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更科功 絶滅の次は残酷な進化!?

こんばんは。

  ひところ、「人類の進化」が流行っていた時期がありました。それは、ネアンデルタール人よりも小さな脳を持つ我々ホモ・サピエンスは、なぜ唯一の人類として生き残ったのか、との疑問をNHKの特集「人類誕生」が取り上げたことがきっかけのひとつです。そのときに読んだのが、更科功氏の本「人類の絶滅史」でした。

  この本のワンダーは、700万年前、我々ホモ・サピエンスがこの世に誕生するまでに、地球上には25種類以上も人類がいることが確認されていたという事実。さらには、そのすべてがネアンデルタール人を最後に絶滅し、1万年前に共存していたネアンデルタール人が絶滅してからは、我々ホモ・サピエンスが唯一の人類だ、という事実でした。

  我々が生き残り、この地球ですべての生命の頂点に君臨すると思っているのはなぜなのか。その理由が食料を調達するため、また、子供を育てるため、であったことが分かり易い語り口と意外な例示で示されていき、本当に面白い本でした。それ以前に読んだ「化石の分子生物学」は、講談社科学出版賞も受賞しており、その語り口はとてもなめらかです。

  先日本屋さんで新書の棚を眺めていると、またまた「更科功」の文字が目に入りました。いったい今回は何を語ってくれるのか。楽しみにレジへと向かいました。

「残酷な進化論 なぜ『私たち』は『不完全』なのか」

(更科功著 NHK出版新書 2019年)

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(更科功「残酷な進化論」amazon.co.jp)

【ワンダーを紡ぐ語り口】

  この本を読んでいて思い出したのは、福岡伸一ハカセです。今やその著作がスッカリ有名になりましたが、ベストセラーとなった「生物と無生物の間」はハカセの郷愁を感じる描写とこれまでの生物学の発見と進歩を解き明かすワンダーが相まって、最後まで一気に読み終わってしまう素晴らしい著作でした。思い出したのは、どちらも分子生物学の研究者であるところが共通だからです。

  もっともその専門分野は異なっており、福岡ハカセが現在の分子生物学を研究し、我々は新陳代謝によって毎日生まれ変わることで生きている、といってもよい「動的平衡」との概念を我々に教えてくれます。一方の更科功氏は化石や古生物の分子を研究してまさに進化の謎を解き明かそうとする研究者です。

  福岡ハカセが研究の道を志したのは、ルドルフ・シェーンハイマー。片や更科功氏が探求しているのはかのチャールズ・ダーウィン。とその研究対象には違いがありますが、生命の分子的研究によって「生命」とは何か、「生きる」とは何か、を究明するとの姿勢はまったく変わりがありません。

  「動的平衡」によれば、我々生命は、自らのすべての細胞を日々新たな細胞に更新することによって生命を維持するのであり、人は1週間もすればすべての細胞が更新されて、まったく新しい命になっていると言います。

  子供のころ姉と一緒にふろに入ると、姉がいつも「あかすり競争」を仕掛けてきました。それは、体を洗うときに体を洗ったタオルをゆすいだ時に、どちらがたくさん「アカ」が落とせたかを競う遊びです。当然、いつも私が勝つわけですが、今思えば、お風呂が大嫌いだった私をふろに入れる作戦だったわけで、姉の戦略には今更ながら脱帽です。

  シェーンハイマーのたんぱく質入れ替え理論や「動的平衡」と聞くと、いつも昔懐かしい「あかすり競争」を思い出します。

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(福岡伸一「動的平衡」amazon.co.jp)

  福岡ハカセは置いておいて、今回は「進化」の話です。

  更科さんの語り口は、分かり易く、なめらかです。なぜ分かり易いのかといえば、話の枕がとても興味深い例示や質問になっていることが大きな特徴です。プロローグで、氏は語ります。仮に遥かなる未来、地球が消滅する前に地球生物は地球を脱出し、様々な星に避難民として移民します。ある星には、人間と松の木とミミズが移住しました。

  最初のうちこそ異星人たちもその境遇に同情して優しく接してくれますが、時がたつにつれて居候に嫌気がさしてきます。何か役に立ちたいと思っていた松の木は、光合成という能力を発揮して、その星の二酸化炭素を酸素に換えて空気の浄化に役立ちました。異星人は、なかなかよく働く木だと見直します。それを見ていたミミズは、私もと、その星の土壌を耕して滋養豊富な土に換え、異星人たちに豊作をもたらします。異星人たちは、ミミズの働きに感謝しました。

  はたして人間は何をしてくれるのか。人間は、「バカにするな。我々は地球でもっとも繁栄した生物で、特別だったんだ。松の木やミミズと一緒するな。」と腹を立てます。それでは、いったい何ができるのか、と聞かれて、「我々は足し算ができる。」と答えました。しかし、足し算はその星の住民でもできることなので、役には立たなかったのです。

  こんな話から始まる本は、それで次は?と先を読みたくなるわけです。確かに人間は、自分たちを進化の最高位にいる生物だと思い込んでいるフシがあります。果たしてそうなのでしょうか。我々は、ダチョウのように地上を高速で走ることもできなければ、カラスのように空を飛ぶこともできません。昔は仲間であった猿のように木登りもできません。にもかかわらず、我々は、他の生物より優れていると思っています。

  それは、「進化」という言葉を正しく理解していないからなのではないか。では、進化とは何なのか。それは、我々の細胞が毎日入れ替わっていく「動的平衡」の先にある「自然淘汰」によってもたらされる生命行動そのものなのです。この本は、我々にそのことを教えてくれます。

【ダーウィンと進化論の間】

  さて、この本の目次を覗いてみましょう。

序章 なぜ私たちは生きているのか

第1部 ヒトは進化の頂点ではない

 第1章 心臓病になるように進化した

 第2章 鳥類や恐竜の肺にはかなわない

 第3章 腎臓・尿と「存在の偉大な連鎖」

 第4章 ヒトと腸内細菌の微妙な関係

 第5章 いまも胃腸は進化している

 第6章 ヒトの眼はどれくらい「設計ミス」か

第2部 人類はいかにヒトになったか

 第7章 腰痛は人類の宿命だけれど

 第8章 ヒトはチンパンジーより「原始的」か

 第9章 自然淘汰と直立二足歩行

 第10章 人類が難産になった理由とは

 第11章 生存闘争か、絶滅か

 第12章 一夫一妻制は絶対ではない

 終章 なぜ私たちは死ぬのか

  面白そうですね。この本には、これまで著者が研究し、様々な場所で発表してきた内容がギッシリと、しかも分かり易く詰まっています。そして、すべての章がたとえ話と想定問答、それに対する意外な答えによってワンダーを感じながら進んでいきます。

  皆さんの中には、牛乳が苦手な方もいらっしゃるのではないでしょうか。私の友人たちにも牛乳が苦手で、飲むとおなかがゴロゴロ言っておなかを壊すとか、おならが止まらなくなるとか、飲めない人がたくさんいます。この本を読んでびっくりしたのですが、人類はもともと大人になると牛乳が飲めなくなるようにできている、というのです。

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(ピンクフロイド「原子心母」amazon.co.jp)

  母親は子供が生まれる前からお乳が張って、ミルクが出るようになります。最初の子供ができたときに連れ合いが、子供が母乳をのまないと胸が張って痛くなると苦労して搾乳していたことを思い出します。母乳や牛乳は、子供に必要な糖分が乳糖としてたくさん含まれているそうです。この乳糖はラクターゼという酵素によって分解され、吸収されます。

  生まれたての赤ちゃんは、乳糖を栄養に換えるためにこのラクターゼを体内で作り出すのですが、成長して母乳を飲まなくなるとラクターゼは不要となるため無駄な生産を取りやめるというのです。つまり、母乳を飲まなくなると人間はラクターゼを分泌しなくなるので、牛乳が消化できなくなるのです。ということは、牛乳を飲んでおなかを壊すのは、人として当たり前のことだったのです。

  ところが、紀元前6000年ころに人間に「ラクターゼ活性持続症」なる症状が発症しました。牛乳を飲んでそれが栄養となる人は、この「ラクターゼ活性持続症」を発症した病人?だそうなのです。この病気は北欧で特に多いようですが、仮説としては酪農によって人間が動物のお乳をのむようになってこの症状が発症するようになったのでは、といわれています。(ただ、アジアに住む人は10%程度の人しかラクターゼを持たないが、モンゴル人は昔から家畜の乳を飲んでいるとの事実もあるようです。こちらは、腸内細菌の活躍によるのかな?)

  進化というと、100万年単位で突然変異によって起きるとのイメージがありますが、大人になってもラクターゼが活性しているという進化は、数千年単位で起きたものであり、進化は常に起きつつあるとの証左であるとわかります。

【進化のすごさとダーウィンの誤謬】

  ダーウィンの進化論は、人間の優位性や唯一性を信じる19世紀の人々には受け入れがたい説でしたが、今でも宗教的な理由や信念として進化論を拒む人たちもいるようです。そうした人々の一つの論拠として人間の目のような完全な機能は進化では作り上げようがなく、目はもともと備わっていた器官であり、進化論では説明できない、との主張をこの本では取り上げています。その語りは本当にワンダーですが、その楽しさはぜひご自身で味わってください。

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(ダーウィン「種の起源」amazon.co.jp)

  ところで、更科氏はこの本とは別にダーウィンの進化論に関する本も上梓していますが、この本でも分かり易くダーウィンの誤謬についても触れています。ダーウィンの進化論での主張は、生命は自然淘汰によって環境に適用するように進化を遂げる、としており、その進化は常により環境に適用するように進んでいくように理解されています。

  しかし、進化が常に前に進むものだとすれば、生きている化石と呼ばれるシーラカンスやカブトガニ、オウムガイなどが数億年前と同様な姿で現在も生きているのはなぜなのでしょうか。この本では、そのことも教えてくれています。生きている化石のみならず、地球上に住む最小の菌たちは、分裂することによって死ぬことなく生命誕生以来40億年も生きながらえていると言います。

  ここで興味深いのは、「進化」には2種類あるとの指摘です。ひとつは「方向性選択」による進化。もうひとつは「安定化選択」という進化です。我々がダーウィンによって知らされた進化は「方向性選択」による進化です。自然淘汰が働いて突然変異が起きたとき、その変異が生きていくのに有効な変異であれば、進化はその方向に進んでいきます。いわいる進化のアクセルが踏まれます。

  一方、自然淘汰による突然変異が生きるために不利に働いたとすればどうでしょう。その変異はすぐに取り除かれて進化はそのまま止まります。つまり、「安定的選択」とは進化しない進化と言えます。このように進化は、アクセルとブレーキを使いながら進んでいくので、ゆっくりと進むように見えますが、牛乳が飲める「ラクターゼ活性持続症」という進化にはブレーキを聞かせる必要がなかったので数千年と言うアクセル全開のスピードで進化したと言います。


  さて、進化とは生きることと同義なのですが、生命が死ぬことは進化の結果だと言います。それは果たして本当なのでしょうか。その答えは、ぜひこの本で解明してください。この本は科学を探求する本なのですが、なんだか宗教の本のようにも思えるから不思議です。ワンダーに楽しめること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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稲葉振一郎 銀河帝国興亡と現代の闘い

こんばんは。

  SFの世界で古典的作家といえば、アイザック・アシモフの名前が挙がります。アシモフは学生時代からたくさんのSF作品を発表し、その72年の生涯で、科学者としても著作を残すと同時にノンフィクションライターとしても多くの著作を発表しました。その著作は500作以上とされており、SFのみならず、現代の知者の一人といってもよい作家です。

  同じくSF作家では、「地球幼年期の物語」のアーサー・C・クラーク、「夏への扉」のロバートA・ハイランインと並べてSF御三家と呼ばれています。こうした著者のSFはどれも面白く、かつてその作品たちのセンス・オブ・ワンダーに夢中になりました。

  アシモフと言えば、一連のロボット短編集と最大のロマンである「銀河帝国興亡史」が最も有名な作品群といっても過言ではありません。先週、恒例の本屋さん巡りをしていると新書の棚で、「銀河帝国」、「ロボット」という文字が目に飛び込んできました。思わず手に取ってみると、どうやら社会学者の方が書いたロボット本のようでした。なかなか興味深そうなので他の本と一緒に購入しました。今週は、SF世界から人類の未来を語ろうとする本を読んでいました。

「銀河帝国は必要か-ロボットと人類の未来」

(稲葉振一郎著 ちくまプリマー新書 2019年)

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(「銀河帝国は必要か?」amazon.co.jp)

【アシモフに見る未来】

  まず、結論をお伝えしましょう。

  この本はアシモフのファンにはとてつおなく興奮する本ですが、そうでない読者にはどこに焦点があてられているのか、理解しにくい内容となっています。

  まず、アシモフと言えば、「われはロボット」という短編集がすぐに頭に浮かびます。私も最初に読んだのはこの本でした。この本がアメリカで上梓されたのは1950年といいますから、まさに古典といってもよい作品です。ロボットは、チェコの作家、チャペックが人間に変わって使役的作業を行う機械を小説に登場させ、その名をロボットと名付けたことがはじまりと言われていますが、自分で考え自分で動く自動人形(ロボット)は、SF世界では代表的な一分野を築いています。

  特にアシモフが有名なのは、ロボットSFの基本となるような概念を作品に持ち込んだからです。それは、「ロボット工学三原則」と呼ばれ、その後のロボットSF作品に大きな影響を及ぼしました。その三原則とは、①ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。②ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、①に反する場合は、この限りでない。③ロボットは、前掲①および②に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。というものです。

  この三原則が「アシモフの三原則」と呼ばれることに関してアシモフは、自分は科学者の端くれなので、架空の科学分野における架空の原則で後世に名を残すのは本意ではない。将来現実のロボット工学が発達して三原則が実用されれば真の名声を得られるかもしれない。仮にそうなるとしても、どのみち自分の死後のことだろう。と話したといいます。アシモフが亡くなったのは1992年。確かにその後ロボット工学は驚異的に発展しましたが、現実世界で三原則の話はいまだ聞いたことがありません。

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(アシモフ名作「I ROBOT」amazon.co.jp)

  今回の本の主題は、すでに現実となっているAI技術を含めたロボット工学の世界で、人類がこれまで築いてきた様々な倫理学が今後どのように変化していくのかを、SF世界を分析することで見極めようとする試みなのです。

  その目次を覗くと、この本でいうSFとは正にアシモフ世界のことを指しているのです。

1章 なぜロボットが問題になるのか

2章 SF作家アイザック・アシモフ

3章 宇宙SFの歴史

4章 ロボット物語-アシモフの世界から(1

5章 銀河帝国-アシモフの世界から(2

6章 アシモフと人類の未来

  さて、アシモフのファンは、そのSFがロボットシリーズとファウンデーションシリーズに二分されていることをよくご存じと思います。この本の第1章での問題提起を読むと、人類の未来とロボットの関係を社会学的に論じるつもりであることが語られていますが、第2章以下を読み進むにつれて、この本の著者である稲葉氏が、SFとアイザック・アシモフを分析しようとする社会学的な意志を感じます。

  著者は、第4章でアシモフのロボットシリーズを分析し、さらに第5章ではファウンデーションシリーズの分析へと取り掛かります。アシモフファンにはたまらない展開。なつかしさとその目の付け所にワンダーを感じます。

  「ファウンデーション」というとアシモフの読者でない方は、けげんに感じると思いますが、ファウンデーションシリーズの日本での翻訳は「銀河帝国の興亡」または「銀河帝国興亡史」という名称で上梓されています。日本語の題名を見て、世界史を専攻した方は歴史家ギボンが記した「ローマ帝国衰亡史」を思い出すと思います。若きアシモフは、まさにその本を読んでこの500年間にわたる銀河帝国を物語る小説を構想したのです。

  作家で科学者であったアシモフは、初期の作品群でロボットシリーズとファウンデーションシリーズを全く別の小説として構想し、小説にまとめています。近未来を描くミステリーの傑作「鋼鉄都市」では、ロボット刑事であるダニールが登場し、謎に満ちた殺人事件を人間の刑事であるベイリとタッグを組んで解決していきます。ロボットシリーズは、その後、この二人を主人公として続いていくことになります。

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(アシモフ「鋼鉄都市」amazon.co.jp)

  最初の「銀河帝国(ファウンデーション)シリーズ」は、宇宙ものSFの傑作でしたがそこに記された未来にロボットはまったく登場していません。一方のロボットシリーズは、ロボット工学三原則を基本とした推理小説仕立てのミステリィであり、その内容は銀河帝国とは関係のない物語でした。その後、アシモフは科学やノンフィクションを書くことに興味を抱き、さらに現代ものの推理小説も上梓します。しばらく、ロボットもファウンデーションも執筆されることはありませんでした。

  しかし、ファウンデーションシリーズを1953年に上梓し、ロボットシリーズの続編を1957年に上梓してから25年後、アシモフはファンの要請にこたえてシリーズの続編を構想します。1982年に「ファウンデーションの彼方に」で再びシリーズをスタートしたアシモフは、ロボットとファウンデーションをつなぐ物語の構想を想起しました。それは、「銀河帝国」の物語になぜロボットが登場しないのか、とのなぞを解明する物語だったのです。

  ちなみに日本語訳の「銀河帝国興亡史」は、ファウンデーションと呼ばれる人類の永遠にわたる存続を目標とする組織と相対する銀河帝国の興亡を描いており、最初の三部作の題名としてはふさわしかったのですが、1982年以降の作品と「銀河帝国」はそぐわない題名です。なぜなら、前期と後期をつなぐ500年にわたる物語は、銀河帝国ではなくファウンデーションが主役だからです。

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(アシモフ「銀河帝国興亡史」amazon.co.jp)

【アシモフを巡る未来への議論】

  著者は、第1章で現在2045年にシンギュラリティ(無限値)を迎えるAIに焦点を当てます。これまで、SFは近代の科学的発展を先取りする架空世界を展開してきました。その中心は、ガンダムや鉄腕アトムに代表されるロボットたちです。しかし、これまでSFで描かれてきたロボットと現在のAIには、決定的な違いがあるとの指摘はそのとおりです。

  それは、現在のAIはネットワークにつながっていることが常態となっているとの指摘です。

  我々がこれまでイメージしていたロボットは、アトムのように独立した頭脳を持ち自ら考え、自ら行動を起こす機械でした。確かに、現在でも独立したコンピューターが頭脳となり、その中で人間の脳を再現するニューロンとシナプスを増やしていき、そこに人間の脳と同じように情報を流し込んで学習させていくとの手法がAIを発達させてきました。

  しかし、今やインターネットに代表されるネットワークはほぼすべてのコンピューターにつながっています。さらに世の中ではクラウドコンピューターの技術が進化を続けており、あるAIが人間の脳を超えれば、すべての端末でシンギュラリティが実現することが容易に想定されます。こうした技術は、これまでのロボットSFの枠組みを超える現在科学の大きな変革です。

  SFのもう一つの主役は、宇宙です。無限に広がる宇宙では、我々が生きている銀河系や太陽系と同じ環境の星系が数多くあると言われています。そのことから、人間は、この宇宙の何処かで我々と同様の知性を持った異星人との接触があるのではないか、との期待に胸を躍らせています。SFでは、「火星人襲来(宇宙戦争)」以来、「未知との遭遇」や「E..」など功罪ありまぜた異星人との接触を夢見てきました。

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(H.G.ウェルズ「宇宙戦争」amazon.co.jp)

  ところが、最新の研究では我々人類が生存している間に異星人と接触することはないだろう、との学説が有力になっていると言います。

  もしも異星人との接触がないとすれば、残る選択肢は宇宙というフロンティアの開拓です。すでに国際宇宙ステーションを使ったあらゆる科学分野の実験が、宇宙空間で展開されていますが、さらにその発想が進んでいけば、人間は太陽系の別の惑星に移住するとの行動が現実となる可能性が高くなります。

  そのときに考えられるのは、ネットワークでつながっているロボットや攻殻機動隊のようなサイボーグ人間が真空の宇宙空間や、別の惑星で開拓を行っていく未来です。こうした未来が想定される中で、アシモフに代表されるロボットと宇宙人類の未来は我々にどんな倫理観を期待するのでしょうか。著者は、そうした問題意識で、科学者であり、SF作家でもあり、さらにノンフィクションライターでもあったアシモフの作品を分析していくのです。

  もう一つ、著者の議論のポイントとなっているのは、光速による恒星間移動の現実性です。スター・ウォーズでもスタートレックでも宇宙船による移動の手段は、ワープなどの光速を超える速度での空間移動です。しかし、著者はここでも疑問を展開します。それは、技術的な問題(例えば瞬間で惑星や彗星小惑星の一が揺れ動いている宇宙で、出現する場所での安全性の確保は不可能である。)とネットワークの問題から実現は難しいという考え方です。

  つまり、現在のネットワーク技術は極めて限定された物理的な距離の中で実現された技術であり、人類はこの利便性を捨ててまで光速で移動しなければならないような別銀河にまで進出することはないだろうとの未来予想です。

  こうした現在我々が置かれた人類社会とアシモフが描いた未来社会。この二つの世界から我々はどのような未来を描けばよいのでしょうか。そこでは、アシモフが描いたロボット工学三原則に加えられた新たな原則、第零原則が大きくクローズアップされることになるのです。


  その議論には、ぜひこの本を読むことで参加してください。最後には、社会哲学に突入する議論が展開されることになりますが、アシモフが好きな方には楽しめることに間違いありません。お楽しみに。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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稲葉振一郎 銀河帝国興亡と現代の闘い

こんばんは。

  SFの世界で古典的作家といえば、アイザック・アシモフの名前が挙がります。アシモフは学生時代からたくさんのSF作品を発表し、その72年の生涯で、科学者としても著作を残すと同時にノンフィクションライターとしても多くの著作を発表しました。その著作は500作以上とされており、SFのみならず、現代の知者の一人といってもよい作家です。

  同じくSF作家では、「地球幼年期の物語」のアーサー・C・クラーク、「夏への扉」のロバートA・ハイランインと並べてSF御三家と呼ばれています。こうした著者のSFはどれも面白く、かつてその作品たちのセンス・オブ・ワンダーに夢中になりました。

  アシモフと言えば、一連のロボット短編集と最大のロマンである「銀河帝国興亡史」が最も有名な作品群といっても過言ではありません。先週、恒例の本屋さん巡りをしていると新書の棚で、「銀河帝国」、「ロボット」という文字が目に飛び込んできました。思わず手に取ってみると、どうやら社会学者の方が書いたロボット本のようでした。なかなか興味深そうなので他の本と一緒に購入しました。今週は、SF世界から人類の未来を語ろうとする本を読んでいました。

「銀河帝国は必要か-ロボットと人類の未来」

(稲葉振一郎著 ちくまプリマー新書 2019年)

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(「銀河帝国は必要か?」amazon.co.jp)

【アシモフに見る未来】

  まず、結論をお伝えしましょう。

  この本はアシモフのファンにはとてつもなく興奮する本ですが、そうでない読者にはどこに焦点があてられているのか、理解しにくい内容となっています。

  さて、アシモフと言えば、「われはロボット」という短編集がすぐに頭に浮かびます。私も最初に読んだのはこの本でした。この本がアメリカで上梓されたのは1950年といいますから、まさに古典といってもよい作品です。ロボットは、チェコの作家、チャペックが人間に変わって使役的作業を行う機械を小説に登場させ、その名をロボットと名付けたことがはじまりと言われていますが、自分で考え自分で動く自動人形(ロボット)は、SF世界では代表的な一分野を築いています。

  特にアシモフが有名なのは、ロボットSFの基本となるような概念を作品に持ち込んだからです。それは、「ロボット工学三原則」と呼ばれ、その後のロボットSF作品に大きな影響を及ぼしました。その三原則とは、①ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。②ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、①に反する場合は、この限りでない。③ロボットは、前掲①および②に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。というものです。

  この三原則が「アシモフの三原則」と呼ばれることに関してアシモフは、自分は科学者の端くれなので、架空の科学分野における架空の原則で後世に名を残すのは本意ではない。将来現実のロボット工学が発達して三原則が実用されれば真の名声を得られるかもしれない。仮にそうなるとしても、どのみち自分の死後のことだろう。と話したといいます。アシモフが亡くなったのは1992年。確かにその後ロボット工学は驚異的に発展しましたが、現実世界で三原則の話はいまだ聞いたことがありません。

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(アシモフ名作「I ROBOT」amazon.co.jp)

  今回の本の主題は、すでに現実となっているAI技術を含めたロボット工学の世界で、人類がこれまで築いてきた様々な倫理学が今後どのように変化していくのかを、SF世界を分析することで見極めようとする試みなのです。

  その目次を覗くと、この本でいうSFとは正にアシモフ世界のことを指しているのです。

1章 なぜロボットが問題になるのか

2章 SF作家アイザック・アシモフ

3章 宇宙SFの歴史

4章 ロボット物語-アシモフの世界から(1

5章 銀河帝国-アシモフの世界から(2

6章 アシモフと人類の未来

  さて、アシモフのファンは、そのSFがロボットシリーズとファウンデーションシリーズに二分されていることをよくご存じと思います。この本の第1章での問題提起を読むと、人類の未来とロボットの関係を社会学的に論じるつもりであることが語られていますが、第2章以下を読み進むにつれて、この本の著者である稲葉氏が、SFとアイザック・アシモフを分析しようとする社会学的な意志を感じます。

  著者は、第4章でアシモフのロボットシリーズを分析し、さらに第5章ではファウンデーションシリーズの分析へと取り掛かります。アシモフファンにはたまらない展開。なつかしさとその目の付け所にワンダーを感じます。

  「ファウンデーション」というとアシモフの読者でない方は、けげんに感じると思いますが、ファウンデーションシリーズの日本での翻訳は「銀河帝国の興亡」または「銀河帝国興亡史」という名称で上梓されています。日本語の題名を見て、世界史を専攻した方は歴史家ギボンが記した「ローマ帝国衰亡史」を思い出すと思います。若きアシモフは、まさにその本を読んでこの500年間にわたる銀河帝国を物語る小説を構想したのです。

  作家で科学者であったアシモフは、初期の作品群でロボットシリーズとファウンデーションシリーズを全く別の小説として構想し、小説にまとめています。近未来を描くミステリーの傑作「鋼鉄都市」では、ロボット刑事であるダニールが登場し、謎に満ちた殺人事件を人間の刑事であるベイリとタッグを組んで解決していきます。ロボットシリーズは、その後、この二人を主人公として続いていくことになります。

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(アシモフ「鋼鉄都市」amazon.co.jp)

  最初の「銀河帝国(ファウンデーション)シリーズ」は、宇宙ものSFの傑作でしたがそこに記された未来にロボットはまったく登場していません。一方のロボットシリーズは、ロボット工学三原則を基本とした推理小説仕立てのミステリィであり、その内容は銀河帝国とは関係のない物語でした。その後、アシモフは科学やノンフィクションを書くことに興味を抱き、さらに現代ものの推理小説も上梓します。しばらく、ロボットもファウンデーションも執筆されることはありませんでした。

  しかし、ファウンデーションシリーズを1953年に上梓し、ロボットシリーズの続編を1957年に上梓してから25年後、アシモフはファンの要請にこたえてシリーズの続編を構想します。1982年に「ファウンデーションの彼方に」で再びシリーズをスタートしたアシモフは、ロボットとファウンデーションをつなぐ物語の構想を想起しました。それは、「銀河帝国」の物語になぜロボットが登場しないのか、とのなぞを解明する物語だったのです。

  ちなみに日本語訳の「銀河帝国興亡史」は、ファウンデーションと呼ばれる人類の永遠にわたる存続を目標とする組織と相対する銀河帝国の興亡を描いており、最初の三部作の題名としてはふさわしかったのですが、1982年以降の作品と「銀河帝国」はそぐわない題名です。なぜなら、前期と後期をつなぐ500年にわたる物語は、銀河帝国ではなくファウンデーションが主役だからです。

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(アシモフ「銀河帝国興亡史」amazon.co.jp)

【アシモフを巡る未来への議論】

  著者は、第1章で現在2045年にシンギュラリティ(無限値)を迎えるAIに焦点を当てます。これまで、SFは近代の科学的発展を先取りする架空世界を展開してきました。その中心は、ガンダムや鉄腕アトムに代表されるロボットたちです。しかし、これまでSFで描かれてきたロボットと現在のAIには、決定的な違いがあるとの指摘はそのとおりです。

  それは、現在のAIはネットワークにつながっていることが常態となっているとの指摘です。

  我々がこれまでイメージしていたロボットは、アトムのように独立した頭脳を持ち自ら考え、自ら行動を起こす機械でした。確かに、現在でも独立したコンピューターが頭脳となり、その中で人間の脳を再現するニューロンとシナプスを増やしていき、そこに人間の脳と同じように情報を流し込んで学習させていくとの手法がAIを発達させてきました。

  しかし、今やインターネットに代表されるネットワークはほぼすべてのコンピューターにつながっています。さらに世の中ではクラウドコンピューターの技術が進化を続けており、あるAIが人間の脳を超えれば、すべての端末でシンギュラリティが実現することが容易に想定されます。こうした技術は、これまでのロボットSFの枠組みを超える現在科学の大きな変革です。

  SFのもう一つの主役は、宇宙です。無限に広がる宇宙では、我々が生きている銀河系や太陽系と同じ環境の星系が数多くあると言われています。そのことから、人間は、この宇宙の何処かで我々と同様の知性を持った異星人との接触があるのではないか、との期待に胸を躍らせています。SFでは、「火星人襲来(宇宙戦争)」以来、「未知との遭遇」や「E..」など功罪ありまぜた異星人との接触を夢見てきました。

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(H.G.ウェルズ「宇宙戦争」amazon.co.jp)

  ところが、最新の研究では我々人類が生存している間に異星人と接触することはないだろう、との学説が有力になっていると言います。

  もしも異星人との接触がないとすれば、残る選択肢は宇宙というフロンティアの開拓です。すでに国際宇宙ステーションを使ったあらゆる科学分野の実験が、宇宙空間で展開されていますが、さらにその発想が進んでいけば、人間は太陽系の別の惑星に移住するとの行動が現実となる可能性が高くなります。

  そのときに考えられるのは、ネットワークでつながっているロボットや攻殻機動隊のようなサイボーグ人間が真空の宇宙空間や、別の惑星で開拓を行っていく未来です。こうした未来が想定される中で、アシモフに代表されるロボットと宇宙人類の未来は我々にどんな倫理観を期待するのでしょうか。著者は、そうした問題意識で、科学者であり、SF作家でもあり、さらにノンフィクションライターでもあったアシモフの作品を分析していくのです。

  もう一つ、著者の議論のポイントとなっているのは、光速による恒星間移動の現実性です。スター・ウォーズでもスタートレックでも宇宙船による移動の手段は、ワープなどの光速を超える速度での空間移動です。しかし、著者はここでも疑問を展開します。それは、技術的な問題(例えば瞬間で惑星や彗星小惑星の一が揺れ動いている宇宙で、出現する場所での安全性の確保は不可能である。)とネットワークの問題から実現は難しいという考え方です。

  つまり、現在のネットワーク技術は極めて限定された物理的な距離の中で実現された技術であり、人類はこの利便性を捨ててまで光速で移動しなければならないような別銀河にまで進出することはないだろうとの未来予想です。

  こうした現在我々が置かれた人類社会とアシモフが描いた未来社会。この二つの世界から我々はどのような未来を描けばよいのでしょうか。そこでは、アシモフが描いたロボット工学三原則に加えられた新たな原則、第零原則が大きくクローズアップされることになるのです。


  その議論には、ぜひこの本を読むことで参加してください。最後には、社会哲学に突入する議論が展開されることになりますが、アシモフが好きな方には楽しめることに間違いありません。お楽しみに。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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日本古代史は塗り変わるのか?

こんばんは。

  我々日本人のメンタリティはいったいどこに源流があるのでしょうか。

  先週は悲喜こもごもの1週間でした。リチュウム電池の開発に不可欠な研究を行った吉野彰氏のノーベル化学賞受賞に感動したのもつかの間、日本のはるか南に発生した台風19号が海水温の高さから勢力を拡大し、60年ぶりの凶暴な台風として日本を襲ったのです。関東、東北では37河川、51か所で堤防が決壊し、たくさんの尊い命が失われました。改めて、ご冥福をお祈りいたします。

  まだ天気は不安定で、被災した多くの方々も安心できる状態ではなく、被災したすべての皆さんにお見舞い申し上げます。我々もいつも心を寄せています。皆さん、くれぐれもご自愛ください。

  そうした中、横浜ではラグビーワールドカップ1次予選最終戦となる日本対スコットランド戦が開催されました。試合開始に当たっては今回の台風で亡くなった人々への黙とうがささげられ、日本代表は今回の被災地の人々への想いを胸に戦かったのです。日本代表は、前回大会で敗れたスコットランドにみごと雪辱を果たし、2821で勝利してベスト8を勝ち取ったのです。FWの重さと強さ、オフロードパスのスピード、チームとしての一体感、どれをとっても日本の強さが本物であることが実証されました。

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(オフロードパス 稲垣選手のトライ asahi.com)

  ところで、今回のワールドカップのおかげで、我々日本の持つ様々な文化が世界中に発信されています。

  9月21日(土)、ニュージーランド対南アフリカ戦で勝利を収めたニュージーランド代表の「オールブラックス」が、観客への熱烈な応援に対する感謝の表現として全員で「おじぎ」したことがことの発端でした。その後、各代表チームが次々とお辞儀を繰り広げ、今回のワールドカップは「お辞儀大会」と呼ばれているそうです。海外では、握手が文化となっていますが、握手は自分が武器を持っていないという表明にもなっているそうです。握手は、近づいて手を合わせなければ成立しませんが、「お辞儀」はどんなに離れていても交わすことが可能な礼儀です。「お辞儀」が日本の文化として世界に認識されることは、とてもうれしいことです。

  また、今回のワールドカップでは、選手のロッカールームが試合後みなきれいに整っている、と言われています。以前、なでしこジャパンがサッカーのワールドカップでどのスタジアムでも試合後のロッカールームが美しいことで話題となりました。ラグビーの選手は紳士的と言われますが、日本に来た時には日本の清潔な文化を見習おうとしているのかもしれません。サポーターが試合終了後、スタジアムの観覧席を清掃して帰る文化と同じく、日本の礼儀は世界で称賛を浴びているようです。

  日本を訪れる外国人は、日本の安全を得難い文化として驚いているといいます。

  以前、大阪の部門が社長賞を受賞し、役職員に対する表彰状を3本筒に入れて東京から大阪に運ばなければなりませんでした。その日はあいにくの大雪で、自宅から歩いて駅に着くまでに雪ですっかり濡れてしまいました。悪いことは重なるもので、東京駅までの電車は大雪で遅れが出たために立錐の余地がないほどの超満員だったのです。不用意にも表彰状の筒を紙袋に入れて持っていたことが事件のきっかけでした。両手に荷物をもって満員電車で右に揺られ、左に揺られ。さらに途中の駅では降りる人を優先して、一度駅に降りてから再び乗り込みます。何駅目までかは、表彰状を気にして、荷物の無事を確認していました。

  そして、超満員電車は、東京駅へと到着します。降車する大勢の人ともに電車から駅に出てほっとして階段へと向かいます。ふと気が付くと右手に下げた紙袋が妙に軽いのです。手元見ると、紙袋は確かに手に持っています。ところが紙袋は濡れて底が抜けており、手に残っているのは紙袋の残骸だけだったのです。そこにあったはずの表彰状の筒は影も形もありませんでした。おそらく、満員電車の中か、どこかの駅で一度降りたときに落としたか、いずれにしてもショックでした。

  筒に入っているとはいえ、あの超満員電車ですから何人もの人に踏まれて表彰状は原形をとどめていないに違いありません。ショックに打ちひしがれました。しかし、3日ほどたったころ、会社にJRから電話がかかってきたのです。相手先は遺失物の保管係でした。表彰状が3本届いているが、落とし主はだれかとの問い合わせだったのです。係員の方は、表彰状に書かれた社名と職員名を見て、わざわざ連絡先を調べて連絡してくれたのです。

  そのときほど日本人に生まれてよかったと思ったことはありませんでした。

  日本を訪れる外国人が一様に驚くのは、忘れ物が手元に戻ってくることだそうです。皆さんにも経験があるかもしれませんが、定期券パス、携帯電話、文庫本などなど、ホテルや飲食店での忘れ物や落とし物は、届け出さえしていれば相当の確率で手元に戻ります。時にはお財布までも中身までが無事に戻ってくるほどです。昔から日本では、水と安全はただ、と言われてきましたが、これも日本人であるが故の素晴らしい文化とメンタリティなのだと思います。

  日本の古代にロマンを感じるのは、こうしたメンタリティを持った日本の国がどのようにして出来上がってきたのか、そのはるかなプロセスを知りたいと思うからなのかもしれません。こんなことを想いながら今週は日本の古代史を語る本を読んでいました。

「古代史講義【戦乱編】」

(佐藤信編 ちくま新書 2019年)

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(ちくま新書 古代史講義シリーズ amazon.co.jp)

【歴史の教科書は正しくない?】

  最近、本屋さんの棚にちくま新書の歴史講義シリーズをみかけるようになりました。昨年は、古代史講義と昭和史講義が上梓され、漠然と興味をひかれていましたが、先日新刊が発売されたのを発見しました。今回は「戦乱編」とのこと。ふと中身を見れば、15の講義が並んでいます。思わず引き込まれたのは、見慣れない戦乱の名称が並んでいる点と、著者が15人いることでした。つまり、それぞれの戦いについて別々の研究者が新たな視点で古代の戦乱を語っているということです。もともと日本の古代史好きとしては興味があるところを「戦乱」と限定されるとますます興味をそそられます。思わず購入してしまいました。

  最初からその目次をたどると、第1章は「磐井の乱」、第2章は「蘇我・物部戦争」、第3章は「乙巳の変」と続きます。572年に起きたとされる「磐井の乱」も大和朝廷が中央集権化される以前の戦いであり、巻頭から興味深い題材が取り上げられています。神様系の催事を取り仕切った物部氏が仏教を推進していた蘇我氏に敗れ、物部守屋が殺された事件は、丁未の乱と呼ばれますが、この章の著者はあえて「蘇我・物部戦争」と語ります。

  皆さんは、「乙巳の変」と言われてピンときますか。

  私は何のことやら全くわかりませんでした。そんな戦いは日本史で習った記憶がありません。この題名を見たときに、「これ以上立ち読みするよりも、買って読んだ方が落ち着くなあ。」と感じたのが、この本を「今月の1冊」に入れた動機です。この変の読み方は、「いっしのへん」または「いつしのへん」だそうです。読むこともかなわない戦乱です。

  これが日本で最も有名な戦いであったのは驚きでした。実は、この変は「大化の改新」として習った政変のことだったのです。645年。皇極天皇の治世。聖徳太子亡き後権力の中枢を担っていた蘇我氏は、自らの一族内の古人大兄皇子を跡継ぎにしようと聖徳太子の息子である山背大兄皇子を殺害し、その血を絶やしてしまいます。その横暴と権力を恐れた中大兄皇子は、反蘇我氏である中臣鎌足(のちの藤原鎌足)などと共謀し、蘇我入鹿の暗殺を企てます。時は朝鮮からの使者が来日し、その儀式が執り行われる当日でした。

  皇極天皇の御前には、剣を身に付けていない蘇我入鹿が座しています。入鹿の暗殺の合図は、石川麻呂が天皇への上表文を読み上げたときでしたが、剣をもって入鹿を惨殺すべき佐伯子麻呂は事の恐ろしさに身が縮んでしまい、現れません。さらには、上表文を読む石川麻呂もあまりの緊張に汗が出て声が震えてしまいます。不審に感じた入鹿が、どうしたのかと尋ねます。「大王の前で緊張しているのです。」と答えたその刹那、槍をもって潜んでいた中大兄皇子が飛び出ました。同時に小麻呂も飛び出し入鹿を切りつけ殺害します。

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(蘇我入鹿斬殺 乙巳の変 wikipediaより)

  切りつけられた入鹿は皇極天皇のもとに逃れながら「私に何の罪があるか。お裁きください。」と訴えたといいます。中大兄皇子が天皇に向かって「入鹿は後続を滅ぼして、皇位を奪おうとしたのです。」と告げると、天皇は立ち上がり、部屋を出ていったと伝えられています。

  その後、中大兄皇子は暗殺された入鹿の父親である蘇我蝦夷を急襲し、自宅を包囲すると蘇我蝦夷は自刃し、蘇我一族は滅亡しました。

  「大化の改新」とは、この暗殺事件ののちに中大兄皇子は天皇を中心とした中央集権制度を確立するために様々な施策を実行し、改新の詔を発布するなどの一連の改革のことを指していたのです。この「大化の改新」のスタートとなった事件が、すなわち「乙巳の変」だったのです。

  この本は各章を気鋭の研究者が担当し記述しているところに特色があります。「乙巳の変」の執筆は成蹊大学の教授である有富純一さんです。これまでこの事件は、皇太子擁立を巡る蘇我氏と藤原氏の権力争いとして描かれてきましたが、今回は日本から離れて国際的時代背景の中に位置づけられます。当時の日本は、朝鮮半島と強いつながりがありました。

  かの有名な白村江の戦いが行われたのは663年。この事件が起きたのは、その18年前。そもそもこの事件の舞台となった朝鮮半島からの使者も三韓の使者だったのです。三韓とは、当時、朝鮮半島を治めていた新羅・百済・高句麗の三国を指しています。白村江の戦いは、新羅が百済との戦いにおいて唐に支援を頼み、百済からの救援要請を受けた日本が援軍を送った戦いです。

  当時の朝鮮半島では、百済でも新羅でもクーデターが起きており、日本の権力争いもそうした朝鮮半島の不安定な争いが大きな影響をもたらしており、当時の日本はそれだけ朝鮮半島との絆が太かったといえます。特に古人大兄皇子を跡継ぎとするために画策していた蘇我氏は、新羅型の統治を目指しており、敵対していた中大兄皇子は高句麗型の統治体制を目標としていたというのです。この本の面白さは、こうした最新の支店をふんだんに取り入れた解説が次々と展開されるところにあります。

【塗り変わっていく古代の歴史】

  「大化の改新」のみならず、この本ではこれまでの日本史の常識に次々と疑問が投げかけられます。587年、蘇我馬子が物部守屋率いる物部氏を滅ぼした戦い。我々の世代はこの戦いを仏教を広めようとした蘇我氏が神道を司る物部氏を滅ぼした宗教戦争だと習いましたが、事実は全く異なっていたようです。また、810年。兄太上天皇と弟嵯峨天皇が皇位を争った政争。平城太上天皇が平城京に遷都した嵯峨天皇と争いになった有名な変ですが、これは「薬子の変」と学校で習いました。それは、太上天皇の寵愛を受けた藤原薬子が太上天皇をそそのかしたためにそう呼ばれているわけですが、今は「平城太上天皇の変」と呼ばれていると言います。

  その理由はぜひこの「古代史講義」で確かめて下さい。さらに大河ドラマにもなった平将門の変と、同時に起きた藤原純友の変。この変は、彼らの政権への反乱が931年から937年の承平年間に始まり、次の天慶年間まで続いたことから承平天慶の乱と呼ばれています。ところが、実は単なる天慶の乱だというのです。思わずその記述に没入してしまいました。すると、驚いたことに明治時代にこの乱は天慶の乱と呼ばれていたのです。驚きでした。

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(平将門を描く大河ドラマ amazon.co.jp)

  この古代史戦乱の中で個人的に最も面白かったのは、平安京政権対東北蝦夷の闘いです。このブログでもご紹介していますが、私は高橋克彦氏の東北古代歴史小説の大ファンだからです。その3部作は、大河ドラマにもなった「炎立つ」、蝦夷の英雄アテルイの半生を描いた「火怨」、豊臣秀吉に盾突いた東北の武将を描いた「天を衝く」。さらにその前史となる「風の陣」を加えれば4部作となります。

  この本には、まさにアテルイの時代となる対蝦夷(えみし)38年戦争、そして奥州藤原3代の礎となった前九年合戦・後三年合戦が解説されています。小説の基礎となった歴史的事実。改めて高橋克彦氏が描いた小説世界が思い出されて感慨がひとしおでした。

  日本の古代史に興味のある皆さん。ぜひこの本を紐解いてください。学校の日本史で習った歴史が塗り変わること間違いなしです。

  改めて、台風19号で被災した方々。本当にお大事にお過ごしください。心からお見舞いとそして応援を申し上げます。

  それでは皆さんどうぞお元気で、またお会いします。


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藤原正彦 教養は世界を救えるか?

こんばんは。

  ここのところ広島で仕事が佳境に入ってきており、毎月出張しています。

  先月、広島で仲間と夜飲み会をしていました。そこは焼き鳥専門店で何十種類もの串焼きがリーズナブルな金額で出てきます。一串のお肉は小ぶりなのですが、一品5本セットになっていてお得感があります。たまたま集まったのが5人だったので、メニューの頭からすべてオーダーすることで、次々に注文しました。

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(広島と言えば「広島城」 travel.mynavi.jp)

  メンバーは、男2人、女性3人でしたが、東京から3人、地元2人、年齢層も20代から60代と幅広い構成です。ちょうど、全国の参議院選挙の直後だったので話題は選挙の話となりました。日頃、投票率の低さを嘆いていた私は、流れで「なんで皆、選挙に行かないんだろうね。」と話を振ったのですが、どうも反応が思わしくありません。まず、20代の女性に聞くと、笑いながら「忙しくて、行きそびれちゃった。」とのこと。さらに40代の女性、60代の女性に振ると、「なんだか行きそびれました。」と笑ってごまかします。

  飲み会の席なので、なごやかにその話題は終わって婚活話になりましたが、内心ちょっと驚きました。集まった人たちは、一緒に仕事をしている仲間で大いに教養ある人たちです。にもかかわらず、参議院選挙の投票率は、5人のうちの2人で40%だったのです。なるほど、全国の投票率が48.8%だったのも肯けます。10代の投票率や20代の投票率の低さが話題になりますが、そもそも世界の情勢、国の政治の在り方に対する興味が薄いことが大きな問題です。

  その興味はいったいどうすれば高まるのか。

  今週は、かつて「国家の品格」がベストセラーとなった数学者、藤原正彦氏の続編ともいえる評論を読んでいました。

「国家と教養」(藤原正彦著 新潮新書 2018年)

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(新潮新書「国家と教養」 amazon.co.jp)

【教養とは何か】

  「教養」という言葉で思い出すのは、「教養小説」です。私が持つイメージは、トーマス・マンの傑作である「魔の山」です。この小説は、ダボスにある結核のサナトリウムを舞台にしています。20世紀初頭、結核はいまだ不治の病で、結核と診断されてサナトリウム行を命ぜられた人間は、その限定された世界で人生を生きざるを得ないのです。主人公であるハンス・カストルプはいとこの見舞いに行ったときに自らも結核と診断され、そのままサナトリウムで7年にも及ぶ療養生活を生きることになるのです。

 ハンスは、このとき23歳。まだ無垢な青年といってもよい年代です。このサナトリウムには、様々な背景を持った様々な人々が称揚しており、食事の度にその人物たちがときには軽妙に、ときには深刻に、ときには滑稽にえがかれていくのです。例えば、ロシア人のショーシャ夫人はとても美しい女性でハンスは、彼女への思いに悩まされることになります。はたまた、サナトリウムでは、理性を重んじハンスの教育者を自認する啓蒙的な思想家セテムブリーニ、その対照的なイエズス会のナフタが登場します。ナフタは、テロリズム革命と独裁による神の国を説く、過激な思想家であり、ハンスを自らの陣営に引き込もうとします。

  サナトリウムは、まさに人生の縮図です。ハンス・カストルプは、こうした環境の中で、知識と体験を身に着けて成長していきます。7年間のサナトリウム生活は、無邪気なハンス・カストルプを一人前の成人に仕立てていきます。この小説の完成までにマンは12年の歳月を費やしています。その解釈は様々ですが、小説は、成長しサナトリウムを卒業したハンスが、兵士として第一次世界大戦の最前線に立つところで終了します。

  以前にご紹介しましたが、トーマス・マンはドイツを心から愛する市民として、第一次世界大戦においては、反戦主義者に対してドイツ民族とドイツ文化の擁護を説きました。しかし、戦後、ヒトラーが登場し、独裁政権を確立するや一転してヒトラーの政策を批判します。その結果、マンはスイスに亡命し、その地で終焉を迎えることとなります。ドイツ的教養によるナチス批判。それは歴史上の真実を物語ります。

  教養小説といえばゲーテの「ウィルヘルムマイスター」が最も有名ですが、人が人格を形成していく中で「教養」が重要な役割を果たしていくという意味で「教養小説」というカテゴリーは極めて象徴的である、と言えます。

  この本のテーマである「教養」とはいったい何を意味するのでしょうか。

【日本人にとっての教養】

  本書の著者である藤原正彦氏の本業は数学者ですが、今年76歳になる碩学です。ご両親は小説家の新田次郎氏、作家の藤原てい氏であり、1977年にはアメリカ留学中の生活を記したエッセイ「若き数学者のアメリカ」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。その後も数学教授を続けながら数々のエッセイを上梓し、2005年に上梓した「国家の品格」は270万部を超えるベストセラーとなりました。数学者による大和魂と武士道、日本語の大切さを説く提言に驚いたことをよく覚えています。

  13年ぶりに見たその続編ともいえる題名に、喜びを隠せずにすぐに手に取りました。

  今回のテーマは、人間、そして国にとって「教養」がどれだけ大切なものかを歴史を俯瞰しながら説いていく藤原正彦氏ならではの提言的評論となっています。

  その第一章は、今の日本の状況を憂う過激な状況認識から始まります。かつて、日本のGNPを世界第2位まで上昇させた高度経済成長は日本の勤勉さと終身雇用制度から生まれたといわれました。日本は、トヨタの看板方式に代表される品質向上運動で「KAIZEN」との言葉を世界にとどろかせ、「JAPN AS NO.1」とまで言われたのです。

  その頂点は、バブル絶頂期と重なります。バブルとバブル崩壊を生み出したのは、自由主義経済が実体経済を超えて土地を評価し、過剰な高金利への貸し出しに躍った架空経済そのものだったのです。バブルがはじけ、過剰な不動産価格が暴落、それを担保とした過剰な貸付金は、すべてが不良債権と化したのです。

  バブル崩壊であえいだ日本経済に目を付けたのは同盟国アメリカでした。

  日本に蔓延した不良債権には、外資系のファンドがハゲタカのように群がり、二束三文となった不良資産をその担保となった土地や企業価値がマイナスとなった企業とともに買い漁っていきました。それは、自由主義経済においては当然の出来事でしたが、その後、日本の企業は日本の文化に根差した企業経営を放棄しました。

  アメリカでは、金融工学に基づいた投資ファンドが経済のイニシアティブを握り、サブプライムローンを売りまくることになります。そして、アメリカは日本の金融経済を自由化するよう政府に圧力をかけてきました。この本の見立ては、当時の小泉首相が竹中平蔵金融担当大臣とダッグを組んでアメリカの要求を受け入れて、郵政民営化を推進した、と語ります。金融自由化と郵政民営化は、日本経済に変換をもたらしました。

  企業は、徹底的な効率化を進め、これまでの終身雇用を見直して正社員には能力と成果で処遇を決める年棒制へと移行します。さらに人件費による経費圧迫を軽減するため、正社員の雇用を非正規社員の雇用に切り替えていきました。その結果、世の中には福利厚生の枠外であり、なおかつ退職金などの一時金とは無縁の雇用者層が形成されました。それは、格差の拡大に他なりません。かつて、日本はウサギ小屋に住む総中流化社会と揶揄されましたが、現在の非正規労働者層の増大は中流を消し去り、持つものと持たざる者の格差社会を出現させたのです。

  我々は、政治を司る者も経済を司る者も、目の前の危機への対応、組織の生き残りに必死になり、アメリカの経済至上主義に迎合するあまり、日本にとって真に大切なものを見失っているのではないか。人としての確かな教養が希薄になり、数千年をかけて培ってきた日本人のアイデンティティを保つことができなくなっているのではないか。

  藤原さんの危機感はそこにあります。

【人類が培ってきた教養とは】

  「教養」を構成する要素とは何か。

  藤原さんは、そのモデルを西洋の文化に求めていきます。地球上で歴史的に最も早く「教養」が培われていったのはギリシャ文明かもしれません。そこには、プラトンやアリストテレス、ピタゴラスなど、教養としての文化が百花繚乱、花開きました。そこには、「哲学」というコンセプトの中に、詩や歌劇、物語などの文学、物理学、天文学、数学などの自然科学が包含されていました。それは、まさ「教養」にふさわしいものとして紹介されます。

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(ギリシャ神ゼウス「ファンタジア」 asahi.com)

  ギリシャの教養は、そのままの形でローマに引き継がれ、それは神聖ローマ帝国を経てイスラム教文化へと継承されていきました。ヨーロッパでは中世という停滞の時代を迎え、科学的な進歩は滞りました。それを打ち破ったのは、フィレンツェのメヂチ家によってもたらされたルネッサンスでした。そこでは、文学、音楽、建築、そして自然科学と「教養」となるすべての事柄が復活することとなるのです。

  こうして歴史の中で培われてきた「教養」ですが、「教養」が持つパワーとは何なのでしょうか。海外での経験が多くある著者は、ヨーロッパにおける教養が国によって異なることを、事例をもって教えてくれます。ドイツでは、ゲーテやトーマス・マンをはじめとして、多くの教養小説がつくられましたが、ドイツの教養とはどのようなものなのか。

  この本は、「教養」の大切さを教えてくれますが、第三章で語られるのはドイツの教養です。日本は、教育制度や軍隊制度、政治形態など多くを19世紀のドイツ帝国に学んできました。しかし、ドイツは、最初の地球規模の殺戮ともいえる第一次世界大戦を引き起こしました。ドイツは敗北し、未曽有の戦争を抑止するために国際連盟が発足します。ところが、ワイマール共和国となったドイツには、ヒトラーが登場し、ナチス・ドイツが政権を取る事態となりました。独裁者ヒトラーは、ヨーロッパを巻き込む戦略戦争を開始し、再び世界は殺戮が蔓延する第二次世界大戦へと巻き込んでいったのです。果たして、「教養」は無力だったのか。

  一方、アジアの片隅でドイツと同盟を組み、中国大陸に侵略したのは日本でした。著者は、日本が太平洋戦争に突入したのは、アメリカの大きな戦略の一環に陥れられたとの見解を語っていますが、果たしてそれは真実なのか。ドイツから「教養」を学んだ日本も「教養」によって戦乱を回避することができませんでした。なぜ?その理由はぜひこの本で紐解いてください。

  前回、日本語と日本の文化を覚醒させるべく熱い想いを語った藤原さんですが、今回は「教養」をキーワードに日本人に警鐘を鳴らします。それは、「教養」の持つパワーです。皆さんもこの本で「教養」の持つ歴史とパワーを味わってください。明日からの心の持ち方が変わるかもしれません。

  やっぱり投票率向上に必要なのは、「教養」なのでしょうか。


  閑話休題

  9月28日のラグビーワールドカップ、日本代表対アイルランド戦。すごかった。トライを防いだ二人タックルの連続守備。本来スクラムからのペナルティを狙ってくるアイルランド相手にスクラムで互角に渡り合い、さらにペナルティを勝ち取る力強さは脱帽でした。長距離で角度のあるペナルティキックを連発した田村優選手、逆転トライを決めた俊足の福岡堅樹選手。すべての選手がひとつになった本当に素晴らしい試合でした。

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(逆転トライ!福岡選手 nishinippon.co.jp)

  でも何と言っても最年長、浪花のトンプソンルーク選手と連続してキャプテンを務めたリーチ・マイケル主将の貢献が大きかったと、勝手に感動していました。この勢いで、次の強敵サモアも撃破して、決勝トーナメントへの切符を手にすることを心から願うばかりです。ガンバレ、日本!!

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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堺屋太一 「楽しい日本」を創造する

こんばんは。

  堺屋太一さんが亡くなったとの報を受けたときに、我々は時代を照らす光を失った、との思いに打たれました。

  昨年、2025年の大阪万博の開催が決まりましたが、1970年の大阪万博では、当時通産省の官僚であった堺屋氏がプロデューサーの役割を務め、みごとに大成功を収めました。その後、1975年、官僚時代にエネルギー問題を中心に据えた小説「油断」で作家デビュー。さらに近未来小説「団塊の世代」を上梓し、日本のすべてを左右する、団塊の人口分布による未来予測を小説とし、日本の行く末に警鐘を鳴らしたのです。今や団塊の世代は年金世代となり、日本の財政経済に大きな影響力を発揮しています。

  1985年に上梓された「知価革命」は、第三次産業の次に来る価値観を予言した書として当時大ベストセラーとなり、多くの識者の目を開きました。私もこの本によって堺屋フリークになりました。さらに2004年(平成16年)には平成時代の未来を予測した「平成三十年」を上梓するなど、常に日本を見通す小説を上梓し続けました。

  また、現在の経済目線で書かれた歴史小説「峠の群像」は、日本の年末の風物詩「忠臣蔵」を経済的な側面から描き出し、歴史に新たな光を当てることになりました。この小説は、1982年、NHKの大河ドラマとなり、日本の忠臣蔵に新たなページを加えたのです。また、1996年には、氏の「豊臣秀長-ある補佐役の生涯」、「鬼と人~信長と光秀~」、「秀吉 夢を超えた男」の3部作を原作とした「秀吉」が大河ドラマとなり、堺屋さんの名前はすっかり有名になりました。

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(歴史小説「峠の群像」 amazon.co.jp)

  個人的には、関ヶ原の合戦を描いた「大いなる企て」が一押しです。この小説は、成り上がった小大名でありながら、秀吉の懐刀として活躍した石田三成が主人公ですが、彼がプロジェクトリーダーとして如何に徳川家康を向こうに回して、関ヶ原の戦いを構築したのかを描いています。それは、様々な博覧会、とくに大阪万博を成功させた堺屋さんならではのプロジェクト成功ノウハウが詰まったみごとな歴史小説でした。

  堺屋さんは、小渕内閣で民間登用として3代に渡り経済企画庁長官を務め、現在でも続いている市井の人々に景気の状態をインタビューする「景気ウォッチャー調査」を導入しました。このブログでも紹介した「世界を創った男 チンギス・ハン」は、堺屋歴史小説の集大成で、世界の半分を支配する体制を築いたチンギス・ハンの生涯を描いた渾身の小説でした。

  今年の2月、氏の訃報に接したときに一瞬にこうした記憶がかけめぐり、寂しさが心に染み入りました。1月には梅原猛さんが93才で亡くなり、今回、改めて人の寿命には限りがある事を感じました。世代が変わる中で、こうした先人たちが書き残した様々な知恵を次の世代が引き継いでいくことが必要ですね。

  今週は、本屋さんで見つけた堺屋太一さんの最後の著作を読んでいました。

「三度目の日本 幕末、敗戦、平成を越えて」

(堺屋太一著 祥伝社新書 2019年)

【堺屋太一が残した日本への警鐘】

  堺屋太一さんは、小説という手法で近未来の日本に起きる危険な兆候を提示してきました。また、同時に日本がたどってきた近世以降の歴史をひも解き、現在の視点で分析することによって近未来を予測し、日本に数々の提言を行う書も上梓しています。後者の代表的な著作が「知価革命」でした。

  この書は、これまで我々が経験してきた産業革命・近代工業化の過程を分析し、これから来る時代は「知価」による産業革命が起きる、と語ったのです。このときの日本の経済発展史への分析は氏のその後の著作の基本となっています。そして、最後の提言となった本作にもその分析は存分に生かされています。

 まずは、今回の本の目次です。

はじめに

1章「二度目の日本」は、こうして行き詰まった

―私たちは今、ここにいる

2章第一の敗戦

―「天下泰平」の江戸時代から「明治」へ

3章富国強兵と殖産興業が正義だった

―「一度目の日本」の誕生と終幕

4章敗戦と経済成長と官僚主導

―「二度目の日本」の支配構造を解剖する

5章「三度目の日本」を創ろう

―二〇二〇年代の危機を乗り越えるために

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(最後の著作「三度目の日本」amazon.co.jp)

  この本で、堺屋さんは近代日本は今日までに二度の敗戦を経験し、間近には三度目の敗戦が迫っていると警鐘を鳴らします。ここでいう「敗戦」とは、「一国の国民または住民集団が、それまで信じてきた美意識と倫理観が否定されること」と氏は定義します。つまり、「敗戦」とはそれまで信じていた価値観が大転換を迎えることを指すのです。そして、日本にとっての三度目の「敗戦」は、東京オリンピックの後の景気の大きな減速によってもたらされる、と予測します。

  2020年、目の前に迫っている価値観の大転換とは、具体的に何を示すのでしょうか。

  それは、第二の日本を形作ってきた価値観が通用しなくなることとイコールです。堺屋さんは最後の提言を我々の今の価値観がどのように創られてきたのかをひも解くことから始めます。

  1970年に開催された大阪万博では、そのテーマ「人類の進歩と調和」が思い出されます。そのとき私は小学校6年生で東京に住んでいたため、万博に行くことはできませんでしたが、岡本太郎氏の太陽の塔に象徴される、盛大なお祭りのことは良く覚えています。万博(EXPO70)には、その開期180日間に、6420万人以上の人々が来場しました。一日平均35万人もの人が会場に訪れたこととなり、その盛況ぶりには驚くばかりです。ちなみにディズニーランドとディズニーシーの一日の入場者数は平均8万人と言いますので、その盛況ぶりが良くわかります。

  堺屋さんは、この日本万国博覧会の仕掛け人であり実質的なプロジェクトリーダーでした。第二の日本の価値観(美意識と倫理観)はこの万国博覧会をキッカケに日本の隅々までいきわたったのです。この本の第1章は、日本万国博覧会からはじまります。それは、当時の価値観の中心であった「規格大量生産時代」の始まりだったのです。

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(EXPO70の象徴「太陽の塔」kano-cd.jp)

【日本は「豊かさ」を実現したが、】

  元官僚の堺屋さんですが、「知価革命」も含めて日本の官僚の功罪については手厳しく批判を重ねています。第1章では、工業社会の実現にむけて日本の官僚がいかにヴィジョンをたて、その基本方針を組立てて日本に敷衍させていったが語られていきます。

  今の日本は、「平和に、豊かに、安全に」暮らせる天国だ、と堺屋氏は語ります。そして、ここに至るまでの昭和、平成のプロセスを分析します。それは、終戦によって「一億玉砕」から「平和国家、民主国家」へと価値観が一変した日本がどのように第二の日本を創ってきたかとの歴史になります。堺屋氏ももともと通産省の官僚ですが、昭和の時代、官僚の会話は変化した、と言います。

  マッカーサー率いるGHQの占領統治のもとで、日本は価値観の変換によってあらゆる場面で判断を求められました。「民主主義」への変換のための教育、企業統治、戦犯の取り扱い、独立、朝鮮戦争への立ち位置、GNPの拡大。日本のかじ取りのための決断は官僚では下すことができません。こうした時代、官僚の会話は、「俺はすぐに官邸に行ける。」、「官邸の秘書官と知り合いだ。」など官邸との近さを自慢する話題がほとんどだったと振り返ります。

  しかし、高度成長経済への方向性がハッキリし、田中角栄首相の「日本列島改造論」の頃には官僚たちが交わす会話の内容は変わっていったと言います。それは、「大臣の意見はそれとして、本当のところどうする?」、などという会話が交わされて、日本の政策は我々が決めるのだ、との自負が当たり前のようになったことを意味していました。

  つまり、官僚主導の政策が日本の方向を決めていたのです。堺屋さんは第1章で、日本の官僚が推進してきた5つの基本方針を紹介します。それは、「東京一極集中」、「流通の無言化」、「小住宅持ち家主義」、「職場単属人間の徹底」、「全日本人の人生の規格化」です。

  この本の第1章は、日本の優秀な官僚たちが日本経済を発展させて如何に規格化された「豊かさや安全」を作り上げてきたかが語られています。例えば、「流通の無言化」とはどのような政策だったのでしょうか。工業化社会の一つの目標は商品の「規格大量生産」です。そのためには、生産=供給のみならず、消費も大量規格化しなければなりません。官僚の発想として、消費が大量規格化されていない状況は「第三次産業の生産性が低い」と語られます。

  「生産性が低い」とは何かというと、消費の現場で商品が売れていくスピードが遅いということです。それは、買い物に行った主婦が店員とおしゃべりをしてなかなか消費が進まない状況をさしています。そこで、官僚が行ったのは、大量消費型の流通=世間話なしで商品が売れていく無言の流通を実現することだったのです。つまり、スーパーマーケットの普及です。スーパーでの買い物は、商品を選んでカゴに入れ、レジに並んで精算します。この間、店員とお客さまの間で世間話が交わされることはなく、効率的に消費が進んでいきます。

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(規格消費スーパーマーケット wikipediaより)

  堺屋さんの筆は、高度成長期以降、どのようにして官僚が主導権を握り、「大量規格型工業化社会」を実現してきたかを語っていきます。企業に関して言えば、東京一極集中を実現するために、各業界の団体について東京に本部を置くことを義務付けるなどの政策を規制によってすすめてきた事実には驚かされます。そうした政策の積み重ねは、令和となった日本に様々な弊害をもたらしました。

  安定成長・低成長の時代、こうした官僚の発想は害悪と化します。「東京一極集中」によって、地方都市はことごとく人口減少に見舞われ画一化されてしまいました。「流通の無言化」によって地域の商店街はシャッター通りと化し、無人化が進みました。日本には、「小住宅」があふれ核家族化が進み「人の知恵」は継承されなくなります。少子化はこの政策がもたらした副作用です。職場単属人間が世の中に蔓延して、家庭を顧みない仕事人間ばかりが世間を闊歩しています。さらに人の人生までもが規格化されて、人は決められた道を歩むことを是とするように変わりました。

  我々は今や行き詰ってしまった第二の日本を変えて、楽しい未来を目指す第三の日本を創造する必要があるのです。堺屋さんはそれを語るためにこの本を上梓しました。

  平和による静かなる社会が200年以上も続いた江戸期の日本は、外国からの圧力によって新たな時代を知り、明治維新によって一度目の価値観の転換を迎えました。第2章と第3章で、堺屋さんは第一の価値観の大転換(敗戦)とその後に起きた第一の日本の発展を語ります。そして、太平洋戦争での第二の敗戦。そこから復活してきた第二の日本も第4章で語られるように第三の価値観の大転換を求められています。


  この本の第5章では、今や帰らぬ人となった堺屋太一さんが三番目の日本で指針とすべき価値観を語っていきます。そこはこれまで官僚たちが創ってきた数々の規制を打ち壊し、日本人一人一人が人生を生き生きと楽しんで生きることが必要な価値観なのだ、と語るのです。

  堺屋太一さんの著作は、これまで我々の目を大きく啓いてくれました。氏の遺言となった本作品ですが、最後の提言はタイムアップとなってしまったようです。しかし、その予見はこれまでにも増して鋭いものとなっています。果たして日本は「地獄」を見ることになるのか。

  その後をつないでいくのは、今を生きる我々の使命となります。皆さんもこの本を読んで、これからの生き方を考えてみてはいかがでしょうか。日本の未来を見ることができるかもしれません。

  改めて堺屋太一さんのご冥福をお祈りいたします。合掌。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。

今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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