公演を行い、その際に第九を演奏しています。第九の歌詞である“Freude(歓喜)”を“Freiheit(自由)”に変えて歌い上げたとのエピソードでも知られていますが、このとき、バーンスタインはゆっくりとしたテンポで壮大な第九として表現しており、その演奏は78分に及びました。このときの演奏はその場にいればその荘厳さに心を打たれると思うのですが、CDで聞くとそのテンポの遅さが気になってしまいます。

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(第九を振るバーンスタイン mainichi.com)

  しかし、今回発見された1979年の映像では、そのテンポの良さは明らかです。確かに演奏時間も70分と8分も短く、その歯切れの良さと緩急の妙が本当に素晴らしく、思わず演奏に引き込まれてしまいました。

  ベームの指揮は、巨匠ならではの安定した美しさが際立ちます。演奏されたモーツアルトの40番は彼のオハコですが、その解説がワンダーでした。ベームはその飄々とし指揮ぶりで有名なのですが、が演奏する楽団員にとっては油断できないのだそうです。そのわけは、鋭いひと睨みです。ベームは淡々と指揮を続ける最中に、ここぞというポイントでは要となる演奏す兄するどいひと睨みを聴かせる、というのです。番組ではその証拠とばかりにベームがひと睨みする瞬間を映像で確認していました。確かにストップモーションの瞬間、彼は楽団員をひと睨みしています。

  このひと睨みは、「そうそうちゃんと演奏がまとまるだろう。」と言っているというのですが、確かに演奏中にひと睨みを浴びた演奏者は、おもわず背筋が伸びでベストパフォーマンスを演じるに違いありません。なるほど納得でした。

  今回のハイライトは、何と言ってもカルロス・クライバーのブラームスの交響曲第2番の全曲演奏でした。カルロス・クライバ-と言えば、ベートーベンの交響曲第7番の演奏は伝説となっており、そのしなやかでタイトな名演は、7番と言えばクライバーと言われるほど完璧奏です。今回のブラームスは1991年の映像ですが、驚きました。

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(伝説の指揮者クライバー wikipedeiaより)

  彼の演奏会はめったに開かれることがなく幻とまで呼ばれていましたが、その指揮ぶりを映像で見るのはこれが初めてでした。その姿には、「華麗で壮観」との言葉がピッタリです。指揮者は、先の未来を示している、とは先日チコちゃんが述べた言葉ですが、彼の示す未来は華やかです。その量腕の振りは鮮やかで、まるで指揮台のうえでダンスを演じているようにも見えます。その演奏たるや一部の隙もないほど一音一音に緊迫感があるのですが、映像では彼の指揮ぶりに目を奪われてしまいます。

  なるほど、完璧な音作りには完璧な演技も必要なのかと改めて感動しました。


  感染対策に自粛は欠かせませんが、素晴らしい音楽は我々に明るい未来と希望を提示してくれます。人数制限やソーシャルディスタンスなど、感染対策のスタンダードを確立して、一日も早くライブコンサートが日常として楽しめることを心から待ち望んでいます。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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倉谷滋 恐竜は怪獣へと進化したのか

こんばんは。

  今年のお盆はこれまでと違ったお盆になりました。

  夏休みと言えば、子供が小さい家庭では夏休み中の子供との交流が一大イベントになります。ところが今年は新型コロナ感染に伴う感染防止により学校が閉鎖される事態が相次ぎました。その影響で授業時間が足りなくなり、公立の小中学校では、のきなみ夏休み期間が短縮される事態に陥っています。

  神奈川県で小学校の教諭をしている息子がお盆休みに家にやってきて語るには、今年の夏休みは8/18/23までに短縮され、あまりゆっくりと休む暇はないそうです。あまつさえお隣の市では夏休みの終わりがさらに早い8/16ということでたった2週間しかありません。今時は働き方改革でサラリーマンでも2週間の夏休みは当たり前になっています。

  もちろん子供たちもガッカリですが、親の方もどのように子供と交流していくのか難しい年になっています。なぜなら新型ウィルス感染の拡大のために、せっかくの「GO TO トラベル」も集団での移動が制限され、高齢者への感染を考えると田舎のおじいちゃんやおばあちゃんに子供の顔を見せに行くことがはばかられ、旅行に行くにも感染防止を徹底する必要があります。子供も親もすっかり意気消沈してしまいます。

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(閑散とした那覇空港  琉球新報HPより)

  せっかくのお盆ですが、今年は皆さん自粛して、手洗い、うがい、マスクをつけて3密を避けて、住まいのある地域でお盆を過ごす方々でショッピングセンターが満ち溢れています。しかし、自粛が半年に及ぶとどうしても心が塞ぐことをさ避けることができません。

  こんなときこそ、心が最も揚がることを心に思い浮かべて、明るい気持ちを盛り上げましょう。

  さて、小学生から中学生にかけて、我々の世代で最もワクワクしたのは他でもない特撮画像を駆使して制作された怪獣たちの姿です。ゴジラ、モスラ、ラドン、キングギドラ、ガメラ、バルゴン、ギャオスなどの銀幕を彩った怪獣たちはもちろん、ガラモン、マンモスフラワー、カネゴンなどの「ウルトラQ」の怪獣たち、そして永遠のウルトラマンシリースの要となったバルタン星人、レッドキング、ゼットンなどのテレビで放映された怪獣たちです。

  お盆前に本屋さんの新書コーナーを眺めていると、帯広告に「シン・ゴジラの乱杭歯(らんぐいば)、その理由は、」という文字とともにシン・ゴジラの雄姿が写っているではありませんか。怪獣好きには目を離すことができませんでした。

  今週は、怪獣愛にあふれた形態進化生物学者の本を読んでいました。

「怪獣生物学入門」

(倉谷滋著 インターナショナル新書 2019年)

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(「怪獣生物学入門」amazon.co.jp)

【怪獣は何から進化したのか】

  恐竜と怪獣の関係は複雑です。

  「ゴジラ」は、もともと古代の恐竜が現代の水爆実験によって突然変異を起こした怪獣です。そこから考えると、怪獣を遡れば恐竜に行きつきそうに思えます。実際、小学生のころ、上野の国立科学博物館に行くのが大好きで、親も私の機嫌が悪かったり、甘えてうるさくねだったりしたときにはとりあえず国立科学博物館に連れていってくれました。

  博物館の入り口を入るとそこには恐竜の骨格が天井までそびえていました。現在、ブロントザウルスという恐竜は実在しなかったと言われていますが、当時は巨大な草食恐竜の代表格はブロントザウルスでした。凶悪な肉食恐竜の代表は言わずと知れたティラノザウルス。人気が高かったのは剣竜と呼ばれていたステゴザウルス。今のサイのように角を伸ばしていたトリケラトプスでした。

  この本でも語られていますが、近年の恐竜はあのころに比べると格段に進化しています。

  化石で見つかる恐竜が進化しているわけはないのですが、進化しているのは研究です。ゴジラはご存知の通り直立不動で日本の街に上陸し、我々の世界を蹂躙していきます。その行動は重厚で力強く、何物にも止めることはできずにゆっくりと前へと進んでいくのです。かつて、国立科学博物館で観たティラノザウルスの骨格は確かに直立していました。

  しかし、ジェラシックパークに登場するティラノザウルスは、直立していません。その超前かがみの姿はとてもゴジラの先祖とは思えません。さらに驚くのは、その脅威のスピードです。車に乗り全速力で逃げる主人公たち。時速80km以上で走る車にティラノザウルスは決して引けを取らないのです。恐竜研究は、この半世紀に大きく進化しました。

  今や恐竜の生き残りが現在の鳥類であることは科学的事実とされており、かのティラノザウルスは羽毛につつまれていたと考えられています。ゴジラの肌は黒くて岩の様であることが常識ですが、もしも1950年代に恐竜の実態が分かっていればゴジラは羽毛に包まれていたかもしれません。(放射能の影響で羽毛は抜け落ちていたかもしれませんが。)

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(再生細胞を持つミレニアムゴジラ amazon.co.jp)

  この本の著者は、現在理化学研究所で生物学のグループデレクターを勤めているそうですが、第一線で研修している生物学者が空想科学ドラマの怪獣たちを分析しようとするわけですからワクワク感が止まりません。

  そもそも特撮怪獣は空想の産物ですから進化や生物学とは無縁の存在に思えます。

  この本の著者の場合、小学生から中学生の多感な時期がちょうど円谷監督の特撮映画の最盛期であったことが幸運(不幸?)でした。私も同じとしなので全く同じなのですが、形態進化生物学なる学問を身に着ける以前に特撮怪獣映画のワンダーの洗礼を受けていたのです。

  怪獣のワンダー体験を内に抱えたまま形態生物学の最先端を探求すると、怪獣自体を科学の目で探求してみたくなるのかもしれません。

【キングギドラの形態生物学】

  宇宙怪獣として最強と言われているのはキングギドラです。金色のうろこに包まれ、3つの竜のような頭と3つのしっぽを持ち、2つの翼によって宇宙や空中を駆け巡る姿は、ハリウッドのゴジラ映画にもゴジラのライバルとして登場します。

  実は、日本映画に登場するキングギドラとハリウッドのキングギドラは異なっていると言います。

  日本映画に登場する元祖キングギドラの翼には、条と呼ばれる筋を見ることができます。この筋が脊椎動物の手や指が進化して生まれたものであれば、翼竜やコウモリの翼と似た生態をしているといえます。しかし、キングギドラの翼の筋は、手や指というよりも魚類の胸鰭(むなびれ)に似ているそうです。

  キングギドラが脊椎動物の系に属しているのであれば、その翼は我々の腕、手、指の相当する部分が異なる進化を遂げたこととなりますが、もしもこの条がシーラカンスやウミテングのような魚類の胸鰭に相当するものなのであれば、キングギドラは魚類の系につらなることになります。どうも見た目は魚系の条に見えるのです。

  さらにやっかいなのは、現在の形態生物学では脊椎動物の腕や手指にあたる条と魚類の胸鰭にあたる条が同じ遺伝子から派生しているのではないか、との研究があるそうです。

  そして、ハリウッド版のキングギドラでは、さらに話は複雑になります。

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(ハリウッド版 ゴジラ対キングギドラ)

  翼の条については、ハリウッドのキングギドラにも同じように見ることができますが、問題はその翼の位置にあります。日本版のように翼が肩から始まっていると、その翼は腕や手指の延長にあるので脊椎動物や魚類に系譜を見ることができます。ところが、ハリウッド版キングギドラの翼は方から直接生えていないように見えるのです。

  その形態は、魚類よりもむしろコウモリと似ています。コウモリは、方から腕に当たる条が伸びており、そこに連なるように翼となる幕が張られています。さらにその翼は腹から出た条により支えられており、トビトカゲ(爬虫類)のように肋骨部分から派生しているとも考えられるのです。

  日本版は魚類系、ハリウッド版は哺乳類系または爬虫類系。同じキンギギドラでも異なる系統図に位置付けられるのかもしれません。

  キングギドラの他にもゴジラ、ガメラ、ギャオスなど、著者の形態生物学によって次々と仕分けられていく怪獣たちの分析はとてもワンダーです。

【人間に寄生する怪獣とは】

  この本の第三章では、不定形型モンスターに関する考察が繰り広げられます。

  不定形型モンスターには、繁殖時に様々なヤドリギに寄生してその個体を乗っ取っていくモンスターも含まれます。

  まず取り上げられるのは、東宝映画のホラー的な映画として特撮を駆使して造られた「マタンゴ」と言う作品です。「マタンゴ」とはキノコの名称なのですが、このキノコが非常に厄介なモンスターなのです。このキノコを食べると人格が変化し、やたらと人好きで社交的な人格となります。それだけではなく、その人格を利用して他の人間にもマタンゴを食べるように勧めて回るようになるのです。さらに恐ろしいのは、人格変化の実ではなく、徐々に人としての意識は消えてゆき、最後には移動可能なマタンゴへと変身してしまうのです。

  映画は、この「マタンゴ」が生息する無人島に漂流した7人の物語です。そこにうずめく人の本姓がマタンゴを仲介モンスターとして恐ろしい人間関係を出現させていく物語です。

  著者は、マタンゴというキノコが形態生物学から見た場合にどのように分析できるのかを語っていきます。

  生きとし生けるものは、すべて繁殖することで種の継続と繁栄をめざします。普通のキノコは胞子を飛ばすことで種を増やしますが、マタンゴはもっと能動的な繁殖形態を持っています。食べるとマタンゴに変身してしまう。その寄生的な繁殖はどのようなプロセスをたどって成就されるのか。

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(映画「マタンゴ」スティール ciamovienews.com)

  その一部を紹介すると、「・・・マタンゴ人間の体は動物性の細胞からなる組織ではなく、そのほとんどがキノコを作る菌糸の束に置き換わっていて、そのうちあるものは神経的な機能に二分化し、またあるものは筋線維のように伸縮する機能を得、またあるものは硬化して骨格のような機能を果たすようになってしまっている・・・」のではないかと記載されています。

  さらに氏は次の項で、マタンゴの菌糸が人間の精神構造までもコピーできるのか、人間の解剖生理学的機能まで再構築できるのか、までを考察していくのです。

  そして、その分析は宇宙からパラサイトとして降臨する「寄生獣」へと続いていきます。

  人のモンスターやSFを創造する力は止まるところを知りません。この本は、科学者から見れば非現実と言われる空想のワンダーについて書かれています。そこには、汲めども尽きぬワンダーが脈々と流れています。ぜひ、続編を期待したいものです。


  お盆も終わり、いよいよ「with コロナ」の日常が戻ってきます。皆さん、手洗い、マスク、消毒、脱3密を徹底し、感染することも、人に移すことも防ぐよう、油断なく毎日を送りましょう。熱中症も防ぎつつ、明るさを忘れず毎日を過ごしたいと思います。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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倉谷滋 恐竜は怪獣へと進化したのか

こんばんは。

  今年のお盆はこれまでと違ったお盆になりました。

  夏休みと言えば、子供が小さい家庭では夏休み中の子供との交流が一大イベントになります。ところが今年は新型コロナ感染に伴う感染防止により学校が閉鎖される事態が相次ぎました。その影響で授業時間が足りなくなり、公立の小中学校では、のきなみ夏休み期間が短縮される事態に陥っています。

  神奈川県で小学校の教諭をしている息子がお盆休みに家にやってきて語るには、今年の夏休みは8/18/23までに短縮され、あまりゆっくりと休む暇はないそうです。あまつさえお隣の市では夏休みの終わりがさらに早い8/16ということでたった2週間しかありません。今時は働き方改革でサラリーマンでも2週間の夏休みは当たり前になっています。

  もちろん子供たちもガッカリですが、親の方もどのように子供と交流していくのか難しい年になっています。なぜなら新型ウィルス感染の拡大のために、せっかくの「GO TO トラベル」も集団での移動が制限され、高齢者への感染を考えると田舎のおじいちゃんやおばあちゃんに子供の顔を見せに行くことがはばかられ、旅行に行くにも感染防止を徹底する必要があります。子供も親もすっかり意気消沈してしまいます。

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(閑散とした那覇空港  琉球新報HPより)

  せっかくのお盆ですが、今年は皆さん自粛して、手洗い、うがい、マスクをつけて3密を避けて、住まいのある地域でお盆を過ごす方々でショッピングセンターが満ち溢れています。しかし、自粛が半年に及ぶとどうしても心が塞ぐことをさ避けることができません。

  こんなときこそ、心が最も揚がることを心に思い浮かべて、明るい気持ちを盛り上げましょう。

  さて、小学生から中学生にかけて、我々の世代で最もワクワクしたのは他でもない特撮画像を駆使して制作された怪獣たちの姿です。ゴジラ、モスラ、ラドン、キングギドラ、ガメラ、バルゴン、ギャオスなどの銀幕を彩った怪獣たちはもちろん、ガラモン、マンモスフラワー、カネゴンなどの「ウルトラQ」の怪獣たち、そして永遠のウルトラマンシリースの要となったバルタン星人、レッドキング、ゼットンなどのテレビで放映された怪獣たちです。

  お盆前に本屋さんの新書コーナーを眺めていると、帯広告に「シン・ゴジラの乱杭歯(らんぐいば)、その理由は、」という文字とともにシン・ゴジラの雄姿が写っているではありませんか。怪獣好きには目を離すことができませんでした。

  今週は、怪獣愛にあふれた形態進化生物学者の本を読んでいました。

「怪獣生物学入門」

(倉谷滋著 インターナショナル新書 2019年)

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(「怪獣生物学入門」amazon.co.jp)

【怪獣は何から進化したのか】

  恐竜と怪獣の関係は複雑です。

  「ゴジラ」は、もともと古代の恐竜が現代の水爆実験によって突然変異を起こした怪獣です。そこから考えると、怪獣を遡れば恐竜に行きつきそうに思えます。実際、小学生のころ、上野の国立科学博物館に行くのが大好きで、親も私の機嫌が悪かったり、甘えてうるさくねだったりしたときにはとりあえず国立科学博物館に連れていってくれました。

  博物館の入り口を入るとそこには恐竜の骨格が天井までそびえていました。現在、ブロントザウルスという恐竜は実在しなかったと言われていますが、当時は巨大な草食恐竜の代表格はブロントザウルスでした。凶悪な肉食恐竜の代表は言わずと知れたティラノザウルス。人気が高かったのは剣竜と呼ばれていたステゴザウルス。今のサイのように角を伸ばしていたトリケラトプスでした。

  この本でも語られていますが、近年の恐竜はあのころに比べると格段に進化しています。

  化石で見つかる恐竜が進化しているわけはないのですが、進化しているのは研究です。ゴジラはご存知の通り直立不動で日本の街に上陸し、我々の世界を蹂躙していきます。その行動は重厚で力強く、何物にも止めることはできずにゆっくりと前へと進んでいくのです。かつて、国立科学博物館で観たティラノザウルスの骨格は確かに直立していました。

  しかし、ジェラシックパークに登場するティラノザウルスは、直立していません。その超前かがみの姿はとてもゴジラの先祖とは思えません。さらに驚くのは、その脅威のスピードです。車に乗り全速力で逃げる主人公たち。時速80km以上で走る車にティラノザウルスは決して引けを取らないのです。恐竜研究は、この半世紀に大きく進化しました。

  今や恐竜の生き残りが現在の鳥類であることは科学的事実とされており、かのティラノザウルスは羽毛につつまれていたと考えられています。ゴジラの肌は黒くて岩の様であることが常識ですが、もしも1950年代に恐竜の実態が分かっていればゴジラは羽毛に包まれていたかもしれません。(放射能の影響で羽毛は抜け落ちていたかもしれませんが。)

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(再生細胞を持つミレニアムゴジラ amazon.co.jp)

  この本の著者は、現在理化学研究所で生物学のグループデレクターを勤めているそうですが、第一線で研修している生物学者が空想科学ドラマの怪獣たちを分析しようとするわけですからワクワク感が止まりません。

  そもそも特撮怪獣は空想の産物ですから進化や生物学とは無縁の存在に思えます。

  この本の著者の場合、小学生から中学生の多感な時期がちょうど円谷監督の特撮映画の最盛期であったことが幸運(不幸?)でした。私も同じとしなので全く同じなのですが、形態進化生物学なる学問を身に着ける以前に特撮怪獣映画のワンダーの洗礼を受けていたのです。

  怪獣のワンダー体験を内に抱えたまま形態生物学の最先端を探求すると、怪獣自体を科学の目で探求してみたくなるのかもしれません。

【キングギドラの形態生物学】

  宇宙怪獣として最強と言われているのはキングギドラです。金色のうろこに包まれ、3つの竜のような頭と3つのしっぽを持ち、2つの翼によって宇宙や空中を駆け巡る姿は、ハリウッドのゴジラ映画にもゴジラのライバルとして登場します。

  実は、日本映画に登場するキングギドラとハリウッドのキングギドラは異なっていると言います。

  日本映画に登場する元祖キングギドラの翼には、条と呼ばれる筋を見ることができます。この筋が脊椎動物の手や指が進化して生まれたものであれば、翼竜やコウモリの翼と似た生態をしているといえます。しかし、キングギドラの翼の筋は、手や指というよりも魚類の胸鰭(むなびれ)に似ているそうです。

  キングギドラが脊椎動物の系に属しているのであれば、その翼は我々の腕、手、指の相当する部分が異なる進化を遂げたこととなりますが、もしもこの条がシーラカンスやウミテングのような魚類の胸鰭に相当するものなのであれば、キングギドラは魚類の系につらなることになります。どうも見た目は魚系の条に見えるのです。

  さらにやっかいなのは、現在の形態生物学では脊椎動物の腕や手指にあたる条と魚類の胸鰭にあたる条が同じ遺伝子から派生しているのではないか、との研究があるそうです。

  そして、ハリウッド版のキングギドラでは、さらに話は複雑になります。

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(ハリウッド版 ゴジラ対キングギドラ)

  翼の条については、ハリウッドのキングギドラにも同じように見ることができますが、問題はその翼の位置にあります。日本版のように翼が肩から始まっていると、その翼は腕や手指の延長にあるので脊椎動物や魚類に系譜を見ることができます。ところが、ハリウッド版キングギドラの翼は方から直接生えていないように見えるのです。

  その形態は、魚類よりもむしろコウモリと似ています。コウモリは、方から腕に当たる条が伸びており、そこに連なるように翼となる幕が張られています。さらにその翼は腹から出た条により支えられており、トビトカゲ(爬虫類)のように肋骨部分から派生しているとも考えられるのです。

  日本版は魚類系、ハリウッド版は哺乳類系または爬虫類系。同じキンギギドラでも異なる系統図に位置付けられるのかもしれません。

  キングギドラの他にもゴジラ、ガメラ、ギャオスなど、著者の形態生物学によって次々と仕分けられていく怪獣たちの分析はとてもワンダーです。

【人間に寄生する怪獣とは】

  この本の第三章では、不定形型モンスターに関する考察が繰り広げられます。

  不定形型モンスターには、繁殖時に様々なヤドリギに寄生してその個体を乗っ取っていくモンスターも含まれます。

  まず取り上げられるのは、東宝映画のホラー的な映画として特撮を駆使して造られた「マタンゴ」と言う作品です。「マタンゴ」とはキノコの名称なのですが、このキノコが非常に厄介なモンスターなのです。このキノコを食べると人格が変化し、やたらと人好きで社交的な人格となります。それだけではなく、その人格を利用して他の人間にもマタンゴを食べるように勧めて回るようになるのです。さらに恐ろしいのは、人格変化の実ではなく、徐々に人としての意識は消えてゆき、最後には移動可能なマタンゴへと変身してしまうのです。

  映画は、この「マタンゴ」が生息する無人島に漂流した7人の物語です。そこにうずめく人の本姓がマタンゴを仲介モンスターとして恐ろしい人間関係を出現させていく物語です。

  著者は、マタンゴというキノコが形態生物学から見た場合にどのように分析できるのかを語っていきます。

  生きとし生けるものは、すべて繁殖することで種の継続と繁栄をめざします。普通のキノコは胞子を飛ばすことで種を増やしますが、マタンゴはもっと能動的な繁殖形態を持っています。食べるとマタンゴに変身してしまう。その寄生的な繁殖はどのようなプロセスをたどって成就されるのか。

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(映画「マタンゴ」スティール ciamovienews.com)

  その一部を紹介すると、「・・・マタンゴ人間の体は動物性の細胞からなる組織ではなく、そのほとんどがキノコを作る菌糸の束に置き換わっていて、そのうちあるものは神経的な機能に二分化し、またあるものは筋線維のように伸縮する機能を得、またあるものは硬化して骨格のような機能を果たすようになってしまっている・・・」のではないかと記載されています。

  さらに氏は次の項で、マタンゴの菌糸が人間の精神構造までもコピーできるのか、人間の解剖生理学的機能まで再構築できるのか、までを考察していくのです。

  そして、その分析は宇宙からパラサイトとして降臨する「寄生獣」へと続いていきます。

  人のモンスターやSFを創造する力は止まるところを知りません。この本は、科学者から見れば非現実と言われる空想のワンダーについて書かれています。そこには、汲めども尽きぬワンダーが脈々と流れています。ぜひ、続編を期待したいものです。


  お盆も終わり、いよいよ「with コロナ」の日常が戻ってきます。皆さん、手洗い、マスク、消毒、脱3密を徹底し、感染することも、人に移すことも防ぐよう、油断なく毎日を送りましょう。熱中症も防ぎつつ、明るさを忘れず毎日を過ごしたいと思います。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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後藤健生 日本代表監督から見えてくるもの

こんばんは。

  新型コロナの感染者数が首都圏で拡大しています。

  そのことの心配の最中、日本を「令和27月集中豪雨」が日本を襲っています。特に九州の熊本、宮崎の方々には先週の球磨川の決壊で大きな被害にあわれたのち、復旧作業もままならぬあいだにさらなる豪雨が引き続き、休まるときがありません。

  被災地の皆様に心から寄り添うとともに、心からのお見舞いを申し上げます。

  この雨はまだ19日の日曜日までは予断を許さないようです。皆さん、一番大切なのは命であることに間違いありません。命を大切に、気持ちも大切に日々を送りましょう。応援しています。

  新型コロナ感染の拡大では、東京でコロナ禍始まって以来最大の感染者数が記録されました。その人数は243人。82%は若者で重症化の可能性は低い。入院者数は少なく医療体制はひっ迫していない。検査数が多いことが要因。など、経済優先のためか、楽観視する要素ばかりが独り歩きしているように思えます。

  最大の感染者数を出したその日、政府はイベント開催の自粛を緩和しました。

  プロ野球、そしてJリーグも無観客で行っていた試合に、感染対策を行ったうえで観客を入れることを決断しました。その人数は、会場の半分か5000人のどちらか少ない数。との制限を設けていますが、そこでの市中感染が判明したときにどう対処していくのか、その対応策がよく見えてきません。潜伏期間を考えれば、発祥は10日後になります。はたして、感染拡大はどこまで広がるのか。全く予断を許さず、不安は続きます。

  熱烈なファンの方々は、やはり球場で選手を応援してその感動のプレーを自らの目でみたい、に違いありません。また、選手の皆さんもファンの応援を肌で感じることによって、より感動を呼ぶプレーができるに違いありません。その結果、テレビ観戦ファンである私も楽しめることは間違いありません。何事もなく時が過ぎるとは到底思えませんが、一刻も早くその予兆を把握して、適切な対策が打てるよう、緊張感を忘れないようにしたいものです。

  さて、サッカーと言えばJリーグ再開の後に日本代表はどのような日程を迎えるのかが心配です。

  2018年のロシアワールドカップで、日本代表は開催の2カ月前に急遽就任した西野朗監督が、Jリーグ発足以降ワールドカップ出場2人目の日本人監督として指導力を発揮し、そのたぐいまれなる勝負強さと決断力を発揮して、日本代表をみごとベスト16へと導きました。

  そこで、次期監督に選ばれたのが、森保監督です。

  森保監督と言えば、広島サンフレッテの監督時代には、4期の監督就任中に3度リーグ優勝を果たすという快挙を成し遂げた監督として知られています。その森保さんは、2017年にオリンピック日本代表に就任しました。そして、西野監督の後任として日本のA代表の監督も兼任することとなったのです。

  2019年は自国開催だったラグビーワールドカップにおける日本代表の活躍が我々を熱中させてくれ、森保ジャパンの話題は忘れられた感がありましたが、ラグビーの次は、東京オリンピックでのサッカー日本代表の金メダルが期待されていました。オリンピックは2021年夏に延期が決まりましたが、東京オリンピックの延期が日本代表のU23チームにどのような影響を及ぼすのかがとても心配です。同時に2022年のワールドカップが控えているA代表。兼務する森保監督がどのような結果をもたらしてくれるのか、本当に気になるところです。

  そんな中、本屋さんで見つけたのが今週読んだ一冊です。

「森保ジャパン 世界で勝つための条件 日本代表監督論」

(後藤健生著 NHK出版新書 2019年)

【日本代表監督の歴史を振り返る】

  本屋さんで手に取ったときには森保監督率いる日本代表のことを分析した本なのかと思いましたが、ページを開いてびっくり。なんと、この本の第一部は、Jリーグが日本に発足して以降、すべての日本代表監督11人について評論し、あまつさえ100点満点で採点までしているのです。

  こんなすごい本を書いてしまう後藤さんとはどんな人なのか興味がわいてきます。

  その肩書は、サッカージャーナリスト。なんと1964年の東京オリンピックからサッカー観戦を開始し、これまで見た試合の数は6000以上。1978年以降、ワールドカップは12大会連続で現地取材を行っているというサッカーマニアです。その経歴からいえば、まだ60代ではありますが、サッカーの歴史に精通したプロフェッショナルと言えます。

  第二部では、これからの森保ジャパンの展望を述べているのですが、驚いたことに最後の付録でJリーグ発足以前、戦前の極東選手権と呼ばれていた国際試合から日本代表を勤めたすべての監督を紹介しているのです。聞けば、後藤氏は、「日本サッカー史 日本代表の90年」なる著作も上梓しているそうで、その見識には驚かされます。

  さて、ここで採点されている11人の日本代表監督。皆さんはすべて言えるでしょうか。

  まず、ハンス・オフト氏(19921993)。以降、パウロ・ロベルト・ファルカン氏(1994)、加茂周氏(19941997)、岡田武史氏(第一次:19971998)、フィリップ・トルシエ(19982002)、ジーコ氏(20022006)、イビチャ・オシム氏(20062007)、岡田武史氏(第二次:20072010)、アルベルト・ザッケローニ氏(20102014)、ハビエル・アギーレ氏(20142015)、ヴァイッド・ハリルホジッチ氏(20152018)、西野朗氏(2018)と続きます。

  そして、その後森保一氏が代表監督に就任して現在に至るわけです。

  皆さんの中では、どの代表監督が一番印象に残っているでしょうか。

  後藤さんは、名だたる監督たちの評価を8つのポイントで採点しています。そのポイントは。まず、「①戦績(15)」、「②チーム作り(15)」、「③戦術・采配(15)」、「④決断力(15)」の4つを15点満点で採点します。そして、「5カリスマ性(10)」、「⑥発信力(10)」、「⑦新世代育成(10)」、「⑧特別加算点(10)」の4つは10点満点。総合計で100点満点となります。

  後藤氏は、この得点を編集者からの提案で加えたものと決して重視しているわけではありませんが、それぞれの監督に関する記述は、実際に取材したジャーナリストならではの視点に基づくとても興味深い話が盛りだくさんです。

  こうしてすべての代表監督を一気に俯瞰すると、代表監督なるものがいかに過酷な職業かがよくわかります。日本が初めてワールドカップのアジア予選を突破して本戦に出場したのは、1998年に開催されたフランスワールドカップでした。それ以来日本が本戦へとコマを進めたのは、自国開催であった2002年のフィリップ・トルシエ監督を除けば、3大会にとどまります。

  その監督は、岡田武史監督(第二次) 南アフリカ大会、ザッケローニ監督 ブラジル大会、西野朗監督 ロシア大会でした。さらに、この中で第一次予選を見事に突破してベスト16に勝ち残ったのは、トルシエ監督、第二次岡田監督、西野監督の3人のみなのです。この3人の船籍の得点は、トルシエ監督14/15、第二次岡田監督12/15、西野監督12/15となっています。

【個性あふれる監督たちのサッカー】

  それぞれの監督の採点は、ぜひこの本で楽しんでください。

  このブログでも紹介しましたが、代表監督の中で私が最も思い入れを持つのは、オシム監督です。そのサッカーとサッカーを志す人々に対する愛情は、何よりも深い。そして、その愛するサッカーの発展のためには、自らのポジションでできることは徹底的にやる、この生き方はまさに見習うべきものがあります。

  後藤さんがオシム氏の項で冠した言葉は、「未完に終わった『日本サッカーの日本化』史上最も尊敬された日本代表監督」というものです。「水を運ぶ選手」はオシム氏を象徴する言葉となりました。それは、試合の中でチームのために必要な水を労力を惜しむことなく運び続ける選手のことを意味します。とにかく、90分間常に走り続けることができる選手。オシム氏は、そのために毎日のトレーニングを欠かしませんでした。すべての戦術は、「走る」ことを前提に成立すると考えていたのです。

  オシム氏は、この方針を徹底することでジェフ千葉(旧ジェフ市原)を監督就任3年目でみごとヤマザキナビスコカップの優勝へと導いたのです。

  オシム氏の語る「日本サッカーの日本化」の最終形はどのような状態だったのか。後藤さんは、それはわからない、と言いながら、次のように想定しています。「日本人選手が持つテクニックや俊敏性、持久力を生かして戦うこと。選手間の距離を短くして集団的に戦うこと。」この前提には、徹底して「走る」ことが前提となるのです。

  取材に基づいた記事には迫力があります。オシム監督は、ワールドカップ予選の前哨戦ともいえるアジアカップで、4位に終わっています(前回大会は優勝)。その原因はチームの疲労感だったと語ります。なぜなら、オシム監督はアジアカップの試合前でもいつもと全く同じか、それ以上の練習量を選手たちに課していたというのです。

  後藤さんは、この練習量を見て、オシム監督はアジアカップを、ワールドカップのための「東南アジア合宿」と位置付けていたのではないか、と書いています。さらに、オシム氏との取材、インタビュー時のエピソードも書いているのですが、なんともホッと心が和むような場面です。その場面はぜひ本書でお楽しみください。

  この本の第一部は、サッカー日本代表のこれまでを見つめ続けてきたファンには時間を忘れて読みふける素晴らしい評論です。

  歴代監督の中では、やはり日本人監督として選手を世界のベスト16へと導いた二人の監督の試合に掛ける決断力はピカいちです。1997年のワールドカップフランス大会に向けたアジア予選。第一次の岡田監督は、4試合が終わった直後、突然コーチから監督に昇格し、日本代表の指揮をとることになりました。にもかかわらず、岡田監督は予選を見事突破し、「ジョホールバルの歓喜」を成し遂げたのです。

  さらに第2次岡田監督は、突然倒れたオシム監督の後を受け、またもや突然の登板となったわけです。しかし、第2次の岡田監督は、若手起用に手腕を発揮します。GKの川島永嗣選手、長友佑都選手、香川真司選手、本田圭佑選手など日本代表の骨格となる選手を起用しています。さらに長谷部誠選手にキャプテンを任せたのも岡田監督だったのです。

  突然ハリルホジッチ監督の後を受け、2か月後のワールドカップで結果を出した西野監督の活躍は皆さんご存知の通りです。

  さて、この本の第2部、森保ジャパンの今後について語る紙面はなくなりました。その期待は、ぜひこの本でお楽しみください。

  この本は日本代表監督のこれまでの軌跡を語ることから、森保監督の今後を語るという、大技で本をまとめていますが、その面白さは間違いなく本物です。東京オリンピックも、ワールドカップアジア予選もコロナの影響によって延期となりました。皆さん、その延期を利用してこの本でサッカー日本代表のおさらいをしておきましょう。これからのサッカーがより楽しめること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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原田マハ 魔性の女「サロメ」とは何者か?

こんばんは。

  皆さんは、「魔性」と聞いてどんなことを思い浮かべるでしょうか。

  この小説を読んで思い出したのは、シューベルトの歌曲「魔王」です。

  低音のピアノのリフで始まる「魔王」は、4つの異なる登場人物によって謳われます。もちろん、通常は一人のテノール歌手によって謳われるのですが、その詩には4つの視点から語られるのです。その主人公は「魔王」。

  ある晩高熱を出した息子を医者に診せるために父は夜の闇の中、息子を抱いて馬を走らせます。疾走する暗闇の中、魔王は熱にうなされる息子をいざなうように語りかけます。「かわいい坊や、一緒においで、楽しくに遊ぼう。綺麗な花も咲いて、黄金の衣装もあるよ。」

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(楽譜「魔王」の挿絵 wikipediaより)

  息子は、父親に「魔王が見えないの?魔王がささやきかけてくるよ。」と訴えます。疾走する父は、「息子よ、あれはただの霧だよ。」と諭して安心させようとします。しかし、魔王は執拗に息子を誘います。「素敵な少年よ。一緒においで、私の娘が君の面倒を見よう。歌や踊りを披露させよう。」息子は救いを求めます。「お父さん、お父さん。見えないの?暗がりにいる魔王の娘たちが。」父「息子よ。確かに見えるよ。あれは灰色の古い柳だ。」

  歌曲は、おどろおどろしいピアノと4つのテノールによって、緊迫の中をカタストロフへと突き進んでいきます。魔王ついに本性をさらけ出します。「お前が大好きだ。いやがるのなら、力づくで連れていくぞ。」息子は抗います。「お父さん、お父さん!魔王が僕をつかんでくるよ。魔王が僕を連れていくよ。」恐ろしくなった父親は、息子を抱える腕に力を込めて一層速度を上げて闇の中を突き進みます。

  たどり着いた時に息子は息絶えていたのです。

  この魔王の持つ蠱惑的な言葉と破滅に導く力こそ、我々が「魔性」とよぶものです。

  今週は、文庫化された原田マハさんの新たな絵画小説を読んでいました。

「サロメ」(原田マハ著 文春文庫 2020年)

【原田マハの新たな絵画小説とは?】

  「サロメ」と言えば、旧約聖書の物語ですが、過去からあまたの画家が「サロメ」の姿を描いてきました。古くは、宗教改革のルターの盟友であったドイツ画家の巨匠クラーナハが描いたサロメが有名ですが、近年では象徴主義の大家である、ギュスターヴ・モローも「サロメ」を題材とした名画の数々を世に送り出しています。特に1876年に発表された「出現」は、宙に浮かぶ預言者ヨハネの首を指し示す妖婦サロメが描かれた傑作です。

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(ギュスターヴ・モロー「出現」wikipediaより)

  しかし、今回原田マハさんが描いたのは、「サロメ」を描いた画家オーブリー・ビアズリーのエピソードでした。あえてエピソードとしたのは、この小説が物語ではなく「魔性」が出現したその瞬間を描くために執筆された小説だからです。

  皆さんも、オーブリー・ビアズリーの絵を一度は目にしたことがあると思います。あえて「画家」と書きましたが、彼の職業は挿絵画家でした。その最初の仕事は、トマス・マロリーが描いた「アーサー王の死」と題された本の挿絵画家としてでした。しかし、もっとも有名な絵は、オスカー・ワイルドが書いた戯曲「サロメ」の挿絵です。

  この本の表現を借りるならば、その挿絵は。「女はまるで亡霊さながら、おどろおどろしい横顔をしてぽっかりと宙に浮かんでいる。そしてその両手に掲げられているのは、麗しき髪と秀でた眉、永遠に瞼を閉じた男の生首。/女は男の首をかき抱き、たったいま、暗い池の中から空中に飛び出してきたかに見える。いや、池に見えるのは生首からしたたり落ちる黒い血だまり。女は血の池に浮かび上がる妖艶なのだろうか。」

  それは、魔性の美女「サロメ」そのものを蘇らせる魔力を備えた絵だったのです。

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(オーブリー・ビアズリー「サロメ」挿絵)

  白と黒だけを使ったペン画にこれほどの魅力が備わっているとは、オーブリー・ビアズリーの天才はいったいどこから生まれ出たのか。その進化の秘密がこの小説に託されたひとつのテーマなのです。

  今回の小説はこえまでのマハさんの絵画小説とは一線を画した趣向にあふれています。

【ビアズリーとオスカー・ワイルド】

  オスカー・ワイルドは19世紀末のイギリスの作家。その代表作は、「ドリアン・グレイの肖像」です。昔から肖像画はそのモデルとなった人間が乗り移るものだと言われていましたが、この小説は不気味な小説です。ある日、画家のバジルは、友人のドリアン・グレイから肖像画を依頼され、その美貌あふれる姿を絵に収めました。この絵の美しさを見たドリアンの友人ヘンリー卿はその美しさをほめるとともに、ドリアンにこの世の常識にとらわれることなく、その美貌に似つかわしい自由奔放な生き方を強く勧めます。その誘惑に乗ったドリアンは、自分の代わりに肖像画に描かれた自分が年を取ればよいと宣言しました。

  このヘンリー卿は明らかにオスカー・ワイルド自らの生き方を語る本人の傀儡です。その言葉にそそのかされたドリアンは、その後、純粋な愛を求める美しき恋人を死の淵へと追いやり、さらそれをなじる画家バジルをも殺してしまいます。しかし、その後も乱れた、奔放な暮らしを続けるドリアン。20年を経てもドリアンは全く老いることなく、その美貌は衰えることを知りません。

  しかし、ドリアンがまったく変わらぬ美貌を保ち続けている間、バジルが描いた彼の肖像画は醜く変貌し、ドリアンに代わって年を取り続けていくのです。

  その結末はこの小説を読むにしかず、ですが、オスカー・ワイルドはこんな猟奇的な小説を描くだけのことはあり、自らが世の常識に従わない自由奔放な男だったのです。

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(オスカー・ワイルド「サロメ」 books.rakutenより)

  イギリスと言えば、ジェントルマンの国です。

  その一方で、長い間、伝統と階級を重んじてきた社会でした。ピューリタン革命の時代から、貴族階級と労働者階級は完全に分かれており、貴族たちは支配階級として帝国に君臨していました。その世界観は特に保守的で厳格。階級が異なれば会って話をすることさえままならない世界が長く続いていたのです。19世紀末は、イギリス帝国の最盛期であり、こうした保守性と厳格さは彼らの誇りでもありました。

  同じころ、ドーバー海峡を渡った先のフランスでは、パリを代表される大敗を賛美し、自由を愛する人々が奔放な芸術活動を続けていました。印象派はもちろんのこと、パリでの芸術的成功を求めて、ピカソやゴーギャン、アポリネールなど若い芸術家たちがやがて来る新時代を前に芸術を語りあかしていました。保守的で厳格なイギリスでもこうした荒廃した世界にあこがれる人々もいました。オスカー・ワイルドは、こうした中、イギリスに颯爽と登場し、その自由奔放な行動と退廃的な芸術性で人気を博していたのです。

  イギリスで生まれたオーブリー・ビアズリーは、こうした退廃的奔放とは無縁な生活を送っていました。彼は、1898年に25歳と言う若さで夭折しますが、その原因は結核でした。彼が初めて結核と診断されたのは、7歳の時です。彼は、母親の収入でとても大切に育てられましたが、早くから芸術に才能を見せていたと言います。ピアノがうまく、文才もあり、絵がうまい。彼の画才はとびぬけていました。

  彼には、細やかな愛情そそいでくれた母と彼を守ることが当たり前のように育ってきた姉がいました。姉の名前はメイベル・ビアズリー。弟の画才を埋もれさせたくなかったメイベルは弟の絵を見せるために、オーブリーを連れて当時イギリスの画壇で名のあったエドワード・バーン・ジョーンズのもとを訪れます。

  このくだりは、この小説のひとつのハイライトですが、ネタバレとなるので小説を楽しみにしておいてください。そのときに、オーブリー・ビアズリーの画才は初めて世に認められることとなるのですが、この場に居合わせたのが、かのオスカー・ワイルドその人だったのです。

  この出会いからオーブリーの運命は大きく転換していくこととなるのです。

【原田マハが描く「魔性」とは】

  「あゝ、あたしはとうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン、お前の口に口づけしたよ。」

  クライマックスの「サロメ」のセリフは衝撃的です。サロメは、ヘロデ王の前で「七つのヴェールの踊り」という世にもあでやかで妖艶な舞を踊ったほうびに、ヘロデ王にとらわれていた預言者ヨカナーンの生首を所望したのです。地下の監獄に繋がれたヨカナーンを一目見て恋に落ちてしまったサロメは、ヨカナーンに触れたくて千々に乱れる想いから逃れることができません。しかし、預言者はその思いをきっぱりと拒絶します。

  サロメは、自らの想いを遂げるためにヨカナーンの生首を求めたのです。

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(原田マハ「サロメ」 amason.co.jp)

  この反道徳的で、しかも欲望に満ちた蠱惑は、人の欲望、想いに忠実であろうとするオスカー・ワイルドの想いそのものでした。そして、その桁外れな芸術を全く同じ感性で表現したのが、オーブリー・ビアズリーだったのです。二人は、余人には理解しえない魔性を共有します。

  今でこそ「LGBT」や「ジェンダ-」などの言葉で、同性愛の存在は知性ある人々に受け入れられつつありますが、19世紀末のイギリスでボーイズラブが受け入れられるわけもありません。オスカー・ワイルドは、劇場やアトリエ、さらには社交場に若くて美しい男性を数多く引き連れて訪問していました。それは、言外にボーイズラブを公言している行動です。

  そして、畢生の芸術である「サロメ」をめぐって、男たちの三角関係が繰り広げられていきます。それは禁断の世界であるとともに、芸術としてはまさに「魔性」の世界です。オーブリー・ビアズリーもその才能ゆえにその渦中へと巻き込まれていくのです。

  しかし、このボーイズラブの世界がこの小説の新機軸なのではありません。確かに、原田マハさんと「魔性」の世界はこれまで融合することはない世界でした。ところが、この小説はそれほど単純ではありません。

  これまで、マハさんは常に女性の視点に立って自立した女性の物語を語ってきました。絵画小説においても主人公のひとりは必ず颯爽とした女性でした。そう、今回の小説も例外ではありません。オーブリー・ビアズリーに最も近い女性は誰でしょうか。

  それは、結核の患う弟を守り、その絵画の才能を世に出し、自らも女優としての道を歩もうとするオーブリーの姉、メイベル・ビアズリーその人です。

  そして、今回描かれる「魔性」とは、これまで語られてきたオスカー・ワイルドとオーブリー・ビアズリーの間に生まれた禁断の魔性以上に「人間の性(さが)」そのものに肉薄するような「魔性」なのです。

  小説「サロメ」には、これまでの絵画小説のような謎解きやワンダーなプロットは使われていません。そうしたものはなくても、ラストのどんでん返しに皆さんは衝撃を受けるに違いありません。そして、その衝撃の伏線は、プロローグから周到に用意されているのです。

 皆さんも、この「サロメ」で、これまでとは一線を画す新たな原田マハの魅力に触れて下さい。その「魔性」に背筋がゾッとするに違いありません。


  世の中では、首都圏のコロナ新規感染者の数が急増しています。首都圏の皆さん、3密を避け、ソーシャルディスタンスを保ちましょう。感染対策が万全のお店で飲むときでも、声高に飛沫を飛ばすことなく、穏やかな会話を楽しみましょう。ここが我々の踏ん張りどころです。私も含め、皆さんの一つ一つの行動が日本と世界を救うのです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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