こんばんは。
我々日本人のメンタリティはいったいどこに源流があるのでしょうか。
先週は悲喜こもごもの1週間でした。リチュウム電池の開発に不可欠な研究を行った吉野彰氏のノーベル化学賞受賞に感動したのもつかの間、日本のはるか南に発生した台風19号が海水温の高さから勢力を拡大し、60年ぶりの凶暴な台風として日本を襲ったのです。関東、東北では37河川、51か所で堤防が決壊し、たくさんの尊い命が失われました。改めて、ご冥福をお祈りいたします。
まだ天気は不安定で、被災した多くの方々も安心できる状態ではなく、被災したすべての皆さんにお見舞い申し上げます。我々もいつも心を寄せています。皆さん、くれぐれもご自愛ください。
そうした中、横浜ではラグビーワールドカップ1次予選最終戦となる日本対スコットランド戦が開催されました。試合開始に当たっては今回の台風で亡くなった人々への黙とうがささげられ、日本代表は今回の被災地の人々への想いを胸に戦かったのです。日本代表は、前回大会で敗れたスコットランドにみごと雪辱を果たし、28対21で勝利してベスト8を勝ち取ったのです。FWの重さと強さ、オフロードパスのスピード、チームとしての一体感、どれをとっても日本の強さが本物であることが実証されました。
(オフロードパス 稲垣選手のトライ asahi.com)
ところで、今回のワールドカップのおかげで、我々日本の持つ様々な文化が世界中に発信されています。
9月21日(土)、ニュージーランド対南アフリカ戦で勝利を収めたニュージーランド代表の「オールブラックス」が、観客への熱烈な応援に対する感謝の表現として全員で「おじぎ」したことがことの発端でした。その後、各代表チームが次々とお辞儀を繰り広げ、今回のワールドカップは「お辞儀大会」と呼ばれているそうです。海外では、握手が文化となっていますが、握手は自分が武器を持っていないという表明にもなっているそうです。握手は、近づいて手を合わせなければ成立しませんが、「お辞儀」はどんなに離れていても交わすことが可能な礼儀です。「お辞儀」が日本の文化として世界に認識されることは、とてもうれしいことです。
また、今回のワールドカップでは、選手のロッカールームが試合後みなきれいに整っている、と言われています。以前、なでしこジャパンがサッカーのワールドカップでどのスタジアムでも試合後のロッカールームが美しいことで話題となりました。ラグビーの選手は紳士的と言われますが、日本に来た時には日本の清潔な文化を見習おうとしているのかもしれません。サポーターが試合終了後、スタジアムの観覧席を清掃して帰る文化と同じく、日本の礼儀は世界で称賛を浴びているようです。
日本を訪れる外国人は、日本の安全を得難い文化として驚いているといいます。
以前、大阪の部門が社長賞を受賞し、役職員に対する表彰状を3本筒に入れて東京から大阪に運ばなければなりませんでした。その日はあいにくの大雪で、自宅から歩いて駅に着くまでに雪ですっかり濡れてしまいました。悪いことは重なるもので、東京駅までの電車は大雪で遅れが出たために立錐の余地がないほどの超満員だったのです。不用意にも表彰状の筒を紙袋に入れて持っていたことが事件のきっかけでした。両手に荷物をもって満員電車で右に揺られ、左に揺られ。さらに途中の駅では降りる人を優先して、一度駅に降りてから再び乗り込みます。何駅目までかは、表彰状を気にして、荷物の無事を確認していました。
そして、超満員電車は、東京駅へと到着します。降車する大勢の人ともに電車から駅に出てほっとして階段へと向かいます。ふと気が付くと右手に下げた紙袋が妙に軽いのです。手元見ると、紙袋は確かに手に持っています。ところが紙袋は濡れて底が抜けており、手に残っているのは紙袋の残骸だけだったのです。そこにあったはずの表彰状の筒は影も形もありませんでした。おそらく、満員電車の中か、どこかの駅で一度降りたときに落としたか、いずれにしてもショックでした。
筒に入っているとはいえ、あの超満員電車ですから何人もの人に踏まれて表彰状は原形をとどめていないに違いありません。ショックに打ちひしがれました。しかし、3日ほどたったころ、会社にJRから電話がかかってきたのです。相手先は遺失物の保管係でした。表彰状が3本届いているが、落とし主はだれかとの問い合わせだったのです。係員の方は、表彰状に書かれた社名と職員名を見て、わざわざ連絡先を調べて連絡してくれたのです。
そのときほど日本人に生まれてよかったと思ったことはありませんでした。
日本を訪れる外国人が一様に驚くのは、忘れ物が手元に戻ってくることだそうです。皆さんにも経験があるかもしれませんが、定期券パス、携帯電話、文庫本などなど、ホテルや飲食店での忘れ物や落とし物は、届け出さえしていれば相当の確率で手元に戻ります。時にはお財布までも中身までが無事に戻ってくるほどです。昔から日本では、水と安全はただ、と言われてきましたが、これも日本人であるが故の素晴らしい文化とメンタリティなのだと思います。
日本の古代にロマンを感じるのは、こうしたメンタリティを持った日本の国がどのようにして出来上がってきたのか、そのはるかなプロセスを知りたいと思うからなのかもしれません。こんなことを想いながら今週は日本の古代史を語る本を読んでいました。
「古代史講義【戦乱編】」
(佐藤信編 ちくま新書 2019年)
(ちくま新書 古代史講義シリーズ amazon.co.jp)
【歴史の教科書は正しくない?】
最近、本屋さんの棚にちくま新書の歴史講義シリーズをみかけるようになりました。昨年は、古代史講義と昭和史講義が上梓され、漠然と興味をひかれていましたが、先日新刊が発売されたのを発見しました。今回は「戦乱編」とのこと。ふと中身を見れば、15の講義が並んでいます。思わず引き込まれたのは、見慣れない戦乱の名称が並んでいる点と、著者が15人いることでした。つまり、それぞれの戦いについて別々の研究者が新たな視点で古代の戦乱を語っているということです。もともと日本の古代史好きとしては興味があるところを「戦乱」と限定されるとますます興味をそそられます。思わず購入してしまいました。
最初からその目次をたどると、第1章は「磐井の乱」、第2章は「蘇我・物部戦争」、第3章は「乙巳の変」と続きます。572年に起きたとされる「磐井の乱」も大和朝廷が中央集権化される以前の戦いであり、巻頭から興味深い題材が取り上げられています。神様系の催事を取り仕切った物部氏が仏教を推進していた蘇我氏に敗れ、物部守屋が殺された事件は、丁未の乱と呼ばれますが、この章の著者はあえて「蘇我・物部戦争」と語ります。
皆さんは、「乙巳の変」と言われてピンときますか。
私は何のことやら全くわかりませんでした。そんな戦いは日本史で習った記憶がありません。この題名を見たときに、「これ以上立ち読みするよりも、買って読んだ方が落ち着くなあ。」と感じたのが、この本を「今月の1冊」に入れた動機です。この変の読み方は、「いっしのへん」または「いつしのへん」だそうです。読むこともかなわない戦乱です。
これが日本で最も有名な戦いであったのは驚きでした。実は、この変は「大化の改新」として習った政変のことだったのです。645年。皇極天皇の治世。聖徳太子亡き後権力の中枢を担っていた蘇我氏は、自らの一族内の古人大兄皇子を跡継ぎにしようと聖徳太子の息子である山背大兄皇子を殺害し、その血を絶やしてしまいます。その横暴と権力を恐れた中大兄皇子は、反蘇我氏である中臣鎌足(のちの藤原鎌足)などと共謀し、蘇我入鹿の暗殺を企てます。時は朝鮮からの使者が来日し、その儀式が執り行われる当日でした。
皇極天皇の御前には、剣を身に付けていない蘇我入鹿が座しています。入鹿の暗殺の合図は、石川麻呂が天皇への上表文を読み上げたときでしたが、剣をもって入鹿を惨殺すべき佐伯子麻呂は事の恐ろしさに身が縮んでしまい、現れません。さらには、上表文を読む石川麻呂もあまりの緊張に汗が出て声が震えてしまいます。不審に感じた入鹿が、どうしたのかと尋ねます。「大王の前で緊張しているのです。」と答えたその刹那、槍をもって潜んでいた中大兄皇子が飛び出ました。同時に小麻呂も飛び出し入鹿を切りつけ殺害します。
(蘇我入鹿斬殺 乙巳の変 wikipediaより)
切りつけられた入鹿は皇極天皇のもとに逃れながら「私に何の罪があるか。お裁きください。」と訴えたといいます。中大兄皇子が天皇に向かって「入鹿は後続を滅ぼして、皇位を奪おうとしたのです。」と告げると、天皇は立ち上がり、部屋を出ていったと伝えられています。
その後、中大兄皇子は暗殺された入鹿の父親である蘇我蝦夷を急襲し、自宅を包囲すると蘇我蝦夷は自刃し、蘇我一族は滅亡しました。
「大化の改新」とは、この暗殺事件ののちに中大兄皇子は天皇を中心とした中央集権制度を確立するために様々な施策を実行し、改新の詔を発布するなどの一連の改革のことを指していたのです。この「大化の改新」のスタートとなった事件が、すなわち「乙巳の変」だったのです。
この本は各章を気鋭の研究者が担当し記述しているところに特色があります。「乙巳の変」の執筆は成蹊大学の教授である有富純一さんです。これまでこの事件は、皇太子擁立を巡る蘇我氏と藤原氏の権力争いとして描かれてきましたが、今回は日本から離れて国際的時代背景の中に位置づけられます。当時の日本は、朝鮮半島と強いつながりがありました。
かの有名な白村江の戦いが行われたのは663年。この事件が起きたのは、その18年前。そもそもこの事件の舞台となった朝鮮半島からの使者も三韓の使者だったのです。三韓とは、当時、朝鮮半島を治めていた新羅・百済・高句麗の三国を指しています。白村江の戦いは、新羅が百済との戦いにおいて唐に支援を頼み、百済からの救援要請を受けた日本が援軍を送った戦いです。
当時の朝鮮半島では、百済でも新羅でもクーデターが起きており、日本の権力争いもそうした朝鮮半島の不安定な争いが大きな影響をもたらしており、当時の日本はそれだけ朝鮮半島との絆が太かったといえます。特に古人大兄皇子を跡継ぎとするために画策していた蘇我氏は、新羅型の統治を目指しており、敵対していた中大兄皇子は高句麗型の統治体制を目標としていたというのです。この本の面白さは、こうした最新の支店をふんだんに取り入れた解説が次々と展開されるところにあります。
【塗り変わっていく古代の歴史】
「大化の改新」のみならず、この本ではこれまでの日本史の常識に次々と疑問が投げかけられます。587年、蘇我馬子が物部守屋率いる物部氏を滅ぼした戦い。我々の世代はこの戦いを仏教を広めようとした蘇我氏が神道を司る物部氏を滅ぼした宗教戦争だと習いましたが、事実は全く異なっていたようです。また、810年。兄太上天皇と弟嵯峨天皇が皇位を争った政争。平城太上天皇が平城京に遷都した嵯峨天皇と争いになった有名な変ですが、これは「薬子の変」と学校で習いました。それは、太上天皇の寵愛を受けた藤原薬子が太上天皇をそそのかしたためにそう呼ばれているわけですが、今は「平城太上天皇の変」と呼ばれていると言います。
その理由はぜひこの「古代史講義」で確かめて下さい。さらに大河ドラマにもなった平将門の変と、同時に起きた藤原純友の変。この変は、彼らの政権への反乱が931年から937年の承平年間に始まり、次の天慶年間まで続いたことから承平天慶の乱と呼ばれています。ところが、実は単なる天慶の乱だというのです。思わずその記述に没入してしまいました。すると、驚いたことに明治時代にこの乱は天慶の乱と呼ばれていたのです。驚きでした。
(平将門を描く大河ドラマ amazon.co.jp)
この古代史戦乱の中で個人的に最も面白かったのは、平安京政権対東北蝦夷の闘いです。このブログでもご紹介していますが、私は高橋克彦氏の東北古代歴史小説の大ファンだからです。その3部作は、大河ドラマにもなった「炎立つ」、蝦夷の英雄アテルイの半生を描いた「火怨」、豊臣秀吉に盾突いた東北の武将を描いた「天を衝く」。さらにその前史となる「風の陣」を加えれば4部作となります。
この本には、まさにアテルイの時代となる対蝦夷(えみし)38年戦争、そして奥州藤原3代の礎となった前九年合戦・後三年合戦が解説されています。小説の基礎となった歴史的事実。改めて高橋克彦氏が描いた小説世界が思い出されて感慨がひとしおでした。
日本の古代史に興味のある皆さん。ぜひこの本を紐解いてください。学校の日本史で習った歴史が塗り変わること間違いなしです。
改めて、台風19号で被災した方々。本当にお大事にお過ごしください。心からお見舞いとそして応援を申し上げます。
それでは皆さんどうぞお元気で、またお会いします。
〓今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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