2021年09月一覧

『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』って

朝一の心疾患6か月定期検査・問診が予定より早めに終わり、1回目『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』に間に合う。

スマホでチケット購入(シニア)なんとタクシーで劇場にむかう、チケット代より高い(笑)たまにはプチ贅沢もいいか~

69年夏の「ハーレム・カルチャラル・フェスティバル」のドキュメンタリー映画が『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』(純粋にはならないと思いますが)
ウッドストックと同時期・NY州、こちらはNYのハーレムの公園で1か月ぐらい期間の週末開催。


90年初NY時はなんも変哲もないところでしたが、50年御蔵入りだったようです。チラチラYouTubeにはミュージシャン・曲がアップされていたようですが。


 小生、ロック系譜の音楽好き、特にブリティッシュロック、70年代は音楽はラジオで聴き知り、そこからレコード購入でした。

極東放送・FENを聴いていたましたので、ソウル、モータウンを知る事ができましたが、それでも、ブラックミュージックは聴く音楽ではメインでは無かったですが…

当時、スティーヴィー・ワンダーは当代一のメロディーメーカーのミュージシャンで人気はあり。ラジオから流れるスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン、ニーナシモン、BBキング、70年代は白人グループとお思っていたザ・フィフス・ディメンション、他etcを覚えました。スライはレコードを借りれた。

今回、スライ、ニーナシモン、BBキングは強烈にカウンターカルチャーと再確認、70年代英語は良く判らんのに伝わりました、これって本物のしるし。


「ハーレム・カルチャラル・フェスティバル」の催しは『サマー・オブ・ソウル』=イコール=ブラック、ラテン、アフリカンの音楽、同根の祭典と思う。

ゴスペルのマヘリア・ジャクソンが超強力、アレサフランクリンばっかりでないのですね本場と再認識もありましたが。

『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』は本年度サンダンス映画祭 審査員賞大賞(ドキュメンタリー部門)&観客賞受賞なんですね。


と云うことでおまけはサンダンスと聴いて思い出であり、リブログで古い話になりますが、東京で94年開催されたサンダンス映画祭時の与太話で




 




 































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エルトン・ジョン、コラボアルバム『The Lockdown Sessions』

エルトン・ジョン、コラボアルバム『The Lockdown Sessions』をリリースへ。
BY VOGUE JAPAN
2021年9月3日より引用いたします

エルトン・ジョンが、『The Lockdown Sessions(ザ・ロックダウン・セッションズ)』と題されたコラボレーション・アルバムをリリースする。新型コロナウイルスのパンデミックとそれに伴うロックダウン中、多くのアーティストたちとともにリモート体制でレコーディングされた16曲収録の最新作は、10月22日に発売予定だ。

デュア・リパ
リル・ナズ・X
マイリー・サイラス
ニッキー・ミナージュ
リナ・サワヤマ
スティーヴィー・ワンダー
ブランディ・カーライル
チャーリー・プース
エディ・ヴェダー
ゴリラズ
SGルイス
スティーヴィー・ニックス
サーフェシズ
イヤーズ&イヤーズ
ヤング・サグ
らが参加したニューアルバムについて、エルトンはこう声明に綴っている。

「ロックダウン期間中、アルバムを作ることになるなんて、少しも予期していなかった。でも、感染拡大が進むにつれ、単発のプロジェクトが続々と持ち上がったんだ。レコーディング・セッションの中には、Zoomを使ってリモートで行わなければならないものもあったんだけど、言うまでもなく、僕にとっては初めての経験だった。今回のセッションの中には、とても厳格な安全規定の下で録音が行われたものもあった」

「例えば、他のアーティストと一緒に作業をしてはいるんだけれど、間がガラスの衝立で仕切られていたりしたんだ。でも、僕が今回取り組んだ曲はどれもすごく興味深く、多様性に富んでいたよ。世の中に知られている僕の代表曲とは全く異なっていて、慣れ親しんだ安全地帯から、完全に新たな領域へと僕を連れ出してくれるものだった」

「そして、こういった作業に何だか不思議な親しみを感じている自分に気がついたんだ。キャリアをスタートさせた60年代後半頃、僕はセッション・ミュージシャンとして働いていてね。ロックダウン中に様々なアーティストたちと一緒に仕事をしていて、そのことを思い出したよ。僕は一周まわって、再びセッション・ミュージシャンに立ち返った。そしてそれはやはりとても素晴らしい体験だったんだ」

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「Chosen Family」




ご視聴ありがとうございました

<ライヴエイド>未公開パフォーマンス含む新しい映像を随時公開するなんて、嬉しい企画

1985年7月に行われたチャリティーコンサート<ライヴエイド>の嬉しい話題です

このコンサートのYouTube公式チャンネルは、ここででしか見られない新しい映像を随時公開していくと発表しています
未公開パフォーマンスや、レストア/リミックス/リマスター・ヴァージョンも含まれるとのことで、近日公開予定です

今回は、トレーラー映像が公開されています




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先日大切にしていたDVDを売却したので嬉しいです
ご視聴ありがとうございました

メタリカ

メタリカはが、米ラジオ番組『The Howard Stern Show』に出演した時の映像です

メタリカはこの番組で「Sad But True」と、
マイリー・サイラスと共に「Nothing Else Matters」を演奏しています




スティーヴ・ペリー ニュー・アルバム『The Season』より

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元ジャーニー(Journey)のヴォーカリスト、スティーヴ・ペリー(Steve Perry)のニュー・アルバムの話題をお伝え致します

クリスマス/ホリデー・アルバム『The Season』を11月5日発売するそうです
すごく嬉しい
ペリー、リリースおめでとう!!

このアルバムから「I’ll Be Home For Christmas」が公開されました



『The Season』
スティーブ ペリー
1. The Christmas Song

2. I’ll Be Home For Christmas

3. Auld Lang Syne

4. Winter Wonderland

5. What Are You Doing New Year’s Eve

6. Santa Claus Is Coming To Town

7. Silver Bells

8. Have Yourself A Merry Little Christmas

8曲, 25分
リリース日:November 5, 2021



この曲についてペリーは次のように語っています

「この曲を歌っているとき、僕は目を閉じると、突然、祖母の家のリビングルームに面したドアの前に立っている自分に気がつきました。祖母の家のクリスマスツリーの下にはいつもプレゼントが置かれていて、僕と母がツリーをキラキラさせるためにつけたティンセルで覆われていました。そのツリーが頭の中にはっきりと浮かんできて、目を開けると“あれ、僕はどこに行っていたんだろう?”と思いました」


写真と情報をamassよりお借り致しました
ご視聴ありがとうございました

アウシュヴィッツ生き延びた101歳の苛烈な手記

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アウシュヴィッツ生き延びた101歳の苛烈な手記
残虐非道な強制収容所で心の支えとなった友情

2021/09/09 17:30東洋経済より引用いたします

エディ・ジェイク

アウシュヴィッツにいた被収容者の平均生存期間は7カ月だ。もしクルトがいなかったら、わたしはその半分も生きられなかっただろう。わたしが喉を痛めたときは、喉を温めて治せるよう、クルトは自分のスカーフを半分に切って、わたしにくれた。おそろいのスカーフをみて、兄弟だと思った人もいた。それほどわたしとクルトは親しかった。

 わたしたちは毎朝目を覚ますと、仕事の前に周囲を歩きながら話をし、はげまし合った。ささやかなプレゼントの隠し場所は、トイレの壁のなかだ。わたしがレンガをひとつはずせるようにしておいたのだ。ここに石けんや歯みがき粉、ぼろ布などを隠した。

 この友情と彼への感謝の気持ちは、ヒトラーがつくり出した非人道的な場所で生き抜くのに欠かせないものだった。多くの人は生きるよりもみずから命を絶つことを選んだ。それが普通になり、こんな言葉まで生まれた。「フェンスに行く」。アウシュヴィッツ第2収容所のビルケナウは、いくつかの収容所の集まりである広大なアウシュヴィッツ収容所の一部で、周囲の有刺鉄線には電気が流されていた。


人の営みの中で最もすばらしいのは愛されること

 このフェンスに触れると確実に死ねるので、ナチスに殺す喜びを与えずに自分の人生を終わらせられる。多くの人はフェンスまで走って有刺鉄線をつかんだ。わたしの親しかった友人もふたり、この方法で死んだ。ふたりは手をつないで裸でフェンスまで走った。彼らを責めることはできない。わたしだって、死んだほうがマシだと思う日がよくあった。

 だれもが寒さに凍え、体調も悪かった。わたしは何度もクルトに言った。「フェンスに行こう。生きててどうなる? 明日も苦しむだけじゃないか?」。

 クルトは首を振った。彼はわたしをフェンスに行かせようとしなかった。

 わたしがいままで学んだなかで最も重要なことはこれだ。

 「人の営みのなかで最もすばらしいのは、愛されることだ」

 特に若い人には、何度でも大声で言いたい。友情がなければ、人間は壊れてしまう。友人とは、生きていることを実感させてくれる人だ。

 アウシュヴィッツは悪夢が現実になったような、想像を絶する恐ろしい場所だった。それでもわたしが生き残れたのは、親友のクルトがいたからだ。もう1日生きのびたら、また彼に会えると思えたからだ。たったひとりでも友人がいれば、世界は新たな意味をもつ。たったひとりの友人が、自分の世界のすべてになりうる。

 友人は、分け合った食料や暖かい服や薬よりも、ずっと大切なものだ。なにより心を癒やしてくれるのは友情だ。友情があれば、不可能も可能になる。

(翻訳:金原 瑞人)


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とても良いお話でしたのでご紹介致しました

生涯において、自分を愛してくれる人を一人見つけられたら、それは最高の幸せだと思います
今苦境に立っている人にも、その巡り逢いを求めて、希望を持って生きて欲しいです

"友情があれば不可能も可能になる"


竹田の子守唄

この歌は、部落出身者の悲しみを唄っていたのですね
とても切ない歌ですね
私はオフコースのレコードで初めて聴いたのですけど、元となった曲を今日初めて聴きました




竹田の子守り唄 / 山本潤子


Yellow channel Japanより引用いたします

リリース 1971年(昭和46年)2月5日
規格 シングルレコード
ジャンル 民謡
フォークソング
レーベル リバティ(東芝音楽工業)
作詞・作曲 (日本民謡)
赤い鳥 A面 竹田の子守り唄 B面 翼をください

(概要)
この曲は複数の被差別部落に伝わる子供の労働歌であり、題名に「子守唄」とあるが正しくは「守り子唄」であり、子供を寝かしつけるのではなく、部落出身で子守として奉公に出され、学校へ通ったり遊んだりする余裕のない10歳前後の少女の心情が唄われている。
明治時代中期の発祥とされるが、題名にある竹田地区の住民が実際に唄っていたのは、昭和初期に10代だった世代までであった。

(唄が広まる経緯)
1964年12月(または1965年1月)、東京芸術座が公演した労演主催の舞台作品である住井すゑ原作の『橋のない川』で、尾上和彦が多泉和人(おおいずみ かずと)のペンネームで音楽を手掛けることになり、主題に即した曲を使おうとしたが、尾上は部落問題を肌で感じることができなかったため実感を得るため、別の仕事で訪れたことのある被差別部落の一つである京都市伏見区竹田地区を訪れ、当地の部落解放同盟の合唱団「はだしの子」メンバーの1人の母親から、情緒たっぷりどころかカラっと明るく唄って教えてもらった民謡を編曲して使ったものである。

尾上が採集したのがたまたま竹田地区であったため『竹田の子守唄』とされたが、それ以前は題名が付いていなかった。きちんとした楽譜もなく、1番と2番でテンポも違った唄は、子守り奉公で苦労する中にも強く暖かい人間性を内在させ、『赤いサラファン』に共通する部分も感じられ、聞かせてもらった女性の唄を尾上が解体してつくったのが今日に知られる旋律である。
唄の後半に『ロンドンデリーの歌』のような、非常に豊かな音の広がりも加えた4分の2拍子で書き上げたが、発表後に複数の関西の研究者が「この唄は自分で採譜した」と主張、これについて尾上は、唄を聞かせた女性はその後は人前で披露することはなく、彼女の唄は発表されたものよりテンポが速い16分音符でなければならないと否定している。
それが合唱団のレパートリーとなったことで、当時のフォークソングの歌手たちにも広まり、その一人が後の赤い鳥の後藤悦治郎であった。
後藤悦治郎は、関西フォークの定例コンサート「大阪労音例会」で、大塚孝彦・高田恭子のデュエットが歌唱しているのを聴き、本作を初めて知って感銘を受ける。
後藤はフーツエミールというグループのリーダーだったが、レパートリーが英語の歌ばかりなことに不満を抱いていた。後藤はこの曲に触れたことでフーツエミールを解散し、赤い鳥を新結成するに至る。
赤い鳥の結成時は持ち歌が他に『カム・アンド・ゴー・ウィズ・ミー』しかなかったが、後藤は本作の練習には力を入れるほど心から惚れ込み、デビュー作としてシングルレコードを発売、結成7か月後の1969年11月の第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで本作を歌唱してグランプリを飾った。

ご視聴ありがとうございました


カミラ・カべロ パフォーマンス映像

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カミラ・カベロの最新映像です
オリヴィア・ロドリゴの“Good 4 U”をカヴァーしたパフォーマンス映像が公開されています

これはBBCラジオ1の『ライヴ・ラウンジ』のために収録されたもの

自身の楽曲である“Don’t Go Yet”も披露しています