評論(その他)一覧

手島龍一 佐藤優 公安調査庁とは何か

こんばんは。

  菅総理が総裁選挙に不出馬を表明したことには少なからず驚きました。

  総理は、自ら差配できる戦略である解散総選挙がコロナ禍の中で選択できないとして、最後の手段として自民党の党内人事の改革を打ち出しました。しかし、自民党内からの様々な声を受け止めた総理は、解散も人事も取りやめて満期を迎える自民党の総裁選挙に出馬しないとの選択をし、総理を辞任する道を選んだのです。

  菅総理は、日本の憲政史上最長の任期を務めた安倍総理のもとで7年以上も官房長官をつとめ、安倍総理の突然の辞任を受けて第99代目の内閣総理大臣の座に就きました。菅さんは、官房長官として新型コロナ対策に当たり、その継続を第一義として総理に就任しました。その意味で、菅さんの内閣はまさに実務内閣であり、コロナウィルスが終息すれば、その功績により総理の株も上がって自民党総裁の椅子は引き続き菅さんのものであったと思います。

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(総裁選不出馬を表明する菅総理 asahi.com)

  しかし、コロナウィルスもさるもの、次々に新たな遺伝子を獲得し、インド発のデルタ株はその威力を増して、こともあろうに2020東京オリ・パラ開催を襲ったのです。1年延期をしたにもかかわらず、大会は第5派の最中に行われることとなりました。

  もともと菅さんは、安倍さんの後継として立候補することさえためらっていたのですから、権力に対する妄執は持っていないのではないでしょうか。もちろん、政治家になったからにはその頂点に立ちたい、との人としての志はあったに違いありません。しかし、ワクチン接種によって一定の道筋ができたことによって、菅さんは自らの引き際を潔く判断したのだと思います。

  菅内閣は、携帯電話料金の引き下げ、デジタル庁の発足、東京オリンピック・パラリンピック開催とたった1年間の間に驚くほどの成果を挙げました。望むべくはその先までも先導して成果を挙げることなのですが、政治とは摩訶不思議なもので国民感情、自民党事情は菅さんの継続を望んでいないようです。

  2世議員ばかりが闊歩する中で、庶民宰相として腕を振るった菅総理に心からの拍手を送りたいと思います。

  次期総裁についてはいろいろと思うところがありますが、野球と政治の話は営業マンにはご法度ですので、今回はここまでといたします。

  さて、緊急事態宣言の行方も気になる中、今週は久々に日本のインテリジェンスを語る対談本を読んでいました

「公安調査庁 情報コミュニティの新たな地殻変動」

(手島龍一 佐藤優著 2020年 中公新書ラクレ)

【インテリジェンスのワンダーとは】

  このブログをフォロー頂いている皆さんは、「インテリジェンス」のラベルに34の記事が連なっていることをご存知かと思います。

  最初に「インテリジェンス」と出会ったのは、国際スパイ小説です。

  「インテリジェンス」は「諜報」と訳されることが最も多いので、すぐにスパイを思い浮かべてしまいます。もちろん、そのワンダーは「諜報小説」によるところが大きいのは間違いありません。その手に汗握る面白さはエンターテイメントにうってつけですが、本来の「インテリジェンス」は、その国の存続を左右する最重要の情報を取得することを意味するのです。

  「国の存亡を左右する」と言えば、その最たるものは戦争です。

  例えば、第二次世界大戦における「諜報」は、各国の存亡にストレートに結びついていました。例えば、真珠湾攻撃をめぐる「諜報合戦」は人間ドラマまでも内包した手に汗握るストーリーとして、様々に描かれています。

  代表的な小説は、佐々木襄さんの「エトロフ発緊急電」(新潮文庫 1994年)です。この小説は、スパイ小説というよりも、戦線で友を殺さなければならなくなった日系アメリカ人の若者ケニー・ケンイチロウ・斉藤が、アメリカ海軍によってスパイに仕立て上げられ、真珠湾奇襲の情報を入手し本国へと送るとの密命を遂行する物語です。その物語には幾重もの人間関係が刻まれて、まさに愛憎の中で人々が身もだえる姿が描かれた傑作です。

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(文庫「エトロフ発緊急電」 amazon.co.jp)

  さらに、逢坂剛さんのイベリアシリーズ第2作の「遠ざかる祖国」(講談社文庫 2005年)にも真珠湾奇襲の情報が登場します。このシリーズは、日中戦争中の日本から中立国スペインに送り込まれたスパイ、北都昭平の活躍を描いたエスピオナージです。当時のマドリードは、第二次世界大戦における中軸国と連合国の諜報合戦の中枢でした。そこには、イギリスのMI6、アメリカのOSS、ドイツのアブヴェーアが諜報員を送り込み、丁々発止の諜報戦を演じます。

  日本から送り込まれた北都昭平は、日本の現状で日米開戦に突入すれば日本に勝ち目がないことを見抜き、なんとかアメリカに参戦させたいチャーチルの思惑を背景に日本に開戦を止まらせようと奔走します。その中で、真珠湾攻撃の諜報合戦が繰り広げられるのです。

  真珠湾攻撃と言えば、少し変わったインテリジェンス小説もあります。

  それは、西木明さんのインテリジェンス小説「ウェルカム トゥー パールハーハー」(2011年 角川文庫)です。

  「真珠湾奇襲による日米開戦」は、日本にとっても国の存続を決定づける最重要情報ですが、第二次世界大戦で劣勢に立たされていたイギリス、対ドイツ戦で国土と体制を守らなければならないソ連、国内の世論から中立を貫くことを求められているアメリカ、どの国にとっても国の存亡にかかわるインテリジェンスに間違いありません。

  この小説は、その題名の通りニューヨークに送り込まれた二人の日本人諜報員を主人公に、各国の諜報機関が「日米開戦」をめぐり、スパイ合戦を繰り広げる、本当に面白い小説です。モデルには実在した日本の諜報員が存在しており、そのリアリティが小筒に厚みを加えています。

  話は長くなりましたが、「インテリジェンス」とは一国の存続にかかわる諜報のことを指すのです。

  さて、現代の国際情勢の中でも各国は、インテリジェンスの取得に力を入れています。その代表はパレスチナとの戦闘が常に隣り合わせのイスラエルです。その諜報機関である「モサド」では、イスラエル存続のためにあらゆる諜報に日夜奔走しています。その実態は、「モサド・ファイル イスラエル最強スパイ列伝」(早川ノンフィクション文庫 2014年)や元モサド長官だったハレヴィ氏が著した「イスラエル秘密外交:モサドを率いた男の告白」(新潮文庫 2015年)を読めばその一端にふれることができます。

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(文庫「モサド・ファイル」 amazon.co.jp)

  ところで、日本のインテリジェンスはどうなっているのか。

  現在の日本で、インテリジェンスを語らせれば右に出る者がいないと言ってもよいのは手島龍一氏と佐藤優氏です。お二人は、これまで最新の国際情勢をインテリジェンスの観点から語る本を対談で上梓してきました。

  そのお二人が日本のインテリジェンス機関を語ったのが今回の対談本です。

【時代は公安調査庁に光を当てた】

  さて、日本のインテリジェンス機関と言えば、内閣情報調査室が思い浮かびますが、日本で各省庁に必要な調査機関が存在します。例えば、外務省では国際情報統括官、防衛省では統括情報局のもとに陸上・海上航空それぞれの情報隊、警察庁では警備企画課、海上保安庁にも警備情報課があります。

  省庁それぞれの情報は、内閣情報調査室にあげられて内閣情報会議、合同情報会議へと送られます。そして、最終的には官邸や国家安全保障会議に伝えられることになります。

  内閣情報調査室には、実際に諜報自体を行う人材は配置されておらす、基本的には各省庁から送られてくる情報を取りまとめる組織なのです。日本のインテイジェンス体制の弱点は、ここにあります。つまり、アメリカのFBICIA,、イギリスのMI5MI6、イスラエルのモサドなどのように意思決定者に直接インテリジェンスを伝える組織とは基本的に異なっているのです。

  そんな中で、少し変わった位置づけにあるのが、公安調査庁です。「公安」というからには、公安警察に連なる組織化と思いきや、公安調査庁は法務省に属する情報組織なのです。いったいなぜ法務省が諜報組織を司っているのでしょうか。実は公安調査庁だけが戦前の諜報機関からの歴史を継承する組織だからなのです。

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(煉瓦造の法務省旧本館 moj.go.jp)

  この本では、公安調査庁がかかわった驚くべきインテリジェンスとその成り立ちが語られているのです。

  まず語られるのは、2017年にクアラルンプール空港で暗殺された北朝鮮の最高指導者、金正恩の兄、金正男にかかわる情報です。暗殺から遡ること16年。2001年、金正男が日本の成田空港で拘束されるという事件が起きました。このとき、北朝鮮は金正恩の父、金正日が思考権力者として君臨していました。つまり、この時点で日本が拘束した金正男は最高指導者の長男であり、最右翼の継承者のひとりだったのです。

  拘束された理由は、偽造パスポートによる入国容疑でした。この事件の顛末は、本書に詳しいので読んでいただくとして、日本の入国管理者はなぜ偽造パスポートをみやぶることができたのでしょうか。超優秀だったから?いえ、違います。

  その答えは、事前に偽造パスポートによる金正男の入国を当局が知っていたからなのです。そして、この情報を入手したのが、公安調査庁だったというのです。いったい公安調査庁はどうやってこのインテリジェンスを手に入れたのでしょうか。それは、海外のインテリジェンス機関からのタレこみ情報だったのです。

  そして、情報をもたらしたのはどの国の機関だったのか。

  インテリジェンスの世界では、情報の入手もとは秘匿することが絶対的なルールです。なぜなら、それを漏らした組織は、信用を失い二度とこの世界では活動できなくなるからです。つまり、この情報がどこからもたらされたのかは、永遠の謎です。しかし、著者であるお二人は、得意の見立てによってそのもたらした組織を特定していきます。それは、なんとイギリスのインテリジェンス組織だというのです。

  この事件を語ったのち、お二人は公安調査庁がなぜ、海外のインテリジェンス組織から大きな信用を勝ち得ているのかを、日本のインテリジェンスの実態と合わせて語っていくのです。

  もうひとつだけネタばれです。2014年。シリアでは「イスラム国」がその勢力を拡大し、世界中の若者をテリリストとしてスカウトしていました。そして、日本でも衝撃的なニュースが報道されました。それは、当時の北大生が「イスラム国」と連絡を取り合い外人戦闘員として、イスラム国に渡航するために九空権を入手していた、という事件です。この事件は、事前に警視庁公安部が私戦予備・陰謀の容疑で学生から旅券を押収していたため未遂に終わりました。

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(対談「公安調査庁」 amazon.co.jp)

  この事件を抑えたのも公安調査庁がさまざまな諜報によって日頃から活動し、イスラム国の連絡所となっていた古書店をマークしていたことが功を奏したからでした。

  公安調査庁は、日本のインテリジェンスを担うべき組織なのか。

  答えは、お二人の本で読み解いてください。久々にインテリジェンス話題にのめりこみました。皆さんもこの本で、ぜひ日本のインテイrジェンスに思いをはせて下さい。


  さて、コロナ禍も新規感染者数は減少し、緊急事態宣言も解除されそうな雲行きです。しかし、ワクチンを打っていても感染リウクはあると言います。さらにウィルスは変異します。我々も油断することなく、感染対策を万全にして毎日を過ごしましょう。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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渋沢栄一 めざすのはすべての人々の幸せ

こんばんは。

  今年の大河ドラマの主人公は渋沢栄一です。

  また、今年は1年延期された東京オリンピック、東京パラリンピックが開催されています。新型コロナウィルスの第5波の襲来によって、その開催に対して反対する意見も多くみられますが、かかわる人たちの献身的な感染対策の展開と徹底には頭が下がります。様々な意見はありますが、選手たちの活躍が、我々にコロナに正しく立ち向かう勇気を与えてくれているのは間違いのない事実です。

  ここしばらく、大河ドラマは面白さに欠けていて我が家ではすっかりごぶさたをしていました。ところが、今回は地元埼玉県出身の偉人が主人公と言うことで、毎回かかさず見ています。渋沢栄一は、その青年期を維新の時代に過ごしました。200年以上続いた江戸幕府から新明治政府に180度の大転回を果たす。まさに日本の歴史の中で、最も価値観の大転換が起きた時代でした。

  これまで、大河ドラマでは明治維新の主役たちが数多く主人公となりましたが、明治維新ではわき役であった人物が主役となったのははじめてではないでしょうか。しかし、誰もがこの歴史の転換点のただ中にいたことは間違いなく、「志」を貫こうとした渋沢栄一も時代に翻弄された人物の一人です。

  その生涯は波乱に富んでおり、その面白さは無類です。

  先週は、その渋沢栄一が100年以上前に著した「よりよく生きるための羅針盤」と言ってもよい著作を読んでいました。

「現代語訳 論語と算盤」

(渋沢栄一著 守屋淳訳 2010年 ちくま新書)

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(新版「論語と算盤」 amazon.co.jp)

  さて、その「青天を衝け」も、オリ・パラの威力には勝てず、その開催期間には放送されません。

閑話休題

  今回の東京オリンピックでは、わが日本が過去最大の58個のメダルを獲得しました。しかも金メダルは27個。オリンピックは参加することに意義がある、とは言いながら、やはり自国の選手がメダルを獲得することは、日本国籍を持つものとして大いに誇りに思います。とくに柔道や体操は、日本のお家芸としてみごとな世代交代を成し遂げて、世界にその強さを見せつけてくれました。

  その陰では、金メダルを期待されながら成果が出なかった競技種目もありました。

  いったい何が違ったのでしょうか。

  それは、これまでの歴史において培われてきた指導者と選手の心技体の鍛錬の違いではないかと思います。世界ランカーが何人もいながら決勝まで進めなかったバトミントンは、ケガによる要因もありましたが、なぜか全員が何者かに魅入られたかのように予選敗退となりました。その中で、混合ダブルスの東野有紗選手と渡辺勇大選手は、見事な戦いぶりで香港チームを下し、銅メダルを獲得しました。

  例えば、バトミントン勢の不調は、自国開催のオリンピックに対する大きな期待へのプレッシャーや1年間の延期期間の圧迫などのメンタル面での影響とも言われています。確かに、柔道や体操、野球、水泳などと異なり、これまでのオリンピックでの実績は、ロンドンでの初のメダル、前回大会の女子シングルス、の銅メダル、女子ダブルスの金メダルのみです。

  どの競技においても、過去には不遇の時期がありました。しかし、今大会の柔道競技のように、指導者層と選手が一丸となって、これまでの成果と課題を分析し、着実なトレーニングを継続して続けたこと、さらに全員で他業種競技を体験するなどのメンタルトレーニングも行ったことがメダルラッシュにつながったとの大きな成果もあります。体操におけるすそ野の広い選手育成システムも大いに参考になるのではないでしょうか。

  今回、無念の涙をのんだ選手たちの一層の奮起に大いに期待しています。

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(みごと銅メダル ワタガシペア nikkansports.jp)

  一方、東京パラリンピックは、今回多様性の調和を大きな理念として掲げ、連日その言葉通りの多様な選手たちの闘いが胸を熱くしてくれます。

  パラアスリートたちには、一人一人異なる克服してきた過去があります。その過去をプラスに転じたパワーとそれを支えてきた家族や仲間たちの想いが、連日の感動の源になっていることは間違いありません。その熱い戦いには目が離せません。

  皆さん、パラアスリートたちの闘いを応援しましょう!

【渋沢栄一って誰でしょう】

  さて、渋沢栄一とは何者のでしょうか。

  彼が生まれたのは江戸時代の末期、1840年(天保14年)です。日本が幕末の動乱を経て、明治維新を迎えたのが1868年(明治元年)。そのとき栄一は28歳でした。そして、幕末から維新、そしてその後には、波乱万丈の人生を送り、1931年(昭和6年)にその生涯を閉じました。

  その生まれは、埼玉県深谷市の血洗島。

  大河ドラマを見るまで、恥ずかしながらその人生と功績はあまりよく知りませんでした。

  それでも日本で初めて銀行を設立し、それが第一銀行と言う名称で、第一勧業銀行からみずほ銀行となったこと。産業振興に努め、地元深谷にレンガ工場を設立。東京駅にみごとな日本製のレンガを提供し、深谷駅にも同様のレンガが使用されてレトロ建築として有名であること。王子駅に近い飛鳥山公園にその邸宅があったことは知っていました。

  その渋沢栄一は、2024年度から新1万円札の顔になることが決まっています。聖徳太子、福沢諭吉と並んで1万円札になるとは、本当に日本の発展に尽くした人なのですね。

  そんなこんなで、今年の大河ドラマは毎回欠かさずに見ているのですが、今年の大河ドラマは異例ずくめです。まず、昨年からのコロナ禍で、前の「麒麟がくる」の撮影が中断。その放送が延びたことから本来12月末で終了するところが、2月まで放送が延長されました。さらに今年は東京オリンピック・パラリンピックがあり、大河ドラマの放映回数が縮小。「青天を衝く」も延長されるのかと思いきや、こちらはいつもどおり12月で終了するようです。

  こうした逆境の中でも「青天を衝け」は近年になかった面白い大河ドラマに間違いありません。

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(「青天を衝け」ガイドブック amazon.co.jp)

  その面白さは、現実の渋沢栄一の生涯が奇想天外であったことが大きな要因です。栄一の実家は血洗島で藍を取り扱う豪農でした。そこで、父親から藍の育成から仕入れ、藍染め屋への卸まで農業と商売のノウハウを学んでいきます。ところが、17歳の時、父親の名代で地元の代官から税の徴収を申し付けられるとの場を経験します。そのとき、農家が汗水たらして稼いだ銭を、武士が言葉一つで貢がせることの理不尽を味わい、その理不尽な仕組みを覆すためには、自分も武士になるしかないと決意するのです。

  このドラマの脚本はよく書かれていて、渋沢栄一が将来実業家になり、第一銀行をはじめとして480社もの会社を設立し、日本資本主義の父と呼ばれることとなる、その根本の思想がどのように形成されたのかを、その幼少期に求めています。それは、栄一の母、ゑいが諭すように語る言葉です。それは、「みんなが幸せなのが一番なんだ」という一言。この言葉が栄一の将来を象徴する一言となるのです。

  そして、武士になるために父親の家を出て、江戸に出た栄一が出会ったのが、平岡円四郎でした。円四郎は栄一の向こう見ずで志豊かな人柄が好きでたまりません。その円四郎は、なんと徳川慶喜の第一の家臣だったのです。血洗島では尊王思想から討幕のために高崎城乗っ取りまで計画していた栄一は、その徳川の家臣である円四郎から仕官を勧められます。栄一は、その変節に悩みますが、世の中を変えるために徳川慶喜への仕官の道を選びます。

  その仕官に至る栄一の行動が、このドラマのオープニングを飾るみごとな場面です。

【栄一が語る「論語と算盤」とは?】

  さて、そうした渋谷栄一が100年以上前に出版したのが、今回ご紹介する「論語と算盤」です。

  この本は、渋沢栄一を慕う人々が、彼の講演会での話を毎回雑誌に掲載し、その後に項目別に編集したものを出版した本です。つまり、渋沢栄一の講演録ですが、その内容は渋沢の生きる指針が語られていると同時に、ところどころ自らのル-ツにも触れている素晴らしい内容となっています。

  その目次を紐解くと、第一章 処世と信条、第二章 立志と学問、第三章 常識と習慣、第四章 仁義と富貴、第五章 理想と迷信、第六章 人格と修養、第七章 算盤と権利、第八章 実業と士道、第九章 教育と情誼、第十章 成敗と運命。その章も面白く、とても100年以上前に語られた言葉とは思えません。もちろん、訳者、守屋淳氏に負うところも大きく、きわめて読みやすい書体となっています。

  ところで、この本の題名ですが、「論語」は孔子の教えが記されたあの「論語」のことです。そして、「算盤」は、今でいえばコンピューターもしくはタブレットと言い換えることができるのではないでしょうか。渋沢は、大蔵省に入る以前から日本の国力を高まるためには、国が経済的に豊かに名たなければならないと考えていました。そのために必要なのは、民間での商業の発展です。

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(渋沢栄一翁肖像画  kof.or.jpより)

  そのためには、銀行が出資し、市中に資金を潤沢に供給し、その資金を集めて株式会社を設立し、その利益金が積み重なれば、国民も政府も豊かになるとの信念です。

  そのためには、株式を上場するための証券取引所も必要です。渋沢は、第一銀行と同時に東京証券取引所の開設にもかかわっていました。そして、その豊かさ創出のための経済的な営みを象徴するのが、「算盤」です。しかし、バブル経済の崩壊やサブプライムに端を発したリーマンショックを見れば、知恵や哲学のない「算盤」の暴走は、人類を、豊かさとは対極の不幸へと導いてしまいます。

  渋沢は、商売や仕事に不可欠なものは、「商売道徳」であると語ります。日本では、「論語」から出た儒教をルーツとする朱子学に基づいた武士道が発達しましたが、その中で人格者に必要とされるものは、「仁」「義」「孝」「弟」「忠」「信」とされています。商売において利益を追求する場合でも、士道に通ずるこうした「商売道徳」がなければその商売は決して長続きはせず、豊かさには通じないのだというのです。

  この本には実業に必要な様々なことが書かれていますが、ときに面白いエピソードも差し込まれています。渋沢が大蔵省にて財政改革に奔走していたときに渋沢の自宅に当時、政府の参与を勤めていた西郷隆盛がやってきたと言います。果たして、西郷は何の目的で渋沢栄一の下を訪れたのか。そのエピソードは、ぜひこの本の第六章で味わってください。

  これまで、企業統治と言えば、京セラの稲盛さんやソニーの井深さん、はたまたユニクロの棚井さんの本に心を動かされてきましたが、100年以上前の日本にすでに企業統治の基本的理念を持った人物の本が出版されていたとは驚きです。

  この本は、プロ野球パリーグ、日本ハムの栗山英樹監督が新たに入団した選手たちに毎年配っているそうです。プロ野球選手は、野球人である前に一人の社会人としての人格が必要との考えは、野村克也さんが常に口にしていた言葉でした。栗山さんもヤクルト時代にそうした薫陶を受けた野球人の一人です。

  たしかにこの本にはそれだけの価値があります。


  世間ではまだまだコロナウィルスの新規感染者の数が高止まりを続けています。皆さん、ぜひともマスク、手洗い、消毒、密回避を実践し、コロナに打ち勝ちましょう。ワクチン接種も忘れずに!

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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池内紀 ドイツ文学者最後の仕事

こんばんは。


  このブログで敬愛する池内紀さんを礼讃する記事を書いてから10年以上がたちました。


  その池内紀さんが20198月に亡くなったことを知ったのは、2020年に入って本屋さんを巡っているときに「池内紀 追悼」というポップを見つけた時でした。最後に上梓された新書はそのときに購入したのですが、池内さんの言葉を読むことができなくなったと思うと、その本を手に取ることができずに1年以上が過ぎてしまいました。


  前回、亡くなった半藤一利さんの対談本を読んで、ふとその隣に並べてあった池内さんの本に目が留まりました。そして、この本を読もうと思ったのです。


「ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」

(池内紀著 中公新書 2019年)


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(新書「ヒトラーの時代」 amazon.co.jp)


【この本が書かれたわけ】


  ドイツ文学と言えば、個人的にはトーマス・マン、ヘッセ、カフカが思い浮かびます。


  最も近くに読んだ池内さんの本は、「戦う文豪とナチス・ドイツ」というスイスに亡命したトーマス・マンが記した日記を解読したエッセイです。トーマス・マンはドイツ文化をこよなく愛し、第一次世界大戦の時にはそのドイツの戦争を擁護し、ドイツ文化のために「非政治的人間の省察」というドイツ独自の体制の在り方を擁護する著作を発表しています。


  しかし、敗戦後には新たに立ち上げられたワイマール共和国を礼讃し、その民主主義をたたえました。ドイツは、第一次世界大戦での敗戦によりヴェルサイユ条約によって莫大な賠償金を課せられ、さらに未曾有の世界恐慌のあおりも受け、想像を絶するインフレに見舞われます。1921年には、1ドル=350マルクであったレートが、アッという間に下落を重ね、1923年の11月には1ドル=10億マルクという想像すらできない金額に下落しました。


  こうした混乱の最中、ワイマール共和国では政権を担うべき与党が脆弱であり、小党乱立の状態でまともな政治を行う状況ではありませんでした。ナチス(国民社会主義労働党)の前身であるドイツ労働党もそのなかの一つでしたが、1919年ヒトラーは30歳にしてこの党に入党したのです。


  ヒトラーは、ナチス党の公開討論会でみごとな演説を重ねに重ね、徐々に頭角を現していきます。


  民主主義の根幹をなすのは選挙制度です。ワイマール共和国では議会議員を総選挙で選出し、過半数の議員の票によって大統領が選出される仕組みでした。寄せ集めで立ち上げられた内閣は確固たる政策を打つことはできず、内閣は解散を繰り返します。19307月の解散総選挙のとき、それまで12議席に過ぎなかったナチスは、107議席と大躍進を果たし第二党へと躍り出ます。


  さらに総選挙後に発足した内閣は19326月、組閣3日後に解散し、またしても選挙が行われます。ここで、ナチスは230議席を獲得し第一党となり、内閣の総辞職が重なる中で、大統領ヒンデンブルグは、第一党の党首ヒトラーに首相を要請したのです。


  ここから、民主主義の仕組みを巧妙に利用し独裁を実現していくヒトラーとナチスの謀略がはじまったのです。


  トーマス・マンは、かねてから国家社会主義を標榜し国民をあおるナチスに悲観を繰り返していましたが、19332月にスイスに夫婦で講演旅行に出かけている最中、ドイツでひとつの事件が起こります。それがベルリン国会議事堂炎上事件です。この事件は共産党の若者が議事堂に放火し、全焼した事件ですが、ヒトラーはこの事件を最大限利用します。テロ防止のために、言論の自由や結社の自由などの権利を制限し、権限を首相に集めていくのです。当時、共産党は81の議席を保有していましたが、ヒトラーはその議席を廃止。これにより、288議席を持つナチスが議席の過半数を占めることとなったのです。


  長男からこの状況を聴いたトーマス・マンは、そのままスイスに亡命します。


  ナチスとヒトラーは、こうして独裁の道をひた走り、反体制分子をすべて粛清し、領土を拡大。第二次世界大戦を勃発させ、世界中で4000万人もの民間人と2000万人以上の軍人が命を落としました。あまつさえ、ユダヤ人に対する殺戮(ホロコースト)によって570万人もの命が奪われたと言われています。


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(虐殺施設 アウシュビッツ収容所 jiji.com)


  それにしても、池内紀さんはなぜ最後にヒットラーの時代を描く仕事を成したのでしょうか。


  この本の「あとがき」にこの本を書いたわけが記されていました。


  自らのドイツ文学者の仕事をしながら常に意識にあったとのくだり。「いずれの場合にも、背後に一人の人物がいた。独裁者ヒトラーとして極悪人の名を歴史にとどめた。だが、その男に歓呼して手を振り、熱狂的に迎え、いそいそと権力の座に押し上げた国民がいた。私が様々なことを学んだドイツの人々である。こういったことを、どう考えたらいいのだろう。ついては『ドイツ文学者』をなのるかぎり、『ヒトラーの時代』を考え、自分なりの答えを出しておくのは課せられた義務ではないのか。誰に課せられたというのでもない。自分が選んだ生き方の必然の成り行きなのだ。」


  そして、文章はこう続きます。「そう思いながら、とりかかるのを先送りにしてきた。気がつくと、自分の能力の有効期間が尽きかけている。もう猶予ができない。」


  池内さんの文章は、常に変わらず、淡々と、しかし瀟洒につむがれていきます。


  この遺作ともいえる最後の本を読んで、改めてこれまで数々の著作で池内紀さんが教えてくれた様々な楽しみと教訓が思い出されてなりません。本当に感謝です。そして、改めて、ご冥福をお祈りします。


【独裁者に成り上がることができた理由】


  話は変わりますが、皆さんは望月三起也という漫画家を覚えているでしょうか。


  そうです、かつて「少年キング」で連載されていた「ワイルド7」の作者です。バイクにまたがって走ることが三度の飯より好きな荒くれ男7人が、警視庁の特別警官隊として無法を持って無法をつぶしていく物語です。毎回、バイオレンスな世界が描かれながらも内側に隠れた正義感をニヒルににおわせて最後にはホロリとさせられる展開がたまらなく面白い名作でした。


  その望月三起也さんが描いた作品に「ジャパッシュ」という名作があります。


  この物語は、ある日本人考古学者がメキシコのマヤ文明の遺跡である石碑を発見する場面から始まります。その石碑には、良く知られた名前が彫り込まれていました。アレキサンダー、アッチラ、ジンギスカン、ナポレオン、ヒトラーと掘られた横には、彼らの生年月日と没年が刻まれていたのです。そして、その最後に刻まれていたのが「ジャパッシュ」。その生年は読み取れますが、没年はかすれており読み取ることができません。


  果たして、この石碑は未来を予言したものなのか。


  翻って、場面は現代日本へとは展開します。主人公である日向光は、生まれながらに「悪」の化身でした。生まれたとき、その目力のまがまがしさに思わず首を絞めてしまおうとする産婆を、逆に殺してしまう恐るべきエピソード。そして、小学生のときに日向は、石碑を発見した考古学者の孫、石狩五郎と同級生となり、その家に遊びに行きます。老学者は日向の生年月日を知って、彼こそが石碑にかかれた「ジャパッシュ」であることを確信し、彼を絞め殺そうとします。しかし、最後の際に慈悲心を感じ、逆に日向に返り討ちにされ、家ごと燃やされてしまいます。


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(望月三起也「ジャパッシュ」 amazon.co.jp)


  日向光は、その後長じると自らの美貌とその弁舌の魅力により、周囲の人間を魅了して親衛隊を組織していきます。その親衛隊は、徐々に拡大していき、「正義」の集団へと拡大していきます。しかし、その「正義」は隠れ蓑にしかすぎません。日向は、とある海運業者に取り入って、そこにはびこる悪をつぶすことにより、会社の経営にまで入り込んで財力を手にします。


  さらに、その「悪」を否定するアジテーションによって日本の民衆を味方につけ、暴力集団テロに対抗する自衛組織「ジャパッシュ」の首領へと駆け上ります。そして、大規模な騒擾を鎮圧するとの名目からついに警察権を手にすることに成功します。


  周囲の大人たちは、日向の立ち振る舞いの胡散臭さを知りながらも、その力を利用して自らの権力を強めようとし、逆に日向に利用され、日向はその人気を不動のものにしていきます。さらに過激派グループの武装集団との対決のために日向は自衛隊の武力さえも操るまでの力を手に入れます。ついには、国民投票によって日本のトップへと登りつめるのです。独裁者の誕生です。


  その徹底して人を利用し尽し、合法的な「悪」を繰り返してすべての権力を手にしていく過程は、まるでヒトラーを描いているようです。


  望月三起也さんは、当初、祖父を殺害された石狩五郎の復讐劇をメインにしたストーリーを構想していたそうですが、日向光の極悪な魅力が読者をとらえてしまい、意図とは異なって「悪」のプロセスを描く物語として人気が出てしまいました。その悪影響を考慮し、自ら連載を打ち切ったといわれています。


  いったいなぜジャパッシュは、独裁者となったのか。


  この本を読みながら望月三起也さんの「ジャパュシュ」を思い出しました。


  さて、話を戻します。今回の本は、フィクションではありません。そこには、歴史的事実が記されているのですが、その視点は本当に池内さんらしい、ウィットにとんだ題材が取り上げられています。


  描かれているのは、ナチス(国民社会主義ドイツ労働党)ができた(改名)1920年からヒトラーがポーランドに侵攻した1939年までの出来事です。編年体の歴史、もしくは歴史小説であれば、ヒトラーが生活保護を受けていた街角の画家からナチスの党首となり、ナチスが国会で第一党に躍り出て首相、そして完全な独裁者となるまでの時代をまるで教養小説の様に描いたかもしれません。


  しかし、池内さんは時系列にヒトラーが権力を手にしていく過程をわかりやすく示しながら、歴史家がスポットをあてていない人々のエピソードを連ねていくという手法をとっています。それは、これまでの池内エッセイの手法の集大成と言えるかもしれません。


  「ナチス式選挙」の章では、南ドイツ、ボ―デン湖の北にあるメスキルヒにおけるナチスのやり方が描かれています。この街の人口は4500人。この町の名前はドイツ語でミサ教会と言う意味であり、古来カトリック中央党の基盤でした。この地では、ナチス党への得票率は1933年のナチス統制下における選挙でさえ、34.7%であり、中央党の得票率は44.4%で議会は中央党に握られていました。


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(ハイデッガーの生地 メスキルヒ wikipedia)


  まず起きたのは、地元新聞への弾圧です。中央党の新聞「ホイベルグ民衆新聞」は、ナチスを批判した報復を受け発行禁止処分にあい、新聞社にはカギ十字が掲げられました。この地区では他に「メスキルヒ民衆新聞」、「メスキルヒ新聞」が発行されていましたが、1935年には廃刊され、残ったのはナチス党の「ボーデンゼー評論」のみとなりました。


  議会でも弾圧がひどくなります。ナチスは1933年、親衛隊などの組織を使って地区の組織の役職者を排除し、親ナチス派の幹部にすり替えます。そして、その年の6月には社会民主党が禁止され、市議会の社会民主党議員もすべて辞職。その後、中央党も解散させられることになり、その年のうちに市議会はナチス一党支配となったのです。


  皆さん、これを読んで今起きている出来事とダブらないでしょうか。そうです。今、香港で起きていることが約90年前にドイツで起きていたのです。読んでいて背筋がゾッとしました。


  今、世界では独裁的な政権が大きな力を得つつあります。独裁政権は自らの基盤となる一部の国民の幸せのために強力な政策を打ち出し、政権基盤を固めます。しかし、自らに盾突く者は容赦なく封殺します。独裁者の世界はいかに効率的な社会であったとしても、「最大多数の幸福」とは程遠い世界なのではないでしょうか。


  池内さんは、文学者人生の最後に我々に強い警鐘を鳴らしてくれました。皆さんもぜひこの本を手に取って、改めてジェンダー(多様性)の重要性に思いをはせてみて下さい。


  それでは今日はこのへんで。皆さんどうぞお元気で、またお会いします。


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釈徹宗 なにわの天才富永仲基を読む

こんばんは。

  富永仲基とは、いったい誰なのでしょうか。

  この本を手に取ったのは、著者が釈徹宗さんだったからです。釈さんは、自らも浄土真宗の寺の住職でありながら、宗教学や思想史を研究する学者でもあります。以前ブログでも紹介した新書、「法然親鸞一遍」があまりにも面白い分析本であったので、その名を覚えていたのです。今週は、久しぶりに釈さんが語る本を読んでいました。

「天才 富永仲基 独創の町人学者」

(釈徹宗著 新潮新書 2020年)

  さて、釈さんの本ですから当然仏教を語る本になるわけですが、今回は著者が仏教を語るのではなく、富永仲基という人物が仏教典をどう分析し、語ったかを紐解く本なのです。しかし、そのユニークな点はこの人物が江戸時代中頃の大阪の町民であり、さらには31歳と言う若さで夭折した天才であったという事実なのです。

【恐るべき仏教の経典体系】

  富永仲基が生まれたのは、1715年の大阪です。醤油醸造家の三男と言いますから、裕福な家の生まれです。彼が天才といわれるのは、江戸時代の中期、今だ封建時代の最中でありながら、仏教経典を研究し、儒教、道教、神教との客観的な比較分析を行い、現代の思想史にもつながる大乗非仏説を唱えた点にあります。

  確かに江戸時代には、和算の関孝和、エレキテルの平賀源内、天文学から新たな暦を生み出した渋川晴海など、きらめくような才能が開花したことはよく知られています。しかし、文献学や思想史において、近代社会学の発想をいち早く切り開いた冨中仲基の名はまったく知りませんでした。しかも、彼は病弱で32歳で夭折していますが、その偉業ともいえる著作は彼が20代の時にはすでに構想されていたというのです。

  彼の功績とはいったいどのようなものだったのでしょうか。

  日本人にとってお寺とは今や、檀家以外の方にとってはパワースポツトとして、また御朱印をもらう場所として認識される場所になりました。日本に神代からある神様を祭る神社と仏さま(ご先祖様)が眠っているお寺ですが、パワースポットや御朱印帖の観点から見るとその差異がわからなくなっています。そもそも語れば、蘇我氏と物部氏の世界に至ってしまいますが、神教と仏教は政治的な変遷のおかげで混在していることが混乱のもととなっています。

  神様系は、もともと「日本」が認識されたときに大和系の支配者が自らを正当化するために日本独自の神話を日本の歴史書に作り上げたところから記録された歴史として始まります。そして、神社には八百万の神のうちの神々が祭られています。一方、仏教は中国から朝鮮を経由してもたらされた宗教であり、奈良王朝の支配者が当時最先端の仏教を日本に浸透させることによって日本を最先端の国として統一しようと、その手段に選んだ宗教です。仏教には神様はいないのです。

  以来、平安、鎌倉とこの仏教の奥深さに魅入られた人々が、脈々と仏教の教えを日本に広め、さまざまな宗派が日本各地にいきわたることになったのです。

  日本の国策として導入された仏教ですが、その普及には多くの仏僧たちの命を懸けた歴史が折り重なってできています。初期には遣隋使や遣唐使として命がけで中国に渡りその経典を日本にもたらした先陣たちが日本仏教の礎となりました。奈良時代には、唐から鑑真が招かれ、日本に帰化し「律(戒)」による仏教を日本に根付かせます。

  その後、平安時代から鎌倉時代にかけて日本では絢爛たる仏教の広がりが展開します。平安時代には、遣唐使として空海、最澄が唐に派遣され、帰国後にはそれまでの律宗や華厳宗に対抗して、密教の流れをくむ真言宗(高野山)、天台宗(比叡山)を開きます。

  さらに鎌倉時代に至ると、念仏思想が広まり、法然が「南無阿弥陀仏」を唱える浄土宗を開き、浄土宗をさらに進めた親鸞が浄土真宗を開きます。さらに念仏思想があまり拡大したことに対し、日蓮が「南無妙法連華経」を唱える日蓮宗を立ち上げました。庶民への普遍とともに、幕府を構える武士たちにも禅宗に連なる臨済宗や曹洞宗も中国からもたらされました。

  江戸時代には、禅宗の一つとして黄檗宗(おうばくしゅう)も開かれます。

  仏教の宗派は、ここで紹介した以外でも数多くの宗派が乱立し、そのすべての宗派において部週ごとの仏教経典が作られていきます。日本の神教は伝説や説話によって形作られていますが、仏教は仏様(コーダマ・シッダルタ)の教えを教義として構築・系統づける膨大な経典に基づく教えによって形作られているのです。

  と、こう書いてくると、この本の主人公、富永仲基は難しい経典の解説をしているのかと思われる方がいると思いますがさにあらず。彼は、これまでの膨大な仏教典を俯瞰して、彼以前には誰も持ちえなかった視点から仏教典のあるべき読み方を語っているのです。

【「出定後語」は何を語るのか】

  私事になりますが、父が亡くなって早いもので四半世紀が経とうとしています。父は歴史と仏教が好きで、家には仏教全集のための書庫があり、晩年はいつもクラシック音楽を聴きながらリクライニングチェアで仏教の本を読んでいました。専用の書庫を持つほど仏教の本を集めていましたが、宗派を決めて読んでいたわけではなく、仏教とは何なのかを自問していたのかもしれません。

  仏教と言えば、本を読んでいる父親の姿が目に浮かびます。

  富永仲基が世に残ったのは、一冊の著作が刊行されたことによります。その本の名は「出定後語(しゅつじょうこうご)」と言います。

  この題名には仲基の並々ならぬ自信がみなぎっています。「出定」とは仏陀が悟りを開いた(禅定というそうです。)後に俗世に戻ることを言います。つまり題名は、仏陀は悟りを開いた後に世俗に戻って語る、との意味なのですが、語っているのは仲基自身なわけですから、この題名は自らを仏陀に模していることになります。つまり、仲基は自らを仏陀に見立てて仏陀の悟り以後の言葉をこの本を記す、との決意を題名にしているのです。

  釈徹宗氏は、この本で富永仲基がどのように江戸期に現代に通じる思考を語ったのかを我々に教えてくれるのです。その現代性と天才にはなるほど驚かされます。

  「出定後語」は、「序」から始まり全25章に渡って仏教のあらゆる経典とその考え方に対する考察を重ねていく著作です。そこには、それまでの歴史では出てこない、新しい発想(客観性)がちりばめられています。

  その語られるところは、この本を読んで味わって欲しいのですが、ここではその「さわり」の部分をご紹介します。

  まず、仲基の経歴ですが、彼は当時大阪で幕府から私塾として認められていた懐徳堂で、15歳の時まで儒教を学んでいました。その頃よりものごとの本質へのこだわりがあり、儒教の教えに対してもその考え方には批判的でした。現在は実在しない「説蔽」という書を著したといわれていますが、釈さんはこの頃からの思考がのちの「出定後語」につながるものと分析しています。

  儒教は、ご存じの通り孔子の教えからはじまっているわけですが、その教えは弟子によって継承され、孟子の「性善説」や荀子の「性悪説」などその教えは深みを加えて進化しています。

  仲基が記した「説蔽」は残っていませんが、彼はその後、24歳のころに「翁の文」という著作を書いており、この本でもその本の内容が紹介されています。釈さんは、「翁の文」の中で仲基が儒教について述べている文章に注目し、儒教に対する批判がその後の思考につながっていると分析しています。

  その考え方は、「加上」です。江戸時代の文章は、漢字のみで書かれている場合が多く、レ点をつけて読むのは漢文で習うとおりです。そのように読めば、「加上」は上に加えると読むことができます。つまり、今学んでいる儒教は、本質である孔子の思想のうえにその弟子たちの主張が載せられたものであり、それを知ったうえで解釈するべきだというのです。つまり、「性善説」や「性悪説」は、孟子や荀子が自らの説を強めるために孔子の教えの上に「加上」したものであり、孔子の教えではない、というのです。

  仲基は、この批判書のために懐徳堂から追い出された、とする説もあるそうですが、当時、儒教も含めて尊い教えに対する批判は頭から否定されたであろうことは想像に難くありません。

  その後、仲基は田中洞江のもとで詩文を学び、さらに宇治の萬福寺で仏教経典を研究したといわれています。その中で、「出定後語」で分析、批評されている合理性に富んだ思考がはぐくまれていったものです。今でこそ、その考え方には何の違和感もありませんが、当時の封建社会の中ではあまりにも突飛な考え方で、受け入れられる土壌はなかったのでしょう。

【すべてから自由な発想】

  富永仲基の現代性は、その思考の基本的な考え方に顕著に現れます。

  例えば、儒教や仏教、道教などの教えを紐解くときには、それが語られた国の民族性を考慮することが必要と語ります。仏教が生まれたインドでは民族的に「幻説」が修飾として必要とされ、それは空想的、神秘的になるといいます。また、中国の民族性は「文飾」にあり、誇張された修辞が用いられます。そして、日本の文化は「清介質直」を好み、要点簡潔で素を良しとするといいます。

  また、経典を読む中で、言葉に潜む落とし穴?にも言及しています。

  文献の中に語られる「言葉」には、気を付けなければいけない点があるといいます。まず、言葉は

  語る人によってその意味が異なるという特徴です。同じ言葉でも、その意味は経典を語る人、それを書いた部派によって異なるのでそれを踏まえることが必要となります。次に、言葉はそれが語られた時代や世代によって意味が異なる点です。確かに同じ言葉であっても使われる時代によってその意味は違ってきます。古典の時間に習った「いと、おかし」も当時は面白いものではありませんでした。

  仲基は、言葉に対するこうしたポリシーを、「出定後語」の中に一章を設け、自らのオリジナルな考え方として語っています。この章の題名は、「言に三物あり」となります。それは、前出の「言は人なり」、「言は世なり」と記されていますが、さて、三物の3つめはいったい何でしょうか。

  それは、仲基自身によって、「言は類なり」と語られています。「類」とは養蜂のことなのですが、それには5種類の用法区分があるというのです。実は、この類については、なんでも編集してしまう知の巨人、松岡正剛さんもその著書「遊学」の中で取り上げているのですが、その「類」はぜひこの本で確かめて下さい。


  この本には確かに仏教経典を合理的な目で批判した江戸期の天才が描かれていますが、その曇りのない目は、明らかに物事の本質をつきつめる哲学的な姿勢に貫かれています。若冲と言い、仲基といい、江戸時代は天才に満ち溢れていることに驚きます。

  明日からまた新年度を迎えますが、コロナウィルスとの闘いはまだまだ続いています。皆さん、気を緩ませることなく、マスク、消毒、3密回避を徹底し、みんなで命を守りましょう。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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酒井正士 別府温泉に眠る邪馬台国

こんばんは。

  ここのところ、コロナ感染者の最多人数が毎日更新されています。

  2月頃、クルーズ船でのクラスターが世界中の注目を集めていました。未知のウィルスへの対応は人類VSウィルスの闘いの様相を呈しており、予想通りその戦いは長期戦に突入しています。その頃に、インフルエンザにかかった顛末は以前にもブログでお話ししましたが、新型ウィルスの猛威に対抗するには、やはりワクチン接種が決め手になるに違いありません。

  日本でも早い時期の緊急事態宣言で、一時は感染拡大が落ち着いたように見えましたが、経済活動再開によって夏には第二波に見舞われ、第三波は今やとどまることがないように見えます。

  この年末は、会食や移動を控えて静かに過ごすことが望まれます。

  とても不思議に思うのは、大人数での会食の自粛、お酒を出す飲食店の営業時間の制限、移動の自粛を同じように呼びかけながら、地域によって効果に差が生じている点です。北海道や大阪では、11月の下旬から呼びかけられた自粛により、繁華街での人手が減少し、それに比例して新規感染者の数が減りました。ところが、東京では一向に減少する気配が見えません。

  報道によれば、東京では自粛の呼びかけにもかかわらず、人出が減っていないというのです。確かにウィルスによる自粛が半年を超えて、職を失って収入が亡くなる人や売り上げがなくなり店を閉めるお店が増え、生活が立ち行かなる人々が増加しています。そこでさらに経済活動を自粛すれば、生活に困る人が続出します。しかし、大阪や北海道では減少した人出がなぜ東京では減らないのでしょうか。

  大阪や北海道の人々は自粛してもお金に困らないのでしょうか。

  東京には、世界中の人々が集中しています。そのために大阪や北海道に比べて、知事の呼びかけに対して「他人事感」が強いのかもしれません。経済的な厳しさは、大阪でも北海道でも同じですし、例えば期間を限定する限り、自粛によって生きていけなくなることにまで追い込まれる場合には、行政や福祉によって援助する仕組みを作ることは可能です。

  神奈川、埼玉、千葉などを含めた首都圏では、新規感染者の増加によって医療機関が機能不全になる直前まで追い詰められています。このままでは、コロナ以外の疾患が悪化した人を受け入れる病院がなくなり、救えなくなる命が生じるリスクがどんどん増加していきます。首都圏には、外国人や多様な地域の人たちが集中し、隣にだれが住んでいるのかさえ分からないような日常があたりまえになっています。そうした中では、なかなか首長たちの呼びかけや危機感が届きにくいことは当然です。しかし、今年の年末年始に感染者が減少しなければ、首都圏の経済活動が新型ウィルスのために停止してしまう事態までが想定されます。

  自らの命や生活を守るために皆さん、改めてマスク、手洗い、消毒は当たり前、外出を自粛し、大人数での会食や会話は控えるという「密」をさける行動を徹底しましょう。

  さて、話は変わりますが、10年前の今日、皆さんは何をしていたか覚えていますか。

  実は、10年前、このブログはすでに始まっていて、ちょうど10年前に読んでいた本がちくま新書の「倭人伝を読みなおす」という邪馬台国に関する本だったのです。この本は、考古学者として有名な森浩一博士の書いた本でしたが、氏は2013年に85歳で亡くなりました。時のたつのは早いものですが、そのときから邪馬台国と書かれた本は読まずにはいられません。

  先日、本屋さんで久しぶりに邪馬台国を題名にした本に出合いました。

「邪馬台国は別府温泉だった!」(酒井正士著 小学館新書 2020年)

【邪馬台国は永遠の謎なのか】

  昔から、「邪馬台国」、「魏志倭人伝」という文字を読むとロマンを感じてしまいます。

  古代とは、古今東西を問わず我々人類が歴史を刻む最も早い時期を示します。そこにはまだ言葉は少なく、我々人類はその初期のころ、何を考え、どのように行動し現在の姿を作り上げてきたのか。そのことに想いを寄せると、自らが人として生まれてきたことの意味に少しでも近づけるような気がして、たまらないワンダーを感じるのです。

  ブログでも人類の起源や文明の起源に関する本をたくさん紹介してきました。

  日本においては、日本書記や古事記の世界、古墳の世界、木簡の世界など、日本人の起源にかかわる本は数え切れないほどたくさん上梓されています。しかし、書き残された資料以前の世界は、考古学によって解き明かしていくしかありません。それは、古代遺跡の発掘による遺物からわかる歴史に他なりません。

  日本書記や古事記には、神話の世界が記されていますが、日本という国が大和朝廷によって統合される以前、日本列島にはどのような人々が住み、どのような暮らしをしていたのか。それは、様々な遺跡の発掘によってしか解明されないのです。

  しかし、日本では有史以前でも朝鮮半島をはさんだ西には4000年の歴史を持つ中国が存在していました。中国では殷(商)が3000年も前に漢字を発明し、紀元前1300年ころには記録を残しているのです。「史記」をはじめとした紀元前後の中国の歴史書は、人類最古の歴史書といっても過言ではありません。

  そして、そこに記された中国の東の果ての記録の中に当時の日本の姿が語られているのです。

  その最も古いものが正史である「三国志」の「魏志」に記されていた東夷伝のなかに倭人の条があり、それが「魏志倭人伝」と呼ばれているのです。そこに登場する邪馬台国は3世紀の日本において中国に朝見の使者を送るほどの勢力を持っており、当時の日本では最も権力を有していたと想像することができます。

  魏志倭人伝には、当時の魏の勢力範囲内であった朝鮮半島にある帯方郡(ソウル近郊らしい)から対馬、壱岐を渡って邪馬台国に至る道程が記されているのです。そこに費やされている文字数は1986文字もあり、東夷伝の中では最も多くの文字数が割かれています。さらには、邪馬台国周辺の国々の名前や邪馬台国の風俗生活、卑弥呼の記載など、おおくの情報が盛り込まれているのです。

  これまで、数え切れないほどの歴史学者、考古学者、作家などが、邪馬台国が日本のどこにあったのかを推理し、その仮説を書き残してきました。ご存知の方には煩わしいと思いますが、邪馬台国の場所は大きく近畿説と九州説に分かれています。いったい方向と距離が記されている歴史書に従って進んでいくのに近畿説と九州説が両方成り立ちうるのでしょうか。不思議です。

  それは、倭人伝の記述を素直に解釈すると、邪馬台国は太平洋上にあることになってしまうからです。

  帯方郡は今のソウル近くですので、韓国から日本に渡るには、対馬、壱岐を経由して海路で至るしか方法はありません。倭人伝で、壱岐の島は「一大国」と記されます。ここまでは、約9000余里と記載され、異論はありません。問題は日本に到着してからの記述です。日本到着の国は、「末蘆国」であり、ここから東南に陸行500里で「伊都国」に、さらに東南に100里で「奴国」、さらに東へ100里いくと「不彌国」に至ります。

  ここまでは、記述の通りに進んでいけばよいのですが、ここから不彌国から先の書きぶりが変わってしまうのです。このさきの記載は、「南至投馬国 水行二十日」、「南至邪馬台国 女王之所都 水行十日陸行一月」となっているのです。いくらなんでも十日も二十日も船で海を南に渡れば、日本をはるかに突き抜けて太平洋上に至ってしまいます。

  これまでの近畿説は、南というのが実は南東のことで近畿地方への方角を言っているとして経路を仮定します。九州説では、この水行を「帯方郡」から「投馬国」、「邪馬台国」への道のりを語っていると仮定して場所の推定を行っています。

  つまり、邪馬台国の場所を特定するためには、「魏志倭人伝」に記載された地名の謎と「方角と距離」の謎を解き明かす必要があるわけです。

【謎を解くために必要なことは?】

  この本の著者は、歴史学とは何の関係のない職業に就いています。それは、生命科学、生物工学です。氏は、かの有名なバイオ飲料に会社の研究員として、人に有用な細菌や代謝の研究を行ってきた専門家なのです。人文科学の分野、とりわけ文献学や考古学などの歴史を扱う世界と自然科学の世界では、そのアプローチや発想はかなり異なります。著者は、現在、全国邪馬台国連絡協議会の会員にも名を連ねており、この著書は、協議会で行われた長年の研究成果の発表をもとにしているそうです。

  氏は、科学者らしく、まず、これまでの邪馬台国論争の前提となっている一つの推論に疑問を持ちます。それは、江戸時代に最初に「倭人伝」に注目した新井白石の仮説です。白石は、一行が日本に上陸した「末慮国」を地名の類似から唐津市の松浦郡に否定し、そこから各地域を地名の類似に従って特定していきました。

  驚くべきことにその後の長年にわたる研究は、ほぼこの説によって推定を重ねてきているのです。著者は、まずこの前提に疑問を投げかけます。では、その前提に代わる考え方とは何か。それは、「方角と距離」の関係です。近畿説は、方角、九州説は距離について仮説を立ち上げることで、邪馬台国の場所を推定しています。「魏志倭人伝」を著した陳寿の時代、その方角と距離はどのように理解されていたのでしょうか。

  著者はその特定から論を進めていきます。

  現代の日本に暮らす我々は、現代の科学水準は秀でており2000年近くも前の人間は科学的な見識では我々に及ばないとの考えにとらわれがちです。しかし、古代における方向と距離への見識は、彼らの軍事的な必要性や移動の重要性を考えれば現代と何の遜色もないといえます。

  氏は、三国時代の数学書「九章算術」からその測量に関する後代に「海島算経」呼ばれた測量法を解説してくれます。さらに航海時にはすでに三角測量の技術も発達しており、海上での距離はすでに直線距離での正確なり距離を把握することができたとして、「魏志倭人伝」に記される「方角と距離」は正確である、との前提を解き明かします。

  氏は、当時の数学書「九章算術」と同じく当時の天文数学書である「周髀算経」からそこに記されている「1里=約77m」との距離を採用します。里には様々な解釈があり、1里は438m、1里は140m、などいくつかの考え方がありますが、氏は自然科学者の強みを発揮してその約77mの合理性を次々に説明していきます。

  その「方向と距離」から導かれる結論とは?

  皆さんも邪馬台国を巡る鮮やかな謎解きをご堪能ください。別府温泉の扇状地の火山灰の下には、纒向(まきむく)遺跡に匹敵する弥生時代の遺跡が埋まっているのかもしれません。

  今年も残るところわずかとなりました。コロナウィルスに翻弄された年ではありましたが、まさに我々人類の英知が試された1年でもありました。皆さん、感染対策に万全を尽くしてよいお年をお迎えください。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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倉谷滋 恐竜は怪獣へと進化したのか

こんばんは。

  今年のお盆はこれまでと違ったお盆になりました。

  夏休みと言えば、子供が小さい家庭では夏休み中の子供との交流が一大イベントになります。ところが今年は新型コロナ感染に伴う感染防止により学校が閉鎖される事態が相次ぎました。その影響で授業時間が足りなくなり、公立の小中学校では、のきなみ夏休み期間が短縮される事態に陥っています。

  神奈川県で小学校の教諭をしている息子がお盆休みに家にやってきて語るには、今年の夏休みは8/18/23までに短縮され、あまりゆっくりと休む暇はないそうです。あまつさえお隣の市では夏休みの終わりがさらに早い8/16ということでたった2週間しかありません。今時は働き方改革でサラリーマンでも2週間の夏休みは当たり前になっています。

  もちろん子供たちもガッカリですが、親の方もどのように子供と交流していくのか難しい年になっています。なぜなら新型ウィルス感染の拡大のために、せっかくの「GO TO トラベル」も集団での移動が制限され、高齢者への感染を考えると田舎のおじいちゃんやおばあちゃんに子供の顔を見せに行くことがはばかられ、旅行に行くにも感染防止を徹底する必要があります。子供も親もすっかり意気消沈してしまいます。

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(閑散とした那覇空港  琉球新報HPより)

  せっかくのお盆ですが、今年は皆さん自粛して、手洗い、うがい、マスクをつけて3密を避けて、住まいのある地域でお盆を過ごす方々でショッピングセンターが満ち溢れています。しかし、自粛が半年に及ぶとどうしても心が塞ぐことをさ避けることができません。

  こんなときこそ、心が最も揚がることを心に思い浮かべて、明るい気持ちを盛り上げましょう。

  さて、小学生から中学生にかけて、我々の世代で最もワクワクしたのは他でもない特撮画像を駆使して制作された怪獣たちの姿です。ゴジラ、モスラ、ラドン、キングギドラ、ガメラ、バルゴン、ギャオスなどの銀幕を彩った怪獣たちはもちろん、ガラモン、マンモスフラワー、カネゴンなどの「ウルトラQ」の怪獣たち、そして永遠のウルトラマンシリースの要となったバルタン星人、レッドキング、ゼットンなどのテレビで放映された怪獣たちです。

  お盆前に本屋さんの新書コーナーを眺めていると、帯広告に「シン・ゴジラの乱杭歯(らんぐいば)、その理由は、」という文字とともにシン・ゴジラの雄姿が写っているではありませんか。怪獣好きには目を離すことができませんでした。

  今週は、怪獣愛にあふれた形態進化生物学者の本を読んでいました。

「怪獣生物学入門」

(倉谷滋著 インターナショナル新書 2019年)

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(「怪獣生物学入門」amazon.co.jp)

【怪獣は何から進化したのか】

  恐竜と怪獣の関係は複雑です。

  「ゴジラ」は、もともと古代の恐竜が現代の水爆実験によって突然変異を起こした怪獣です。そこから考えると、怪獣を遡れば恐竜に行きつきそうに思えます。実際、小学生のころ、上野の国立科学博物館に行くのが大好きで、親も私の機嫌が悪かったり、甘えてうるさくねだったりしたときにはとりあえず国立科学博物館に連れていってくれました。

  博物館の入り口を入るとそこには恐竜の骨格が天井までそびえていました。現在、ブロントザウルスという恐竜は実在しなかったと言われていますが、当時は巨大な草食恐竜の代表格はブロントザウルスでした。凶悪な肉食恐竜の代表は言わずと知れたティラノザウルス。人気が高かったのは剣竜と呼ばれていたステゴザウルス。今のサイのように角を伸ばしていたトリケラトプスでした。

  この本でも語られていますが、近年の恐竜はあのころに比べると格段に進化しています。

  化石で見つかる恐竜が進化しているわけはないのですが、進化しているのは研究です。ゴジラはご存知の通り直立不動で日本の街に上陸し、我々の世界を蹂躙していきます。その行動は重厚で力強く、何物にも止めることはできずにゆっくりと前へと進んでいくのです。かつて、国立科学博物館で観たティラノザウルスの骨格は確かに直立していました。

  しかし、ジェラシックパークに登場するティラノザウルスは、直立していません。その超前かがみの姿はとてもゴジラの先祖とは思えません。さらに驚くのは、その脅威のスピードです。車に乗り全速力で逃げる主人公たち。時速80km以上で走る車にティラノザウルスは決して引けを取らないのです。恐竜研究は、この半世紀に大きく進化しました。

  今や恐竜の生き残りが現在の鳥類であることは科学的事実とされており、かのティラノザウルスは羽毛につつまれていたと考えられています。ゴジラの肌は黒くて岩の様であることが常識ですが、もしも1950年代に恐竜の実態が分かっていればゴジラは羽毛に包まれていたかもしれません。(放射能の影響で羽毛は抜け落ちていたかもしれませんが。)

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(再生細胞を持つミレニアムゴジラ amazon.co.jp)

  この本の著者は、現在理化学研究所で生物学のグループデレクターを勤めているそうですが、第一線で研修している生物学者が空想科学ドラマの怪獣たちを分析しようとするわけですからワクワク感が止まりません。

  そもそも特撮怪獣は空想の産物ですから進化や生物学とは無縁の存在に思えます。

  この本の著者の場合、小学生から中学生の多感な時期がちょうど円谷監督の特撮映画の最盛期であったことが幸運(不幸?)でした。私も同じとしなので全く同じなのですが、形態進化生物学なる学問を身に着ける以前に特撮怪獣映画のワンダーの洗礼を受けていたのです。

  怪獣のワンダー体験を内に抱えたまま形態生物学の最先端を探求すると、怪獣自体を科学の目で探求してみたくなるのかもしれません。

【キングギドラの形態生物学】

  宇宙怪獣として最強と言われているのはキングギドラです。金色のうろこに包まれ、3つの竜のような頭と3つのしっぽを持ち、2つの翼によって宇宙や空中を駆け巡る姿は、ハリウッドのゴジラ映画にもゴジラのライバルとして登場します。

  実は、日本映画に登場するキングギドラとハリウッドのキングギドラは異なっていると言います。

  日本映画に登場する元祖キングギドラの翼には、条と呼ばれる筋を見ることができます。この筋が脊椎動物の手や指が進化して生まれたものであれば、翼竜やコウモリの翼と似た生態をしているといえます。しかし、キングギドラの翼の筋は、手や指というよりも魚類の胸鰭(むなびれ)に似ているそうです。

  キングギドラが脊椎動物の系に属しているのであれば、その翼は我々の腕、手、指の相当する部分が異なる進化を遂げたこととなりますが、もしもこの条がシーラカンスやウミテングのような魚類の胸鰭に相当するものなのであれば、キングギドラは魚類の系につらなることになります。どうも見た目は魚系の条に見えるのです。

  さらにやっかいなのは、現在の形態生物学では脊椎動物の腕や手指にあたる条と魚類の胸鰭にあたる条が同じ遺伝子から派生しているのではないか、との研究があるそうです。

  そして、ハリウッド版のキングギドラでは、さらに話は複雑になります。

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(ハリウッド版 ゴジラ対キングギドラ)

  翼の条については、ハリウッドのキングギドラにも同じように見ることができますが、問題はその翼の位置にあります。日本版のように翼が肩から始まっていると、その翼は腕や手指の延長にあるので脊椎動物や魚類に系譜を見ることができます。ところが、ハリウッド版キングギドラの翼は方から直接生えていないように見えるのです。

  その形態は、魚類よりもむしろコウモリと似ています。コウモリは、方から腕に当たる条が伸びており、そこに連なるように翼となる幕が張られています。さらにその翼は腹から出た条により支えられており、トビトカゲ(爬虫類)のように肋骨部分から派生しているとも考えられるのです。

  日本版は魚類系、ハリウッド版は哺乳類系または爬虫類系。同じキンギギドラでも異なる系統図に位置付けられるのかもしれません。

  キングギドラの他にもゴジラ、ガメラ、ギャオスなど、著者の形態生物学によって次々と仕分けられていく怪獣たちの分析はとてもワンダーです。

【人間に寄生する怪獣とは】

  この本の第三章では、不定形型モンスターに関する考察が繰り広げられます。

  不定形型モンスターには、繁殖時に様々なヤドリギに寄生してその個体を乗っ取っていくモンスターも含まれます。

  まず取り上げられるのは、東宝映画のホラー的な映画として特撮を駆使して造られた「マタンゴ」と言う作品です。「マタンゴ」とはキノコの名称なのですが、このキノコが非常に厄介なモンスターなのです。このキノコを食べると人格が変化し、やたらと人好きで社交的な人格となります。それだけではなく、その人格を利用して他の人間にもマタンゴを食べるように勧めて回るようになるのです。さらに恐ろしいのは、人格変化の実ではなく、徐々に人としての意識は消えてゆき、最後には移動可能なマタンゴへと変身してしまうのです。

  映画は、この「マタンゴ」が生息する無人島に漂流した7人の物語です。そこにうずめく人の本姓がマタンゴを仲介モンスターとして恐ろしい人間関係を出現させていく物語です。

  著者は、マタンゴというキノコが形態生物学から見た場合にどのように分析できるのかを語っていきます。

  生きとし生けるものは、すべて繁殖することで種の継続と繁栄をめざします。普通のキノコは胞子を飛ばすことで種を増やしますが、マタンゴはもっと能動的な繁殖形態を持っています。食べるとマタンゴに変身してしまう。その寄生的な繁殖はどのようなプロセスをたどって成就されるのか。

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(映画「マタンゴ」スティール ciamovienews.com)

  その一部を紹介すると、「・・・マタンゴ人間の体は動物性の細胞からなる組織ではなく、そのほとんどがキノコを作る菌糸の束に置き換わっていて、そのうちあるものは神経的な機能に二分化し、またあるものは筋線維のように伸縮する機能を得、またあるものは硬化して骨格のような機能を果たすようになってしまっている・・・」のではないかと記載されています。

  さらに氏は次の項で、マタンゴの菌糸が人間の精神構造までもコピーできるのか、人間の解剖生理学的機能まで再構築できるのか、までを考察していくのです。

  そして、その分析は宇宙からパラサイトとして降臨する「寄生獣」へと続いていきます。

  人のモンスターやSFを創造する力は止まるところを知りません。この本は、科学者から見れば非現実と言われる空想のワンダーについて書かれています。そこには、汲めども尽きぬワンダーが脈々と流れています。ぜひ、続編を期待したいものです。


  お盆も終わり、いよいよ「with コロナ」の日常が戻ってきます。皆さん、手洗い、マスク、消毒、脱3密を徹底し、感染することも、人に移すことも防ぐよう、油断なく毎日を送りましょう。熱中症も防ぎつつ、明るさを忘れず毎日を過ごしたいと思います。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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倉谷滋 恐竜は怪獣へと進化したのか

こんばんは。

  今年のお盆はこれまでと違ったお盆になりました。

  夏休みと言えば、子供が小さい家庭では夏休み中の子供との交流が一大イベントになります。ところが今年は新型コロナ感染に伴う感染防止により学校が閉鎖される事態が相次ぎました。その影響で授業時間が足りなくなり、公立の小中学校では、のきなみ夏休み期間が短縮される事態に陥っています。

  神奈川県で小学校の教諭をしている息子がお盆休みに家にやってきて語るには、今年の夏休みは8/18/23までに短縮され、あまりゆっくりと休む暇はないそうです。あまつさえお隣の市では夏休みの終わりがさらに早い8/16ということでたった2週間しかありません。今時は働き方改革でサラリーマンでも2週間の夏休みは当たり前になっています。

  もちろん子供たちもガッカリですが、親の方もどのように子供と交流していくのか難しい年になっています。なぜなら新型ウィルス感染の拡大のために、せっかくの「GO TO トラベル」も集団での移動が制限され、高齢者への感染を考えると田舎のおじいちゃんやおばあちゃんに子供の顔を見せに行くことがはばかられ、旅行に行くにも感染防止を徹底する必要があります。子供も親もすっかり意気消沈してしまいます。

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(閑散とした那覇空港  琉球新報HPより)

  せっかくのお盆ですが、今年は皆さん自粛して、手洗い、うがい、マスクをつけて3密を避けて、住まいのある地域でお盆を過ごす方々でショッピングセンターが満ち溢れています。しかし、自粛が半年に及ぶとどうしても心が塞ぐことをさ避けることができません。

  こんなときこそ、心が最も揚がることを心に思い浮かべて、明るい気持ちを盛り上げましょう。

  さて、小学生から中学生にかけて、我々の世代で最もワクワクしたのは他でもない特撮画像を駆使して制作された怪獣たちの姿です。ゴジラ、モスラ、ラドン、キングギドラ、ガメラ、バルゴン、ギャオスなどの銀幕を彩った怪獣たちはもちろん、ガラモン、マンモスフラワー、カネゴンなどの「ウルトラQ」の怪獣たち、そして永遠のウルトラマンシリースの要となったバルタン星人、レッドキング、ゼットンなどのテレビで放映された怪獣たちです。

  お盆前に本屋さんの新書コーナーを眺めていると、帯広告に「シン・ゴジラの乱杭歯(らんぐいば)、その理由は、」という文字とともにシン・ゴジラの雄姿が写っているではありませんか。怪獣好きには目を離すことができませんでした。

  今週は、怪獣愛にあふれた形態進化生物学者の本を読んでいました。

「怪獣生物学入門」

(倉谷滋著 インターナショナル新書 2019年)

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(「怪獣生物学入門」amazon.co.jp)

【怪獣は何から進化したのか】

  恐竜と怪獣の関係は複雑です。

  「ゴジラ」は、もともと古代の恐竜が現代の水爆実験によって突然変異を起こした怪獣です。そこから考えると、怪獣を遡れば恐竜に行きつきそうに思えます。実際、小学生のころ、上野の国立科学博物館に行くのが大好きで、親も私の機嫌が悪かったり、甘えてうるさくねだったりしたときにはとりあえず国立科学博物館に連れていってくれました。

  博物館の入り口を入るとそこには恐竜の骨格が天井までそびえていました。現在、ブロントザウルスという恐竜は実在しなかったと言われていますが、当時は巨大な草食恐竜の代表格はブロントザウルスでした。凶悪な肉食恐竜の代表は言わずと知れたティラノザウルス。人気が高かったのは剣竜と呼ばれていたステゴザウルス。今のサイのように角を伸ばしていたトリケラトプスでした。

  この本でも語られていますが、近年の恐竜はあのころに比べると格段に進化しています。

  化石で見つかる恐竜が進化しているわけはないのですが、進化しているのは研究です。ゴジラはご存知の通り直立不動で日本の街に上陸し、我々の世界を蹂躙していきます。その行動は重厚で力強く、何物にも止めることはできずにゆっくりと前へと進んでいくのです。かつて、国立科学博物館で観たティラノザウルスの骨格は確かに直立していました。

  しかし、ジェラシックパークに登場するティラノザウルスは、直立していません。その超前かがみの姿はとてもゴジラの先祖とは思えません。さらに驚くのは、その脅威のスピードです。車に乗り全速力で逃げる主人公たち。時速80km以上で走る車にティラノザウルスは決して引けを取らないのです。恐竜研究は、この半世紀に大きく進化しました。

  今や恐竜の生き残りが現在の鳥類であることは科学的事実とされており、かのティラノザウルスは羽毛につつまれていたと考えられています。ゴジラの肌は黒くて岩の様であることが常識ですが、もしも1950年代に恐竜の実態が分かっていればゴジラは羽毛に包まれていたかもしれません。(放射能の影響で羽毛は抜け落ちていたかもしれませんが。)

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(再生細胞を持つミレニアムゴジラ amazon.co.jp)

  この本の著者は、現在理化学研究所で生物学のグループデレクターを勤めているそうですが、第一線で研修している生物学者が空想科学ドラマの怪獣たちを分析しようとするわけですからワクワク感が止まりません。

  そもそも特撮怪獣は空想の産物ですから進化や生物学とは無縁の存在に思えます。

  この本の著者の場合、小学生から中学生の多感な時期がちょうど円谷監督の特撮映画の最盛期であったことが幸運(不幸?)でした。私も同じとしなので全く同じなのですが、形態進化生物学なる学問を身に着ける以前に特撮怪獣映画のワンダーの洗礼を受けていたのです。

  怪獣のワンダー体験を内に抱えたまま形態生物学の最先端を探求すると、怪獣自体を科学の目で探求してみたくなるのかもしれません。

【キングギドラの形態生物学】

  宇宙怪獣として最強と言われているのはキングギドラです。金色のうろこに包まれ、3つの竜のような頭と3つのしっぽを持ち、2つの翼によって宇宙や空中を駆け巡る姿は、ハリウッドのゴジラ映画にもゴジラのライバルとして登場します。

  実は、日本映画に登場するキングギドラとハリウッドのキングギドラは異なっていると言います。

  日本映画に登場する元祖キングギドラの翼には、条と呼ばれる筋を見ることができます。この筋が脊椎動物の手や指が進化して生まれたものであれば、翼竜やコウモリの翼と似た生態をしているといえます。しかし、キングギドラの翼の筋は、手や指というよりも魚類の胸鰭(むなびれ)に似ているそうです。

  キングギドラが脊椎動物の系に属しているのであれば、その翼は我々の腕、手、指の相当する部分が異なる進化を遂げたこととなりますが、もしもこの条がシーラカンスやウミテングのような魚類の胸鰭に相当するものなのであれば、キングギドラは魚類の系につらなることになります。どうも見た目は魚系の条に見えるのです。

  さらにやっかいなのは、現在の形態生物学では脊椎動物の腕や手指にあたる条と魚類の胸鰭にあたる条が同じ遺伝子から派生しているのではないか、との研究があるそうです。

  そして、ハリウッド版のキングギドラでは、さらに話は複雑になります。

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(ハリウッド版 ゴジラ対キングギドラ)

  翼の条については、ハリウッドのキングギドラにも同じように見ることができますが、問題はその翼の位置にあります。日本版のように翼が肩から始まっていると、その翼は腕や手指の延長にあるので脊椎動物や魚類に系譜を見ることができます。ところが、ハリウッド版キングギドラの翼は方から直接生えていないように見えるのです。

  その形態は、魚類よりもむしろコウモリと似ています。コウモリは、方から腕に当たる条が伸びており、そこに連なるように翼となる幕が張られています。さらにその翼は腹から出た条により支えられており、トビトカゲ(爬虫類)のように肋骨部分から派生しているとも考えられるのです。

  日本版は魚類系、ハリウッド版は哺乳類系または爬虫類系。同じキンギギドラでも異なる系統図に位置付けられるのかもしれません。

  キングギドラの他にもゴジラ、ガメラ、ギャオスなど、著者の形態生物学によって次々と仕分けられていく怪獣たちの分析はとてもワンダーです。

【人間に寄生する怪獣とは】

  この本の第三章では、不定形型モンスターに関する考察が繰り広げられます。

  不定形型モンスターには、繁殖時に様々なヤドリギに寄生してその個体を乗っ取っていくモンスターも含まれます。

  まず取り上げられるのは、東宝映画のホラー的な映画として特撮を駆使して造られた「マタンゴ」と言う作品です。「マタンゴ」とはキノコの名称なのですが、このキノコが非常に厄介なモンスターなのです。このキノコを食べると人格が変化し、やたらと人好きで社交的な人格となります。それだけではなく、その人格を利用して他の人間にもマタンゴを食べるように勧めて回るようになるのです。さらに恐ろしいのは、人格変化の実ではなく、徐々に人としての意識は消えてゆき、最後には移動可能なマタンゴへと変身してしまうのです。

  映画は、この「マタンゴ」が生息する無人島に漂流した7人の物語です。そこにうずめく人の本姓がマタンゴを仲介モンスターとして恐ろしい人間関係を出現させていく物語です。

  著者は、マタンゴというキノコが形態生物学から見た場合にどのように分析できるのかを語っていきます。

  生きとし生けるものは、すべて繁殖することで種の継続と繁栄をめざします。普通のキノコは胞子を飛ばすことで種を増やしますが、マタンゴはもっと能動的な繁殖形態を持っています。食べるとマタンゴに変身してしまう。その寄生的な繁殖はどのようなプロセスをたどって成就されるのか。

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(映画「マタンゴ」スティール ciamovienews.com)

  その一部を紹介すると、「・・・マタンゴ人間の体は動物性の細胞からなる組織ではなく、そのほとんどがキノコを作る菌糸の束に置き換わっていて、そのうちあるものは神経的な機能に二分化し、またあるものは筋線維のように伸縮する機能を得、またあるものは硬化して骨格のような機能を果たすようになってしまっている・・・」のではないかと記載されています。

  さらに氏は次の項で、マタンゴの菌糸が人間の精神構造までもコピーできるのか、人間の解剖生理学的機能まで再構築できるのか、までを考察していくのです。

  そして、その分析は宇宙からパラサイトとして降臨する「寄生獣」へと続いていきます。

  人のモンスターやSFを創造する力は止まるところを知りません。この本は、科学者から見れば非現実と言われる空想のワンダーについて書かれています。そこには、汲めども尽きぬワンダーが脈々と流れています。ぜひ、続編を期待したいものです。


  お盆も終わり、いよいよ「with コロナ」の日常が戻ってきます。皆さん、手洗い、マスク、消毒、脱3密を徹底し、感染することも、人に移すことも防ぐよう、油断なく毎日を送りましょう。熱中症も防ぎつつ、明るさを忘れず毎日を過ごしたいと思います。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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更科功 絶滅の次は残酷な進化!?

こんばんは。

  ひところ、「人類の進化」が流行っていた時期がありました。それは、ネアンデルタール人よりも小さな脳を持つ我々ホモ・サピエンスは、なぜ唯一の人類として生き残ったのか、との疑問をNHKの特集「人類誕生」が取り上げたことがきっかけのひとつです。そのときに読んだのが、更科功氏の本「人類の絶滅史」でした。

  この本のワンダーは、700万年前、我々ホモ・サピエンスがこの世に誕生するまでに、地球上には25種類以上も人類がいることが確認されていたという事実。さらには、そのすべてがネアンデルタール人を最後に絶滅し、1万年前に共存していたネアンデルタール人が絶滅してからは、我々ホモ・サピエンスが唯一の人類だ、という事実でした。

  我々が生き残り、この地球ですべての生命の頂点に君臨すると思っているのはなぜなのか。その理由が食料を調達するため、また、子供を育てるため、であったことが分かり易い語り口と意外な例示で示されていき、本当に面白い本でした。それ以前に読んだ「化石の分子生物学」は、講談社科学出版賞も受賞しており、その語り口はとてもなめらかです。

  先日本屋さんで新書の棚を眺めていると、またまた「更科功」の文字が目に入りました。いったい今回は何を語ってくれるのか。楽しみにレジへと向かいました。

「残酷な進化論 なぜ『私たち』は『不完全』なのか」

(更科功著 NHK出版新書 2019年)

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(更科功「残酷な進化論」amazon.co.jp)

【ワンダーを紡ぐ語り口】

  この本を読んでいて思い出したのは、福岡伸一ハカセです。今やその著作がスッカリ有名になりましたが、ベストセラーとなった「生物と無生物の間」はハカセの郷愁を感じる描写とこれまでの生物学の発見と進歩を解き明かすワンダーが相まって、最後まで一気に読み終わってしまう素晴らしい著作でした。思い出したのは、どちらも分子生物学の研究者であるところが共通だからです。

  もっともその専門分野は異なっており、福岡ハカセが現在の分子生物学を研究し、我々は新陳代謝によって毎日生まれ変わることで生きている、といってもよい「動的平衡」との概念を我々に教えてくれます。一方の更科功氏は化石や古生物の分子を研究してまさに進化の謎を解き明かそうとする研究者です。

  福岡ハカセが研究の道を志したのは、ルドルフ・シェーンハイマー。片や更科功氏が探求しているのはかのチャールズ・ダーウィン。とその研究対象には違いがありますが、生命の分子的研究によって「生命」とは何か、「生きる」とは何か、を究明するとの姿勢はまったく変わりがありません。

  「動的平衡」によれば、我々生命は、自らのすべての細胞を日々新たな細胞に更新することによって生命を維持するのであり、人は1週間もすればすべての細胞が更新されて、まったく新しい命になっていると言います。

  子供のころ姉と一緒にふろに入ると、姉がいつも「あかすり競争」を仕掛けてきました。それは、体を洗うときに体を洗ったタオルをゆすいだ時に、どちらがたくさん「アカ」が落とせたかを競う遊びです。当然、いつも私が勝つわけですが、今思えば、お風呂が大嫌いだった私をふろに入れる作戦だったわけで、姉の戦略には今更ながら脱帽です。

  シェーンハイマーのたんぱく質入れ替え理論や「動的平衡」と聞くと、いつも昔懐かしい「あかすり競争」を思い出します。

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(福岡伸一「動的平衡」amazon.co.jp)

  福岡ハカセは置いておいて、今回は「進化」の話です。

  更科さんの語り口は、分かり易く、なめらかです。なぜ分かり易いのかといえば、話の枕がとても興味深い例示や質問になっていることが大きな特徴です。プロローグで、氏は語ります。仮に遥かなる未来、地球が消滅する前に地球生物は地球を脱出し、様々な星に避難民として移民します。ある星には、人間と松の木とミミズが移住しました。

  最初のうちこそ異星人たちもその境遇に同情して優しく接してくれますが、時がたつにつれて居候に嫌気がさしてきます。何か役に立ちたいと思っていた松の木は、光合成という能力を発揮して、その星の二酸化炭素を酸素に換えて空気の浄化に役立ちました。異星人は、なかなかよく働く木だと見直します。それを見ていたミミズは、私もと、その星の土壌を耕して滋養豊富な土に換え、異星人たちに豊作をもたらします。異星人たちは、ミミズの働きに感謝しました。

  はたして人間は何をしてくれるのか。人間は、「バカにするな。我々は地球でもっとも繁栄した生物で、特別だったんだ。松の木やミミズと一緒するな。」と腹を立てます。それでは、いったい何ができるのか、と聞かれて、「我々は足し算ができる。」と答えました。しかし、足し算はその星の住民でもできることなので、役には立たなかったのです。

  こんな話から始まる本は、それで次は?と先を読みたくなるわけです。確かに人間は、自分たちを進化の最高位にいる生物だと思い込んでいるフシがあります。果たしてそうなのでしょうか。我々は、ダチョウのように地上を高速で走ることもできなければ、カラスのように空を飛ぶこともできません。昔は仲間であった猿のように木登りもできません。にもかかわらず、我々は、他の生物より優れていると思っています。

  それは、「進化」という言葉を正しく理解していないからなのではないか。では、進化とは何なのか。それは、我々の細胞が毎日入れ替わっていく「動的平衡」の先にある「自然淘汰」によってもたらされる生命行動そのものなのです。この本は、我々にそのことを教えてくれます。

【ダーウィンと進化論の間】

  さて、この本の目次を覗いてみましょう。

序章 なぜ私たちは生きているのか

第1部 ヒトは進化の頂点ではない

 第1章 心臓病になるように進化した

 第2章 鳥類や恐竜の肺にはかなわない

 第3章 腎臓・尿と「存在の偉大な連鎖」

 第4章 ヒトと腸内細菌の微妙な関係

 第5章 いまも胃腸は進化している

 第6章 ヒトの眼はどれくらい「設計ミス」か

第2部 人類はいかにヒトになったか

 第7章 腰痛は人類の宿命だけれど

 第8章 ヒトはチンパンジーより「原始的」か

 第9章 自然淘汰と直立二足歩行

 第10章 人類が難産になった理由とは

 第11章 生存闘争か、絶滅か

 第12章 一夫一妻制は絶対ではない

 終章 なぜ私たちは死ぬのか

  面白そうですね。この本には、これまで著者が研究し、様々な場所で発表してきた内容がギッシリと、しかも分かり易く詰まっています。そして、すべての章がたとえ話と想定問答、それに対する意外な答えによってワンダーを感じながら進んでいきます。

  皆さんの中には、牛乳が苦手な方もいらっしゃるのではないでしょうか。私の友人たちにも牛乳が苦手で、飲むとおなかがゴロゴロ言っておなかを壊すとか、おならが止まらなくなるとか、飲めない人がたくさんいます。この本を読んでびっくりしたのですが、人類はもともと大人になると牛乳が飲めなくなるようにできている、というのです。

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(ピンクフロイド「原子心母」amazon.co.jp)

  母親は子供が生まれる前からお乳が張って、ミルクが出るようになります。最初の子供ができたときに連れ合いが、子供が母乳をのまないと胸が張って痛くなると苦労して搾乳していたことを思い出します。母乳や牛乳は、子供に必要な糖分が乳糖としてたくさん含まれているそうです。この乳糖はラクターゼという酵素によって分解され、吸収されます。

  生まれたての赤ちゃんは、乳糖を栄養に換えるためにこのラクターゼを体内で作り出すのですが、成長して母乳を飲まなくなるとラクターゼは不要となるため無駄な生産を取りやめるというのです。つまり、母乳を飲まなくなると人間はラクターゼを分泌しなくなるので、牛乳が消化できなくなるのです。ということは、牛乳を飲んでおなかを壊すのは、人として当たり前のことだったのです。

  ところが、紀元前6000年ころに人間に「ラクターゼ活性持続症」なる症状が発症しました。牛乳を飲んでそれが栄養となる人は、この「ラクターゼ活性持続症」を発症した病人?だそうなのです。この病気は北欧で特に多いようですが、仮説としては酪農によって人間が動物のお乳をのむようになってこの症状が発症するようになったのでは、といわれています。(ただ、アジアに住む人は10%程度の人しかラクターゼを持たないが、モンゴル人は昔から家畜の乳を飲んでいるとの事実もあるようです。こちらは、腸内細菌の活躍によるのかな?)

  進化というと、100万年単位で突然変異によって起きるとのイメージがありますが、大人になってもラクターゼが活性しているという進化は、数千年単位で起きたものであり、進化は常に起きつつあるとの証左であるとわかります。

【進化のすごさとダーウィンの誤謬】

  ダーウィンの進化論は、人間の優位性や唯一性を信じる19世紀の人々には受け入れがたい説でしたが、今でも宗教的な理由や信念として進化論を拒む人たちもいるようです。そうした人々の一つの論拠として人間の目のような完全な機能は進化では作り上げようがなく、目はもともと備わっていた器官であり、進化論では説明できない、との主張をこの本では取り上げています。その語りは本当にワンダーですが、その楽しさはぜひご自身で味わってください。

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(ダーウィン「種の起源」amazon.co.jp)

  ところで、更科氏はこの本とは別にダーウィンの進化論に関する本も上梓していますが、この本でも分かり易くダーウィンの誤謬についても触れています。ダーウィンの進化論での主張は、生命は自然淘汰によって環境に適用するように進化を遂げる、としており、その進化は常により環境に適用するように進んでいくように理解されています。

  しかし、進化が常に前に進むものだとすれば、生きている化石と呼ばれるシーラカンスやカブトガニ、オウムガイなどが数億年前と同様な姿で現在も生きているのはなぜなのでしょうか。この本では、そのことも教えてくれています。生きている化石のみならず、地球上に住む最小の菌たちは、分裂することによって死ぬことなく生命誕生以来40億年も生きながらえていると言います。

  ここで興味深いのは、「進化」には2種類あるとの指摘です。ひとつは「方向性選択」による進化。もうひとつは「安定化選択」という進化です。我々がダーウィンによって知らされた進化は「方向性選択」による進化です。自然淘汰が働いて突然変異が起きたとき、その変異が生きていくのに有効な変異であれば、進化はその方向に進んでいきます。いわいる進化のアクセルが踏まれます。

  一方、自然淘汰による突然変異が生きるために不利に働いたとすればどうでしょう。その変異はすぐに取り除かれて進化はそのまま止まります。つまり、「安定的選択」とは進化しない進化と言えます。このように進化は、アクセルとブレーキを使いながら進んでいくので、ゆっくりと進むように見えますが、牛乳が飲める「ラクターゼ活性持続症」という進化にはブレーキを聞かせる必要がなかったので数千年と言うアクセル全開のスピードで進化したと言います。


  さて、進化とは生きることと同義なのですが、生命が死ぬことは進化の結果だと言います。それは果たして本当なのでしょうか。その答えは、ぜひこの本で解明してください。この本は科学を探求する本なのですが、なんだか宗教の本のようにも思えるから不思議です。ワンダーに楽しめること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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更科功 絶滅の次は残酷な進化!?

こんばんは。

  ひところ、「人類の進化」が流行っていた時期がありました。それは、ネアンデルタール人よりも小さな脳を持つ我々ホモ・サピエンスは、なぜ唯一の人類として生き残ったのか、との疑問をNHKの特集「人類誕生」が取り上げたことがきっかけのひとつです。そのときに読んだのが、更科功氏の本「人類の絶滅史」でした。

  この本のワンダーは、700万年前、我々ホモ・サピエンスがこの世に誕生するまでに、地球上には25種類以上も人類がいることが確認されていたという事実。さらには、そのすべてがネアンデルタール人を最後に絶滅し、1万年前に共存していたネアンデルタール人が絶滅してからは、我々ホモ・サピエンスが唯一の人類だ、という事実でした。

  我々が生き残り、この地球ですべての生命の頂点に君臨すると思っているのはなぜなのか。その理由が食料を調達するため、また、子供を育てるため、であったことが分かり易い語り口と意外な例示で示されていき、本当に面白い本でした。それ以前に読んだ「化石の分子生物学」は、講談社科学出版賞も受賞しており、その語り口はとてもなめらかです。

  先日本屋さんで新書の棚を眺めていると、またまた「更科功」の文字が目に入りました。いったい今回は何を語ってくれるのか。楽しみにレジへと向かいました。

「残酷な進化論 なぜ『私たち』は『不完全』なのか」

(更科功著 NHK出版新書 2019年)

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(更科功「残酷な進化論」amazon.co.jp)

【ワンダーを紡ぐ語り口】

  この本を読んでいて思い出したのは、福岡伸一ハカセです。今やその著作がスッカリ有名になりましたが、ベストセラーとなった「生物と無生物の間」はハカセの郷愁を感じる描写とこれまでの生物学の発見と進歩を解き明かすワンダーが相まって、最後まで一気に読み終わってしまう素晴らしい著作でした。思い出したのは、どちらも分子生物学の研究者であるところが共通だからです。

  もっともその専門分野は異なっており、福岡ハカセが現在の分子生物学を研究し、我々は新陳代謝によって毎日生まれ変わることで生きている、といってもよい「動的平衡」との概念を我々に教えてくれます。一方の更科功氏は化石や古生物の分子を研究してまさに進化の謎を解き明かそうとする研究者です。

  福岡ハカセが研究の道を志したのは、ルドルフ・シェーンハイマー。片や更科功氏が探求しているのはかのチャールズ・ダーウィン。とその研究対象には違いがありますが、生命の分子的研究によって「生命」とは何か、「生きる」とは何か、を究明するとの姿勢はまったく変わりがありません。

  「動的平衡」によれば、我々生命は、自らのすべての細胞を日々新たな細胞に更新することによって生命を維持するのであり、人は1週間もすればすべての細胞が更新されて、まったく新しい命になっていると言います。

  子供のころ姉と一緒にふろに入ると、姉がいつも「あかすり競争」を仕掛けてきました。それは、体を洗うときに体を洗ったタオルをゆすいだ時に、どちらがたくさん「アカ」が落とせたかを競う遊びです。当然、いつも私が勝つわけですが、今思えば、お風呂が大嫌いだった私をふろに入れる作戦だったわけで、姉の戦略には今更ながら脱帽です。

  シェーンハイマーのたんぱく質入れ替え理論や「動的平衡」と聞くと、いつも昔懐かしい「あかすり競争」を思い出します。

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(福岡伸一「動的平衡」amazon.co.jp)

  福岡ハカセは置いておいて、今回は「進化」の話です。

  更科さんの語り口は、分かり易く、なめらかです。なぜ分かり易いのかといえば、話の枕がとても興味深い例示や質問になっていることが大きな特徴です。プロローグで、氏は語ります。仮に遥かなる未来、地球が消滅する前に地球生物は地球を脱出し、様々な星に避難民として移民します。ある星には、人間と松の木とミミズが移住しました。

  最初のうちこそ異星人たちもその境遇に同情して優しく接してくれますが、時がたつにつれて居候に嫌気がさしてきます。何か役に立ちたいと思っていた松の木は、光合成という能力を発揮して、その星の二酸化炭素を酸素に換えて空気の浄化に役立ちました。異星人は、なかなかよく働く木だと見直します。それを見ていたミミズは、私もと、その星の土壌を耕して滋養豊富な土に換え、異星人たちに豊作をもたらします。異星人たちは、ミミズの働きに感謝しました。

  はたして人間は何をしてくれるのか。人間は、「バカにするな。我々は地球でもっとも繁栄した生物で、特別だったんだ。松の木やミミズと一緒するな。」と腹を立てます。それでは、いったい何ができるのか、と聞かれて、「我々は足し算ができる。」と答えました。しかし、足し算はその星の住民でもできることなので、役には立たなかったのです。

  こんな話から始まる本は、それで次は?と先を読みたくなるわけです。確かに人間は、自分たちを進化の最高位にいる生物だと思い込んでいるフシがあります。果たしてそうなのでしょうか。我々は、ダチョウのように地上を高速で走ることもできなければ、カラスのように空を飛ぶこともできません。昔は仲間であった猿のように木登りもできません。にもかかわらず、我々は、他の生物より優れていると思っています。

  それは、「進化」という言葉を正しく理解していないからなのではないか。では、進化とは何なのか。それは、我々の細胞が毎日入れ替わっていく「動的平衡」の先にある「自然淘汰」によってもたらされる生命行動そのものなのです。この本は、我々にそのことを教えてくれます。

【ダーウィンと進化論の間】

  さて、この本の目次を覗いてみましょう。

序章 なぜ私たちは生きているのか

第1部 ヒトは進化の頂点ではない

 第1章 心臓病になるように進化した

 第2章 鳥類や恐竜の肺にはかなわない

 第3章 腎臓・尿と「存在の偉大な連鎖」

 第4章 ヒトと腸内細菌の微妙な関係

 第5章 いまも胃腸は進化している

 第6章 ヒトの眼はどれくらい「設計ミス」か

第2部 人類はいかにヒトになったか

 第7章 腰痛は人類の宿命だけれど

 第8章 ヒトはチンパンジーより「原始的」か

 第9章 自然淘汰と直立二足歩行

 第10章 人類が難産になった理由とは

 第11章 生存闘争か、絶滅か

 第12章 一夫一妻制は絶対ではない

 終章 なぜ私たちは死ぬのか

  面白そうですね。この本には、これまで著者が研究し、様々な場所で発表してきた内容がギッシリと、しかも分かり易く詰まっています。そして、すべての章がたとえ話と想定問答、それに対する意外な答えによってワンダーを感じながら進んでいきます。

  皆さんの中には、牛乳が苦手な方もいらっしゃるのではないでしょうか。私の友人たちにも牛乳が苦手で、飲むとおなかがゴロゴロ言っておなかを壊すとか、おならが止まらなくなるとか、飲めない人がたくさんいます。この本を読んでびっくりしたのですが、人類はもともと大人になると牛乳が飲めなくなるようにできている、というのです。

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(ピンクフロイド「原子心母」amazon.co.jp)

  母親は子供が生まれる前からお乳が張って、ミルクが出るようになります。最初の子供ができたときに連れ合いが、子供が母乳をのまないと胸が張って痛くなると苦労して搾乳していたことを思い出します。母乳や牛乳は、子供に必要な糖分が乳糖としてたくさん含まれているそうです。この乳糖はラクターゼという酵素によって分解され、吸収されます。

  生まれたての赤ちゃんは、乳糖を栄養に換えるためにこのラクターゼを体内で作り出すのですが、成長して母乳を飲まなくなるとラクターゼは不要となるため無駄な生産を取りやめるというのです。つまり、母乳を飲まなくなると人間はラクターゼを分泌しなくなるので、牛乳が消化できなくなるのです。ということは、牛乳を飲んでおなかを壊すのは、人として当たり前のことだったのです。

  ところが、紀元前6000年ころに人間に「ラクターゼ活性持続症」なる症状が発症しました。牛乳を飲んでそれが栄養となる人は、この「ラクターゼ活性持続症」を発症した病人?だそうなのです。この病気は北欧で特に多いようですが、仮説としては酪農によって人間が動物のお乳をのむようになってこの症状が発症するようになったのでは、といわれています。(ただ、アジアに住む人は10%程度の人しかラクターゼを持たないが、モンゴル人は昔から家畜の乳を飲んでいるとの事実もあるようです。こちらは、腸内細菌の活躍によるのかな?)

  進化というと、100万年単位で突然変異によって起きるとのイメージがありますが、大人になってもラクターゼが活性しているという進化は、数千年単位で起きたものであり、進化は常に起きつつあるとの証左であるとわかります。

【進化のすごさとダーウィンの誤謬】

  ダーウィンの進化論は、人間の優位性や唯一性を信じる19世紀の人々には受け入れがたい説でしたが、今でも宗教的な理由や信念として進化論を拒む人たちもいるようです。そうした人々の一つの論拠として人間の目のような完全な機能は進化では作り上げようがなく、目はもともと備わっていた器官であり、進化論では説明できない、との主張をこの本では取り上げています。その語りは本当にワンダーですが、その楽しさはぜひご自身で味わってください。

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(ダーウィン「種の起源」amazon.co.jp)

  ところで、更科氏はこの本とは別にダーウィンの進化論に関する本も上梓していますが、この本でも分かり易くダーウィンの誤謬についても触れています。ダーウィンの進化論での主張は、生命は自然淘汰によって環境に適用するように進化を遂げる、としており、その進化は常により環境に適用するように進んでいくように理解されています。

  しかし、進化が常に前に進むものだとすれば、生きている化石と呼ばれるシーラカンスやカブトガニ、オウムガイなどが数億年前と同様な姿で現在も生きているのはなぜなのでしょうか。この本では、そのことも教えてくれています。生きている化石のみならず、地球上に住む最小の菌たちは、分裂することによって死ぬことなく生命誕生以来40億年も生きながらえていると言います。

  ここで興味深いのは、「進化」には2種類あるとの指摘です。ひとつは「方向性選択」による進化。もうひとつは「安定化選択」という進化です。我々がダーウィンによって知らされた進化は「方向性選択」による進化です。自然淘汰が働いて突然変異が起きたとき、その変異が生きていくのに有効な変異であれば、進化はその方向に進んでいきます。いわいる進化のアクセルが踏まれます。

  一方、自然淘汰による突然変異が生きるために不利に働いたとすればどうでしょう。その変異はすぐに取り除かれて進化はそのまま止まります。つまり、「安定的選択」とは進化しない進化と言えます。このように進化は、アクセルとブレーキを使いながら進んでいくので、ゆっくりと進むように見えますが、牛乳が飲める「ラクターゼ活性持続症」という進化にはブレーキを聞かせる必要がなかったので数千年と言うアクセル全開のスピードで進化したと言います。


  さて、進化とは生きることと同義なのですが、生命が死ぬことは進化の結果だと言います。それは果たして本当なのでしょうか。その答えは、ぜひこの本で解明してください。この本は科学を探求する本なのですが、なんだか宗教の本のようにも思えるから不思議です。ワンダーに楽しめること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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稲葉振一郎 銀河帝国興亡と現代の闘い

こんばんは。

  SFの世界で古典的作家といえば、アイザック・アシモフの名前が挙がります。アシモフは学生時代からたくさんのSF作品を発表し、その72年の生涯で、科学者としても著作を残すと同時にノンフィクションライターとしても多くの著作を発表しました。その著作は500作以上とされており、SFのみならず、現代の知者の一人といってもよい作家です。

  同じくSF作家では、「地球幼年期の物語」のアーサー・C・クラーク、「夏への扉」のロバートA・ハイランインと並べてSF御三家と呼ばれています。こうした著者のSFはどれも面白く、かつてその作品たちのセンス・オブ・ワンダーに夢中になりました。

  アシモフと言えば、一連のロボット短編集と最大のロマンである「銀河帝国興亡史」が最も有名な作品群といっても過言ではありません。先週、恒例の本屋さん巡りをしていると新書の棚で、「銀河帝国」、「ロボット」という文字が目に飛び込んできました。思わず手に取ってみると、どうやら社会学者の方が書いたロボット本のようでした。なかなか興味深そうなので他の本と一緒に購入しました。今週は、SF世界から人類の未来を語ろうとする本を読んでいました。

「銀河帝国は必要か-ロボットと人類の未来」

(稲葉振一郎著 ちくまプリマー新書 2019年)

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(「銀河帝国は必要か?」amazon.co.jp)

【アシモフに見る未来】

  まず、結論をお伝えしましょう。

  この本はアシモフのファンにはとてつおなく興奮する本ですが、そうでない読者にはどこに焦点があてられているのか、理解しにくい内容となっています。

  まず、アシモフと言えば、「われはロボット」という短編集がすぐに頭に浮かびます。私も最初に読んだのはこの本でした。この本がアメリカで上梓されたのは1950年といいますから、まさに古典といってもよい作品です。ロボットは、チェコの作家、チャペックが人間に変わって使役的作業を行う機械を小説に登場させ、その名をロボットと名付けたことがはじまりと言われていますが、自分で考え自分で動く自動人形(ロボット)は、SF世界では代表的な一分野を築いています。

  特にアシモフが有名なのは、ロボットSFの基本となるような概念を作品に持ち込んだからです。それは、「ロボット工学三原則」と呼ばれ、その後のロボットSF作品に大きな影響を及ぼしました。その三原則とは、①ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。②ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、①に反する場合は、この限りでない。③ロボットは、前掲①および②に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。というものです。

  この三原則が「アシモフの三原則」と呼ばれることに関してアシモフは、自分は科学者の端くれなので、架空の科学分野における架空の原則で後世に名を残すのは本意ではない。将来現実のロボット工学が発達して三原則が実用されれば真の名声を得られるかもしれない。仮にそうなるとしても、どのみち自分の死後のことだろう。と話したといいます。アシモフが亡くなったのは1992年。確かにその後ロボット工学は驚異的に発展しましたが、現実世界で三原則の話はいまだ聞いたことがありません。

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(アシモフ名作「I ROBOT」amazon.co.jp)

  今回の本の主題は、すでに現実となっているAI技術を含めたロボット工学の世界で、人類がこれまで築いてきた様々な倫理学が今後どのように変化していくのかを、SF世界を分析することで見極めようとする試みなのです。

  その目次を覗くと、この本でいうSFとは正にアシモフ世界のことを指しているのです。

1章 なぜロボットが問題になるのか

2章 SF作家アイザック・アシモフ

3章 宇宙SFの歴史

4章 ロボット物語-アシモフの世界から(1

5章 銀河帝国-アシモフの世界から(2

6章 アシモフと人類の未来

  さて、アシモフのファンは、そのSFがロボットシリーズとファウンデーションシリーズに二分されていることをよくご存じと思います。この本の第1章での問題提起を読むと、人類の未来とロボットの関係を社会学的に論じるつもりであることが語られていますが、第2章以下を読み進むにつれて、この本の著者である稲葉氏が、SFとアイザック・アシモフを分析しようとする社会学的な意志を感じます。

  著者は、第4章でアシモフのロボットシリーズを分析し、さらに第5章ではファウンデーションシリーズの分析へと取り掛かります。アシモフファンにはたまらない展開。なつかしさとその目の付け所にワンダーを感じます。

  「ファウンデーション」というとアシモフの読者でない方は、けげんに感じると思いますが、ファウンデーションシリーズの日本での翻訳は「銀河帝国の興亡」または「銀河帝国興亡史」という名称で上梓されています。日本語の題名を見て、世界史を専攻した方は歴史家ギボンが記した「ローマ帝国衰亡史」を思い出すと思います。若きアシモフは、まさにその本を読んでこの500年間にわたる銀河帝国を物語る小説を構想したのです。

  作家で科学者であったアシモフは、初期の作品群でロボットシリーズとファウンデーションシリーズを全く別の小説として構想し、小説にまとめています。近未来を描くミステリーの傑作「鋼鉄都市」では、ロボット刑事であるダニールが登場し、謎に満ちた殺人事件を人間の刑事であるベイリとタッグを組んで解決していきます。ロボットシリーズは、その後、この二人を主人公として続いていくことになります。

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(アシモフ「鋼鉄都市」amazon.co.jp)

  最初の「銀河帝国(ファウンデーション)シリーズ」は、宇宙ものSFの傑作でしたがそこに記された未来にロボットはまったく登場していません。一方のロボットシリーズは、ロボット工学三原則を基本とした推理小説仕立てのミステリィであり、その内容は銀河帝国とは関係のない物語でした。その後、アシモフは科学やノンフィクションを書くことに興味を抱き、さらに現代ものの推理小説も上梓します。しばらく、ロボットもファウンデーションも執筆されることはありませんでした。

  しかし、ファウンデーションシリーズを1953年に上梓し、ロボットシリーズの続編を1957年に上梓してから25年後、アシモフはファンの要請にこたえてシリーズの続編を構想します。1982年に「ファウンデーションの彼方に」で再びシリーズをスタートしたアシモフは、ロボットとファウンデーションをつなぐ物語の構想を想起しました。それは、「銀河帝国」の物語になぜロボットが登場しないのか、とのなぞを解明する物語だったのです。

  ちなみに日本語訳の「銀河帝国興亡史」は、ファウンデーションと呼ばれる人類の永遠にわたる存続を目標とする組織と相対する銀河帝国の興亡を描いており、最初の三部作の題名としてはふさわしかったのですが、1982年以降の作品と「銀河帝国」はそぐわない題名です。なぜなら、前期と後期をつなぐ500年にわたる物語は、銀河帝国ではなくファウンデーションが主役だからです。

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(アシモフ「銀河帝国興亡史」amazon.co.jp)

【アシモフを巡る未来への議論】

  著者は、第1章で現在2045年にシンギュラリティ(無限値)を迎えるAIに焦点を当てます。これまで、SFは近代の科学的発展を先取りする架空世界を展開してきました。その中心は、ガンダムや鉄腕アトムに代表されるロボットたちです。しかし、これまでSFで描かれてきたロボットと現在のAIには、決定的な違いがあるとの指摘はそのとおりです。

  それは、現在のAIはネットワークにつながっていることが常態となっているとの指摘です。

  我々がこれまでイメージしていたロボットは、アトムのように独立した頭脳を持ち自ら考え、自ら行動を起こす機械でした。確かに、現在でも独立したコンピューターが頭脳となり、その中で人間の脳を再現するニューロンとシナプスを増やしていき、そこに人間の脳と同じように情報を流し込んで学習させていくとの手法がAIを発達させてきました。

  しかし、今やインターネットに代表されるネットワークはほぼすべてのコンピューターにつながっています。さらに世の中ではクラウドコンピューターの技術が進化を続けており、あるAIが人間の脳を超えれば、すべての端末でシンギュラリティが実現することが容易に想定されます。こうした技術は、これまでのロボットSFの枠組みを超える現在科学の大きな変革です。

  SFのもう一つの主役は、宇宙です。無限に広がる宇宙では、我々が生きている銀河系や太陽系と同じ環境の星系が数多くあると言われています。そのことから、人間は、この宇宙の何処かで我々と同様の知性を持った異星人との接触があるのではないか、との期待に胸を躍らせています。SFでは、「火星人襲来(宇宙戦争)」以来、「未知との遭遇」や「E..」など功罪ありまぜた異星人との接触を夢見てきました。

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(H.G.ウェルズ「宇宙戦争」amazon.co.jp)

  ところが、最新の研究では我々人類が生存している間に異星人と接触することはないだろう、との学説が有力になっていると言います。

  もしも異星人との接触がないとすれば、残る選択肢は宇宙というフロンティアの開拓です。すでに国際宇宙ステーションを使ったあらゆる科学分野の実験が、宇宙空間で展開されていますが、さらにその発想が進んでいけば、人間は太陽系の別の惑星に移住するとの行動が現実となる可能性が高くなります。

  そのときに考えられるのは、ネットワークでつながっているロボットや攻殻機動隊のようなサイボーグ人間が真空の宇宙空間や、別の惑星で開拓を行っていく未来です。こうした未来が想定される中で、アシモフに代表されるロボットと宇宙人類の未来は我々にどんな倫理観を期待するのでしょうか。著者は、そうした問題意識で、科学者であり、SF作家でもあり、さらにノンフィクションライターでもあったアシモフの作品を分析していくのです。

  もう一つ、著者の議論のポイントとなっているのは、光速による恒星間移動の現実性です。スター・ウォーズでもスタートレックでも宇宙船による移動の手段は、ワープなどの光速を超える速度での空間移動です。しかし、著者はここでも疑問を展開します。それは、技術的な問題(例えば瞬間で惑星や彗星小惑星の一が揺れ動いている宇宙で、出現する場所での安全性の確保は不可能である。)とネットワークの問題から実現は難しいという考え方です。

  つまり、現在のネットワーク技術は極めて限定された物理的な距離の中で実現された技術であり、人類はこの利便性を捨ててまで光速で移動しなければならないような別銀河にまで進出することはないだろうとの未来予想です。

  こうした現在我々が置かれた人類社会とアシモフが描いた未来社会。この二つの世界から我々はどのような未来を描けばよいのでしょうか。そこでは、アシモフが描いたロボット工学三原則に加えられた新たな原則、第零原則が大きくクローズアップされることになるのです。


  その議論には、ぜひこの本を読むことで参加してください。最後には、社会哲学に突入する議論が展開されることになりますが、アシモフが好きな方には楽しめることに間違いありません。お楽しみに。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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