スティーヴ・ペリー ニュー・アルバム『The Season』より

500x500cc (1)

元ジャーニー(Journey)のヴォーカリスト、スティーヴ・ペリー(Steve Perry)のニュー・アルバムの話題をお伝え致します

クリスマス/ホリデー・アルバム『The Season』を11月5日発売するそうです
すごく嬉しい
ペリー、リリースおめでとう!!

このアルバムから「I’ll Be Home For Christmas」が公開されました



『The Season』
スティーブ ペリー
1. The Christmas Song

2. I’ll Be Home For Christmas

3. Auld Lang Syne

4. Winter Wonderland

5. What Are You Doing New Year’s Eve

6. Santa Claus Is Coming To Town

7. Silver Bells

8. Have Yourself A Merry Little Christmas

8曲, 25分
リリース日:November 5, 2021



この曲についてペリーは次のように語っています

「この曲を歌っているとき、僕は目を閉じると、突然、祖母の家のリビングルームに面したドアの前に立っている自分に気がつきました。祖母の家のクリスマスツリーの下にはいつもプレゼントが置かれていて、僕と母がツリーをキラキラさせるためにつけたティンセルで覆われていました。そのツリーが頭の中にはっきりと浮かんできて、目を開けると“あれ、僕はどこに行っていたんだろう?”と思いました」


写真と情報をamassよりお借り致しました
ご視聴ありがとうございました

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

アウシュヴィッツ生き延びた101歳の苛烈な手記

frDGCemG5kX9EBY8IrbThQ__.jpg

アウシュヴィッツ生き延びた101歳の苛烈な手記
残虐非道な強制収容所で心の支えとなった友情

2021/09/09 17:30東洋経済より引用いたします

エディ・ジェイク

アウシュヴィッツにいた被収容者の平均生存期間は7カ月だ。もしクルトがいなかったら、わたしはその半分も生きられなかっただろう。わたしが喉を痛めたときは、喉を温めて治せるよう、クルトは自分のスカーフを半分に切って、わたしにくれた。おそろいのスカーフをみて、兄弟だと思った人もいた。それほどわたしとクルトは親しかった。

 わたしたちは毎朝目を覚ますと、仕事の前に周囲を歩きながら話をし、はげまし合った。ささやかなプレゼントの隠し場所は、トイレの壁のなかだ。わたしがレンガをひとつはずせるようにしておいたのだ。ここに石けんや歯みがき粉、ぼろ布などを隠した。

 この友情と彼への感謝の気持ちは、ヒトラーがつくり出した非人道的な場所で生き抜くのに欠かせないものだった。多くの人は生きるよりもみずから命を絶つことを選んだ。それが普通になり、こんな言葉まで生まれた。「フェンスに行く」。アウシュヴィッツ第2収容所のビルケナウは、いくつかの収容所の集まりである広大なアウシュヴィッツ収容所の一部で、周囲の有刺鉄線には電気が流されていた。


人の営みの中で最もすばらしいのは愛されること

 このフェンスに触れると確実に死ねるので、ナチスに殺す喜びを与えずに自分の人生を終わらせられる。多くの人はフェンスまで走って有刺鉄線をつかんだ。わたしの親しかった友人もふたり、この方法で死んだ。ふたりは手をつないで裸でフェンスまで走った。彼らを責めることはできない。わたしだって、死んだほうがマシだと思う日がよくあった。

 だれもが寒さに凍え、体調も悪かった。わたしは何度もクルトに言った。「フェンスに行こう。生きててどうなる? 明日も苦しむだけじゃないか?」。

 クルトは首を振った。彼はわたしをフェンスに行かせようとしなかった。

 わたしがいままで学んだなかで最も重要なことはこれだ。

 「人の営みのなかで最もすばらしいのは、愛されることだ」

 特に若い人には、何度でも大声で言いたい。友情がなければ、人間は壊れてしまう。友人とは、生きていることを実感させてくれる人だ。

 アウシュヴィッツは悪夢が現実になったような、想像を絶する恐ろしい場所だった。それでもわたしが生き残れたのは、親友のクルトがいたからだ。もう1日生きのびたら、また彼に会えると思えたからだ。たったひとりでも友人がいれば、世界は新たな意味をもつ。たったひとりの友人が、自分の世界のすべてになりうる。

 友人は、分け合った食料や暖かい服や薬よりも、ずっと大切なものだ。なにより心を癒やしてくれるのは友情だ。友情があれば、不可能も可能になる。

(翻訳:金原 瑞人)


  ******************************

とても良いお話でしたのでご紹介致しました

生涯において、自分を愛してくれる人を一人見つけられたら、それは最高の幸せだと思います
今苦境に立っている人にも、その巡り逢いを求めて、希望を持って生きて欲しいです

"友情があれば不可能も可能になる"

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

竹田の子守唄

この歌は、部落出身者の悲しみを唄っていたのですね
とても切ない歌ですね
私はオフコースのレコードで初めて聴いたのですけど、元となった曲を今日初めて聴きました




竹田の子守り唄 / 山本潤子


Yellow channel Japanより引用いたします

リリース 1971年(昭和46年)2月5日
規格 シングルレコード
ジャンル 民謡
フォークソング
レーベル リバティ(東芝音楽工業)
作詞・作曲 (日本民謡)
赤い鳥 A面 竹田の子守り唄 B面 翼をください

(概要)
この曲は複数の被差別部落に伝わる子供の労働歌であり、題名に「子守唄」とあるが正しくは「守り子唄」であり、子供を寝かしつけるのではなく、部落出身で子守として奉公に出され、学校へ通ったり遊んだりする余裕のない10歳前後の少女の心情が唄われている。
明治時代中期の発祥とされるが、題名にある竹田地区の住民が実際に唄っていたのは、昭和初期に10代だった世代までであった。

(唄が広まる経緯)
1964年12月(または1965年1月)、東京芸術座が公演した労演主催の舞台作品である住井すゑ原作の『橋のない川』で、尾上和彦が多泉和人(おおいずみ かずと)のペンネームで音楽を手掛けることになり、主題に即した曲を使おうとしたが、尾上は部落問題を肌で感じることができなかったため実感を得るため、別の仕事で訪れたことのある被差別部落の一つである京都市伏見区竹田地区を訪れ、当地の部落解放同盟の合唱団「はだしの子」メンバーの1人の母親から、情緒たっぷりどころかカラっと明るく唄って教えてもらった民謡を編曲して使ったものである。

尾上が採集したのがたまたま竹田地区であったため『竹田の子守唄』とされたが、それ以前は題名が付いていなかった。きちんとした楽譜もなく、1番と2番でテンポも違った唄は、子守り奉公で苦労する中にも強く暖かい人間性を内在させ、『赤いサラファン』に共通する部分も感じられ、聞かせてもらった女性の唄を尾上が解体してつくったのが今日に知られる旋律である。
唄の後半に『ロンドンデリーの歌』のような、非常に豊かな音の広がりも加えた4分の2拍子で書き上げたが、発表後に複数の関西の研究者が「この唄は自分で採譜した」と主張、これについて尾上は、唄を聞かせた女性はその後は人前で披露することはなく、彼女の唄は発表されたものよりテンポが速い16分音符でなければならないと否定している。
それが合唱団のレパートリーとなったことで、当時のフォークソングの歌手たちにも広まり、その一人が後の赤い鳥の後藤悦治郎であった。
後藤悦治郎は、関西フォークの定例コンサート「大阪労音例会」で、大塚孝彦・高田恭子のデュエットが歌唱しているのを聴き、本作を初めて知って感銘を受ける。
後藤はフーツエミールというグループのリーダーだったが、レパートリーが英語の歌ばかりなことに不満を抱いていた。後藤はこの曲に触れたことでフーツエミールを解散し、赤い鳥を新結成するに至る。
赤い鳥の結成時は持ち歌が他に『カム・アンド・ゴー・ウィズ・ミー』しかなかったが、後藤は本作の練習には力を入れるほど心から惚れ込み、デビュー作としてシングルレコードを発売、結成7か月後の1969年11月の第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで本作を歌唱してグランプリを飾った。

ご視聴ありがとうございました

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする