鳴神響一 脳科学と心理学の関係とは?

こんばんは。

  本屋巡りをしていると、時々サスペンスものや犯罪小説を読みたくなる時があります。本来は、インテリジェンスものが好きなのですが、著者の力量さえあれば警察物は面白い小説があふれている分野です。先日、本屋さんでサスペンス系を思い描いて本を眺めていると、文庫本の棚に「脳科学捜査官」という文字をみつめました。どうやらシリーズ化されており、4冊目が上梓されたようです。シリーズ化されるということは重版されるということで、売れているということ。

  しかも名前が女性なので、これまで読んだ乃南アサさんの音道貴子や深町秋生さんの八神瑛子をイメージしてしまいます。その題名に思わず魅かれて手に取ってしまいました。

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(角川文庫「脳科学捜査官 真田夏希」amazoncojp)

「脳科学捜査官 真田夏希」

(鳴神響一著 角川文庫 2017年)

【現代版 女性警察官小説】

  警察小説といえば、一時期直木賞の常連でしたが、警察官と犯罪者それぞれの人生が交錯し、生きることの難しさと人の心の不思議さを描き出して、感動とワンダーを醸し出すことが期待されます。かつて、名作とは思い小説でした。しかし、SNSが世の中を席巻し、誰もがチョー短い文章で一発ウケを演出するような世の中では、重厚な小説が若い人たちの心をとらえるのは難しくなっていることは確かです。何といっても、アメリカの大統領をはじめ、世界の指導者たちからして、自ら言いたいことだけを一方的に表明して終わってしまうのですから、世の中あきれてしまう短絡さが蔓延するわけです。

  しかし、いくら昔はよかったと嘆いても、それは単なる愚痴に過ぎず、なぜこれだけたくさんの人間がSNSを便利に使いこなしているかに思いをいたす必要があると思います。

  この小説の主人公、真田夏希は31歳。これまで、心理医療を専門に研究し脳科学の学位も含めてカウンセラーや精神医療を仕事としていました。しかし、ある出来事をきっかけに臨床医療の現場を去り、神奈川県の心理分析官募集に応募し警察官になったという女性です。この著者の筆致はとても軽やかで、小説はサクサクと進んでいきます。

  最初の章は、初登場となる夏希の紹介となりますが、なんと彼女の婚活から物語が始まるのです。確かに31歳という年齢は適齢期には違いないのですが、女性警察官がどんなデートをするのか、興味が尽きない滑り出しとなります。彼女は容姿端麗といってもよい美人と自分で語っていますが、本当にそうなのかはよくわかりません。デートの席、友人の紹介で会うこととなった織田という男と横浜で食事をする場面からはじまります。語り部は、基本的に夏希自身ですので、夏希から見た織田の印象が続いていきます。織田は落ち着いたイケメンで、そのおだやかな語り口や教養あふれる語りも申し分ありません。

  二人は、ホテルの上層階にあるラウンジで改めて酒を飲むことにしますが、織田の隠れ家というバーで美しい夜景を見て、互いの仕事へと話が及ぼうとしたとき、はるか下界で爆発が起きるのです。しばらくすると、そのバーにも警察官が聞き込みに回ってきました。そして、その警察官は同じ神奈川県警。かつて、一緒に研修を受けた警察官だったのです。聞き込みが終わるや二人の警察官のうちひとりが、夏希に敬礼をして去っていきました。夏希の素性は、織田にバレてしまいます。

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(横浜みなとみらいの夜景 travel-notedjp)

  その軽い展開は、まさに現代のエンターテイメント小説そのものです。

  真田夏希の婚活紹介はひとまずおいて、夏希は翌日から心理分析官としてこの爆破事件の捜査本部に派遣されることになるのです。

【脳科学捜査官とは何者】

  さて、警察の心理分析官とはいったい何をするのでしょうか。

  実は、神奈川県警本部において、心理分析官は夏希が初めての採用となります。近年の犯罪はあらゆる意味で複雑化した社会のゆがみが人の心に様々なストレスを与え、その結果、人の心が変容して発生します。犯罪心理学とは心理学の一分野ですが、脳科学から犯罪に切り込むというのは斬新です。人間の脳は、1千億の神経細胞(ニューロン)の間を数兆もの電気信号(シナプス)が行きかうことで体と心の活動を成立させています。

  我々の脳は、大脳と小脳が活動野をなしていますが、どの活動野がどんな活動を担っているのかが様々な研究から明らかになってきています。それと同時に脳内で分泌される各種神経伝達物質の働きも注目されています。

  最近よく話題となるのは、セロトニンやドーパミン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質です。人間の感情がどこから湧いてくるのか、かつては心理学や文学がそれを分析するための手段でしたが、今では、ニューロンとシナプスの活動の中で生じる神経伝達物質が我々の感情と密接なつながりがあることがわかってきています。

  ドーパミンは、脳内の報酬系と呼ばれる神経系統と関わっており、喜びや快楽などを感じさせる神経伝達物質です。そして、ノルアドレナリンは、交感神経と密接に関係しており、人が精神的、肉体的にストレスを感じたときに分泌され、交感神経を刺激して血圧を高くして脈拍は早くなります。セロトニンは、脳内の視床下部や大脳基底核と呼ばれる場所に分布しているそうですが、この物質にはわれわれの精神を安定させる働きがあります。セロトニンは、日常、ドーパミンやニルアドレナリンの分泌を適度に抑制して精神を安定させています。この物質の分泌が乱れると、ドーパミンやノルアドレナリンが不足したり、過剰となることにより、不安症になったり、パニック症、総うつ症などが引き起こされることがあるのです。

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(体内に行交う体内分泌物質 nhk-ondemand.jp)

  一方で、脳には扁桃体と呼ばれるとても古くからある1対の神経群があります。扁桃とはアーモンドのことで、その形がアーモンドに似ているのでこの名前となったそうです。偏桃体は原始的な脳神経で、感情を司ります。つまり、扁桃体によって人は感情をもってものごとを評価します。「好ましいもの」か「不快なものか」の判断を我々は扁桃体で行っているのです。しかし、扁桃体が嫌悪の評価をしたときにすべてがそのまま反射してしまうと生活に大きな支障が生じることになります。我々は、嫌だと思う人とでもいっしょに仕事をしなければならないこともあります。(その方が多いかも。)そのときに扁桃体の評価を抑える役目を果たすのが「前頭前野」です。

  「前頭前野」は、我々の脳の前にある領域で前頭葉の一部分です。人はこの分野で理性的な思考や感情のコントロール、判断、記憶などを行っています。扁桃体の発する評価(感情)をコントロールしているのがこの領域なのです。感情の抑制は、自動的に行われる場合と意図的に行われる場合があります。我々が嫌な人を見かけても、その人をすぐに殴らないのは自動的抑制のおかげなのかもしれません。

  今回登場する心理分析官である真田夏希は、こうした脳科学や心理学で犯罪者と闘っていくのです。小説では、大脳のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)と呼ばれる大脳の状態が描写されています。それは、脳が静かにアイドリングしている状態を言います。つまり、脳に何の情報も入ってこない状態で、覚醒しているにもかかわらず働いていない状態を言います。天才たちのひらめきはこの状態で生まれると言われています。犯罪現場で、夏希は自らこの状態を創って、ひらめきに備えるのです。

  また夏希は、毎日、その日のストレスをその日のうちに解消し、いつでも脳が疲れのない状態で稼働できるように生活を規律しています。その意味で、彼女は脳科学捜査官として、自らの思考を意図的にコントロール(抑制)しているのです。その脳科学と心理学のスキルは、犯罪者のプロファイリングを行うときに、プロとしての力を発揮することになるのです。

【正体不明の爆破予告】

  この小説は、とても軽いタッチで描かれており、サクサクと読み進められるのですが、キャラクターとプロットはよく練られています。

  横浜の新高島駅近くにある神奈川県警高島署。その5階に「西区商業地域爆破事件捜査本部」が設けられ、夏希は、婚活デートの翌日にこの捜査本部に特別捜査官として派遣されることとなります。その使命は犯人のプロファイリングなのですが、爆破の翌日の捜査本部では、まだ何の材料も集まっているわけではありません。

  犯人は、今回の爆破について神奈川県警のホームページにメールで爆破の予告を行っていました。「2100、みなとみらい地区で爆発を起こす。マシュマロボーイ」、SNSでなされた予告に基づき、県警は爆発物の捜索を開始しますが、爆発までの時間はわずか15分。さらにみなとみらい地区はあまりに捜査範囲が広く、突き止められないまま爆破が実行されたのです。

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(映画「ゴ-ストバスターズ」マシュマロマン)

  県警の警備部には、デジタル環境に対応するカウンター部門が設置されています。そこから派遣されている小早川警部補は、犯人のメールの送られてきたアドレスのIPプロトコルがスペインのバスク解放同盟のものであることを突き止めました。しかし、それは犯人の証拠隠滅と捜査かく乱のためのわなだったのです。

  捜査本部では、周辺地域の聞き込みと爆発物製造の経路、そして、メールの足跡を追うことで捜査を開始します。いつたいマシュマロボーイとは何者なのか。幸い爆発は、再開発地域の空き地で起きたので人身被害はありませんでしたが、この予告はこれから始まる犯人の本格的な爆破事件の幕開けにしか過ぎなかったのです。

  この小説には、魅力あるキャラクターが数多く登場します。

  夏希は心理分析官として初動の現場捜査に同行します。ところが、指定された車で待っていたのは、不愛想でぶっきらぼうな小川と後部座席に座っている警察犬だったのです。夏希は幼児時代に犬にかまれた体験から、犬が大の苦手です。後部座席を指定された夏希は高層ビルから飛び降りるような気持ちで後部座席に乗り込みます。

  警察犬の名前は、アリシア。鑑識課の小川はこのアリシアを使って現場で爆発物に連なる証拠を捜索していきます。このアリシアが警察犬として採用されたのには、一つの物語がありました。その物語は涙を誘いますが、それはこの本で味わってください。

  この小説は、筆致こそ軽快で気持ちよく読み進めますが、その登場人物の設定とプロットにはただならぬものがあります。捜査本部をあざ笑うようにマシュマロボーイが第二の予告を送り付けてきます。「今日の21時に横浜市内でふたたび爆発を起こす。」。あまりにも広い地域での予告に警察はただただ右往左往するばかりです。

  犯人の自己顕示欲に直接接触を試みるため、夏希は「かもめ★百合」というハンドルネームのメールで犯人に呼びかけを行います。そのメールに不敵にも回答してきたマシュマロボーイ。夏希対マシュマロボーイの闘いの火ぶたが切って落とされます。そして、心理分析官の夏希は、「マシュマロボーイ」に秘められた意味に行きあたります。それは、「ゴーストバスターズ」のマシュマロマン・・・、とは関係なく、ある心理実験につながっていたのです。そして、マシュマロボーイは夏希に横浜を舞台とした爆破予告ゲームを仕掛けてくるのです。


  この小説は、魅力的なキャラクターと脳科学、というよりも心理学という捜査手法が秀逸で気が付くと小説世界に引き込まれています。犯人のキャラクターの掘り下げがもうひとつだったり、登場人物の名字がすべて戦国武将だったりと、ものたりなさやお遊びもありますが、夏希と犯人との対決には手に汗を握ります。すでに小説はシリーズ化されていますが、次の作品を読むのが楽しみです。

  ライトノベルが気にならない方、ぜひ夏希の婚活にもご注目ください。なかなか楽しめます。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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鳴神響一 脳科学と心理学の関係とは?

こんばんは。

  本屋巡りをしていると、時々サスペンスものや犯罪小説を読みたくなる時があります。本来は、インテリジェンスものが好きなのですが、著者の力量さえあれば警察物は面白い小説があふれている分野です。先日、本屋さんでサスペンス系を思い描いて本を眺めていると、文庫本の棚に「脳科学捜査官」という文字をみつめました。どうやらシリーズ化されており、4冊目が上梓されたようです。シリーズ化されるということは重版されるということで、売れているということ。

  しかも名前が女性なので、これまで読んだ乃南アサさんの音道貴子や深町秋生さんの八神瑛子をイメージしてしまいます。その題名に思わず魅かれて手に取ってしまいました。

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(角川文庫「脳科学捜査官 真田夏希」amazoncojp)

「脳科学捜査官 真田夏希」

(鳴神響一著 角川文庫 2017年)

【現代版 女性警察官小説】

  警察小説といえば、一時期直木賞の常連でしたが、警察官と犯罪者それぞれの人生が交錯し、生きることの難しさと人の心の不思議さを描き出して、感動とワンダーを醸し出すことが期待されます。かつて、名作とは思い小説でした。しかし、SNSが世の中を席巻し、誰もがチョー短い文章で一発ウケを演出するような世の中では、重厚な小説が若い人たちの心をとらえるのは難しくなっていることは確かです。何といっても、アメリカの大統領をはじめ、世界の指導者たちからして、自ら言いたいことだけを一方的に表明して終わってしまうのですから、世の中あきれてしまう短絡さが蔓延するわけです。

  しかし、いくら昔はよかったと嘆いても、それは単なる愚痴に過ぎず、なぜこれだけたくさんの人間がSNSを便利に使いこなしているかに思いをいたす必要があると思います。

  この小説の主人公、真田夏希は31歳。これまで、心理医療を専門に研究し脳科学の学位も含めてカウンセラーや精神医療を仕事としていました。しかし、ある出来事をきっかけに臨床医療の現場を去り、神奈川県の心理分析官募集に応募し警察官になったという女性です。この著者の筆致はとても軽やかで、小説はサクサクと進んでいきます。

  最初の章は、初登場となる夏希の紹介となりますが、なんと彼女の婚活から物語が始まるのです。確かに31歳という年齢は適齢期には違いないのですが、女性警察官がどんなデートをするのか、興味が尽きない滑り出しとなります。彼女は容姿端麗といってもよい美人と自分で語っていますが、本当にそうなのかはよくわかりません。デートの席、友人の紹介で会うこととなった織田という男と横浜で食事をする場面からはじまります。語り部は、基本的に夏希自身ですので、夏希から見た織田の印象が続いていきます。織田は落ち着いたイケメンで、そのおだやかな語り口や教養あふれる語りも申し分ありません。

  二人は、ホテルの上層階にあるラウンジで改めて酒を飲むことにしますが、織田の隠れ家というバーで美しい夜景を見て、互いの仕事へと話が及ぼうとしたとき、はるか下界で爆発が起きるのです。しばらくすると、そのバーにも警察官が聞き込みに回ってきました。そして、その警察官は同じ神奈川県警。かつて、一緒に研修を受けた警察官だったのです。聞き込みが終わるや二人の警察官のうちひとりが、夏希に敬礼をして去っていきました。夏希の素性は、織田にバレてしまいます。

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(横浜みなとみらいの夜景 travel-notedjp)

  その軽い展開は、まさに現代のエンターテイメント小説そのものです。

  真田夏希の婚活紹介はひとまずおいて、夏希は翌日から心理分析官としてこの爆破事件の捜査本部に派遣されることになるのです。

【脳科学捜査官とは何者】

  さて、警察の心理分析官とはいったい何をするのでしょうか。

  実は、神奈川県警本部において、心理分析官は夏希が初めての採用となります。近年の犯罪はあらゆる意味で複雑化した社会のゆがみが人の心に様々なストレスを与え、その結果、人の心が変容して発生します。犯罪心理学とは心理学の一分野ですが、脳科学から犯罪に切り込むというのは斬新です。人間の脳は、1千億の神経細胞(ニューロン)の間を数兆もの電気信号(シナプス)が行きかうことで体と心の活動を成立させています。

  我々の脳は、大脳と小脳が活動野をなしていますが、どの活動野がどんな活動を担っているのかが様々な研究から明らかになってきています。それと同時に脳内で分泌される各種神経伝達物質の働きも注目されています。

  最近よく話題となるのは、セロトニンやドーパミン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質です。人間の感情がどこから湧いてくるのか、かつては心理学や文学がそれを分析するための手段でしたが、今では、ニューロンとシナプスの活動の中で生じる神経伝達物質が我々の感情と密接なつながりがあることがわかってきています。

  ドーパミンは、脳内の報酬系と呼ばれる神経系統と関わっており、喜びや快楽などを感じさせる神経伝達物質です。そして、ノルアドレナリンは、交感神経と密接に関係しており、人が精神的、肉体的にストレスを感じたときに分泌され、交感神経を刺激して血圧を高くして脈拍は早くなります。セロトニンは、脳内の視床下部や大脳基底核と呼ばれる場所に分布しているそうですが、この物質にはわれわれの精神を安定させる働きがあります。セロトニンは、日常、ドーパミンやニルアドレナリンの分泌を適度に抑制して制震を安定させています。この物質の分泌が乱れると、ドーパミンやノルアドレナリンが不足したり、過剰となることにより、不安症になったり、パニック症、総うつ症などが引き起こされることがあるのです。

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(体内に行交う体内分泌物質 nhk-ondemand.jp)

  一方で、脳には扁桃体と呼ばれるとても古くからある1対の神経群があります。扁桃とはアーモンドのことで、その形がアーモンドに似ているのでこの名前となったそうです。偏桃体は原始的な脳神経で、感情を司ります。つまり、扁桃体によって人は感情をもってものごとを評価します。「好ましいもの」か「不快なものか」の判断を我々は扁桃体で行っているのです。しかし、扁桃体が嫌悪の評価をしたときにすべてがそのまま反射してしまうと生活に大きな支障が生じることになります。我々は、嫌だと思う人とでもいっしょに仕事をしなければならないこともあります。(その方が多いかも。)そのときに扁桃体の評価を抑える役目を果たすのが「前頭前野」です。

  「前頭前野」は、我々の脳の前にある領域で前頭葉の一部分です。人はこの分野で理性的な思考や感情のコントロール、判断、記憶などを行っています。扁桃体の発する評価(感情)をコントロールしているのがこの領域なのです。感情の抑制は、自動的に行われる場合と意図的に行われる場合があります。我々が嫌な人を見かけても、その人をすぐに殴らないのは自動的抑制のおかげなのかもしれません。

  今回登場する心理分析官である真田夏希は、こうした脳科学や心理学で犯罪者と闘っていくのです。小説では、大脳のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)と呼ばれる大脳の状態が描写されています。それは、脳が静かにアイドリングしている状態を言います。つまり、脳に何の情報も入ってこない状態で、覚醒しているにもかかわらず働いていない状態を言います。天才たちのひらめきはこの状態で生まれると言われています。犯罪現場で、夏希は自らこの状態を創って、ひらめきに備えるのです。

  また夏希は、毎日、その日のストレスをその日のうちに解消し、いつでも脳が疲れのない状態で稼働できるように生活を規律しています。その意味で、彼女は脳科学捜査官として、自らの思考を意図的にコントロール(抑制)しているのです。その脳科学と心理学のスキルは、犯罪者のプロファイリングを行うときに、プロとしての力を発揮することになるのです。

【正体不明の爆破予告】

  この小説は、とても軽いタッチで描かれており、サクサクと読み進められるのですが、キャラクターとプロットはよく練られています。

  横浜の新高島駅近くにある神奈川県警高島署。その5階に「西区商業地域爆破事件捜査本部」が設けられ、夏希は、婚活デートの翌日にこの捜査本部に特別捜査官として派遣されることとなります。その使命は犯人のプロファイリングなのですが、爆破の翌日の捜査本部では、まだ何の材料も集まっているわけではありません。

  犯人は、今回の爆破について神奈川県警のホームページにメールで爆破の予告を行っていました。「2100、みなとみらい地区で爆発を起こす。マシュマロボーイ」、SNSでなされた予告に基づき、県警は爆発物の捜索を開始しますが、爆発までの時間はわずか15分。さらにみなとみらい地区はあまりに捜査範囲が広く、突き止められないまま爆破が実行されたのです。

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(映画「ゴ-ストバスターズ」マシュマロマン)

  県警の警備部には、デジタル環境に対応するカウンター部門が設置されています。そこから派遣されている小早川警部補は、犯人のメールの送られてきたアドレスのIPプロトコルがスペインのバスク解放同盟のものであることを突き止めました。しかし、それは犯人の証拠隠滅と捜査かく乱のためのわなだったのです。

  捜査本部では、周辺地域の聞き込みと爆発物製造の経路、そして、メールの足跡を追うことで捜査を開始します。いつたいマシュマロボーイとは何者なのか。幸い爆発は、再開発地域の空き地で起きたので人身被害はありませんでしたが、この予告はこれから始まる犯人の本格的な爆破事件の幕開けにしか過ぎなかったのです。

  この小説には、魅力あるキャラクターが数多く登場します。

  夏希は心理分析官として初動の現場捜査に同行します。ところが、指定された車で待っていたのは、不愛想でぶっきらぼうな小川と後部座席に座っている警察犬だったのです。夏希は幼児時代に犬にかまれた体験から、犬が大の苦手です。後部座席を指定された夏希は高層ビルから飛び降りるような気持ちで後部座席に乗り込みます。

  警察犬の名前は、アリシア。鑑識課の小川はこのアリシアを使って現場で爆発物に連なる証拠を捜索していきます。このアリシアが警察犬として採用されたのには、一つの物語がありました。その物語は涙を誘いますが、それはこの本で味わってください。

  この小説は、筆致こそ軽快で気持ちよく読み進めますが、その登場人物の設定とプロットにはただならぬものがあります。捜査本部をあざ笑うようにマシュマロボーイが第二の予告を送り付けてきます。「今日の21時に横浜市内でふたたび爆発を起こす。」。あまりにも広い地域での予告に警察はただただ右往左往するばかりです。

  犯人の自己顕示欲に直接接触を試みるため、夏希は「かもめ★百合」というハンドルネームのメールで犯人に呼びかけを行います。そのメールに不敵にも回答してきたマシュマロボーイ。夏希対マシュマロボーイの闘いの火ぶたが切って落とされます。そして、心理分析官の夏希は、「マシュマロボーイ」に秘められた意味に行きあたります。それは、「ゴーストバスターズ」のマシュマロマン・・・、とは関係なく、ある心理実験につながっていたのです。そして、マシュマロボーイは夏希に横浜を舞台とした爆破予告ゲームを仕掛けてくるのです。


  この小説は、魅力的なキャラクターと脳科学、というよりも心理学という捜査手法が秀逸で気が付くと小説世界に引き込まれています。犯人のキャラクターの掘り下げがもうひとつだったり、登場人物の名字がすべて戦国武将だったりと、ものたりなさやお遊びもありますが、夏希と犯人との対決には手に汗を握ります。すでに小説はシリーズ化されていますが、次の作品を読むのが楽しみです。

  ライトノベルが気にならない方、ぜひ夏希の婚活にもご注目ください。なかなか楽しめます。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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ドナルド・キーン自伝 氏を偲ぶ

こんばんは。

  アメリカ出身の日本文学者ドナルド・キーン氏が97歳の生涯を閉じてから、来月で1年になろうとしています。

  氏は、中央公論社、朝日新聞などで日本語での執筆者として、数々の評論を執筆することはもちろん、日本の文化をこよなく愛し、コロンビア大学、ケンブリッジ大学などで教鞭をとり、日本文学を広く世界に紹介してくれました。氏が初めて日本の地を踏んだのは1953年、31歳のときでした。そこから60年以上も氏はアメリカと日本を往復して、日本人以上に日本文化を深く研究し続けました。

  2011年の東日本大震災の時には、日本人とともに日本を襲った未曾有の災害に心を痛め、亡くなった方、被災した方々に寄り添ってくれました。氏は、これを機会に日本国籍を取得することを表明。9月にはついに日本への永住のための来日を果たしました。2012年には晴れて日本国籍を取得。最後には、愛する日本の地で生涯を終えたのです。

  1周忌を目前にして、キーンさんがどのように日本を愛したのかを知りたくて本屋さんでキーンさんの本を探しました。本当は、氏の作品を読むべきと考えていたのですが、あの笑顔を思い浮かべると、まず読んでみたいのは自伝だと気づいたのです。文庫でも何冊か自からを語る本がありましたが、補追として最近年に記した2つの文章が収められている中公新書の新版を手に入れました。それは、素晴らしい自伝でした。

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(「ドナルド・キーン自伝」amazon.co.jp)

「ドナルド・キーン自伝-増補新版」(ドナルド・キーン著 角地幸男訳 中公文庫 20193月)

【八月十五日に吹く風】

  ドナルド・キーンさんは、外国人として日本文学の研究を本格的に行った草分け的な人物でした。ことに川端康成や三島由紀夫とは人として友情をはぐくみ、親友と呼ばれる仲でした。ひと月の半分は日本で過ごし、日本人よりも日本的な日本語を話し、評論やエッセイも日本語で記す、日本通でした。日本でも読売文学賞をはじめ多くの賞を受賞し、2008年には外国人の日本研究者としてはじめて文化勲章を受勲しました。

  1982年からは10年間、朝日新聞社で客員編集委員も務め、朝日新聞には多くの論考を掲載していました。もちろん、当時はオンタイムでその文章を読んでいてその謦咳に接していたのですが、キーン氏の印象を強く意識したのは、一編の小説からでした。

  その小説は、松岡圭祐氏が上梓した「八月十五日に吹く風」です。

  この小説は、太平洋戦争で日本が劣勢に立った19435月を舞台としています。その年、日本軍の精神的支柱と言われていた山本五十六連合軍司令長官が戦死し、勢いに乗ったアメリカ軍は、アリューシャン列島で唯一日本軍に占領されていたアッツ島とキスカ島の奪回作戦を敢行したのです。この2島では日本軍の兵士7800人余りが日本の最前線基地を守備していました。

  アメリカ軍の襲来を知った軍部は、キスカ島が先に上陸されるとの目算から多くの兵士をキスカ島へと移動させました。しかし、その移動を知ったアメリカ軍は侵攻先を手薄になったアッツ島へと変更したのです。2600人余りでアッツ島を守備していた日本軍は、物量で圧倒的なアメリカ軍に対し、一歩も引くことなく最後の隊までも「バンザイ」突撃を敢行し、文字どおり全滅しました。

  物語は、アッツ島で日本軍が玉砕した戦闘後、キスカ島を守る5200人の日本軍を見殺しにするのか、撤退に導くのか、究極の作戦遂行を描くのです。その小説で、カギを握るがドナルド・キーン氏だったのです。この小説が上梓された当時、キーン氏はまだご存命でしたので、小説上の名前はロナルド・リーンとなっていましたが、その人物は間違いなくキーン氏でした。

  この小説は、現代とキスカ島戦闘当時の二つの時制で語られますが、キーン氏はその両方をつなぐ日米の絆として重要な役割を担っていました。過去の時制では、劇的なキスカ島救援作戦が遂行されるのですが、キスカ島での戦闘は日本軍とアメリカ軍の両面から語られることになります。  

  このとき、キーン氏は日本語翻訳将校としてアメリカ軍とともにキスカ島にいたのです。その経緯は、この自伝に語られています。

  当時、アメリカでは日本語を学ぶ学生はごく少数で、通訳は急造の状態だったようですが、「源氏物語」に魅せられたキーン青年は日本への想いを胸に通訳を志望したのです。キスカ島の奇跡については、ぜひ「八月十五日に吹く風」で味わって欲しいのですが、小説を読むと松岡氏が小説執筆にあたってこの自伝を参考とし、ロナルド・リーンを造形したことがよくわかります。

  この小説のラストシーンで、キスカ島作戦の従軍記者であった菊池雄介が流浪の末に朝日新聞社の記者となったとき、アメリカ軍の従軍記者であったリーン氏が朝日新聞社の客員編集委員となり、歴史の偶然によって再会する場面は、この小説のクライマックスとして感動的でした。

【日本を愛し、日本に愛されたキーン氏】

  キーン氏は、自伝の中で人生の分岐点について触れており、自らの意思で歩んできたことを語っていますが、随所に触れられているのは人との繋がりと知り合うことができたすべての人への限りない感謝の念です。日本では、文部大臣も務めた永井道雄氏、中央公論社の社長、嶋中鵬二氏、小説家、三島由紀夫、川端康成、安部公房などなど、時代を作ってきた人々との深い交流が描かれています。

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(日本文学者たちを描く amazon.co.jp)

  キーン氏は、31歳ではじめて日本に留学するまでは、アメリカのコロンビア大学、ハーヴァード大学、イギリスのケンブリッジ大学で日本研究を行い、その後は、月の半分をコロンビア大学で日本文学研究の教授として学生たちへの教鞭をとっていました。

  自伝では、数々の賞を受賞した日本文化の著作についても語られていますが、学生に日本文学を教える教師としての仕事にも触れています。日本学について各大学で学ぶ中、キーン氏の観察眼の鋭さに感銘を受けます。コロンビア大学では、角田隆作教授の話が印象的です。当時、コロンビア大学で日本文学を専攻する学生は数少なく、キーン氏が専攻したときには、学生が氏一人であったといいます。

  教授は、自らの研究を学生に教える際には事前の準備を怠らなかったそうですが、キーン氏は教授の研究分野にかかわらず日本文学に関する数々の質問を投げかけました。角田教授は、キーン氏の質問に対してできる限りの知見を尽くして答えてくれたのです。あまつさえ、キーン氏が希望する浄瑠璃について、専門外にもかかわらず深く準備し、講義を行ってくれたといいます。キーン氏の教授としての生き方は、角田氏という氏がいてこそ成立したのだ、と感動します。

  また、ハーヴァード大学では、日本文学の講義をセルゲイ・エリセーエフ教授が行っていました。この教授は日本研究の第一人者として名声があったそうですが、その講義に対する姿勢についてキーン氏は完全に失望したと語ります。その失望は強烈で、徹底的なのですが、最後には教授に出会って幸運だったと収めます。その心は、これから学生に教えるときにエリセーエフ教授のやり方と反対のことをすればよいと気づかせてくれたからだ、そうです。

  キーン氏のユーモアとアイロニーに思わずにやりとさせられます。

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(自ら日本語名を発表 asahi.com)

  自伝は、4つの章に分かれています

第一章は、ブルックリンで生まれてから大学生になるまで

第二章は、コロンビア大学での学究と兵役、日本留学まで

第三章は、著作者として、また三島、川端、安部との交流

第四章は、1980年代から手掛けた数々の仕事の話

  さらに増補新版には、「日本国籍取得決断の記」、「六十年の月日との終生の友人たち」が補追されています。

  この本はどこを読んでもキーン氏の人柄がにじみ出て感動的です。

【作家たちとの友情の記】

  昨年は、旭化成名誉フェローの吉野彰さんがノーベル化学賞を受賞し、その快挙に日本中が沸き立ちました。日本人のノーベル賞受賞者は吉野さんが28人目となります。その中で、ノーベル文学賞の受賞者は3名。直近では、2017年に英国籍ではあるものの日本で生まれたカズオ・イシグロさんが受賞し、本屋さんはその著書であふれました。それ以前の受賞者といえば、1994年に受賞した大江健三郎さん、そして、ノーベル文学賞を日本人として初めて受賞した川端康成さんは1968年に受賞しています。(以下、敬称略)

  1953年31歳で日本に留学し京都に下宿したキーン氏は、そこで永井道雄と知り合い強い友情をはぐくむことになります。永井はキーン氏に中央公論社の嶋中鵬二を紹介し、嶋中は碧い目の日本文学研究者に日本の現代作家たちを紹介します。その中で、川端康成と三島由紀夫はドナルド・キーンにとって無二の友人となったのでした。

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(ドナルド・キーンと三島由紀夫 note.com)

  三島由紀夫と川端康成の関係は、戦後間もないころに始まります。1946年、三島は当時21歳でまだ大学生でした。川端は26歳年上ですでに文壇で名を成していましたが、三島が自作「中世」を川端に見せ、以前から三島の作品を知っていた川端がその才を認めて、三島を文壇に紹介しました。三島由紀夫は生涯、川端を、自らを世に出してくれた恩人として敬っていたのです。

  三島由紀夫は、その後「仮面の告白」、「潮騒」、「金閣寺」と次々に名作を上梓し、日本国内のみではなく世界に紹介されるようになります。1957年、「潮騒」、「近代能楽集」が英訳された機に三島はニューヨークに招待されました。三島は、現地の演劇プロデューサーから能の上演をオファーされました。この上演のために三島は半年間滞在するのですが、自伝にはこのときの三島の姿がリアルに描かれています。

  それから10年。数々の作品が世界に紹介された三島は、ノーベル文学賞の候補としてその名前が挙がるまでになっていました。自伝の著者もこのときのノーベル賞の最右翼は三島であると思っており、さらに、選考委員からも直接三島が有力であることを聞かされていたといいます。しかし、実際にノーベル文学賞に選ばれたのは、川端康成でした。1968年、川端康成はノーベル賞を受賞。その2年後の1970年、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地を占拠し、演説を行った後に壮絶な自決を決行します。三島はまだ45歳でした。そして、さらにその2年後、1972年、川端康成は逗子マリーナの部屋で自ら命を絶ちました。享年72歳。

  このことを知ったうえでこの自伝を読むと、ドナルド・キーンが語る二人の文学者との交流に胸が熱くなります。

【日本人よりも日本らしく】

  キーン氏は、司馬遼太郎氏がはなった「朝日は駄目だ!」「今、朝日を良い新聞にする唯一の方法はドナルド・キーンを雇うことだ。」との言葉がきっかけで朝日新聞の客員編集委員になったそうです。そこから、キーン氏は「日本」に迫る著書を次々に上梓していきます。その著作の裏舞台はぜひこの本で読んでほしいのですが、この自伝で感じるのは、彼が日本人よりもはるかに日本に愛情を持っていることです。

  そのことは、この本に頻繁に登場する日本に住む自らに対するウィットに富んだ表現によく表れています。

  例えば、31歳で来日した頃、京都のバーで年齢を聞かれると、ときに「18歳」、ときに「55歳」と言っても誰も異を唱えなかったと言います。いったい何のことかと思えば、次のセンテンスで、先日街を歩いているとある婦人が自分に地下鉄の駅への行き方を訪ねてきたことを語ります。そして曰く、「それはまさに喜びの瞬間だった。」「その婦人は私の外見にお構いなしに、私が駅の場所を知っていると判断したのだ。」60年かかって日本人が外国人を受け入れるようになった、との喜びは、キーンさんならではです。

  その日本に対する愛情が我々にドナルド・キーンという贈り物を届けてくれたに違いありません。

  淡々とした自伝の語り口にかかわらず、その人生には熱い想いが常にみなぎっていました。この自伝は日本人にこそ読んでほしい一冊です。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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ドナルド・キーン自伝 氏を偲ぶ

こんばんは。

  アメリカ出身の日本文学者ドナルド・キーン氏が97歳の生涯を閉じてから、来月で1年になろうとしています。

  氏は、中央公論社、朝日新聞などで日本語での執筆者として、数々の評論を執筆することはもちろん、日本の文化をこよなく愛し、コロンビア大学、ケンブリッジ大学などで教鞭をとり、日本文学を広く世界に紹介してくれました。氏が初めて日本の地を踏んだのは1953年、31歳のときでした。そこから60年以上も氏はアメリカと日本を往復して、日本人以上に日本文化を深く研究し続けました。

  2011年の東日本大震災の時には、日本人とともに日本を襲った未曾有の災害に心を痛め、亡くなった方、被災した方々に寄り添ってくれました。氏は、これを機会に日本国籍を取得することを表明。9月にはついに日本への永住のための来日を果たしました。2012年には晴れて日本国籍を取得。最後には、愛する日本の地で生涯を終えたのです。

  1周忌を目前にして、キーンさんがどのように日本を愛したのかを知りたくて本屋さんでキーンさんの本を探しました。本当は、氏の作品を読むべきと考えていたのですが、あの笑顔を思い浮かべると、まず読んでみたいのは自伝だと気づいたのです。文庫でも何冊か自からを語る本がありましたが、補追として最近年に記した2つの文章が収められている中公新書の新版を手に入れました。それは、素晴らしい自伝でした。

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(「ドナルド・キーン自伝」amazon.co.jp)

「ドナルド・キーン自伝-増補新版」(ドナルド・キーン著 角地幸男訳 中公文庫 20193月)

【八月十五日に吹く風】

  ドナルド・キーンさんは、外国人として日本文学の研究を本格的に行った草分け的な人物でした。ことに川端康成や三島由紀夫とは人として友情をはぐくみ、親友と呼ばれる仲でした。ひと月の半分は日本で過ごし、日本人よりも日本的な日本語を話し、評論やエッセイも日本語で記す、日本通でした。日本でも読売文学賞をはじめ多くの賞を受賞し、2008年には外国人の日本研究者としてはじめて文化勲章を受勲しました。

  1982年からは10年間、朝日新聞社で客員編集委員も務め、朝日新聞には多くの論考を掲載していました。もちろん、当時はオンタイムでその文章を読んでいてその謦咳に接していたのですが、キーン氏の印象を強く意識したのは、一編の小説からでした。

  その小説は、松岡圭祐氏が上梓した「八月十五日に吹く風」でした。

  この小説は、太平洋戦争で日本が劣勢に立った19435月を舞台としています。その年、日本軍の精神的支柱と言われていた山本五十六連合軍司令長官が戦死し、勢いに乗ったアメリカ軍は、アリューシャン列島で唯一日本軍に占領されていたアッツ島とキスカ島の奪回作戦を敢行したのです。この2島には日本軍の兵士7800人余りが日本の最前線基地を守備していました。

  アメリカ軍の襲来を知った軍部は、キスカ島が先に上陸されるとの目算から多くの兵士をキスカ島へと移動させました。しかし、その移動を知ったアメリカ軍は侵攻先を手薄になったアッツ島へと変更したのです。2600人余りでアッツ島を守備していた日本軍は、物量で圧倒的なアメリカ軍に対し、一歩も引くことなく最後の隊までも「バンザイ」突撃を敢行し、文字どおり全滅しました。

  物語は、アッツ島で日本軍が玉砕した戦闘後、キスカ島を守る5200人の日本軍を見殺しにするのか、撤退に導くのか、究極の作戦遂行を描くのです。その小説で、カギを握るがドナルド・キーン氏だったのです。この小説が上梓された当時、キーン氏はまだご存命でしたので、小説上の名前はロナルド・リーンとなっていましたが、その人物は間違いなくキーン氏でした。

  この小説は、現代とキスカ島戦闘当時の二つの時制で語られますが、キーン氏はその両方をつなぐ日米の絆として重要な役割を担っていました。過去の時制では、劇的なキスカ島救援作戦が遂行されるのですが、キスカ島での戦闘は日本軍とアメリカ軍の両面から語られることになります。  

  このとき、キーン氏は日本語翻訳将校としてアメリカ軍とともにキスカ島にいたのです。その経緯は、この自伝に語られています。

  当時、アメリカでは日本語を学ぶ学生はごく少数で、通訳は急増の状態だったようですが、「源氏物語」に魅せられたキーン青年は日本への想いを胸に通訳を志望したのです。キスカ島の奇跡については、ぜひ「八月十五日に吹く風」で味わって欲しいのですが、小説を読むと松岡氏が小説執筆にあたってこの自伝を参考とし、ロナルド・リーンを造形したことがよくわかります。

  この小説のラストシーンで、キスカ島作戦の従軍記者であった菊池雄介が流浪の末に朝日新聞社の記者となったとき、アメリカ軍の従軍記者であったリーン氏が朝日新聞社の客員編集委員となり、歴史の偶然によって再開する場面は、この小説のクライマックスとして感動的でした。

【日本を愛し、日本に愛されたキーン氏】

  キーン氏は、自伝の中で人生の分岐点について触れており、自らの意思で歩んできたことを語っていますが、随所に触れられているのは人との繋がりと知り合うことができたすべての人への限りない感謝の念です。日本では、文部大臣も務めた永井道雄氏、中央公論社の社長、嶋中鵬二氏、小説家、三島由紀夫、川端康成、安部公房などなど、時代を作ってきた人々との深い交流が描かれています。

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(日本文学者たちを描く amazon.co.jp)

  キーン氏は、31歳ではじめて日本に留学するまでは、アメリカのコロンビア大学、ハーヴァード大学、イギリスのケンブリッジ大学で日本研究を行い、その後は、月の半分をコロンビア大学で日本文学研究の教授として学生たちへの教鞭をとっていました。

  自伝では、数々の賞を受賞した日本文化の著作についても語られていますが、学生に日本文学を教える教師としての仕事にも触れています。日本学について各大学で学ぶ中、キーン氏の観察眼の鋭さが鋭いことに感銘を受けます。コロンビア大学では、角田隆作教授の話が印象的です。当時、コロンビア大学で日本文学を専攻する学生は数少なく、キーン氏が先行したときには、学生が氏一人であったといいます。

  教授は、自らの研究を学生に教える際には事前の準備を怠らなかったそうですが、キーン氏は教授の研究分野にかかわらず日本文学に関する数々の質問を投げかけました。角田教授は、キーン氏の質問に対してできる限りの知見を尽くして答えてくれたのです。あまつさえ、キーン氏が希望する浄瑠璃について、専門外にもかかわらず深く準備し、講義を行ってくれたといいます。キーン氏の教授としての生き方は、角田氏という氏がいてこそ成立したのだ、と感動します。

  また、ハーヴァード大学では、日本文学の講義をセルゲイ・エリセーエフ教授が行っていました。この教授は日本研究の第一人者として名声があったそうですが、その講義に対する姿勢についてキーン氏は完全に失望したと語ります。その失望は強烈で、徹底的なのですが、最後には教授に出会って幸運だったと収めます。その心は、これから学生に教えるときにエリセーエフ教授のやり方と反対のことをすればよいと気づかせてくれたからだ、そうです。

  キーン氏のユーモアとアイロニーに思わずにやりとさせられます。

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(自ら日本語名を発表 asahi.com)

  自伝は、4つの章に分かれています

第一章は、ブルックリンで生まれてから大学生になるまで

第二章は、コロンビア大学での学究と兵役、日本留学まで

第三章は、著作者として、また三島、川端、安部との交流

第四章は、1980年代から手掛けた数々の仕事の話

  さらに増補新版には、「日本国籍取得決断の記」、「六十年の月日との終生の友人たち」が補追されています。

  この本はどこを読んでもキーン氏の人柄がにじみ出て感動的です。

【作家たちとの友情の記】

  昨年は、旭化成名誉フェローの吉野彰さんがノーベル化学賞を受賞し、その快挙に日本中が沸き立ちました。日本人のノーベル賞受賞者は吉野さんが28人目となります。その中で、ノーベル文学賞の受賞者は3名。直近では、2017年に英国籍ではあるものの日本で生まれたカズオ・イシグロさんが受賞し、本屋さんはその著書であふれました。それ以前の受賞者といえば、1994年に受賞した大江健三郎さん、そして、ノーベル文学賞を日本人として初めて受賞した川端康成さんは1968年に受賞しています。(以下、敬称略)

  1953年31歳で日本に留学し京都に下宿したキーン氏は、そこで永井道雄と知り合い強い友情をはぐくむことになります。永井はキーン氏に中央公論社の嶋中鵬二を紹介し、嶋中は碧い目の日本文学研究者に日本の現代作家たちを紹介します。その中で、川端康成と三島由紀夫はドナルド・キーンにとって無二の友人となったのでした。

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(ドナルド・キーンと三島由紀夫 note.com)

  三島由紀夫と川端康成の関係は、戦後間もないころに始まります。1946年、当時21歳でまだ大学生でした。川端は26歳年上ですでに文壇で名を成していましたが、三島が作品「中世」を川端に見せ、以前から三島の作品を知っていた川端がその才を認めて、三島を文壇に紹介しました。三島由紀夫は生涯、川端を、自らを世に出してくれた恩人として敬っていたのです。

  三島由紀夫は、その後「仮面の告白」、「潮騒」、「金閣寺」と次々に名作を上梓し、日本国内のみではなく世界に紹介されるようになります。1957年、「潮騒」、「近代能楽集」が英訳された機に三島はニューヨークに招待されました。三島は、現地の演劇プロデューサーから能の上演をオファーされました。この上演のために三島は半年間滞在するのですが、自伝にはこのときの三島の姿がリアルに描かれています。

  それから10年。数々の作品が世界に紹介された三島は、ノーベル文学賞の候補としてその名前が挙がるまでになっていました。自伝の著者もこのときのノーベル賞の最右翼は三島であると思っており、さらに、選考委員からも直接三島が有力であることを聞かされていたといいます。しかし、実際にノーベル文学賞に選ばれたのは、川端康成でした。1968年、川端康成はノーベル賞を受賞。その2年後の1970年、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地を占拠し、演説を行った後に壮絶な自決を決行します。三島はまだ45歳でした。そして、さらにその2年後、1972年、川端康成は逗子マリーナの部屋で自ら命を絶ちました。享年72歳。

  このことを知ったうえでこの自伝を読むと、ドナルド・キーンが語る二人の文学者との交流に胸が熱くなります。

【日本人よりも日本らしく】

  キーンさんは、司馬遼太郎氏がはなった「朝日は駄目だ!」「今、朝日を良い新聞にする唯一の方法はドナルド・キーンを雇うことだ。」との言葉がきっかけで朝日新聞の客員編集委員になったそうです。そこから、キーン氏は「日本」に迫る著書を次々に上梓していきます。その著作の裏舞台はぜひこの本で読んでほしいのですが、この自伝で感じるのは、彼が日本人よりもはるかに日本に愛情を持っていることです。

  そのことは、この本に頻繁に登場する日本に住む自らに対するウィットに富んだ表現によく表れています。

  例えば、31歳で来日した頃、京都のバーで年齢を聞かれると、ときに「18歳」、ときに「55歳」と言っても誰も異を唱えなかったと言います。いったい何のことかと思えば、次のセンテンスで、先日街を歩いているとある婦人が自分に地下鉄の駅への行き方を訪ねてきたことを語ります。そして曰く、「それはまさに喜びの瞬間だった。」「その婦人は私の外見にお構いなしに、私が駅の場所を知っていると判断したのだ。」60年かかって日本人が外国人を受け入れるようになった、との喜びは、キーンさんならではです。

  その日本に対する愛情が我々にドナルド・キーンという贈り物を届けてくれたに違いありません。

  淡々とした自伝の語り口にかかわらず、その人生には熱い想いが常にみなぎっていました。この自伝は日本人にこそ読んでほしい一冊です。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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令和二年 明けましておめでとうございます。


令和二年 

 明けましておめでとうございます。

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新春を迎え、
皆様のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

日々雑記も今年10年目を迎えました。
これもひとえに皆様方のご訪問のおかげです。
誠に有難うございました。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。



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令和二年 明けましておめでとうございます。


令和二年 

 明けましておめでとうございます。

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令和初めの年越しは第九ライブ

こんばんは。

  皆さんにとって今年はどんな年でしたか?

  今年の漢字は「令」。今年は令和初めの年でした。天皇陛下が新たに即位され、日本の新たな歴史が元号とともにスタートしました。なんといっても盛り上がったのは、日本で開催されたラグビーワールドカップです4年前、イギリスで開催された大会で、日本は当時世界ランク3位の南アフリカ代表を逆転で破り「奇跡」と言われました。

  当時、日本代表を率いていたエディー・ジョーンズヘッドコーチは、この勝利の瞬間、「歴史は変わった」と語りました。プールBでは、南アフリカ戦の勝利に続いて強豪サモアも下した日本は、アメリカも撃破してなんと3勝を挙げる快挙をなし遂げたのです。ところが、3勝1敗の日本はなぜか予選リーグで敗退してしまったのです。ラグビーでは、勝ち点のカウントが独特であり、負けても4トライ以上を挙げるか、もしくは7点差以内であれば勝ち点1が加わるのです。この大会で日本は3勝を挙げたにもかかわらず、勝ち点差で3位となり、決勝進出を逃したのです。

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(日本代表ベスト8! spread-sports.jp)

  この悔しさを胸にラグビー日本代表はすべてをラグビーにささげて4年間を過ごしてきたのです。そして今年、日本で開催されたワールドカップ。日本代表は予選を全勝で勝ち抜いてみごとベスト8にコマを進めたのでした。対ロシア戦30対10、対アイルランド戦19対12、対サモア戦38対19、対スコットランド戦28対21。試合は、スクラムで打ち勝ち、ジャッカルでボールを奪い、オフロードパスで逆転のトライを奪うという、まさにワンチームで勝利した戦いでした。

  やはり今年のニュースNO.1は、ラグビー日本代表のベスト8への闘いでした。

【令和最初の1年は?】

  さて、個人的に今年はとても充実した1年でした。海外旅行はお休みしましたが、国内では様々な景色を味わいました。4月には、桜が満開の青森の弘前城と秋田の角館を楽しみました。生憎天気は雨で気温が10度前後と寒かったのですが、弘前城では人がまばらで、地元のボランティアの方の案内で2時間も弘前城内を案内してもらうことができました。満開の桜の間にハートが見えるインスタ名所があり、さすがにそこだけが写真待ちだったのが印象的でした。ただし、ボランティアのおじさんは「個人的にはここは案内したくない場所なんだけれど、ここに案内しないと怒られるんだよね。」と伝統とインスタの葛藤を間近に見て不謹慎ながら笑ってしまいました。

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(弘前城内 ハート桜 インスタ名所)

  5月にはブログにも書いた伊豆のジオパークめぐり。7月には立山アルペンルートを長野側から入って富山に抜け、黒部ダムの絶景を満喫。宇奈月温泉からトロッコ電車に乗って欅平の渓谷散策も味わいました。

  11月には、久しぶりに栃木県の奥日光から日光、さらに平家の落人で知られる湯西川温泉に行ってきました。例年、湯西川は360度、山が黄色く紅葉して絶景のパノラマを見ることができるのですが、残念ながら今年は長期の雨のせいで不作でした。それでも平家の里に植えられたもみじはみごとな紅葉をみせてくれ、美しさに心が洗われました。さらに帰りに通った那須のもみじライン(日光塩原有料道路)では、峠を越えて塩原側に入ってからの紅葉が素晴らしく、あざやかな赤と黄色のグラデーションを満喫しました。

  仕事では、広島には月に一度、その他では福岡、高松、静岡、金沢、岐阜と様々なところに出張しましたが、そのついでの寄った場所では、瀬戸内海の直島が素晴らしいところでした。直島は、安藤忠雄さんがそのコンセプトを担った美術の島です。ベネッセミュージアムを中心に地中美術館やリュウハン美術館などがあり、町全体がアートにあふれています。実は町役場も穴場で、知る人ぞ知る石川和紘氏の設計によるモダンでレトロな建物なのです。直島に渡ったのは朝早かったのですが、美術館の開館が10:00だったので、宮浦港から地中美術館までゆっくりと歩いて、海の景色を満喫しました。その素晴らしい景色とモネをはじめとした美術館のすばらしさは一生の思い出です。

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(直島 地中美術館までの道からの風景)

  他にも福岡出張の時に見学した古伊万里の里や岐阜に行ったときに見た関ケ原の合戦の古戦場や首塚など、日本の名所を味わうことができました。

【そして、令和元年の締めくくりは】

  さて、人生楽しみな話として、音楽話を外すわけにはいきません。

  年末と言えば、何といっても忘れてならないのは第九です。12月には日本中で数え切れないほどの第九が演奏されます。実を言うと、クラシックコンサートに目がない私ですが、ベートーベンの交響曲第九番は生まれてこの方、まだ生演奏で聞いたことがなかったのです。特に理由はないのですが、亡き父がクラシックの大ファンで我が家では物心ついた時から家でクラシックが鳴っていました。そして、第九と言えば、かのフルトヴェングラー指揮のバイロイト祝祭楽団の演奏がいつも流れていたのです。

  この第九は、通常の第九の演奏時間が65分前後と言われる中で、74分の重厚長大な音楽世界なのです。フルヴェンの第九はデモーニッシュと言われますが、その人間の精神性を究極まで高めて表現する第九は確かに感動します。その後、いろいろな第九を聴いて、今ではピエール・モントゥーの第九が一番好きなのですが、海外のオーケストラの作品ばかりを聴いていたので、日本のオーケストラが演奏する第九を聴くのがつい億劫になってしまいます。

  第九のコンサートは、できればウィーンやベルリン、ザルツブルグに行って地元のオーケストラで聞きたい。いつの間にかそんなロマンを胸に秘めていたのです。ところが、ヨーロッパに行って有名オーケストラの第九を聴くには驚くほどの費用を用意する必要があるのです。チケットはネットで取ればなんとかなるのですが、日本と違い、ヨーロッパでベートーベンの第九は特別な時にしか演奏されません。そして、特別な時には往復の航空代金やホテル代が高額なのです。

  ここ2年程、その夢を胸に年末に第九を聴くことができるツアーを探したのですが、どれも法外な旅行代が組まれています。家族に相談すると、周到に計画してチケットを予約し、その日に合わせて旅を計画することが必要で今年は無理との話になりました。

  長年の夢であった生で聞く第九。今年は何としても生で聞きたいと本気になりました。12月に日本で第九を聴くのは簡単です。しかし、これまで永年第九の生演奏を我慢してきた身としては、いつでも聞くことができるオーケストラを聴きに行くことにためらいがあります。そこで、ネットを使い12月に来日するヨーロッパのオーケストラで第九の公演を検索しました。すると、ウクライナ国立歌劇場管弦楽団のコンサートが見つかったのです。

  ウクライナと言えば、近年ロシアのプーチン大統領とクリミヤの領土権について紛争中の国です。オーケストラの歴史を調べてみると、その歴史はそうそうたるもので、かのチャイコフスキーが指揮したのみならず、ラフマニノフやショスターコービッチも指揮したこともある伝統ある管弦楽団だったのです。これは聞きに行く価値が十分にあると思い、さっそくチケットを手に入れました。

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(ウクライナ国立歌劇場フィル第九 ポスター)

【年末はやっぱり第九が似合います】

  12月27日19:00。上野の東京文化会館大ホールは満員の聴衆で満たされていました。今回は、早い時期にチケットを手配したので座席は6列目真ん中の通路脇という絶好の席でした。目の前には、チェロ奏者が座る椅子。その左には、今回の指揮者ミコラ・ジャジューラ氏の指揮台が見えています。場内の照明が落ちてくると、劇場の右側からオーケストラの面々が登場します。最初の演目は「白鳥の湖」。このオーケストラの地元であるチャイコフスキーの名曲です。

  あの誰もが知る旋律が会場に響き始めます。コンサートマスターは、30代にも見える美しい女性ですが、そのヴァイオリンから流れ出る音色は美しく、これまでにない繊細で力強い響きが会場中を魅了していきます。指揮者もロマンあふれる指揮ぶりで、ロシアのオーケストラの伝統の音色はかくも美しいのかと感動します。

  その音色に聞きほれている間に組曲「白鳥の湖」は幕を閉じ、会場は休憩時間となります。

  そして、いよいよ第九がはじまります。会場に入ってきたのは、まず40人を超える合唱団の面々です。合唱は、日本の名門と言ってもよい晋友会合唱団です。合唱の指揮は清水敬一氏。期待に胸が膨らみます。その人数に驚いていると、管弦楽団のメンバーが拍手とともに入場してきます。そして、美貌のコンサートマスターの弓からチューニングがはじまり、その音が静まるといよいよ指揮者の登場です。

  弦とホルンの長い響きが流れ徐々に輻輳していくと、力強いアクセントで第1主題が響き渡ります。これぞ第九。感動に胸が打ち震えます。第1ヴァイオリンの引き締まった美しい音色は管弦楽の流れの中に溶け込んで、一段となった戦慄が、我々の心に響き渡ります。やはり、そのテンポは現代風の速さを保っています。早いながらもしっかりとしたコントラバスの音色に重く響き渡る木簡の音が重なっていきます。

  第1楽章は第1旋律の力強い響きと美しい第二旋律がまくるめくような変奏を繰り返しで終わります。そして、ティンパニィが軽快で印象的なリズムを刻む第2楽章がはじまります。ベートーベンは、リズムが大好きで現代で言えばドラムに当たるティンパニィを多用することで知られています。交響曲第7番は、クラシック界のロックンロールと言われるように、この第2楽章のリズムは本当に魅惑的です。そして、このオーケストラが醸し出す、その旋律とリズムは我々聴衆を第九の世界に引き込んで行きます。

  これまで数え切れないほど第九を聴いてきましたが、これほどみごとな第2楽章を聴いたことがありません。あまりの感動に思わず胸が熱くなりました。

  感動の激しいリズムが終わると、美しい調べに体が流れていくように優美な第3楽章がはじまります。第2楽章の早いスケルツォと第3楽章の緩やかなロンド、まさに計算されつくしたベートーベンの芸術世界に引き込まれていきます。美しい旋律とその変奏は我々を夢の中へと連れていってくれます。そこは、喜びに満ちた平和な世界のようです。

  癒しの旋律が終了し、息を整えた指揮者は一瞬のスキをついて腕を天に振り上げます。

  人類の歓喜を歌い上げる「歓喜の歌」の幕が切って落とされました。第3楽章が始まる前に登場したソリスト4人が大合唱団の前に座っています。第九をライブで聞いて初めて分かったのですが、ベートーベンは「歓喜の歌」の旋律をオーケストラで奏でるときに、感動的な重奏を語らせていました。はじめにコントラバスとチェロで奏でられる歓喜の旋律は、そこにビオラが重なることで重厚に響きます。さらに、木管と金管がそこに旋律を重ねていくことによって旋律は幾重にも重なっていきます。最後に加わるヴァイオリン。ここで、折り重なった旋律は絹のようなしなやかさを身にまとわせ、歓喜が完成するのです。

  そして、オーケストラが主題に戻った刹那、いきなりバスのソロが会場に響き渡ります。「おお友よ、この調べではない。」ここからはじまる、ソリストが奏でる歓喜の声と大合唱はまさに「自由と勇気こそが我々に喜びを生み出すのだ」というシラーとベートーベンの想いを我々に届けるのです。オーケストラが4重の弦と幾重にも重なる木管と金管の調べで変奏を醸し出せば、そこに連なる合唱が「生きる」ことの歓喜を謳いあげます。

 その大円団は、ベートーベンが伝えたかった数十人による歌声が響き渡って完結します。

 第九の感動は、100人を超えようかという人々が心の限り奏でる歌声と旋律によって永遠の詩(うた)として我々の心に生き続けることになるのです。今年の年末は、ウクライナの第九で幸福な想いで終わることができそうです。

 年末の第九は本当に格別です。皆さんも、心豊かによいお年をお迎えください。

 それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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令和初めの年越しは第九ライブ

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  皆さんにとって今年はどんな年でしたか?

  今年の漢字は「令」。今年は令和初めの年でした。天皇陛下が新たに即位され、日本の新たな歴史が元号とともにスタートしました。なんといっても盛り上がったのは、日本で開催されたラグビーワールドカップです4年前、イギリスで開催された大会で、日本は当時世界ランク3位の南アフリカ代表を逆転で破り「奇跡」と言われました。

  当時、日本代表を率いていたエディー・ジョーンズヘッドコーチは、この勝利の瞬間、「歴史は変わった」と語りました。プールBでは、南アフリカ戦の勝利に続いて強豪サモアも下した日本は、アメリカも撃破してなんと3勝を挙げる快挙をなし遂げたのです。ところが、3勝1敗の日本はなぜか予選リーグで敗退してしまったのです。ラグビーでは、勝ち点のカウントが独特であり、負けても4トライ以上を挙げるか、もしくは7点差以内であれば負けても勝ち点1が加わるのです。この大会で日本は3勝を挙げたにもかかわらず、勝ち点差で3位となり、決勝進出を逃したのです。

  この悔しさを胸にラグビー日本代表はすべてをラグビーにささげて4年間を過ごしてきたのです。そして今年、日本で開催されたワールドカップ。日本代表は予選を全勝で勝ち抜いてみごとベスト8にコマを進めたのでした。対ロシア戦30対10、対アイルランド戦19対12、対サモア戦38対19、対スコットランド戦28対21。試合は、スクラムで打ち勝ち、ジャッカルでボールを奪い、オフロードパスで逆転のトライを奪うという、まさにワンチームで勝利した戦いでした。

  やはり今年のニュースNO.1は、ラグビー日本代表のベスト8への闘いでした。

【令和最初の1年は?】

  さて、個人的に今年はとても充実した1年でした。海外旅行はお休みしましたが、国内では様々な景色を味わいました。4月には、桜が満開の青森の弘前城と秋田の角館を楽しみました。生憎天気は雨で気温が10度前後と寒かったのですが、弘前城では人がまばらで、地元のボランティアの方の案内で2時間も弘前城内を案内してもらうことができました。満開の桜の間にハートが見えるインスタ名所があり、さすがにそこだけが写真待ちだったのが印象的でした。ただし、ボランティアのおじさんは「個人的にはここは案内したくない場所なんだけれど、ここに案内しないと怒られるんだよね。」と伝統とインスタの葛藤を間近に見て不謹慎ながら笑ってしまいました。

  5月にはブログにも書いた伊豆のジオパークめぐり。7月には立山アルペンルートを長野側から入って富山に抜け、黒部ダムの絶景を満喫。宇奈月温泉からトロッコ電車に乗って欅平の渓谷散策も味わいました。

  11月には、久しぶりに栃木県の奥日光から日光、さらに平家の落人で知られる湯西川温泉に行ってきました。例年、湯西川は360度、山が黄色く紅葉して絶景のパノラマを見ることができるのですが、残念ながら今年は長期の雨のせいで不作でした。それでも平家の里に植えられた紅葉はみごとな紅葉をみせてくれ、美しさに心が洗われました。さらに帰りに通った那須のもみじライン(日光塩原有料道路)では、峠を越えて塩原側に入ってからの紅葉が素晴らしく、あざやかな赤と黄色のグラデーションを満喫しました。

  仕事では、広島には月に一度、福岡、高松、静岡、金沢、岐阜と様々なところに出張しましたが、そのついでの寄った場所では、瀬戸内海の直島が素晴らしいところでした。直島は、安藤忠雄さんがそのコンセプトを担った美術の島でした。ベネッセミュージアムを中心に地中美術館やリュウハン美術館などがあり、町全体がアートにあふれています。実は町役場も穴場で、知る人ぞ知る石川和紘氏の設計によるモダンでレトロな建物なのです。直島に渡ったのは朝早かったのですが、美術館の開館が10:00だったので、宮浦港から地中美術館までゆっくりと歩いて、海の景色を満喫しました。その素晴らしい景色とモネをはじめとした美術館のすばらしさは一生の思い出です。

  他にも福岡出張の時に見学した古伊万里の里や岐阜に行ったときに見た関ケ原の合戦の古戦場や首塚など、日本のマイ所を味わうことができました。

【そして、令和元年の締めくくりは】

  さて、人生楽しみな話として、音楽話を外すわけにはいきません。

  年末と言えば、何といっても忘れてならないのは第九です。12月には日本中で数え切れないほどの第九が演奏されます。実を言うと、クラシックコンサートに目がない私ですが、ベートーベンの交響曲第九番は生まれてこの方、まだ生演奏で聞いたことがなかったのです。特に理由はないのですが、亡き父がクラィックの大ファンで我が家では物心ついた時から家でクラシックがなっていました。そして、第九と言えば、かのフルトヴェングラー指揮のバイロイト祝祭楽団の演奏が流れていたのです。

  この第九は、通常の第九の演奏時間が65分前後と言われる中で、74分の重厚長大な音楽世界なのです。フルヴェンの第九はデモーニッシュと言われますが、その人間の精神性を究極まで高めて表現する第九は確かに感動します。その後、いろいろな第九を聴いて、今ではピエール・モントゥーの第九が一番好きなのですが、海外のオーケストラの作品ばかりを聴いていたので、日本のオーケストラが演奏する第九を聴くのがつい億劫になってしまいます。

  第九のコンサートは、できればウィーンやベルリン、ザルツブルグに行って地元のオーケストラで聞きたい。いつも間にかそんなロマンを胸に秘めていたのです。ところが、ヨーロッパに行って有名オーケストラの第九を聴くには驚くほどの金額を出す必要があるのです。チケットはネットで取ればなんとかなるのですが、日本と違い、ヨーロッパでバートーベンの第九は特別な時にしか演奏されません。そして、特別な時には往復の航空代金やホテル代が高額なのです。

  ここ2年程、その夢を胸に年末に第九を聴くことができるツアーを探したのですが、どれも法外な旅行代が組まれています。周囲に相談すると、周到に計画してチケットを予約し、その日に合わせて旅を計画することが必要で今年は無理との話になりました。

  長年の夢であった生で聞く第九。今年は何とか国内で聞きたいと本気になりました。12月に日本で第九を聴くのは簡単です。しかし、これまで永年第九の生演奏を我慢してきた身としては、いつでも聞くことができるオーケストラを聴きに行くことにためらいがあります。そこで、ネットを使い12月に来日するヨーロッパのオーケストラで第九の公演を検索しました。すると、ウクライナ国立歌劇場管弦楽団のコンサートを見つけたのです。

  ウクライナと言えば、近年ロシアのプーチン大統領とクリミヤの領土権について紛争中の国です。そのオーケストラの歴史を調べてみると、その歴史はそうそうたるもので、かのチャイコフスキーが指揮したのみならず、ラフマニノフやショスターコービッチも指揮したこともある伝統ある管弦楽団だったのです。これは危機に行く価値が十分にあると思い、さっそくチケットを手に入れました。

【年末はやっぱり第九が似合います】

  12月27日19:00。上野の東京文化会館大ホールは満員の聴衆で満たされていました。今回は、早い時期にチケットを手配したので座席は6列目真ん中の通路脇と言う絶好の席でした。目の前には、チェロ奏者が座る椅子。その左には、今回の指揮者ミコラ・ジャジューラ氏の指揮台が見えています。場内の照明が落ちてくると、劇場の右側からオーケストラの満々が登場します。最初の演目は「白鳥の湖」。このオーケストラの地元チャイコフスキーです。

  あの誰でもが知る旋律が会場に響き始めます。コンサートマスターは、30代にも見える美しい女性ですが、そのヴァイオリンから流れ出る音色は美しく、これまでにない繊細で力強い響きが会場中を魅了していきます。指揮者もロマンあふれる指揮ぶりで、ロシアのオーケストラの伝統の音色はかくも美しいのかと感動します。

  その音色に聞きほれている間に「白鳥の湖」は幕を閉じ、会場は休憩時間となります。

  そして、いよいよ第九がはじまります。会場に入ってきたのはまず40人を超える合唱団の面々です。




コートールド美術館は印象派の宝庫(その2)

こんばんは。

  コートールド美術館展、第二章の最後を飾るのは、この美術館展のアイコンと言ってもよい「フォリー=ベルジェールのバー」です。

  コートールド美術館は、美術研究を主務とするコートールド美術研究所に付随する美術館です。今回の美術展では、こうした美術館の特性を生かして、展示されている名画の特徴や芸術的な進取性などを解説しているところが大きな特徴となっています。

  マネ晩年の名作であるこの絵にも様々な解説がなされています。

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(マネ「フォリー=ベルジェールのバー」)

  マネはこの絵を再作するにあたって自らのアトリエに、当時大人気であったパリのミュージックホール「フォリー=ベルジェール」のバーを創り、そこに実際のバーメイドを連れてきてモデルとしたと言います。このバーメイドの後ろは前面鏡張りとなっており、その鏡には観客席が写っています。このバーメイドの物憂げな表情も魅惑的ですが、その後ろ姿は鏡に映っており、さらに鏡に映る紳士を見ると、メイドはこの紳士と会話していることが分かります。

  つまり、この絵を見ている我々はこの紳士の視線と同様の場面を目にしていることになります。しかし、この鏡の中は幻想的な世界です。まず、この角度から見るとメイドの後ろ姿や紳士の姿は非常に不自然な角度となっており、マネが故意に鏡の角度をゆがめていることが見て取れます。さらには、メイドの姿に焦点を合わせるために鏡に映る観客席の群衆はぼやかされていて、マネはそうすることで、この絵の効果を引き出そうとしていることがよくわかります。

  実際の絵は圧倒的な迫力を持って我々の心に当時のパリを映し出しますが、晩年のマネは尽きることなく新しい文化と新しい技法に挑戦していたのだと改めて感動します。

【印象派の奥深さを知る】

  数々の絵から得る感動で心を満たされながら美術展はいよいよ最終章へと向かっていきます。最後を飾る第三章は、「素材、技法から読み解く」と題されています。

  この章では、19世紀に発明されたチュ-ブ入りの絵の具やカメラの発明と普及などの技術革新を画家たちが自らの作画にどのように取り入れようとしたか、その痕跡に焦点を当てていくことになります。さらにこの章では、印象派の次の世代へと進んでいくとともに、タヒチに渡った画家ゴーガンの絵を見ることができます。

  まず目に飛び込んできたのは、くすんだ茶色の風景の中にぼんやりと描かれた馬上の主従の姿です。タイトルは、「ドンキホーテとサンチョ・パンサ」。作家はオノレ・ドーミネ。ドンキホーテは、御姫様であるドルシネアを守る騎士として、幻想の中の怪物に挑んでいく奇態な男ですが、凛々しく描かれたドンキホーテは、表情こそ描かれていないものの理想に向かう姿が象徴的に描かれていました。

  この絵も未完の作品でしたが、ここからしばらく絵画展は未完の作品を紹介していきます。

  ドガの未完作品は、窓辺の椅子に座る真っ暗な女性が描かれた「窓辺の女」、そして傘をさしてうつむく女性をななめ上の視点から描いた「傘をさす女」です。前作は、新しい絵の具を自ら調合して描こうとした作品でただ暗い印象ですが、傘をさす女は、貴婦人が傘をさしてうつむいている姿が習作的に描かれていて、ドガのセンスが光っている作品です。

  未完の作品の中では、セザンヌの作品に目を奪われました。

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(セザンヌ「曲がり道(未完)」)

  「曲がり道」と題された絵は、72cm×92cmの大きなキャンバスに尖塔のある田舎の遠景が描かれています。この作品が感動を生むのは、描かれたすべての事物の輪郭がぼやけていることです。さらに色使いも田畑や森や草原と思われる風景の緑や青と画面の上部半分以上を占める空の淡い青で満たされており、尖塔である教会へと続く道が白と黄土色であがかれています。それは、まるで心の中の色をカンヴァスに映し出したようで、その淡さに心が洗われるような気がします。ピカソなどキュビズムの画家たちがセザンヌに影響を受けたと言われる所以が分かるような気がしました。

  そして、次に現れるのはポスト印象派の代表ともいえる点描画の世界です。

  点描画と言えば、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日」が思い出されますが、コートールド氏が手に入れたのは、「クールブヴォアの橋」と題された作品です。この絵は、スーラが点描手法を全画面に用いた初めての作品と言われているそうです。この作品には豊かな水をたたえるセーヌ川河畔の風景が点描によって淡く描かれているのですが、その景色があの名画、グランド・ジャット島からの眺めだと知ると一層の感慨がわいてきます。

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(スーラ「クールブヴォアの橋」)

  この作品に続いて、小さなカンヴァスに描かれた点描画以前のスーラの作品が展示されています。「釣り人」、「船を塗装する男」、「水に入る馬」は、前作と同様にセーヌ川の河畔で描かれた作品と思われますが、画法はまさに印象派の油絵そのものであり、点描画以前のスーラのタッチを知ることができ、興味深い展示でした。スーラでは、小さいながらもさらなる点描画の意欲的な作品「グラブリームの夜明け」と題された美しい作品を見ることができました。

【ゴーガン その絵画の魅力】

  スーラの次に現れたのは、ポスト印象派を代表するポール・ゴーガンの作品でした。

  最初に展示されているのは、なんと絵画ではなく彫刻です。真っ白い大理石でできた彫刻は人の頭像です。凛とした若く魅惑的な表情の頭像は、なんとゴーガンの妻、メット=ソフィー・ガッドの姿を映したものでした。この作品は、ゴーガンが30歳ころの作品で、このころ彼は株式仲介人の仕事をしており、その傍らで芸術作品を作っていたと言います。その作品は、とても丁寧で美しく造形されており、ゴーガンの志がほの見える作品でした。

  ゴーガンの最初の作品は、ゴッホとのアルルでの生活と決別したゴーガンがフランスのブルターニュ地方を描いた「干し草」です。この作品は、一面黄色で塗られた干し草を積む多くの人々がえがかれていますが、そこにはゴッホに似たタッチが感じられ、まだ印象派の影響が強いゴーガンの筆致を見ることができます。

  ゴーガンといえば、南太平洋のタヒチ島で描かれた絵画が思い出されます。次の作品は、130cmのおおきなカンヴァスに描かれたタヒチ島の「テ・レリオア」です。この絵に描かれているのは、部屋の中に座る二人の女性とその横に猫。画面の左下には、幼い子供がうつぶせに眠っています。女性の奥にはタヒチ等の風景が描かれていますが、それが窓からの風景なのか画中画なのかは判然としません。

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(ゴーガン「テ・レリオア」)

  この絵の題名は、タヒチ語で「夢」をあらわしているそうです。描かれている女性二人も猫も全く別の方向を向いており、左右に掛けられたタペストリーに描かれる絵も民族的であり、その非現実性は題名そのものともいえます。ここの絵にはゴーガンが紡ぎ出した個性が前面に表出しており、心を動かされるのです。

  そして、その画の衝撃は、次の絵に引き継がれていきます。その画は「ネヴァーモア」。

  縦60cm×横116cm。横に長いカンヴァスには、横たわる全裸の女性が描かれます。ベッドに横たわる若い女性は左半身を下にして左手を頬に当てて両足をそろえて横たわっています。その表情は、タヒチ島の住民であり、何かを思案しているようです。ベッドの後ろには部屋の外で話をしている二人の女性の後ろ姿。さらに左の窓枠には、カラスのようなぶきみな鳥がとまっているのです。そのアンバランスな世界は、この世の不安を独自の映像と筆致で表現しており、その題名とも相まって妙に心をざわつかせます。

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(ゴーガン「ネヴァーモア」)

  この絵を見ると、ここにゴーガンの個性が極まっていると思いが強く感じられ、心が揺さぶられるような感動が沸き起こりました。

【印象派に続く作家たち】

  ゴーガンの筆致に魅入られたまま歩を進めると目に入ってくるのは、ボナールの絵画です。

  ボナールの作品は、フランスのヴェルノンに購入した家とそこから見た景色を描いた「青いバルコニー」、椅子に座る恋人の姿を描いた「室内の若い女」、課題のとおりの題名の「オリーヴの記と教会のある風景」の3点が続いて展示されています。中でも「青いバルコニー」に描かれた緑の木々の美しさは、ボナールの筆遣いをよく表わして心に残る作品でした。

  ボナールに続いて展示されるのは、スーティンの「白いブラウスを着た若い女」。そして、その先に待っていたのは、一目でその作家とわかる「裸婦」でした。

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(モディリアーニ「裸婦」)

  その作家はモディリアーニ。モディリアーニと言えば、個性的な輪郭を持つ女性の肖像画がすぐに頭に浮かびますが、ここで展示されていたのは、一糸まとわぬ女性の半身像です。このときに描かれた5点の裸婦のうち2点はショウウィンドウに飾られたと言いますが、1917年当時、この絵は公序良俗に反するとして、警察から撤去を求められたそうです。なるほど、それほどこの作品が女性の裸体の魅力を的確に表現していたということか、と納得しました。この絵は、顔と体でまったく筆遣いが異なることが分かっており、モディリアーニの絵画の秘密の一端が込められた絵だということがよくわかります。

  この章では、こうしたポスト印象派の絵画に囲まれるようにして、展示室の中心に多くのブロンズ像が展示されていました。なんといっても感動するのは、ロダンの作品たちです。

  ロダンの作品は「静」と「動」をみごとに創り分けていますが、ここに展示された5作品を見るとそのどちらもが素晴らしい作品です。「叫び」と言う作品は、青年が不安そうな表情で大きく叫ぶ顔が描かれた造形ですが、そこにはリアルを超えた真実が表現されています。さらに「ムーヴマン」呼ばれるダンスを造形した3作品の躍動感は人間が瞬発する瞬間を切り取った造形美にあふれる作品です。ヨーロッパで活躍したという日本の女優「花子」を描いた作品は、不可思議な表情が魅力的な「静」の作品です。

  そして、ブロンズ像の最後には、ドガの作品が展示されています。ドガは、たくさんの踊り子を描いた作品で有名ですが、このブロンズ像も踊り子を描いた作品です。この作品の踊り子は、とても変わった姿勢を取っています。その題名は、「右の足裏を見る踊り子」。題名の通り、右足を背中の方に持ち上げて、振り返って自分の右の足の裏を見ている踊り子。このポーズを描くのにドガ゙は10年以上の歳月を費やしたといいますが、やはり人の造形は美しいと改めて感じられる作品でした。

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(ドガ「右の足裏を見る踊り子」)

  こうして、すっかり魅入られる作品に出会うことができた美術展は終了しました。

  今回のコートールド美術館展は、はじめてみる名画が次々に現れて、感動の連続に心が震えた美術展でした。あまりにも多くの名画に出会ったので展示室から出たあとにはしばし放心状態となっていました。この素晴らしい美術展を企画した多くの皆さんに心から感謝します。ロンドンには大英博物館やターナー美術館が有名ですが、これほど豊かな美術館があったとは、うれしい驚きです。


  この美術展は、上野での展示を終了し、これから愛知、神戸で展示が行われます。名古屋、関西の皆さん。ぜひコートールド美術館展に足を運んでください。芳醇な芸術の世界にひたれること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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コートールド美術館は印象派の宝庫(その2)

こんばんは。

  コートールド美術館展、第二章の最後を飾るのは、この美術館展のアイコンと言ってもよい「フォリー=ベルジェールのバー」です。

  コートールド美術館は、美術研究を主務とするコートールド美術研究所に付随する美術館です。今回の美術展では、こうした美術館の特性を生かして、展示されている名画の特徴や芸術的な進取性などを解説しているところが大きな特徴となっています。

  マネ晩年の名作であるこの絵にも様々な解説がなされています。

  マネはこの絵を再作するにあたって自らのアトリエに、当時大人気であったパリのミュージックホール「フォリー=ベルジェール」のバーを創り、そこに実際のバーメイドを連れてきてモデルとしたと言います。このバーメイドの後ろは前面鏡張りとなっており、その鏡には観客席が写っています。このバーメイドの物憂げな表情も魅惑的ですが、その後ろ姿は鏡に映っており、さらに鏡に映る紳士を見ると、メイドはこの紳士と会話していることが分かります。

  つまり、この絵を見ている我々はこの紳士の視線と同郷の場面を目にしていることになります。そかし、この鏡の中は幻想的な世界です。まず、この角度から見るとメイドの後ろ姿や紳士の姿は非常に不自然な角度となっており、マネが故意に鏡の角度をゆがめていることが見て取れます。さらには、メイドの姿に焦点を合わせるために鏡に映る観客席の群衆はぼやかされていて、マネはそうすることで、この絵の効果を引き出そうとしていることがよくわかります。

  実際の絵は圧倒的な迫力を持って我々の心に当時のパリを映し出しますが、晩年のマネは尽きることなく新しい文化と新しい技法に挑戦していたのだと改めて感動します。

【印象派の奥深さを知る】

  数々の絵から得る感動で心を満たされながら美術展はいよいよ最終章へと向かっていきます。最後を飾る第三章は、「素材、技法から読み解く」と題されています。

  この章では、19世紀に発明されたチュ-ブ入りの絵の具やカメラの発明と普及などの技術革新を画家たちが自らの作画にどのように取り入れようとしたか、その痕跡に焦点を当てていくことになります。さらにこの章では、印象派の次の世代へと進んでいくとともに、タヒチに渡った画家ゴーガンの絵を見ることができます。

  まず目に飛び込んできたのは、くすんだ茶色の風景の中にぼんやりと描かれた馬上の主従の姿です。タイトルは、「ドンキホーテとサンチョ・パンサ」。作家はオノレ・ドーミネ。ドンキホーテは、御姫様であるドルシネアを守る騎士として、幻想の中の怪物に挑んでいく奇態な男ですが、凛々しく描かれたドンキホーテは、表情こそ描かれていないものの理想に向かう姿が象徴的に描かれていました。

  この絵も未完の作品でしたが、ここからしばらく絵画展は未完の作品を紹介していきます。

  ドガの未完作品は、窓辺の椅子に座る真っ暗な女性ウェがいた「窓辺の女」、そして傘をさしてうつむく女性をななめ上の視点から描いた「傘をさす女」です。前作は、新しい絵の具を自ら調合して描こうとした作品でただ暗い印象ですが、傘をさす女は、貴婦人が傘をさしてうつむいている姿が習作的に描かれていて、ドガのセンスが光っている作品です。

  未完の作品の中では、セザンヌの作品に目を奪われました。

  「曲がり道」と題された絵は、72cm×92cmの大きなキャンバスに尖塔のある田舎の遠景が描かれています。この作品が感動を生むのは、描かれたすべての事物の輪郭がぼやけていることです。さらに色使いも田畑や森や草原と思われる風景の緑や青と画面の上部半分以上を占める空の淡い青で満たされており、尖塔である教会へと続く道が白と黄土色であがかれています。それは、まるで心の中の色をカンヴァスに映し出したようで、その淡さに心が現れるような気がします。ピカソなどキュビズムの画家たちがセザンヌに永虚を受けたと言われる所以が分かるような気がしました。

  そして、次に現れるのはポスト印象派の代表ともいえる点描画の世界です。

  点描画と言えば、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日」が思い出されますが、コートールド氏が手に入れたのは、「クールブヴォアの橋」と題された作品です。この絵は、スーラが点描手法を全画面に用いた初めての作品と言われているそうです。この作品には豊かな水をたたえるセーヌ川河畔の風景が点描によって淡く描かれているのですが、その景色があの名画、グランド・ジャット島からの眺めだと知ると一層の感慨がわいてきます。

  この作品に続いて、小さなカンヴァスに描かれた点描画以前のスーラの作品が展示されています。「釣り人」、「船を塗装する男」、「水に入る馬」は、前作と同様にセーヌ川の河畔で描かれた作品と思われますが、画法はまさに印象派の油絵そのものであり、点描画以前のスーラのタッチを知ることができ、興味深い展示でした。スーラでは、小さいながらもさらなる点描画の意欲的な作品「グラブリームの夜明け」と題された美しい作品を見ることができました。

【ゴーガン その絵画の魅力】

  スーラの次に現れたのは、ポスト印象派を代表するポール・ゴーガンの作品でした。

  最初に展示されているのは、なんと絵画ではなく彫刻です。真っ白い大理石でできた彫刻は人の頭像です。凛とした若く魅惑的な表情の頭像は、なんとゴーガンの妻、メット=ソフィー・ガッドの姿を映したものでした。この作品は、ゴーガンが30歳ころの作品で、このころ彼は株式仲介人の仕事をしており、その傍らで芸術作品を作っていたと言います。その作品は、とても丁寧で美しく造形されており、ホーガンの志がほの見える作品でした。

  ゴーガンの最初の作品は、ゴッホとのアルルでの生活と決別したゴーガンがフランスのブルターニュ地方を描いた「干し草」です。この作品は、一面黄色で塗られた干し草を積む多くの人々がえがかれていますが、そこにはゴッホに似たタッチが感じられ、まだ印象派の影響が強いゴーガンの筆致を見ることができます。

  ゴーガンといえば、南太平洋のタヒチ島で描かれた絵画が思い出されます。次の作品は、130cmのおおきなカンヴァスに描かれたタヒチ島の「テ・レリオア」です。この絵に描かれているのは、部屋の中に座る二人の女性とその横に猫。画面の左下には、幼い子供がうつぶせに眠っています。女性の奥にはタヒチ等の風景が描かれていますが、それが窓からの風景なのか画中画なのかは判然としません。

  この絵の題名は、タヒチ語で「夢」をあらわしているそうです。描かれている女性二人も猫も全く別の方向を向いており、左右に掛けられたタペストリーに描かれる絵も民族的であり、その非現実性は題名そのものともいえます。ここの絵にはゴーガンが紡ぎ出した個性が前面に表出しており、心を動かされるのです。

  そして、その画の衝撃は、次の絵に引き継がれていきます。その画は「ネヴァーモア」。

  縦60cm×横116cm。横に長いカンヴァスには、横たわる全裸の女性が描かれます。ベッドに横たわる若い女性は左半身を下にして左手を頬に当てて両足をそろえて横たわっています。その表情は、タヒチ島の住民であり、何かを思案しているようです。ベッドの後ろには部屋の外で話をしている二人の女性の後ろ姿。さらに左の窓枠には、カラスのようなぶきみな鳥がとまっているのです。そのアンバランスな世界は、この世の不安を独自の映像と筆致で表現しており、その題名とも相まって妙に心をざわつかせます。

  この絵を見ると、ここにゴーガンの個性が極まっていると思いが強く感じられ、こk路が揺さぶられるような感動が沸き起こりました。

【印象派に続く作家たち】

  ゴーガンの筆致に魅入られたまま歩を進めると目に入ってくるのは、ボナールの絵画です。

  ボナールの作品は、フランスのヴェルノンに購入した家とそこから見た景色を描いた「青いバルコニー」、椅子に座る恋人の姿を描いた「室内の若い女」、課題のとおりの題名の「オリーヴの記と教会のある風景」の3点が続いて展示されています。中でも「青いバルコニー」に描かれた緑の木々の美しさは、ボナールの筆遣いをよく表わして心に残る作品でした。

  ボナールに続いて展示されるのは、スーティンの「白いブラウスを着た若い女」。そして、その先に待っていたのは、一目でその作家とわかる「裸婦」が現れます。

  その作家はモディリアーニ。モディリアーニと言えば、個性的な輪郭を持つ女性の肖像画がすぐに頭に浮かびますが、ここで展示されていたのは、一糸まとわぬ女性の半身像です。このときに描かれた5点の裸婦のうち2点はショウウィンドウに飾られたと言いますが、1917年当時、この絵は公序良俗に反するとして、警察から撤去を求められたそうです。なるほど、それほどこの作品が女性の裸体の魅力を的確に表現していたということか、と納得しました。この絵は、顔と体でまったく筆遣いが異なることが分かっており、モディリアーニの絵画の秘密の一端が込められた絵だということがよくわかります。

  この章では、こうしたポスト印象派の絵画に囲まれるようにして、展示室の中心に多くのブロンズ像が展示されていました。なんといっても感動するのは、ロダンの作品たちです。

  ロダンの作品は「静」と「動」をみごとに創り分けていますが、ここに展示された5作品を見るとそのどちらもが素晴らしい作品です。「叫び」と言う作品は、青年が不安そうな表情で大きく叫ぶ顔が描かれた造形ですが、そこにはリアルを超えた真実が表現されています。さらに「ムーヴマン」呼ばれるダンスを造形した3作品の躍動感は人間が瞬発する瞬間を切り取った造形美にあふれる作品です。ヨーロッパで活躍したという日本の女優「花子」を描いた作品は、不可思議な表情が魅力的な「静」の作品です。

  そして、ブロンズ像の最後には、ドガの作品が展示されています。ドガは、たくさんの踊り子を描いた作品で有名ですが、このブロンズ像も踊り子を描いた作品です。この作品の踊り子は、とても変わった姿勢を取っています。その題名は、「右の足裏を見る踊り子」。題名の通り、右足を背中の方に持ち上げて、振り返って自分の右の足の裏を見ている踊り子。このポーズを描くのにドガ゙は10年以上の歳月を費やしたといいますが、やはり人の造形は美しいと改めて感じられる作品でした。

  こうして、すっかり魅入られる作品に出会うことができた美術展は終了しました。

  今回のコートールド美術館展は、はじめてみる名画が次々に現れて、感動の連続に心が震えた美術展でした。あまりにも多くの名画に出会ったので展示室から出たあとにはしばし放心状態となっていました。この素晴らしい美術展を企画した多くの皆さんに心から感謝します。ロンドンには大英博物館やターナー美術館が有名ですが、これほど豊かな美術館があったとは、うれしい驚きです。


  この美術展は、上野での展示を終了し、これから愛知、神戸で展示が行われます。名古屋、関西の皆さん。ぜひコートールド美術館展に足を運んでください。芳醇な芸術の世界にひたれること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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