佐藤優 ドストエフスキー5大長編を語る

こんばんは。

  ロシアは、侵略国家へとなりさがりました。

  ロシアと言えば、あの東ローマ帝国の正当な後継者として独自の文化をはぐくんできました。キリスト教正教会を継承しながらも絵画では、シーシキンやレービンなどの巨匠を生み出し、音楽ではチャイコフスキーやストラビンスキー、文学ではトルストイやドストエフスキー、と我々人類のレガシーがきら星のように輝いています。

  2年前に起きたウクライナへの侵略殺戮以前、ロシアは最も訪れたい国の一つでした。

  もう5年も前ですが、社会人となった娘が海外旅行フリークとなっていて、ロシアのサンクトペテルブルクとモスクワに出かけました。その街並みの美しさもさることながらエルミタージュ美術館に収められた人類の至宝と言っても良い美術品の数々。そこを訪れた話を聞いたときには、次に訪れるのはロシアしかないと連れ合いと話していたものです。

dost05.jpg

(エルミタージュ美術館の容姿 wikipediaより)

  ところが、コロナ禍による外出自粛で旅行ができなくなり、さらにはウクライナへの侵略戦争の勃発によってロシアへの旅行はテーマにも上がらなくなってしまいました。

  ウクライナではすでに、戦争とは何の関係もない市民や子供たちが1万人以上も亡くなっています。ロシアは、ウクライナの人々を殺戮し、精神的にも追い詰めることを目的として、ミサイルや無人機で主要都市を攻撃しています。ロシアの文化をはぐくんできた芸術家たちは、ロシアが受けてきた侵略や自らの国民に対して行われた殺戮に対して多くのニエットを唱えてきました。にもかかわらず、ロシアはウクライナに侵略し、他国の国民を殺戮する、という人間の尊厳を根本から否定する忌むべき犯罪を行いつつあります。

  我々人間が持つ最も優先すべき美徳は“ヒューマニズム”です。これは人道主義と訳されるのですが、言葉で定義されるよりも根源的で、普遍的な根本原理と言っても過言ではありません。それは、自分以外の人間が人として存在していることを肯定するという、もっとも基本的な規範なのです。

  元旦に能登地方をおそった大地震によって、多くの方々が一瞬にして肉親を目の前で失うという悲劇に見舞われました。この報道に本当にたくさんの人たちが胸を痛め、支援の行動を起こしてくれました。世界中の国々、人々も心を寄せ、北朝鮮さえも岸田首相宛にお見舞いのコメントをよせてくれたのです。

  災害によって人の命が突然失われることと、一方的な殺戮によって人の命が奪われることに何の差異もありません。ガザ地区におけるパレスチナの人々への殺戮もウクライナの人々の殺戮も、地震やハリケーンによる殺傷もなにも変ることはありません。ヒューマニズムとは、人が人で亡くなることを悼み、人の尊厳を敬愛する心を言います。プーチン大統領やネタニヤフ首相は、自ら手を下すことなく、数万人の人々の命と尊厳を消し去っています。自国民が災害で命を失いそうなとき、お二人はたとえ一人の命であっても必死の救出を命じるはずです。それは、政治家の役割からではなく、ヒューマニズムからだと信じています。人の命を奪う行為は一人でも、一万人でも、決して許されない犯罪です。人は誰もがヒューマニストであることを、今こそ思い返す必要があります。

  始まりからロシアの話題になったのは、今回読んでいた本が、ロシアの文豪ドストエフスキーの長編を語る本だったからです。

「生き抜くためのドストエフスキー入門-「五大長編」集中講義-」(佐藤優著 新潮文庫 2021年)

【ドストエフスキーは語り継がれる】

  2021年は、ドストエフスキー生誕200年に当たる年で、世界中でドストエフスキーに関するイベントが開催されました。ドストエフスキーの作り上げた世界は、未だに色あせることなく我々の心と知性に響き続けています。

  生誕200年の節目に日本で注目されたのは亀山郁夫さんと佐藤優さんのお二人です。

  亀山さんは、ロシア語の研究者が本業ですが、そのドフトエフスキーへの思い入れは大きく、2007年に「カラマーゾフの兄弟」の新訳を上梓しました。その後もトエフスキーに関する著作を多く上梓し、2021年にはドストエフスキーの長編小説「未成年」の新訳を上梓しています。(本ブログでも亀山さんのドストエフスキー本は何度か紹介していますので、ご参照ください。)

  一方の佐藤優さんは、この年に「ドストエフスキーの預言」という単行本を文藝春秋社から上梓しています。佐藤優さんと言えば、現代日本の知性派であるとともに元インテリジェンスオフィサーとして、世界のインテリジェンスを語ることができる論客です。佐藤さんはソビエト連邦が崩壊し、ロシア共和国が成立したときにモスクワの日本大使館に勤務する外交官で、その後は外務省で分析官を務めており、まさにインテリジェンスオフィサーそのものだったのです。

dost02.jpg

(「ドストエフスキーの預言」 amazon.co.jp)

  この本は、そんな佐藤優さんが生誕200年に当たって新潮社主催の新潮講座のひとつに登場した際の講義記録をまとめたものとなっています。

  佐藤さんは、この本のあとがきで、自分にはドストエフスキーを語るときに他の論者とは異なる3つの体験があると語っています。その一つは、自分の基礎教育がキリスト教神学であること。(氏は、同志社大学大学院の神学研究科を修業しています。)二つ目には、自分が78ヶ月外交官としてモスクワで生活しており、ロシア気質を肌感覚で知っていること。さらに、氏は2002年に公安警察に逮捕され、東京拘置所に512日間拘留された体験があります。のみならず、氏は外務省にてモスクワ大学に語学留学の機会を提供された経験も持ちます。三つ目の体験とは、国家の恐ろしさと国家からの恩恵の両方を身をもって知った点だと言います。

  確かにドストエフスキーも作家となってからしばらくして、当時社会主義者であったペトラシェフスキーが主催する会に出席してある手紙を朗読したことで秘密警察に逮捕され、死刑判決を下されました。しかし、まさに死刑執行のその直前に恩赦が出され、4年間のシベリア流刑へと減刑される、という想像を絶する体験を味わったのです。

  お二人がそろって語るのは、21世紀の現在の状況がドストエフスキーが描いた19世紀後半のロシアの状況と極めて似ているという認識です。19世紀後半のロシアは、帝政時代が終焉を迎える時代です。そこでは、ヨーロッパでの民主革命や資本主義の思想が国民の間に広まり、帝国は国家の引き締めに躍起になっています。一方で、流入する民主主義、資本主義の流れの中で、帝国も資本を認め、農奴を解放するなど近代化にも取り組みます。

  こうした時代、ロシアには混沌とした社会情勢が蔓延していきます。それまで、官吏が最も収入が高かった社会に金持ちの資本家が現れ、職を求める解放された農奴たちも貧困層に流入し、社会には大きな格差が生れます。さらには、国王を暗殺し、国家転覆を企てる社会主義者も世にはびこり、社会は混沌につつまれていきます。

  こうした、時代を深く、鋭く洞察し小説へと昇華させたドストエフスキーの作品は、現代社会に通底する問題が様々な場面やエピソードで語られているのです。

  例えば、佐藤さんは講演のプロローグで「罪の罰」の主人公ラスコーリニコフが見た夢の描写を紹介しています。その夢では、アジアの奥地から新たな微生物が発生し、ヨーロッパのほとんどの人々を死亡させるというのです。さらに、その微生物に感染した病人は自分がすべて正しいとする狂信的な人間となり、互いに殺し合うのです。この夢は、まさにコロナ禍とウクライナやガザでの殺戮が思い起こされます。

  ドストエフスキーが語り継がれる理由はまさにここにあるのではないでしょうか。

dost01.jpg

(「ドストエフスキー入門」amazon.co..jp)

【ドストエフスキー5大長編を語る】

  この入門編で語られる5大長編とは、「罪と罰」(186645歳)、「白痴」(186948歳)、「悪霊」(187150歳)、「未成年」(187554)、「カラマーゾフの兄弟」(187958歳)を指しています。どれも非常に長い小説ですが、ドストエフスキーの特徴は、小説の中で濃密な時間が流れているところです。それは、登場人物たちの会話が小説の大きな部分を占めるところから生じていると言っても良いと想います。

  会話で構成される小説というと我々は読みやすい小説を思い浮かべますが、ドストエフスキーの小説の登場人物たちは、「天気と健康」のような会話は交わしません。誰もが、自らの独自の主張と考え方を持ち、それぞれの主人公の性格は描写よりもむしろその発言や会話で表されているからです。

  今回の講演は、3日間にわたって行われましたが、1回の時間は限られていて、一つの作品に費やされているのは文庫本にして35ページ程度の分量です。この分量で名作のエッセンスを語るわけですから、テーマは絞られています。この本の面白さは、佐藤優さんの目の付け所とそこにひそむ意味を現代の我々にあざやかに描き出してくれるところなのです。

  少しさわりをご紹介しましょう。

  まず、「罪と罰」ですが、このミステリーと言っても良い小説で佐藤さんは現代ロシアに通じる文化ともいえる「土壌主義」に言及します。それは、2つの殺人を犯したラスコーリニコフが、家族の窮状を救うために自ら娼婦へと身を落としたソーニャとの会話の意味をつまびらかにしていくことで明らかにされていきます。

  ラスコーリニコフがサンクトペテルブルクの広場で激情に駆られて涙を流し、広場の石畳に顔をすり寄せて大地に口づける場面は小説のクライマックスですが、その意味がここで明かされます。

  「白痴」でもキリスト教正教が他のキリスト教徒の相違点に基づいて小説を解説していきますが、この章で面白いのは翻訳者解説です。新潮文庫におけるドストエフスキーの翻訳者には、江川卓さん、原卓也さん、工藤精一郎さん、木村浩さんがいますが、この小説の題名のロシア語の解釈が微妙に異なります。江川さんに対する木村さんの指摘になるほど感を覚えます。

  「悪霊」は、実在のアナーキーな革命家に題材を取ったピカレスクロマンなのですが、そこでのポイントは「人」と「神」の関係と、そこにからんでくる「死」をどのようにとらえるか、という問題です。佐藤さんは、キリスト教からその問題を解き明かすとともに、高橋和巳さんの小説「日本の悪霊」を紹介することによって、よりわかりやすく論点を説明してくれます。

  「未成年」は私も読もうとして、読みにくさに放棄してしまった作品なのですが、佐藤さんの解題は、本当に面白く読むことができました。この小説を身近に感ずるように、佐藤さんはホリエモンや村上春樹さんを引用してこの作品を解説してくれます。また、余談で語られるトルストイへの嫉妬や当てこすりも、なるほど感があります。

dost03.jpg

(亀山郁夫訳「未成年1」 amazon.co.jp)

  そして、本好きの誰もが一度は洗礼を受ける「カラマーゾフの兄弟」です。

  この小説は以前にもご紹介したとおり、続編が想定されて執筆された「第一の小説」です。つまり、そのことも踏まえて読み解かなければ見方を誤る可能性があると言います。小説は、ドミートリー、イワン、アリョーシャの3兄弟と父フョードルが別の女性に産ませた(と思われる)スメルジャコフが織りなすドラマですが、その面白さは父親のフョードルが殺害され、その犯人が誰なのかが主題となっている点がその源泉となっています。

  この小説をたったの40ページで語るところが佐藤優さんのすごさなのですが、そのテーマは有名な「大審問官」となります。無神論者であるイワンが、敬虔なキリスト教徒である弟アリョーシャに向かってイワンが創作した「大審問官」という物語を語る、というのがその内容ですが、この中には小説のテーマのひとつが集約されているとも言われています。

  はたして「大審問官」はどのように読み解かれるのか。その面白さはぜひこの本で味わってください。もう一度、小説を読みたくなるに違いありません。


  能登ではまだ行方不明の方がおり、避難されている方々も長いストレスでお疲れのこととお見舞いを申し上げます。日本中の皆さんが寄り添っています。心も体もご自愛ください。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。



2024年 今年もよろしくお願いします。

令和六年 
 明けましておめでとうございます。

hatuhinode04.jpg
 新春を迎え、皆様のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
 今年は辰年です。天に駆け上る龍のごとく天空の星に向かって突き進みたいものです。地球上では、悲しいことに戦争と殺戮が続いています。為政者たちが生活する一人一人の苦しみと悲しみに気づき、”平和”の尊さに行動を起こすことを、切に願います。皆さん、平和に向かい心を一つにして一緒に歩み続けましょう。
 今年も「日々雑記」の発信を続けてまいります。いつもご訪問頂いている皆様には、感謝々々です。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 本日、北陸石川県能登地方で大きな地震が発生し、津波警報が発令されています。すべての皆様が安全に退避して無事でいらっしゃることを心よりお祈りいたします。どうぞ、ご無事でお大事にしてください。

今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。


今年もライブをありがとう!

こんばんは。

  コロナ禍で音楽ライブがご法度となって3年。今年はそのライブが解禁となりました。今年の年忘れは、11月と12月に参加したライブパフォーマンスを振り返って1年の締めとしたいと思います。

  11月には小曽根真さんのビアノライブ。

LIVE202301.jpg
(小曽根真 ソロライブ ポスター)

  小曾根さんは今年も大活躍でした。特に注目だったのは”NO NAME HORSES”のニューアルバムとそれに伴う全国ツアーです。2月にかつしかシンフォニーホールで参加したライブは、大迫力のビックバンドで心の底から感動を味わいました。そして、11月のピアノソロは、まったく違ったソロピアノの魅力を満喫することができました。小曾根さんと言えば、ショパン生誕200周年で発売したショパンアルバムが思い出されます。あれ以来、小曾根さんの奏でるジャズ系クラシックもすっかり定番となりました。この日もコロナ禍の中で、外に出る夢を描いた作品”Need to Walk”をはじめジャズ曲も思う存分堪能しましたが、聴きものだったのは第一部で奏でたモスコフスキーのエチュード8番と第二部で奏でたラフマニノフのピアノコンチェルト第2番でした。原曲のロマンを内に秘めながらジャスの香りをちりばめた演奏にはすっかり心を動かされました。

  12月には、人気のチェロ奏者宮田大さんとピアニスト、ジュリアン・ジェルネさんのコンサート、今は亡きエマーソン・レイク&パーマーのライブ、佐渡裕指揮新日本フィルハーモニーのベートーベンの交響曲第9番合唱付、さらには孤高の名ピアニスト、クリスチャン・ツィメルマンのソロピアノと素晴らしいライブを堪能できました。

  宮田さんのチェロの響きは唯一無二と言ってもよいのびやかで打ち震えるような低音が魅力です。この日には、今年亡くなった坂本龍一さんの”星になった少年”や久石譲さんの”Asian Dreem Song”をはじめ日本の名曲の数々をロマンあふれるチェロで奏でてくれました。そして、第一部の最後に演奏した”リベルタンゴ”は、チェロで奏でていたとは思えないノリを響かせていて思わず体が揺れてしましたした。その素晴らしい演奏に心が震える感動を味わうことができました。

  エマーソン・レイク&パーマーと言えば1970年代のプログレッシブロックをけん引したアイコンです。

LIVE202304.jpg
(EL&P来日 ポスター)

  今回、メンバーの唯一の生き残りであるドラマーのカール・パーマーが、今は亡きキース・エマーソン、グレック・レイクの映像と共演するとの趣向で、”最後のEL&P公演”という触れ込みのライブでした。EL&Pと言えば近年NHKの大河ドラマでもその傑作である”タルカス”が使われるなどそのパワフルな楽曲が見直されています。今回は、1992年のロイヤル・アルバート・ホールでのライブパフォーマンスにドラムのカール・パーマーのみがライブで共演するという前代未聞のライブ公演でした。

  その趣向に心配もありましたが、そのパーフォーマンスは素晴らしいものでした。グレック・レイクのラッキーマンから始まったライブは、フィルムとは思えない臨場感があり、全編素晴らしいパフォーマンスが繰り広げられました。特に驚いたのは、同行したギタリスト、ポールとベーシストのサイモンのパフォーマンスです。”タルカス”の演奏は、映像ではなくギタリストとベーシストのトリオでのライブパフォーマンスが繰り広げられました。ギターシンセサイザーが奏でるあのタルカスのキーボード。これは、ライブで参加した人にしか味わうことができない唯一無二のアグレッシブな演奏でした。さらにベーシストは12弦ベースを駆使して、あの”石を取れ”をインプロビゼーションで聞かせます。そのリリカルなベースメロディはすべての聴衆を魅了しました。今回のライブはEL&Pファンの心をつかみ取る素晴らしいパフォーマンスでした。

  そして、年末と言えば”第九”です。

LIVE202302.jpg
(佐渡裕 新日フィル”第九”ポスター)

  今回は、新日本フィルの音楽監督に就任した佐渡裕さんが凱旋公演として満を持して指揮をした”第九”です。演奏の前に佐渡さん自身がマイクを持ってあいさつに登壇。第九の魅力を語ってくれました。その第一楽章は、前を向いて人生を突き抜ける情熱を表わしていると言います。人は皆、一度は人生を最高のパフォーマンスで突き抜ける瞬間を持っています。その情熱の人生を語るのです。そして第二楽章。第二楽章は、遮二無二突き抜けた情熱の人生を語る知性の疾走を表わしていると言います。その溌剌としたテーマは、まさに知的な失踪と言っても過言ではありません。そして、流麗に奏でられるたおやかな第三楽章。それは、人生の豊かさを朗々と歌う充実と生命力の静けさに満ち溢れた美しい旋律が我々の心を魅了します。そして、第四楽章。ベートーベンは、それまで奏でてきた三つの楽章を奏でた後で、そのすべてを否定します。”友よこの調べではない”、世界中の人々を兄弟と呼び、この地球(テラ)に生まれて生きることの歓びを互いに喜び歌い尽くそう。そして、兄弟たちよ喜び合うだけではなく抱き合おうではないか。素晴らしい”第九”に自らの人生が走馬灯のように心に巡ります。

  ウクライナに侵攻したロシア、ガザ地区を巡り殺戮を重ねるイスラエルとテロを重ねるパレスチナの為政をなす人々。その最も醜い人間の姿を目の当たりにすると、この”第九”に込められた人類への想いをすべての殺し合う人々に聞いてほしい、と心から願います。

  今年の最後に聴いたのは、クリスチャン・ツィメルマンのソロピアノです。

LIVE202303.jpg
(ツィメルマン ピアノリサイタル ポスター)

  ツィメルマンは、1975年に18歳でショパンコンクールで優勝して以来、世界中の名指揮者、名管弦楽団との演奏を重ねてきました。自らピアノの調律するほどピアノ愛する名ピアニストです。この日の公演は、聴いたことのない人のいないションパンのピアノソナタを披露してくれました。どの曲もピアノの発表会などで耳にするソナタばかりですが、ツィメルマンの指から奏でられる音は、知っているショパンのソナタとは異なるリリカルで静かな音でした。これこツィメルマン以外の人出は奏でることのできないショパンでした。心からその音に感動しました。さらにドビッシーの”版画”。その東洋的なメロディラインもドビッシーならではのリリカルな曲。ツィメルマンの繊細なタッチは、ドビッシーの作った音をさらに研ぎ澄ませて心に届けてくれたのです。

  コロナ禍を経験して、我々はコロナ以前よりもいっそう素晴らしい音楽を味わうことができています。皆さんも、今年1年を振り返れば心に触れた数々の出来事があったことと思います。そうしたできごとを心によみがえらせながら今年最後のときを迎えましょう。

  今年も、拙ブログにご訪問頂き本当にありがとうございました。どうぞ、よいお年をお迎えください。

それでは皆さんお元気で、またお会いします。

今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。





THE BEATLES 奇跡の47分25秒

こんばんは。

  ビートルズと聞いただけで心が躍るのは、いったいなぜなのでしょう。

  2023年112日、全世界に向けてビートルズの新曲が発表されました。その曲は、”Now And Then”。全世界のビートルズファンが心から待ち望んだ新曲は、我々に感動を運んでくれました。この曲は、全英ヒットチャートで1位を獲得。ビートルズの全英初1位の曲は、1963年の「フロム・ミー・トゥー・ユー」だったと言います。ビートルズは、60年を経て全英チャートで1位を獲得したはじめてのバンドとなったのです。

  ビートルズが解散してから53年。この間にジョン・レノンは1980年に凶弾に倒れ、2001年にはジョージ・ハリスンが病没し、現在は81歳のポール・マッカートニーと83歳のリンゴ・スターがビートルズのメンバーです。新曲は、かつてジョン・レノンがピアノ弾き語りでカセットテープに残したデモからAIによってジョンの声のみを抽出し、そこに生前のジョージのリードギターを重ね、さらにはリンゴとポールがスタジオで実際に演奏して録音し完成させた、正真正銘のビートルズの作品です。

lastbeatles02.jpg

(最新シングル「Now And Then」amazon.co.jp)

  しかし、ビートルズの音楽に心が動かされるのは、その革新性とその革新性を創造した4人のエネルギーに人々が感応するからなのです。

  確かに新曲はそうした感動を思い起こさせてくれるアイテムではありますが、やはり彼らが残してくれた213曲の楽曲と13枚のアルバムほど我々の心を揺さぶるアイテムはありません。いったい、彼らはどのようにしてロックにあらゆる音楽の要素を融合させ、ビートルズ以外の何者にも作り出せない音楽を世に出したのでしょうか。

  その秘密は、これまでデビュー当時から彼らの成長の糧であったプロヂューサーのジョージ・マーティンやレコーディングエンジニアのジェフ・エメリックなどがその著書によって解き明かしてきました。特に、ロックを芸術にまで高め、時代を変革したと言われる「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」がスタジオでどのように創造されたか、その4人が生み出した化学反応と進化を描き、心からの感動を呼び起こしてくれました。

  ビートルズは、19668月にライブ活動を停止し、そこからスタジオでの音楽活動に専念しました。その最初のレコーディングセッションが「サージェント・ペパーズ・セッション」です。それは、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」からはじまり、アルバム最終「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のオーケストラによるクレッシェンドまでの、天才たちのアイデアと実験に満ちたおもちゃ箱のようなスタジオワークだったのです。

  ビートルズは、この後、唯一の失敗と言われる「マジカル・ミステリー・ツアー」を経て、グループとしての活動から一度距離を置き、メンバー個々の音楽性に重きを置いた2枚組のアルバム「ザ・ビートルズ」を発表します。このアルバムは、それまで父親のようだったプロデューサー、ジョージ・マーティンと距離を置き、それぞれが自由に音楽を創造する試みでした。この頃、彼らは理想の創造の場として設立した会社「アップル」が暗礁に乗り上げ、さらにデビュー当時から頼りにしていたマネージャー、ブライアン・エプスタインが亡くなり、その後継者問題も抱えていました。

  そうした背景から空中分解しそうなビートルズでしたが、ポールは昔のビートルズに帰ることを夢見てある企画を提案します。それが、映画「レット・イット・ビー」へとつながる「ゲット・バック・セッション」でした。このドキュメントは、一昨年、映画のために撮りためてあった60時間にも及ぶセッション映像を新たに編集した「ザ・ビートルズ:Get Back」として公開されました。このセッションは、ビートルズ最後のライブ、アップル社屋屋上でのルーフトップライブで幕を閉じましたが、このとき彼らはすでに解散の危機を迎えていました。

lastbeatles03.jpg

(最後を飾るルーフトップライブ eiga.comより)

  音楽アルバムの発売としては、この映画「レット・イット・ビー」のサントラ盤となったアルバムが最後のアルバムとなりましたが、録音した順番で言えば、その前に発売された「アビイ・ロード」が、彼らがビートルズとしてスタジオで録音した最後のアルバムだったのです。そして、最終アルバムの録音時間が、4725秒であり、その作品の完成はまさに奇跡でした。

  今週は、この「アビイ・ロード・セッション」の前後を緻密な取材によって描き出したドキュメンタリー本を読んでいました。心が打ち震えました。

「ザ・ビートルズ 最後のレコーディング ソリッドステート革命とアビイ・ロード」

(ケネス・ウォマック著 湯田賢司訳 UD BOOKS 2021年)

lastbeatles01.jpg

(「ザ・ビートルズ 最後のレコーディング」amazon.co.jp)

【最後のアルバム「アビイ・ロード」】

  ビートルズは、デビュー以来、ジョージ・マーティンのもとでEMIのスタジオでのレコーディングを続けていましたが、ホワイトアルバムからゲット・バック・セッションにおいてはそのスタジオでの録音に問題が生じていました。この本は、その問題からはじまります。その当時EMIスタジオでは、従来から使われていた録音機材に対する技術者たちの思い入れがあり、時代にアップデイトできていませんでした。その機材は、真空管式の音響装置であり、録音トラックも4トラックだったのです。

  当時、トランジスタを使用した新式の録音機材を備えたスタジオが登場し、そうしたスタジオでは8トラックでの録音が可能でした。ビートルズも兼ねてから4トラックでの録音に不満を唱えており、録音をEMIスタジオ以外で行うようになっていたのです。もっとも、EMIスタジオが利用できなかったのは、ホワイトアルバムの録音のために長期間ビートルズがスタジオを押さえていたため、他のアーティストがスタジオ待ちとなっており、ゲット・バック・セッションの間は予約が埋まっていたことも大きな要因でした。

  ゲット・バック・セッションは主にトゥイッケナムスタジオとアップルスタジオで録音され、おなじみのEMIスタジオは利用されなかったのです。そして、その間、デビュー以来のプロヂューサーであったジョージ・マーティンとリボルバー以来のエンジニア、ジェフ・エメリックはセッションに参加していなかったのです。

  ゲット・バック・セッション終了後の1969414日、新たなトランジスタを搭載した8トラックミキサーが設置されたEMIスタジオにジョージ・マーティンとジェフ・エメリックがスタンバイしていました。それは、その2日前、ポールからジョージ・マーティンに、また以前のように4人でアルバムを創りたい、との連絡があったためです。それが、アビイ・ロード・セッションのはじまりでした。そして、そのアルバムは彼らの最後の傑作アルバムとなったのです。

  この本には、アビイロードスタジオにトランジスタを使った8トラック機材が据え付けられてから、解散の危機に見舞われていたビートルズがどのようにして最後の傑作アルバムを完成させたか、すべてのドキュメントを綴った貴重な記録なのです。

lastbeatles04.jpg

(アビイロードスタジオ webchrohasu.netより)

  そして、新たな音への挑戦は、やはりこの4人に「魔法」をかけたのです。

【アルバムはこうして完成した】

  最後のアルバム「アビイ・ロード」には、彼らの新たな姿が記録されました。

  まず、ジョージ・ハリソンの作曲才能の開花です。これまでもジョージは、アルバムに曲を提供してきましたが、このアルバムにはA2曲目のラブソング「Something」とB面オープニングを飾る「Here Comes The Sun」の傑作2曲が含まれています。「Something」は、ビートルズ作品の中で、「Yesterday」に続いて2番目にカバーの数が多い傑作です。また、「Here Comes The Sun」は、ビートルズ213曲のファン投票で数々の名曲をおさえて13位に輝いています。

  次に、このアルバムには744秒にもなる、ヘヴィなワルツ「I Want YouShe’ So Heavy)」が収められています。この曲は、ジョン・レノンがオノ・ヨーコを想って作った曲ですが、8分近い曲の中に歌詞は題名以外2つのフレーズしか入っていないのです。「So bad」と「It’s riving me mad」のフレーズ。その4つのフレーズのみで聞かせてしまう、ジョンの新境地には脱帽でした。しかもこの曲のエンディングはみごとで、突然空に投げ出された気がします。

  そして、全面に使用された当時最先端であったモーグシンセサイザーの響き。それはまるで、隠し味のようにすべての曲の魅力を引き出していますが、ロックアルバムに最初に使われたモーグシンセサイザーとして名をはせています。イエローマジックオーケストラのデビューは1978年ですからその先取り感覚にはうならされます。

  さらに、なんと言っても最後を飾る16分にもわたるメドレーです。ジョンとポールが作り上げた豊かな世界。心を打つボーカルと鍛え上げられたコーラス、円熟したドラミングとリードギターに心を奪われます。特に「Mean Mr. Mustard」から「The End」に至る922秒は、まさにザ・ビートルズのすべてが凝縮されたような奇跡のメドレーです。

lastbeatles05.jpg

(奇跡の「アビイ・ロード」amazon.co.jp)

  この本には、ザ・ビートルズはどのようにして新たな自分たちの音楽を創造したのかが余すことなく語られています。しかし、その創造は決して順調に行われたわけではありません。

  アルバム曲の最初の録音は、ジョンの「I want You」が録音された1969222日のトライデントスタジオでのセッションから始まりました。しかし、翌月の3月、ポールはリンダと結婚。ジョンもヨーコと結婚しています。この曲は宙に浮いたまま中断しました。そして、414日からはじまった「アビイ・ロード セッション」ですが、最初に録音されたのは、シングルカットされた「ジョンとヨーコのバラード」でした。このとき、ジョージとリンゴは別の仕事があり、この曲はジョンとポールだけで録音されたのです。ドラムをたたいたのは、ポールでした。

  4月16日には、ジョージ、リンゴもスタジオ入りし、「Something」のセッションが始まります。そして、5月の初めまで、ポール、ジョージの曲を中心にスタジオセッションが進行します。しかし、59日、決定的な事件が起こり、バンドは空中分解寸前にまで陥ります。それは、グループのマネジメント契約に対する対立でした。ポール以外の3人はストーンズのマネジメントをしていたアラン・クラインとの契約を望んでおり、アランのうさんくささに気づいていたポールは、リンダの父と兄で構成される弁護士事務所にマネジメントを依頼したかったのです。アランとの契約を迫った3人とポールは、この日に完全に決裂してしまったのです。

  プロデューサー、ジョージ・マーティンは、決裂したビートルズは「アビイ・ロード・セッション」を続けることができないとあきらめていました。しかし、事件から1ヶ月後の6月中旬、ジョージ・マーティンのもとにポールから連絡があり、7月からアルバム録音を再開したいというのです。マーティンは改めてスタジオの確保に奔走します。

  この再開には、ポールとジョンのアルバムB面を連作メドレーによって完成させるとの新たな野心が原動力となっていたのです。ところが、72日、ジョンはヨーコやジュリアンとともに車でむかっていたスコットランド北部で大きな事故を起こし、入院するという大事件が起こります。ジョンがスタジオに復帰するまで、他のメンバーはポール、ジョージ、リンゴが作った曲のセッションを録音することになります。ジョージ・マーティンは、ジョンが復帰後に果たして4人はもめごともなくセッションを完了することができるのか、不安を抱えたまま録音に臨んでいました。

  そして、79日。満身創痍のジョンとヨーコ、そして絶対安静と告げられた妊娠中のヨーコとジョンのために運び込まれた豪華なダブルベットとともにビートルズのセッションは再会したのです。果たして、数々の問題を抱えたかつてのファブ・フォーはどのようにして傑作「アビイ・ロード」を完成させることができたのか。鍵を握ったのはジョンの「Come Together」でした。

  その感動さえ覚えるセッションの様子は、ぜひともこの本で味わってください。

  「She Came In Through The Bathroom Window」で窓から入ってきたのは誰だったのか。「Polythene Pan」のPanとは何のことなのか。様々な謎が語られていきます。そして、最後の「The End」において、ドラムソロに絶対拒否を続けていたリンゴがたたいた唯一無二のドラムソロ。さらに、ジョンとポールとジョージによる息詰まるようなギターインプロビゼージョン合戦はどのように行われたのか、このくだりを読んだときには、不覚にも涙が出そうになりました。

  ザ・ビートルズは、やはりひとつの奇跡だったのです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。



許光俊 クラシックはここから

こんばんは。

  先日、ショッキングなニュースが飛び込んできました。

  あの大指揮者の来日公演が急遽中止になったのです。ブロムシュテット氏は今年96歳の長老ですが、その指揮ぶりは近年ますます脂がのってきており、その緊張感が生み出す感動は天下一品です。今月は、NHK交響楽団の定期演奏会で来日する予定でした。29日には所沢ミューズで演奏会が行われる予定で、チケットも手に入れて楽しみにしていたのです。

  ところが、突然のキャンセルとなりました。理由は体調不良ということですが、年齢が年齢だけに、心配はひとしおです。何とか、元気を取り戻し復帰していただけることを心からお祈りしています。今回のプログラムは、ベートーベンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」とブラームスの交響曲第3番という、類い希なる素晴らしいものでした。そのお元気な姿をこころから待ち望んでいます。

classic02.jpg

(ブロムシュテット指揮 N響公演 チラシ)

  このショックもさめやらぬ中でしたが、今月はもう一つ楽しみにしていたコンサートがありました。

  それは、19日の夜に開かれたパーヴォ・ヤルヴィ氏によるコンサートです。今回は、彼が音楽監督を務めるチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団とショパンコンクールで優勝したピアニスト、ブルース・リウ氏の共演というなかなか味わうことのできない公演でした。そのプログラムもショパンのピアノ協奏曲第1番、ブラームスの交響曲第1番という、まさに楽しみなものになりました。

  早いもので、もう6年前になりますが、同じく所沢ミューズにヤルヴィ氏が自ら鍛えあげたドイツカンマーフィルを率いて来日したときには、そのブラームス交響曲第1番の演奏に心を奪われたことをブログに書きました。その演奏は、これまで味わったすべてのブラームスの交響曲の中で最も心を動かされた演奏でした。ときには荘厳に、ときには勇敢に、ときには美しく、ときに優しく、そして気持ちを鼓舞してくれるブラームスに心から感動しました。

  大学生の頃、部活でラジオドラマを制作していたのですが、そのときに書き下ろした脚本は、近未来の世界で戦争が起こり、愛し合う恋人たちが引き裂かれるという物語でした。約30分の脚本でしたが、当時その脚本に音声を担当してくれた先輩が選んでくれた劇中曲が、ショパンのピアノ協奏曲第1番だったのです。この曲は、母国ポーランドのワルシャワからウィーンへと出発するときの講演会で演奏された曲で、作曲した当時は20歳だったというからおどろきです。その第1楽章の哀愁を帯びた旋律は、戦争で引き裂かれる恋人たちの心情をみごとに象徴するみごとな選曲でした。

  今回のピアニスト、ブルース・リュウはさすがショパンコンクール優勝の実力通り、みごとに哀愁の旋律とショパンが協奏曲に込めた未来に向けた希望を繊細に、力強く聞かせてくれました。その静と動のアクセントは、比類亡きもので我々の心に強烈な感動を生み出してくれました。第3楽章の跳ね上がるようなロンドは、ポーランドの民族舞踊がモチーフになっていると言いますが、まさに心を躍らせる見事な演奏です。この曲をライブで聞くのは初めてですが、ココエおから感動したショパンでした。

  そして、パーヴォ・ヤルヴィ指揮のブラームス交響曲第1番。今回、最も心を動かされたのは、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の響き渡る楽器の音でした。コンサートマスターのヴァイオリンの透き通るような音色、ビオラが奏でる力強い連続和音、会場に共鳴するような美しいホルン、繊細に流れるようなフルート、クラリネットにオーボエ、そして勇壮なティンパニ。すべての音が美しく、繊細で、パルヴィ氏の指揮棒によって奏でられるすべての音がまるでアートでした。

  前回は、研ぎ澄まされた刃のようなふくよかでソリッドな演奏に心を奪われましたが、今回は研ぎ澄まされた、というよりもそこに構築された美と勇壮に感動したブラームスでした。カンマーフィルはヤルヴィ氏そのものを感じましたが、今回は、楽団の持つ美しさを最大限に引き出した演奏で、前回とは異なる感動を味わうことができました。

classic03.jpg

(ヤルヴィ指揮 ピアノ ブルース・リウ公演) 

  話がすっかり長くなってしまいましたが、今回ご紹介する本の前置きにはうってつけの話題だったのです。

「はじめてのクラシック音楽」

(許光俊著 講談社現代新書 2023年)

【クラシックはマニアのための音楽?】

  音楽ジャンルはあまたありますが、「クラシック」はかなりオタクな分野です。

  このブログに来ていただいている皆さんは、私が音楽に節操がないことをよくご存じと思いますが、純粋なHIP-HOP以外であればどの音楽も大好きです。とくにライブには見境がなく、映画音楽、ポップス、ロック、ジャズ、ラテン、クラシック、どの分野でも聞き逃せません。先日も、八神純子の「ヤガ祭り5th」に参加してきましたし、その前の週には、フランシス・レイ楽団のコンサートで盛り上がってきました。

  ですが、ほとんどのライブでは誘えばライブにつきあってくれる友人にめぐまれているのですが、クラシックだけは「誘われてもなぁ」という友人ばかりなのです。幸いなことに連れ合いはピアノを習っていたこともあり、クラシックが好きなので、一緒にコンサートに感動してくれています。

  なぜか、クラシックはマニアの音楽、ハードルが高いという印象があります。

  この本は、クラシック初心者のための入門本なのでしょうか。実は違います。

  著者の許光俊氏は、これまでにもクラシックの本をたくさん上梓していますが、この本を書いた目的を「まえがき」でこう語っています。ひとつには、クラシックに興味を持ったり、いいなと感じたりした人たちに「クラシック」の情報を俯瞰的に提供したい、というもの。そして、もうひとつは、クラシック経験が浅い人たちにより深い感動、楽しみを知ってもらうヒントを提供したい、というものです。

  著者の語るとおり、クラシックを何度聞いても面白くなく、全く興味を持てない人にいかにその魅力を語っても、「わかったから」と疎まれるのは目に見えています。やはり、どんな音楽でも、趣味でも、スポーツでも実際に触れてみて「楽しさ」、「感動」を味わうことで、最初の1歩がはじまります。私がこの本を手に取ったのは、著者の名前を見てなのですが、それ以上に自分のまだ知らないクラシックの魅力に出会えるかもしれない、という期待感があったからに他なりません。

  この本は、「クラシック」に興味のある方には、もってこいの本です。

  まずはその目次を見てみましょう。

はじめに

第1章 クラシックとは、どんな音楽か?

第2章 クラシック音楽の「聴き方」

第3章 クラシック音楽の「種類」

第4章 楽器の話

第5章 クラシック音楽の作曲家たち――その1 リュウリからシュトラウス一家まで

第6章 クラシック音楽の作曲家たち――その2 国民楽派から武満徹まで

第7章 おすすめの演奏家たち

おわりに

classic01.jpg

(新書「はじめての~」 amazon.co.jp)

  クラシックファンは、ほぼ耳から入っている方が多いのではないでしょうか。かくいう私も物心ついたころから、休日になると父親がかけていたクラシック音楽を聴いて育ちました。かかっていたのは、本当にポピュラーなクラシックばかりです。おかげで、小学校の音楽の時間に聞かされたベートーベンの「田園」や「トルコ行進曲」、「くるみ割り人形」などは皆、耳なじみの音楽でした。

  小学校では、朝礼と昼休みの放送当番というのがあって、放送室から始まりの音楽を流します。朝礼時の音楽は、グリーグのペールギュントから「朝」、お昼休みの音楽はビゼーのアルルの女から「メヌエット」でした。こちらも耳なじんでいた音楽ですが、音楽の力は強大で、未だに「メヌエット」がかかるとお昼休みでおなかがすいてくる気がします。まるで、パブロフの犬みたいで、少し複雑な気分になります。

  そこから、交響曲や協奏曲がすきになり、ベートーベン、モーツアルト、ブラームス、と次々にハマッテいきました。また、家では様々な演奏家のレコードがそろっていて、例えば、「田園」はラファエル・クーベリックの指揮、ベートーベンはフルトヴェングラーの指揮、モーツアルトの40番はブルーノ・ワルターの指揮、41番はカール・ベーム指揮、と定番メニューが決まっていました。ちなみにピアニストは、バックハウスかケンプがおきまりです。

  父はカラヤンが大嫌いでした。今思えば、相当のオタクだったのですね。

classic04.jpg

(ラファエル・クーべリック指揮「田園」)

【「はじめて」本の効用】

  クラシックマニアのあなた。「はじめて」本をあなどることなかれ。

  目次を見ればわかるとおり、この本はクラシックファンが知っていることばかりが書かれているように思えます。しかし、マニアとは、ハマッタ所は徹底的に深掘りしてあらゆるアイコンを集めるわけですが、それ以外のことはまったく知らない、そんな人々のことを指す言葉です。

  実際この本を読んで、ワンダーを感じたところが随所にありました。クラシック音楽は基本的にヨーロッパの音楽ですが、その音楽表記の多くがイタリア語であることはご存じでしたか。私はオペラが苦手で、イタリアの音楽はほとんど聞きません。知らなかったなあ。アレグロ、アジャード、エスプレッシーボ、ソナタ、コンチェルト、皆なイタリア語だそうで、どうりで意味がわからないわけです。

  この本には、クラシックでは、縦糸は作曲家で横糸は演奏家だとの言葉も語られています。確かに、作曲家がいなければ幾多の素晴らしい作品はこの世にもたらされなかったわけです。また、演奏家がいなければ、これだけ長い間、人々の耳に作品が届けられることはなかったといえます。クラシックは、作曲家が創作した作品を様々な指揮者、演奏家が奏でる再現芸術です。ここから生れる多様性がマニアにはたまらないというわけです。

  その作曲家と演奏家を紹介することも、クラシックを知るためには欠かすことができません。

  また、ここでもマニアには目に入らなかった人々が紹介されていきます。

  クラシックの分野で古典と言えばバロック音楽ですが、父親が聞いていたバロックは、ビバルディ、ヘンデル、バッハの大御所だけでした。この本を読むとそこにフランスのバロックなる言葉が出てくるのです。初耳です。そこにあげられているのは、ジャン=バティスト・リュリとジャン=フィリップ・ラモーです。確かに17世紀のフランスはブルボン王朝の最盛期で太陽王などが宮廷を荘厳に盛り上げた時代です。そこにはなやかな宮廷音楽があったのは当然のことです。作品としてオペラ多いとのことで、知らないのも当然ですが、オペラ以外にも作品があり、ぜひとも聞いてみたいものです。

  演奏家についても、知らない演奏家が紹介されており興味が尽きませんでした。

  特に1970年代以降に生れた世代の演奏家たちの名前はなじみがなく、機会があればぜひ聞いてみたいと思います。指揮者では、グザヴィエ・ロト、ソヒエフ。ピアニストでは、ラン・ラン、チョ・ソンジン、ヴァイオリニストでは、イザベル・ファウシト、コバチンスカヤ。人気のある演奏家に絞ったとの紹介なので、聞くことが楽しみになります。

  クラシックファンの皆さん、またクラシックに興味のある皆さん、一度この本を手に取ってみてください。クラシックの世界にいっそう興味をそそられることに間違いありません。すべての音楽には我々の心を癒やし、勇気を与え、心を鼓舞する力があります。それを味わうにはライブで味会うことが一番です。皆さんも、ぜひマニアになれる音楽をみつけて人生を豊かにしてください。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。



原田マハ 俵屋宗達は海を越えていた

こんばんは。

  久しぶりに時間を忘れて小説を読みふけりました。

  その小説は、アート小説の名手、原田マハさんが挑んだ日本美術を代表する画家、俵屋宗達を描く圧倒的な物語でした。

「風神雷神 Jjppiter,Aeoloce」(上下巻)

(原田マハ著 PHP文芸文庫 2022年)

【俵屋宗達とは何者か】

  本屋さんでこの本をみつけたとき、上下巻二冊というそのボリュームに一瞬たじろぎました。これまで印象派をはじめとする西欧絵画を数多く描いてきた原田さんですが、日本美術を題材にした小説は知りませんでした。しかも、国宝である「風神雷神図」がその表題となっています。いったいどんな小説なのか。棚で見つけて、その場で購入したもののしばらくは、愛用のPCの前に積まれたままでした。

  そして、久しぶりにマハさんのアート小説を読みたいと思ったとき、最初のページをめくったのです。それが運の尽き。その面白さに目も心も奪われて、一気に上下巻を読み通してしまいました。

soutatu03.jpg

(文庫「風神雷神」上巻 amazon.co.jp)

  この小説の主人公は、俵屋宗達です。

  「俵屋宗達」と聞いてピンとくる方は、日本美術に造形の深い方だと思います。恥ずかしながら、代表作である「風神雷神図」こそ知っているものの、昔、日本史の教科書で見たことがある程度の認識しかありませんでした。

  室町時代、他の文化と同じく日本画は狩野派や土佐派に代表され、絢爛な屏風絵やふすま絵はたまた天井画などが生み出されました。特に狩野派の頭領であった狩野永徳は、織田信長が天下統一をなす時に建造した安土城の内装の装飾画を一手に引き受けたことでその名を知られています。

  俵屋宗達は、伝統的な手法から脱却し、自由な発想で独自の画風を築いたといわれています。江戸期になって尾形光琳が独自のデザイン的な発想で琳派を確立したと言われますが、その琳派の開祖と目されているのが俵屋宗達なのです。その代表作は屏風絵として描いた「風神雷神図」に他なりません。

  この「風神雷神図」は、金色の広々とした空間に蒼緑の肌の風神を右に、白い肌の雷神を左に配置した大胆な構図となっており、今にも動き出しそうな神々をみごとに描ききっています。特に白い肌の雷神は通常赤で表されており、なぜ白で描かれているのか、美術界の謎の一つになっています。この絵は、よほど当時の人々に感動を与えたようで、後に尾形光琳、そして琳派を引き継いだと言われる江戸後期の酒井抱一も光琳の「風神雷神図」を模写しており、江戸期の画家たちがいかに宗達の絵画に心を動かされたのかがよくわかります。

soutatu04.jpgsoutatu05.jpg

(風神雷神図屏風 wikipediaより)

  そんな俵屋宗達ですが、実は生没年さえわかっていない謎の絵師だといわれています。宗達の事績として最も古いものは、1602年に福島正則が願い出た平家納経の修復において、一部宗達が修復に関わったといわれています。その交友関係から、その生まれは1570年頃ではないかといわれ、死後の法要記録から1643年より少し前に亡くなったと推定されています。

  「俵屋」とは不思議な名字ですが、この名字は屋号とわかっています。宗達は、「俵屋」という絵画工房を主催しており、扇などに絵を描いており、その扇が京都では評判になっていたことが当時の書き物に残されています。

  謎に包まれた宗達ですが、安土桃山時代に生れ、江戸初期にはすでに評判となっていたことは間違いないようです。

  謎に包まれた人物は、小説にするにはもってこいの主人公なのです。

【知られざる天正遣欧使節の一員】

  この小説には、もう一人主人公がいます。その名は、原マルティノ。

  この名前を聞いてピンと来る方は、よほどの日本史マニアだと思います。そう、彼は、安土桃山時代にイタリアのバチカンに居した、カトリック教会の頂点に立つ教皇グレゴリウス13世の元に日本から遣わされた、天正遣欧使節のひとりなのです。

  日本におけるキリスト教は、1549年にフランシスコ・サビエルが布教のために日本にたどり着いて以降、イエズス会が日本への布教のため多くの司教を日本に派遣し、布教に尽力した結果、ポルトガルとの貿易による利益も相まって、九州を中心に多くのキリシタン大名が生れました。さらに天下統一を目前にしていた織田信長は、未知の西欧文化に大いに興味をそそられて、イエズス会による布教を容認していました

  そうした中、さらなる布教の強化をすすめようとするイエズス会の思惑とさらなる西欧との貿易や文化交流を広げようとする信長やキリシタン大名の思惑が見事に一致し、企図されたのが天正遣欧使節だったのです。

  当時、九州では大友宗麟、有馬晴信、大村純忠がキリスト教に帰依してキリシタン大名となり、領地内での布教を支援していました。遣欧使節に選ばれたのは、セミナリオと呼ばれた神学校に入学した領主たちにつながる4人のキリシタンの少年たちでした。

  主席正使は、大友宗麟の名代となる伊東マンショ、さらに正使として木村純忠の名代として千々石ミゲル、副使として肥後国中浦城主の息子中浦ジュリアン、もうひとりの副使がセミナリオきっての秀才であった今回の主人公原マルティノです。

soutatu01.png

(天正遣欧使節団の4少年 wikipediaより)

  原マルティノはこの小説の進行役であり、語り部でもあります。

  彼らは1582年(天正10年)2月にポルトガルの帆船に乗り、長崎港から遙かに遠いローマに向かって出発しました。その経路は、マカオからインドを経由してアフリカの喜望峰を回り、リスボンに到着したのは15848月でした。さらにローマで教皇に接見できたのは、翌年の3月。なんと片道3年かけての命がけの行程だったのです。織田信長が本能寺の変で亡くなったのは彼らが出港してから4ヶ月後の出来事でした。

  さて、この遣欧使節団には、我々が知らない同行者がいました。当時、日本では印刷技術は無く、書物を複製するには人手による写本しか手段がありませんでした。しかし、ヨーロッパではすでにグーテンベルグ印刷機による活版印刷が実用化されていたのです。この使節団は活版印刷の技術をヨーロッパから持ち帰ることも目的の一つとしていました。そのために、同行者の中には印刷技術を持ち帰るための技術要員がいたのです。その名は、アゴスティーノと言います。

【マカオの教会で発見された古文書】

  小説のプロローグは、現在の京都国立博物館から始まります。(ここからネタバレあり)

  望月彩は、京都国立博物館の研究員です。その専門は俵屋宗達。宗達の代表作「風神雷神図屏風」は、鎌倉時代から続く古刹、建仁寺の所有ですが、現在は京都国立博物館に寄託されているのです。折しも彩が企画する俵屋宗達の展覧会に付随して宗達の講演会を行っていました。そこにマカオ博物館の学芸員を名乗る人物から面会の申し入れがありました。

  サスペンス仕立てのプロローグ。いったい、彩のもとを訪れたマカオ博物館の学芸員レイモンド・ウォンはどんな情報をもたらしたのか。レイモンドは博物館に持ち込まれたある資料を綾に見てほしいのだ、と語ります。その資料は博物館に保管されており、彩にマカオまで来てもらい是非資料を鑑定してほしいと言うのです。

  彩に依頼があるからには、資料は宗達に関するものに違いありません。彩は急遽マカオに飛び立ちます。博物館できかされた経緯は驚くべきものでした。

  資料は、ある青年が持ち込んだものでしたが、その青年は長年育ててくれた祖父が亡くなるときに青年に残したものだといいます。祖父は以前、建設作業員をしており、ある現場で素晴らしい絵画を目にしてつい持ち帰ってしまったというのです。その絵画には古文書が付随しており、青年は、死の床で祖父からそれを返してほしいと頼まれたのだと言うのです。

  レイモンドは、その資料は1990年に発掘調査が行われた世界遺産、聖ポール天主堂(教会)の調査時にみつかったものと確信しました。そして、その資料が天正遣欧使節に随行した原マルティノに関係するものと考えました。そして、その鑑定を行うに当たり、望月彩に協力を依頼してきたのです。原マルティノは、天正遣欧使節が1590年に帰国した後、マカオに追放されており、聖ポール天主堂に埋葬されたとの記録があるのです。

soutatu06.jpg

(マカオの世界遺産 聖ポール天主堂 Wikipediaより)

  こうして物語は、はるか450年前の九州有馬の地へとタイムワープすることになります。

  そして、原マルティノが有馬のセミナリオで勉学に励むある晩、眠れぬ夜に月を眺めようと浜辺に出て、不可解な少年と出会います。その少年は京の都からはるばる九州のセミナリオまでやってきたといいます。そして、その名を訪ねると彼は「宗達」と名乗ったのです。物語は、二人の出会いから大きく動き始めることになるのです。そして、この少年はキリシタンではありませんが、別の名前を持っていました。その名前は、アゴスティーノ。

【渾身の歴史アート物語の感動】

  この本を読んで思い出したのは、マハさんの小説、「翼をください」でした。

  「翼をください」は、1939年、太平洋戦争が始まる直前、日本の誇る帝国海軍の九六式陸上攻撃戦闘機を改造した旅客機「ニッポン号」が、世界で初めて航空機による赤道を回る世界一周を成し遂げた快挙を描いた作品です。

  このプロジェクトは毎日新聞社が企画した民間事業であり、「平和と夢」を運ぶことを目的とした平和事業でした。世界一周の間に立ちよった各国からは大きな歓迎を受け、親善大使として大いに役割を発揮しました。しかし、太平洋戦争が始まるや日本は「戦争一色」に染まり、この記念碑的大事業も歴史の狭間にうもれてしまったのです。毎日新聞社は、プロジェクト80周年を記念して小説の執筆をマハさんに依頼したといいます。

  以前、ブログでこの作品を紹介しましたが、今回の小説を読んで改めてマハさんの想像力と創作力の素晴らしさに心を動かされました。我々が知る歴史は、すべて「人」が成し遂げてきた事実です。その出来事を成し遂げた人々はどんな気持ちで、どんな行動を起こし、そのことを成し遂げたのか。そこへのアプローチにはノンフィクションとフィクションの両方の手法があります。

  マハさんは、詳細な調査によって確認した史実に基づいて、その余白の部分を想像力と確かな筆致で埋めていきます。その小説に登場する主人公たちは、そのメンタリティと果敢なる行動で我々に大きな感動を与えてくれるのです。


  今回の小説は、少年時代の俵屋宗達と原マルティノが世界を股にかけて躍動します。そして、さらなるワンダーは、最後に伝説の画家カラヴァッジョが登場することです。皆さんも、この歴史とアートが織りなす感動をぜひ味わってください。心が震えること間違いなしです。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。




宮脇淳子 「元寇」と「蒙古襲来」の違いとは

こんばんは。

  初めて感じた興味や関心は、年齢に関係なくちょっとしたきっかけでよみがえります。

  日本は周囲を海に囲まれているおかげで、国内での争いはともかく、外敵から攻められるということがきわめてまれな国家です。

  ヨーロッパやユーラシア大陸において、国家はすべて陸地でつながっており、強力な軍事を備えれば容易に隣国に攻め入ることができます。そのために、何百年にもおよぶ戦争が国家間で続くこともまれではありませんでした。

  すでに1年半にも及んでいる、ロシアによるウクライナへの侵略戦争もその地政学的な歴史が大きな要因となっています。その歴史は、有史以前までさかのぼるといっても過言ではなく、両国の歴史はまさに併合と独立運動の繰り返しに他なりません。ウクライナの独立戦争は帝政ロシアの時代から繰り返されており、陸続きであるための悲劇ともいえるのではないでしょうか。

  歴史的な背景とウクライナの東南部に住むロシア人への弾圧がロシアの言い訳ですが、無垢の市民や子供、学校や病院、教会や住宅をミサイルで殺戮するロシアの攻撃は、人類の歴史を100年近くも昔に引き戻す蛮行以外のなにものでもありません。ロシア国内はまるで独裁国家のような情報統制がなされ、「戦争」と口に出す人間を次々と拘束しています。反抗したワグネル代表のブリゴジンが搭乗した自家用飛行機を墜落させ、その命を奪うなどの行為は、まさに独裁政権の本性を現している悪魔のような所行です。反欧米という基軸で中国や北朝鮮はロシアの孤立を阻んでいますが、その殺戮に対して目をつぶるのは、独裁者ヒトラーと手を組もうとした世界観と同じ卑劣な行動に他なりません。

genkou01.jpg

(ブリゴジン氏の葬儀  nhk.or.jp)

  ウクライナの話になると話がエスカレートしてしまいますね。

  話を戻すと、日本は海に囲まれているおかげで、安全と平和を保つことができたことは歴史的な事実です。それでも、長い歴史の中では他国家からの侵略を受けたことがあります。それは、鎌倉時代末期に起きた「元寇」です。それは「蒙古襲来」と呼ばれ、13世紀に中国を支配した「元」のフビライ・ハンによって企図された日本侵略戦争だったのです。

  今週は、この「元寇」を東アジア側からの視点で解析した本を読んでいました。

「世界史の中の蒙古襲来」

(宮脇淳子著 扶桑社新書 2022年)

【蒙古襲来とは何だったのか】

  以前、250回記念のブログに堺屋太一氏の著した「世界を創った男 チンギス・ハン」を紹介したときに話しましたが、私がはじめて「元寇」に興味を持ったのは、中学校の図書館で「竹崎季長」の本を読んだときでした。皆さんも日本史の教科書で、「蒙古襲来絵詞」という当時記された絵巻物の写真を見たことがあると思います。

  1274年旧暦の10月、元軍は兵船900艘に23000人の兵を率いて日本を侵略します。その軍は、対馬、壱岐の両島を攻め落とし、博多湾へと押し寄せます。日本では、鎌倉幕府の奉行であった少弐家、大友家、松浦党などが迎え撃ちました。そして、その中で御家人として死力を尽くして戦った武士の一人が竹崎季長だったのです。

  当時、武士は一所懸命と言われるとおり、手柄を立て土地を得るために懸命に戦いました。季長も第1回目の元寇、文永の役で博多を守り抜く成果を上げました。彼は自らあげた戦果をみとめてもらうために奉行に申し立てますが、鎌倉では季長に対して何の報償もありません。一族総出で戦った季長は、納得できずに自ら鎌倉に出向き、自らの戦いをアピールしました。その結果、報償の対象となったのです。

  季長は、その7年後に起きた2度目の襲来である弘安の役にも出陣し、元を日本から撃退します。二度の戦役を戦い抜いた季長は、この戦いを絵師に描かせ、自ら詞書きを書き入れました。そして完成したのが、この元寇を今に伝える「蒙古襲来絵詞」なのです。

蒙古襲来絵詞04.jpg

(「蒙古襲来絵詞 竹崎季長」)

  それまで日本史では日本は閉じられた世界で、独自の歴史を刻んできたとの印象が強かったのですが、あのチンギス・ハンが創ったモンゴル帝国が日本にも版図拡大の手を伸ばしていたというスケールの大きな歴史に心を動かされました。それ以来、「元寇」、「蒙古襲来」という言葉を聞くたびに反応してしまうのです。

  日本側から見ると、当時の政府は北条氏が執権を振るっていた鎌倉幕府でした。そのときに執権の座についていたのは、「鉢の木」などのエピソードでも有名な北条時頼の息子、北条時宗でした。2001年にはNHKの大河ドラマになりましたが、北条時宗は「元寇」を退けるために生れてきたのか、と思わせる人生を歩みました。

  1268年、はじめて元のフビライ・ハンからの詔書が日本に届きます。そのとき、18歳になっていた時宗は、第8代の幕府執権の座につきます。それから何度かフビライからの詔書が届きますが、時宗はそのすべてを無視します。そして、24歳にして最初の戦い、文永の役が勃発します。そこで元軍を退けた後、再来に備えて九州の防備を固めました。その7年後、時宗31歳の時に元軍は再び日本に攻め入って来るのです(弘安の役)。時宗は、二度の元からの大軍を退けた3年後、病を得て亡くなりました。まさに天が元軍の侵略に立ち向かわせるために時宗を日本に降臨させたと思うような人生です。

  我々の知る「元寇」はまさに「蒙古襲来」そのものであり、日本史から見た海外からの侵略戦争なのですが、この本はそんな我々の常識に異なる視点を与えてくれます。

【東アジア史の中での元寇とは】

  それでは、まずこの本の目次を見てみましょう。

まえがき

第1章 日本人のモンゴル観

第2章 モンゴルとは

第3章 高麗とは

第4章 蒙古襲来前夜

第5章 大陸から見た元寇

第6章 「元寇」後の日本と世界

終  章 国境の島と「元寇」

あとがき

  宮脇さんは、中国、チベット、モンゴル、朝鮮の歴史と言語の研究者で、まさに「蒙古襲来」を語るのには適任です。この本の第一章は、まず日本人のモンゴル感はどこから生れているのか、を解説していきます。

genkou02.jpg

(「世界史の中の蒙古襲来」 amazon.co.jp)

   はじまりは「義経チンギス・ハン伝説」。駐日モンゴル大使館の方々は、訪問してくる日本人のほとんどが必ず「チンギス・ハン義経伝説」を語るそうで、辟易としているとの話が語られています。モンゴルの人々にとって、チンギス・ハンは世界にその名をとどろかせた英雄のひとりです。その英雄が日本人であるはずもありません。その心中は察するに余りあるといえます。

  そして、チンギス・ハンを描いた井上靖の作品「蒼き狼」。著者は、日本人にチンギス・ハンとモンゴル人のイメージを定着させた作品として紹介しますが、その認識の誤りを次々と指摘していきます。その女々しさは、モンゴル人ではなく日本人そのものだというのです。さらに著者は、北方謙三の「チンギス紀(1)火眼」、浅田次郎の「蒼穹の昴」、司馬遼太郎最後の小説「韃靼疾風録」を取り上げて、そこに描かれるモンゴル、女真族、満州人が間違った印象を我々に与えていることを語ります。

  その語りのいきおいに我々も思わず身を乗り出してしまいます。

  しかし、第一章はこの本の「つかみ」の部分であり、本論ではありません。

  第二章からはじまる13世紀のモンゴル、中国、朝鮮の歴史は、日本史で語られる「元寇」からは想像もできない、東アジアの歴史を踏まえた奥深いものです。

【浮かび上がる「元」と「高麗」】

  この本のワンダーは随所にちりばめられています。

  その一つに中国王朝の歴史があります。皆さんも中国の王朝が、古代から北方にいる騎馬民族に侵略を受ける歴史をご存じと思います。「匈奴」、「鮮卑」、「柔然」、「突厥」、「契丹」など、様々な騎馬民族が中国の王朝に攻め込んでいます。秦の始皇帝からはじまる世界遺産、万里の長城は、こうした北方の騎馬民族の侵入を防ぐために築かれた防壁だったのです。

  この本のモンゴルの歴史を読んで驚いたのは、「隋」や「唐」の皇帝は漢人ではなく、騎馬民族である鮮卑の出身だったという事実です。すると、「晋」以降、漢民族の建てた王朝は「元」の前にあった「宋」だけであり、その前後はすべて騎馬民族の血を引く王朝だったということです。驚きですね。

  ハンガリーからベトナム、朝鮮にまで及んだモンゴル帝国はチンギス・ハン亡き後、5代目のフビライの時代には4つのハン国へと分裂します。そこで、「宋」を南へと追いやって中華を治めたのが「元」を興したフビライ・ハンでした。フビライ・ハンは「南宋」を攻めると同時に、ベトナムにも遠征、さらには朝鮮にあった高麗国を属国とし、日本への遠征を計画します。

モンゴル帝国版図01.jpg

(モンゴル帝国の最大版図  wikipediaより)

  フビライは、日本が黄金の国であるとの情報や火薬の原料となる硫黄が豊富にあることから日本侵攻を決断したといわれていますが、どうもモンゴルに服従した一部の高麗の人々がフビライの意向を忖度して日本への侵攻を積極的に進めた節があるといいます。

  というのも元は支配地を統治するために各地域に「省」という行政組織を立ち上げて、属国となった国にその組織を任せたのです。北部朝鮮地区には「遼陽行省」という組織がありました。フビライは日本を侵略するに当たり、朝鮮半島に新たな組織「征東行省」を新設し、そこに日本への遠征計画をまかせました。ところが、第二次遠征(弘安の役)が日本の反撃と台風のために失敗した後、「征東行省」は廃止されました。しかし、フビライは第三次日本遠征を企て、その計画を「遼陽行省」に任せます。「遼陽行省」ではモンゴル側におもねった高麗の人々が仕事を任されていたのです。その人々は、自らの存在意義をフビライに示すために第三次日本遠征の計画を積極的にすすめたと考えられるのです。

  幸いなことに高齢のフビライが亡くなったため、第三次日本遠征は行われませんでした。

  とはいえ高麗にとってモンゴルはあまりにも無慈悲な征服者でした。

  モンゴル軍が高麗に第一次遠征を行ったのは、2代目オゴタイ・ハンの1231年ですが、その後は1235年から1259年に渡り6回もの征伐軍を迎えることとなり、国内は完全に蹂躙されました。しかし、高麗国の王とその一族はモンゴル軍が侵入してくると迎え撃つことなく、江華島と呼ばれる島に逃げ込み籠城してしまうのです。一般市民はモンゴル軍に好きなように蹂躙され、国内は完全に荒廃したのです。

  モンゴル軍の二度にわたる日本への遠征は、鎌倉時代から長らく「蒙古襲来」と呼ばれてきました。しかし、江戸時代から明治時代にかけて、日本は東アジアの諸国から、日本の「倭冦」によって国が侵害された、とのクレームを受け続けます。それにに対して、日本だって「元寇」に苦しんだのだ、と言い訳するために「元寇」が正式な呼称となったと言います。

  宮脇さんは、高麗国や南宋などモンゴル軍に征服された国を使って行った日本への侵略では、モンゴル人は司令官などほんの一握りの人員が随行したのみで、兵士のほとんどは被征服民だったのではないか、と推定しています。であれば、この遠征は「蒙古(モンゴル)襲来」というよりも、「元」が行った侵略という意味で「元寇」との名称が適切なのではないか、と語るのです。


  この本は、「元寇」について、日本遠征を行った側の歴史や時代の情勢を踏まえた視点から語り尽くしており、これまでにないワンダーを感じることができました。「元寇」に興味のある方もない方も、ぜひ一度この本を手に取ってみてください。日本は決して孤高の国として存在しているわけではないことを改めて感じるに違いありません。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。



瀬尾まいこ そして、バトンは渡された

こんばんは

  皆さんの性格は誰から引き継いだものだと言われますか。

  人の性格は、なくて七癖と言われるほど個性がありますが、考えてみれば祖父母や両親から受け継いでいる性質もあれば、環境や教育によってはぐくまれた性格もあります。

  こんなことを考えたのは、今週、珍しく本屋大賞を受賞したベストセラー小説を読んでいたからなのです。

「そして、バトンは渡された」

(瀬尾まいこ著 文春文庫 2020年)

Baton01.jpg

(文庫版「そして、バトンは・・・」 amazon.co.jp)

【家系から引き継いだもの】

  自分の家系を鑑みると、第一に残念なのは運動神経です。自分としては運動は大好きで、小学校の頃には特に水泳の時間が大好きで、プール教室は3年間、皆勤賞でしたし、臨海学校でも伊豆の土肥海岸で、3kmの遠泳に2年連続で参加し、完泳しました。しかし、タイムは常に最下位に近く、大会には潜水種目以外に選ばれたことがありません。

  今年、ワールドカップが沖縄で開催されるバスケットも、中学の3年間、一度も休むことなく合宿も練習も参加し、人一倍練習に打ち込みました。しかし、バスケの男子はめちゃくちゃもてるので、一学年に部員が30人近くいて、レギュラーを勝ち取るのは容易ではありません。学年では、当然ながらレギュラーにはなれず、3軍あたりに在籍していました。

  しかし、努力を見てくれている人がいて、3年生最後のインターハイの地区予選。顧問の監督が後半のスターティングメンバーに抜擢してくれ、試合に出ることができました。後半の2分ほどマンツーマンディフェンスしたところで交代でしたが、それまでの努力が報われたこともあり、今でも自分の中では誇らしい実績のひとつになっています。

  事ほどさように、運動神経に関しては皆無といってもよい家系で、このDNAは確実に子供たちにも引き継がれていて、3人の子供たちもバトミントンはできないわ、徒競走はビリだわ、申し訳ない限りでした。ただ、一番下の男の子は頼もしく、中学では運動部で陸上の中距離走に挑戦し続け、高校ではフェンシング、大学では再び陸上と個人種目ながら、たゆまぬ努力を続けていたので、我が子ながらその点には敬服しています。

Baton05.jpg

(バスケと言えば 映画 「スラムダンク」ポスター)

  さて、身体能力は遺伝的要素が強いのですが、性格や考え方は遺伝的要素と環境的要素の両方が要因となって形成されているに違いありません。

  例えば、人からしかられたときに、理由はともかく納得することなく自己正当化する人もいれば、しかられたことを素直に反省し、改善につなげることができる人もいます。また、「おはよう」、「こんにには」、「いただきます」、「ごちそうさま」、「どうもありがとう」などの言葉は、自然に口に出てくる人もいれば、口に出すのはとても苦手な人もいます。

  挨拶をしたり、食事を残さなかったり、困った人を助けたり、などの行動は、家系もさることながら、生れてから後、育ってきた環境が大きな影響を及ぼしていると思います。それは家族からの言葉もさることながら、日頃から接していた家族の言動が大きく影響していると思うのは私だけでしょうか。

  今の自分を作り上げてきたのは、遺伝なのか、環境なのか・

  今回読んだ小説は、高校生の驚くようなシチュエーションを淡々と語っていくのですが、読んでいると、思わず学生時代の自分のことを顧みてしまうのです。

【人は何を頼りにして生きるのか】

  小説の主人公、森宮優子は何の変哲も無い、普通の高校生です。

  その悩みは、なんと「困ったことが何もない」ことなのです。ところが、小説はすごいことを語っていきます。高校生には、将来をどうするかを相談する進路指導があります。小説は、ベテランで頼りになる女性教師向井先生の進路指導の場面から始まります。そこで語られるのは、森宮優子の数奇な人生です。彼女は、生れてからここまで、4つの名字を名乗っていたという普通ではない人生を生きてきたのです。

  生れたときに名字は水戸、次の名字は田中、それから泉ヶ原、そして現在の森宮。優子の身にはいったい何が起きていたのでしょう。

  この小説の現代性は、「それが何か」、と語るような不思議な「語り」なのです。

  向井先生は、優子の生い立ちをいくばくかは知っており、置かれた状況が普通ではないので、優子が多少は無理して暮らしているのではないかと気にかけています。しかし、「その明るさは悪くないとは思うけど、困ったことやつらいことは話さないとわからないわよ。」との問いを受けて、優子は困ってしまいます。それは、本当に「困ったことがない」からなのです。

  そして語られる森宮優子の生活は、確かに変わっています。優子の父親は、再婚によって優子の父親になるのですが、すぐに離婚してしまい、全く血がつながらないにもかかわらず、30代で思春期の娘を持つ父親になっているのです。しかも、彼は東大を卒業後、超一流企業に就職したエリートで、しかも眉目秀麗なイケメンなのです。

Baton02.jpg

(映画「そして、バトンは・・・」ポスター)

  しかも、彼の趣味は料理です。しかも、まじめ。確かに優子は困ったことになりようがないのです。

  小説は、優子のこれまでの生い立ちと、現在の高校生活を淡々と優子を語り部として語っていきます。その語りは、小説を通して淡々としていて、彼女を取り囲む育ての親たちは、持てる愛情のすべてをそれぞれのやり方で優子に注いでいくのです。

【そのプロットの巧みさ】

  小説が「いのち」を持つためには、リアリティのある「エピソード」が必要不可欠です。この本は、読み始めると「あれれ」と思うまもなく、ページが進んでいきます。それは、その巧みな「エピソード」とその軽やか語り口です。

  まず、第一にイケメンエリートの父親の創る料理エピソード。彼は、優子の父親として彼女の生活を支えていくことに決意を燃やしています。それは、会社から帰宅して作る夕飯やデザートの数々です。

  新学期の始まりの日には、験を担いで朝からカツ丼が登場します。その肉は脂身のないヒレ。しかも前日には、柔らかくするために、徹底的にたたきます。また、優子が学校で親友たちとの仲違いで元気がなくなると、元気がないときには餃子が一番、とニンニクもりもりの大判餃子を大量に作って優子を元気づけます。そして、優子の悩みが解決するまでは、と毎日餃子レシピを続けるのです。餃子は優子が飽きることのないようにアレンジレシピで続きます。例えば、餃子の具をポテトサラダにしたり、ほうれん草やエビの餡にしてみたり、延々と餃子の日が続いていきます。

  そして、2番目の母親である「梨花さん」のエピソードも強烈です。彼女は、優子を愛する気持ちという意味で誰よりも大きな愛情を持っています。そのすごさはぜひ本編で味わってほしいのですが、その多彩なエピソードには思わず笑ってしまいます。

  その登場の時には、梨花さんの語る人生訓がなるほどなのです。それは、「優子ちゃんもにこにこしてたら、ラッキーなことがたくさんやってくるよ。」「女の子は笑ってれば3割増しかわいく見えるし、どんな相手にも笑っていれば好かれる。人に好かれるのは大事なことだよ。楽しいときには思い切り、しんどいときでもそれなりに笑っておかなきゃ。」という言葉です。そう語る梨花さんの優子を愛するそのすごさはこの小説のあらゆる場面でその真価を発揮していきます。

  さらにこの小説の面白さは優子の高校生活にもあります。誰にでも学生時代に経験がある、恋愛、クラス対抗スポーツ大会、クラス対抗合唱大会です。優子の高校生活がどのような彩りを人背に加えていくのかは小説を読んでのお楽しみですが、そこに語られる体験は、読む人すべてのなつかしい体験を呼び起こしてくれるに違いありません。

  ひとつだけネタばれを許してもらえれば、キーワードはピアノです。

  ピアノといえば、最近大リーグ中継の前後にBS1で放送されている「空港ピアノ」、「駅ピアノ」と題された番組をご存じでしょうか。世界中の空港や駅に置かれているピアノに小型カメラを設置してピアノを演奏する人々を紹介する番組なのですが、見ていると、人類のピアノ文化度の高さに驚かされます。リストのカンパネラやショパンの子犬のワルツなどはもちろん、ビリー・ジョエルやエルトン・ジョン、はたまた「私を月に連れていって」まで、素晴らしい演奏が心を癒やしてくれます。音楽は人の心を支え、我々に元気を与えてくれることは間違いありません。

Baton04.jpg

(NHKBS1 空港ピアノマルタ編 amass.jp)

  この小説でもピアノが活躍します。優子は、クラス対抗の合唱コンクールでピアノ伴奏を担当することになり、音楽の先生の指導を受けて練習に励みます。ピアノ伴奏には、各クラスの腕に覚えのあるピアニストが登場します。中には、その音色を聞くだけでピアノの音に心を奪われるような素晴らしい演奏を繰り広げる男子もいます。

  優子は、ピアノの演奏が大好きです。彼女のピアノ演奏には彼女と何人もいる両親との歴史がつまっていたのです。

  そうです。ピアノは優子に、さらにはこの小説に大きな物語をもたらしてくれるのです。そのいきさつ、そして顛末はぜひこの本を読んで楽しんでください。心を動かされること間違いなしです。

【人が生きるとはどういうことか】

  この世には、幸せなことに数え切れないほどの小説が満ちあふれています。読書好きの中には、難しい小説や複雑な小説、はたまた本格的な謎解きミステリーなどが大好物な読者も多いと思います。私もどちらかといえば重厚な作品の方が好みです。

  今回の小説は、重厚さとも難しさとも複雑さともまったく無縁な小説です。

  そこに描かれるのは、どこにでもいる人々とどこにでもある生活です。奥様は魔女のナレーションではありませんが、優子は普通の高校生で、普通にご飯を食べ、普通に学校に通い、普通に暮らしています。ただ一つ違っていたのは、彼女には二人の母親と三人の父親がいることなのです。そこには、人や世に悪意を持っている人は一人も登場しません。さらに小説では驚くような事件はひとつも起きることがありません。

  読む人は、軽やかに優子の歩む、変哲のない人生を一緒に生きていきます。しかし、我々が毎日生活を送るとは、まさにそのことです。この小説は、我々に当たり前に生きることの大切さを教えてくれると同時に、人間は、決して捨てたものではない存在であることを教えてくれます。

  さて、最後にもう一つだけネタばれをお許しください。この小説の主人公は、森宮優子なのですが、実はもう一人の主人公が存在しています。その登場人物とは、プロローグで語り部として登場するその人です。果たして何者でしょうか。


  本屋大賞を受賞する本は、本屋さんの店員さんが本当に面白いと感じた本です。その意味で、やっぱり「外れ」はないのだ、と改めて感じました。皆さんもぜひこの「そして、バトンは渡された」で、人のあたたかさを味わってください。心が癒やされることに間違いがありません。

  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。





篠田謙一 遺伝子が語るグレートジャーニー

こんばんは。

  「好奇心」は、我々人類にとって不可欠な要素です。

  2013年に制作された「人類20万年 遙かな旅路」から10年が経ちました。この番組はイギリスBBCが制作したドキュメンタリー番組。医師で解剖学者であり、古代病理学者でもあるジュリア・ロバーツ博士が、アフリカで一人のイヴから生まれたホモ・サピエンスが6万年以上前にアフリカから全世界へと拡散していった足取りを実際にたどっていく、素晴らしい番組でした。

  その旅路は2016年に本となり、その文庫版をブログでも2回にわたって紹介しました。

  当時、ゲノム情報から遺伝子情報を解析して先祖をたどっていく研究が始まっており、世代を経る中でもミトコンドリア内に引き継がれるミトコンドリアDNAは、子々孫々の女性に変わることなく引き継がれていくことがわかっていました。そして、現代人の持つミトコンドリアDNAから起源をさかのぼっていった結果、我々ホモ・サピエンスは人属唯一の種であること、そして我々は20万年前にたった一人のイヴから生まれたことが突き止められたのです。

  そして、世界中へと拡散していったホモ・サピエンスの軌跡を当時最新の考古学の知見を駆使して紹介してくれたのがこの本でした。

greatjourney01.jpg

(文庫版「人類20万年 遙かなる旅路」amazon.co.jp)

  あれから10年。科学の世界は人類の「好奇心」を武器に新たな知見を重ねています。

  今週は、人類の起源とグレートジャーニーを、DNAを駆使して解明する最新研究本を読んでいました。

「人類の起源ーDNAが語るホモ・サピエンスの『大いなる旅』」

(篠田謙一著 中公新書 2022年)

【着々と進化する古代DNA解析の現場】

  この本のDNAワンダーは、第一章から第二章にかけて語られます。

  古代人類の歴史と進化は、これまで考古学としての化石の発見によって紡がれてきました。

  我々の学名「ホモ・サピエンス」とは、「賢い人」という意味だそうです。(クロアチア侵攻を考えると学名には大いなる疑問がありますが・・・)学名は、前半が属名、後半が種名となるので、ホモ(人)は属名で、サピエンス(賢い)は種名となります。現在、地球上でこの属名をもつ人類は我々だけとなっています。ホモ(人)属には、ホモ・ネアンデルタレンシス(ネアンデルタール人)、ホモ・エレクトスなどが知られていますが、すべて絶滅し現存していません。

  また、700万年前、チンパンジーから変異した我々は、その後、猿人、原人、旧人、新人という段階を経て進化してきたといいます。

  化石の発掘と解析による古代人類史は、150年に渡る歴史を持ち人類の歴史を解き明かしてきました。化石の発掘と解析に基づいた仮説は、様々に展開され、長い間、ネアンデルタール人や北京原人、ジャワ原人などは我々の祖先であり、ホモ・サピエンスはここから進化してきたと考えられてきました。

  そこに登場してきたのが、遺伝子DNAを利用した古代研究です。

  かつて、ゲノム解析にはとてつもない時間と費用がかかりました。ヒトのゲノムは30億個の塩基を持ちますが、かつてその解析には、13年、4300億円の費用がかかったといわれています。ところが、解析技術は驚くほどの進歩を遂げ、次世代シーケンサーの飛躍的な進化により、現在は数時間、費用も140万円くらいで30億個の塩基の解析が可能となりました。

  かつては、化石の復元や比較などによって行ってきた解析ですが、現在では化石として見つかった骨のゲノム解析を行うことで、様々な仮説を導き出すことが可能になったといいます。しかし、難しいのは古代の化石自体の発見が難しいことと、化石には多くの別のゲノムが混入しているため、解析の正確性を保つことが必要となることです。

  古代DNA解析は、人類の起源解明に新たな光をもたらしています。たとえば、我々とは異なる種であるネアンデルタール人について、デニソワ洞窟の発掘から新たな発見がありました。この洞窟は、ロシアと中国とモンゴルの国境近くアルタイ地方にありますが、ここから2010年に発掘された化石の解析により新たな旧人が発見されたのです。

  発掘されたのは、指の骨と臼歯でしたが、そのDNAを解析した結果、その骨はホモ・サピエンスともネアンデルタール人とも異なる未知の人類の骨だったのです。その人類は洞窟の名を取ってデニソワ人と名付けられました。この洞窟は、ネアンデルタール人、デニソワ人、ホモ・サピエンスの3つの人類によって利用されていたのです。

greatjourney04..jpg

(デニソワ人とホモ・サピエンスの関係 nikkeibp.co.jp)

  そして、ネアンデルタール人もデニソワ人も絶滅しているのですが、彼らはホモ・サピエンス以前にグレートジャーニーを行っていたことがわかっています。さらには絶滅前にはホモ・サピエンスとも交雑しており、デニソワ人のDNAはパプアニューギニアの人々に受け継がれているというのです。すでに絶滅した旧人たちの遺伝子は、我々ホモ・サピエンスに引き継がれているのです。

【誕生の地アフリカでのホモ・サピエンス】

  第三章では、アフリカにおける人類の歴史が語られます。

  我々ホモ・サピエンスがアフリカで最初のイヴによってこの世に誕生したことはミトコンドリアDNAの解析から間違いがなさそうですが、その時期については明確にはなっていません。

  というのも、ゲノムデータの解析が進むと、ホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人やデニソワ人など、絶滅してしまったホモ属との交雑を続けていることが明らかになり、さらにはホモ・サピエンス同士の結婚でも数10万年を経るうちに環境によって遺伝子の変異が起こっておるため、現代人のゲノムのみから解析できる事実には限界があるためです。

  現在、アフリカで発見されているホモ・サピエンスの最古の化石は30万年前のものですが、それ以前の化石はアフリカでは発見されていないのです。しかも、アフリカは熱帯であり砂漠が多く存在しており、化石人骨にDNAが残りにくいため、古代DNAの解析が進んでおらず、最古のDNA15000年前の人骨からのものといいます。

  現代人のゲノムデータの解析からホモ・サピエンスの世界展開は6万年前以降ということがわかっていますが、アフリカからイスラエル近くまでのアジアではもっと古い化石も発見されており、出アフリカと世界展開とは必ずしもい一致するものではないようです。

  DNA解析によるワンダーは、変異を続けてきたホモ・サピエンスのミトコンドリアDNA(女系継承)とミトコンドリアY染色体(男系継承)をたどることによって、ハブロタイプと呼ばれる特徴を持つ配列を特定してさかのぼることによってその祖先を知ることができるという解析です。

greatjourney02.jpg

(篠田謙一著「人類の起源」amazon.co.jp)

  現在、我々ホモ・サピエンスは、世界中を席巻していますが、住む地域によって言語も違えば見た目も異なります。それは、環境や食べ物、生活形態によって遺伝子が変異することで違いが発現するのですが、実は現存するホモ・サピエンスは、すべてが同じ属と同じ種に分類される生き物なのです。

  ホモ・サピエンスが出アフリカを果たすまでには少なくとも10万年以上が経過しており、我々がアフリカ(またはその周辺)で過ごした時間は、世界に展開した時間に比べれば気が遠くなるほど長いのです。その証拠にアフリカの人々は、我々ホモ・サピエンスの持つ遺伝子の多様性のうち85%を備えていることがゲノム解析で判明しているのです。

  このことは、世界の言語のうちアフリカの人々の使う言語は2000種類にのぼり、その種類は世界中の言語の1/3に当たる、という言語学的な数値とも整合しています。こうした事実を知ると、改めてアフリカの人々を奴隷として売り買いし、長きに渡り差別してきた歴史がいかに恥ずべき事実だったのかを思い知らされます。

  この本は、我々が最も長い時間を過ごしたアフリカにおけるホモ・サピエンスのワンダーを分析した後、いよいよ世界へと展開していった我々ホモ・サピエンスの歴史をDNAデータから語っていくことになるのです。

【グレートジャーニーのワンダー】

  これまでの考古学的な研究(遺跡や石器、はたまた化石や骨格)から、我々ホモ・サピエンスは6万年前頃にアフリカを出て、その後数万年を費やして地球上のすべての大陸、そこに連なる島々にまで進出していったことが判明しています。一言で6万年といいますが、「歴史」と言われるホモ・サピエンスの営みはほんの数千年分しか記録されていません。

  我々がアフリカを脱出してグレートジャーニーの旅に出てから、ホモ・サピエンスは旧石器時代、中石器時代、新石器時代、狩猟採集時代、農耕牧畜時代へと進化してきました。そして、その長い時間の間に我々は、様々な交配を繰り返して変異を続けて現代のホモ・サピエンスに変貌してきたのです。地球は、誕生からの長い歴史の中で氷河期と氷間期を繰り返してきたと言われます。直近の氷河期は20万年前から12万年前まで続き、そこを乗り越えてきた我々は、現在、氷間期を生きてきました。しかし、氷間期の間にも寒暖は繰り返されます。たとえば、最終氷期極大期は2万年ほど前に全世界を覆い、地表の25%が氷で覆われ、海面は現在よりも125mも低かったといわれています。

  こうした中で行われたグレートジャーニー。この本では、古代DNA研究によって明らかになった事実を次々と語っていきます。第四章ではヨーロッパへの進出、第五章ではユーラシア大陸から東アジアへの進出、第六章では我々の日本列島への進出、そして第七章ではアメリカ大陸への長い旅をひもといてくれるのです。これまでの考古学で提唱された様々な仮説は、古代DNA解析によって新たな展開を迎えることになったのです。

greatjourney03.jpg

(1万年前のイギリス人チェダーマン復元 realsound.jp)

  これまでの考古学的な仮説は、より古い年代のホモ・サピエンスの化石が発見されるたびに新たな仮説へと進化してきました。古代DNA解析も古い時代の遺跡発掘によるDNAが発見されることで新たな発見を加えていくことになります。その発見はまさにワンダーです。

  たとえば、アメリカ大陸におけるホモ・サピエンスの旅は古代DNA解析によって新たな展開を迎えてきました。

  コロンブスがアメリカ大陸を「発見」するまで、アメリカにはアジア人そっくりのインディアンたちが暮らしてきました。彼らは、発掘された遺跡の年代とその骨格研究などから13千年ほど前にベーリング陸橋を渡ってアメリカ大陸へと移動したと考えられていました。彼らは5000人ほどの集団から瞬く間に北アメリカから南アメリカへと移動し、最南端へとたどりついたのです。

  その祖先はどこからやってきたのか。古代DNA解析は驚きの事実を我々に教えてくれるのです。

  北アメリカやアジア側のシベリアの遺跡から発見された古代DNAを解析し、アメリカ先住民の最初の分岐までさかのぼると、祖先は、アフリカから東アジアへと移動してきた集団がさらに北上し、シベリアで24千年前に生まれたことがわかりました。これまでも考古学的な研究からアメリカに移動したとされる13千年という年代とシベリア側で発見された遺跡の24千年前との年代の齟齬は議論されてきましたが、DNA解析により明確となったのです。

  1万年もの間、アメリカ先住民の祖先はシベリアで何をしていたのか。氷で閉ざされたベーリング陸橋。彼らは陸橋が渡れるようになるまでどこかで待っていたのでしょうか。そのなぞは、この本で解読してください。古代DNA解析によってわかる最大のワンダーは、アメリカ文明を「発見」し、古代文明を破壊して彼らを駆逐した15世紀のヨーロッパの人々とアメリカ大陸の先住民は同じDNAを持つホモ・サピエンスであったという事実です。

  我々の歴史は殺戮の歴史です。しかし、この本を読んでわかるのは、殺戮を生んでいるのはたった0.1%のゲノムの違いなのです。それ以外の99.9%は全く同じホモ・サピエンスが0.1%のために殺し合う。その不条理な事実に愕然とします。

  現在侵略戦争をおこなっているロシア人と、無垢な命を奪われているウクライナ人は兄弟だと言われます。それ以上に、我々人類は兄弟をも超えてさらにそのDNAは濃く、同じホモ・サピエンスなのです。我々は、一刻も早くそのことに心を寄せなければならないのです。

  それは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。



指揮者が語るベートーヴェンの交響曲

こんばんは。

  このブログは、もともとハンドルネームのとおり「人生の数々の楽しみ」を言葉にしていくことを目的に始めました。

  その原点が、「本」であり、「音楽」であり、「映画」であり、アスリートたちの輝きでした。

  中でも、言葉を読むことの楽しみは格別です。我々は「言葉」を発明したことによって、地球上の他の生命から枝分かれをして「特別な」存在へと進化しました。そして、言葉はあらゆる事物や事象を語ることができる「無限」の可能性を持つ道具です。そこで、ブログの中心は、大好きな本の感想をその中心とすることに決めました。

  「音楽」もあらゆる事々を表現できる、という意味では言葉と同じ力を持っています。しかし、その魅力は「音楽」を聴くことによって我々の心を動かしてくれるもので、どんな「音楽」に心を動かされるのかは、一人一人のすべての人間の個性とつながっています。

  音楽本を読む楽しみは、本来は聴かなければ味わうことができない感動を「言葉」で味わうことができることに他なりません。

  先日、新たな人生の楽しみを見つけるためにさいたま市の「生涯学習相談センター」に足を運びました。相談の後、センターの入居する大宮シーノの中に桜木図書館があることを思い出しました。図書館で本やCDを見ている時間は、まさに至福の時間です。CDのコーナーでは、上原ひろみとエドマール・カスタネーダというジャズハープ奏者とのライブ盤を発見、さらにリッキー・リー・ジョーンズのアルバム、そのほか6枚ほどのCDを借り出しました。音楽本のコーナーに行くと、そこで発見したのはブログを始める以前に読んだ本でした。

「ベートーヴェンの交響曲」

(金聖響 玉木正之著 講談社現代新書 2007年)

Beethov01.jpg

(「ベートーヴェンの交響曲」amazon.co.jp)

  対談本のプレトークを読んだとたんに、かつての感動がよみがえり、借りてしまいました。

【ライブで聞くベートーヴェンの感動】

  あらためてこの本を読もうと思ったのには訳があります。

  ブログにも書きましたが、2020年、クラシック界ではベートーヴェン生誕250年という節目の年で様々なイベントが企画されました。その中でも数々のライブコンサートは最も楽しみな企画でした。そんな中、今、最も好きな指揮者の一人であるパーヴォ・ヤルヴィ氏が、自身が鍛え上げたドイツカンマーフィルハーモニーを率いて来日し、ベートーヴェンの交響曲9曲を演奏する、という奇跡のような企画があったのです。

  チケットの発売日、妻と二人でパソコンとスマホを駆使して、必死にチケットの購入にトライしました。コンサートは5日間にわたりますが、9曲の交響曲はそれぞれ演奏日が異なります。奮闘努力の甲斐があり、なんと第九、そして第3番、第8番のチケットをゲットすることに成功しました。

  ところが、2020年と言えばコロナ禍が世界を席巻し、渡航停止を含めた行動制限がピークを迎えた時期でした。そうは言っても中には厳しい検疫制限を経ても来日するアーティストもおり、いくばくかの期待がありました。しかし、さすがにオーケストラを危険にさらすわけにもいかず、来日公演は中止となったのです。コロナ禍の中で最も痛恨の出来事でした。

  あらゆるライブが中止となった中でしたが、このコンサートだけはお金が帰ってきてもあきらめることができないコンサートでした。

  昨年、世界ではコロナ禍が去ったわけではないものの、世界的不況の危機感が強く存在して、行動制限を撤廃する動きが相次ぎました。決定的だったのは、ゼロコロナ政策をかたくなに守ってきた中国が、各地で頻発する政策反対デモの嵐を受けて行動制限を緩める(事実上撤廃する)転換を行ったことでした。

  コロナ禍の中で、必ず日本の皆さんに再開したい、と語っていたアーティストたちが次々と来日することになりました。

  95歳となるレジェンド指揮者ブロムシュテット氏も元気な姿を見せてくれ、なんとベートーヴェンの「運命」を聴かせてくれました。この交響曲第5番の疾走感のある力強い演奏は、年齢をまったく感じさせない感動を呼ぶものでした。

  そして、そして、あのパーヴォ・ヤルヴィ氏がリベンジに来日したのです。忘れもしない2022129日木曜日、新宿オペラシティコンサートホール。オーケストラは、あの時と同じドイツカンマーフィルハーモニーです。さらにさらに、このときの演目が泣かせます。ベートーヴェンの「コリオラン」序曲、交響曲第8番、そして交響曲第3番「英雄」です。

  そのパーヴォ氏の作り上げた素晴らしいベートーヴェンの感動は今でも心に鳴り響いています。

Beethov02.jpg

(パーヴォ・ヤルヴィ カンマーフィル ポスター)

【指揮者が語る交響曲のすばらしさ】

  かつてこの本を読んだ時にも、現役指揮者が語る第1番から第9番までの素晴らしい交響曲の魅力とスポーツライターで音楽に造詣が深い玉木さんとの対談は、時間を忘れさせてくれました。しかし、今回再読したときには、その語りが改めて深く深く心に響いてきたのです。

  実は、昨年12月にパーヴ・ヤルヴィ氏のベートーヴェンを聴いてから、あまりの感動に氏とカンマーフィルが吹き込んだベートーヴェン交響曲全集を購入しました。それを聴いては、12月のコンサートを思い出し、その感動を味わっていたわけですが、今回はそのCDを聴きながら、この本を読んでいたのです。

  第1番から第9番まで、実際に現代最高峰の演奏を聴きながら読んだ、金さんの語りはまさに至福の時間でした。

  まずは、この本の目次を読みましょう。


プレトーク:ベートーヴェンの交響曲の魅力

第1番 ハ長調 作品21

 「喜びにあふれた幕開け」(29歳)

第2番 ニ長調 作品36

 「絶望を乗り越えた大傑作」(31歳)

第3番 変ホ長調 作品55 『英雄』

 「新時代を切り拓いた『英雄』」(33歳)

第4番 変ロ長調 作品60 

 「素晴らしいリズム感と躍動感」(35歳)

第5番 ハ短調 作品67 

 「完璧に構築された究極の構造物」(37歳)

第6番 ヘ長調 作品68 『田園』

 「地上に舞い降りた天国」(37最)

第7番 イ長調 作品92 

 「百人百様に感動した、狂乱の舞踏」(42歳)

第8番 ヘ長調 作品93 

 「ベートーヴェン本人が最も愛した楽曲」(42歳)

第9番 ニ短調 作品125 『合唱付』

 「大きな悟りの境地が聴こえてくる」(53歳)

アフタートーク:新しいベートーヴェン像を求めて


  この本の魅力は、実際にオーケストラを指揮し、人々に「音楽」を届けている指揮者自身が交響曲の魅力を語るところにあります。ベートーヴェンの交響曲がなぜ我々の心を捉えて離さないのか。それは、ベートーヴェンがそれを意図して交響曲を作曲していたからなのです。

  以前にこの本を読んだとき、9つの交響曲のうち何度も聞き込んでいたのは、おなじみの「英雄」と第5番、「田園」、そして第九でした。その他には疾走感が感動的な第7番。その語りを心から嬉しく読んでいましたが、他の交響曲は読み飛ばした感が満載でした。

  今回読んで面白かったのは、第1番、第2番、第4番、第8番。この本では、いずれも名曲として語られていますが、以前には曲をよく知らないという悲しさから読んでも心に響かなかった、というのが正直なところです。これが、実際に曲を聴いてみると、金聖響氏が語ってくれる一つ一つの魅力が、実際に心に届いてくるのです。

  例えば、第2番。目次を見ると「絶望を乗り越えた大傑作」との表題。このときベートーヴェンは31歳ですが、聴覚障害がはじまっており、かの有名な「ハイリゲンシュタッの遺書」を書いた後に作曲されました。音楽を職業とする人間にとって、耳が聞こえなくなることは腕をもがれるよりもつらい出来事であり、「死」を望んでもおかしくない事実であったと思います。

  ところが、その遺書と同じ時期に同じ場所で作曲された交響曲第2番は、まるで人生を生きる素晴らしさと決意を告げるような明るく、疾走感のある交響曲なのです。この曲は、語りにもある通り、それまでハイドンやモーツァルトが創り上げてきた交響曲の構成に新しい風を吹き込み、革新的な音楽を志したベートーヴェンの意欲があふれている作品なのです。それは、各章の作曲技術にも表れており、金さんはその内容を具体的に語ってくれるのです。

  この第2番の第一楽章が、あの第九の第一楽章と同じ調性と聞いて、びっくりです。その和音や音の降下は非常に似ていると言います。もちろん、長調か短調かの違いはありますが、同じ音階を使いながらこれだけ違う印象を創りだすのは、まさに音楽の不思議であり、さらにはベートーヴェンの見事な職人技であると改めて感心します。

Beethov03.jpg

(ヤルヴィ指揮 交響曲第2番CD amazon.co.jp)

【メトロノームと古楽器奏法】

  さらに楽しかったのは、ベートーヴェンの交響曲の演奏史ともいえる語りでした。

  まず、以前にもブログで紹介しましたが、ベートーヴェンが第9番の交響曲を準備していたころ、我々におなじみのメトロノームが誕生したそうです。そして、ベートーヴェンはこの技術に共感したのか、自分のすべての交響曲にさかのぼってメトロノームによるテンポを書き込んでいるのです。

  この本にも随所にベートーヴェンが記載したテンポが登場しますが、これが現在の指揮者たちを悩ませているというのです。そのわけは、ベートーヴェンが記載したテンポは現代の我々から見るととても早く、とても合理的とは思えないからなのです。例えば、交響曲第8番のテンポは、異常に早く、いかなるヴァイオリンの名手でもその3連符を引きこなすことは難しい、と言います。このためこれまでの演奏では、このテンポは、取り上げられなかったのです。

  わたしのクラシック歴は多くの人たちと同じく、父親のレコードコレクションから始まっていますが、その頃の指揮者たちはまさに大指揮者たちでした。フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、チェリビダッケ、クーベリック、まさにそうそうたる指揮者たちです。彼らのテンポはそれぞれ全く異なっていて、例えば第九。ベートーヴェンの生前の記録では、63分となっています。が、フルトヴェングラーの幻のバイロイト版は79分、早いと言われるトスカニーニは64分、ワルターは71分、ベームは74分、バーンスタインはベルリンの壁崩壊時の式典では78分の第九を披露しています。近年は、60分台後半の演奏が多いようです。

Beethov04.jpg

(ワルター指揮 交響曲第9番 amazon.co.jp)

  第九の演奏時間でもわかりますが、クラシックの演奏は時代によってその演奏が異なります。フルベンからカラヤンに至る大指揮者時代には、ベートーヴェンと言えば哲学的で重厚な演奏が観客を魅了し、テンポを緩めて重々しく鳴らすことでエモい演奏を繰り広げました。その後、平成に至ると、世には古楽器系の指揮者たちが登壇してきます。

  古楽器系とは、作曲者がスコアを書いた時代の楽器と編成で作曲者の意図した演奏を再現しようとする演奏方法です。この本では、その奏法を「ピリオド奏法」と呼び、大指揮者時代から現在に至る「現代奏法」と比較しています。例えば、我々があたりまえに思っているビブラート(音を細かく震わせる奏法)ですが、これはベートーヴェンの時代にはありませんでした。つまり、古楽器の時代には音は震えず、伸ばされず、シンプルだったのです。

  テンポもこれと同様にできる限り当時のテンポに近づけるべきだというのが古楽器系の指揮者たちです。アーンノンクールやノリントンは古楽器派の代表格ですが、実はヤルヴィもかつては古楽器派の一員として認識されていました。

  確かに、最も現代的であると思うヤルヴィ氏の演奏は、小気味の良いテンポであり、緩急はわかりやすく、ピリオド奏法に近いのかもしれません。しかし、流行はどうあれ、すべての指揮者は自分の中に理想の音とテンポを持っており、そこにすこしでも近づくために毎日演奏を続けている、と金聖響氏は語っています。

  いやぁ、本当に音楽も本も楽しいですね。そろそろ紙面が尽きました。


  それでは皆さんお元気で、またお会いします。


今回も最後までお付き合いありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ

にほんブログ村⇒プログの励み、もうワンクリック応援宜しくお願いします。