Curse of the Bay City Rollers
若くして世界的成功を収めた代償!?
ベイシティ・ローラーズ、その後の人生の”呪い”
Published on 5/7/2021
https://www.cubeny.com/topic_21rollers.htm#container
こちらより引用いたします
この記事は彼等の様々な問題について、詳しく語っています
2021年4月20日に報じられたのが、元ベイシティ・ローラーズのヴォーカリスト、レスリー・マッコーエン死去のニュース。 自宅で突然息を引き取った彼の死のニュースと共に報じられたのが、「ベイシティ・ローラーズの呪い」の報道。 そう言われて仕方がないほどに、災難やトラブルが多いことで知られていたのがベイシティ・ローラーズの元メンバーたち。
1970年代半ばにメンバーのほぼ全員がティーンエイジャーとして世界規模のサクセスを収めたベイシティ・ローラーズは 当時イギリスでは「ビートルズの再来」と言われた存在。 そのサクセスが世界に轟き始めたのは1975年のヒット曲「Bye Bye Baby」が6週連続でイギリスのヒットチャートのNo.1に輝き、 ティーンエイジャー達がローラーズのトレードマークであるタータン・チェックのスカーフやファッションを身につけて熱狂するようになってから。
そして大ヒット曲「サタデー・ナイト」がアメリカでもビルボードNo.1に輝いたベイシティ・ローラーズは、 以来1億枚以上のレコードを売上げ、1970年代を象徴するポップカルチャー現象の1つになっているのだった。
そのサクセスの最中でもメンバーの交代劇が起こり、ドラッグの問題やメンバーの不仲が常に取り沙汰されてきたベイシティ・ローラーズが解散したのは1981年のこと。 ですが人気が根強かった日本では1982年、1983年に元メンバーが集まったコンサート行われ、1985年には レスリー・マッコーエン、パット・マッグリンが中心となったリユニオン・アルバム「ブレークアウト」が日本とオーストラリアのみで発売。 しかしその後は活動がストップし、2015年にリユニオン・コンサートが行われたのがローラーズとしての最後の活動。
解散からの約40年間にベイシティ・ローラーズのメンバーが見舞われたのはドラッグ&アルコール中毒、病気、破産、逮捕等、様々な問題で、 若くしてサクセスを収めたセレブリティに”転落”は付き物とは言え、その様子は前述のように”呪い”とまで言われるもの。
以下ではベイシティ・ローラーズのメンバーのその後の人生のフォローアップをご紹介していきます。
■ レスリー・マッコーエン
ベイシティ・ローラーズのサクセスの立役者と言われるのがオリジナル・メンバーのヴォーカリスト、ノビー・クラークに代わって1975年に18歳でメンバーに加わったレスリー・マッコーエン。 彼がローラーズに在籍したのはその後の4年間で、最初の約2年間がベイシティ・ローラーズの黄金時代。 しかし1978年にメンバーから「自分達のことをバックバンドだと思っている」と言われたレスリーはローラーズを脱退。 その後ソロ活動をしていた彼であるものの、約20年に渡ってアルコール&とコカインの中毒状態。 2006年には0.5キロのコカイン流通に関与したとして刑事起訴され 裁判では無罪になったものの、法廷で認めたのがコカインを長く常用していたこと。
彼の人生の中で唯一安定していたのが1978年に出会って直ぐに結婚した妻のペコ・ケイコ。 レスリーは30年に渡ってゲイであることを隠し、 少なくとも12人の男性パートナー、多数の女性浮気相手が居たものの、彼を見捨てることなく寄り添ってきたのがケイコ夫人。 そのケイコ夫人にとっても、レスリーがゲイであることを乗り越えるのはかなりの苦痛であったと言われますが、ドラッグ中毒のレスリーをリハビリに送り出したのは彼女で、 彼女無しには2015年のローラーズ・リユニオン・コンサートは実現しなかったとレスリーはコメントしています。
■ アラン・ロングミュア
アラン・ロングミュアは1964年にベイシティ・ローラーズの前身を設立したメンバー。 当時はサクソンズという名前で、彼の弟のデレク、従兄、クラスメート2人というメンバーであったものの、デレク以外が全員入れ替わった状態が サクセスを収めたローラーズ。1976年にローラーズがサクセスの頂点にある段階で、10歳年下のイアン・ミッチェルと入れ替わりに脱退した彼は、1977年に ソロ・デビュー、1978年にはイアンの後釜のパット・マッグリン脱退の後を埋めるために再びバンドにカムバック。1981年にバンドが解散した段階の彼には 6台の車、邸宅、農場など、かなりの資産があったものの、僅か2~3年で破産状態になり、バンドが成功する前の職業、配管工に戻らざるをえなかったとのこと。
やがて定年を迎え年金を受け取っていたアランですが、2015年のベイシティ・ローラーズのリユニオン・ツアーにレスリー、ウッディと共に参加。 その後アルバムをレコーディングして、日本ツアーを行う計画があったものの、バンドは2016年に再び解散。 原因は彼とウッディがレスリーと対立したため。そのアランは2018年にメキシコで感染した謎のウィルスが原因で死去しています。
■ スチュワート・ウッディ・ウッド
15歳でオリジナル・メンバーとしてベイシティ・ローラーズに加わったスチュワート・ウッドは、ウッディのニックネームで呼ばれ、現在64歳。 ギターの弾き方も知らない状態からスタートして、ベースとキーボードを担当。 バンド解散後は小規模なライブハウス等で パフォーマンスを続け、一時はLAに3年、サウスアフリカに5年間移住。2003年にはパートナーと共に小規模なレコード・ラベルを設立しています。 彼は今もエジンバラに妻と共に暮らしており、レスリー・マッコーエンの悲報について、「彼とは何年も意見の違いや対立があったが、本当に残念だ。 ベイシティ・ローラーズの歴史にとって悲しいことだ」とコメントしています。
■ デレク・ロングミュア
現在69歳のデレク・ロングミュアはアラン・ロングミュアの弟で、ティーンエイジャーでローラーズのオリジナル・メンバーとなり、ドラムを担当。 81年にローラーズ解散した後は 音楽業界をリタイア。 エジンバラの小児病院でボランティアをしたことがきっかけで、 1990年からナースになるためのトレーニングを始めたデレクは、1993年に資格を取得。しかし1998年に警察に寄せられた匿名の通報がきっかけで、 チャイルド・ポルノグラフィー所有の容疑で捜索を受けた彼の自宅から 153本のビデオ、73枚のフロッピーに収められた1000以上の チャイルド・ポルノ写真が押収され、本人はそれを自宅に滞在したアメリカ人の友人のものと主張。
しかしメディアのさらし者になるのを避ける理由で 罪を認めた彼は2000年に300時間のコニュニティ・サービスの判決を受け、 小児科病院からは解雇処分を受けています。 2001年には再びナースとして働くことを許され、以来目立たない生活を続けてきたデレクが 最後にインタビューを受けたのは2005年のこと。「ベイシティ・ローラーズの成功と名声はトラウマになっているか?」と尋ねられた彼は、 「トラウマになっているのは成功や名声ではなく、音楽ビジネスが如何に冷酷であったかだ」と語っています。
■ エリック・フォークナー
現在67歳のエリック・フォークナーはローラーズの中にあって、比較的まともな人生を送っている存在。 「Money Honey」 、 「Love Me Like I Love You」といったヒット曲の作曲を手掛けていた彼は スチュワート・ウッド同様に バンド解散後もずっと音楽業界で活動を続けた存在。 ソロになってもツアーをしていますが、2015年のローラーズ・リユニオンの際は、レスリー・マッコーエンとの不仲が原因で不参加。 その2015年に エリックは ウイルス性脳炎で死にかけており、回復はしたものの 脳炎後症候群が持病として残り、 同じ症状で苦しむ人々のために募金集めをスタートしています。
一時は音楽を続けるのは不可能と思われたものの、2017年にはレコーディング・スタジオに戻り、2018年にはミュージック・フェスティバルに出演。 しかし現在は長年彼をフォローしていたジャーナリストでさえ 何処で何をしているかを 把握していないとのことです。
■ イアン・ミッチェル
アラン・ロングミュア脱退と入れ替わりに加入したイアン・ミッチェルは僅か7ヵ月のみローラーズに在籍。ファンの間での人気は高く、バンドに音楽的には貢献したものの、 本人は脱退の理由を 「ガスオーブンの中に頭を突っ込みたくなる前に辞めた」と説明しています。 その後ローラーズと同じマネージャーの下で ロゼッタ・ストーンというバンドをスタート。 日本とタイでのツアーを成功させるものの、欧米ではサッパリで、 程なくロゼッタストーンは解散。再び自らバンドを結成するものの それも振るわず、やがてアメリカに移住。 その後ベイシティ・ローラーズのリユニオンには参加したものの、 コンピューター・プログラマーを営みながら、モチベーショナル・スピーカーを時折務めるという地道な生活を送り、2020年9月に特にメディアの注目を集めることもなく 62歳で死去。
2001年の「フレンズ」のエピソードでは、コートニー・コックス演じるモニカのベイシティ・ローラーズについての台詞で 彼の名前が出ており、本人は2016年の英国メディアとのインタビューで 「そのシーンを観た時は、驚いて椅子から転げ落ちた」と語っていました。
■ パット・マッグリン
イアン・ミッチェルがローラーズを脱退した1976年後半にギタリストとして加入したのがパット・マッグリン。日本で大人気を博した彼は1977年にはローラーズを辞めて、1978年には マット・マッグリンズ・スコッティ―ズというバンドで、日本とドイツでツアーを行っています。そのパット・マッグリンは来日の際、 中野サンプラザでコンサートを行いましたが、楽屋から出て来る彼を近くで観ようと考えたファンが こぞって会場を出て楽屋出口に向かったことから、アンコール・パフォーマンスのために彼がステージに戻った時には会場がガラガラだったというエピソードが残っています。
2003年にパットは「マネージャーが1977年にホテルの部屋で自分をレイプしようとした」と告発しましたが、証拠不十分のためマネージャーは刑事訴追されずに終わっています。 2005年にはパットは元ローラーズの仲間、レスリー・マッコーエンと共にドラッグ使用の容疑で逮捕されましたが、こちらも不起訴処分に終わっています。 現在63歳の彼が近年メディアを賑わせたのは、2018年に実の兄に対する暴力で逮捕された時。この兄との問題は複数回警察沙汰になっています。
■ 6人目のローラーズと言われたマネージャー、タム・ペイトン
ベイシティ・ローラーズを生み出し、破滅させと言われるのが ”6人目のローラーズ” と言われたマネージャーのタム・ペイトン。 2009年に70歳で死去した彼は、ベイシティ・ローラーズのメンバーをドラッグでコントロールしていたと言われ、 レスリー・マッコーエン自身も、「ペイトンによってドラッグを覚えさせられた」と証言しているほど。 アイドルに肥満は大敵と考えた彼は アンフェタミンでローラーズのメンバーにダイエットをさせ、 メンバーが疲労やストレスを訴える度に エクスタシー、スピード、コカイン等を与えてきたとのこと。
前述のように2003年にパット・マッグリンにレイプ未遂で告発されたペイトンですが、レスリー・マッコーエンもローラーズのツアー中、 彼がドラッグでハイになっていた時にペイトンがアレンジした男性との関係を強要されたと証言。 そのペイトンは1982年に未成年の少年に対する性的虐待で1年の服役刑を受けており、 翌年にはマリファナを供給していた罪を認めて、20万ポンドの罰金を支払っています。 彼は深刻な健康問題を抱えており、心臓発作で死去する以前にも 2回の発作と1回の脳卒中に見舞われていたとのことです。