令和初めの年越しは第九ライブ

こんばんは。

  皆さんにとって今年はどんな年でしたか?

  今年の漢字は「令」。今年は令和初めの年でした。天皇陛下が新たに即位され、日本の新たな歴史が元号とともにスタートしました。なんといっても盛り上がったのは、日本で開催されたラグビーワールドカップです4年前、イギリスで開催された大会で、日本は当時世界ランク3位の南アフリカ代表を逆転で破り「奇跡」と言われました。

  当時、日本代表を率いていたエディー・ジョーンズヘッドコーチは、この勝利の瞬間、「歴史は変わった」と語りました。プールBでは、南アフリカ戦の勝利に続いて強豪サモアも下した日本は、アメリカも撃破してなんと3勝を挙げる快挙をなし遂げたのです。ところが、3勝1敗の日本はなぜか予選リーグで敗退してしまったのです。ラグビーでは、勝ち点のカウントが独特であり、負けても4トライ以上を挙げるか、もしくは7点差以内であれば負けても勝ち点1が加わるのです。この大会で日本は3勝を挙げたにもかかわらず、勝ち点差で3位となり、決勝進出を逃したのです。

  この悔しさを胸にラグビー日本代表はすべてをラグビーにささげて4年間を過ごしてきたのです。そして今年、日本で開催されたワールドカップ。日本代表は予選を全勝で勝ち抜いてみごとベスト8にコマを進めたのでした。対ロシア戦30対10、対アイルランド戦19対12、対サモア戦38対19、対スコットランド戦28対21。試合は、スクラムで打ち勝ち、ジャッカルでボールを奪い、オフロードパスで逆転のトライを奪うという、まさにワンチームで勝利した戦いでした。

  やはり今年のニュースNO.1は、ラグビー日本代表のベスト8への闘いでした。

【令和最初の1年は?】

  さて、個人的に今年はとても充実した1年でした。海外旅行はお休みしましたが、国内では様々な景色を味わいました。4月には、桜が満開の青森の弘前城と秋田の角館を楽しみました。生憎天気は雨で気温が10度前後と寒かったのですが、弘前城では人がまばらで、地元のボランティアの方の案内で2時間も弘前城内を案内してもらうことができました。満開の桜の間にハートが見えるインスタ名所があり、さすがにそこだけが写真待ちだったのが印象的でした。ただし、ボランティアのおじさんは「個人的にはここは案内したくない場所なんだけれど、ここに案内しないと怒られるんだよね。」と伝統とインスタの葛藤を間近に見て不謹慎ながら笑ってしまいました。

  5月にはブログにも書いた伊豆のジオパークめぐり。7月には立山アルペンルートを長野側から入って富山に抜け、黒部ダムの絶景を満喫。宇奈月温泉からトロッコ電車に乗って欅平の渓谷散策も味わいました。

  11月には、久しぶりに栃木県の奥日光から日光、さらに平家の落人で知られる湯西川温泉に行ってきました。例年、湯西川は360度、山が黄色く紅葉して絶景のパノラマを見ることができるのですが、残念ながら今年は長期の雨のせいで不作でした。それでも平家の里に植えられた紅葉はみごとな紅葉をみせてくれ、美しさに心が洗われました。さらに帰りに通った那須のもみじライン(日光塩原有料道路)では、峠を越えて塩原側に入ってからの紅葉が素晴らしく、あざやかな赤と黄色のグラデーションを満喫しました。

  仕事では、広島には月に一度、福岡、高松、静岡、金沢、岐阜と様々なところに出張しましたが、そのついでの寄った場所では、瀬戸内海の直島が素晴らしいところでした。直島は、安藤忠雄さんがそのコンセプトを担った美術の島でした。ベネッセミュージアムを中心に地中美術館やリュウハン美術館などがあり、町全体がアートにあふれています。実は町役場も穴場で、知る人ぞ知る石川和紘氏の設計によるモダンでレトロな建物なのです。直島に渡ったのは朝早かったのですが、美術館の開館が10:00だったので、宮浦港から地中美術館までゆっくりと歩いて、海の景色を満喫しました。その素晴らしい景色とモネをはじめとした美術館のすばらしさは一生の思い出です。

  他にも福岡出張の時に見学した古伊万里の里や岐阜に行ったときに見た関ケ原の合戦の古戦場や首塚など、日本のマイ所を味わうことができました。

【そして、令和元年の締めくくりは】

  さて、人生楽しみな話として、音楽話を外すわけにはいきません。

  年末と言えば、何といっても忘れてならないのは第九です。12月には日本中で数え切れないほどの第九が演奏されます。実を言うと、クラシックコンサートに目がない私ですが、ベートーベンの交響曲第九番は生まれてこの方、まだ生演奏で聞いたことがなかったのです。特に理由はないのですが、亡き父がクラィックの大ファンで我が家では物心ついた時から家でクラシックがなっていました。そして、第九と言えば、かのフルトヴェングラー指揮のバイロイト祝祭楽団の演奏が流れていたのです。

  この第九は、通常の第九の演奏時間が65分前後と言われる中で、74分の重厚長大な音楽世界なのです。フルヴェンの第九はデモーニッシュと言われますが、その人間の精神性を究極まで高めて表現する第九は確かに感動します。その後、いろいろな第九を聴いて、今ではピエール・モントゥーの第九が一番好きなのですが、海外のオーケストラの作品ばかりを聴いていたので、日本のオーケストラが演奏する第九を聴くのがつい億劫になってしまいます。

  第九のコンサートは、できればウィーンやベルリン、ザルツブルグに行って地元のオーケストラで聞きたい。いつも間にかそんなロマンを胸に秘めていたのです。ところが、ヨーロッパに行って有名オーケストラの第九を聴くには驚くほどの金額を出す必要があるのです。チケットはネットで取ればなんとかなるのですが、日本と違い、ヨーロッパでバートーベンの第九は特別な時にしか演奏されません。そして、特別な時には往復の航空代金やホテル代が高額なのです。

  ここ2年程、その夢を胸に年末に第九を聴くことができるツアーを探したのですが、どれも法外な旅行代が組まれています。周囲に相談すると、周到に計画してチケットを予約し、その日に合わせて旅を計画することが必要で今年は無理との話になりました。

  長年の夢であった生で聞く第九。今年は何とか国内で聞きたいと本気になりました。12月に日本で第九を聴くのは簡単です。しかし、これまで永年第九の生演奏を我慢してきた身としては、いつでも聞くことができるオーケストラを聴きに行くことにためらいがあります。そこで、ネットを使い12月に来日するヨーロッパのオーケストラで第九の公演を検索しました。すると、ウクライナ国立歌劇場管弦楽団のコンサートを見つけたのです。

  ウクライナと言えば、近年ロシアのプーチン大統領とクリミヤの領土権について紛争中の国です。そのオーケストラの歴史を調べてみると、その歴史はそうそうたるもので、かのチャイコフスキーが指揮したのみならず、ラフマニノフやショスターコービッチも指揮したこともある伝統ある管弦楽団だったのです。これは危機に行く価値が十分にあると思い、さっそくチケットを手に入れました。

【年末はやっぱり第九が似合います】

  12月27日19:00。上野の東京文化会館大ホールは満員の聴衆で満たされていました。今回は、早い時期にチケットを手配したので座席は6列目真ん中の通路脇と言う絶好の席でした。目の前には、チェロ奏者が座る椅子。その左には、今回の指揮者ミコラ・ジャジューラ氏の指揮台が見えています。場内の照明が落ちてくると、劇場の右側からオーケストラの満々が登場します。最初の演目は「白鳥の湖」。このオーケストラの地元チャイコフスキーです。

  あの誰でもが知る旋律が会場に響き始めます。コンサートマスターは、30代にも見える美しい女性ですが、そのヴァイオリンから流れ出る音色は美しく、これまでにない繊細で力強い響きが会場中を魅了していきます。指揮者もロマンあふれる指揮ぶりで、ロシアのオーケストラの伝統の音色はかくも美しいのかと感動します。

  その音色に聞きほれている間に「白鳥の湖」は幕を閉じ、会場は休憩時間となります。

  そして、いよいよ第九がはじまります。会場に入ってきたのはまず40人を超える合唱団の面々です。




コートールド美術館は印象派の宝庫(その2)

こんばんは。

  コートールド美術館展、第二章の最後を飾るのは、この美術館展のアイコンと言ってもよい「フォリー=ベルジェールのバー」です。

  コートールド美術館は、美術研究を主務とするコートールド美術研究所に付随する美術館です。今回の美術展では、こうした美術館の特性を生かして、展示されている名画の特徴や芸術的な進取性などを解説しているところが大きな特徴となっています。

  マネ晩年の名作であるこの絵にも様々な解説がなされています。

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(マネ「フォリー=ベルジェールのバー」)

  マネはこの絵を再作するにあたって自らのアトリエに、当時大人気であったパリのミュージックホール「フォリー=ベルジェール」のバーを創り、そこに実際のバーメイドを連れてきてモデルとしたと言います。このバーメイドの後ろは前面鏡張りとなっており、その鏡には観客席が写っています。このバーメイドの物憂げな表情も魅惑的ですが、その後ろ姿は鏡に映っており、さらに鏡に映る紳士を見ると、メイドはこの紳士と会話していることが分かります。

  つまり、この絵を見ている我々はこの紳士の視線と同様の場面を目にしていることになります。しかし、この鏡の中は幻想的な世界です。まず、この角度から見るとメイドの後ろ姿や紳士の姿は非常に不自然な角度となっており、マネが故意に鏡の角度をゆがめていることが見て取れます。さらには、メイドの姿に焦点を合わせるために鏡に映る観客席の群衆はぼやかされていて、マネはそうすることで、この絵の効果を引き出そうとしていることがよくわかります。

  実際の絵は圧倒的な迫力を持って我々の心に当時のパリを映し出しますが、晩年のマネは尽きることなく新しい文化と新しい技法に挑戦していたのだと改めて感動します。

【印象派の奥深さを知る】

  数々の絵から得る感動で心を満たされながら美術展はいよいよ最終章へと向かっていきます。最後を飾る第三章は、「素材、技法から読み解く」と題されています。

  この章では、19世紀に発明されたチュ-ブ入りの絵の具やカメラの発明と普及などの技術革新を画家たちが自らの作画にどのように取り入れようとしたか、その痕跡に焦点を当てていくことになります。さらにこの章では、印象派の次の世代へと進んでいくとともに、タヒチに渡った画家ゴーガンの絵を見ることができます。

  まず目に飛び込んできたのは、くすんだ茶色の風景の中にぼんやりと描かれた馬上の主従の姿です。タイトルは、「ドンキホーテとサンチョ・パンサ」。作家はオノレ・ドーミネ。ドンキホーテは、御姫様であるドルシネアを守る騎士として、幻想の中の怪物に挑んでいく奇態な男ですが、凛々しく描かれたドンキホーテは、表情こそ描かれていないものの理想に向かう姿が象徴的に描かれていました。

  この絵も未完の作品でしたが、ここからしばらく絵画展は未完の作品を紹介していきます。

  ドガの未完作品は、窓辺の椅子に座る真っ暗な女性が描かれた「窓辺の女」、そして傘をさしてうつむく女性をななめ上の視点から描いた「傘をさす女」です。前作は、新しい絵の具を自ら調合して描こうとした作品でただ暗い印象ですが、傘をさす女は、貴婦人が傘をさしてうつむいている姿が習作的に描かれていて、ドガのセンスが光っている作品です。

  未完の作品の中では、セザンヌの作品に目を奪われました。

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(セザンヌ「曲がり道(未完)」)

  「曲がり道」と題された絵は、72cm×92cmの大きなキャンバスに尖塔のある田舎の遠景が描かれています。この作品が感動を生むのは、描かれたすべての事物の輪郭がぼやけていることです。さらに色使いも田畑や森や草原と思われる風景の緑や青と画面の上部半分以上を占める空の淡い青で満たされており、尖塔である教会へと続く道が白と黄土色であがかれています。それは、まるで心の中の色をカンヴァスに映し出したようで、その淡さに心が洗われるような気がします。ピカソなどキュビズムの画家たちがセザンヌに影響を受けたと言われる所以が分かるような気がしました。

  そして、次に現れるのはポスト印象派の代表ともいえる点描画の世界です。

  点描画と言えば、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日」が思い出されますが、コートールド氏が手に入れたのは、「クールブヴォアの橋」と題された作品です。この絵は、スーラが点描手法を全画面に用いた初めての作品と言われているそうです。この作品には豊かな水をたたえるセーヌ川河畔の風景が点描によって淡く描かれているのですが、その景色があの名画、グランド・ジャット島からの眺めだと知ると一層の感慨がわいてきます。

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(スーラ「クールブヴォアの橋」)

  この作品に続いて、小さなカンヴァスに描かれた点描画以前のスーラの作品が展示されています。「釣り人」、「船を塗装する男」、「水に入る馬」は、前作と同様にセーヌ川の河畔で描かれた作品と思われますが、画法はまさに印象派の油絵そのものであり、点描画以前のスーラのタッチを知ることができ、興味深い展示でした。スーラでは、小さいながらもさらなる点描画の意欲的な作品「グラブリームの夜明け」と題された美しい作品を見ることができました。

【ゴーガン その絵画の魅力】

  スーラの次に現れたのは、ポスト印象派を代表するポール・ゴーガンの作品でした。

  最初に展示されているのは、なんと絵画ではなく彫刻です。真っ白い大理石でできた彫刻は人の頭像です。凛とした若く魅惑的な表情の頭像は、なんとゴーガンの妻、メット=ソフィー・ガッドの姿を映したものでした。この作品は、ゴーガンが30歳ころの作品で、このころ彼は株式仲介人の仕事をしており、その傍らで芸術作品を作っていたと言います。その作品は、とても丁寧で美しく造形されており、ゴーガンの志がほの見える作品でした。

  ゴーガンの最初の作品は、ゴッホとのアルルでの生活と決別したゴーガンがフランスのブルターニュ地方を描いた「干し草」です。この作品は、一面黄色で塗られた干し草を積む多くの人々がえがかれていますが、そこにはゴッホに似たタッチが感じられ、まだ印象派の影響が強いゴーガンの筆致を見ることができます。

  ゴーガンといえば、南太平洋のタヒチ島で描かれた絵画が思い出されます。次の作品は、130cmのおおきなカンヴァスに描かれたタヒチ島の「テ・レリオア」です。この絵に描かれているのは、部屋の中に座る二人の女性とその横に猫。画面の左下には、幼い子供がうつぶせに眠っています。女性の奥にはタヒチ等の風景が描かれていますが、それが窓からの風景なのか画中画なのかは判然としません。

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(ゴーガン「テ・レリオア」)

  この絵の題名は、タヒチ語で「夢」をあらわしているそうです。描かれている女性二人も猫も全く別の方向を向いており、左右に掛けられたタペストリーに描かれる絵も民族的であり、その非現実性は題名そのものともいえます。ここの絵にはゴーガンが紡ぎ出した個性が前面に表出しており、心を動かされるのです。

  そして、その画の衝撃は、次の絵に引き継がれていきます。その画は「ネヴァーモア」。

  縦60cm×横116cm。横に長いカンヴァスには、横たわる全裸の女性が描かれます。ベッドに横たわる若い女性は左半身を下にして左手を頬に当てて両足をそろえて横たわっています。その表情は、タヒチ島の住民であり、何かを思案しているようです。ベッドの後ろには部屋の外で話をしている二人の女性の後ろ姿。さらに左の窓枠には、カラスのようなぶきみな鳥がとまっているのです。そのアンバランスな世界は、この世の不安を独自の映像と筆致で表現しており、その題名とも相まって妙に心をざわつかせます。

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(ゴーガン「ネヴァーモア」)

  この絵を見ると、ここにゴーガンの個性が極まっていると思いが強く感じられ、心が揺さぶられるような感動が沸き起こりました。

【印象派に続く作家たち】

  ゴーガンの筆致に魅入られたまま歩を進めると目に入ってくるのは、ボナールの絵画です。

  ボナールの作品は、フランスのヴェルノンに購入した家とそこから見た景色を描いた「青いバルコニー」、椅子に座る恋人の姿を描いた「室内の若い女」、課題のとおりの題名の「オリーヴの記と教会のある風景」の3点が続いて展示されています。中でも「青いバルコニー」に描かれた緑の木々の美しさは、ボナールの筆遣いをよく表わして心に残る作品でした。

  ボナールに続いて展示されるのは、スーティンの「白いブラウスを着た若い女」。そして、その先に待っていたのは、一目でその作家とわかる「裸婦」でした。

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(モディリアーニ「裸婦」)

  その作家はモディリアーニ。モディリアーニと言えば、個性的な輪郭を持つ女性の肖像画がすぐに頭に浮かびますが、ここで展示されていたのは、一糸まとわぬ女性の半身像です。このときに描かれた5点の裸婦のうち2点はショウウィンドウに飾られたと言いますが、1917年当時、この絵は公序良俗に反するとして、警察から撤去を求められたそうです。なるほど、それほどこの作品が女性の裸体の魅力を的確に表現していたということか、と納得しました。この絵は、顔と体でまったく筆遣いが異なることが分かっており、モディリアーニの絵画の秘密の一端が込められた絵だということがよくわかります。

  この章では、こうしたポスト印象派の絵画に囲まれるようにして、展示室の中心に多くのブロンズ像が展示されていました。なんといっても感動するのは、ロダンの作品たちです。

  ロダンの作品は「静」と「動」をみごとに創り分けていますが、ここに展示された5作品を見るとそのどちらもが素晴らしい作品です。「叫び」と言う作品は、青年が不安そうな表情で大きく叫ぶ顔が描かれた造形ですが、そこにはリアルを超えた真実が表現されています。さらに「ムーヴマン」呼ばれるダンスを造形した3作品の躍動感は人間が瞬発する瞬間を切り取った造形美にあふれる作品です。ヨーロッパで活躍したという日本の女優「花子」を描いた作品は、不可思議な表情が魅力的な「静」の作品です。

  そして、ブロンズ像の最後には、ドガの作品が展示されています。ドガは、たくさんの踊り子を描いた作品で有名ですが、このブロンズ像も踊り子を描いた作品です。この作品の踊り子は、とても変わった姿勢を取っています。その題名は、「右の足裏を見る踊り子」。題名の通り、右足を背中の方に持ち上げて、振り返って自分の右の足の裏を見ている踊り子。このポーズを描くのにドガ゙は10年以上の歳月を費やしたといいますが、やはり人の造形は美しいと改めて感じられる作品でした。

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(ドガ「右の足裏を見る踊り子」)

  こうして、すっかり魅入られる作品に出会うことができた美術展は終了しました。

  今回のコートールド美術館展は、はじめてみる名画が次々に現れて、感動の連続に心が震えた美術展でした。あまりにも多くの名画に出会ったので展示室から出たあとにはしばし放心状態となっていました。この素晴らしい美術展を企画した多くの皆さんに心から感謝します。ロンドンには大英博物館やターナー美術館が有名ですが、これほど豊かな美術館があったとは、うれしい驚きです。


  この美術展は、上野での展示を終了し、これから愛知、神戸で展示が行われます。名古屋、関西の皆さん。ぜひコートールド美術館展に足を運んでください。芳醇な芸術の世界にひたれること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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コートールド美術館は印象派の宝庫(その2)

こんばんは。

  コートールド美術館展、第二章の最後を飾るのは、この美術館展のアイコンと言ってもよい「フォリー=ベルジェールのバー」です。

  コートールド美術館は、美術研究を主務とするコートールド美術研究所に付随する美術館です。今回の美術展では、こうした美術館の特性を生かして、展示されている名画の特徴や芸術的な進取性などを解説しているところが大きな特徴となっています。

  マネ晩年の名作であるこの絵にも様々な解説がなされています。

  マネはこの絵を再作するにあたって自らのアトリエに、当時大人気であったパリのミュージックホール「フォリー=ベルジェール」のバーを創り、そこに実際のバーメイドを連れてきてモデルとしたと言います。このバーメイドの後ろは前面鏡張りとなっており、その鏡には観客席が写っています。このバーメイドの物憂げな表情も魅惑的ですが、その後ろ姿は鏡に映っており、さらに鏡に映る紳士を見ると、メイドはこの紳士と会話していることが分かります。

  つまり、この絵を見ている我々はこの紳士の視線と同郷の場面を目にしていることになります。そかし、この鏡の中は幻想的な世界です。まず、この角度から見るとメイドの後ろ姿や紳士の姿は非常に不自然な角度となっており、マネが故意に鏡の角度をゆがめていることが見て取れます。さらには、メイドの姿に焦点を合わせるために鏡に映る観客席の群衆はぼやかされていて、マネはそうすることで、この絵の効果を引き出そうとしていることがよくわかります。

  実際の絵は圧倒的な迫力を持って我々の心に当時のパリを映し出しますが、晩年のマネは尽きることなく新しい文化と新しい技法に挑戦していたのだと改めて感動します。

【印象派の奥深さを知る】

  数々の絵から得る感動で心を満たされながら美術展はいよいよ最終章へと向かっていきます。最後を飾る第三章は、「素材、技法から読み解く」と題されています。

  この章では、19世紀に発明されたチュ-ブ入りの絵の具やカメラの発明と普及などの技術革新を画家たちが自らの作画にどのように取り入れようとしたか、その痕跡に焦点を当てていくことになります。さらにこの章では、印象派の次の世代へと進んでいくとともに、タヒチに渡った画家ゴーガンの絵を見ることができます。

  まず目に飛び込んできたのは、くすんだ茶色の風景の中にぼんやりと描かれた馬上の主従の姿です。タイトルは、「ドンキホーテとサンチョ・パンサ」。作家はオノレ・ドーミネ。ドンキホーテは、御姫様であるドルシネアを守る騎士として、幻想の中の怪物に挑んでいく奇態な男ですが、凛々しく描かれたドンキホーテは、表情こそ描かれていないものの理想に向かう姿が象徴的に描かれていました。

  この絵も未完の作品でしたが、ここからしばらく絵画展は未完の作品を紹介していきます。

  ドガの未完作品は、窓辺の椅子に座る真っ暗な女性ウェがいた「窓辺の女」、そして傘をさしてうつむく女性をななめ上の視点から描いた「傘をさす女」です。前作は、新しい絵の具を自ら調合して描こうとした作品でただ暗い印象ですが、傘をさす女は、貴婦人が傘をさしてうつむいている姿が習作的に描かれていて、ドガのセンスが光っている作品です。

  未完の作品の中では、セザンヌの作品に目を奪われました。

  「曲がり道」と題された絵は、72cm×92cmの大きなキャンバスに尖塔のある田舎の遠景が描かれています。この作品が感動を生むのは、描かれたすべての事物の輪郭がぼやけていることです。さらに色使いも田畑や森や草原と思われる風景の緑や青と画面の上部半分以上を占める空の淡い青で満たされており、尖塔である教会へと続く道が白と黄土色であがかれています。それは、まるで心の中の色をカンヴァスに映し出したようで、その淡さに心が現れるような気がします。ピカソなどキュビズムの画家たちがセザンヌに永虚を受けたと言われる所以が分かるような気がしました。

  そして、次に現れるのはポスト印象派の代表ともいえる点描画の世界です。

  点描画と言えば、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日」が思い出されますが、コートールド氏が手に入れたのは、「クールブヴォアの橋」と題された作品です。この絵は、スーラが点描手法を全画面に用いた初めての作品と言われているそうです。この作品には豊かな水をたたえるセーヌ川河畔の風景が点描によって淡く描かれているのですが、その景色があの名画、グランド・ジャット島からの眺めだと知ると一層の感慨がわいてきます。

  この作品に続いて、小さなカンヴァスに描かれた点描画以前のスーラの作品が展示されています。「釣り人」、「船を塗装する男」、「水に入る馬」は、前作と同様にセーヌ川の河畔で描かれた作品と思われますが、画法はまさに印象派の油絵そのものであり、点描画以前のスーラのタッチを知ることができ、興味深い展示でした。スーラでは、小さいながらもさらなる点描画の意欲的な作品「グラブリームの夜明け」と題された美しい作品を見ることができました。

【ゴーガン その絵画の魅力】

  スーラの次に現れたのは、ポスト印象派を代表するポール・ゴーガンの作品でした。

  最初に展示されているのは、なんと絵画ではなく彫刻です。真っ白い大理石でできた彫刻は人の頭像です。凛とした若く魅惑的な表情の頭像は、なんとゴーガンの妻、メット=ソフィー・ガッドの姿を映したものでした。この作品は、ゴーガンが30歳ころの作品で、このころ彼は株式仲介人の仕事をしており、その傍らで芸術作品を作っていたと言います。その作品は、とても丁寧で美しく造形されており、ホーガンの志がほの見える作品でした。

  ゴーガンの最初の作品は、ゴッホとのアルルでの生活と決別したゴーガンがフランスのブルターニュ地方を描いた「干し草」です。この作品は、一面黄色で塗られた干し草を積む多くの人々がえがかれていますが、そこにはゴッホに似たタッチが感じられ、まだ印象派の影響が強いゴーガンの筆致を見ることができます。

  ゴーガンといえば、南太平洋のタヒチ島で描かれた絵画が思い出されます。次の作品は、130cmのおおきなカンヴァスに描かれたタヒチ島の「テ・レリオア」です。この絵に描かれているのは、部屋の中に座る二人の女性とその横に猫。画面の左下には、幼い子供がうつぶせに眠っています。女性の奥にはタヒチ等の風景が描かれていますが、それが窓からの風景なのか画中画なのかは判然としません。

  この絵の題名は、タヒチ語で「夢」をあらわしているそうです。描かれている女性二人も猫も全く別の方向を向いており、左右に掛けられたタペストリーに描かれる絵も民族的であり、その非現実性は題名そのものともいえます。ここの絵にはゴーガンが紡ぎ出した個性が前面に表出しており、心を動かされるのです。

  そして、その画の衝撃は、次の絵に引き継がれていきます。その画は「ネヴァーモア」。

  縦60cm×横116cm。横に長いカンヴァスには、横たわる全裸の女性が描かれます。ベッドに横たわる若い女性は左半身を下にして左手を頬に当てて両足をそろえて横たわっています。その表情は、タヒチ島の住民であり、何かを思案しているようです。ベッドの後ろには部屋の外で話をしている二人の女性の後ろ姿。さらに左の窓枠には、カラスのようなぶきみな鳥がとまっているのです。そのアンバランスな世界は、この世の不安を独自の映像と筆致で表現しており、その題名とも相まって妙に心をざわつかせます。

  この絵を見ると、ここにゴーガンの個性が極まっていると思いが強く感じられ、こk路が揺さぶられるような感動が沸き起こりました。

【印象派に続く作家たち】

  ゴーガンの筆致に魅入られたまま歩を進めると目に入ってくるのは、ボナールの絵画です。

  ボナールの作品は、フランスのヴェルノンに購入した家とそこから見た景色を描いた「青いバルコニー」、椅子に座る恋人の姿を描いた「室内の若い女」、課題のとおりの題名の「オリーヴの記と教会のある風景」の3点が続いて展示されています。中でも「青いバルコニー」に描かれた緑の木々の美しさは、ボナールの筆遣いをよく表わして心に残る作品でした。

  ボナールに続いて展示されるのは、スーティンの「白いブラウスを着た若い女」。そして、その先に待っていたのは、一目でその作家とわかる「裸婦」が現れます。

  その作家はモディリアーニ。モディリアーニと言えば、個性的な輪郭を持つ女性の肖像画がすぐに頭に浮かびますが、ここで展示されていたのは、一糸まとわぬ女性の半身像です。このときに描かれた5点の裸婦のうち2点はショウウィンドウに飾られたと言いますが、1917年当時、この絵は公序良俗に反するとして、警察から撤去を求められたそうです。なるほど、それほどこの作品が女性の裸体の魅力を的確に表現していたということか、と納得しました。この絵は、顔と体でまったく筆遣いが異なることが分かっており、モディリアーニの絵画の秘密の一端が込められた絵だということがよくわかります。

  この章では、こうしたポスト印象派の絵画に囲まれるようにして、展示室の中心に多くのブロンズ像が展示されていました。なんといっても感動するのは、ロダンの作品たちです。

  ロダンの作品は「静」と「動」をみごとに創り分けていますが、ここに展示された5作品を見るとそのどちらもが素晴らしい作品です。「叫び」と言う作品は、青年が不安そうな表情で大きく叫ぶ顔が描かれた造形ですが、そこにはリアルを超えた真実が表現されています。さらに「ムーヴマン」呼ばれるダンスを造形した3作品の躍動感は人間が瞬発する瞬間を切り取った造形美にあふれる作品です。ヨーロッパで活躍したという日本の女優「花子」を描いた作品は、不可思議な表情が魅力的な「静」の作品です。

  そして、ブロンズ像の最後には、ドガの作品が展示されています。ドガは、たくさんの踊り子を描いた作品で有名ですが、このブロンズ像も踊り子を描いた作品です。この作品の踊り子は、とても変わった姿勢を取っています。その題名は、「右の足裏を見る踊り子」。題名の通り、右足を背中の方に持ち上げて、振り返って自分の右の足の裏を見ている踊り子。このポーズを描くのにドガ゙は10年以上の歳月を費やしたといいますが、やはり人の造形は美しいと改めて感じられる作品でした。

  こうして、すっかり魅入られる作品に出会うことができた美術展は終了しました。

  今回のコートールド美術館展は、はじめてみる名画が次々に現れて、感動の連続に心が震えた美術展でした。あまりにも多くの名画に出会ったので展示室から出たあとにはしばし放心状態となっていました。この素晴らしい美術展を企画した多くの皆さんに心から感謝します。ロンドンには大英博物館やターナー美術館が有名ですが、これほど豊かな美術館があったとは、うれしい驚きです。


  この美術展は、上野での展示を終了し、これから愛知、神戸で展示が行われます。名古屋、関西の皆さん。ぜひコートールド美術館展に足を運んでください。芳醇な芸術の世界にひたれること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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コートールド美術館は印象派の宝庫

こんばんは。

  マネの絵画、「フォリー=ベルジェールのバー」にピンとくる方はどれくらいいるのでしょうか。

  9月10日から東京上野の東京都美術館で開催されている「コートールド美術館展 魅惑の印象派」もいよいよ1215日(日)に最終日を迎えます。開催期間が長いのでついつい油断していましたが、12月に入ればアッという間ですので、意を決して師走初日に上野の美術館に足を運びました。

  この美術展は、開催前から評判が高く。これまで目にすることがなかったモネ、マネ、セザンヌ、ルノワールの名画が日本にやってくるということで、印象派が大好きの日本人が待ちに待った美術展でした。かくゆう私も印象派といえば、矢も楯もたまらずに見に行きたいと思っていました。幸いにしてお天気も良く、上野公園は寒くもなく紅葉もだいぶん進み、散歩日和です。美術館についたのがちょうどお昼前ということもあり、美術館は珍しく人が少ない状況でした。

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(マネ「フォリー=ベルジュールのバー」)

  ところで、コートールド美術館とは聞きなれない美術館です。場所を見ると、まさにロンドンのシティの西側テンプル教会の近くにあります。美術館の発祥は、人工絹糸の製造で巨万の富を築いたサミュエル・コートルドの絵画コレクションに寄るものです。彼は収集のみでなく、美術史や美術保存を探求するためにコートールド美術研究所を設立。美術館は研究所に付属する施設として1932年に開館したといいます。

  コートールド氏は、保守的なイギリスでは受け入れられなかったフランスの印象派絵画の価値に早くから心を寄せ、自らの審美眼を信じて奥様と一緒に絵画を買い集めたといいます。そのコレクションは、印象派、ポスト印象派の名だたる画家の作品に及んでいます。コートールド美術館は、現在リニューアル工事が進められており、その間、門外不出の名画たちが日本を訪れているのです。東京都美術館は入り口が地下になりますが、入口を入り、正面にミュージアップショップを見て、左に向かうと、企画展の入り口が見えてきます。

  入り口の横には、いつも長蛇の列が幾重にもつながっているのですが、この日はガランとしており、今回の美術展の顔ともいえるマネの「フォリー=ベルジェールのバー」がその威容を見せてくれています。何人かの人たちがその前で記念撮影をしており、我々も写真を撮ってからいよいよ美術展に入場しました。

【作家が絵を描くのはなぜ?】

  受付を過ぎて展示室に進むと、第一章は「画家の言葉から読み解く」と題された展示となります。さすが、コートールド美術館は美術研究所に付随する施設であるだけあって、美術史を踏まえた展示に興味をそそられます。画家は、それおれ想いを持って自らの絵画を完成させます。その想いを知ることはできませんが、この章では、画家たちが残した手紙や手記からその想いを紐解いていくのです。

  展示会はホッスラーの「少女と桜」からはじまりますが、その次には早くもゴッホの「花咲く桃の木々」が登場します。ゴッホは1888年、画題の風景を求めてアルルに移り住みますが、この絵はそのアルルの風景を映し出します。ここでは、ゴッホがポール・シニャックに宛てた手紙が紹介されます。「この地のすべては小さく、庭、畑、庭、山々でさえ、まるで日本の風景のようだ。だから、私はこの主題に惹かれたのだ。」この絵は、桃の果樹園とそのはるか向こうの山々、そして広く輝く空を湛えていて、とても明るいタッチで描かれています。

  ゴッホは、本当に浮世絵にあこがれていたのですね。

  晩年のタッチの片鱗を感じながら進むと、いきなりモネが登場します。画題は「アンティーブ」。モネといえばノルマンディーの海岸で描いた「エトルテ」は名画ですが、こちらの絵は地中海に面するリゾト地アンティーブから見た美しい海と空を描いていいます。画面の左中央には華奢な幹の松がアクセントを加えており、モネ独特の青い空と青い海、そしてはるかに連なる山脈が見て取れます。本当にモネの絵には心が洗われます。

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(モネ「アンティーブ」)

  「アンティーブ」に続いては、大きな花瓶に生けられた美しい花が画面いっぱいに描かれた絵に目を奪われます。この作品は1881年に着手されたそうですが、長年秘蔵され晩年に筆を入れたうえで売却したといいます。確かに全体としては淡く明るい印象ですが、華やかな花々の中に複雑な陰影が見え隠れしており、晩年のモネの手が入っていると聞くと確かにそう思えます。

  いきなりのゴッホとモネで感動した後に目に入ってきたのはセザンヌでした。作品は「アヌシー湖」。緑にぬり込められた湖に映るモリト城を描いたこの作品は、絵画の可能性を独自に追求したセザンヌらしい作品です。この絵について、セザンヌは「若い女性の旅行アルバムのような風景」といいながらこの絵を描いたとのこと。描く自らを楽しんでいたのか、自虐的に見ていたのか、想像が膨らみます。

  そして、驚くことにここから9枚ものセザンヌの名作が続くのです。その作品は、「レ・スール池、オスニー」、「ノルマンディーの農場、夏」、「ジャス・ド・ブッファンの高い木々」、「大きな松のあるサント=ヴィクトワール山」、「鉢植えの花と果実」、「カード遊びをする人々」、「パイプをくわえた男」、「キューピッドの石膏像のある静物」と続きます。

  風景画では、セザンヌが織りなす緑の豊かな表現に目を見張りましたが、展覧会で焦点を当てていたのは、「カード遊びをする人々」です。セザンヌは、1892年からこの題材に臨んでいたそうですが、何枚もの同じ作品が各地の美術館に保管されているといいます。今回の絵は、「パイプをくわえた男」に描かれた農夫が別の男と二人で向かい合ってカードをしている姿が描かれています。

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(セザンヌ「カード遊びをする人々」)

  セザンヌは、一見何気ない風景に見える構図でも人間の目が持つ特性をよく理解して、ことのほか自然に見えるように工夫を重ねているのです。二人がカードに興じているテーブルは、水平ではなく左に傾いていますし、カードを持つ男の胴はよく見ると不自然に長くなっています。さらに腰かけている椅子も言われてみれば不自然に短く描かれています。セザンヌは、絵を描くにあたり、目の前の対象を写生するのではなく、複眼を使って自らが納得できるように見える構図を創造して作品を描いていたのです。

  「キューピッドの石膏像のある静物」でも石膏像の隣に置かれたリンゴを載せた皿は水平に描かれているものの、バックに描かれた静物?が異様に傾いて見えます。セザンヌは、「リンゴ1つで、パリを驚かせたい」と語ったといいますが、彼にとってリンゴは、ただのリンゴではないようです。

  この美術展は、様々な工夫がなされており、作家の手紙やコートールド氏が絵を買ったときの領収書、コートールド美術研究所の本などが展示の合間に紹介されています。その中には、作家と作品のつながりを動画で紹介するコーナーがあります。ここでは、セザンヌの「大きな松のあるサント=ヴィクトワール山」が紹介されていました。この山はセザンヌの故郷に聳え立つ神に近い山であり、セザンヌはこの山の姿を何度も描いています。動画では、セザンヌの絵と全く同じアングルでヴィクトワール山を映していますが、それを見ると彼の心に映った山と実際の山の対比が浮き出て、彼の描いた絵の個性が際立つ思いがしました。

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(セザンヌ「大きな松のあるサント=ヴィクトワール山」)

印象派を感じる審美眼

  展覧会は第二章「時代背景から読み解く」へと進んでいきます。

  19世紀末から20世紀。フランスでも近代化が進み、人々は都市から汽車に乗って近郊の緑地や川辺、そして海へと移動して様々な楽しみに身を投じるようになりました。そうした変化をこの章では絵画から読み解いていきます。

  第一章でも印象派の大家の絵に魅了されたのですが、第二章でも我々は次々に感動と出会うことになるのです。ブーダン、マネ、モネ、ピサロ、シスレー、ルソー、ルノワールと名前を聞くだけでうっとりしてしまうような名画が一歩進むごとに登場するのです。

  モネの師でもあった風景画の大家ブーダンの「ドーヴィル」はいきなり我々の心を射抜きます。この絵は、ドーヴィルの砂浜と山、海と空を、画面いっぱい使って描きあげているのですが、絵の上半分以上を占める雲が沸き上がる空の描写は、我々の心を空へと誘うようです。ブーダンは、絵画の世界で「空の王者」と呼ばれているそうですが、その面目躍如です。その絵に並ぶ弟子モネの「秋の効果、アンジャントゥイユ」。モネがアトリエ舟によって川面の上から描いた絵画ですが、モネが感じた秋の光がみごとな効果を上げており、引き込まれます。

  この章の絢爛さは格別です。シスレーやピサロ、そしてルソーの絵に感動していると、その流れに登場するのがルノアールです。まず、「春、シャトゥー」。ルノアールの風景画は淡く明るく心がすがすがしくなるのですが、この絵はまた格別な感動を味わうことができます。濃淡様々な緑と白があふれかえるように広がっている中に、麦わら帽子の人物がまるで花弁のように佇む構図。その向こうにはセーヌ河がわずかにのぞいています。素晴らしい。

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(ルノワール「春、シャトゥー」)

  さらにルノワールは、秋を描く「ポン・ダヴェンの郊外」、「アンプロワーズ・ヴォラールの肖像」、「靴紐を結ぶ女」、「洗濯する女」(ブロンズ像)、「桟敷席」と続きます。ルノアールの創ったブロンズ像にも驚きましたが、何といっても圧巻は「桟敷席」。当時、パリの劇場で桟敷席は貴婦人たちのファッションショーの現場のようです。本来、遠景でしか見えないはずの桟敷席にいる貴婦人を超アップでとらえたこの作品は、ルノアールにとっても冒険であったに違いありません。そして、それは単なる冒険ではなく、夫人の上品な美しさを描いて画家の個性を際立たせています。

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(ルノワール「桟敷席」)

  ルノアールに魅せられた次には、踊り子が印象的なドガの絵が登場します。「舞台上の二人の踊り子」は、中心に広い舞台空間を描き構図の右手に登場したところでしょうか、つま先台をしてまさに踊り始めたバレリーナが描かれます。その緊張感と美しさが見事なバランスを醸し出していて、引き込まれます。そして、展示室の中には、そのドガが造形したブロンズ像「踊り始めようとする踊り子」が展示されています。まさに美術研究所的な展示に興味をそそられます。

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(ドガ「舞台上の二人の踊り子」)

  ドガに感動し、歩みを進めるとロートレックが登場します。ロートレックと言えばムーラン・ルージュですが、今回はムーラン・ルージュの踊り子やレストラン「ラ・モール」の個室にいる娼婦の素顔を描いており、いつものロートレックとは違う表現を味わうことができます。

  そして、第二章のハイライトは、この展覧会と言えば登場する絵画です。

  その前に、意外な絵が目に飛び込んできます。それはマネの「草上の昼食」です。この絵は森の中で昼食を取る男女が描かれていますが、物議を醸しだしたのは、描かれた女性が一糸も纏わぬ姿だったからです。なぜ、この絵がここにあるのか。近づいてみると、その解説にこの絵が2点あることが書かれていました。以前に見た「草上の昼食」は、オルセー美術館が所有する作品だったのです。言われてみれば、描かれた女性や紳士たちの表情がなんとなくのっぺりしています。どうやらこの作品は、オルセーの作品を描くにあたって、背景となる森の木々をどのように構成するかを確定するための習作だということです。

  それにしてもこの有名な作品に習作が存在するとは、コートールド氏の収集心が偲ばれるようなコレクションです。

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(マネ「草上の昼食」)

  そして、我々の目に飛び込んでくるのは、マネ晩年の大作、「フリー・ベルジェールのバー」です。さすが、作品の前は黒山の人だかりです。それでも、少し並べば絵を目の前で鑑賞することができる程度の人ごみでした。絵は、縦96cm、横130cmという大きさですが、作家の力量と迫力から実際の大きさ以上に迫力がありました。絵画では、バーのカウンターに佇んで男性の相手をしているバーメイドが我々をじっと見つめています。


  さて、美術展ではこの絵を様々な角度から分析してくれており、その魅力をぞんぶんに解説してくれているのですが、残念ながら紙面が尽きてしましました。この続きは次回(以降)にお届けしたいと思います。

  今回の美術館展は、門外不出の作品を一堂に会した貴重な美術展です。東京都美術館での開催は今月15日で終了しますが、その後、愛知県美術館、神戸市立博物館で開催の予定です。絵画好きの方もそうでない方もぜひ一度足を運んでください。絵画の魅力に心を奪われること間違いなしです。

  美術はやっぱり実物を見なければ本当の感動に行きつくことができません。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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コートールド美術館は印象派の宝庫

こんばんは。

  マネの絵画、「フォリー=ベルジェールのバー」にピンとくる方はどれくらいいるのでしょうか。

  9月10日から東京上野の東京都美術館で開催されている「コートールド美術館展 魅惑の印象派」もいよいよ1215日(日)に最終日を迎えます。開催期間が長いのでついつい油断していましたが、12月に入ればアッという間ですので、意を決して師走初日に上野の美術館に足を運びました。

  この美術展は、開催前から評判が高く。これまで目にすることがなかったモネ、マネ、セザンヌ、ルノワールの名画が日本にやってくるということで、印象派が大好きの日本人が待ちに待った美術展でした。かくゆう私も印象派といえば、矢も楯もたまらずに見に行きたいと思っていました。幸いにしてお天気も良く、上野公園は寒くもなく紅葉もだいぶん進み、散歩日和です。美術館についたのがちょうどお昼前ということもあり、美術館は珍しく人が少ない状況でした。

  ところで、コートールド美術館とは聞きなれない美術館です。場所を見ると、まさにロンドンのシティの西側テンプル教会の近くにあります。美術館の発祥は、人工絹糸の製造で巨万の富を築いたサミュエル・コートルドの絵画コレクションに寄るものです。彼は収集のみでなく、美術史や美術保存を探求するためにコートールド美術研究所を設立。美術館は研究所に付属する施設として1932年に開館したといいます。

  コートールド氏は、保守的なイギリスでは受け入れられなかったフランスの印象派絵画の価値に早くから心を寄せ、自らの審美眼を信じて奥様と一緒に絵画を買い集めたといいます。そのコレクションは、印象派、ポスト印象派の名だたる画家の作品に及んでいます。コートールド美術館は、現在リニューアル工事が進められており、その間、門外不出の名画たちが日本を訪れているのです。東京都美術館は入り口が地下になりますが、入口を入り、正面にミュージアップショップを見て、左に向かうと、企画展の入り口が見えてきます。

  入り口の横には、いつも長蛇の列が幾重にもつながっているのですが、この日はガランとしており、今回の美術展の顔ともいえるマネの「フォリー=ベルジェールのバー」がその威容を見せてくれています。何人かの人たちがその前で記念撮影をしており、我々も写真を撮ってからいよいよ美術展に入場しました。

【作家が絵を描くのはなぜ?】

  受付を過ぎて展示室に進むと、第一章は「画家の言葉から読み解く」と題された展示となります。さすが、コートールド美術館は美術研究所に付随する施設であるだけあって、美術史を踏まえた展示に興味をそそられます。画家は、それおれ想いを持って自らの絵画を完成させます。その想いを知ることはできませんが、この章では、画家たちが残した手紙や手記からその想いを紐解いていくのです。

  展示会はホッスラーの「少女と桜」からはじまりますが、その次には早くもゴッホの「花咲く桃の木々」が登場します。ゴッホは1888年、画題の風景を求めてアルルに移り住みますが、この絵はそのアルルの風景を映し出します。ここでは、ゴッホがポール・シニャックに宛てた手紙が紹介されます。「この地のすべては小さく、庭、畑、庭、山々でさえ、まるで日本の風景のようだ。だから、私はこの主題に惹かれたのだ。」この絵は、桃の果樹園とそのはるか向こうの山々、そして広く輝く空を湛えていて、とても明るいタッチで描かれています。

  ゴッホは、本当に浮世絵にあこがれていたのですね。

  晩年のタッチの片鱗を感じながら進むと、いきなりモネが登場します。画題は「アンティーブ」。モネといえばノルマンディーの海岸で描いた「エトルテ」は名画ですが、こちらの絵は地中海に面するリゾト地アンティーブから見た美しい海と空を描いていいます。画面の左中央には華奢な幹の松がアクセントを加えており、モネ独特の青い空と青い海、そしてはるかに連なる山脈が見て取れます。本当にモネの絵には心が洗われます。

  「アンティーブ」に続いては、大きな花瓶に生けられた美しい花が画面いっぱいに描かれた絵に目を奪われます。この作品は1881年に着手されたそうですが、長年秘蔵され晩年に筆を入れたうえで売却したといいます。確かに全体としては淡く明るい印象ですが、華やかな花々の中に複雑な陰影が見え隠れしており、晩年のモネの手が入っていると聞くと確かにそう思えます。

  いきなりのゴッホとモネで感動した後に目に入ってきたのはセザンヌでした。作品は「アヌシー湖」。緑にぬり込められた湖に映るモリト城を描いたこの作品は、絵画の可能性を独自に追求したセザンヌらしい作品です。この絵について、セザンヌは「若い女性の旅行アルバムのような風景」といいながらこの絵を描いたとのこと。描く自らを楽しんでいたのか、自虐的に見ていたのか、想像が膨らみます。

  そして、驚くことにここから9枚ものセザンヌの名作が続くのです。その作品は、「レ・スール池、オスニー」、「ノルマンディーの農場、夏」、「ジャス・ド・ブッファンの高い木々」、「大きな松のあるサント=ヴィクトワール山」、「鉢植えの花と果実」、「カード遊びをする人々」、「パイプをくわえた男」、「キューピッドの石膏像のある静物」と続きます。

  風景画では、セザンヌが織りなす緑の豊かな表現に目を見張りましたが、展覧会で焦点を当てていたのは、「カード遊びをする人々」です。セザンヌは、1892年からこの題材に臨んでいたそうですが、何枚もの同じ作品が各地の美術館に保管されているといいます。今回の絵は、「パイプをくわえた男」に描かれた農夫が別の男と二人で向かい合ってカードをしている姿が描かれています。

  セザンヌは、一見何気ない風景に見える構図でも人間の目が持つ特性をよく理解して、ことのほか自然に見えるように工夫を重ねているのです。二人がカードに興じているテーブルは、水平ではなく左に傾いていますし、カードを持つ男の胴はよく見ると不自然に長くなっています。さらに腰かけている椅子も言われてみれば不自然に短く描かれています。セザンヌは、絵を描くにあたり、目の前の対象を写生するのではなく、複眼を使って自らが納得できるように見える構図を創造して作品を描いていたのです。

  「キューピッドの石膏像のある静物」でも石膏像の隣に置かれたリンゴを載せた皿は水平に描かれているものの、バックに描かれた静物?が異様に傾いて見えます。セザンヌは、「リンゴ1つで、パリを驚かせたい」と語ったといいますが、彼にとってリンゴは、ただのリンゴではないようです。

  この美術展は、様々な工夫がなされており、作家の手紙やコートールド氏が絵を買ったときの領収書、コートールド美術研究所の本などが展示の合間に紹介されています。その中には、作家と作品のつながりを動画で紹介するコーナーがあります。ここでは、セザンヌの「大きな松のあるサント=ヴィクトワール山」が紹介されていました。この山はセザンヌの故郷に聳え立つ神に近い山であり、セザンヌはこの山の姿を何度も描いています。動画では、セザンヌの絵と全く同じアングルでヴィクトワール山を映していますが、それを見ると彼の心に映った大和の対比が浮き出て、彼の描いた絵の個性が際立つ思いがしました。

印象派を感じる審美眼

  展覧会は第二章「時代背景から読み解く」へと進んでいきます。

  19世紀末から20世紀。フランスでも近代化が進み、人々は都市から汽車に乗って近郊の緑地や川辺、そして海へと移動して様々な楽しみに身を投じるようになりました。そうした変化をこの章では絵画から読み解いていきます。

  第一章でも印象派の大家の絵に魅了されたのですが、第二章でも我々は次々に感動と出会うことになるのです。ブーダン、マネ、モネ、ピサロ、シスレー、ルソー、ルノワールと名前を聞くだけでうっとりしてしまうような名画が一歩進むごとに登場するのです。

  モネの師でもあった風景画の大家ブーダンの「ドーヴィル」はいきなり我々の心を射抜きます。この絵は、ドーヴィルの砂浜と山、海と空を、画面いっぱい使って描きあげているのですが、絵の上半分以上を占める雲が沸き上がる空の描写は、我々の心を空へと誘うようです。ブーダンは、絵画の世界で「空の王者」と呼ばれているそうですが、その面目躍如です。その絵に並ぶ弟子モネの「秋の効果、アンジャントゥイユ」。モネがアトリエ舟によって川面の上から描いた絵画ですが、モネが感じた秋の光がみごとな効果を上げており、引き込まれます。

  この章の絢爛さは格別です。シスレーやピサロ、そしてルソーの絵に感動していると、その流れに登場するのがルノアールです。まず、「春、シャトゥー」。ルノアールの風景画は淡く明るく心がすがすがしくなるのですが、この絵はまた格別な感動を味わうことができます。濃淡様々な緑と白があふれかえるように広がっている中に、麦わら帽子の人物がまるで花弁のように佇む構図。その向こうにはセーヌ河がわずかにのぞいています。素晴らしい。

  さらにルノワールは、秋を描く「ポン・ダヴェンの郊外」、「アンプロワーズ・ヴォラールの肖像」、「靴紐を結ぶ女」、「洗濯する女」(ブロンズ像)、「桟敷席」と続きます。ルノアールの創ったブロンズ像にも驚きましたが、何といっても圧巻は「桟敷席」。当時、パリの劇場で桟敷席は貴婦人たちのファッションショーの現場のようです。本来、遠景でしか見えないはずの桟敷席にいる貴婦人を超アップでとらえたこの作品は、ルノアールにとっても冒険であったに違いありません。そして、それは単なる冒険ではなく、夫人の上品な美しさを描いて画家の個性を際立たせています。

  ルノアールに魅せられた次には、踊り子が印象的なドガの絵が登場します。「舞台上の二人の踊り子」は、中心に広い舞台空間を描き構図の右手に登場したところでしょうか、つま先台をしてまさに踊り始めたバレリーナが描かれます。その緊張感と美しさが見事なバランスを醸し出していて、引き込まれます。そして、展示室の中には、そのドガが造形したブロンズ像「踊り始めようとする踊り子」が展示されています。まさに美術研究所的な展示に興味をそそられます。

  ドガに感動し、歩みを進めるとロートレックが登場します。ロートレックと言えばムーラン・ルージュですが、今回はムーラン・ルージュの踊り子やレストラン「ラ・モール」の個室にいる娼婦の素顔を描いており、いつものロートレックとは違う表現を味わうことができます。

  そして、第二章のハイライトは、この展覧会と言えば登場する絵画です。

  その前に、意外な絵が目に飛び込んできます。それはマネの「草上の昼食」です。この絵は森の中で昼食を取る男女が描かれていますが、物議を醸しだしたのは、描かれた女性が一糸も纏わぬ姿だったからです。なぜ、この絵がここにあるのか。近づいてみると、その解説にこの絵が2点あることが書かれていました。以前に見た「草上の昼食」は、オルセー美術館が所有する作品だったのです。言われてみれば、描かれた女性や紳士たちの表情がなんとなくのっぺりしています。どうやらこの作品は、オルセーの作品を描くにあたって、背景となる森の木々をどのように構成するかを確定するための習作だということです。

  それにしてもこの有名な作品に習作が存在するとは、コートールド氏の収集心が偲ばれるようなコレクションです。

  そして、我々の目に飛び込んでくるのは、マネ晩年の大作、「フリー・ベルジェールのバー」です。さすが、作品の前は黒山の人だかりです。それでも、少し並べば絵を目の前で鑑賞することができる程度の人ごみでした。絵は、縦96cm、横130cmという大きさですが、作家の力量と迫力から実際の大きさ以上に迫力がありました。絵画では、バーのカウンターに佇んで男性の相手をしているバーメイドが我々をじっと見つめています。


  さて、美術展ではこの絵を様々な角度から分析してくれており、その魅力をぞんぶんに解説してくれているのですが、残念ながら紙面が尽きてしましました。この続きは次回(以降)にお届けしたいと思います。

  今回の美術館展は、門外不出の作品を一堂に会した貴重な美術展です。東京都美術館での開催は今月15日で終了しますが、その後、愛知県美術館、神戸市立博物館で開催の予定です。絵画好きの方もそうでない方もぜひ一度足を運んでください。絵画の魅力に心を奪われること間違いなしです。

  美術はやっぱり実物を見なければ本当の感動に行きつくことができません。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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西山浩 日本のジャズはこうしてできた

こんばんは。

  日本ジャズのレジェンドといえば、まずは渡辺貞夫さんです。

  その生まれは1933年ですので、今年は86歳となりました。渡辺貞夫さんのすごさは、今だに日本全国をライブパフォーマンスで走り回っているところです。先月10月のパフォーマンスは、10月の2日は浜松市ゴルフクラブ、4日から7日まで東京丸の内のコットンクラブ、10日は高崎(群馬)市芸術劇場。さらに今月は8日に長崎大村市「シーハットおおむら」、9日と10日は下関の「Jazz Club BILLIE」、12日が大分市「BRICK BLOCK」、14日には高松の「SPEAK LOW」、15日は松山の「MONK」でライブパフォーマンスを繰り広げています。

  12月にも長野、神戸、大阪、札幌、横浜と日本を駆け回り、15日の日曜日には毎年恒例のクリスマスライブが、東京渋谷のオーチャードホールで開演となります。

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(渡辺貞夫 クリスマスギフト LIVE ポスター)

  ジャズの世界では、世界的にも80歳を超える演奏者が活躍していますが、一般的には80歳を超えてライブを行っているプロフェッショナルは、加山雄三さんくらいしか思い当たりません。昨年の東京ジャズでは、日曜日のラストステージでビッグバンドの演奏を繰り広げ、衰えを知らない素晴らしいパフォーマンスを披露してくれました。渡辺貞夫といえばビパップですが、「カリフォルニア・シャワー」に代表されるフュージョンやボサノヴァでもその名前は世界に轟いており、渡辺貞夫さんと同時代に生きることができたことを神様に感謝したいと思っています。いつまでもお元気で素晴らしいジャズを聞かせてほしいと願うばかりです。

  今週は、その渡辺貞夫さんとさらなるレジェンドといってもよい秋吉敏子さんを描いた本を読んでいました。

「秋吉敏子と渡辺貞夫」(西山浩著 新潮新書 2019年)

【日本のジャズのはじまり】

  ジャズは、アメリカで生まれた音楽です。もとはといえばニューオリンズで生まれた誰もが楽しむことができるラグタイムのような演奏です。日本のジャズは、戦前にすでに日本に上陸していましたが、太平洋戦争がはじまるや敵性音楽としてすべて禁止されました。しかし、1945年に終戦を迎え、アメリカの進駐軍が日本に押し寄せてきたときに、日本にジャズが復活します。

  というのも、東京内幸町の旧第一生命ビルがGHQに撤収されマッカーサー元帥が来日すると同時に日本各地に進駐軍が駐留することになります。アメリカ軍人はみな音楽好きで、娯楽といえばジャズの演奏を聴き、ダンスすることでした。銀座や横浜には駐留軍専門のジャズクラブができ、そこでは毎日ジャズが演奏されます。その演奏者は、にわか仕込みの日本人だったのです。

(以下、敬称略)

  秋吉(穐吉)敏子は1929年生まれ。渡辺貞夫は1933年生まれです。終戦の時には、それぞれ16歳、13歳でした。二人は子供のころから音楽にあこがれを持ち、秋吉敏子はピアノ、渡辺貞夫はクラリネットとアルトサックスを演奏していました。終戦後、日本に駐留した米軍の影響で、二人はジャズに目覚めます。そして、この本のオープニングに描かれるように、1953年の夏、横浜の進駐軍クラブ「ハーレム」で秋吉敏子と渡辺貞夫は、お互いの演奏と出会うことになるのです。

  この出会いが、日本のジャズの幕開けの一つになったのです。

  題名のとおり、この本では日本のジャズの発展に大きく影響を与えたお二人の軌跡をたどるわけですが、著者の視点は広く、お二人を語ることが同時に日本のジャズ界全体を語る、との構成になっているのです。そこに登場する人物たちはジャズファンにとっては、おあなじみの人たちで、その名前が語られているだけで心を動かされます。

  日本の洋楽ブームは、戦後、ジャズから始まりました。歌謡曲のバックで指揮を執る原信夫とシャープ&フラッツ、クラリネットの第一人者北村英二、ジャズ歌手からキャリアを始めたペギー葉山や江利チエミ、今のジャニーズに負けないほどのアイドルだったジョージ川口(ドラムス)、小野満(ベース)、中村八大(ピアノ)、松本英彦(テナーサックス)がメンバーだった4人組、ビッグ・フォー、とにかくこの本にはその後の日本音楽界を代表する人たちの名前が次々と登場します。

  さらに現在にも通じる日本のジャズミュージシャンたち。渡辺貞夫教室で学んだ、菊池雅章、増尾好秋、富樫雅彦や日野皓正、渡辺香津美など、錚々たるジャズミュージシャンが顔を出し、読む人の胸を熱くしてくれます。著者の意図には、お二人を描くと同時に日本のジャズから派生した音楽文化全体を俯瞰したいとの想いがあったのだと思います。そして、この本でその想いは成功しています。

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(日本のジャズを語る amazon.co.jp)

  この本の目次を紐解いてみましょう。

序章 出会い

1章 ピアノに魅せられた少女

2章 アメリカにあこがれた少年

3章 ジャズで生計を立てる

4章 黄金時代の主役たち

5章 シンデレラガール

6章 「ナベさん、バークリーで勉強してみない」

7章 不遇と栄光

8章 フリージャズからフュージョンへ

9章 「世界のナベサダ」の誕生

10章 呼ばれればどこにでも

11章 歩みは続く

終章 二人の役割

おわりに

【ジャズを創る人】

  秋吉敏子と渡辺貞夫。このレジェンドお二人を結ぶキーワードは、2つ。「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院(現バークリー音楽大学)です。

  まずは「コージー・カルテット」。「コージー・カルテット」は、ジャズバンドの名前です。1949年、九州から東京へと上京してきた秋吉敏子は、進駐軍相手に日銭を稼ぐジャズプレイからアイデンティティ豊かなジャズジャズプレイへの変化を求めて、自分が主催するバンドを結成します。1951年に結成されたバンドは、当時は珍しい月給制のバンド。自分たちの求める音楽をお金に煩わされることなく追求するためには、安定した収入が必要と考えたのです。

  バンド結成から2年。1953年に横浜の「ハーレム」で渡辺貞夫の演奏を聴いた(見た?)秋吉は、その演奏力を買ってバンドへの加入を申し入れます。こうして、「コージー・カルテット」は、宮沢昭、原田長政、白木英雄、秋吉敏子に渡辺貞夫を加えたスーパーバンドとして日本人のジャズを展開していきました。

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(秋吉敏子 コージーカルテット仲間とのLIVE盤)

  しかし、秋吉敏子は自らのジャズピアノをより高めるために常に挑戦を続けていたのです。渡辺貞夫が加入した1953年、アメリカの名プロデューサーであるノーマン・グランツが来日しました。そのときにピアニストであったのはあのオスカー・ピ-ターソンです。略歴によると、「来日中のオスカー・ピ-ターソンに認められて(アメリカ盤録音)」と紹介されていますが、そのときに起きた出来事は驚きの出来事です。それは、秋吉敏子でなければ起きなかった出来事でしょう。

  何が起きたのかは、ぜひこの本を読んでほしいのですが、とにかくこの出来事によって秋吉敏子の録音したジャズアルバムがアメリカで紹介されることになります。このことが、渡辺貞夫の音楽人生を大きく変えることになるのです。

  さて、「バークリー音楽院」といえば、日本のミュージシャンも数多く輩出しています。はるか後年の話になりますが、ビブラフォンのゲイリー・バートンが音楽院の講師をしていたことはよく知られています。今や日本のジャズをけん引しているといっても過言ではない小曽根真もバークリーに留学していました。小曽根は、ゲイリー・バートンにゲイリーバンド加入を勧められ自らのキャリアをスタートさせたといっても良いのですが、はじめて顔を合わせたとき、ゲイリーは小曽根を自分とは関係のないミュージシャンだと思ったといいます。

  そのときの小曽根真はオスカー・ピーターソンにあこがれていたのですが、とにかく速弾きのテクニック習得を目指していたといいます。つまり、ジャズピアノのテクニックを身に付けることが目標で、その演奏はとにかく速弾きだったと自ら語っています。その後、ゲイリーは改めて小曽根の演奏をじっくりと聴いて、彼の中の音楽をともに育てようと考えたのかもしれません。

  2017年、川口リリアでゲイリー・バートンと小曽根真のデュオライブが開催されました。ゲイリーは、このとき74歳を迎え、現役最後のライブは小曽根と行いたいとの希望を持ち、このライブに臨んだといいます。ライブは、お二人の数十年の間に培った様々な想いが行きかう、素晴らしいものでした。強く、リリカルに交わされるインタープレイに思わず眼がしらが熱くなりましたが、お二人の心温まるMCにも心が洗われました。

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(ゲイリー・バートン LASTLIVE ポスター)

  「バークリー音楽院」と聴くと、いつもこのライブのことを思い出します。

  話を戻します。

  秋吉敏子は、常々バークリー音楽院への留学を希望し、願書を提出していたそうですが、音楽院からはなしのつぶてだったと語っています。ところが、アメリカでアルバムが発売され、その取材記事が有名雑誌に掲載されると、音楽院から連絡がきたのです。そして驚くことにその内容は学費免除で入学を認めるという申し入れだったのです。そして、1956年1月、秋吉敏子は単身ボストンに渡り、バークリー音楽学院に入学しました。

  バンマスがバークリーへと渡ってしまい、「コージー・カルテット」はいったいどうなったのでしょうか。なんと、秋吉敏子は自らのバンドを渡辺貞夫に託したのでした。進駐軍の占領が終わり、ジャズマンの収入がなくなる中、秋吉敏子の信念で給料制を取っていたバンドの維持は並大抵ではありません。バンドの維持のために渡辺貞夫は奔走します。最終的にバンドは解散し、彼はジョージ川口が主催するビッグ・フォーに参加することになります。

  ところが、バークリー音楽院を卒業し、日本に帰国した秋吉から渡辺貞夫に驚きの申し出がなされることになります。それは、秋吉の次の留学生への指名でした。1961年に初のリーダーアルバムを世に出し、次のステップを探る渡辺貞夫にとって、バークリー音楽院への留学は願ってもない話でした。1962年、彼は秋吉敏子からの推薦を受けてバークリーに旅立ちました。

  「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院」。こうして日本のジャズはかけがえのない二人のジャズミュージシャンをその歴史に刻むこととなるのです。

  

  この本は、あまりにも面白いので、その接点を語ってしまいましたが、それはほんの触りにしかすぎません。ジャズファンならご存じの通りここからお二人のジャズが花開き、日本のジャズの歴史が刻まれていきます。ニューヨークでサックス奏者のチャーリー・マリアーノと結婚しバンドを結成する秋吉。さらに後年には、テナーサックス奏者のルー・タバキンと再婚してビッグバンドを結成します。秋吉は、作曲家としても活躍。「すみ絵」、「孤軍」、「みなまた」と次々にオリジナル曲を発表していきます。

  一方、渡辺貞夫はバークリーから帰国後、従来のジャズの枠、ビパップの枠にとどまることなく次々と新たな感性を広げていきます。ゲイリー・マクファーランドやチャーリー・マリアーノからボサノヴァやラテンへの広がりを学び、ブラジル音楽を取り入れます。さらに「マイ・ディア・ライフ」では、リー・リトナーやデイブ・グルーシンとあらたな境地へと進みます。1978年に発表した「カリフォルニア・シャワー」では日本にフュージョンブームを巻き起こし、一躍時の人になるのです。

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(渡辺貞夫「カリフォルニア シャワー」)

 

  音楽を語ればキリがありませんが、この本ほどジャズを楽しみながら語ってくれる本は久しぶりに読みました。音楽好きのあなた、一気読み間違いありません。ぜひ、お読みください。ジャズが聞きたくなること請け合いです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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西山浩 日本のジャズはこうしてできた

こんばんは。

  日本ジャズのレジェンドといえば、まずは渡辺貞夫さんです。

  その生まれは1933年ですので、今年は86歳となりました。渡辺貞夫さんのすごさは、今だに日本全国をライブパフォーマンスで走り回っているところです。先月10月のパフォーマンスは、10月の2日は浜松市ゴルフクラブ、4日から7日まで東京丸の内のコットンクラブ、10日は高崎(群馬)市芸術劇場。さらに今月は8日に長崎大村市「シーハットおおむら」、9日と10日は下関の「Jazz Club BILLIE」、12日が大分市「BRICK BLOCK」、14日には高松の「SPEAK LOW」、15日は松山の「MONK」でライブパフォーマンスを繰り広げています。

  12月にも長野、神戸、大阪、札幌、横浜と日本を駆け回り、15日の日曜日には毎年恒例のクリスマスライブが、東京渋谷のオーチャードホールで開演となります。

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(渡辺貞夫 クリスマスギフト LIVE ポスター)

  ジャズの世界では、世界的にも80歳を超える演奏者が活躍していますが、一般的には80歳を超えてライブを行っているプロフェッショナルは、加山雄三さんくらいしか思い当たりません。昨年の東京ジャズでは、日曜日のラストステージでビッグバンドの演奏を繰り広げ、衰えを知らない素晴らしいパフォーマンスを披露してくれました。渡辺貞夫といえばビパップですが、「カリフォルニア・シャワー」に代表されるフュージョンやボサノヴァでもその名前は世界に轟いており、渡辺貞夫さんと同時代に生きることができたことを神様に感謝したいと思っています。いつまでもお元気で素晴らしいジャズを聞かせてほしいと願うばかりです。

  今週は、その渡辺貞夫さんとさらなるレジェンドといってもよい秋吉敏子さんを描いた本を読んでいました。

「秋吉敏子と渡辺貞夫」(西山浩著 新潮新書 2019年)

【日本のジャズのはじまり】

  ジャズは、アメリカで生まれた音楽です。もとはといえばニューオリンズで生まれた誰もが楽しむことができるラグタイムのような演奏です。日本のジャズは、戦前にすでに日本に上陸していましたが、太平洋戦争がはじまるや敵性音楽としてすべて禁止されました。しかし、1945年に終戦を迎え、アメリカの進駐軍が日本に押し寄せてきたときに、日本にジャズが復活します。

  というのも、東京内幸町の旧第一生命ビルがGHQに撤収されマッカーサー元帥が来日すると同時に日本各地に進駐軍が駐留することになります。アメリカ軍人はみな音楽好きで、娯楽といえばジャズの演奏を聴き、ダンスすることでした。銀座や横浜には駐留軍専門のジャズクラブができ、そこでは毎日ジャズが演奏されます。その演奏者は、にわか仕込みの日本人だったのです。

(以下、敬称略)

  秋吉(穐吉)敏子は1929年生まれ。渡辺貞夫は1933年生まれです。終戦の時には、それぞれ16歳、13歳でした。二人は子供のころから音楽にあこがれを持ち、秋吉敏子はピアノ、渡辺貞夫はクラリネットとアルトサックスを演奏していました。終戦後、日本に駐留した米軍の影響で、二人はジャズに目覚めます。そして、この本のオープニングに描かれるように、1953年の夏、横浜の進駐軍クラブ「ハーレム」で秋吉敏子と渡辺貞夫は、お互いの演奏と出会うことになるのです。

  この出会いが、日本のジャズの幕開けの一つになったのです。

  題名のとおり、この本では日本のジャズの発展に大きく影響を与えたお二人の軌跡をたどるわけですが、著者の視点は広く、お二人を語ることが同時に日本のジャズ界全体を語る、との構成になっているのです。そこに登場する人物たちはジャズファンにとっては、おあなじみの人たちで、その名前が語られているだけで心を動かされます。

  日本の洋楽ブームは、戦後、ジャズから始まりました。歌謡曲のバックで指揮を執る原信夫とシャープ&フラッツ、クラリネットの第一人者北村英二、ジャズ歌手からキャリアを始めたペギー葉山や江利チエミ、今のジャニーズに負けないほどのアイドルだったジョージ川口(ドラムス)、小野満(ベース)、中村八大(ピアノ)、松本英彦(テナーサックス)がメンバーだった4人組、ビッグ・フォー、とにかくこの本にはその後の日本音楽界を代表する人たちの名前が次々と登場します。

  さらに現在にも通じる日本のジャズミュージシャンたち。渡辺貞夫教室で学んだ、菊池雅章、増尾好秋、富樫雅彦や日野皓正、渡辺香津美など、錚々たるジャズミュージシャンが顔を出し、読む人の胸を熱くしてくれます。著者の意図には、お二人を描くと同時に日本のジャズから派生した音楽文化全体を俯瞰したいとの想いがあったのだと思います。そして、この本でその想いは成功しています。

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(日本のジャズを語る amazon.co.jp)

  この本の目次を紐解いてみましょう。

序章 出会い

1章 ピアノに魅せられた少女

2章 アメリカにあこがれた少年

3章 ジャズで生計を立てる

4章 黄金時代の主役たち

5章 シンデレラガール

6章 「ナベさん、バークリーで勉強してみない」

7章 不遇と栄光

8章 フリージャズからフュージョンへ

9章 「世界のナベサダ」の誕生

10章 呼ばれればどこにでも

11章 歩みは続く

終章 二人の役割

おわりに

【ジャズを創る人】

  秋吉敏子と渡辺貞夫。このレジェンドお二人を結ぶキーワードは、2つ。「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院(現バークリー音楽大学)です。

  まずは「コージー・カルテット」。「コージー・カルテット」は、ジャズバンドの名前です。1949年、九州から東京へと上京してきた秋吉敏子は、進駐軍相手に日銭を稼ぐジャズプレイからアイデンティティ豊かなジャズジャズプレイへの変化を求めて、自分が主催するバンドを結成します。1951年に結成されたバンドは、当時は珍しい月給制のバンド。自分たちの求める音楽をお金に煩わされることなく追求するためには、安定した。

  バンド結成から2年。1953年に横浜の「ハーレム」で渡辺貞夫の演奏を聴いた(見た?)秋吉は、その演奏力を買ってバンドへの加入を申し入れます。こうして、「コージー・カルテット」は、宮沢昭、原田長政、白木英雄、秋吉敏子に渡辺貞夫を加えたスーパーバンドとして日本人のジャズを展開していきました。

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(秋吉敏子 コージーカルテット仲間とのLIVE盤)

  しかし、秋吉敏子は自らのジャズピアノをより高めるために常に挑戦を続けていたのです。渡辺貞夫が加入した1953年、アメリカの名プロデューサーであるノーマン・グランツが来日しました。そのときにピアニストであったのはあのオスカー・ピ-ターソンです。略歴によると、「来日中のオスカー・ピ-ターソンに認められて(アメリカ盤録音)」と紹介されていますが、そのときに起きた出来事は驚きの出来事です。それは、秋吉敏子でなければ起きなかった出来事でしょう。

  何が起きたのかは、ぜひこの本を読んでほしいのですが、とにかくこの出来事によって秋吉敏子の録音したジャズアルバムがアメリカで紹介されることになります。このことが、渡辺貞夫の音楽人生を大きく変えることになるのです。

  さて、「バークリー音楽院」といえば、日本のミュージシャンも数多く輩出しています。はるか後年の話になりますが、ビブラフォンのゲイリー・バートンが音楽院の講師をしていたことはよく知られています。今や日本のジャズをけん引しているといっても過言ではない小曽根真もバークリーに留学していました。小曽根は、ゲイリー・バートンにバンド加入を勧められ自らのキャリアをスタートさせたといっても良いのですが、はじめて顔を合わせたとき、ゲイリーは小曽根を自分とは関係のないミュージシャンだと思ったといいます。

  そのときの小曽根真はオスカー・ピーターソンにあこがれていたのですが、とにかく速弾きのテクニック習得を目指していたといいます。つまり、ジャズピアノのテクニックを身に付けることが目標で、その演奏はとにかく速弾きだったと自ら語っています。その後、ゲイリーは改めて小曽根の演奏をじっくりと聴いて、彼の中の音楽をともに育てようと考えたのかもしれません。

  2017年、川口リリアでゲイリー・バートンと小曽根真のデュオライブが開催されました。ゲイリーは、このとき74歳を迎え、現役最後のライブは小曽根と行いたいとの希望を持ち、このライブに臨んだといいます。ライブは、お二人の数十年の間に培った様々な想いが行きかう、素晴らしいものでした。強く、リリカルに交わされるインタープレイに思わず眼がしらが熱くなりましたが、お二人の心温まるMCにも心が洗われました。

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(ゲイリー・バートン LASTLIVE ポスター)

  「バークリー音楽院」と聴くと、いつもこのライブのことを思い出します。

  話を戻します。

  秋吉敏子は、常々バークリー音楽院への留学を希望し、願書を提出していたそうですが、音楽院からはなしのつぶてだったと語っています。ところが、アメリカでアルバムが発売され、その取材記事が有名雑誌に掲載されると、音楽院から連絡がきたのです。なんと、その内容は学費免除で入学を認めるという申し入れだったのです。そして、1956年1月、秋吉敏子は単身ボストンに渡り、Berkeley音楽学院に入学しました。

  バンマスがバークリーへと渡ってしまい、「コージー・カルテット」はいったいどうなったのでしょうか。なんと、秋吉敏子は自らのバンドを渡辺貞夫に託したのでした。進駐軍の占領が終わり、ジャズマンの収入減がなくなる中、秋吉敏子の信念で給料制を取っていたバンドの維持は並大抵ではありません。バンドの維持のために渡辺貞夫は奔走します。最終的にバンドは解散し、彼はジョージ川口が主催するビッグ・フォーに参加することになります。

  ところが、バークリー音楽院を卒業し、日本に帰国した秋吉から渡辺貞夫に驚きの申し出がなされることになります。それは、秋吉の次の留学生への指名でした。1961年に初のリーダーアルバムを世に出し、次のステップを探る渡辺貞夫にとって、バークリー音楽院への留学は願ってもない話でした。1962年、彼は秋吉敏子からの推薦を受けてバークリーに旅立ちました。

  「コージー・カルテット」と「バークリー音楽院」。こうして日本のジャズはかけがえのない二人のジャズミュージシャンをその歴史に刻むこととなるのです。

  

  この本は、あまりにも面白いので、その接点を語ってしまいましたが、それはほんの触りにしかすぎません。ジャズファンならご存じの通りここからお二人のジャズが花開き、日本のジャズの歴史が刻まれていきます。ニューヨークでサックス奏者のチャーリー・マリアーノと結婚しバンドを結成する秋吉。さらに後年には、テナーサックス奏者のルー・タバキンと再婚してビッグバンドを結成します。秋吉は、作曲家としても活躍。「すみ絵」、「孤軍」、「みなまた」と次々にオリジナル曲を発表していきます。

  一方、渡辺貞夫はバークリーから帰国後、従来のジャズの枠、ビパップの枠にとどまることなく次々と新たな感性を広げていきます。ゲイリー・マクフ-ランドやチャーリー・マリアーノからボサノヴァやラテンへの広がりを学び、ブラジル音楽を取り入れます。さらに「マイ・ディア・ライフ」では、リー・リトナーやデイブ・グルーシンとあらたな境地へと進みます。1978年に発表した「カリフォルニア・シャワー」では日本にフュージョンブームを巻き起こし、一躍時の人になるのです。

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(渡辺貞夫「カリフォルニア シャワー」)

 

  音楽を語ればキリがありませんが、この本ほどジャズを楽しみながら語ってくれる本は久しぶりに読みました。音楽好きのあなた、一気読み間違いありません。ぜひ、お読みください。ジャズが聞きたくなること請け合いです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


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007(ゼロゼロセブン)は殺しの番号

こんばんは。

  公開後、全作品をオープニングからエンディングまで鑑賞した映画シリーズは、007シリーズとスターウォーズシリーズのみです。

  007はすべて映画館で見た、と言いたいところですが、第1作 ドクターNO(邦題「007は殺しの番号」)が日本で公開されたのは、1963年です。東京オリンピックの開催は、1964年ですから私はまだ5歳でした。ちょうどそのころにはじめて映画を見ましたが、それは東宝映画「わんぱく王子の大蛇退治」でした。まあ、両方ともアクション映画ではありますが、中身はだいぶん違います。

  初代ジェームズ・ボンドは、言わずと知れたジョーン・コネリー。今年89歳になるといいますが、お元気なのでしょうか。私が映画の魅力にはまったのは中学2年生の時でしたが、その頃に封切られた007は、ショーン・コネリーが主演した最後の作品、「007 ダイヤモンドは永遠に」(1971年)でした。このシリーズでは、主題歌も大きな話題となりますが、シャーリー・バッシーが歌ったこの映画の主題歌もソウルフルでスマッシュヒットとなりました。

  正式な007映画としては、この作品がジョーン・コネリー最後の作品なのですが、実はその後、ファンや本人の希望があり、1983年に「ネバーセイ、ネバーアゲイン」という映画で、カムバックして007を演じました。題名は、「(007を)もうやらないなんて言わないで」という意味です。この映画は、「007 サンダーボール作戦」のリメイクですが、当時、007シリーズの映画化権はすべてアルバート・R・ブロッコリの手にあり、この作品だけが映画化可能なものだったそうです。この映画は、まさに007へのオマージュに満ち溢れていて、何度見ても楽しい映画でした。

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(映画「NEVER SAY NEVER AGAIN」ポスター)

  ショーン・コネリーは、あまりにジェームズ・ボンドのイメージと重なっていたために制作サイドは、後継者選びに苦労したと思われます。事実、「007 ダイヤモンドは永遠に」の前作「女王陛下の007」では、007をジョージ・レーセンビーが演じたのですが、興行成績が振るわず次作でショーン・コネリーが復帰するとの事態が起きたのです。その後、イケメン俳優のロバート・ワーグナーが候補に挙がりましたが、彼は、自分はあまりにアメリカ的でイギリス人のジェームズ・ボンドにはふさわしくない、と辞退し、ロジャー・ムーアを推薦したといいます。

  現在、007を演じているのは、6代目のダニエル・グレイグとなり渋いジェームズ・ボンドを演じています。最近のハリウッド映画のはやりですが、人生を背負う側面を醸し出すために背負っている過去に焦点を当てた脚本が映画を盛り上げます。ダイエル・グレイグの007もその路線を走っていますが、007に過去の足かせはそぐわないと思っています。確かに人間ですから様々なしがらみを背負うのは当たり前ですが、それが暗くて重いものとなると「007」とは異質に変容してしまう気がするのは私だけでしょうか。

  今週は、古き良き007を描いた小説の最新版を読んでいました。

「007 逆襲のトリガー」(アンソニー・ホロビッツ著 駒月雅子訳 角川文庫 2019年)

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(文庫「逆襲のトリガー」amazom.co.jp)

007シリーズの魅力】

  007シリーズの原作は、イアン・フレミングの大人気小説です。かのケネディ大統領もこのシリーズの愛読者だったのは有名なお話です。はじめてジェームズ・ボンドが登場したのは、1953年に上梓された「カジノ・ロワイヤル」でした。イギリスの諜報機関を題材とすること自体も当時としては斬新でしたが、それもそのはず、イアン・フレミングは第二次世界大戦中にイギリス諜報機関で働いていた本ものの諜報部員だったのです。

  諜報機関を退職後、ジャマイカの別荘に移り住んだ彼が、諜報機関時代の経験をもとに執筆したのが007シリーズだったのです。

  実をいうと、恥ずかしながら映画のフリークでありながらこれまでイアン・フレミングの小説は一度も読んだことがありません。特に理由はないのですが、映画があまりにも面白かったため、小説を読むと全く別のジェームズ・ボンドが出てきそうで億劫だったという感じです。考えてみれば、ハリー・ポッターも映画は見ても本は読んでいないし、スター・ウォーズも本を読もうとは思いません。

  それが、この本を読もうと思ったのは、いつもの本屋巡りで「007」という文字にひっかかったことがきっかけです。原作者のイアン・フレミングは、1965年に心臓麻痺で亡くなり、その後007シリーズは書かれることがありませんでした。しかし、イアン・フレミング財団なる団体はこれまでにも何度か007シリーズ新作の執筆を有望な作家に依頼していました。一度007を読んでみたいと思っていたところに新作です。思わず手に取ってしまいました。

  今回、白羽の矢が立ったのはシャーロック・ホームズの続編を執筆したイギリスの作家、アンソニー・ホロビッツ氏でした。シリーズの大ファンであった著者は、財団からの執筆依頼を受けてアイデアを練ります。氏は、生前イアン・フレミングがテレビ映画のための脚本を何篇か執筆していたことを知り、その草稿を手にします。今回のボンドの活躍は、イアン・フレミングのアイデアに基づく内容となりました。

  007の魅力は、何といっても男のロマンをくすぐる設定の数々です。

  まず、ジェームズ・ボンドのダンディな生き方。「男」に限定するのは今様ではありませんが、そのこだわりは、衣食住にとどまらず、生き方、女性観、車、小物まで徹底しています。ボンドは、常にスーツとネクタイに身を包んでいますが、愛用の銃にワルサーPPKを選んでいる理由もホルスターに収めたときにスーツが型崩れしないから(外から見て銃がわからないから)と言われています。さらにスーツに合わせる革靴は、紐靴というのもこだわりです。ボンドといえば、マティーニですが、「マティーニを。ステアせずシャエイクして。」とのセリフは映画史にも残る名セリフです。

  次なる魅力は、彼の職業です。男が憧れる職業といえば、大統領と指揮者と言われていますが、スパイもその最たる職業です。常に命の危険にさらされていますが、紙一重のところで国や人を救うというアドレナリン全開の職業です。「神々が打ち滅ぼさんとしたまいしもの、退屈なり。」とは、ボンドがささやいた独り言ですが、常に「退屈」を嫌って新たなミッションへと挑んでいく姿は、ほれぼれとする生き様です。そこに絡んで登場するメカニックも大きな魅力です。シリーズには、諜報機関でメカニックを担当するQが登場し、常に新たな武器をボンドに渡します。ナイフや金貨が仕込まれたアタッシュケース。機関銃や巻き菱を内蔵したアストンマーチンなど、血沸き肉踊ります。

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(アストンマーチンとジェームズ・ボンド)

  そして、何といってもボンドを取り囲む美しい女性たちは極めつけです。

  007の映画監督は、皆、ボンドガールのキャスティングに頭を悩ましたことと思います。小説では、その魅力が言葉で表現されますが、それが視覚化されたときに言葉のイメージが目の前に実現することが求められるからです。それでも映画のボンドガールは、皆、魅惑的です。第1作では、ジャマイカ沖の絶海の孤島に出現する妖艶な女性ハニーをウルスラ・アンドレスが演じ、観客の目をスクリーンに釘付けにすることに成功しました。真っ白いビキニに小刀を携えたグラマラスな容姿は見事でしたが、さすがに小説に忠実には描くことができませんでした。

  なぜなら、小説で登場するハニーは、腰の小刀以外は一糸もまとわぬ全裸だったからです。

  映画第2作となった「007 ロシアより愛をこめて」で暗号機とともにロシアから亡命するタチアナ・ロマノヴァを演じたダニエラ・ビランキは、美しさももちろんですが、そこに知的な魅力も加わり、シリーズのヒットを決定的なものにしました。タチアナがボンドの泊まるホテルのベッドルームに全裸で忍び込むシーンは、一瞬の影ではありましたが、妖艶な色香を醸し出していて思わず息をのみました。すべてを見せないことがいかに人の想像力を掻き立てるかを知らされたシーンでもありました。

  本当に007シリーズの魅力は語りつくすことができません。

007の新作 ボンド復活】

  007映画の定番は、プロローグにあります。オープニング、ボンドは必ず遂行不可能と思えるミッションを完遂する場面から始まります。そして、一仕事を終えたのちイギリス情報部、上司のMのもとを訪れます。そこでボンドは帽子をコートハンガーに投げ上げて、帽子はみごとにハンガーのトップへと収まります。その横には、Mの秘書であるミス、マニー・ペニーがボンドを待っていて、必ずボンドに嫉妬をまじえたひとことを投げかけます。

  今回の小説では、映画でプロローグにあたるエピソードが第一章で語られていきます。

  小説が描き出すジェームズ・ボンドの舞台は、何と冷戦まっただ中の1960年ころ。ボンドの敵は、当時のソビエト連邦の秘密組織であるスメルシュです。ボンドファンが喜びに震えるのは、なんと小説があの「ゴールドフィンガー」の後日談にあたっているからです。「ゴールドフィンガー」で、最後のどんでん返しを演出したのは、ゴールドフィンガーの部下である最強の下士官のごときプッシー・ガロアでした。

  ボンドは、命の恩人でもある金髪の美女プッシー・ガロアと一夜を共にしただけではなく、彼女をイギリスへと連れて帰り、一緒に住んでいたのです。一筋縄ではいかない女性を見ると口説き落とさずにはいられないボンドですが、なぜ。アメリカでは居場所のない彼女を救うべくイギリスに連れてきたのか。一風変わった展開に興味は尽きません。

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(ガロアを演じたオナー・ブラックマン)

  しかし、そこはボンド。イギリス紳士らしくガロアに気遣いながらも、すでに彼女と一緒にいることに後悔を感じ始めていました。そこにMからの呼び出しがあり、早くも次の事件が幕を開けることになるのです。今回、007に降りたミッションは、ソ連の秘密結社スメルシュに狙われたイギリス人を守ることでした。そのイギリス人は、世界一のF1レーサー。その場所は、ドイツ、ニュルブルクリンクの世界で最も過酷と言われるサーキットです。

  実は、ホロビッツ氏が発見したイアン・フレミングの草稿とは、007のテレビシリーズ用の草稿で、なんとボンドはそこでレーサーに身を投じることになるのです。この小説で描かれるボンドはその草稿通りにレーサーとして大活躍を演じるのです。

  小説の第一部、「空高く」は、こうして幕を開けることになります。レーサーとなるためにボンドにレースのすべてを教えるレーサーもほれぼれするような美女。さらにボンド好みの一流の腕を持つ利かん気の強いグラマラスな美人なのです。ハラハラとドキドキが次々に展開される粋なジェームズ・ボンドの活躍。007の魅力満載で小説は息もつかせず進んでいきます。

007対悪の対決】

  007と言えば、登場する悪役もそのスケールの大きさに唖然とさせられます。今回、ボンドを危機に陥れる悪役も半端ではありません。詳しくはぜひ小説で味わってほしいのですが、舞台となるのはアメリカとソ連が技術開発で先んじようと競い合う宇宙衛星の打ち上げです。今回の悪役の名前は、ジェイソン・シン。

  アメリカの大富豪ですが、驚くなかれ彼の本名は、シン・ジェソン。韓国からアメリカに渡ってきたシンは、アメリカで人材会社を立ち上げて大富豪に成り上がったのです。思い出すのは、「007 美しき獲物たち」で、敵となったゾ-リン産業を率いる大金持ちのマックス・ゾーリンです。彼は、アメリカの象徴であるシリコン・バレーをこの世から消し去るために空前絶後の大犯罪を計画するのですが、ゾーリンを演じたクリストファー・ウォーケンの冷静で酷薄な悪役には背筋がゾッとしました。

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(ゾーリンを演じたクリストファー・ウォーケン)

  今回登場するジェイソン・シンもゾーリンに勝るとも劣らない冷静で酷薄な名悪役です。

  第二部「地下深く」では、ボンドがまたまた知的な美女である謎の女ジェパディ・レーンとともに大活躍を演じます。もちろん、お約束の命の危機に何度も何度も遭遇し、からくも脱出、そしてタイムリミットが刻一刻と近づく中、ボンドは完全なる破滅を防ぐべくジェイソン・シンに挑んでいくのです。

  久しぶりの本格ボンド小説。皆さんもぜひお楽しみください。あの007の緊張とカタストロフが皆さんを襲うこと間違いなしです。最後の一行まで、目を離せません。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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007(ゼロゼロセブン)は殺しの番号

こんばんは。

  公開後、全作品をオープニングからエンディングまで鑑賞した映画シリーズは、007シリーズとスターウォーズシリーズのみです。

  007はすべて映画館で見た、と言いたいところですが、第1作 ドクターNO(邦題「007は殺しの番号」)が日本で公開されたのは、1963年です。東京オリンピックの開催は、1964年ですから私はまだ5歳でした。ちょうどそのころにはじめて映画を見ましたが、それは東宝映画「わんぱく王子の大蛇退治」でした。まあ、両方ともアクション映画ではありますが、中身はだいぶん違います。

  初代ジェームズ・ボンドは、言わずと知れたジョーン・コネリー。今年89歳になるといいますが、お元気なのでしょうか。私が映画の魅力にはまったのは中学2年生の時でしたが、その頃に封切られた007は、ショーン・コネリーが主演した最後の作品、「007 ダイヤモンドは永遠に」(1971年)でした。このシリーズでは、主題歌も大きな話題となりますが、シャーリー・バッシーが歌ったこの映画の主題歌もソウルフルでスマッシュヒットとなりました。

  正式な007映画としては、この作品がジョーン・コネリー最後の作品なのですが、実はその後、ファンや本人の希望があり、1983年に「ネバーセイ、ネバーアゲイン」という映画で、カムバックして007を演じました。題名は、「(007を)もうやらないなんて言わないで」という意味です。この映画は、「007 サンダーボール作戦」のリメイクですが、当時、007シリーズの映画化権はすべてアルバート・R・ブロッコリの手にあり、この作品だけが映画化可能なものだったそうです。この映画は、まさに007へのオマージュに満ち溢れていて、何度見ても楽しい映画でした。

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(映画「NEVER SAY NEVER AGAIN」ポスター)

  ショーン・コネリーは、あまりにジェームズ・ボンドのイメージと重なっていたために制作サイドは、後継者選びに苦労したと思われます。事実、「007 ダイヤモンドは永遠に」の前作「女王陛下の007」では、007をジョージ・レーセンビーが演じたのですが、興行成績が振るわず次作でショーン・コネリーが復帰するとの事態が起きたのです。その後、イケメン俳優のロバート・ワーグナーが候補に挙がりましたが、彼は、自分はあまりにアメリカ的でイギリス人のジェームズ・ボンドにはふさわしくない、と辞退し、ロジャー・ムーアを推薦したといいます。

  現在、007を演じているのは、6代目のダニエル・グレイグとなり渋いジェームズ・ボンドを演じています。最近のハリウッド映画のはやりですが、人生を背負う側面を醸し出すために背負っている過去に焦点を当てた脚本が映画を盛り上げます。ダイエル・グレイグの007もその路線を走っていますが、007に過去の足かせはそぐわないと思っています。確かに人間ですから様々なしがらみを背負うのは当たり前ですが、それが暗くて重いものとなると「007」とは異質に変容してしまう気がするのは私だけでしょうか。

  今週は、古き良き007を描いた小説の最新版を読んでいました。

「007 逆襲のトリガー」(アンソニー・ホロビッツ著 駒月雅子訳 角川文庫 2019年)

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(文庫「逆襲のトリガー」amazom.co.jp)

007シリーズの魅力】

  007シリーズの原作は、イアン・フレミングの大人気小説です。かのケネディ大統領もこのシリーズの愛読者だったのは有名なお話です。はじめてジェームズ・ボンドが登場したのは、1953年に上梓された「カジノ・ロワイヤル」でした。イギリスの諜報機関を題材とすること自体も当時としては斬新でしたが、それもそのはず、イアン・フレミングは第二次世界大戦中にイギリス諜報機関で働いていた本ものの諜報部員だったのです。

  諜報機関を退職後、ジャマイカの別荘に移り住んだ彼が、諜報機関時代の経験をもとに執筆したのが007シリーズだったのです。

  実をいうと、恥ずかしながら映画のフリークでありながらこれまでイアン・フレミングの小説は一度も読んだことがありません。特に理由はないのですが、映画があまりにも面白かったため、小説を読むと全く別のジェームズ・ボンドが出てきそうで億劫だったという感じです。考えてみれば、ハリー・ポッターも映画は見ても本は読んでいないし、スター・ウォーズも本を読もうとは思いません。

  それが、この本を読もうと思ったのは、いつもの本屋巡りで「007」という文字にひっかかったことがきっかけです。原作者のイアン・フレミングは、1965年に心臓麻痺で亡くなり、その後007シリーズは書かれることがありませんでした。しかし、イアン・フレミング財団なる団体はこれまでにも何度か007シリーズ新作の執筆を有望な作家に依頼していました。一度007を読んでみたいと思っていたところに新作です。思わず手に取ってしまいました。

  今回、白羽の矢が立ったのはシャーロック・ホームズの続編を執筆したイギリスの作家、アンソニー・ホロビッツ氏でした。シリーズの大ファンであった著者は、財団からの執筆依頼を受けてアイデアを練ります。氏は、生前イアン・フレミングがテレビ映画のための脚本を何篇か執筆していた知り、その草稿を手にします。今回のボンドの活躍は、イアン・フレミングのアイデアに基づく内容となりました。

  007の魅力は、何といっても男のロマンをくすぐる設定の数々です。

  まず、ジェームズ・ボンドのダンディな生き方。「男」に限定するのは今様ではありませんが、そのこだわりは、衣食住にとどまらず、生き方、女性観、車、小物まで徹底しています。ボンドは、常にスーツとネクタイに身を包んでいますが、愛用の銃にワルサーPPKを選んでいる理由もホルスターに収めたときにスーツが型崩れしないから(外から見て銃がわからないから)と言われています。さらにスーツに合わせる革靴は、紐靴というのもこだわりです。ボンドといえば、マティーニですが、「マティーニを。ステアせずシャエイクして。」とのセリフは映画史にも残る名セリフです。

  次なる魅力は、彼の職業です。男が憧れる職業といえば、大統領と指揮者と言われていますが、スパイもその最たる職業です。常に命の危険にさらされていますが、紙一重のところで国や人を救うというアドレナリン全開の職業です。「神々が打ち滅ぼさんとしたまいしもの、退屈なり。」とは、ボンドがささやいた独り言ですが、常に「退屈」を嫌って新たなミッションへと挑んでいく姿は、ほれぼれとする生き様です。そこに絡んで登場するメカニックも大きな魅力です。シリーズには、諜報機関でメカニックを担当するQが登場し、常に新たな武器をボンドに渡します。ナイフや金貨が仕込まれたアタッシュケース。機関銃や巻き菱を内蔵したアストンマーチンなど、血沸き肉踊ります。

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(アストンマーチンとジェームズ・ボンド)

  そして、何といってもボンドを取り囲む美しい女性たちは極めつけです。

  007の映画監督は、皆、ボンドガールのキャスティングに頭を悩ましたことと思います。小説では、その魅力が言葉で表現されますが、それが視覚化されたときに言葉のイメージが目の前に実現することが求められるからです。それでも映画のボンドガールは、皆、魅惑的です。第1作では、ジャマイカ沖の絶海の孤島に出現する妖艶な女性ハニーをウルスラ・アンドレスが演じ、観客の目をスクリーンに釘付けにすることに成功しました。真っ白いビキニに小刀を携えたグラマラスな容姿は見事でしたが、さすがに小説に忠実には描くことができませんでした。

  なぜなら、小説で登場するハニーは、腰の小刀以外は一糸もまとわぬ全裸だったからです。

  映画第2作となった「007 ロシアより愛をこめて」で暗号機とともにロシアから亡命するタチアナ・ロマノヴァを演じたダニエラ・ビランキは、美しさももちろんですが、そこに知的な魅力も加わり、シリーズのヒットを決定的なものにしました。タチアナがボンドの泊まるホテルのベッドルームに全裸で忍び込むシーンは、一瞬の影ではありましたが、妖艶な色香を醸し出していて思わず息をのみました。すべてを見せないことがいかに人の想像力を掻き立てるかを知らされたシーンでもありました。

  本当に007シリーズの魅力は語りつくすことができません。

007の新作 ボンド復活】

  007映画の定番は、プロローグにあります。オープニング、ボンドは必ず遂行不可能と思えるミッションを完遂する場面から始まります。そして、一仕事を終えたのちイギリス情報部、上司のMのもとを訪れます。そこでボンドは帽子をコートハンガーに投げ上げて、帽子はみごとにハンガーのトップへと収まります。その横には、Mの秘書であるミス、マニー・ペニーがボンドを待っていて、必ずボンドに嫉妬をまじえたひとことを投げかけます。

  今回の小説では、映画でプロローグにあたるエピソードが第一章で語られていきます。

  小説が描き出すジェームズ・ボンドの舞台は、何と冷戦まっただ中の1960年ころ。ボンドの敵は、当時のソビエト連邦の秘密組織であるスメルシュです。ボンドファンが喜びに震えるのは、なんと小説があの「ゴールドフィンガー」の後日談にあたっているからです。「ゴールドフィンガー」で、最後のどんでん返しを演出したのは、ゴールドフィンガーの部下である最強の下士官のごときプッシー・ガロアでした。

  ボンドは、命の恩人でもある金髪の美女プッシー・ガロアと一夜を共にしただけではなく、彼女をイギリスへと連れて帰り、一緒に住んでいたのです。一筋縄ではいかない女性を見ると口説き落とさずにはいられないボンドですが、なぜ。アメリカでは居場所のない彼女を救うべくイギリスに連れてきたのか。一風変わった展開に興味は尽きません。

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(ガロアを演じたオナー・ブラックマン)

  しかし、そこはボンド。イギリス紳士らしくガロアに気遣いながらも、すでに彼女と一緒にいることに後悔を感じ始めていました。そこにMからの呼び出しがあり、早くも次の事件が幕を開けることになるのです。今回、007に降りたミッションは、ソ連の秘密結社スメルシュに狙われたイギリス人を守ることでした。そのイギリス人は、世界一のF1レーサー。その場所は、ドイツ、ニュルブルクリンクの世界で最も過酷と言われるサーキットです。

  実は、ホロビッツ氏が発見したイアン・フレミングの草稿とは、007のテレビシリーズ用の草稿で、なんとボンドはそこでレーサーに身を投じることになるのです。この小説で描かれるボンドはその草稿通りにレーサーとして大活躍を演じるのです。

  小説の第一部、「空高く」は、こうして幕を開けることになります。レーサーとなるためにボンドにレースのすべてを教えるレーサーもほれぼれするような美女。さらにボンド好みの一流の腕を持つ利かん気の強いグラマラスな美人なのです。ハラハラとドキドキが次々に展開される粋なジェームズ・ボンドの活躍。007の魅力満載で小説は息もつかせず進んでいきます。

007対悪の対決】

  007と言えば、登場する悪役もそのスケールの大きさに唖然とさせられます。今回、ボンドを危機に陥れる悪役も半端ではありません。詳しくはぜひ小説で味わってほしいのですが、舞台となるのはアメリカとソ連が技術開発で先んじようと競い合う宇宙衛星の打ち上げです。今回の悪役の名前は、ジェイソン・シン。

  アメリカの大富豪ですが、驚くなかれ彼の本名は、シン・ジェソン。韓国からアメリカに渡ってきたシンは、アメリカで人材会社を立ち上げて大富豪に成り上がったのです。思い出すのは、「007 美しき獲物たち」で、敵となったゾ-リン産業を率いる大金持ちのマックス・ゾーリンです。彼は、アメリカの象徴であるシリコン・バレーをこの世から消し去れた目に空前絶後の第犯罪を計画するのですが、ゾーリンを演じたクリストファー・ウォーケンの冷静で酷薄な悪役には背筋がゾッとしました。

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(ゾーリンを演じたクリストファー・ウォーケン)

  今回登場するジェイソン・シンもゾーリンに勝るとも劣らない冷静で酷薄な名悪役です。

  第二部「地下深く」では、ボンドがまたまた知的な美女である謎の女ジェパディ・レーンとともに大活躍を演じます。もちろん、お約束の命の危機に何度も何度も遭遇し、からくも脱出、そしてタイムリミットが刻一刻と近づく中、ボンドは完全なる破滅を防ぐべくジェイソン・シンに挑んでいくのです。

  久しぶりの本格ボンド小説。皆さんもぜひお楽しみください。あの007の緊張とカタストロフが皆さんを襲うこと間違いましです。最後の一行まで、間を離せません。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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人類の起源=宗教の起源?ですか

こんばんは。

  先日、いつもの本屋さん巡りをしているとき、おもわず表題にひかれた本がありました。その題名は、「人類の起源、宗教の誕生」です。

  ブログに訪れていただいている方はご存じですが、「人類の起源」にまつわる本をみると読まずにいられない性分です。それが考古学でも歴史学でも社会学でも解剖学でも化学でも、なぜ人類が生まれたのか、との謎ほどスリリングでワンダーな謎はありません。近年は、DNA研究によってアフリカで最初の人類が立ち上がり、その後、世界中へとグレートジャーニーによって広がっていったとの説が強く支持されているようですが、それだけが真実なのではありません。

  我々ホモ・サピエンスは唯一の人類でないことも事実のようです。

  猿から猿人、類人猿、人類への進化。そこからホモ・サピエンスまでの道のりは絶滅の歴史である、と言われています。定説では、700万年前に霊長類は、人とチンパンジーに分かれたといいます。そして、700万年の間に人は人として進化し、チンパンジーはチンパンジーとして進化したと考えられています。チンパンジーは、よく人と比較されていて同じ仲間なのになぜこんなに違うのか、と語られますが、700万年前の別れたときに比較するのならまだしも、700万年進化した後の生物を並べてみてもその比較自体がナンセンスと言われても仕方がありません。

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(有名チンパンジー「プリンちゃん」asahi.com)

  現在、考古学的研究ではホモ・サピエンスと同じ枝にいた人類は、少なくとも25種はいたと考えられています。ところが、我々、ホモ・サピエンスのみがこの地球上に生き残り、他の種族たちはことごとく絶滅してしまったというのです。我々と最も近い兄弟といわれるネアンデルタール人は、最も近年まで生きていた人類です。ホモ属がこの2種になったのは約5万年前、さらにネアンデルタール人が絶滅したのは、約4万年前といわれています。

  ネアンデルタール人は、我々よりも大きな脳を備えており、その大きさもホモ・サピエンスより大きく力もあったようです。なぜ、我々は生き残り、彼らは絶滅したのか。やっぱり、「人類の起源」は最もワンダーな話題なのです。

  さて、そんなことで今週は京都大学の総長である人類学者と同志社大学神学部の宗教学者による最新の対談本を読んでいました。

「人類の起源、宗教の誕生‐ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき」

(山極寿一 小原克博著 平凡社新書 2019年)

【宗教は人間独自のものなのか】

  宗教とは何か。あまりにも広大な設問ですが、私にはまったく答えを見つけることができません。日本人の場合には、「鰯の頭も信心から」といわれるように八百万(やおよろず)の神をすべて神と崇めている多神教で、この世のものにはことごとく神様がいるわけですから、これを宗教と呼べば、ますます得たいが知れなくなります。ただ、どんな神であろうと、信じることが原点であり「ありがたや、ありがたや」との言葉そのものが宗教ではないか、とも思います。

  無節操な日本人に比べて、一神教は壮絶であり、残酷です。同じキリストを信じる宗教でも、カトリックとプロテスタントに分かれ、争いを起こして何年にもわたりあまたの人を殺してしまいます。キリスト教とイスラム教に至っては、十字軍やヨーロッパ侵略、インドのムガール帝国まで、まるで世界を奪い合うような長い歴史を持っています。どちらの神が正しいのか、が戦争に至る文化は日本人には永久に理解できないのかもしれません。

  ただ、宗教に政治が絡んでくると殺し合いが起きることはうなずけます。日本でも信長や秀吉ははじめのうち、異質で珍しい文化が交易として有効だとの考えからキリスト教を受容していましたが、キリスト教徒が為政者に逆らったとたん、キリスト教徒を弾圧し、鎖国にまで至ったのです。さらに、仏教の歴史としても信長は一向一揆を禁止し、盾突く一向宗を根こそぎ焼き殺すという暴挙までを起こしています。仏教は神を信じるわけではありませんが、自らが悟ることで極楽浄土が開けるとの信仰は、特異な位置づけにある宗教だと思います。

  さて、宗教の定義は不明ですが、ますは「信じる」ことが宗教の要件であることは間違いないようです。よくわからないのは、「信じる」とは苦悩から救われる、とか幸せが訪れる、とか願いが叶うとか、なにか現世的なものが伴うから信じるのではないのでしょうか。無償の祈りや信心というのは現代人にはわかりにくいものです。一神教の場合には、神はどうやら絶対のもののようで、そのことが現世のご利益とは関係のない「信心」を生み出すようです。

  ただ、「幸せになる」ことが現世の利益であるとすれば、すべての宗教はそこに行きつくことを目的にしているのかもしれません。

  この本を読もうと思った動機は、人類の起源への好奇心もさることながら、定義不明の宗教のことが少しは理解できるかもしれないとの思いもあったのです。

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(「人類と宗教対談」amazon.co.jpより)

  この本の目次を紐解いてみましょう。

1章 人類は「物語」を生み出した

2章 暴力はなぜ生まれたか

3章 暴走するAIの世界

4章 ゴリラに学べ!

5章 大学はジャングルだ

(補論)

◎人間、言葉、自然――我々はどこへ向かうのか  山極寿一

◎宗教が迎える新しい時代  小原克博

  大学の研究者の対談というと、堅い話を想像しますが、このお二人の対談は一味違って最新の知見に基づいた自由な語り合いが繰り広げられます。第1章は、題名そのままにホモ・サピエンスがなぜ唯一の人類として生き残ったのか。そこに宗教はあったのか、が語られます。

  皆さんは、渋谷の駅前に鎮座する忠犬ハチ公の物語をよくご存じだと思います。人が何者かを信じ、祭り、祈ることが宗教のはじまりとすれば、犬は何かを信じることがあるのでしょうか。ハチは、毎日夕方になると大学から帰宅するご主人、上野教授を待って渋谷駅に通っていました。ところが、ある日上野教授は大学での講義中に脳溢血で帰らぬ人となってしまいました。そのことを知らないハチは、毎日渋谷駅で上野教授の帰りを約10年に渡って待ち続けました。

  果たして、犬は何かを信じて渋谷駅で約10年もの間ご主人を待ち続けたのでしょうか。

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(東京大学のハチと上野教授 asahi.com)

  我々人類は、その昔長らく狩猟生活を続けていました。その中で、子供を育てるために相互に協力し、集団生活を始めたことが生き残りの大きな分岐点であったといわれています。集団は、洞窟を住処として生活していましたが、彼らは洞窟に素晴らしい壁画を残していました。先史時代の洞窟壁画は世界各地で発見されていますが、最も有名なものは2万年前に描かれたとされるラスコーの洞窟画です。その中には、みごとな写実画もあれば、デフォルメされた象徴画にみえる画もあるのです。

  象徴的な画は、そこにはアミニズムやシャーマニズムの匂いが漂います。アミニズムは、動物に霊魂を見出して祭るものであり、シャーマニズムは、巫女が霊的なものに祈り憑依することによって儀式を行い、祈りをささげるものです。宗教のはじまりを明確にすることは難しいようですが、お二人は少なくとも人類は狩猟時代には宗教的な意識を持っていたのではないか、と語ります。

【宗教のもたらすもの】

  ホモ・サピエンスが集団化していく過程で、宗教は共同体の倫理として形作られたと言います。最初は、集団の狩猟により移動生活していた我々も、農作物を育てる生活がはじまると、集団で定住するようになります。すると、共同体の人数は倍々ゲームで増えていくことになり、大集団を統率するための規範が必要となります。人が共同体をうまく統率できるのは、150人が限界だそうです。それを超える集団になると、何らかの規範が必要で、宗教はその1つになったのです。お二人は、それを「共同体のエシックス(倫理)」と語りますが、それは確かです。

  人が農耕牧畜により大集団で定住すると、そこには境界が生まれます。境界が生まれ、農作物による蓄財がはじまると、その富を狙って境界を越え強奪する行為が生まれます。狩猟時代、ホモ・サピエンスは槍や弓などの武器を使って狩猟を行っていましたが、武器を同じ人間に向けるようになったのは、農耕牧畜による定住以降のことだそうです。

  宗教が共同体のエシックスだとしても、そこに争いを戒める教えがあるにもかかわらず、なぜ宗教が戦争を引き起こすのでしょうか。対談では、明確な答えが用意されています。それは、宗教が政治や権力に使われたときに争いが起きるとの答えです。もともと宗教は、時の権力者の通年とは異なる教えを説いてきました。ところが、権力が宗教の力を利用しようとしたときに、そこには争いが勃発するのです。なるほど、宗教自体に戦いの要素があるのではなく、宗教が手段となったときに人は争うということです。なるほど納得です。

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(ベラスケス作「ブレダの開城」80年戦争より)

  この対談に面白い話がありました。それは、サルの話です。サルは、群れで生活しており、ボスが異なる群れ同志では、なわばりや食べ物を巡って争いが勃発する場合も多くあります。いがみあう2つの群れが争っていた時に、その間を年寄りのおばあさんザルが通過をしました。闘争中の群れは、おばあさんザルに手を出さないばかりか、おばあさんザルが通ると争いが止んだというのです。

  人間の場合でもいさかいの原因となった出来事について、年寄りは過去に同様の原因で争いが起きたことを経験しています。その年寄りが、経験に基づいて争いの仲介を行うと、当事者はそのことが過去に解決していたことを知り、争いが収まるというのです。含蓄のある話だと思っていたら、そのおばあさんザルは、喧嘩をしていたボスザル、両方の祖母だったのかも、とのオチで思わず笑ってしまいました。

  さて、人類学と宗教学の、汲めども尽きぬ対話は縦横無尽の広がりを見せて進んでいきます。人は、科学によって驚くべきスピードで進歩を重ねてきました。科学は、あらゆる現象の原理を明らかにし、すべてを見える化していきます。お二人の話題は、宗教が担っていた共同体のエシックス(倫理)は、科学の見える化と資本主義によるグローバル化によってその役割と意義を失いつつある、との方向に進んでいきます。

【人類と宗教はどこに行くのか】

  そして、お二人の話はAI社会となっていく我々の未来へと進んでいきます。

  対談の終盤でキーとなるのは、西田幾多郎の哲学、「善の研究」です。人間は、言葉を編み出した時からものごとを抽象化することを覚え、抽象化した言葉を語り伝えていくことであらゆる事象を共有化する術を身に付けて発展してきました。抽象化するとは、言い換えれば仮想化すること、つまりヴァーチャル化することです。

  科学の発展は、実証できない仮説を信じない世界を生み出しました。つまり、科学的に証明されないような事象を我々は不信感をもって見るようになります。人工知能は、我々が言葉で著わすものについて、それを膨大なデータとして蓄積し、分析することによって、これまで人間にはできなかったシミュレーションや未来予測を可能にしました。しかし、人工知能には我々が肉体で感じる意識を持つことはありません。そして、お二人の対談は、今、ホモ・サピエンスが直面している言葉による抽象概念の極大化というとてつもなく大きな危機へと進んでいくのです。

  この対談は、最後に「大学」という場が持つ可能性についての話に至り、読み物的に終了してしまうのですが、最後に用意されたお二人の論考が拡散された対談をもとの場所に引き戻してくれます。そして、そもそも命は何を求めてきたのか、との深遠な話に向かっていくのです。


  今年は、台風や豪雨のせいで日光の紅葉も元気がありません。被災した地域の皆さんも、まだまだ復興には程遠いと思います。世界じゅうのたくさんの人々はいつも被災している皆さんを応援しています。一日も早く生活が戻ることを心よりお祈りしています。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
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