この15年、自分の体調と家族の体調、そして父の介護、終わりがあった。
なぜ、ブログを続けられたか、ここにも、意味ある? 定めだったかもと思いある。
ブログを2011年始めて、自分に劣化があった2015年、55才で心筋梗塞。
さらに、2017年の師走、私は東京の病院のベッドにいた。急性胆嚢炎。みぞおちの激痛で、消化器系の救急搬送。当家の禁断の得意技。心臓系と消化器系で、これまで二度ほど使った。使わなかったら、デッドだった。
ブログには病名を書かなかった。「とりあえず、生きてます(笑)」とだけ。息子に頼んでポケットWi-Fiを病室に引き込み、
スポティファイを聴き、私は「入院中に聴くロック」をUP続けた。
一日中寝ていて腰が痛い、なんてことを書きながら。
最初に上げたのは、CSNYの 「Ohio」。静かめだけど、しっかりカウンターカルチャー。
翌日はNirvana 「You Know You're Right」、ビートルズ 「Paperback Writer」、
ストーンズ 「Let's Spend The Night Together」……
病室で聴くロックは、しみわたり、音が違って聴こえた。
その同じ病院に、父が運ばれてきた。茨城の実家で、右足が腫れ上がっていた。蜂窩織炎。
看護師さんの好意と、奥方の機転で、田舎から私と同じ病院へ転院できたのだ。
父と息子が、同じ建物の別の階で、同時に入院していた。
このことを、私はブログに一行も書かなかった。なぜか。
たぶん、書けなかった。 いま思えば、ここが、私の介護の発火点だった。
私は年末に退院した。父は年が明けて、1月10日に退院した。
私はブログにこう書いている。「病後養生終わり、仕事復帰、そして父の介護始まり」。七年間ほぼ毎日続けてきた更新が、これから難しくなる、とも。
父は、東京のマンションで私たちと同居することになった。。すべてがうまく回り始めたような気がしていた。
ところが、2018年5月。今度は奥方が倒れた。非結核性抗酸菌症。入院。
私はブログの末尾に、こう書いた。
「奥方が入院。これで父・私・妻・息子・娘、家族五人が、この大学病院のお世話になりました。かなり凹んでおります」。
私には茶化しの座右の銘がある。「道は長く険しいものと知れ」。──だが、このときばかりは書き換えた。
「道は短く険しいものと知れ」。人生は限定有限だと、思い知らされた。
奥方が入院していては、東京で父の在宅介護は続けられない。父を、茨城の実家へ戻す決断をした。ここから、東京と茨城を往復する、六年の遠距離介護が始まる。
田舎で、介護認定をやり直した。そして、週のローテーションを組んだ。
私が週に1回、妹が1回、介護ヘルプが3回、近所の方・町内に制度があった・2回の週ローテで、父の田舎暮らしを支えた。これが、六年続いた。
その間、私自身もへばっていて、2023年、酷暑の中、持病の検査が週一で11月まで続いた。
結局は、心筋梗塞予防治療、五本目のステント。担当医は「今回も運が良かった」と言った。
2024年6月。父の調子が悪く、歩けなくなった。七年前の蜂窩織炎の影響だという。 病院の予約が取れず、途方に暮れて ──
当家の禁断の得意技、救急搬送。
茨城県南の総合病院。点滴のあと、担当が脳外科に変わっていて、ビビった。慢性硬膜下血腫。頭に血が溜まっていた。
絶句、皮膚病と思っていた浅学の小生の行き当たりばったり人生がまた出た。と落ち込み。
父は退院し、介護老人保健施設に入った。
施設に面会に行けば、「なんできた? 帰れ(夕食の時間だ)」と追い返される。
そして、気づいてしまった。 施設の方に「何年、入所するのですか?」聴いた時、「1年程」との答えが意味するもの。
1年程で、なくなりますよ、という暗黙の返答。
亡くなれば、契約通り翌日には引き取り。
現代の看取りなのだと、60代の息子として、私はただ、静かにウケるしかなかった。
昨年の5月、父を見送った。
還暦を過ぎてからの、父の介護と死。
悲しみと相続手続きの作業のなかで、音楽と家族はいつもそばにいる。救われる。
あれから、一年が経つ。
2011年、震災と原発事故への怒りから、「騙されるな!」と、このブログを立ち上げた。
持病と親の介護と死という、いたって「個人の現実」そして「誰にでもある現実」に直面して、
社会への怒りもマイルドになったと思いもある。
ブログ、16年目へ。
父を見送って、身体は相変わらず、満身創痍だが、それでも音楽と家族には救われる。そして、皆様のブログにも。
── とりあえず、生きてますので、ブログを続けたい(笑)
という事で、大好きな悲しい曲で、寂しい曲かな



















