更科功 絶滅の次は残酷な進化!?

こんばんは。

  ひところ、「人類の進化」が流行っていた時期がありました。それは、ネアンデルタール人よりも小さな脳を持つ我々ホモ・サピエンスは、なぜ唯一の人類として生き残ったのか、との疑問をNHKの特集「人類誕生」が取り上げたことがきっかけのひとつです。そのときに読んだのが、更科功氏の本「人類の絶滅史」でした。

  この本のワンダーは、700万年前、我々ホモ・サピエンスがこの世に誕生するまでに、地球上には25種類以上も人類がいることが確認されていたという事実。さらには、そのすべてがネアンデルタール人を最後に絶滅し、1万年前に共存していたネアンデルタール人が絶滅してからは、我々ホモ・サピエンスが唯一の人類だ、という事実でした。

  我々が生き残り、この地球ですべての生命の頂点に君臨すると思っているのはなぜなのか。その理由が食料を調達するため、また、子供を育てるため、であったことが分かり易い語り口と意外な例示で示されていき、本当に面白い本でした。それ以前に読んだ「化石の分子生物学」は、講談社科学出版賞も受賞しており、その語り口はとてもなめらかです。

  先日本屋さんで新書の棚を眺めていると、またまた「更科功」の文字が目に入りました。いったい今回は何を語ってくれるのか。楽しみにレジへと向かいました。

「残酷な進化論 なぜ『私たち』は『不完全』なのか」

(更科功著 NHK出版新書 2019年)

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(更科功「残酷な進化論」amazon.co.jp)

【ワンダーを紡ぐ語り口】

  この本を読んでいて思い出したのは、福岡伸一ハカセです。今やその著作がスッカリ有名になりましたが、ベストセラーとなった「生物と無生物の間」はハカセの郷愁を感じる描写とこれまでの生物学の発見と進歩を解き明かすワンダーが相まって、最後まで一気に読み終わってしまう素晴らしい著作でした。思い出したのは、どちらも分子生物学の研究者であるところが共通だからです。

  もっともその専門分野は異なっており、福岡ハカセが現在の分子生物学を研究し、我々は新陳代謝によって毎日生まれ変わることで生きている、といってもよい「動的平衡」との概念を我々に教えてくれます。一方の更科功氏は化石や古生物の分子を研究してまさに進化の謎を解き明かそうとする研究者です。

  福岡ハカセが研究の道を志したのは、ルドルフ・シェーンハイマー。片や更科功氏が探求しているのはかのチャールズ・ダーウィン。とその研究対象には違いがありますが、生命の分子的研究によって「生命」とは何か、「生きる」とは何か、を究明するとの姿勢はまったく変わりがありません。

  「動的平衡」によれば、我々生命は、自らのすべての細胞を日々新たな細胞に更新することによって生命を維持するのであり、人は1週間もすればすべての細胞が更新されて、まったく新しい命になっていると言います。

  子供のころ姉と一緒にふろに入ると、姉がいつも「あかすり競争」を仕掛けてきました。それは、体を洗うときに体を洗ったタオルをゆすいだ時に、どちらがたくさん「アカ」が落とせたかを競う遊びです。当然、いつも私が勝つわけですが、今思えば、お風呂が大嫌いだった私をふろに入れる作戦だったわけで、姉の戦略には今更ながら脱帽です。

  シェーンハイマーのたんぱく質入れ替え理論や「動的平衡」と聞くと、いつも昔懐かしい「あかすり競争」を思い出します。

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(福岡伸一「動的平衡」amazon.co.jp)

  福岡ハカセは置いておいて、今回は「進化」の話です。

  更科さんの語り口は、分かり易く、なめらかです。なぜ分かり易いのかといえば、話の枕がとても興味深い例示や質問になっていることが大きな特徴です。プロローグで、氏は語ります。仮に遥かなる未来、地球が消滅する前に地球生物は地球を脱出し、様々な星に避難民として移民します。ある星には、人間と松の木とミミズが移住しました。

  最初のうちこそ異星人たちもその境遇に同情して優しく接してくれますが、時がたつにつれて居候に嫌気がさしてきます。何か役に立ちたいと思っていた松の木は、光合成という能力を発揮して、その星の二酸化炭素を酸素に換えて空気の浄化に役立ちました。異星人は、なかなかよく働く木だと見直します。それを見ていたミミズは、私もと、その星の土壌を耕して滋養豊富な土に換え、異星人たちに豊作をもたらします。異星人たちは、ミミズの働きに感謝しました。

  はたして人間は何をしてくれるのか。人間は、「バカにするな。我々は地球でもっとも繁栄した生物で、特別だったんだ。松の木やミミズと一緒するな。」と腹を立てます。それでは、いったい何ができるのか、と聞かれて、「我々は足し算ができる。」と答えました。しかし、足し算はその星の住民でもできることなので、役には立たなかったのです。

  こんな話から始まる本は、それで次は?と先を読みたくなるわけです。確かに人間は、自分たちを進化の最高位にいる生物だと思い込んでいるフシがあります。果たしてそうなのでしょうか。我々は、ダチョウのように地上を高速で走ることもできなければ、カラスのように空を飛ぶこともできません。昔は仲間であった猿のように木登りもできません。にもかかわらず、我々は、他の生物より優れていると思っています。

  それは、「進化」という言葉を正しく理解していないからなのではないか。では、進化とは何なのか。それは、我々の細胞が毎日入れ替わっていく「動的平衡」の先にある「自然淘汰」によってもたらされる生命行動そのものなのです。この本は、我々にそのことを教えてくれます。

【ダーウィンと進化論の間】

  さて、この本の目次を覗いてみましょう。

序章 なぜ私たちは生きているのか

第1部 ヒトは進化の頂点ではない

 第1章 心臓病になるように進化した

 第2章 鳥類や恐竜の肺にはかなわない

 第3章 腎臓・尿と「存在の偉大な連鎖」

 第4章 ヒトと腸内細菌の微妙な関係

 第5章 いまも胃腸は進化している

 第6章 ヒトの眼はどれくらい「設計ミス」か

第2部 人類はいかにヒトになったか

 第7章 腰痛は人類の宿命だけれど

 第8章 ヒトはチンパンジーより「原始的」か

 第9章 自然淘汰と直立二足歩行

 第10章 人類が難産になった理由とは

 第11章 生存闘争か、絶滅か

 第12章 一夫一妻制は絶対ではない

 終章 なぜ私たちは死ぬのか

  面白そうですね。この本には、これまで著者が研究し、様々な場所で発表してきた内容がギッシリと、しかも分かり易く詰まっています。そして、すべての章がたとえ話と想定問答、それに対する意外な答えによってワンダーを感じながら進んでいきます。

  皆さんの中には、牛乳が苦手な方もいらっしゃるのではないでしょうか。私の友人たちにも牛乳が苦手で、飲むとおなかがゴロゴロ言っておなかを壊すとか、おならが止まらなくなるとか、飲めない人がたくさんいます。この本を読んでびっくりしたのですが、人類はもともと大人になると牛乳が飲めなくなるようにできている、というのです。

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(ピンクフロイド「原子心母」amazon.co.jp)

  母親は子供が生まれる前からお乳が張って、ミルクが出るようになります。最初の子供ができたときに連れ合いが、子供が母乳をのまないと胸が張って痛くなると苦労して搾乳していたことを思い出します。母乳や牛乳は、子供に必要な糖分が乳糖としてたくさん含まれているそうです。この乳糖はラクターゼという酵素によって分解され、吸収されます。

  生まれたての赤ちゃんは、乳糖を栄養に換えるためにこのラクターゼを体内で作り出すのですが、成長して母乳を飲まなくなるとラクターゼは不要となるため無駄な生産を取りやめるというのです。つまり、母乳を飲まなくなると人間はラクターゼを分泌しなくなるので、牛乳が消化できなくなるのです。ということは、牛乳を飲んでおなかを壊すのは、人として当たり前のことだったのです。

  ところが、紀元前6000年ころに人間に「ラクターゼ活性持続症」なる症状が発症しました。牛乳を飲んでそれが栄養となる人は、この「ラクターゼ活性持続症」を発症した病人?だそうなのです。この病気は北欧で特に多いようですが、仮説としては酪農によって人間が動物のお乳をのむようになってこの症状が発症するようになったのでは、といわれています。(ただ、アジアに住む人は10%程度の人しかラクターゼを持たないが、モンゴル人は昔から家畜の乳を飲んでいるとの事実もあるようです。こちらは、腸内細菌の活躍によるのかな?)

  進化というと、100万年単位で突然変異によって起きるとのイメージがありますが、大人になってもラクターゼが活性しているという進化は、数千年単位で起きたものであり、進化は常に起きつつあるとの証左であるとわかります。

【進化のすごさとダーウィンの誤謬】

  ダーウィンの進化論は、人間の優位性や唯一性を信じる19世紀の人々には受け入れがたい説でしたが、今でも宗教的な理由や信念として進化論を拒む人たちもいるようです。そうした人々の一つの論拠として人間の目のような完全な機能は進化では作り上げようがなく、目はもともと備わっていた器官であり、進化論では説明できない、との主張をこの本では取り上げています。その語りは本当にワンダーですが、その楽しさはぜひご自身で味わってください。

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(ダーウィン「種の起源」amazon.co.jp)

  ところで、更科氏はこの本とは別にダーウィンの進化論に関する本も上梓していますが、この本でも分かり易くダーウィンの誤謬についても触れています。ダーウィンの進化論での主張は、生命は自然淘汰によって環境に適用するように進化を遂げる、としており、その進化は常により環境に適用するように進んでいくように理解されています。

  しかし、進化が常に前に進むものだとすれば、生きている化石と呼ばれるシーラカンスやカブトガニ、オウムガイなどが数億年前と同様な姿で現在も生きているのはなぜなのでしょうか。この本では、そのことも教えてくれています。生きている化石のみならず、地球上に住む最小の菌たちは、分裂することによって死ぬことなく生命誕生以来40億年も生きながらえていると言います。

  ここで興味深いのは、「進化」には2種類あるとの指摘です。ひとつは「方向性選択」による進化。もうひとつは「安定化選択」という進化です。我々がダーウィンによって知らされた進化は「方向性選択」による進化です。自然淘汰が働いて突然変異が起きたとき、その変異が生きていくのに有効な変異であれば、進化はその方向に進んでいきます。いわいる進化のアクセルが踏まれます。

  一方、自然淘汰による突然変異が生きるために不利に働いたとすればどうでしょう。その変異はすぐに取り除かれて進化はそのまま止まります。つまり、「安定的選択」とは進化しない進化と言えます。このように進化は、アクセルとブレーキを使いながら進んでいくので、ゆっくりと進むように見えますが、牛乳が飲める「ラクターゼ活性持続症」という進化にはブレーキを聞かせる必要がなかったので数千年と言うアクセル全開のスピードで進化したと言います。


  さて、進化とは生きることと同義なのですが、生命が死ぬことは進化の結果だと言います。それは果たして本当なのでしょうか。その答えは、ぜひこの本で解明してください。この本は科学を探求する本なのですが、なんだか宗教の本のようにも思えるから不思議です。ワンダーに楽しめること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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更科功 絶滅の次は残酷な進化!?

こんばんは。

  ひところ、「人類の進化」が流行っていた時期がありました。それは、ネアンデルタール人よりも小さな脳を持つ我々ホモ・サピエンスは、なぜ唯一の人類として生き残ったのか、との疑問をNHKの特集「人類誕生」が取り上げたことがきっかけのひとつです。そのときに読んだのが、更科功氏の本「人類の絶滅史」でした。

  この本のワンダーは、700万年前、我々ホモ・サピエンスがこの世に誕生するまでに、地球上には25種類以上も人類がいることが確認されていたという事実。さらには、そのすべてがネアンデルタール人を最後に絶滅し、1万年前に共存していたネアンデルタール人が絶滅してからは、我々ホモ・サピエンスが唯一の人類だ、という事実でした。

  我々が生き残り、この地球ですべての生命の頂点に君臨すると思っているのはなぜなのか。その理由が食料を調達するため、また、子供を育てるため、であったことが分かり易い語り口と意外な例示で示されていき、本当に面白い本でした。それ以前に読んだ「化石の分子生物学」は、講談社科学出版賞も受賞しており、その語り口はとてもなめらかです。

  先日本屋さんで新書の棚を眺めていると、またまた「更科功」の文字が目に入りました。いったい今回は何を語ってくれるのか。楽しみにレジへと向かいました。

「残酷な進化論 なぜ『私たち』は『不完全』なのか」

(更科功著 NHK出版新書 2019年)

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(更科功「残酷な進化論」amazon.co.jp)

【ワンダーを紡ぐ語り口】

  この本を読んでいて思い出したのは、福岡伸一ハカセです。今やその著作がスッカリ有名になりましたが、ベストセラーとなった「生物と無生物の間」はハカセの郷愁を感じる描写とこれまでの生物学の発見と進歩を解き明かすワンダーが相まって、最後まで一気に読み終わってしまう素晴らしい著作でした。思い出したのは、どちらも分子生物学の研究者であるところが共通だからです。

  もっともその専門分野は異なっており、福岡ハカセが現在の分子生物学を研究し、我々は新陳代謝によって毎日生まれ変わることで生きている、といってもよい「動的平衡」との概念を我々に教えてくれます。一方の更科功氏は化石や古生物の分子を研究してまさに進化の謎を解き明かそうとする研究者です。

  福岡ハカセが研究の道を志したのは、ルドルフ・シェーンハイマー。片や更科功氏が探求しているのはかのチャールズ・ダーウィン。とその研究対象には違いがありますが、生命の分子的研究によって「生命」とは何か、「生きる」とは何か、を究明するとの姿勢はまったく変わりがありません。

  「動的平衡」によれば、我々生命は、自らのすべての細胞を日々新たな細胞に更新することによって生命を維持するのであり、人は1週間もすればすべての細胞が更新されて、まったく新しい命になっていると言います。

  子供のころ姉と一緒にふろに入ると、姉がいつも「あかすり競争」を仕掛けてきました。それは、体を洗うときに体を洗ったタオルをゆすいだ時に、どちらがたくさん「アカ」が落とせたかを競う遊びです。当然、いつも私が勝つわけですが、今思えば、お風呂が大嫌いだった私をふろに入れる作戦だったわけで、姉の戦略には今更ながら脱帽です。

  シェーンハイマーのたんぱく質入れ替え理論や「動的平衡」と聞くと、いつも昔懐かしい「あかすり競争」を思い出します。

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(福岡伸一「動的平衡」amazon.co.jp)

  福岡ハカセは置いておいて、今回は「進化」の話です。

  更科さんの語り口は、分かり易く、なめらかです。なぜ分かり易いのかといえば、話の枕がとても興味深い例示や質問になっていることが大きな特徴です。プロローグで、氏は語ります。仮に遥かなる未来、地球が消滅する前に地球生物は地球を脱出し、様々な星に避難民として移民します。ある星には、人間と松の木とミミズが移住しました。

  最初のうちこそ異星人たちもその境遇に同情して優しく接してくれますが、時がたつにつれて居候に嫌気がさしてきます。何か役に立ちたいと思っていた松の木は、光合成という能力を発揮して、その星の二酸化炭素を酸素に換えて空気の浄化に役立ちました。異星人は、なかなかよく働く木だと見直します。それを見ていたミミズは、私もと、その星の土壌を耕して滋養豊富な土に換え、異星人たちに豊作をもたらします。異星人たちは、ミミズの働きに感謝しました。

  はたして人間は何をしてくれるのか。人間は、「バカにするな。我々は地球でもっとも繁栄した生物で、特別だったんだ。松の木やミミズと一緒するな。」と腹を立てます。それでは、いったい何ができるのか、と聞かれて、「我々は足し算ができる。」と答えました。しかし、足し算はその星の住民でもできることなので、役には立たなかったのです。

  こんな話から始まる本は、それで次は?と先を読みたくなるわけです。確かに人間は、自分たちを進化の最高位にいる生物だと思い込んでいるフシがあります。果たしてそうなのでしょうか。我々は、ダチョウのように地上を高速で走ることもできなければ、カラスのように空を飛ぶこともできません。昔は仲間であった猿のように木登りもできません。にもかかわらず、我々は、他の生物より優れていると思っています。

  それは、「進化」という言葉を正しく理解していないからなのではないか。では、進化とは何なのか。それは、我々の細胞が毎日入れ替わっていく「動的平衡」の先にある「自然淘汰」によってもたらされる生命行動そのものなのです。この本は、我々にそのことを教えてくれます。

【ダーウィンと進化論の間】

  さて、この本の目次を覗いてみましょう。

序章 なぜ私たちは生きているのか

第1部 ヒトは進化の頂点ではない

 第1章 心臓病になるように進化した

 第2章 鳥類や恐竜の肺にはかなわない

 第3章 腎臓・尿と「存在の偉大な連鎖」

 第4章 ヒトと腸内細菌の微妙な関係

 第5章 いまも胃腸は進化している

 第6章 ヒトの眼はどれくらい「設計ミス」か

第2部 人類はいかにヒトになったか

 第7章 腰痛は人類の宿命だけれど

 第8章 ヒトはチンパンジーより「原始的」か

 第9章 自然淘汰と直立二足歩行

 第10章 人類が難産になった理由とは

 第11章 生存闘争か、絶滅か

 第12章 一夫一妻制は絶対ではない

 終章 なぜ私たちは死ぬのか

  面白そうですね。この本には、これまで著者が研究し、様々な場所で発表してきた内容がギッシリと、しかも分かり易く詰まっています。そして、すべての章がたとえ話と想定問答、それに対する意外な答えによってワンダーを感じながら進んでいきます。

  皆さんの中には、牛乳が苦手な方もいらっしゃるのではないでしょうか。私の友人たちにも牛乳が苦手で、飲むとおなかがゴロゴロ言っておなかを壊すとか、おならが止まらなくなるとか、飲めない人がたくさんいます。この本を読んでびっくりしたのですが、人類はもともと大人になると牛乳が飲めなくなるようにできている、というのです。

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(ピンクフロイド「原子心母」amazon.co.jp)

  母親は子供が生まれる前からお乳が張って、ミルクが出るようになります。最初の子供ができたときに連れ合いが、子供が母乳をのまないと胸が張って痛くなると苦労して搾乳していたことを思い出します。母乳や牛乳は、子供に必要な糖分が乳糖としてたくさん含まれているそうです。この乳糖はラクターゼという酵素によって分解され、吸収されます。

  生まれたての赤ちゃんは、乳糖を栄養に換えるためにこのラクターゼを体内で作り出すのですが、成長して母乳を飲まなくなるとラクターゼは不要となるため無駄な生産を取りやめるというのです。つまり、母乳を飲まなくなると人間はラクターゼを分泌しなくなるので、牛乳が消化できなくなるのです。ということは、牛乳を飲んでおなかを壊すのは、人として当たり前のことだったのです。

  ところが、紀元前6000年ころに人間に「ラクターゼ活性持続症」なる症状が発症しました。牛乳を飲んでそれが栄養となる人は、この「ラクターゼ活性持続症」を発症した病人?だそうなのです。この病気は北欧で特に多いようですが、仮説としては酪農によって人間が動物のお乳をのむようになってこの症状が発症するようになったのでは、といわれています。(ただ、アジアに住む人は10%程度の人しかラクターゼを持たないが、モンゴル人は昔から家畜の乳を飲んでいるとの事実もあるようです。こちらは、腸内細菌の活躍によるのかな?)

  進化というと、100万年単位で突然変異によって起きるとのイメージがありますが、大人になってもラクターゼが活性しているという進化は、数千年単位で起きたものであり、進化は常に起きつつあるとの証左であるとわかります。

【進化のすごさとダーウィンの誤謬】

  ダーウィンの進化論は、人間の優位性や唯一性を信じる19世紀の人々には受け入れがたい説でしたが、今でも宗教的な理由や信念として進化論を拒む人たちもいるようです。そうした人々の一つの論拠として人間の目のような完全な機能は進化では作り上げようがなく、目はもともと備わっていた器官であり、進化論では説明できない、との主張をこの本では取り上げています。その語りは本当にワンダーですが、その楽しさはぜひご自身で味わってください。

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(ダーウィン「種の起源」amazon.co.jp)

  ところで、更科氏はこの本とは別にダーウィンの進化論に関する本も上梓していますが、この本でも分かり易くダーウィンの誤謬についても触れています。ダーウィンの進化論での主張は、生命は自然淘汰によって環境に適用するように進化を遂げる、としており、その進化は常により環境に適用するように進んでいくように理解されています。

  しかし、進化が常に前に進むものだとすれば、生きている化石と呼ばれるシーラカンスやカブトガニ、オウムガイなどが数億年前と同様な姿で現在も生きているのはなぜなのでしょうか。この本では、そのことも教えてくれています。生きている化石のみならず、地球上に住む最小の菌たちは、分裂することによって死ぬことなく生命誕生以来40億年も生きながらえていると言います。

  ここで興味深いのは、「進化」には2種類あるとの指摘です。ひとつは「方向性選択」による進化。もうひとつは「安定化選択」という進化です。我々がダーウィンによって知らされた進化は「方向性選択」による進化です。自然淘汰が働いて突然変異が起きたとき、その変異が生きていくのに有効な変異であれば、進化はその方向に進んでいきます。いわいる進化のアクセルが踏まれます。

  一方、自然淘汰による突然変異が生きるために不利に働いたとすればどうでしょう。その変異はすぐに取り除かれて進化はそのまま止まります。つまり、「安定的選択」とは進化しない進化と言えます。このように進化は、アクセルとブレーキを使いながら進んでいくので、ゆっくりと進むように見えますが、牛乳が飲める「ラクターゼ活性持続症」という進化にはブレーキを聞かせる必要がなかったので数千年と言うアクセル全開のスピードで進化したと言います。


  さて、進化とは生きることと同義なのですが、生命が死ぬことは進化の結果だと言います。それは果たして本当なのでしょうか。その答えは、ぜひこの本で解明してください。この本は科学を探求する本なのですが、なんだか宗教の本のようにも思えるから不思議です。ワンダーに楽しめること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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稲葉振一郎 銀河帝国興亡と現代の闘い

こんばんは。

  SFの世界で古典的作家といえば、アイザック・アシモフの名前が挙がります。アシモフは学生時代からたくさんのSF作品を発表し、その72年の生涯で、科学者としても著作を残すと同時にノンフィクションライターとしても多くの著作を発表しました。その著作は500作以上とされており、SFのみならず、現代の知者の一人といってもよい作家です。

  同じくSF作家では、「地球幼年期の物語」のアーサー・C・クラーク、「夏への扉」のロバートA・ハイランインと並べてSF御三家と呼ばれています。こうした著者のSFはどれも面白く、かつてその作品たちのセンス・オブ・ワンダーに夢中になりました。

  アシモフと言えば、一連のロボット短編集と最大のロマンである「銀河帝国興亡史」が最も有名な作品群といっても過言ではありません。先週、恒例の本屋さん巡りをしていると新書の棚で、「銀河帝国」、「ロボット」という文字が目に飛び込んできました。思わず手に取ってみると、どうやら社会学者の方が書いたロボット本のようでした。なかなか興味深そうなので他の本と一緒に購入しました。今週は、SF世界から人類の未来を語ろうとする本を読んでいました。

「銀河帝国は必要か-ロボットと人類の未来」

(稲葉振一郎著 ちくまプリマー新書 2019年)

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(「銀河帝国は必要か?」amazon.co.jp)

【アシモフに見る未来】

  まず、結論をお伝えしましょう。

  この本はアシモフのファンにはとてつもなく興奮する本ですが、そうでない読者にはどこに焦点があてられているのか、理解しにくい内容となっています。

  さて、アシモフと言えば、「われはロボット」という短編集がすぐに頭に浮かびます。私も最初に読んだのはこの本でした。この本がアメリカで上梓されたのは1950年といいますから、まさに古典といってもよい作品です。ロボットは、チェコの作家、チャペックが人間に変わって使役的作業を行う機械を小説に登場させ、その名をロボットと名付けたことがはじまりと言われていますが、自分で考え自分で動く自動人形(ロボット)は、SF世界では代表的な一分野を築いています。

  特にアシモフが有名なのは、ロボットSFの基本となるような概念を作品に持ち込んだからです。それは、「ロボット工学三原則」と呼ばれ、その後のロボットSF作品に大きな影響を及ぼしました。その三原則とは、①ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。②ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、①に反する場合は、この限りでない。③ロボットは、前掲①および②に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。というものです。

  この三原則が「アシモフの三原則」と呼ばれることに関してアシモフは、自分は科学者の端くれなので、架空の科学分野における架空の原則で後世に名を残すのは本意ではない。将来現実のロボット工学が発達して三原則が実用されれば真の名声を得られるかもしれない。仮にそうなるとしても、どのみち自分の死後のことだろう。と話したといいます。アシモフが亡くなったのは1992年。確かにその後ロボット工学は驚異的に発展しましたが、現実世界で三原則の話はいまだ聞いたことがありません。

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(アシモフ名作「I ROBOT」amazon.co.jp)

  今回の本の主題は、すでに現実となっているAI技術を含めたロボット工学の世界で、人類がこれまで築いてきた様々な倫理学が今後どのように変化していくのかを、SF世界を分析することで見極めようとする試みなのです。

  その目次を覗くと、この本でいうSFとは正にアシモフ世界のことを指しているのです。

1章 なぜロボットが問題になるのか

2章 SF作家アイザック・アシモフ

3章 宇宙SFの歴史

4章 ロボット物語-アシモフの世界から(1

5章 銀河帝国-アシモフの世界から(2

6章 アシモフと人類の未来

  さて、アシモフのファンは、そのSFがロボットシリーズとファウンデーションシリーズに二分されていることをよくご存じと思います。この本の第1章での問題提起を読むと、人類の未来とロボットの関係を社会学的に論じるつもりであることが語られていますが、第2章以下を読み進むにつれて、この本の著者である稲葉氏が、SFとアイザック・アシモフを分析しようとする社会学的な意志を感じます。

  著者は、第4章でアシモフのロボットシリーズを分析し、さらに第5章ではファウンデーションシリーズの分析へと取り掛かります。アシモフファンにはたまらない展開。なつかしさとその目の付け所にワンダーを感じます。

  「ファウンデーション」というとアシモフの読者でない方は、けげんに感じると思いますが、ファウンデーションシリーズの日本での翻訳は「銀河帝国の興亡」または「銀河帝国興亡史」という名称で上梓されています。日本語の題名を見て、世界史を専攻した方は歴史家ギボンが記した「ローマ帝国衰亡史」を思い出すと思います。若きアシモフは、まさにその本を読んでこの500年間にわたる銀河帝国を物語る小説を構想したのです。

  作家で科学者であったアシモフは、初期の作品群でロボットシリーズとファウンデーションシリーズを全く別の小説として構想し、小説にまとめています。近未来を描くミステリーの傑作「鋼鉄都市」では、ロボット刑事であるダニールが登場し、謎に満ちた殺人事件を人間の刑事であるベイリとタッグを組んで解決していきます。ロボットシリーズは、その後、この二人を主人公として続いていくことになります。

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(アシモフ「鋼鉄都市」amazon.co.jp)

  最初の「銀河帝国(ファウンデーション)シリーズ」は、宇宙ものSFの傑作でしたがそこに記された未来にロボットはまったく登場していません。一方のロボットシリーズは、ロボット工学三原則を基本とした推理小説仕立てのミステリィであり、その内容は銀河帝国とは関係のない物語でした。その後、アシモフは科学やノンフィクションを書くことに興味を抱き、さらに現代ものの推理小説も上梓します。しばらく、ロボットもファウンデーションも執筆されることはありませんでした。

  しかし、ファウンデーションシリーズを1953年に上梓し、ロボットシリーズの続編を1957年に上梓してから25年後、アシモフはファンの要請にこたえてシリーズの続編を構想します。1982年に「ファウンデーションの彼方に」で再びシリーズをスタートしたアシモフは、ロボットとファウンデーションをつなぐ物語の構想を想起しました。それは、「銀河帝国」の物語になぜロボットが登場しないのか、とのなぞを解明する物語だったのです。

  ちなみに日本語訳の「銀河帝国興亡史」は、ファウンデーションと呼ばれる人類の永遠にわたる存続を目標とする組織と相対する銀河帝国の興亡を描いており、最初の三部作の題名としてはふさわしかったのですが、1982年以降の作品と「銀河帝国」はそぐわない題名です。なぜなら、前期と後期をつなぐ500年にわたる物語は、銀河帝国ではなくファウンデーションが主役だからです。

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(アシモフ「銀河帝国興亡史」amazon.co.jp)

【アシモフを巡る未来への議論】

  著者は、第1章で現在2045年にシンギュラリティ(無限値)を迎えるAIに焦点を当てます。これまで、SFは近代の科学的発展を先取りする架空世界を展開してきました。その中心は、ガンダムや鉄腕アトムに代表されるロボットたちです。しかし、これまでSFで描かれてきたロボットと現在のAIには、決定的な違いがあるとの指摘はそのとおりです。

  それは、現在のAIはネットワークにつながっていることが常態となっているとの指摘です。

  我々がこれまでイメージしていたロボットは、アトムのように独立した頭脳を持ち自ら考え、自ら行動を起こす機械でした。確かに、現在でも独立したコンピューターが頭脳となり、その中で人間の脳を再現するニューロンとシナプスを増やしていき、そこに人間の脳と同じように情報を流し込んで学習させていくとの手法がAIを発達させてきました。

  しかし、今やインターネットに代表されるネットワークはほぼすべてのコンピューターにつながっています。さらに世の中ではクラウドコンピューターの技術が進化を続けており、あるAIが人間の脳を超えれば、すべての端末でシンギュラリティが実現することが容易に想定されます。こうした技術は、これまでのロボットSFの枠組みを超える現在科学の大きな変革です。

  SFのもう一つの主役は、宇宙です。無限に広がる宇宙では、我々が生きている銀河系や太陽系と同じ環境の星系が数多くあると言われています。そのことから、人間は、この宇宙の何処かで我々と同様の知性を持った異星人との接触があるのではないか、との期待に胸を躍らせています。SFでは、「火星人襲来(宇宙戦争)」以来、「未知との遭遇」や「E..」など功罪ありまぜた異星人との接触を夢見てきました。

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(H.G.ウェルズ「宇宙戦争」amazon.co.jp)

  ところが、最新の研究では我々人類が生存している間に異星人と接触することはないだろう、との学説が有力になっていると言います。

  もしも異星人との接触がないとすれば、残る選択肢は宇宙というフロンティアの開拓です。すでに国際宇宙ステーションを使ったあらゆる科学分野の実験が、宇宙空間で展開されていますが、さらにその発想が進んでいけば、人間は太陽系の別の惑星に移住するとの行動が現実となる可能性が高くなります。

  そのときに考えられるのは、ネットワークでつながっているロボットや攻殻機動隊のようなサイボーグ人間が真空の宇宙空間や、別の惑星で開拓を行っていく未来です。こうした未来が想定される中で、アシモフに代表されるロボットと宇宙人類の未来は我々にどんな倫理観を期待するのでしょうか。著者は、そうした問題意識で、科学者であり、SF作家でもあり、さらにノンフィクションライターでもあったアシモフの作品を分析していくのです。

  もう一つ、著者の議論のポイントとなっているのは、光速による恒星間移動の現実性です。スター・ウォーズでもスタートレックでも宇宙船による移動の手段は、ワープなどの光速を超える速度での空間移動です。しかし、著者はここでも疑問を展開します。それは、技術的な問題(例えば瞬間で惑星や彗星小惑星の一が揺れ動いている宇宙で、出現する場所での安全性の確保は不可能である。)とネットワークの問題から実現は難しいという考え方です。

  つまり、現在のネットワーク技術は極めて限定された物理的な距離の中で実現された技術であり、人類はこの利便性を捨ててまで光速で移動しなければならないような別銀河にまで進出することはないだろうとの未来予想です。

  こうした現在我々が置かれた人類社会とアシモフが描いた未来社会。この二つの世界から我々はどのような未来を描けばよいのでしょうか。そこでは、アシモフが描いたロボット工学三原則に加えられた新たな原則、第零原則が大きくクローズアップされることになるのです。


  その議論には、ぜひこの本を読むことで参加してください。最後には、社会哲学に突入する議論が展開されることになりますが、アシモフが好きな方には楽しめることに間違いありません。お楽しみに。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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稲葉振一郎 銀河帝国興亡と現代の闘い

こんばんは。

  SFの世界で古典的作家といえば、アイザック・アシモフの名前が挙がります。アシモフは学生時代からたくさんのSF作品を発表し、その72年の生涯で、科学者としても著作を残すと同時にノンフィクションライターとしても多くの著作を発表しました。その著作は500作以上とされており、SFのみならず、現代の知者の一人といってもよい作家です。

  同じくSF作家では、「地球幼年期の物語」のアーサー・C・クラーク、「夏への扉」のロバートA・ハイランインと並べてSF御三家と呼ばれています。こうした著者のSFはどれも面白く、かつてその作品たちのセンス・オブ・ワンダーに夢中になりました。

  アシモフと言えば、一連のロボット短編集と最大のロマンである「銀河帝国興亡史」が最も有名な作品群といっても過言ではありません。先週、恒例の本屋さん巡りをしていると新書の棚で、「銀河帝国」、「ロボット」という文字が目に飛び込んできました。思わず手に取ってみると、どうやら社会学者の方が書いたロボット本のようでした。なかなか興味深そうなので他の本と一緒に購入しました。今週は、SF世界から人類の未来を語ろうとする本を読んでいました。

「銀河帝国は必要か-ロボットと人類の未来」

(稲葉振一郎著 ちくまプリマー新書 2019年)

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(「銀河帝国は必要か?」amazon.co.jp)

【アシモフに見る未来】

  まず、結論をお伝えしましょう。

  この本はアシモフのファンにはとてつおなく興奮する本ですが、そうでない読者にはどこに焦点があてられているのか、理解しにくい内容となっています。

  まず、アシモフと言えば、「われはロボット」という短編集がすぐに頭に浮かびます。私も最初に読んだのはこの本でした。この本がアメリカで上梓されたのは1950年といいますから、まさに古典といってもよい作品です。ロボットは、チェコの作家、チャペックが人間に変わって使役的作業を行う機械を小説に登場させ、その名をロボットと名付けたことがはじまりと言われていますが、自分で考え自分で動く自動人形(ロボット)は、SF世界では代表的な一分野を築いています。

  特にアシモフが有名なのは、ロボットSFの基本となるような概念を作品に持ち込んだからです。それは、「ロボット工学三原則」と呼ばれ、その後のロボットSF作品に大きな影響を及ぼしました。その三原則とは、①ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。②ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、①に反する場合は、この限りでない。③ロボットは、前掲①および②に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。というものです。

  この三原則が「アシモフの三原則」と呼ばれることに関してアシモフは、自分は科学者の端くれなので、架空の科学分野における架空の原則で後世に名を残すのは本意ではない。将来現実のロボット工学が発達して三原則が実用されれば真の名声を得られるかもしれない。仮にそうなるとしても、どのみち自分の死後のことだろう。と話したといいます。アシモフが亡くなったのは1992年。確かにその後ロボット工学は驚異的に発展しましたが、現実世界で三原則の話はいまだ聞いたことがありません。

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(アシモフ名作「I ROBOT」amazon.co.jp)

  今回の本の主題は、すでに現実となっているAI技術を含めたロボット工学の世界で、人類がこれまで築いてきた様々な倫理学が今後どのように変化していくのかを、SF世界を分析することで見極めようとする試みなのです。

  その目次を覗くと、この本でいうSFとは正にアシモフ世界のことを指しているのです。

1章 なぜロボットが問題になるのか

2章 SF作家アイザック・アシモフ

3章 宇宙SFの歴史

4章 ロボット物語-アシモフの世界から(1

5章 銀河帝国-アシモフの世界から(2

6章 アシモフと人類の未来

  さて、アシモフのファンは、そのSFがロボットシリーズとファウンデーションシリーズに二分されていることをよくご存じと思います。この本の第1章での問題提起を読むと、人類の未来とロボットの関係を社会学的に論じるつもりであることが語られていますが、第2章以下を読み進むにつれて、この本の著者である稲葉氏が、SFとアイザック・アシモフを分析しようとする社会学的な意志を感じます。

  著者は、第4章でアシモフのロボットシリーズを分析し、さらに第5章ではファウンデーションシリーズの分析へと取り掛かります。アシモフファンにはたまらない展開。なつかしさとその目の付け所にワンダーを感じます。

  「ファウンデーション」というとアシモフの読者でない方は、けげんに感じると思いますが、ファウンデーションシリーズの日本での翻訳は「銀河帝国の興亡」または「銀河帝国興亡史」という名称で上梓されています。日本語の題名を見て、世界史を専攻した方は歴史家ギボンが記した「ローマ帝国衰亡史」を思い出すと思います。若きアシモフは、まさにその本を読んでこの500年間にわたる銀河帝国を物語る小説を構想したのです。

  作家で科学者であったアシモフは、初期の作品群でロボットシリーズとファウンデーションシリーズを全く別の小説として構想し、小説にまとめています。近未来を描くミステリーの傑作「鋼鉄都市」では、ロボット刑事であるダニールが登場し、謎に満ちた殺人事件を人間の刑事であるベイリとタッグを組んで解決していきます。ロボットシリーズは、その後、この二人を主人公として続いていくことになります。

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(アシモフ「鋼鉄都市」amazon.co.jp)

  最初の「銀河帝国(ファウンデーション)シリーズ」は、宇宙ものSFの傑作でしたがそこに記された未来にロボットはまったく登場していません。一方のロボットシリーズは、ロボット工学三原則を基本とした推理小説仕立てのミステリィであり、その内容は銀河帝国とは関係のない物語でした。その後、アシモフは科学やノンフィクションを書くことに興味を抱き、さらに現代ものの推理小説も上梓します。しばらく、ロボットもファウンデーションも執筆されることはありませんでした。

  しかし、ファウンデーションシリーズを1953年に上梓し、ロボットシリーズの続編を1957年に上梓してから25年後、アシモフはファンの要請にこたえてシリーズの続編を構想します。1982年に「ファウンデーションの彼方に」で再びシリーズをスタートしたアシモフは、ロボットとファウンデーションをつなぐ物語の構想を想起しました。それは、「銀河帝国」の物語になぜロボットが登場しないのか、とのなぞを解明する物語だったのです。

  ちなみに日本語訳の「銀河帝国興亡史」は、ファウンデーションと呼ばれる人類の永遠にわたる存続を目標とする組織と相対する銀河帝国の興亡を描いており、最初の三部作の題名としてはふさわしかったのですが、1982年以降の作品と「銀河帝国」はそぐわない題名です。なぜなら、前期と後期をつなぐ500年にわたる物語は、銀河帝国ではなくファウンデーションが主役だからです。

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(アシモフ「銀河帝国興亡史」amazon.co.jp)

【アシモフを巡る未来への議論】

  著者は、第1章で現在2045年にシンギュラリティ(無限値)を迎えるAIに焦点を当てます。これまで、SFは近代の科学的発展を先取りする架空世界を展開してきました。その中心は、ガンダムや鉄腕アトムに代表されるロボットたちです。しかし、これまでSFで描かれてきたロボットと現在のAIには、決定的な違いがあるとの指摘はそのとおりです。

  それは、現在のAIはネットワークにつながっていることが常態となっているとの指摘です。

  我々がこれまでイメージしていたロボットは、アトムのように独立した頭脳を持ち自ら考え、自ら行動を起こす機械でした。確かに、現在でも独立したコンピューターが頭脳となり、その中で人間の脳を再現するニューロンとシナプスを増やしていき、そこに人間の脳と同じように情報を流し込んで学習させていくとの手法がAIを発達させてきました。

  しかし、今やインターネットに代表されるネットワークはほぼすべてのコンピューターにつながっています。さらに世の中ではクラウドコンピューターの技術が進化を続けており、あるAIが人間の脳を超えれば、すべての端末でシンギュラリティが実現することが容易に想定されます。こうした技術は、これまでのロボットSFの枠組みを超える現在科学の大きな変革です。

  SFのもう一つの主役は、宇宙です。無限に広がる宇宙では、我々が生きている銀河系や太陽系と同じ環境の星系が数多くあると言われています。そのことから、人間は、この宇宙の何処かで我々と同様の知性を持った異星人との接触があるのではないか、との期待に胸を躍らせています。SFでは、「火星人襲来(宇宙戦争)」以来、「未知との遭遇」や「E..」など功罪ありまぜた異星人との接触を夢見てきました。

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(H.G.ウェルズ「宇宙戦争」amazon.co.jp)

  ところが、最新の研究では我々人類が生存している間に異星人と接触することはないだろう、との学説が有力になっていると言います。

  もしも異星人との接触がないとすれば、残る選択肢は宇宙というフロンティアの開拓です。すでに国際宇宙ステーションを使ったあらゆる科学分野の実験が、宇宙空間で展開されていますが、さらにその発想が進んでいけば、人間は太陽系の別の惑星に移住するとの行動が現実となる可能性が高くなります。

  そのときに考えられるのは、ネットワークでつながっているロボットや攻殻機動隊のようなサイボーグ人間が真空の宇宙空間や、別の惑星で開拓を行っていく未来です。こうした未来が想定される中で、アシモフに代表されるロボットと宇宙人類の未来は我々にどんな倫理観を期待するのでしょうか。著者は、そうした問題意識で、科学者であり、SF作家でもあり、さらにノンフィクションライターでもあったアシモフの作品を分析していくのです。

  もう一つ、著者の議論のポイントとなっているのは、光速による恒星間移動の現実性です。スター・ウォーズでもスタートレックでも宇宙船による移動の手段は、ワープなどの光速を超える速度での空間移動です。しかし、著者はここでも疑問を展開します。それは、技術的な問題(例えば瞬間で惑星や彗星小惑星の一が揺れ動いている宇宙で、出現する場所での安全性の確保は不可能である。)とネットワークの問題から実現は難しいという考え方です。

  つまり、現在のネットワーク技術は極めて限定された物理的な距離の中で実現された技術であり、人類はこの利便性を捨ててまで光速で移動しなければならないような別銀河にまで進出することはないだろうとの未来予想です。

  こうした現在我々が置かれた人類社会とアシモフが描いた未来社会。この二つの世界から我々はどのような未来を描けばよいのでしょうか。そこでは、アシモフが描いたロボット工学三原則に加えられた新たな原則、第零原則が大きくクローズアップされることになるのです。


  その議論には、ぜひこの本を読むことで参加してください。最後には、社会哲学に突入する議論が展開されることになりますが、アシモフが好きな方には楽しめることに間違いありません。お楽しみに。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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550回を迎えてますます感謝です!

こんばんは。

  先日、500回のご挨拶をしたばかりですが、皆々様のおかげで「日々雑記」も550回を迎えました。

  こうして毎回、新たな気持ちでブログが続けられるのも、いつもご訪問していただく皆様のおかげです。回を重ねるごとに、皆さんのご訪問に改めて感謝する今日この頃です。

  本当に、いつもありがとうございます。

  この50回を振り返ると、最近の「日々雑記」は日記の登場が多くなり、相対的に本の紹介が減っているというのが印象です。自分で記事を書いていて言うのもなんですが、この50回で「日記」として書いた記事は15回を数えます。それは、「人生楽しみ」の時間の塩梅(あんばい)が思ったようにいかないことの証左ですね。

  というのも、最近人生の楽しみが増えたせいもあり、なかなか時間の配分がうまくいきません。本を読むことは今でも一番の楽しみなのですが、昨年はそれに加えて見に行きたい美術展が目白押し。さらに連れ合いと二人の旅行も行きたい場所だらけ。大好きな音楽ライブやコンサートもネタが尽きません。そのせいで、あおりをうけているのは映画です。今年は、映画を見る機会が減りました。特に、シアター系の映画はこちらから情報を得て上映館を探して見に行く必要があり、どうしても機会が減ってしまします。

【テナーサックス奮闘記】

  さらに還暦を機に新たな取り組みに手を染めたいと考えて、テナーサックスを習い始めました。学生時代にはギターをたしなんでいて、しろうとバンドで楽しんでいたのですが、あくまで遊びで、五線譜や音符とは無縁でした。その意味で、新たな楽器を演奏することはまさにチャレンジです。

  なぜ、テナーサックスがと言えば理由は簡単です。私の最も好きなアーティストがマイケル・ブレッカーだからです。テナーサックスは最も人間の声に近い音を奏でる楽器、と言われていますが、はじめてレッスンでドミソを吹いた時、その音色のすばらしさに心から感動しました。この話を始めると、またいくら紙面があっても足らなくなるのでほどほどにしますが、習い始めて4か月でヤマハのYTS-82Zを手に入れたときには、その体全体に響き渡る低音に、大袈裟なようですが「生きていてよかった。」と心が震えました。

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(マイケル・ブレッカー LIVE  amazon.co.jp)

  テナーサックスは、ピアノやギターなどのハ調(C)を基本にした楽器と異なり、ロ調(B♭)で作られた楽器なので、移調楽器と呼ばれます。そのため、ジャズなどでは半音階が多用されてすべての指を瞬時に動かす必要が生じ、フラットとシャープに翻弄されます。ピアノの黒鍵でおなじみですが、音階は全音と半音で成り立ちます。例えば、ドの上はレですが、その間にド♯の音が入り込むわけです。そこで、楽譜を読むときに恐ろしいことが起きます。それは、ドの半音階上の音は、レの半音階下の音と同じ音であるという当たり前のことです。

  つまり、ド♯とレ♭は、表記は異なるにもかかわらず音符では同じに書かれ、鳴らす音も(当たり前ですが、)同じなのです。楽譜が読める方には「だから何なんだ。」としかられそうなのですが、楽譜が読めない人間は、サックスを吹くときに音符の下にカタカナで音を表記し、それを見て曲の練習を行います。すると曲が変調するとド♯と書かれていた音符表記が、レ♭に変わるのです。

  サックスを抑える指使いは、ド♯もレ♭も同じであり鳴らす音も同じなのですが、人の生業からして表記が変われば指使いも変わるのが当たり前、と脳は理解しています。ドとレだけならば、まだ脳みそもうまく対応してくれますが、この現象は、ミにもファにもソもラにもシにも生じる現象なのです。今取り組んでいる課題曲は、「煙が目にしみる」と「いつか王子様が」なのですが、前者ではソ♭と表記されている音が、後者ではファ♯と表記されているのです。

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(低音器 YAMAHA YTS-82Z)

  曲が変わると「アレッ」と考えてしまい、息が止まります。

  そのたびに先生はニヤニヤして、「難しいですよね。」と言ってはくれますが、その目は明らかに「これが普通に吹けないと曲は吹けません。」と語っています。バンドでテナーサックスを吹いていた友人にそのことを話すと、「確かにサックスを吹くと、なんでこんなに♯と♭ばっかり出てくるんだ、と嫌になるね。」となぐさめてくれますが、♯や♭と仲良くなるまでには、もう少し時間が必要なようです。

500回以降のベスト10は?】

  さて、話を戻すと、最も大きな悩みはどうやって時間をやりくりするかです。突発的な出来事に対応するのであれば、寝る時間を減らすとか、食事を抜くとか、やりくりがきくのですが、日常的なことなので、なかなか妙案が浮かびません。あまつさえ、エリック・アレキサンダーやダイアナ・クラール、キング・クリムゾン、プラハ管弦楽団、樫本大進などが来日すると最優先でチケットを確保するわけですから、ますます時間は無くなります。

  という具合で、なかなか1週間に2度ブログを更新するのが難しい状況が続いているのです。早く仕事をリタイヤして「人生楽しみ」に専念したいのですが、とかくこの世は住みにくい。しばらくサックスは仕事がお休みの日に通うしかありません。週休4日の暮らしをしてみたいものです。

  550回記念が嘆きのブログで申し訳ありません。気を取り直して、550回のまとめに入りたいと思います。読書の方は、もともとが本屋巡りとセットとなった楽しみですので、読む本はアドリブ的に多様なジャンルの本となります。今年も、野球、映画、音楽と面白い本もありましたが、こうした分野の本は趣味が偏りがちです。

  読んだ本のすすめベスト10を語ろうとすると、どうしてもスポーツ本、音楽本は圏外となってしまいます。今年も同様となりますが、前置きはこのくらいにして本題に戻りましょう。(いつものように「題名」をクリックするとブログにリンクします。)

10位 「下山事件完全版-最後の証言」(柴田哲孝著 祥伝社文庫 2007年)

  ノンフィクション分野は、これまでにも沢木耕太郎さんや佐野眞一さんなど素晴らしいライターの本をご紹介してきましたが、この本もまたノンフィクションのワンダーを我々に教えてくれる面白い一冊です。下山事件といえば、GHQ占領下の19467月、東京で起きた国鉄総裁下山定則の拉致殺害事件です。この事件は犯人を特定することができず、迷宮入りとなったのですが、そこにまつわる戦後を彩った様々な人間模様から何者かの指示により暗殺されたとの憶測がまことしやかに流され続けてきました。

       著者はノンフィクションライターですが、実はこの事件の実行犯の一人として疑いがあった人物の孫だったのです。自らの祖父は犯人だったのか。幼いころの祖父の印象は、殺人者からは程遠いものでした。この本は、自らの出生から端を発した迫真のルポルタージュです。ぜひお読みください。

9位 「モダン」(原田マハ著 文春文庫 2018年)

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(原田マハ「モダン」amazon.co.jp)

  原田マハさんの美術小説は、すべて傑作ぞろいです。この作品は、マハさんの美術の原点といってもよいニューヨーク近代美術館を舞台に繰り広げられる物語です。マハさんの絵画にまつわる物語は、その絵画にかかわる人間ドラマが描かれて感動的なのですが、ここに収められた5編の主人公たちもみな美術館と美術を愛する人々です。ぜひさわやかな読後を味わってください。

8位 「須賀敦子の旅路」(大竹昭子著 文春文庫 2018年)

  この本は、2つの物語が同時に並行して進む小説のような趣を持っています。それは、美しく流れる文章で我々を読むたびに魅了してくれる須賀敦子さんの描く世界とその須賀さんが描いた世界を自らの足でたどっていく大竹昭子さんの気持ちが寄り添うように描かれていくからです。大竹さんの文章は須賀さんの言葉に呼応するように記されており、その想いが重なるようで心を動かされます。

7位 「生死(しょうじ)の覚悟」

   (高村薫 南直哉著 新潮社新書 2019年) 

  現代の日本では、立ち止まって自らを考えることがとても少ないのではないでしょうか。本来、人と人が共鳴するのは、互いが自らのことを認識し、自らの情報を確認し、その情報を分かち合うことからはじまるからです。SNSが本来の共鳴と異なるのは、分かち合うことをしないことが大きな要因なのではないでしょうか。分かち合うとは相互作用ですが、SNSは自己満足の連続が場を支配していく世界です。

  この対談は、文学や宗教を通じて自らの異質さを認識してきたお二人が、その認識を相互に確認し合うことで対話の価値を高めていきます。この本の中には、間違いなく現代社会が失いつつある共鳴が鳴り響いており、我々に今を考えさせてくれます。良書でした。

6位 「日本問答」(田中優子 松岡正剛著 岩波新書 2017年)

  皆さんは、「日本」が何からできているのか、考えたことがありますか。この本は、「日本」を様々な視点から考え続けてきた知のマイスターお二人が、日本を徹底的に問答する対談です。最高の対談は、ネットサーフィンのように関連する話題が次々に繋がっていき、広がると同時にテーマの掘り下げがどんどん深まっていく会話が連なります。お二人の対談はまさにそれで、ボーッと読んでいると、チコちゃんに叱られること間違いなしです。ぜひ、お楽しみください。

5位 「ドナルド・キーン自伝-増補新版」(ドナルド・キーン著 角地幸男訳 中公文庫 20193月)

  「碧い目の日本人」というと、キーンさんは私の目は碧くないよ、と返されるに違いありません。いったい日本とは何なのか。「源氏物語」に魅せられて、1953年から65年間にわたって日本を愛しつづけてくれたキーンさん。その愛情が、この本にギッシリとつまっています。軽妙な語り口、時に見せるウィットとアイロニーは、我々日本人も見習いたいニューヨーカーです。これほど日本に魅せられた人物は、日本人にも稀有なのではないでしょうか。今、テレビのコメンテイターは、日本語を話す外国人で連日盛り上がっていますが、その草分けがキーンさんだと思うと感慨もひとしおです。

4位 「呉越春秋 湖底の城 八」(宮城谷昌光著 講談社文庫 2018年)

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(宮城谷昌光「湖底の城八」amazon.co.jp)

  文庫好きの宮城谷ファンに昨年は嬉しい年でした。この50回のなかでも久しぶりに秦による中華統一後を描いた小説が文庫となり、また、呉越春秋も伍子胥編の後を受けて始まった范蠡編、第7巻。さらにその続編である第8巻と宮城谷ワールドを満喫しました。宮城谷さんの小説は、どれを読んでも面白いのですが、今回はいよいよ范蠡がその才能を発揮しはじめる第8巻としました。こうして振り返ってみると、小説「劉邦」と「呉越春秋」には不思議な共通点があります。それは、主人公の背景に250年の時を超えて大きな「楚」の国が横たわっているということです。紀元前450年を描いた呉越でいえば、呉の宰相として越を迎え撃つ伍子胥は、もともと「楚」の宰相の息子でした。そのライバルである越の宰相范蠡は「楚」の賈(商人)の出身なのです。「劉邦」で描かれた項羽は、言わずと知れた「楚王」の子孫で秦への復讐のために立ち上がったのです。皆さんもこうした観点で、宮城谷さんの本を読んでみると、一味違った楽しみが湧き出てくるかもしれません。

3位 「オリジン」(ダン・ブラウン著 越前敏弥訳 上中下巻 2019年)

  ダン・ブラウン氏の作品は前作「インフェルノ」がとても面白く、また映画化された作品もフィレンツェ、ヴェネチア、イスタンブールとその世界遺産そのものの映像も含めてエンターテイメントとして一流の作品でした。まさか、それを超える面白さの作品が登場しようとは思いませんでした。今回ラングドン教授が活躍する舞台は、あこがれのスペインです。そこには、ダン・ブラウン氏らしく、最新のスペイン近代美術館から世界遺産のガウディまで、スペインの名所が次々に登場します。さらにテーマが「神はいるのか」ですから、その小説がつまらないはずはありません。これまで、イタリア以外を描いた小説は映画化されていませんが、スペインを舞台としたこの小説は映画化されるでしょうか。ぜひ、映画化を期待したいものです。

2位 「007 逆襲のトリガー」(アンソニー・ホロビッツ著 駒月雅子訳 角川文庫 2019年)

  これまで、海外小説がベスト32冊も入ることはありませんでしたが、やっぱり007の魅力には偉大なものがあります。確かに1960年代が舞台の小説を第2位とするのは単なるノスタルジーなのでは、との疑問もごもっともです。しかし、エンターテイイメントとスパイ小説が合体するときに007の力は絶大でした。この小説は舞台から言っても年代から言っても映画化されたときには、ショーン・コネリーしか演ずることができないと思います。それほど、当時の007小説に男のロマンがやどっていたといってもいいと思います。ここに登場する007は、女性から見てもアイドルではないでしょうか。皆さん、だまされたと思って一度この小説を手に取ってください。第2位の理由に納得すると思います。

1位 「蜜蜂と遠雷」(恩田陸著 幻冬舎文庫上下巻 2019年)

  今回のダントツ第1位はこの小説です。その分厚さも第1位なのですが、読み始めてから読み終わるまでの時間は最も短いに違いありません。それほど、恩田さんのプロット、キャラクター、舞台設定が素晴らしく、読み始めれば一気に最後まで読み続けてしまうのです。この小説は、ある年のピアノコンクールの模様を4人のコンテスタントの人生と重ねて描いていくのですが、その4人のコンテスタントの造形が見事です。スポーツものならいざ知らず、普通、芸術系のコンクールは羨望と嫉妬と中傷のるつぼとなることが想像されます。しかし、恩田さんの世界は違います。なぜならば、ここに登場する4人は皆、音楽の神様に祝福されており、世俗と人知を超えてピアノを弾いているからです。そうはいっても、この4人にはヒエラルキーがあります。

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(映画「蜜蜂と遠雷」ポスター)

  音楽の神から最も祝福されているのは、風間塵。ピアノという楽器の落とし子のような塵は、自らの中にあふれる、風のような音をそのままピアノの音として鳴らしてしまうのです。そのあまりの才能に、聴く側は驚いてしまい、この才能を持て余してしまうのです。しかし、他の3人は音楽の神に近い塵を同じ演奏家として受け入れていきます。塵はコンクール第3位となります。

  風間塵の次に神に近いのは、天からいくつもの贈り物をあたえられているようなマサル・カルロス・レヴィ・アナトールです。マサルは、現代のピアニストが演奏に特化してしまったことに疑問を持っており、作曲家としても一流のピアニストをめざす青年です。幼馴染の亜夜との再会と一流の恩師の教えを受けて彼は、人知の及ぶ最高の音を奏でて、みごとコンクールに優勝します。

  そして、マサルと紙一重のところで我々に近いのは、唯一の女性主人公、栄伝亜夜です。彼女は幼い時からピアニストとしての技量に恵まれていましたが、その心の糧であった母親を失って、演奏することの意味を見失ってしまいます。亜夜は、このコンクールで自らの原点を探ろうとしてコンクールに参加します。彼女が、3人のピアニストの狭間で自らを取り戻し、コンクールに挑む姿はこの小説のハイライトのひとつです。コンクールでの順位は、第2位です。

  もう一人の主人公、高島明石は楽器店の従業員でありながらピアニストでもあり、自らの夢をつらぬこうと「生活者のピアノ」を掲げて、コンクールに挑戦しています。このコンクールではオリジナル曲として作曲家、菱沼忠明の作品「春と修羅」を演奏することが二次予選の課題曲となっています。高島は、宮沢賢治の詩を深く解釈して楽譜を自らの音楽として展開します。そして、コンクールでこの曲のために設定された賞、菱沼賞を受賞します。

  この4人の造形は見事です。ところで、実は今ここに書いたコンクールの順位や個人賞は、小説では語られていません。小説の終了後、結果は記事として掲載されているだけなのです。この小説のすごさは、音楽の神様と我々人間のせめぎ合いを全編で示すことによって、結果に対しての興味を感じさせないところにあります。我々読者は、恩田さんの仕掛けと筆の力によって、4人の人生に引き込まれ、結果は二の次になるのです。小説が終わった後に「ああ、そうだったのか。」とホッとするところが、この小説のすばらしさといってもよいと思います。

  ぜひ、この素晴らしい小説を楽しんでください。


  それでは、これからも「日々雑記」をよろしくお願いいたします。皆さんどうぞお元気で、またお会いします。


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550回を迎えてますます感謝です!

こんばんは。

  先日、500回のご挨拶をしたばかりですが、皆々様のおかげで「日々雑記」も550回を迎えました。

  こうして毎回、新たな気持ちでブログが続けられるのも、いつもご訪問していただく皆様のおかげです。回を重ねるごとに、皆さんのご訪問に改めて感謝する今日この頃です。

  本当に、いつもありがとうございます。

  この50回を振り返ると、最近の「日々雑記」は日記の登場が多くなり、相対的に本の紹介が減っているというのが印象です。自分で記事を書いていて言うのもなんですが、この50回で「日記」として書いた記事は15回を数えます。それは、「人生楽しみ」の時間の塩梅(あんばい)が思ったようにいかないことの証左ですね。

  というのも、最近人生の楽しみが増えたせいもあり、なかなか時間の配分がうまくいきません。本を読むことは今でも一番の楽しみなのですが、昨年はそれに加えて見に行きたい美術展が目白押し。さらに連れ合いと二人の旅行も行きたい場所だらけ。大好きな音楽ライブやコンサートもネタが尽きません。そのせいで、あおりをうけているのは映画です。今年は、映画を見る機会が減りました。特に、シアター系の映画はこちらから情報を得て上映館を探して見に行く必要があり、どうしても機会が減ってしまします。

【テナーサックス奮闘記】

  さらに還暦を機に新たな取り組みに手を染めたいと考えて、テナーサックスを習い始めました。学生時代にはギターをたしなんでいて、しろうとバンドで楽しんでいたのですが、あくまで遊びで、五線譜や音符とは無縁でした。その意味で、新たな楽器を演奏することはまさにチャレンジです。

  なぜ、テナーサックスがと言えば理由は簡単です。私の最も好きなアーティストがマイケル・ブレッカーだからです。テナーサックスは最も人間の声に近い音を奏でる楽器、と言われていますが、はじめてレッスンでドミソを吹いた時、その音色のすばらしさに心から感動しました。この話を始めると、またいくら紙面があっても足らなくなるのでほどほどにしますが、習い始めて4か月でヤマハのYTS-82Zを手に入れたときには、その体全体に響き渡る低音に、大袈裟なようですが「生きていてよかった。」と心が震えました。

  テナーサックスは、ピアノやギターなどのハ調(C)を基本にした楽器と異なり、ロ調(B♭)で作られた楽器なので、移調楽器と呼ばれます。そのため、ジャズなどでは半音階が多用されてすべての指を瞬時に動かす必要が生じ、フラットとシャープに翻弄されます。ピアノの黒鍵でおなじみですが、音階は全音と半音で成り立ちます。例えば、ドの上はレですが、その間にド♯の音が入り込むわけです。そこで、楽譜を読むときに恐ろしいことが起きます。それは、ドの半音階上の音は、レの半音階下の音と同じ音であるという当たり前のことです。

  つまり、ド♯とレ♭は、表記は異なるにもかかわらず音符では同じに書かれ、鳴らす音も(当たり前ですが、)同じなのです。楽譜が読める方には「だから何なんだ。」としかられそうなのですが、楽譜が読めない人間は、サックスを吹くときに音符の下にカタカナで音を表記し、それを見て曲の練習を行います。すると曲が変調するとド♯と書かれていた音符表記が、レ♭に変わるのです。

  サックスを抑える指使いは、ド♯もレ♭も同じであり鳴らす音も同じなのですが、人の生業からして表記が変われば指使いも変わるのが当たり前、と脳は理解しています。ドとレだけならば、まだ脳みそもうまく対応してくれますが、この現象は、ミにもファにもソもラにもシにも生じる現象なのです。今取り組んでいる課題曲は、「煙が目にしみる」と「いつか王子様が」なのですが、前者ではソ♭と表記されている音が、後者ではファ♯と表記されているのです。

  曲が変わると「アレッ」と考えてしまい、息が止まります。

  そのたびに先生はニヤニヤして、「難しいですよね。」と言ってはくれますが、その目は明らかに「これが普通に吹けないと曲は吹けません。」と語っています。バンドでテナーサックスを吹いていた友人にそのことを話すと、「確かにサックスを吹くと、なんでこんなに♯と♭ばっかり出てくるんだ、と嫌になるね。」となぐさめてくれますが、♯や♭と仲良くなるまでには、もう少し時間が必要なようです。

500回以降のベスト10は?】

  さて、話を戻すと、最も大きな悩みはどうやって時間をやりくりするかです。突発的な出来事に対応するのであれば、寝る時間を減らすとか、食事を抜くとか、やりくりがきくのですが、日常的なことなので、なかなか妙案が浮かびません。あまつさえ、エリック・アレキサンダーやダイアナ・クラール、キング・クリムゾン、プラハ管弦楽団、樫本大進などが来日すると最優先でチケットを確保するわけですから、ますます時間は無くなります。

  という具合で、なかなか1週間に2度ブログを更新するのが難しい状況が続いているのです。早く仕事をリタイヤして「人生楽しみ」に専念したいのですが、とかくこの世は住みにくい。しばらくサックスは仕事がお休みの日に通うしかありません。週休4日の暮らしをしてみたいものです。

  550回記念が嘆きのブログで申し訳ありません。気を取り直して、550回のまとめに入りたいと思います。読書の方は、もともとが本屋巡りとセットとなった楽しみですので、読む本はアドリブ的に多様なジャンルの本となります。今年も、野球、映画、音楽と面白い本もありましたが、こうした分野の本は趣味が偏りがちです。

  読んだ本のすすめベスト10を語ろうとすると、どうしてもスポーツ本、音楽本は圏外となってしまいます。今年も同様となりますが、前置きはこのくらいにして本題に戻りましょう。(いつものように「題名」をクリックするとブログにリンクします。)

10位 「下山事件完全版-最後の証言」(柴田哲孝著 祥伝社文庫 2007年)

  ノンフィクション分野は、これまでにも沢木幸太郎さんや佐野眞一さんなど素晴らしいライターの本をご紹介してきましたが、この本もまたノンフィクションのワンダーを我々に教えてくれる面白い一冊です。下山事件といえば、GHQ占領下の19467月、東京で起きた国鉄総裁下山定則の拉致殺害事件です。この事件は犯人を特定することができず、迷宮入りとなったのですが、そこにまつわる戦後を彩った様々な人間模様から何者かの指示により暗殺されたとの憶測がまことしやかに流され続けてきました。

著者はノンフィクションライターですが、実はこの事件の実行犯の一人として疑いがあった人物の孫だったのです。自らの祖父は犯人だったのか。幼いころの祖父の印象は、殺人者からは程遠いものでした。この本は、自らの出生から端を発した迫真のルポルタージュです。ぜひお読みください。

9位 「モダン」(原田マハ著 文春文庫 2018年)

  原田マハさんの美術小説は、すべて傑作ぞろいです。この作品は、マハさんの美術の原点といってもよいニューヨーク近代美術館を舞台に繰り広げられる物語です。マハさんの絵画にまつわる物語は、その絵画にかかわる人間ドラマが描かれて感動的なのですが、ここに収められた5編の主人公たちもみな美術館と美術を愛する人々です。ぜひさわやかな読後を味わってください。

8位 「須賀敦子の旅路」(大竹昭子著 文春文庫 2018年)

  この本は、2つの物語が同時に並行して進む小説のような趣を持っています。それは、美しく流れる文章で我々を読むたびに魅了してくれる須賀敦子さんの描く世界とその須賀さんが描いた世界を自らの足でたどっていく大竹昭子さんの気持ちが寄り添うように描かれていくからです。大竹さんの文章は須賀さんの言葉に呼応するように記されており、その想いが重なるようで心を動かされます。

7位 「生死(しょうじ)の覚悟」

   (高村薫 南直哉著 新潮社新書 2019年) 

  現代の日本では、立ち止まって自らを考えることがとても少ないのではないでしょうか。本来、人と人が共鳴するのは、互いが自らのことを認識し、自らの情報を確認し、その情報を分かち合うことからはじまるからです。SNSが本来の共鳴と異なるのは、分かち合うことをしないことが大きな要因なのではないでしょうか。分かち合うとは相互作用ですが、SNSは自己満足の連続が場を支配していく世界です。

  この対談は、文学や宗教を通じて自らの異質さを認識してきたお二人が、その認識を相互に確認し合うことで対話の価値を高めていきます。この本の中には、間違いなく現代社会が失いつつある共鳴が鳴り響いており、我々に今を考えさせてくれます。良書でした。

6位 「日本問答」(田中優子 松岡正剛著 岩波新書 2017年)

  皆さんは、「日本」が何からできているのか、考えたことがありますか。この本は、「日本」を様々な視点から考え続けてきた知のマイスターお二人が、日本を徹底的に問答する対談です。最高の対談は、ネットサーフィンのように関連する話題が次々に繋がっていき、広がると同時にテーマの掘り下げがどんどん深まっていく会話が連なります。お二人の対談はまさにそれで、ボーッと読んでいると、チコちゃんに叱られること間違いなしです。ぜひ、お楽しみください。

5位 「ドナルド・キーン自伝-増補新版」(ドナルド・キーン著 角地幸男訳 中公文庫 20193月)

  「碧い目の日本人」というと、キーンさんは私の目は碧くないよ、と返されるに違いありません。いったい日本とは何なのか。「源氏物語」に魅せられて、1953年から65年にわたってにほんをあいしつづけてくれたキーンさん。その愛情が、この本にギッシリとつまっています。軽妙な語り口、時に見せるウィットとアイロニーは、我々日本人も見習いたいニューヨーカーです。これほど日本に魅せられた人物は、日本人にも稀有なのではないでしょうか。今、テレビのコメンテイターは、日本語を話す外国人で連日盛り上がっていますが、その草分けがキーンさんだと思うと感慨もひとしおです。

4位 「呉越春秋 湖底の城 八」(宮城谷昌光著 講談社文庫 2018年)

  文庫好きの宮城谷ファンに昨年は嬉しい年でした。この50回のなかでも久しぶりに秦による中華統一後を描いた小説が文庫となり、また、呉越春秋も伍子胥編の後を受けて始まった范蠡編、第7巻。さらにその続編である第8巻と宮城谷ワールドを満喫しました。宮城谷さんの小説は、どれを読んでも面白いのですが、今回はいよいよ范蠡がその才能を発揮しはじめる第8巻としました。こうして振り返ってみると、小説「劉邦」と「呉越春秋」には不思議な共通点があります。それは、主人公の背景に250年の時を超えて大きな「楚」の国が横たわっているということです。紀元前450年を描いた呉越でいえば、呉の宰相として越を迎え撃つ伍子胥は、もともと「楚」の宰相の息子でした。そのライバルである越の宰相范蠡は「楚」の賈(商人)の出身なのです。「劉邦」で描かれた項羽は、言わずと知れた「楚王」の子孫で新への復讐のために立ち上がったのです。皆さんもこうした観点で、宮城谷さんの本を読むと、一味違った楽しみが湧き出てくるのではないでしょうか。

3位 「オリジン」(ダン・ブラウン著 越前敏弥訳 上中下巻 2019年)

  ダン・ブラウン氏の作品は前作「インフェルノ」がとても面白く、また映画化された作品もフィレンツェ、ヴェネチア、イスタンブールとその世界遺産そのものの映像も含めてエンターテイメントとして一流の作品でした。まさか、それを超える面白さの作品が登場しようとは思いませんでした。今回ラングドン教授が活躍する舞台は、あこがれのスペインです。そこには、ダン・ブラウン氏らしく、最新のスペイン近代美術館から世界遺産のガウディまで、スペインの名所が次々に登場します。さらにテーマが「神はいるのか」ですから、その小説がつまらないはずはありません。これまで、イタリア以外を描いた小説は映画化されていませんが、スペインを舞台としたこの小説は映画化されるでしょうか。ぜひ、映画化を期待したいものです。

2位 「007 逆襲のトリガー」(アンソニー・ホロビッツ著 駒月雅子訳 角川文庫 2019年)

  これまで、海外小説がベスト32冊も入ることはありませんでしたが、やっぱり007の魅力には偉大なものがあります。確かに1960年代が舞台の小説を第2位とするのは単なるノスタルジーなのでは、との疑問もごもっともです。しかし、エンターテイイメントとスパイ小説が合体するときに007の力は絶大でした。この小説は舞台から言っても年代から言っても映画化されたときには、ショーン・コネリーしか演ずることができないと思います。それほど、当時の007小説に男のロマンがやどっていたといってもいいと思います。ここに登場する007は、女性から見てもアイドルではないでしょうか。皆さん、だまされたと思って一度この小説を手に取ってください。第2位の理由に納得すると思います。

1位 「蜜蜂と遠雷」(恩田陸著 幻冬舎文庫上下巻 2019年)

  今回のダントツ第1位はこの小説です。その分厚さも第1位なのですが、読み始めてから読み終わるまでの時間は最も短いに違いありません。それほど、恩田さんのプロット、キャラクター、舞台設定が素晴らしく、読み始めれば一気に最後まで読み続けてしまうのです。この小説は、ある年のピアノコンクールの模様を4人のコンテスタントの人生と重ねて描いていくのですが、その4人のコンテスタントの造形が見事です。スポーツものならいざ知らず、普通、芸術系のコンクールは羨望と嫉妬と中傷のるつぼとなることが想像されます。しかし、恩田さんの世界は違います。なぜならば、ここに登場する4人は皆、音楽の神様に祝福されており、世俗と人知を超えてピアノを弾いているからです。そうはいっても、この4人にはヒエラルキーがあります。

  音楽の神から最も祝福されているのは、風間塵。ピアノという楽器の落とし子のような塵は、自らの中にあふれる、風のような音をそのままピアノの音として鳴らしてしまうのです。そのあまりの才能に、聴く側は驚いてしまい、この才能を持て余してしまうのです。しかし、他の3人は音楽の神に近い塵を同じ演奏家として受け入れていきます。塵は第3位となります。

  風間塵の次に神に近いのは、天からいくつもの贈り物をあたえられているようなマサル・カルロス・レヴィ・アナトールです。マサルは、現代のピアニストが演奏に特化してしまったことに疑問を持っており、作曲家としても一流のピアニストをめざす青年です。幼馴染の亜夜との再会と一流の恩師の教えを受けて彼は、人知の及ぶ最高の音を奏でて、みごとコンクールに優勝します。

  そして、マサルと紙一重のところで我々に近いのは、唯一の女性主人公、栄伝亜夜です。彼女は幼い時からピアニストとしての技量に恵まれていましたが、その心の糧であった母親を失って、演奏することの意味を見失ってしまいます。亜夜は、このコンクールで自らの原点を探ろうとしてコンクールに参加します。彼女が、3人のピアニストの狭間で自らを取り戻し、コンクールに挑む姿はこの小説のハイライトのひとつです。順位は、第2位です。

  もう一人の主人公、高島明石は楽器店の従業員でありながらピアニストでもあり、自らの夢をつらぬこうと「生活者のピアノ」を掲げて、コンクールに挑戦しています。このコンクールではオリジナル曲として作曲家、菱沼忠明の作品「春と修羅」を演奏することが二次予選の課題曲となっています。高島は、宮沢賢治の詩を深く解釈して楽譜を自らの音楽として展開します。そして、コンクールでこの曲のために設定された賞、菱沼賞を受賞します。

  この4人の造形は見事です。ところで、実は今ここに書いたコンクールの順位や個人賞は、小説では語られていません。小説の終了後、結果は記事として子掲載されているだけなのです。この小説のすごさは、音楽の神様と我々人間のせめぎ合いを全編で示すことによって、結果に対しての興味を感じさせないところにあります。我々読者は、恩田さんの仕掛けと筆の力によって、4人の人生に引き込まれ、結果は二の次になるのです。小説が終わった後に「ああ、そうだったのか。」とホッとするところが、この小説のすばらしさといってもよいと思います。

  ぜひ、この素晴らしい小説を楽しんでください。


  それでは、これからも「日々雑記」をよろしくお願いいたします。皆さんどうぞお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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鳴神響一 脳科学と心理学の関係とは?

こんばんは。

  本屋巡りをしていると、時々サスペンスものや犯罪小説を読みたくなる時があります。本来は、インテリジェンスものが好きなのですが、著者の力量さえあれば警察物は面白い小説があふれている分野です。先日、本屋さんでサスペンス系を思い描いて本を眺めていると、文庫本の棚に「脳科学捜査官」という文字をみつめました。どうやらシリーズ化されており、4冊目が上梓されたようです。シリーズ化されるということは重版されるということで、売れているということ。

  しかも名前が女性なので、これまで読んだ乃南アサさんの音道貴子や深町秋生さんの八神瑛子をイメージしてしまいます。その題名に思わず魅かれて手に取ってしまいました。

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(角川文庫「脳科学捜査官 真田夏希」amazoncojp)

「脳科学捜査官 真田夏希」

(鳴神響一著 角川文庫 2017年)

【現代版 女性警察官小説】

  警察小説といえば、一時期直木賞の常連でしたが、警察官と犯罪者それぞれの人生が交錯し、生きることの難しさと人の心の不思議さを描き出して、感動とワンダーを醸し出すことが期待されます。かつて、名作とは思い小説でした。しかし、SNSが世の中を席巻し、誰もがチョー短い文章で一発ウケを演出するような世の中では、重厚な小説が若い人たちの心をとらえるのは難しくなっていることは確かです。何といっても、アメリカの大統領をはじめ、世界の指導者たちからして、自ら言いたいことだけを一方的に表明して終わってしまうのですから、世の中あきれてしまう短絡さが蔓延するわけです。

  しかし、いくら昔はよかったと嘆いても、それは単なる愚痴に過ぎず、なぜこれだけたくさんの人間がSNSを便利に使いこなしているかに思いをいたす必要があると思います。

  この小説の主人公、真田夏希は31歳。これまで、心理医療を専門に研究し脳科学の学位も含めてカウンセラーや精神医療を仕事としていました。しかし、ある出来事をきっかけに臨床医療の現場を去り、神奈川県の心理分析官募集に応募し警察官になったという女性です。この著者の筆致はとても軽やかで、小説はサクサクと進んでいきます。

  最初の章は、初登場となる夏希の紹介となりますが、なんと彼女の婚活から物語が始まるのです。確かに31歳という年齢は適齢期には違いないのですが、女性警察官がどんなデートをするのか、興味が尽きない滑り出しとなります。彼女は容姿端麗といってもよい美人と自分で語っていますが、本当にそうなのかはよくわかりません。デートの席、友人の紹介で会うこととなった織田という男と横浜で食事をする場面からはじまります。語り部は、基本的に夏希自身ですので、夏希から見た織田の印象が続いていきます。織田は落ち着いたイケメンで、そのおだやかな語り口や教養あふれる語りも申し分ありません。

  二人は、ホテルの上層階にあるラウンジで改めて酒を飲むことにしますが、織田の隠れ家というバーで美しい夜景を見て、互いの仕事へと話が及ぼうとしたとき、はるか下界で爆発が起きるのです。しばらくすると、そのバーにも警察官が聞き込みに回ってきました。そして、その警察官は同じ神奈川県警。かつて、一緒に研修を受けた警察官だったのです。聞き込みが終わるや二人の警察官のうちひとりが、夏希に敬礼をして去っていきました。夏希の素性は、織田にバレてしまいます。

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(横浜みなとみらいの夜景 travel-notedjp)

  その軽い展開は、まさに現代のエンターテイメント小説そのものです。

  真田夏希の婚活紹介はひとまずおいて、夏希は翌日から心理分析官としてこの爆破事件の捜査本部に派遣されることになるのです。

【脳科学捜査官とは何者】

  さて、警察の心理分析官とはいったい何をするのでしょうか。

  実は、神奈川県警本部において、心理分析官は夏希が初めての採用となります。近年の犯罪はあらゆる意味で複雑化した社会のゆがみが人の心に様々なストレスを与え、その結果、人の心が変容して発生します。犯罪心理学とは心理学の一分野ですが、脳科学から犯罪に切り込むというのは斬新です。人間の脳は、1千億の神経細胞(ニューロン)の間を数兆もの電気信号(シナプス)が行きかうことで体と心の活動を成立させています。

  我々の脳は、大脳と小脳が活動野をなしていますが、どの活動野がどんな活動を担っているのかが様々な研究から明らかになってきています。それと同時に脳内で分泌される各種神経伝達物質の働きも注目されています。

  最近よく話題となるのは、セロトニンやドーパミン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質です。人間の感情がどこから湧いてくるのか、かつては心理学や文学がそれを分析するための手段でしたが、今では、ニューロンとシナプスの活動の中で生じる神経伝達物質が我々の感情と密接なつながりがあることがわかってきています。

  ドーパミンは、脳内の報酬系と呼ばれる神経系統と関わっており、喜びや快楽などを感じさせる神経伝達物質です。そして、ノルアドレナリンは、交感神経と密接に関係しており、人が精神的、肉体的にストレスを感じたときに分泌され、交感神経を刺激して血圧を高くして脈拍は早くなります。セロトニンは、脳内の視床下部や大脳基底核と呼ばれる場所に分布しているそうですが、この物質にはわれわれの精神を安定させる働きがあります。セロトニンは、日常、ドーパミンやニルアドレナリンの分泌を適度に抑制して精神を安定させています。この物質の分泌が乱れると、ドーパミンやノルアドレナリンが不足したり、過剰となることにより、不安症になったり、パニック症、総うつ症などが引き起こされることがあるのです。

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(体内に行交う体内分泌物質 nhk-ondemand.jp)

  一方で、脳には扁桃体と呼ばれるとても古くからある1対の神経群があります。扁桃とはアーモンドのことで、その形がアーモンドに似ているのでこの名前となったそうです。偏桃体は原始的な脳神経で、感情を司ります。つまり、扁桃体によって人は感情をもってものごとを評価します。「好ましいもの」か「不快なものか」の判断を我々は扁桃体で行っているのです。しかし、扁桃体が嫌悪の評価をしたときにすべてがそのまま反射してしまうと生活に大きな支障が生じることになります。我々は、嫌だと思う人とでもいっしょに仕事をしなければならないこともあります。(その方が多いかも。)そのときに扁桃体の評価を抑える役目を果たすのが「前頭前野」です。

  「前頭前野」は、我々の脳の前にある領域で前頭葉の一部分です。人はこの分野で理性的な思考や感情のコントロール、判断、記憶などを行っています。扁桃体の発する評価(感情)をコントロールしているのがこの領域なのです。感情の抑制は、自動的に行われる場合と意図的に行われる場合があります。我々が嫌な人を見かけても、その人をすぐに殴らないのは自動的抑制のおかげなのかもしれません。

  今回登場する心理分析官である真田夏希は、こうした脳科学や心理学で犯罪者と闘っていくのです。小説では、大脳のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)と呼ばれる大脳の状態が描写されています。それは、脳が静かにアイドリングしている状態を言います。つまり、脳に何の情報も入ってこない状態で、覚醒しているにもかかわらず働いていない状態を言います。天才たちのひらめきはこの状態で生まれると言われています。犯罪現場で、夏希は自らこの状態を創って、ひらめきに備えるのです。

  また夏希は、毎日、その日のストレスをその日のうちに解消し、いつでも脳が疲れのない状態で稼働できるように生活を規律しています。その意味で、彼女は脳科学捜査官として、自らの思考を意図的にコントロール(抑制)しているのです。その脳科学と心理学のスキルは、犯罪者のプロファイリングを行うときに、プロとしての力を発揮することになるのです。

【正体不明の爆破予告】

  この小説は、とても軽いタッチで描かれており、サクサクと読み進められるのですが、キャラクターとプロットはよく練られています。

  横浜の新高島駅近くにある神奈川県警高島署。その5階に「西区商業地域爆破事件捜査本部」が設けられ、夏希は、婚活デートの翌日にこの捜査本部に特別捜査官として派遣されることとなります。その使命は犯人のプロファイリングなのですが、爆破の翌日の捜査本部では、まだ何の材料も集まっているわけではありません。

  犯人は、今回の爆破について神奈川県警のホームページにメールで爆破の予告を行っていました。「2100、みなとみらい地区で爆発を起こす。マシュマロボーイ」、SNSでなされた予告に基づき、県警は爆発物の捜索を開始しますが、爆発までの時間はわずか15分。さらにみなとみらい地区はあまりに捜査範囲が広く、突き止められないまま爆破が実行されたのです。

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(映画「ゴ-ストバスターズ」マシュマロマン)

  県警の警備部には、デジタル環境に対応するカウンター部門が設置されています。そこから派遣されている小早川警部補は、犯人のメールの送られてきたアドレスのIPプロトコルがスペインのバスク解放同盟のものであることを突き止めました。しかし、それは犯人の証拠隠滅と捜査かく乱のためのわなだったのです。

  捜査本部では、周辺地域の聞き込みと爆発物製造の経路、そして、メールの足跡を追うことで捜査を開始します。いつたいマシュマロボーイとは何者なのか。幸い爆発は、再開発地域の空き地で起きたので人身被害はありませんでしたが、この予告はこれから始まる犯人の本格的な爆破事件の幕開けにしか過ぎなかったのです。

  この小説には、魅力あるキャラクターが数多く登場します。

  夏希は心理分析官として初動の現場捜査に同行します。ところが、指定された車で待っていたのは、不愛想でぶっきらぼうな小川と後部座席に座っている警察犬だったのです。夏希は幼児時代に犬にかまれた体験から、犬が大の苦手です。後部座席を指定された夏希は高層ビルから飛び降りるような気持ちで後部座席に乗り込みます。

  警察犬の名前は、アリシア。鑑識課の小川はこのアリシアを使って現場で爆発物に連なる証拠を捜索していきます。このアリシアが警察犬として採用されたのには、一つの物語がありました。その物語は涙を誘いますが、それはこの本で味わってください。

  この小説は、筆致こそ軽快で気持ちよく読み進めますが、その登場人物の設定とプロットにはただならぬものがあります。捜査本部をあざ笑うようにマシュマロボーイが第二の予告を送り付けてきます。「今日の21時に横浜市内でふたたび爆発を起こす。」。あまりにも広い地域での予告に警察はただただ右往左往するばかりです。

  犯人の自己顕示欲に直接接触を試みるため、夏希は「かもめ★百合」というハンドルネームのメールで犯人に呼びかけを行います。そのメールに不敵にも回答してきたマシュマロボーイ。夏希対マシュマロボーイの闘いの火ぶたが切って落とされます。そして、心理分析官の夏希は、「マシュマロボーイ」に秘められた意味に行きあたります。それは、「ゴーストバスターズ」のマシュマロマン・・・、とは関係なく、ある心理実験につながっていたのです。そして、マシュマロボーイは夏希に横浜を舞台とした爆破予告ゲームを仕掛けてくるのです。


  この小説は、魅力的なキャラクターと脳科学、というよりも心理学という捜査手法が秀逸で気が付くと小説世界に引き込まれています。犯人のキャラクターの掘り下げがもうひとつだったり、登場人物の名字がすべて戦国武将だったりと、ものたりなさやお遊びもありますが、夏希と犯人との対決には手に汗を握ります。すでに小説はシリーズ化されていますが、次の作品を読むのが楽しみです。

  ライトノベルが気にならない方、ぜひ夏希の婚活にもご注目ください。なかなか楽しめます。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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鳴神響一 脳科学と心理学の関係とは?

こんばんは。

  本屋巡りをしていると、時々サスペンスものや犯罪小説を読みたくなる時があります。本来は、インテリジェンスものが好きなのですが、著者の力量さえあれば警察物は面白い小説があふれている分野です。先日、本屋さんでサスペンス系を思い描いて本を眺めていると、文庫本の棚に「脳科学捜査官」という文字をみつめました。どうやらシリーズ化されており、4冊目が上梓されたようです。シリーズ化されるということは重版されるということで、売れているということ。

  しかも名前が女性なので、これまで読んだ乃南アサさんの音道貴子や深町秋生さんの八神瑛子をイメージしてしまいます。その題名に思わず魅かれて手に取ってしまいました。

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(角川文庫「脳科学捜査官 真田夏希」amazoncojp)

「脳科学捜査官 真田夏希」

(鳴神響一著 角川文庫 2017年)

【現代版 女性警察官小説】

  警察小説といえば、一時期直木賞の常連でしたが、警察官と犯罪者それぞれの人生が交錯し、生きることの難しさと人の心の不思議さを描き出して、感動とワンダーを醸し出すことが期待されます。かつて、名作とは思い小説でした。しかし、SNSが世の中を席巻し、誰もがチョー短い文章で一発ウケを演出するような世の中では、重厚な小説が若い人たちの心をとらえるのは難しくなっていることは確かです。何といっても、アメリカの大統領をはじめ、世界の指導者たちからして、自ら言いたいことだけを一方的に表明して終わってしまうのですから、世の中あきれてしまう短絡さが蔓延するわけです。

  しかし、いくら昔はよかったと嘆いても、それは単なる愚痴に過ぎず、なぜこれだけたくさんの人間がSNSを便利に使いこなしているかに思いをいたす必要があると思います。

  この小説の主人公、真田夏希は31歳。これまで、心理医療を専門に研究し脳科学の学位も含めてカウンセラーや精神医療を仕事としていました。しかし、ある出来事をきっかけに臨床医療の現場を去り、神奈川県の心理分析官募集に応募し警察官になったという女性です。この著者の筆致はとても軽やかで、小説はサクサクと進んでいきます。

  最初の章は、初登場となる夏希の紹介となりますが、なんと彼女の婚活から物語が始まるのです。確かに31歳という年齢は適齢期には違いないのですが、女性警察官がどんなデートをするのか、興味が尽きない滑り出しとなります。彼女は容姿端麗といってもよい美人と自分で語っていますが、本当にそうなのかはよくわかりません。デートの席、友人の紹介で会うこととなった織田という男と横浜で食事をする場面からはじまります。語り部は、基本的に夏希自身ですので、夏希から見た織田の印象が続いていきます。織田は落ち着いたイケメンで、そのおだやかな語り口や教養あふれる語りも申し分ありません。

  二人は、ホテルの上層階にあるラウンジで改めて酒を飲むことにしますが、織田の隠れ家というバーで美しい夜景を見て、互いの仕事へと話が及ぼうとしたとき、はるか下界で爆発が起きるのです。しばらくすると、そのバーにも警察官が聞き込みに回ってきました。そして、その警察官は同じ神奈川県警。かつて、一緒に研修を受けた警察官だったのです。聞き込みが終わるや二人の警察官のうちひとりが、夏希に敬礼をして去っていきました。夏希の素性は、織田にバレてしまいます。

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(横浜みなとみらいの夜景 travel-notedjp)

  その軽い展開は、まさに現代のエンターテイメント小説そのものです。

  真田夏希の婚活紹介はひとまずおいて、夏希は翌日から心理分析官としてこの爆破事件の捜査本部に派遣されることになるのです。

【脳科学捜査官とは何者】

  さて、警察の心理分析官とはいったい何をするのでしょうか。

  実は、神奈川県警本部において、心理分析官は夏希が初めての採用となります。近年の犯罪はあらゆる意味で複雑化した社会のゆがみが人の心に様々なストレスを与え、その結果、人の心が変容して発生します。犯罪心理学とは心理学の一分野ですが、脳科学から犯罪に切り込むというのは斬新です。人間の脳は、1千億の神経細胞(ニューロン)の間を数兆もの電気信号(シナプス)が行きかうことで体と心の活動を成立させています。

  我々の脳は、大脳と小脳が活動野をなしていますが、どの活動野がどんな活動を担っているのかが様々な研究から明らかになってきています。それと同時に脳内で分泌される各種神経伝達物質の働きも注目されています。

  最近よく話題となるのは、セロトニンやドーパミン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質です。人間の感情がどこから湧いてくるのか、かつては心理学や文学がそれを分析するための手段でしたが、今では、ニューロンとシナプスの活動の中で生じる神経伝達物質が我々の感情と密接なつながりがあることがわかってきています。

  ドーパミンは、脳内の報酬系と呼ばれる神経系統と関わっており、喜びや快楽などを感じさせる神経伝達物質です。そして、ノルアドレナリンは、交感神経と密接に関係しており、人が精神的、肉体的にストレスを感じたときに分泌され、交感神経を刺激して血圧を高くして脈拍は早くなります。セロトニンは、脳内の視床下部や大脳基底核と呼ばれる場所に分布しているそうですが、この物質にはわれわれの精神を安定させる働きがあります。セロトニンは、日常、ドーパミンやニルアドレナリンの分泌を適度に抑制して制震を安定させています。この物質の分泌が乱れると、ドーパミンやノルアドレナリンが不足したり、過剰となることにより、不安症になったり、パニック症、総うつ症などが引き起こされることがあるのです。

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(体内に行交う体内分泌物質 nhk-ondemand.jp)

  一方で、脳には扁桃体と呼ばれるとても古くからある1対の神経群があります。扁桃とはアーモンドのことで、その形がアーモンドに似ているのでこの名前となったそうです。偏桃体は原始的な脳神経で、感情を司ります。つまり、扁桃体によって人は感情をもってものごとを評価します。「好ましいもの」か「不快なものか」の判断を我々は扁桃体で行っているのです。しかし、扁桃体が嫌悪の評価をしたときにすべてがそのまま反射してしまうと生活に大きな支障が生じることになります。我々は、嫌だと思う人とでもいっしょに仕事をしなければならないこともあります。(その方が多いかも。)そのときに扁桃体の評価を抑える役目を果たすのが「前頭前野」です。

  「前頭前野」は、我々の脳の前にある領域で前頭葉の一部分です。人はこの分野で理性的な思考や感情のコントロール、判断、記憶などを行っています。扁桃体の発する評価(感情)をコントロールしているのがこの領域なのです。感情の抑制は、自動的に行われる場合と意図的に行われる場合があります。我々が嫌な人を見かけても、その人をすぐに殴らないのは自動的抑制のおかげなのかもしれません。

  今回登場する心理分析官である真田夏希は、こうした脳科学や心理学で犯罪者と闘っていくのです。小説では、大脳のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)と呼ばれる大脳の状態が描写されています。それは、脳が静かにアイドリングしている状態を言います。つまり、脳に何の情報も入ってこない状態で、覚醒しているにもかかわらず働いていない状態を言います。天才たちのひらめきはこの状態で生まれると言われています。犯罪現場で、夏希は自らこの状態を創って、ひらめきに備えるのです。

  また夏希は、毎日、その日のストレスをその日のうちに解消し、いつでも脳が疲れのない状態で稼働できるように生活を規律しています。その意味で、彼女は脳科学捜査官として、自らの思考を意図的にコントロール(抑制)しているのです。その脳科学と心理学のスキルは、犯罪者のプロファイリングを行うときに、プロとしての力を発揮することになるのです。

【正体不明の爆破予告】

  この小説は、とても軽いタッチで描かれており、サクサクと読み進められるのですが、キャラクターとプロットはよく練られています。

  横浜の新高島駅近くにある神奈川県警高島署。その5階に「西区商業地域爆破事件捜査本部」が設けられ、夏希は、婚活デートの翌日にこの捜査本部に特別捜査官として派遣されることとなります。その使命は犯人のプロファイリングなのですが、爆破の翌日の捜査本部では、まだ何の材料も集まっているわけではありません。

  犯人は、今回の爆破について神奈川県警のホームページにメールで爆破の予告を行っていました。「2100、みなとみらい地区で爆発を起こす。マシュマロボーイ」、SNSでなされた予告に基づき、県警は爆発物の捜索を開始しますが、爆発までの時間はわずか15分。さらにみなとみらい地区はあまりに捜査範囲が広く、突き止められないまま爆破が実行されたのです。

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(映画「ゴ-ストバスターズ」マシュマロマン)

  県警の警備部には、デジタル環境に対応するカウンター部門が設置されています。そこから派遣されている小早川警部補は、犯人のメールの送られてきたアドレスのIPプロトコルがスペインのバスク解放同盟のものであることを突き止めました。しかし、それは犯人の証拠隠滅と捜査かく乱のためのわなだったのです。

  捜査本部では、周辺地域の聞き込みと爆発物製造の経路、そして、メールの足跡を追うことで捜査を開始します。いつたいマシュマロボーイとは何者なのか。幸い爆発は、再開発地域の空き地で起きたので人身被害はありませんでしたが、この予告はこれから始まる犯人の本格的な爆破事件の幕開けにしか過ぎなかったのです。

  この小説には、魅力あるキャラクターが数多く登場します。

  夏希は心理分析官として初動の現場捜査に同行します。ところが、指定された車で待っていたのは、不愛想でぶっきらぼうな小川と後部座席に座っている警察犬だったのです。夏希は幼児時代に犬にかまれた体験から、犬が大の苦手です。後部座席を指定された夏希は高層ビルから飛び降りるような気持ちで後部座席に乗り込みます。

  警察犬の名前は、アリシア。鑑識課の小川はこのアリシアを使って現場で爆発物に連なる証拠を捜索していきます。このアリシアが警察犬として採用されたのには、一つの物語がありました。その物語は涙を誘いますが、それはこの本で味わってください。

  この小説は、筆致こそ軽快で気持ちよく読み進めますが、その登場人物の設定とプロットにはただならぬものがあります。捜査本部をあざ笑うようにマシュマロボーイが第二の予告を送り付けてきます。「今日の21時に横浜市内でふたたび爆発を起こす。」。あまりにも広い地域での予告に警察はただただ右往左往するばかりです。

  犯人の自己顕示欲に直接接触を試みるため、夏希は「かもめ★百合」というハンドルネームのメールで犯人に呼びかけを行います。そのメールに不敵にも回答してきたマシュマロボーイ。夏希対マシュマロボーイの闘いの火ぶたが切って落とされます。そして、心理分析官の夏希は、「マシュマロボーイ」に秘められた意味に行きあたります。それは、「ゴーストバスターズ」のマシュマロマン・・・、とは関係なく、ある心理実験につながっていたのです。そして、マシュマロボーイは夏希に横浜を舞台とした爆破予告ゲームを仕掛けてくるのです。


  この小説は、魅力的なキャラクターと脳科学、というよりも心理学という捜査手法が秀逸で気が付くと小説世界に引き込まれています。犯人のキャラクターの掘り下げがもうひとつだったり、登場人物の名字がすべて戦国武将だったりと、ものたりなさやお遊びもありますが、夏希と犯人との対決には手に汗を握ります。すでに小説はシリーズ化されていますが、次の作品を読むのが楽しみです。

  ライトノベルが気にならない方、ぜひ夏希の婚活にもご注目ください。なかなか楽しめます。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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ドナルド・キーン自伝 氏を偲ぶ

こんばんは。

  アメリカ出身の日本文学者ドナルド・キーン氏が97歳の生涯を閉じてから、来月で1年になろうとしています。

  氏は、中央公論社、朝日新聞などで日本語での執筆者として、数々の評論を執筆することはもちろん、日本の文化をこよなく愛し、コロンビア大学、ケンブリッジ大学などで教鞭をとり、日本文学を広く世界に紹介してくれました。氏が初めて日本の地を踏んだのは1953年、31歳のときでした。そこから60年以上も氏はアメリカと日本を往復して、日本人以上に日本文化を深く研究し続けました。

  2011年の東日本大震災の時には、日本人とともに日本を襲った未曾有の災害に心を痛め、亡くなった方、被災した方々に寄り添ってくれました。氏は、これを機会に日本国籍を取得することを表明。9月にはついに日本への永住のための来日を果たしました。2012年には晴れて日本国籍を取得。最後には、愛する日本の地で生涯を終えたのです。

  1周忌を目前にして、キーンさんがどのように日本を愛したのかを知りたくて本屋さんでキーンさんの本を探しました。本当は、氏の作品を読むべきと考えていたのですが、あの笑顔を思い浮かべると、まず読んでみたいのは自伝だと気づいたのです。文庫でも何冊か自からを語る本がありましたが、補追として最近年に記した2つの文章が収められている中公新書の新版を手に入れました。それは、素晴らしい自伝でした。

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(「ドナルド・キーン自伝」amazon.co.jp)

「ドナルド・キーン自伝-増補新版」(ドナルド・キーン著 角地幸男訳 中公文庫 20193月)

【八月十五日に吹く風】

  ドナルド・キーンさんは、外国人として日本文学の研究を本格的に行った草分け的な人物でした。ことに川端康成や三島由紀夫とは人として友情をはぐくみ、親友と呼ばれる仲でした。ひと月の半分は日本で過ごし、日本人よりも日本的な日本語を話し、評論やエッセイも日本語で記す、日本通でした。日本でも読売文学賞をはじめ多くの賞を受賞し、2008年には外国人の日本研究者としてはじめて文化勲章を受勲しました。

  1982年からは10年間、朝日新聞社で客員編集委員も務め、朝日新聞には多くの論考を掲載していました。もちろん、当時はオンタイムでその文章を読んでいてその謦咳に接していたのですが、キーン氏の印象を強く意識したのは、一編の小説からでした。

  その小説は、松岡圭祐氏が上梓した「八月十五日に吹く風」です。

  この小説は、太平洋戦争で日本が劣勢に立った19435月を舞台としています。その年、日本軍の精神的支柱と言われていた山本五十六連合軍司令長官が戦死し、勢いに乗ったアメリカ軍は、アリューシャン列島で唯一日本軍に占領されていたアッツ島とキスカ島の奪回作戦を敢行したのです。この2島では日本軍の兵士7800人余りが日本の最前線基地を守備していました。

  アメリカ軍の襲来を知った軍部は、キスカ島が先に上陸されるとの目算から多くの兵士をキスカ島へと移動させました。しかし、その移動を知ったアメリカ軍は侵攻先を手薄になったアッツ島へと変更したのです。2600人余りでアッツ島を守備していた日本軍は、物量で圧倒的なアメリカ軍に対し、一歩も引くことなく最後の隊までも「バンザイ」突撃を敢行し、文字どおり全滅しました。

  物語は、アッツ島で日本軍が玉砕した戦闘後、キスカ島を守る5200人の日本軍を見殺しにするのか、撤退に導くのか、究極の作戦遂行を描くのです。その小説で、カギを握るがドナルド・キーン氏だったのです。この小説が上梓された当時、キーン氏はまだご存命でしたので、小説上の名前はロナルド・リーンとなっていましたが、その人物は間違いなくキーン氏でした。

  この小説は、現代とキスカ島戦闘当時の二つの時制で語られますが、キーン氏はその両方をつなぐ日米の絆として重要な役割を担っていました。過去の時制では、劇的なキスカ島救援作戦が遂行されるのですが、キスカ島での戦闘は日本軍とアメリカ軍の両面から語られることになります。  

  このとき、キーン氏は日本語翻訳将校としてアメリカ軍とともにキスカ島にいたのです。その経緯は、この自伝に語られています。

  当時、アメリカでは日本語を学ぶ学生はごく少数で、通訳は急造の状態だったようですが、「源氏物語」に魅せられたキーン青年は日本への想いを胸に通訳を志望したのです。キスカ島の奇跡については、ぜひ「八月十五日に吹く風」で味わって欲しいのですが、小説を読むと松岡氏が小説執筆にあたってこの自伝を参考とし、ロナルド・リーンを造形したことがよくわかります。

  この小説のラストシーンで、キスカ島作戦の従軍記者であった菊池雄介が流浪の末に朝日新聞社の記者となったとき、アメリカ軍の従軍記者であったリーン氏が朝日新聞社の客員編集委員となり、歴史の偶然によって再会する場面は、この小説のクライマックスとして感動的でした。

【日本を愛し、日本に愛されたキーン氏】

  キーン氏は、自伝の中で人生の分岐点について触れており、自らの意思で歩んできたことを語っていますが、随所に触れられているのは人との繋がりと知り合うことができたすべての人への限りない感謝の念です。日本では、文部大臣も務めた永井道雄氏、中央公論社の社長、嶋中鵬二氏、小説家、三島由紀夫、川端康成、安部公房などなど、時代を作ってきた人々との深い交流が描かれています。

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(日本文学者たちを描く amazon.co.jp)

  キーン氏は、31歳ではじめて日本に留学するまでは、アメリカのコロンビア大学、ハーヴァード大学、イギリスのケンブリッジ大学で日本研究を行い、その後は、月の半分をコロンビア大学で日本文学研究の教授として学生たちへの教鞭をとっていました。

  自伝では、数々の賞を受賞した日本文化の著作についても語られていますが、学生に日本文学を教える教師としての仕事にも触れています。日本学について各大学で学ぶ中、キーン氏の観察眼の鋭さに感銘を受けます。コロンビア大学では、角田隆作教授の話が印象的です。当時、コロンビア大学で日本文学を専攻する学生は数少なく、キーン氏が専攻したときには、学生が氏一人であったといいます。

  教授は、自らの研究を学生に教える際には事前の準備を怠らなかったそうですが、キーン氏は教授の研究分野にかかわらず日本文学に関する数々の質問を投げかけました。角田教授は、キーン氏の質問に対してできる限りの知見を尽くして答えてくれたのです。あまつさえ、キーン氏が希望する浄瑠璃について、専門外にもかかわらず深く準備し、講義を行ってくれたといいます。キーン氏の教授としての生き方は、角田氏という氏がいてこそ成立したのだ、と感動します。

  また、ハーヴァード大学では、日本文学の講義をセルゲイ・エリセーエフ教授が行っていました。この教授は日本研究の第一人者として名声があったそうですが、その講義に対する姿勢についてキーン氏は完全に失望したと語ります。その失望は強烈で、徹底的なのですが、最後には教授に出会って幸運だったと収めます。その心は、これから学生に教えるときにエリセーエフ教授のやり方と反対のことをすればよいと気づかせてくれたからだ、そうです。

  キーン氏のユーモアとアイロニーに思わずにやりとさせられます。

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(自ら日本語名を発表 asahi.com)

  自伝は、4つの章に分かれています

第一章は、ブルックリンで生まれてから大学生になるまで

第二章は、コロンビア大学での学究と兵役、日本留学まで

第三章は、著作者として、また三島、川端、安部との交流

第四章は、1980年代から手掛けた数々の仕事の話

  さらに増補新版には、「日本国籍取得決断の記」、「六十年の月日との終生の友人たち」が補追されています。

  この本はどこを読んでもキーン氏の人柄がにじみ出て感動的です。

【作家たちとの友情の記】

  昨年は、旭化成名誉フェローの吉野彰さんがノーベル化学賞を受賞し、その快挙に日本中が沸き立ちました。日本人のノーベル賞受賞者は吉野さんが28人目となります。その中で、ノーベル文学賞の受賞者は3名。直近では、2017年に英国籍ではあるものの日本で生まれたカズオ・イシグロさんが受賞し、本屋さんはその著書であふれました。それ以前の受賞者といえば、1994年に受賞した大江健三郎さん、そして、ノーベル文学賞を日本人として初めて受賞した川端康成さんは1968年に受賞しています。(以下、敬称略)

  1953年31歳で日本に留学し京都に下宿したキーン氏は、そこで永井道雄と知り合い強い友情をはぐくむことになります。永井はキーン氏に中央公論社の嶋中鵬二を紹介し、嶋中は碧い目の日本文学研究者に日本の現代作家たちを紹介します。その中で、川端康成と三島由紀夫はドナルド・キーンにとって無二の友人となったのでした。

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(ドナルド・キーンと三島由紀夫 note.com)

  三島由紀夫と川端康成の関係は、戦後間もないころに始まります。1946年、三島は当時21歳でまだ大学生でした。川端は26歳年上ですでに文壇で名を成していましたが、三島が自作「中世」を川端に見せ、以前から三島の作品を知っていた川端がその才を認めて、三島を文壇に紹介しました。三島由紀夫は生涯、川端を、自らを世に出してくれた恩人として敬っていたのです。

  三島由紀夫は、その後「仮面の告白」、「潮騒」、「金閣寺」と次々に名作を上梓し、日本国内のみではなく世界に紹介されるようになります。1957年、「潮騒」、「近代能楽集」が英訳された機に三島はニューヨークに招待されました。三島は、現地の演劇プロデューサーから能の上演をオファーされました。この上演のために三島は半年間滞在するのですが、自伝にはこのときの三島の姿がリアルに描かれています。

  それから10年。数々の作品が世界に紹介された三島は、ノーベル文学賞の候補としてその名前が挙がるまでになっていました。自伝の著者もこのときのノーベル賞の最右翼は三島であると思っており、さらに、選考委員からも直接三島が有力であることを聞かされていたといいます。しかし、実際にノーベル文学賞に選ばれたのは、川端康成でした。1968年、川端康成はノーベル賞を受賞。その2年後の1970年、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地を占拠し、演説を行った後に壮絶な自決を決行します。三島はまだ45歳でした。そして、さらにその2年後、1972年、川端康成は逗子マリーナの部屋で自ら命を絶ちました。享年72歳。

  このことを知ったうえでこの自伝を読むと、ドナルド・キーンが語る二人の文学者との交流に胸が熱くなります。

【日本人よりも日本らしく】

  キーン氏は、司馬遼太郎氏がはなった「朝日は駄目だ!」「今、朝日を良い新聞にする唯一の方法はドナルド・キーンを雇うことだ。」との言葉がきっかけで朝日新聞の客員編集委員になったそうです。そこから、キーン氏は「日本」に迫る著書を次々に上梓していきます。その著作の裏舞台はぜひこの本で読んでほしいのですが、この自伝で感じるのは、彼が日本人よりもはるかに日本に愛情を持っていることです。

  そのことは、この本に頻繁に登場する日本に住む自らに対するウィットに富んだ表現によく表れています。

  例えば、31歳で来日した頃、京都のバーで年齢を聞かれると、ときに「18歳」、ときに「55歳」と言っても誰も異を唱えなかったと言います。いったい何のことかと思えば、次のセンテンスで、先日街を歩いているとある婦人が自分に地下鉄の駅への行き方を訪ねてきたことを語ります。そして曰く、「それはまさに喜びの瞬間だった。」「その婦人は私の外見にお構いなしに、私が駅の場所を知っていると判断したのだ。」60年かかって日本人が外国人を受け入れるようになった、との喜びは、キーンさんならではです。

  その日本に対する愛情が我々にドナルド・キーンという贈り物を届けてくれたに違いありません。

  淡々とした自伝の語り口にかかわらず、その人生には熱い想いが常にみなぎっていました。この自伝は日本人にこそ読んでほしい一冊です。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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ドナルド・キーン自伝 氏を偲ぶ

こんばんは。

  アメリカ出身の日本文学者ドナルド・キーン氏が97歳の生涯を閉じてから、来月で1年になろうとしています。

  氏は、中央公論社、朝日新聞などで日本語での執筆者として、数々の評論を執筆することはもちろん、日本の文化をこよなく愛し、コロンビア大学、ケンブリッジ大学などで教鞭をとり、日本文学を広く世界に紹介してくれました。氏が初めて日本の地を踏んだのは1953年、31歳のときでした。そこから60年以上も氏はアメリカと日本を往復して、日本人以上に日本文化を深く研究し続けました。

  2011年の東日本大震災の時には、日本人とともに日本を襲った未曾有の災害に心を痛め、亡くなった方、被災した方々に寄り添ってくれました。氏は、これを機会に日本国籍を取得することを表明。9月にはついに日本への永住のための来日を果たしました。2012年には晴れて日本国籍を取得。最後には、愛する日本の地で生涯を終えたのです。

  1周忌を目前にして、キーンさんがどのように日本を愛したのかを知りたくて本屋さんでキーンさんの本を探しました。本当は、氏の作品を読むべきと考えていたのですが、あの笑顔を思い浮かべると、まず読んでみたいのは自伝だと気づいたのです。文庫でも何冊か自からを語る本がありましたが、補追として最近年に記した2つの文章が収められている中公新書の新版を手に入れました。それは、素晴らしい自伝でした。

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(「ドナルド・キーン自伝」amazon.co.jp)

「ドナルド・キーン自伝-増補新版」(ドナルド・キーン著 角地幸男訳 中公文庫 20193月)

【八月十五日に吹く風】

  ドナルド・キーンさんは、外国人として日本文学の研究を本格的に行った草分け的な人物でした。ことに川端康成や三島由紀夫とは人として友情をはぐくみ、親友と呼ばれる仲でした。ひと月の半分は日本で過ごし、日本人よりも日本的な日本語を話し、評論やエッセイも日本語で記す、日本通でした。日本でも読売文学賞をはじめ多くの賞を受賞し、2008年には外国人の日本研究者としてはじめて文化勲章を受勲しました。

  1982年からは10年間、朝日新聞社で客員編集委員も務め、朝日新聞には多くの論考を掲載していました。もちろん、当時はオンタイムでその文章を読んでいてその謦咳に接していたのですが、キーン氏の印象を強く意識したのは、一編の小説からでした。

  その小説は、松岡圭祐氏が上梓した「八月十五日に吹く風」でした。

  この小説は、太平洋戦争で日本が劣勢に立った19435月を舞台としています。その年、日本軍の精神的支柱と言われていた山本五十六連合軍司令長官が戦死し、勢いに乗ったアメリカ軍は、アリューシャン列島で唯一日本軍に占領されていたアッツ島とキスカ島の奪回作戦を敢行したのです。この2島には日本軍の兵士7800人余りが日本の最前線基地を守備していました。

  アメリカ軍の襲来を知った軍部は、キスカ島が先に上陸されるとの目算から多くの兵士をキスカ島へと移動させました。しかし、その移動を知ったアメリカ軍は侵攻先を手薄になったアッツ島へと変更したのです。2600人余りでアッツ島を守備していた日本軍は、物量で圧倒的なアメリカ軍に対し、一歩も引くことなく最後の隊までも「バンザイ」突撃を敢行し、文字どおり全滅しました。

  物語は、アッツ島で日本軍が玉砕した戦闘後、キスカ島を守る5200人の日本軍を見殺しにするのか、撤退に導くのか、究極の作戦遂行を描くのです。その小説で、カギを握るがドナルド・キーン氏だったのです。この小説が上梓された当時、キーン氏はまだご存命でしたので、小説上の名前はロナルド・リーンとなっていましたが、その人物は間違いなくキーン氏でした。

  この小説は、現代とキスカ島戦闘当時の二つの時制で語られますが、キーン氏はその両方をつなぐ日米の絆として重要な役割を担っていました。過去の時制では、劇的なキスカ島救援作戦が遂行されるのですが、キスカ島での戦闘は日本軍とアメリカ軍の両面から語られることになります。  

  このとき、キーン氏は日本語翻訳将校としてアメリカ軍とともにキスカ島にいたのです。その経緯は、この自伝に語られています。

  当時、アメリカでは日本語を学ぶ学生はごく少数で、通訳は急増の状態だったようですが、「源氏物語」に魅せられたキーン青年は日本への想いを胸に通訳を志望したのです。キスカ島の奇跡については、ぜひ「八月十五日に吹く風」で味わって欲しいのですが、小説を読むと松岡氏が小説執筆にあたってこの自伝を参考とし、ロナルド・リーンを造形したことがよくわかります。

  この小説のラストシーンで、キスカ島作戦の従軍記者であった菊池雄介が流浪の末に朝日新聞社の記者となったとき、アメリカ軍の従軍記者であったリーン氏が朝日新聞社の客員編集委員となり、歴史の偶然によって再開する場面は、この小説のクライマックスとして感動的でした。

【日本を愛し、日本に愛されたキーン氏】

  キーン氏は、自伝の中で人生の分岐点について触れており、自らの意思で歩んできたことを語っていますが、随所に触れられているのは人との繋がりと知り合うことができたすべての人への限りない感謝の念です。日本では、文部大臣も務めた永井道雄氏、中央公論社の社長、嶋中鵬二氏、小説家、三島由紀夫、川端康成、安部公房などなど、時代を作ってきた人々との深い交流が描かれています。

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(日本文学者たちを描く amazon.co.jp)

  キーン氏は、31歳ではじめて日本に留学するまでは、アメリカのコロンビア大学、ハーヴァード大学、イギリスのケンブリッジ大学で日本研究を行い、その後は、月の半分をコロンビア大学で日本文学研究の教授として学生たちへの教鞭をとっていました。

  自伝では、数々の賞を受賞した日本文化の著作についても語られていますが、学生に日本文学を教える教師としての仕事にも触れています。日本学について各大学で学ぶ中、キーン氏の観察眼の鋭さが鋭いことに感銘を受けます。コロンビア大学では、角田隆作教授の話が印象的です。当時、コロンビア大学で日本文学を専攻する学生は数少なく、キーン氏が先行したときには、学生が氏一人であったといいます。

  教授は、自らの研究を学生に教える際には事前の準備を怠らなかったそうですが、キーン氏は教授の研究分野にかかわらず日本文学に関する数々の質問を投げかけました。角田教授は、キーン氏の質問に対してできる限りの知見を尽くして答えてくれたのです。あまつさえ、キーン氏が希望する浄瑠璃について、専門外にもかかわらず深く準備し、講義を行ってくれたといいます。キーン氏の教授としての生き方は、角田氏という氏がいてこそ成立したのだ、と感動します。

  また、ハーヴァード大学では、日本文学の講義をセルゲイ・エリセーエフ教授が行っていました。この教授は日本研究の第一人者として名声があったそうですが、その講義に対する姿勢についてキーン氏は完全に失望したと語ります。その失望は強烈で、徹底的なのですが、最後には教授に出会って幸運だったと収めます。その心は、これから学生に教えるときにエリセーエフ教授のやり方と反対のことをすればよいと気づかせてくれたからだ、そうです。

  キーン氏のユーモアとアイロニーに思わずにやりとさせられます。

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(自ら日本語名を発表 asahi.com)

  自伝は、4つの章に分かれています

第一章は、ブルックリンで生まれてから大学生になるまで

第二章は、コロンビア大学での学究と兵役、日本留学まで

第三章は、著作者として、また三島、川端、安部との交流

第四章は、1980年代から手掛けた数々の仕事の話

  さらに増補新版には、「日本国籍取得決断の記」、「六十年の月日との終生の友人たち」が補追されています。

  この本はどこを読んでもキーン氏の人柄がにじみ出て感動的です。

【作家たちとの友情の記】

  昨年は、旭化成名誉フェローの吉野彰さんがノーベル化学賞を受賞し、その快挙に日本中が沸き立ちました。日本人のノーベル賞受賞者は吉野さんが28人目となります。その中で、ノーベル文学賞の受賞者は3名。直近では、2017年に英国籍ではあるものの日本で生まれたカズオ・イシグロさんが受賞し、本屋さんはその著書であふれました。それ以前の受賞者といえば、1994年に受賞した大江健三郎さん、そして、ノーベル文学賞を日本人として初めて受賞した川端康成さんは1968年に受賞しています。(以下、敬称略)

  1953年31歳で日本に留学し京都に下宿したキーン氏は、そこで永井道雄と知り合い強い友情をはぐくむことになります。永井はキーン氏に中央公論社の嶋中鵬二を紹介し、嶋中は碧い目の日本文学研究者に日本の現代作家たちを紹介します。その中で、川端康成と三島由紀夫はドナルド・キーンにとって無二の友人となったのでした。

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(ドナルド・キーンと三島由紀夫 note.com)

  三島由紀夫と川端康成の関係は、戦後間もないころに始まります。1946年、当時21歳でまだ大学生でした。川端は26歳年上ですでに文壇で名を成していましたが、三島が作品「中世」を川端に見せ、以前から三島の作品を知っていた川端がその才を認めて、三島を文壇に紹介しました。三島由紀夫は生涯、川端を、自らを世に出してくれた恩人として敬っていたのです。

  三島由紀夫は、その後「仮面の告白」、「潮騒」、「金閣寺」と次々に名作を上梓し、日本国内のみではなく世界に紹介されるようになります。1957年、「潮騒」、「近代能楽集」が英訳された機に三島はニューヨークに招待されました。三島は、現地の演劇プロデューサーから能の上演をオファーされました。この上演のために三島は半年間滞在するのですが、自伝にはこのときの三島の姿がリアルに描かれています。

  それから10年。数々の作品が世界に紹介された三島は、ノーベル文学賞の候補としてその名前が挙がるまでになっていました。自伝の著者もこのときのノーベル賞の最右翼は三島であると思っており、さらに、選考委員からも直接三島が有力であることを聞かされていたといいます。しかし、実際にノーベル文学賞に選ばれたのは、川端康成でした。1968年、川端康成はノーベル賞を受賞。その2年後の1970年、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地を占拠し、演説を行った後に壮絶な自決を決行します。三島はまだ45歳でした。そして、さらにその2年後、1972年、川端康成は逗子マリーナの部屋で自ら命を絶ちました。享年72歳。

  このことを知ったうえでこの自伝を読むと、ドナルド・キーンが語る二人の文学者との交流に胸が熱くなります。

【日本人よりも日本らしく】

  キーンさんは、司馬遼太郎氏がはなった「朝日は駄目だ!」「今、朝日を良い新聞にする唯一の方法はドナルド・キーンを雇うことだ。」との言葉がきっかけで朝日新聞の客員編集委員になったそうです。そこから、キーン氏は「日本」に迫る著書を次々に上梓していきます。その著作の裏舞台はぜひこの本で読んでほしいのですが、この自伝で感じるのは、彼が日本人よりもはるかに日本に愛情を持っていることです。

  そのことは、この本に頻繁に登場する日本に住む自らに対するウィットに富んだ表現によく表れています。

  例えば、31歳で来日した頃、京都のバーで年齢を聞かれると、ときに「18歳」、ときに「55歳」と言っても誰も異を唱えなかったと言います。いったい何のことかと思えば、次のセンテンスで、先日街を歩いているとある婦人が自分に地下鉄の駅への行き方を訪ねてきたことを語ります。そして曰く、「それはまさに喜びの瞬間だった。」「その婦人は私の外見にお構いなしに、私が駅の場所を知っていると判断したのだ。」60年かかって日本人が外国人を受け入れるようになった、との喜びは、キーンさんならではです。

  その日本に対する愛情が我々にドナルド・キーンという贈り物を届けてくれたに違いありません。

  淡々とした自伝の語り口にかかわらず、その人生には熱い想いが常にみなぎっていました。この自伝は日本人にこそ読んでほしい一冊です。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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