いつだって愛おしいと思う、ジャーニーのアルバム

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いつだって愛おしいと思うジャーニーの作品
新しい曲、早く聴きたいなぁ(*^^*)

そんな恋しいジャーニーの音源です



Side 1 - Of A Lifetime 00:00
Side 1 - Topaz 06:55
Side 1 - Kohoutek 13:09
Side 2 - On A Saturday Nite (Night) 19:54
Side 2 - It's All Too Much 23:53
Side 2 - In My Lonely Feeling/Conversations 27:57
Side 2 - Mystery Mountain 32:56
Side 3 - Spaceman 37:22
Side 3 - People 41:24
Side 3 - Anyway 46:46
Side 3 - You're On Your Own 50:59
Side 4 - Look Into The Future 56:54
Side 4 - Nickel & Dime 1:05:06
Side 4 - I'm Gonna Leave You 1:09:21


コロナ禍で皆苦しいのに…こんな素晴らしいことがあるなんて!!

心温まる素敵なお話をお裾分けいたします

毎日新聞 5 月13日 配信

【医療者従事者やひとり親家庭にうな丼 月1000食、店主の思い】

名古屋市昭和区のうなぎ店が2021年1月から、長引く新型コロナウイルス感染拡大により負担が増す医療従事者やひとり親家庭などに、無償でうな丼を提供している。その数は、5月で計1000食。「うなぎを食べて元気になってもらいたい」。そこには、店主の熱い思いが込められている。【加藤沙波】

【脂っぽい?おいしい?】コロナ宿泊療養食

 この店は「うなぎ家 比呂野」で、店主の広野耕史さん(37)が10年に創業した。店内には、炭火で焼かれた三河一色産うなぎの香ばしいにおいがたちこめる。ご飯を盛った容器にタレのかかったうなぎを並べ、自慢のうな丼(2680円)が手際よく包装されていく。

 1月に、新型コロナにより医療現場が逼迫(ひっぱく)している状況に「何かやれることはないか」と、広野さんがうな丼の提供を思いついた。父の代から受け継いだ店も含め近隣で四つの飲食店を経営し、コロナ禍で一時は売り上げが半減するなど苦境に陥ったが、出前やテークアウトでしのいできた。「もらえるものはありがたいけど、うちはまだ大丈夫だから」と、時短要請に伴う協力金もうなぎの仕入れに充てることにした。

 2月までに名古屋第二赤十字病院など地元の病院5カ所に計660食を提供した。「活力が出た」「おいしかったよ」とたくさんの感謝の声が寄せられ、「そんなに喜んでもらえるとは思わなかった」と広野さん。それならばと1000食を目標に掲げ、3月に藤田医科大病院(豊明市)に140食、5月にひとり親家庭を支援する県母子寡婦福祉連合会(名古屋市北区)に200食提供することにした。

 10日には、同連合会に約80食が運び込まれ、シングルマザーらに提供された。長女(12)と2人分を受け取った同市東区の保育士の女性(40)は「毎日仕事が忙しくて疲れすぎているので、ありがたいご褒美。娘もびっくりすると思います」と笑顔を見せた。

 生まれ育った地域で店を営む広野さんは、地元への思いが強い。「自分ができることで、皆さんに喜んでもらえるのが何よりうれしい。これからも地元のために何かしていけたら」と力を込めた。

訃報 名トランペット奏者 数原晋さん『必殺シリーズ』『ルパン三世』「いい日旅立ち」「悲しみがとまらない」

皆さんも聴いたことがあると思います
この綺麗なトランペットの音色で有名な方が数原晋さんです

美しい演奏に魅了されましたね


■ 「ひまわり」



■ 角松敏生 - Toshiki Kadomatsu RAMP IN (武道館 Live 1998)


Vocal & Guitar: 角松敏生
Guitar: 浅野祥之
Bass: 青木智仁
Keybords: 小林信吾
Keybords: 友成好弘
Percussion: 田中倫明
Computer manipulator: 山田 洋
Drums: 村上ポンタ秀一
Trumpet: 数原 晋 3:56

Background Vocal: ジャッキー高橋香代子
Background Vocal: 宮浦和美


■ 「ルパン三世のテーマ'80」

YARUNARA888様の解説より引用いたします

数原 晋(かずはら すすむ、1946年9月13日 - )は、日本のトランペット奏者。
岡山県出身。
中学2年の頃、通っていた中学校にブラスバンド部が出来たことをきっかけにトランペットを始める。高校時代には1962年の岡山国体の式典でファンファーレを演奏する。
高校卒業後、一旦は楽器メーカーに就職するもすぐ退社、キャバレーのバックバンドのアルバイトで得た収入を元に国立音楽大学に進む。
北村源三に師事。
国立音大には、高校時代の後輩である吉田憲司と一緒に入学。吉田が卒業後も東京ユニオン、スタジオ、ステージで長年仕事をする。
大学入学後にプロに転向。高橋達也と東京ユニオン、宮間利之とニューハード、原信夫とシャープス&フラッツなどのビッグバンドを経てスタジオ・ミュージシャンに転じる。

スタジオ・ミュージシャンとしての活動範囲は演歌、ポップス、クラシック音楽、ジャズ、フュージョン等ジャンルを問わず、多くのミュージシャンのアルバムに参加している。現在活躍中のミュージシャンの中にも、数原の指導によりプロとしての本格的な活動のきっかけになった者も少なくない。

数多くのテレビ番組・アニメーションのBGMも手がけており、クレジットでの記載は少ないものの、耳にする機会は多い。
また、自身がリーダーとなったビッグバンド「TOKYO ENSEMBLE LAB」を結成、1988年7月21日には角松敏生をエグゼクティブプロデューサーに迎えたアルバム「Breath From The Season」を、1992年にはアルバム「SIDEWINDER」をそれぞれ発表している。1997年に発表された「Trumpet Major」では、作・編曲のみならず複数のトランペットパートを一人で多重録音している。


■ 「夜空のトランペット (Il silenzio) 」は、イタリアのトランペット奏者・作曲家である、ニニ・ロッソ(Raffaele Celeste 'Nini' Rosso, 1926年9月19日 - 1994年10月5日)の 彼の世界的なヒット曲で、イタリア、ドイツ、オーストリア、スイスでチャート1位の座を獲得し、100万枚以上を売り上げている。




素晴らしい演奏と名曲は数知れず、多過ぎてご紹介しきれませんでした
ご冥福をお祈りいたします



AC/DC – T.N.T.

AC/DCの「T.N.T. 」で、アルバムは75年『T.N.T. 』ですが、今回はオーストラリア盤で上げてあります。

日本では、76年『High Voltage:ハイ・ヴォルテージ』ですが、次作の『Dirty Deeds Done Dirt Cheap:悪事と地獄 』あたりがFENでも、かかるようになりノリノリのブギロックて、何んだ??と。

アルバムを買ったのは79年『Highway To Hell:地獄のハイウェイ』で、少し後のNWOBHM系のバンドよりは、かなりノレた。

そもそもハードロック前にUKRockではスージー・クアトロなりのグラムロック、ブギロックが中坊頃好きで興味もあり、AC/DCもリズムは同じと感じた。それがリフロックのAC/DCで、このバンドだけの音色と。


 


TNT (Reis)


 


AC/DCは、それも爆音ハードロック、すげえバンドがいる気づきでしたが、その後が80年『Back in Black:バック・イン・ブラック』のウルトラメガヒットになりますが、日本ではグンバツの評価、もの凄い人気ではなかった。

バイセクシャルの両刀使い…だろうとのバンド名の方が認知だったかも、今は違うようで。

ZEPやパープルと比較して、単アルバムでは世界的に売れているのですが、そもそもブギロック、ロックンロールのハードロックへの嗜好が日本は不足かも、好きな方には絶大な人気のようですが、小生の周りにはいなかった(笑)

コンピレ国際盤『High Voltage』との違いは『T.N.T. 』にはチャックベリーのカバー「School Days」が、入ってます。

小生的には『Back in Black』からのボーカルの元ジョーディーのブライアン・ジョンソンより、悲劇的な死のボン・スコット時期のアルバムがパワー全開で好きかも。

今回の動画に引き込まれて観てしまいました。迫力ある~とUP。

AC/DCの曲はサントラにも良く使われ、仕事がら試写でかかると、嬉しいのとやっぱり欧米では絶大な人気バンドなんだと納得でした。

と云うことでおまけは皆大好き映画04年『スクール・オブ・ロック』エンディング曲で

AC/DC - It's a Long Way to the Top (If You Wanna Rock 'n' Roll)




























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ジャーニーのアーネル・ピネダ スティーヴ・ミラー・バンドのカバー「ABRACADABRA」

ジャーニー(Journey)のシンガーであるアーネル・ピネダ(Arnel Pineda)は、スティーヴ・ミラー・バンド(Steve Miller Band)「ABRACADABRA」をカヴァーしています

パフォーマンス映像です(*^^*)
MR.BIG等で知られるベーシストのビリー・シーン(Billy Sheehan)
現ホワイトスネイク(Whitesnake)/元ナイト・レンジャー(Night Ranger)のギタリストであるジョエル・ホークストラ(Joel Hoekstra)
らも参加しています





■ABRACADABRA (Steve Miller Band Cover)

Arnel Pineda - Vocal
Joel Hoekstra - Guitar
Billy Sheehan - Bass
Van Romaine - Drums
Ollie Marland - Keys/B-vox
Lenny Castro - Percussion

めちゃくちゃカッコイイです

みんな大好きクイーンの曲

皆大好き!!
クイーン(Queen)の「Another One Bites The Dust」がSpotifyで10億回再生を突破しました

彼らの楽曲が10億回再生を突破するのは「Bohemian Rhapsody」「Don't Stop Me Now」に続いて3曲目だそうです!!


プログレハードなクィ-ン好きです
この頃の彼等も好きだなぁ~

リリース 1980年8月22日
作詞・作曲 ジョン・ディーコン
プロデュース クイーン
ラインホルト・マック(英語版)

ゴールドディスク
プラチナ(アメリカ)

チャート最高順位
7位(イギリス)
1位(アメリカ・Billboard Hot 10


■ Tie Your Mother Down (Official Video)



クイーン (英語: Queen)
イギリス・ロンドン出身のロックバンドです
1970年代前半のハードロック・ブームの中でデビューし、その後スタイルを変化させながら世界中で成功を手にした。1億7000万枚〜2億枚の音楽作品を売り上げたとされる人気のバンドです
ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」にて第3位
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」にて第52位
2001年にマイケル・ジャクソン、エアロスミスらと共にロックの殿堂入りを果たしました

音楽性
クイーンは音楽的嗜好の異なるメンバー全員が作曲に参加するため、プログレッシブ・ロック、アート・ロック、グラムロック、アリーナ・ロックなどその作風は幅広い

エレクトリック・ギターの音を多重録音することによって作られるギター・オーケストレーション
これを生み出すブライアン・メイの手製ギター「レッド・スペシャル」は、机のオークや暖炉のマホガニーを素材にメイの父親と共に製作されたものです
シンセサイザーを用いずにギター・オーケストレーションで重厚なサウンドを生み出していることを明示するため、初期の作品には「ノー・シンセサイザー」というクレジットがなされていました

マーキュリー、メイ、テイラーの3人が声を何重にも重ねることによって作られるハーモニーも、『オペラ座の夜』や『華麗なるレース』などで見られるクイーンの音楽的特徴とされている
「ボヘミアン・ラプソディ」でのオペラ風コーラスの録音では、180回ものボーカルのオーバー・ダビングを行なったことがメイによって証言されています


1991年にボーカルのフレディ・マーキュリーが死去してからも、活動は断続的に続いている。2020年時点では、ギターのブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーの2人は、ボーカルにアダム・ランバートを迎えて「クイーン+アダム・ランバート」として活動しています



Wikipediaより引用しています
ご視聴ありがとうございました

人生を語ってしまう!!

昨日は家族の前で、涙ぐんだ。

息子が夕食時、怒ってた。
母の日、息子・娘、同じケーキ屋で別々ショートとホールを買ってきた。仲が良いのか悪いのか「二人で相談ぐらいして買え」と言ってやった。

息子「そんなことじゃねえ。映画館は休止のまま劇場は再開、なんで映画がダメで劇はいいんだ、わけわけんねえ」

俺「緊急事態延長でも50%で5000人以下なら再開、上映でしょう」

息子「違う。映画館は休止… そうなんだよ」

俺「違う、演劇も映画も劇空間で観るモノ。換気して座席空けて営業すればいい、半分でも、稼働率は下がるけど」

息子「違う、この国はおかしい。なんも考えてない」

直ぐパソコンで、調べると……絶句!!!!!!!!!!
俺「えーーーーーーーーーーーなんでなんで、演劇と映画は劇場で演るもの」と言葉が続かなく。

悔し泣き、自然に涙がこぼれた
お世話になった方々、後輩達、大変。

開けても一極集中でなくオールジャンルの映画にお客様が、昔のように戻るには時間がかかると思っていたのに…この国には、ほんとバカがいる寒気すら覚えた。

映画は文化と自負が…映画興行が仕事だった私には、映画館は基点・起点・原点。
映画は制作・配給宣伝・興行で成り立つもの、出口で止めると文化が止まる。

例年なら映画祭・自主上映含めると年間500本以上の作品が公開されていたと思うが、昨年は何本だったろうか?調べてもいない。
コロナ禍で名作・ヒット作のリバイバル・再上映で、新作の公開延期をうながったが。

今はネットフリックス・アマゾンプライム等のサブスクで自宅で手軽にビデオとして映画が観れるが、その感動の源泉とは?

映画・映像文化の源泉は太古、星空の下で火を囲み、神話・昔話・云い伝え・恐怖・楽しい・不思議な体験を語り、人々は物語を楽しみ教えとし、生き抜くための希望がエンタメの源泉。

その源泉が映画・演劇・落語・音楽・美術に芸術に宿ってる、物語語りは人間の本意・DNA。

映画館とは、人々が同一空間で驚き・泣き・息遣いで感動が倍加される。いや10万倍かも。タイタニックでディカプリオで海に沈むシーンで、場内がお通夜のような空間にむせび泣く…このような体験をいろいろな映画でなんどもしている、泣き・笑い・恐怖・関心の共振が、人々の繋がり見ず知らずの人間の繋がりが、感動を倍加させるDNAの器。

今回の緊急事態宣言下で、映画館が休止で演劇場の再開の不合理性、何と浅学。演劇はネット配信が一部では可能で、困難なかで光明もあるが。
映画館は休止とは文化を止める事と同等と思わない、気にもしない輩が施政の中にいる、責任者は知事なの?国なの? 整合性、科学的根拠と問いたい気は、はなから無いが!

さもありん、これでワクチン、ほんとは治療薬開発、そしてオリンピック、この浅学で、管理できるのかと?と語ってしまう!!


 


今はまだ人生を語らず [12" Analog LP Record]


 


曲は吉田拓郎のアルバム74年『今はまだ人生を語らず』の「人生を語らず」です。
ブログを書く時に浮かびました、超えていけ の歌詞に痺れました。「人生を語らず」は人生の応援歌と思う、反語にとれるかも、名盤ですね。

ただ昔のアルバムにあった「ペニーレインでバーボン」が今のアルバムには無いようで、差別用語は難しいですが、時代変移は判りますが、原典は尊重して欲しいなとの思い。

私の映画・映像の原典のウルトラセブンの第12話「遊星より愛をこめて」とか怪奇大作戦の第24話『狂鬼人間』とかの自主規制は退化だと思うのですが。































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イングヴェイ・マルムスティーンの新曲

おはようございます(^_^)
今日は、ブログで仲良くして貰っているギターマジシャン様が喜びそうな、ギター速弾きのマルムスティーンのご紹介です(*^^*)

Wikipediaによると、本名:Lars Johan Yngve Lannerbäck(ラーズ・ヨハン・イングヴェイ・ランネルバック)
1963年6月30日ストックホルムで誕生
スウェーデンのミュージシャン、ギタリスト、作曲家、マルチプレイヤー
ロック・ギターにクラシック音楽の要素を盛り込み、驚異的な速弾きでギター奏法に大革命をもたらした人です

担当楽器
ギター
ベース
キーボード

シタール
チェロ

活動期間 1983年 ~


イングヴェイ・マルムスティーン(Yngwie Malmsteen)が新スタジオ・アルバム『Parabellum』を海外で7月23日、日本で7月24日にリリースします
CD、限定CDボックス、アナログレコード(カラーヴァイナル)、デジタルでリリースされます



イングヴェイは新アルバムについて、3月に出演したSiriusXMのラジオ番組『Trunk Nation With Eddie Trunk』の中で話をしています。

新型コロナウイルスが世界的に流行している時期に、新しいスタジオ・アルバムをどのようにして制作したのかについてイングヴェイは次のように語っています。

「ここ数年、少なくとも10年、15年くらいは、レコードを作っていたが、ツアーに出て、スタジオに1週間くらい入って、それから、またツアーに出るという感じだった。これは悪いことではなく、実際にはとても良いことなんだ。でも、ここまで集中したのは『Trilogy』以来だと思う。レコーディングだけでなく、ソングライティングもそうだ。曲を書くプロセス、アレンジ、すべてにおいて。その方向に完全に夢中になった。みんな俺のことをクラシカルなことで知っているが、これはまさにそれだ。みんなの反応を見てみたいと思うが、俺は少し離れてから、つい先日聴いた。かなり過激だ。これまで以上に速くなり、あらゆるものがある...」

「とても楽しんでいるよ。作り方が少し違うのだと思う。作曲や録音、アレンジなどに非常に長い時間をかけて没頭していたので、最終的には少し違うものになるのではないかと思う。でも、誰もがそれが誰の作品なのか分かるだろう。ブルースのようなものはない、もちろん俺は大好きだけどね。でも、これはみんなが知っているマルムスティーン風のクラシカルなものだけど、これまでよりも少しだけ過激になっているかもしれない(笑)」

またイングウェイは新作でもリード・ヴォーカルを担当していると言います。

「もっとメロディックなものを歌っているよ。ハーモニーとかそういうのが多いんだ。バラードもある。これには満足している。ほとんどがインストゥルメンタルで、ヴォーカルが入っているのは4曲だけだ。でも、このアルバムは...何と比較していいのかわからないけど、かなり過激なんだ。ダブルベースのドラムと速いクラシカルの曲がずっと続くんだ。かなりばかげている」

■『Parabellum』

01.Wolves At The Door
02.Presto Vivace in C# minor
03.Relentless Fury
04.(Si Vis Pacem) Parabellum
05.Eternal Bliss
06.Toccata
07.God Particle
08.Magic Bullet
09.(Fight)The Good Fight
10.Sea Of Tranquility


ご視聴ありがとうございました
文章は、amassより引用しています

日本独自の編集『ニュー・ベスト』 と、その後の彼等の活動について

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『ニュー・ベスト』は、1976年に日本独自編集で発表されたベイ・シティ・ローラーズのコンピレーション・アルバムです。
1976年8月20日に、アリスタ・レコードのレーベルで、東芝EMIから日本だけにリリースされています。

ジャケットや帯に英字で「Rock and Roll Love Letter」と記されているため、北米市場向けに編集された同じく1976年のコンピレーション・アルバム『ロックン・ロール・ラブレター (Rock n' Roll Love Letter)』と混同されることがありますが、内容は大きく異なっており、全く別のアルバムです。

ベイ・シティ・ローラーズが初来日した1976年12月以降に売れ行きが伸び、オリコン週間LPチャートでは、1977年1月31日付から2月14日付まで3週にわたって首位に立ったアルバムです。

取り上げられた楽曲は、
『エジンバラの騎士 (Rollin')』(1974年)から4曲(A3、A6、B1、B5)
『噂のベイ・シティ・ローラーズ (Once Upon a Star)』(1975年)から3曲(A5、B2、B4、B7)
『青春のアイドル (Wouldn't You Like It?)』(1975年)から2曲(A2、A4)
『青春に捧げるメロディー (Dedication)』(1976年)から2曲(A1、A7)
アルバム未収録シングル曲2曲(B2、B6)

ジャケット写真は、イアン・ミッチェル在籍時のものです。



トラックリスト
A面
1. ロックン・ロール・ラブレター
"Rock and Roll Love Letter"
(Tim Moore)



2. 恋をちょっぴり
"Give a Little Love"
(Phil Wainman, Johnny Goodison)



3. ベイ・シティ・ローラーズのテーマ
"Shang-a-Lang"
(Bill Martin, Phil Coulter)



4. ダンスはゴキゲン
"I Only Wanna Dance With You"
(Eric Faulkner, Stuart Wood)



5. エンジェル・ベイビー
"Angel Baby"
(Faulkner, Wood)



6. 太陽の中の恋
"Summerlove Sensation"
(Martin, Coulter)



7. マネー・ハニー
"Money Honey"
(Faulkner, Wood)



B面
1. サタデー・ナイト
"Saturday Night"
(Martin, Coulter)



2. ラブ・ミー・ライク・アイ・ラブ・ユー
"Love Me Like I Love You"
(Faulkner, Wood)



3. ひとりぼっちの十代
"My Teenage Heart"
(Faulkner, Wood)



4. 朝まで踊ろう
"Keep On Dancing"
(Young)



5. 想い出に口づけ
"Remember (Sha La La La)"
(Martin, Coulter)



6. 明日に恋しよう
"All Of Me Loves All Of You"
(Martin, Coulter)



7. バイ・バイ・ベイビー
"Bye, Bye, Baby"
(Bob Gaudio, Bob Crewe)



ベイ・シティ・ローラーズの特集を組んで主な楽曲やアルバムをご紹介させていただきました
お付き合いいただき、ありがとうございましたm(__)m

音楽には多岐にわたってジャンルがございます
皆様が心地良い音楽と出会えますように…

私もこれからも音楽に親しみたいですし、芸術的な音楽との出会いを心待ちにしています

最後に、メンバーのその後について記しておきます


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■ エリック・フォークナー
(Eric Faulkner、本名:エリック・ファルコナー、Eric Falconer)
ギタリスト、ソングライター、歌手として活躍しています。

1953年10月21日、スコットランド、エディンバラにあるエディンバラ王立診療所(英語版)で生まれています。
幼い頃からヴィオラの演奏を学び、子どもオーケストラで演奏したこともあった。そのほかにもヴァイオリン、マンドリン、ベース、キーボードを演奏します。高等学校は、エディンバラのリバートン高等学校(英語版)に学んでいます。

KIP(旧名 Sugar)というグループで活動した後、1972年にベイ・シティ・ローラーズにギタリストとして加わりました。彼はその後、ローラーズが存続した1980年代までメンバーでした。
彼はローラーズが録音した楽曲の過半数において共作者に名を連ねました。その中には、いずれもスチュアート・ウッドとの共作で、全英シングルチャートでヒットした「マネー・ハニー」や「ラブ・ミー・ライク・アイ・ラブ・ユー」も含まれています。

1976年、ローラーズの全盛期に、フォークナーは睡眠薬の過剰摂取による自殺未遂騒ぎを起こし、メディアに大きく取り上げられています。ベイ・シティ・ローラーズのマネージャーだったタム・ペイトンはこの一件を宣伝に利用しようとして、救急を呼ぶより先にメディアに電話をかけたとも言われています。フォークナー自身は一貫して、これは自殺未遂ではなく、事故であったとしています。

フォークナーは、他の5人の元ベイ・シティ・ローラーズのメンバーたちとともに、契約上の不正によってロイヤルティーの支払いを怠っているとして、2007年にアリスタ・レコードを訴えました。

長年にわたって、彼はエリック・フォークナーズ・ベイ・シティ・ローラーズ (Eric Faulkner's Bay City Rollers) を名乗って、往年のローラーズの楽曲をレベリオン・フェスティバル(英語版)やリヴァプール国際音楽祭(英語版)など各地のフェスティバルで演奏し続けていました。

2015年2月、ウイルス性脳炎に感染したフォークナーは、一時的に重篤な状態に陥っています。当初は、順調に回復しつつあるようにも見られましたが、後遺症が残り、2015年8月以降は公の場での演奏は行わなくなっていました。その後、病状は回復し、2017年には、新曲を書き、録音しています。

2018年夏、フォークナーはステージに復帰し、8月の the Heart of Hawick Music Festival に出演しました。


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■ スチュアート・ウッディ・ウッド
(Stuart John Wood、1957年2月25日 - )
スコットランドのミュージシャン、ソングライター、音楽プロデューサー

1974年にベイ・シティ・ローラーズに参加し、当初はリズムギター担当であったが、1976年にベースのアラン・ロングミュアーが脱退した後、ベースに転向しました。

ベイ・シティ・ローラーズが全盛期を過ぎ、活動休止となった後も、ウッドは様々な再結成の機会にしばしば参加しており、2015年から2016年にかけては、レスリー・マッコーエン、アラン・ロングミュアーとともに、ベイ・シティ・ローラーズ名義でイギリス各地で公演をおこない、注目されました。

その後も彼は、自らが率いる新世代のベイ・シティ・ローラーズと世界をツアーし続けており、2018年には来日公演も行いました。また音楽産業の裏方として、自ら設立した The Music Kitchen を通した音楽プロデューサーとしての活動もしています。2020年現在では、彼自身と3人のメンバーから成る Rollers というバンドでギターを演奏しています。


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■ デレク・ロングミュアー
(Derek Longmuir、1951年3月19日 - )
スコットランドのエディンバラ出身の元ドラマー、1970年代のポップ・グループであったベイ・シティ・ローラーズの結成時からのメンバー。彼の兄アラン・ロングミュアーは、このグループでベースを弾いていた。

1980年代半ば以降は、看護師として働くようになっており、後述の不祥事の時点ではエディンバラ王立診療所で働いていました。その後も看護師として働き、ベイ・シティ・ローラーズ再結成の動きには関わっていません。

不祥事
1999年8月、ロングミュアーの自宅を強制捜査した警察は、多数の児童ポルノ動画などを押収。

2000年、ロングミュアーは、児童ポルノ所持の罪で、300時間のコミュニティ奉仕の判決を受けました。
判決文によると、彼は働いていた診療所から解雇されたというが、後に看護師登録は再認定されました。彼は裁判で有罪を認めたが、違法なポルノ自体は自分のものではなく、知人が置いていったものだという主張を貫いた。ロングミュアーによれば、有罪を認めたのは、「メディア・サーカス(英語版)」状態を避けたかったからだったということです。

2000年5月7日の『サンデー・ヘラルド (Sunday Herald)』紙のインタビューで、ロングミュアーの養子ホルヘ・ローレイロ (Jorge Loureiro) が語ったところによると、ロングミュアーは無実であり、この件は友人であった偏執的なアメリカ人のファンがでっち上げたもので、問題のディスクは、彼が逮捕される数日前に匿名で送られたものだったという。


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■ パット・マッグリン
(Patrick James McGlynn、1958年3月31日 - )
スコットランドのエディンバラ出身の元ベイ・シティ・ローラーズのメンバーで、おもにリズムギターを担当。ベイ・シティ・ローラーズ脱退後には、自らのバンド、パット・マッグリンとスコッティーズ(Pat McGlynn's Scotties)でもヒットを出しました。

1977年5月にベイ・シティ・ローラーズを離れたマッグリンは、自分のバンドであるパット・マッグリンとスコッティーズ (Pat McGlynn's Scotties) を率いて活動。同年秋には英語原題ではセルフタイトルのデビュー・アルバム『パット・デビュー! あの娘はアイドル (Pat McGlynn's Scotties)』を出し、シングル「あの娘はアイドル (She'd Rather Be With Me)」をイギリスと日本でヒットさせ、大規模な来日公演も成功させています。

1980年代以降、ときおり企画されるベイ・シティ・ローラーズの再結成にしばしば参加しています。

2003年、かつてベイ・シティ・ローラーズのマネージャーだったタム・ペイトンを、1977年にホテルの一室で自分に性的暴行を加えようとしたとして訴えています。
しかし、警察は、ペイトンを訴追できるだけの十分な証拠はないとする決定を下しています。ペイトンには以前にも、未成年の少年に対する淫行を理由に逮捕された前歴があります。

2005年5月、かつてのローラーズのリード・シンガーだったレスリー・マッコーエンとともに、薬物関係の嫌疑で逮捕されましたが、後にその嫌疑は晴れています。

2009年には、過去のソロアルバム全5作が初めてCD化されたのを機に、23年ぶりの日本公演が行われました。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◆◇◆◇

マネージャー
"タム"・ペイトン(Thomas Dougal "Tam" Paton、1938年8月5日 - 2009年4月8日)
ポップ・グループのマネージャーで、特にスコットランドのボーイズ・バンドであるベイ・シティ・ローラーズのマネージャーとして知られる。
ボーカリストのレスリー・マッコーエンは後に、ペイトンはバンドのメンバーたちに薬物をやらせたと語り、「僕たちがちょっとばかり疲れていると、アンフェタミンを与えられた」としている。2005年時点の回顧で、マッコーエンは、「彼は僕たちを眠らせないように、スピードとかブラック・ボンバーを与えた。最後はもうお互いにいかにバカげた薬をやっているかを自慢し合っているような状態になってた」と述べている。

1970年代後半には、ペイトンはロゼッタ・ストーン(英語版)のマネージャーを務め、そのギタリストだったポール・ラーウィル (Paul Lerwill)、後のグレゴリー・グレイ(英語版)と恋愛関係にあった。

1982年、ペイトンは、当時、合意に基づく行為が合法とされていた21歳に満たない、16歳と17歳の十代の少年ふたりに対する性犯罪で有罪を宣告され、3年の懲役刑となり、1年間実際に服役した。当時、ゲイの性行為に関する合意が成立する年齢は、ストレート(異性愛)の性行為の場合の16歳よりも高かった。この不均等は2001年まで残っていた。

2003年1月には児童性的虐待により逮捕されたが、この疑いは後に晴れた。2004年4月、ペイトンは大麻を提供した罪で20万ポンドの罰金を課された。2003年には、1977年にあるホテルで、当時ベイ・シティ・ローラーズのギタリストだったパット・マッグリンを強姦しようとした、として告発された。警察当局は、証拠不十分として起訴しなかった。

2009年4月8日、ペイトンはエディンバラの自宅で、おそらくは心筋梗塞により70歳で死去した。
ペイトンは、ゲイであることを公言していた。



参考資料は、Wikipediaより引用しています
ご視聴ありがとうございました