<ライヴエイド>未公開パフォーマンス含む新しい映像を随時公開するなんて、嬉しい企画

1985年7月に行われたチャリティーコンサート<ライヴエイド>の嬉しい話題です

このコンサートのYouTube公式チャンネルは、ここででしか見られない新しい映像を随時公開していくと発表しています
未公開パフォーマンスや、レストア/リミックス/リマスター・ヴァージョンも含まれるとのことで、近日公開予定です

今回は、トレーラー映像が公開されています




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先日大切にしていたDVDを売却したので嬉しいです
ご視聴ありがとうございました

メタリカ

メタリカはが、米ラジオ番組『The Howard Stern Show』に出演した時の映像です

メタリカはこの番組で「Sad But True」と、
マイリー・サイラスと共に「Nothing Else Matters」を演奏しています




スティーヴ・ペリー ニュー・アルバム『The Season』より

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元ジャーニー(Journey)のヴォーカリスト、スティーヴ・ペリー(Steve Perry)のニュー・アルバムの話題をお伝え致します

クリスマス/ホリデー・アルバム『The Season』を11月5日発売するそうです
すごく嬉しい
ペリー、リリースおめでとう!!

このアルバムから「I’ll Be Home For Christmas」が公開されました



『The Season』
スティーブ ペリー
1. The Christmas Song

2. I’ll Be Home For Christmas

3. Auld Lang Syne

4. Winter Wonderland

5. What Are You Doing New Year’s Eve

6. Santa Claus Is Coming To Town

7. Silver Bells

8. Have Yourself A Merry Little Christmas

8曲, 25分
リリース日:November 5, 2021



この曲についてペリーは次のように語っています

「この曲を歌っているとき、僕は目を閉じると、突然、祖母の家のリビングルームに面したドアの前に立っている自分に気がつきました。祖母の家のクリスマスツリーの下にはいつもプレゼントが置かれていて、僕と母がツリーをキラキラさせるためにつけたティンセルで覆われていました。そのツリーが頭の中にはっきりと浮かんできて、目を開けると“あれ、僕はどこに行っていたんだろう?”と思いました」


写真と情報をamassよりお借り致しました
ご視聴ありがとうございました

アウシュヴィッツ生き延びた101歳の苛烈な手記

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アウシュヴィッツ生き延びた101歳の苛烈な手記
残虐非道な強制収容所で心の支えとなった友情

2021/09/09 17:30東洋経済より引用いたします

エディ・ジェイク

アウシュヴィッツにいた被収容者の平均生存期間は7カ月だ。もしクルトがいなかったら、わたしはその半分も生きられなかっただろう。わたしが喉を痛めたときは、喉を温めて治せるよう、クルトは自分のスカーフを半分に切って、わたしにくれた。おそろいのスカーフをみて、兄弟だと思った人もいた。それほどわたしとクルトは親しかった。

 わたしたちは毎朝目を覚ますと、仕事の前に周囲を歩きながら話をし、はげまし合った。ささやかなプレゼントの隠し場所は、トイレの壁のなかだ。わたしがレンガをひとつはずせるようにしておいたのだ。ここに石けんや歯みがき粉、ぼろ布などを隠した。

 この友情と彼への感謝の気持ちは、ヒトラーがつくり出した非人道的な場所で生き抜くのに欠かせないものだった。多くの人は生きるよりもみずから命を絶つことを選んだ。それが普通になり、こんな言葉まで生まれた。「フェンスに行く」。アウシュヴィッツ第2収容所のビルケナウは、いくつかの収容所の集まりである広大なアウシュヴィッツ収容所の一部で、周囲の有刺鉄線には電気が流されていた。


人の営みの中で最もすばらしいのは愛されること

 このフェンスに触れると確実に死ねるので、ナチスに殺す喜びを与えずに自分の人生を終わらせられる。多くの人はフェンスまで走って有刺鉄線をつかんだ。わたしの親しかった友人もふたり、この方法で死んだ。ふたりは手をつないで裸でフェンスまで走った。彼らを責めることはできない。わたしだって、死んだほうがマシだと思う日がよくあった。

 だれもが寒さに凍え、体調も悪かった。わたしは何度もクルトに言った。「フェンスに行こう。生きててどうなる? 明日も苦しむだけじゃないか?」。

 クルトは首を振った。彼はわたしをフェンスに行かせようとしなかった。

 わたしがいままで学んだなかで最も重要なことはこれだ。

 「人の営みのなかで最もすばらしいのは、愛されることだ」

 特に若い人には、何度でも大声で言いたい。友情がなければ、人間は壊れてしまう。友人とは、生きていることを実感させてくれる人だ。

 アウシュヴィッツは悪夢が現実になったような、想像を絶する恐ろしい場所だった。それでもわたしが生き残れたのは、親友のクルトがいたからだ。もう1日生きのびたら、また彼に会えると思えたからだ。たったひとりでも友人がいれば、世界は新たな意味をもつ。たったひとりの友人が、自分の世界のすべてになりうる。

 友人は、分け合った食料や暖かい服や薬よりも、ずっと大切なものだ。なにより心を癒やしてくれるのは友情だ。友情があれば、不可能も可能になる。

(翻訳:金原 瑞人)


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とても良いお話でしたのでご紹介致しました

生涯において、自分を愛してくれる人を一人見つけられたら、それは最高の幸せだと思います
今苦境に立っている人にも、その巡り逢いを求めて、希望を持って生きて欲しいです

"友情があれば不可能も可能になる"


竹田の子守唄

この歌は、部落出身者の悲しみを唄っていたのですね
とても切ない歌ですね
私はオフコースのレコードで初めて聴いたのですけど、元となった曲を今日初めて聴きました




竹田の子守り唄 / 山本潤子


Yellow channel Japanより引用いたします

リリース 1971年(昭和46年)2月5日
規格 シングルレコード
ジャンル 民謡
フォークソング
レーベル リバティ(東芝音楽工業)
作詞・作曲 (日本民謡)
赤い鳥 A面 竹田の子守り唄 B面 翼をください

(概要)
この曲は複数の被差別部落に伝わる子供の労働歌であり、題名に「子守唄」とあるが正しくは「守り子唄」であり、子供を寝かしつけるのではなく、部落出身で子守として奉公に出され、学校へ通ったり遊んだりする余裕のない10歳前後の少女の心情が唄われている。
明治時代中期の発祥とされるが、題名にある竹田地区の住民が実際に唄っていたのは、昭和初期に10代だった世代までであった。

(唄が広まる経緯)
1964年12月(または1965年1月)、東京芸術座が公演した労演主催の舞台作品である住井すゑ原作の『橋のない川』で、尾上和彦が多泉和人(おおいずみ かずと)のペンネームで音楽を手掛けることになり、主題に即した曲を使おうとしたが、尾上は部落問題を肌で感じることができなかったため実感を得るため、別の仕事で訪れたことのある被差別部落の一つである京都市伏見区竹田地区を訪れ、当地の部落解放同盟の合唱団「はだしの子」メンバーの1人の母親から、情緒たっぷりどころかカラっと明るく唄って教えてもらった民謡を編曲して使ったものである。

尾上が採集したのがたまたま竹田地区であったため『竹田の子守唄』とされたが、それ以前は題名が付いていなかった。きちんとした楽譜もなく、1番と2番でテンポも違った唄は、子守り奉公で苦労する中にも強く暖かい人間性を内在させ、『赤いサラファン』に共通する部分も感じられ、聞かせてもらった女性の唄を尾上が解体してつくったのが今日に知られる旋律である。
唄の後半に『ロンドンデリーの歌』のような、非常に豊かな音の広がりも加えた4分の2拍子で書き上げたが、発表後に複数の関西の研究者が「この唄は自分で採譜した」と主張、これについて尾上は、唄を聞かせた女性はその後は人前で披露することはなく、彼女の唄は発表されたものよりテンポが速い16分音符でなければならないと否定している。
それが合唱団のレパートリーとなったことで、当時のフォークソングの歌手たちにも広まり、その一人が後の赤い鳥の後藤悦治郎であった。
後藤悦治郎は、関西フォークの定例コンサート「大阪労音例会」で、大塚孝彦・高田恭子のデュエットが歌唱しているのを聴き、本作を初めて知って感銘を受ける。
後藤はフーツエミールというグループのリーダーだったが、レパートリーが英語の歌ばかりなことに不満を抱いていた。後藤はこの曲に触れたことでフーツエミールを解散し、赤い鳥を新結成するに至る。
赤い鳥の結成時は持ち歌が他に『カム・アンド・ゴー・ウィズ・ミー』しかなかったが、後藤は本作の練習には力を入れるほど心から惚れ込み、デビュー作としてシングルレコードを発売、結成7か月後の1969年11月の第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで本作を歌唱してグランプリを飾った。

ご視聴ありがとうございました


カミラ・カべロ パフォーマンス映像

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カミラ・カベロの最新映像です
オリヴィア・ロドリゴの“Good 4 U”をカヴァーしたパフォーマンス映像が公開されています

これはBBCラジオ1の『ライヴ・ラウンジ』のために収録されたもの

自身の楽曲である“Don’t Go Yet”も披露しています














Boston – Boston (Full Album)

今日は、Bostonが聴いてみたかったので取り上げました




「More Than a Feeling」何度聴いてもイイ曲で大好きです

Boston
作詞 / 作曲
Tom Scholz

ボストン(Boston)は、アメリカ合衆国出身のロック・バンドです
以下、Wikipediaより引用いたします

1970年代後半から1980年代にかけて隆盛した「アメリカン・プログレ・ハード(スタジアム・ロック)」の代表的グループの一つとして知られ、創設者トム・ショルツが全般を創作するプロジェクトの一面を持つ。
デビュー早々からミリオンセラーを連発し、全世界での総売り上げは7,500万枚以上を記録している。

活動期間 1976年 -


最近の活動

2013年、11年ぶりの6thアルバム『ライフ、ラブ&ホープ』を発表

2014年、35年ぶりの来日公演を開催

メンバー
現ラインナップ
トム・ショルツ (Tom Scholz) -
全楽器、ボーカル (1976年- ) ライブでは主にギター/キーボード等を担当

ギャリー・ピール (Gary Pihl)
ギター、キーボード (1985年- )

トミー・デカーロ (Tommy DeCarlo)
リードボーカル、キーボード (2008年- )

トレーシー・フェリー (Tracy Ferrie)
ベース (2012年- )

ジェフ・ニール (Jeff Neal)
ドラムス (2002年- )

ベス・コーエン (Beth Cohen)
キーボード、ギター (2002年、2012年、2015年- ) 女性プレイヤー



アルバム
『幻想飛行』 - Boston (1976年) ※全米3位 2000万枚
『ドント・ルック・バック』 - Don't Look Back (1978年) ※全米1位 800万枚
『サード・ステージ』 - Third Stage (1986年) ※全米1位 400万枚
『ウォーク・オン』 - Walk On (1994年) ※全米7位 100万枚
『グレイテスト・ヒッツ』 - Greatest Hits (1997年) ※全米47位 200万枚
『コーポレイト・アメリカ』 - Corporate America (2002年) ※全米42位 50万枚
『ライフ、ラブ&ホープ』 - Life, Love & Hope (2013年)
※注:順位はビルボード・アルバムチャート
売上枚数はRIAA(全米レコード協会)による認定枚数です

Randy California – Downer

ランディ・カリフォルニアの「Downer」で、アルバムは1972年・ソロ1st『Kapt. Kopter And The (Fabulous) Twirly Birds:Kapt、コプターと(素晴らしい)ツイリーバード』と訳してみましたが(笑)

60年代後期から活躍のアメリカのサイケデリックロックバンドのスピリットのギターリストのランディ・カリフォルニアのソロ。

けっこうアバンギャルドなパワーで、これこそサイケデリック・ハードロックと言いたい。

スピリットのランディ・カリフォルニア作の68年「Taurus:トーラス」がZEPの71年「天国への階段」の元ネタとして、裁判になっていましたが、米連保最高裁で2020年敗訴。

話題になった時、ZEPもパクり、もとい、参照あるんだと……
リッチーブラックモアがいけない、YouTubeでいらんことに、曲の元ネタ披露みたいな事していたので大御所もそれなりに、曲作りには、参照があるのかなと。簡単にバレバレになるような元ネタで(笑)

でも、ここらへんは時代の潮流かなと「トーラス」で、「天国への階段」全部には無理があるなと、イントロ争いだったようですが。


 


KAPT. KOPTER AND THE (FABULOUS) TWIRLY BIRDS


 


今回ウィキで確認したら、ランディ・カリフォルニア97年没で、訴えは2016年に遺産管理人が訴訟だったようで、曲のオリジナル争いより、お金の為?流石、訴訟天国アメリカ。

で、本日の本題(笑) ランディ・カリフォルニアのソロは、スピリットの曲より、時代を映し出す、サイケな曲、少し遅れ気味と思うけど、ハードロック風でもあり楽しめる。

本人ランディ・カリフォルニアはジミヘンに教わり、バンドの一員だったようで、このアルバムのファズ ギターが効きすぎ、ゆるせる時代だねぇと一人納得でした。

ソロ『Kapt. Kopter And The (Fabulous) Twirly Birds』はワイルドな自由奔放でサイケなハードロックでした。

と云うことで聴くと疲れますが捨て曲なし、好きな曲で

Randy California-Things yet to come




























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ボストンの創始者トム・ショルツ 

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ボストン(Boston)の創始者トム・ショルツ(Tom Scholz)は、バンドのデビュー・アルバム『Boston(邦題:幻想飛行)』の発売45周年を記念して、Apple Musicの番組『Rock Classics Radio with Jenn』に出演。「Foreplay」がボストンにとって初めて完成した楽曲であることや、「More Than A Feeling」がロック史の中でどれほどインパクトのある曲なのかを気づくのに40年かかったことについて語っています。

■「Foreplay」はボストンにとって初めて完成した楽曲であることについて

「その通りだよ。これはインストゥルメンタルなので歌はないけど、1969年(※22歳頃。マサチューセッツ工科大学在学中)に書いたものだよ。

Wurlitzerのエレクトリック・ピアノで書いたんだ。Wurlitzerのエレクトリック・ピアノを知らない人のために説明すると、実際には中に奇妙な小さな振動するリードが入っていて、すべて電気的な機械だったんだ。だから、演奏するときには、本物のピアノのように鍵盤を激しく叩くことになる。電子キーボードではなかったんだ。

僕の家は住んでいたアパートの4階にあったんだけど、宿題が終わって少しでも時間が残っていると、エレクトリック・ピアノを夢中になって演奏していた。その中に、この“Foreplay”という曲があった。宿題が終わった後、夜遅くまでやっていた。夜中の12時くらいに、この曲を叩いていた。床はフローリングで、アパートの下の階に住んでいた3人の女の子の部屋の天井と直接つながっているとは知らなかった。あの子たちは僕を嫌っていたんだろう、誰も文句を言わなかった。僕が2年後にアパートを出るとき、彼女たちは“毎晩、あなたがピアノを弾いているのを聴いていたわ”と言った。彼女たちは最高だった。神に感謝します。(もしも文句を言われていたら)僕は立ち止まっていたかもしれないから。今でも、あのピアノは僕のお気に入りの曲のひとつ。そしてありがたいことに、一度も練習しなくても覚えているものの一つなんだ」

■ボストンの「More Than A Feeling」の衝撃に気づくのに40年もかかったことについて

「人々がこの曲に夢中になるとはあまり思っていなかった。僕は6年ほど前から、素材を作ったり、スタジオを作ったり、音楽機材を作るための機器を設計したり、必要な音を作ったりと、本当に苦しい作業をしていた。その間、僕はいつもみんなに拒絶されていた。ポジティブなサポートはほとんどなかった。

好きなドラマーがいて、一緒にジャムをしたり、アイデアを出し合ったりすることはあったけど、それ以外には誰もいなくて、誰からも励ましてもらえなかった。だから、“More Than a Feeling”の最初のレコーディングをしているときは、誰も気に入ってくれないだろうと思っていた。その時には、このプロジェクトを始めてから6年ほど経っていた。僕の目標は、地元のラジオ局で曲を数回流してもらい、地元でバンドを組んでギターを弾くことで、人々に曲を知ってもらいたいということだった。

その後、“More Than A Feeling”が入った最後のデモを送った。これが最後のデモだと思って送ったんだ。それが完成したら、機材を整理しようと思っていた。僕はもうすぐ30歳になろうとしていたけど、基本的にすべての時間とお金をこの仕事に費やしていた。だから、そろそろ他のことをするべきだと思ったんだ。だから、皆がここまで気にしてくれるとは思っていなかった。

この曲が随所で耳にすることに衝撃を受けたよ。つまり、ロックを聴かない人でも、この曲を知っているということだよね。気が付いたのはいつ頃からかと言われると、本当にそうなんだけど、40年くらい後かな」






amassより写真と全文を引用いたしました
ご視聴ありがとうございました