こんばんは。
新型コロナの感染リスクを管理しつつ、街は日常を取り返しつつあります。
日本では、人口に対する感染者数、死亡者数は圧倒的に少なく、新規感染者も北海道、首都圏、福岡以外ではほとんど発生していません。しかし、世界に目を向けると南米やアフリカではまだまだ感染者は斧鉞どけており、パンデミック第二波が起きるのか否か予断を許しません。
世界中で徐々に経済活動が再開され、日本でも6月12日から東京でも夜の街での自粛が緩和され、19日には都道府県をまたぐ移動も解禁されると言われています。自粛初期のころ、東京から沖縄などに遊びに行って暗線した芸能人が顰蹙を買いましたが、我々も新規感染者が出ている地域から都道府県外に出かける場合には、感染防止に十分留意して、節度を持って立ち振る舞うことを心掛けなければありません。
いつもよりも緊張感を持った行動を心がけましょう。
話は変わりますが、皆さんはスタジオジブリの映画と聞いて、どの作品を思い出しますか?
「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「魔女の宅急便」「紅の豚」「となりのトトロ」「火垂るの墓」「おもひでぽろぽろ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「崖の上のポニョ」「風立ちぬ」などなどすぐに思い起こすだけでも名作の数々が並びます。
(「天空の城ラピュタ」prcm.jpより)
今週は、スタジオジブリの要ともいえるプロデューサー鈴木敏夫さんが語るジプリ本を読んでいました。この本は、スタジオジブリが世に送ったすべての作品を鈴木敏夫さんが語る、という作品のエピソードがギッシリ詰まった面白い本です。
「天才の思考 高畑薫と宮崎駿」
(鈴木敏夫著 文春新書 2019年)
【鈴木敏夫氏は何者?】
スタジオジブリの作品と言えば、何と言っても宮崎駿さんとその先輩に当たる高畑薫さんという2人の名アニメーターが創りだしてきた世界です。しかし、いつからかスタジオジブリのプロデューサーとして鈴木敏夫さんがマスコミに登場するようになりました。「この人はいったい何をする人なのだろう。」、登場するたびにその謎は深まりました。
「プロデュース」とは、英語で「生み出す」という意味ですが、日本のプロデューサーは「生み出す人」と言う意味とは異なります。それは、作品を制作する上での総括責任者としての役割を果たす人間のことをさすようです。
いったい、なぜ鈴木敏夫さんはスタジオジブリのプロデューサーになったのでしょうか。
この本を読めば、鈴木さんが数々のスタジジブリ作品を世に出すために何をなしてきたのかが分かります。もちろん、ジブリの作品は高畑薫さんと宮崎駿さんというクリエーターがいなければ存在することはありませんでした。しかし、映画は一人のクリエーターで制作することは不可能です。そこにはスポンサーはもちろん、脚本、美術、音楽、映像、アニメーター、声優、そして監督が必要です。さらに言えば、上映する映画館への配給、集客のための宣伝がなければ、映画は我々の目に触れることがないのです。
(文春新書「天才の思考」amazon.co.jp)
皆さんは、アニメーション専門の「アニメージュ」なる雑誌をご存知でしょうか。
今もアニメ雑誌の御三家と言われる「アニメージュ」は、1978年に産声を上げました。その頃は、松本零士さんの「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」が絶大の人気を誇り、その創刊号は7万部を売り上げました。編集販売は、徳間書店。今やスタジオジブリの顔ともいえる鈴木敏夫さんは、何とこの「アニメージュ」の初代編集担当者だったのです。
この本は、スタジオジブリの映画を製作年代別に語るとの体裁を取っていますが、その最初の作品は当時のアニメーション界に衝撃を与えた「風の谷のナウシカ」です。そして、この映画の製作、そして公開を後押ししたのが当時、徳間書店の社長であった徳間康快その人だったのです。
人間たちの起こした最終戦争「火の7の日間」によって破壊された後、1000年後の世界。破壊された自然は自らを守るために、地球は世界を「腐海」と呼ばれる毒素に満ちた空間で覆い尽くしました。しかし、戦いをやめることのない人間は、「腐海」に侵されていないわずかな大地に国を建て、勢力争いに明け暮れていました、
「風の谷」は、そんな中で平和を愛する人々が集う小さな村でした。ナウシカは、「風の谷」の族長の娘。このファンタジックな世界観と登場するメカニカルな「メーヴェ」(一人用軽飛行機)や「ガンシップ」(小型飛行機)は、まさに宮崎駿さんの世界観全開の傑作でした。
しかし、この名作はその後のスタジオジブリ作品の序章にしか過ぎなかったのです。
鈴木敏夫さんは、徳間書店の「アニメージュ」編集者として、「ナウシカ」の制作、公開に奔走しました。そのいきさつは、この本でたっぷりご堪能ください。
ここで少し「ネタばれ」です。皆さんは「チンチロリン」という遊びをご存知でしょうか。サイコロ3個をドンブリに投げ入れて、その賽の目によって勝ち負けが決まる賭け事です。「ナウシカ」を映画化するにあたって、鈴木さんは何とか徳間書店に映画制作を認めてもらうように働きかけます。しかし、当時の「アニメージュ」の発行部数では、社内で到底映画化の賛同が得られません。
そこで、鈴木さんは一計を案じます。当時、社内でも発言力を持っていたのは宣伝部長でした。そして、この宣伝部長は賭け事に目がなかったのです。そこで鈴木さんは同僚とつるんで宣伝部長を「チンチロリン」に誘います。もちろん、鈴木さんと同僚は勝つわけにはいきません。二人で特訓をして5万円ずつ負けようと決めていました。そして、「チンチロリン」の間中、「ナウシカ」映画化の話をし続けたのです。
そして、その努力?が「ナウシカ」の制作決定に繋がったのです。
(ナウシカ愛用の「メーヴェ」)
この本は、スタジオジブリの作品に鈴木敏夫プロデューサーがどんな役割を果たしたのかをご本人の語りで教えてくれるのです。
【二人の天才のあいだで】
「千と千尋の神隠し」でアカデミー賞にも輝いた宮崎駿。「かぐや姫の物語」で日本の動画に新たな「線」を創造した高畑薫。スタジオジブリは、この二人の天才とその天才に才能を発揮する場所を創り続けた鈴木敏夫さんが三位一体で作り上げた会社だったと言っても過言ではありません。
この本のもう一つの楽しみは、それぞれの作品を作り上げていく過程で、このお二人がどのように作品を作り上げていったのかが垣間見えるところです。
スタジオジブリ誕生のいきさつは意外でした。
「ナウシカ」は、宮崎駿さんが「アニメージュ」に連載していた漫画を原作としていますが、漫画とは異なり一作品で物語が完結しています。この作品のプロデューサーは、ジブリのもう一人の天才高畑勲さんでした。宮崎駿さんは、高畑さんが創ったテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」をはじめとした一連の作品でアニメーターを務めていたのです。
もともとアニメーターとして優れた技術を持っていた宮崎駿さんです。アニメーションは、漫画と違って一人で作れる作品ではありません。美術、背景、作画、色塗り、演出など多くの腕の良いスタッフたちが必要となります。宮崎さんは、こうしたプロセスのすべてに対して非常に高い技術や表現を要求します。良い作品を作るためには、一片の妥協もありません。
宮崎さんの厳しさを知っている東映や東京ムービーなど名だたる制作会社は、ことごとく「ナウシカ」の作画制作を断ったのです。それは、宮崎さんのクオリティに対する姿勢があまりに厳しいがために、人がついていけないことが理由でした。「ナウシカ」のプロデューサーであった高畑さんと徳間の担当であった鈴木さんは、ほとほと困って阿佐ヶ谷にある制作会社トップクラフトに相談します。その社長はかつて高畑映画のプロデューサーを務めていた人物で、「ナウシカ」の制作を引き受けてくれたのです。
(高畑監督遺作「かぐや姫の物語」ポスター)
そして、その製作期間は8カ月に及びますが、みごとに「風の谷のナウシカ」は完成し、世に出ることとなりました。
しかし、「ナウシカ」の後、宮崎さんは「二度と監督はやりたくない。」と鈴木さんに語ります。その理由は、これ以上仲間が自分から離れていくことに耐えられない、というものでした。宮崎さんのアニメーション創りには、宮崎基準の高いクオリティが求められます。そこに到達しない仕事に宮崎さんは容赦なくダメ出しを続けます。すべてのスタッフとクオリティの闘いを演ずるわけですから、普通の才能の持ち主は付いていけず辞めていってしまうのです。
もう二度と監督はしない、との言葉は本音でした。一方、高畑さんは「ナウシカ」の後、自らの監督作品を作ることになります。しかし、高畑さんは映画に常に新たな創造を求めていくタイプの天才です。そこには、世間のしがらみは関係なく、とにかく良いものを創ることしか目に入らないのです。映画は、高畑さんのそうした想いをつぎ込んだおかげで大幅な予算不足となり、制作の見通しが立たなくなりました。
その姿を見かねた宮崎駿さんは、「ナウシカ」の収入をその映画に出資します。しかし、まだまだ資金は足りません。困った宮崎さんは鈴木さんに相談します。そのときの回答は、「もう一本映画を創ればよい。」という一言でした。「ラピュタ」の構想は、この一言から始まったのです。
「ラピュタ」は、構想から絵コンテまでアッという間に宮崎さんが紡ぎ出しました。しかし、困ったことにアニメーションを制作する会社がありません。「ナウシカ」を創ったトップクラフトは、宮崎さんと仕事をした優秀なスタッフがほとんど辞めてしまい、開店休業状態です。そこで、「ラピュタ」制作のために、借金だらけで立ち上げたのがスタジオジブリだったのです。
(スタジオジブリの壁紙 hypebeast.com)
この本には、こうした本当に面白い話が満載されています。
【名作たちのメイキングエピソード】
「ジブリ」という名前の発案は宮崎駿さんだそうですが、ここにも楽しいエピソードがあります。
宮崎さんは、「紅の豚」や「風立ちぬ」で知られる通り戦闘機に対して一方ならぬ思い入れがあります。スタジオの名前を考えるときに宮崎さんはイタリアの軍用偵察機「GHIBLI」が良いと言いだしました。高畑さんは、これはイタリア語で読むとギブリと読むのではないか、と疑問を投げ掛けますが、宮崎さんはイタリアの友人がジブリと読むと言っていると言い、結局この名前になるのです。
ところが、のちにイタリア語ではギブリと読むことが判明します。ことは後の祭り。日本では「スタジオジブリ」なのですが、世界では「スタジオギブリ」と呼ばれているそうです。
さて、皆さんがジブリ映画と言えばどの作品を思い出すか、答えは出ましたか?
この本には、スタジオジブリすべての作品の制作エピソードが語られています。スタジオジブリが創りだしたのは映画だけではありません。ジブリの森には美術館もあれば託児所もあります。そして、日本のアニメ界をけん引していくアニメーターたちもスタジオジブリで育ちました。庵野さんも押井さんも、高畑さんと宮崎さんのアニメスタッフで多くのことを学んだのです。
ジブリ映画のファンの方もそうではない方も一度この本を読んでみて下さい。日本に一つの時代を築いたクリエーターたちの仕事を垣間見ることができるに違いありません。
それでは皆さんお元気で、またお会いします。
〓今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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