釈徹宗 なにわの天才富永仲基を読む

こんばんは。

  富永仲基とは、いったい誰なのでしょうか。

  この本を手に取ったのは、著者が釈徹宗さんだったからです。釈さんは、自らも浄土真宗の寺の住職でありながら、宗教学や思想史を研究する学者でもあります。以前ブログでも紹介した新書、「法然親鸞一遍」があまりにも面白い分析本であったので、その名を覚えていたのです。今週は、久しぶりに釈さんが語る本を読んでいました。

「天才 富永仲基 独創の町人学者」

(釈徹宗著 新潮新書 2020年)

  さて、釈さんの本ですから当然仏教を語る本になるわけですが、今回は著者が仏教を語るのではなく、富永仲基という人物が仏教典をどう分析し、語ったかを紐解く本なのです。しかし、そのユニークな点はこの人物が江戸時代中頃の大阪の町民であり、さらには31歳と言う若さで夭折した天才であったという事実なのです。

【恐るべき仏教の経典体系】

  富永仲基が生まれたのは、1715年の大阪です。醤油醸造家の三男と言いますから、裕福な家の生まれです。彼が天才といわれるのは、江戸時代の中期、今だ封建時代の最中でありながら、仏教経典を研究し、儒教、道教、神教との客観的な比較分析を行い、現代の思想史にもつながる大乗非仏説を唱えた点にあります。

  確かに江戸時代には、和算の関孝和、エレキテルの平賀源内、天文学から新たな暦を生み出した渋川晴海など、きらめくような才能が開花したことはよく知られています。しかし、文献学や思想史において、近代社会学の発想をいち早く切り開いた冨中仲基の名はまったく知りませんでした。しかも、彼は病弱で32歳で夭折していますが、その偉業ともいえる著作は彼が20代の時にはすでに構想されていたというのです。

  彼の功績とはいったいどのようなものだったのでしょうか。

  日本人にとってお寺とは今や、檀家以外の方にとってはパワースポツトとして、また御朱印をもらう場所として認識される場所になりました。日本に神代からある神様を祭る神社と仏さま(ご先祖様)が眠っているお寺ですが、パワースポットや御朱印帖の観点から見るとその差異がわからなくなっています。そもそも語れば、蘇我氏と物部氏の世界に至ってしまいますが、神教と仏教は政治的な変遷のおかげで混在していることが混乱のもととなっています。

  神様系は、もともと「日本」が認識されたときに大和系の支配者が自らを正当化するために日本独自の神話を日本の歴史書に作り上げたところから記録された歴史として始まります。そして、神社には八百万の神のうちの神々が祭られています。一方、仏教は中国から朝鮮を経由してもたらされた宗教であり、奈良王朝の支配者が当時最先端の仏教を日本に浸透させることによって日本を最先端の国として統一しようと、その手段に選んだ宗教です。仏教には神様はいないのです。

  以来、平安、鎌倉とこの仏教の奥深さに魅入られた人々が、脈々と仏教の教えを日本に広め、さまざまな宗派が日本各地にいきわたることになったのです。

  日本の国策として導入された仏教ですが、その普及には多くの仏僧たちの命を懸けた歴史が折り重なってできています。初期には遣隋使や遣唐使として命がけで中国に渡りその経典を日本にもたらした先陣たちが日本仏教の礎となりました。奈良時代には、唐から鑑真が招かれ、日本に帰化し「律(戒)」による仏教を日本に根付かせます。

  その後、平安時代から鎌倉時代にかけて日本では絢爛たる仏教の広がりが展開します。平安時代には、遣唐使として空海、最澄が唐に派遣され、帰国後にはそれまでの律宗や華厳宗に対抗して、密教の流れをくむ真言宗(高野山)、天台宗(比叡山)を開きます。

  さらに鎌倉時代に至ると、念仏思想が広まり、法然が「南無阿弥陀仏」を唱える浄土宗を開き、浄土宗をさらに進めた親鸞が浄土真宗を開きます。さらに念仏思想があまり拡大したことに対し、日蓮が「南無妙法連華経」を唱える日蓮宗を立ち上げました。庶民への普遍とともに、幕府を構える武士たちにも禅宗に連なる臨済宗や曹洞宗も中国からもたらされました。

  江戸時代には、禅宗の一つとして黄檗宗(おうばくしゅう)も開かれます。

  仏教の宗派は、ここで紹介した以外でも数多くの宗派が乱立し、そのすべての宗派において部週ごとの仏教経典が作られていきます。日本の神教は伝説や説話によって形作られていますが、仏教は仏様(コーダマ・シッダルタ)の教えを教義として構築・系統づける膨大な経典に基づく教えによって形作られているのです。

  と、こう書いてくると、この本の主人公、富永仲基は難しい経典の解説をしているのかと思われる方がいると思いますがさにあらず。彼は、これまでの膨大な仏教典を俯瞰して、彼以前には誰も持ちえなかった視点から仏教典のあるべき読み方を語っているのです。

【「出定後語」は何を語るのか】

  私事になりますが、父が亡くなって早いもので四半世紀が経とうとしています。父は歴史と仏教が好きで、家には仏教全集のための書庫があり、晩年はいつもクラシック音楽を聴きながらリクライニングチェアで仏教の本を読んでいました。専用の書庫を持つほど仏教の本を集めていましたが、宗派を決めて読んでいたわけではなく、仏教とは何なのかを自問していたのかもしれません。

  仏教と言えば、本を読んでいる父親の姿が目に浮かびます。

  富永仲基が世に残ったのは、一冊の著作が刊行されたことによります。その本の名は「出定後語(しゅつじょうこうご)」と言います。

  この題名には仲基の並々ならぬ自信がみなぎっています。「出定」とは仏陀が悟りを開いた(禅定というそうです。)後に俗世に戻ることを言います。つまり題名は、仏陀は悟りを開いた後に世俗に戻って語る、との意味なのですが、語っているのは仲基自身なわけですから、この題名は自らを仏陀に模していることになります。つまり、仲基は自らを仏陀に見立てて仏陀の悟り以後の言葉をこの本を記す、との決意を題名にしているのです。

  釈徹宗氏は、この本で富永仲基がどのように江戸期に現代に通じる思考を語ったのかを我々に教えてくれるのです。その現代性と天才にはなるほど驚かされます。

  「出定後語」は、「序」から始まり全25章に渡って仏教のあらゆる経典とその考え方に対する考察を重ねていく著作です。そこには、それまでの歴史では出てこない、新しい発想(客観性)がちりばめられています。

  その語られるところは、この本を読んで味わって欲しいのですが、ここではその「さわり」の部分をご紹介します。

  まず、仲基の経歴ですが、彼は当時大阪で幕府から私塾として認められていた懐徳堂で、15歳の時まで儒教を学んでいました。その頃よりものごとの本質へのこだわりがあり、儒教の教えに対してもその考え方には批判的でした。現在は実在しない「説蔽」という書を著したといわれていますが、釈さんはこの頃からの思考がのちの「出定後語」につながるものと分析しています。

  儒教は、ご存じの通り孔子の教えからはじまっているわけですが、その教えは弟子によって継承され、孟子の「性善説」や荀子の「性悪説」などその教えは深みを加えて進化しています。

  仲基が記した「説蔽」は残っていませんが、彼はその後、24歳のころに「翁の文」という著作を書いており、この本でもその本の内容が紹介されています。釈さんは、「翁の文」の中で仲基が儒教について述べている文章に注目し、儒教に対する批判がその後の思考につながっていると分析しています。

  その考え方は、「加上」です。江戸時代の文章は、漢字のみで書かれている場合が多く、レ点をつけて読むのは漢文で習うとおりです。そのように読めば、「加上」は上に加えると読むことができます。つまり、今学んでいる儒教は、本質である孔子の思想のうえにその弟子たちの主張が載せられたものであり、それを知ったうえで解釈するべきだというのです。つまり、「性善説」や「性悪説」は、孟子や荀子が自らの説を強めるために孔子の教えの上に「加上」したものであり、孔子の教えではない、というのです。

  仲基は、この批判書のために懐徳堂から追い出された、とする説もあるそうですが、当時、儒教も含めて尊い教えに対する批判は頭から否定されたであろうことは想像に難くありません。

  その後、仲基は田中洞江のもとで詩文を学び、さらに宇治の萬福寺で仏教経典を研究したといわれています。その中で、「出定後語」で分析、批評されている合理性に富んだ思考がはぐくまれていったものです。今でこそ、その考え方には何の違和感もありませんが、当時の封建社会の中ではあまりにも突飛な考え方で、受け入れられる土壌はなかったのでしょう。

【すべてから自由な発想】

  富永仲基の現代性は、その思考の基本的な考え方に顕著に現れます。

  例えば、儒教や仏教、道教などの教えを紐解くときには、それが語られた国の民族性を考慮することが必要と語ります。仏教が生まれたインドでは民族的に「幻説」が修飾として必要とされ、それは空想的、神秘的になるといいます。また、中国の民族性は「文飾」にあり、誇張された修辞が用いられます。そして、日本の文化は「清介質直」を好み、要点簡潔で素を良しとするといいます。

  また、経典を読む中で、言葉に潜む落とし穴?にも言及しています。

  文献の中に語られる「言葉」には、気を付けなければいけない点があるといいます。まず、言葉は

  語る人によってその意味が異なるという特徴です。同じ言葉でも、その意味は経典を語る人、それを書いた部派によって異なるのでそれを踏まえることが必要となります。次に、言葉はそれが語られた時代や世代によって意味が異なる点です。確かに同じ言葉であっても使われる時代によってその意味は違ってきます。古典の時間に習った「いと、おかし」も当時は面白いものではありませんでした。

  仲基は、言葉に対するこうしたポリシーを、「出定後語」の中に一章を設け、自らのオリジナルな考え方として語っています。この章の題名は、「言に三物あり」となります。それは、前出の「言は人なり」、「言は世なり」と記されていますが、さて、三物の3つめはいったい何でしょうか。

  それは、仲基自身によって、「言は類なり」と語られています。「類」とは養蜂のことなのですが、それには5種類の用法区分があるというのです。実は、この類については、なんでも編集してしまう知の巨人、松岡正剛さんもその著書「遊学」の中で取り上げているのですが、その「類」はぜひこの本で確かめて下さい。


  この本には確かに仏教経典を合理的な目で批判した江戸期の天才が描かれていますが、その曇りのない目は、明らかに物事の本質をつきつめる哲学的な姿勢に貫かれています。若冲と言い、仲基といい、江戸時代は天才に満ち溢れていることに驚きます。

  明日からまた新年度を迎えますが、コロナウィルスとの闘いはまだまだ続いています。皆さん、気を緩ませることなく、マスク、消毒、3密回避を徹底し、みんなで命を守りましょう。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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