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Little River Band「The Night Owls」|オーストラリアから夜のAOR

Little River Bandの「The Night Owls」は、1981年リリースの7作目のアルバム

『Time Exposure:光ある時を』からのシングルですね。

 

リトル・リバー・バンド、ブログするまでオーストラリアのバンドとはしっかり忘れていたけど、米ウェストコーストとずっと思い込んでいたけど。70年代末から80年代、オーストラリアのミュージシャンは人気ありました。

オリビア・ニュートン=ジョン、ビージーズ(英出)AC/DC 、INXS (インエクセス)、

メン・アット・ワーク、ミッドナイト・オイル、クラウド・ハウス たくさんいました。

 

で、リトル・リバー・バンドの「The Night Owls」は、80年代AORの到達点、を示す楽曲になるかなと。

前作『Backstage Pass』の成功から1年、MTVが台頭し始めた80年代初頭、このアルバムは、

オーストラリア出身のバンドがアメリカでウケた。そして日本でも伝わった成熟した証。
グレン・ショロック(ボーカル)
ベオン・リーフソン(ギター)
デヴィッド・ブライズ(ギター)
ジョージ・マカラエ(ギター)
ウェイン・ネルソン(ベース)
デレク・ペレア(ドラムス)

リリース年:1981年
収録アルバム:Time Exposure
最高順位:6位(Billboard Hot 100)
プロデューサー:George Martin(ジョージ・マーティン)
録音スタジオ:AIR Studios Montserrat

Little River Band Time Exposure アルバムジャケット

 

Time Exposure (Remastered 2022)

――このラインナップによる、都会的なサウンドを持った作品と思う。

夜の都市を泳ぐように聴く一枚――『Time Exposure』"夜型人間のためのAOR"というか、

ニュー・ウェイヴに対極するようなPOPありました。

「The Night Owls」という曲

「The Night Owls」はアルバムからの先行シングルとして発表され、
Billboard Hot 100で6位を記録。これがリトル・リバー・バンド最後のトップ10ヒットとなった。

シンセとギターの絡みは、過度に主張せず、ただそこに"在る"。

前作までのキャピトル・スタジオでの録音から一転、『Time Exposure』はカリブ海の孤島、

モンセラットにあるAIR Studiosで録音された。

プロデューサーは、ビートルズを手がけたジョージ・マーティン。

 

リトル・リバー・バンドが70年代に培ってきたコーラスの緻密さを残しつつ、
80年代的な音の明瞭さ──クリアなギター、抑制されたシンセ──を加えたのは、
間違いなくマーティン、やっぱりビートルズの育ちには耳に残る。

孤島ならではの制約が、音楽的な集中力を生んだと思う。

「Take It Easy on Me」と「Man on Your Mind」の配置

そこに「Take It Easy on Me」(Billboard Hot 100で10位)のような親しみやすいメロウさと、
「Man on Your Mind」(同14位)の軽快さもあり、明るめと夜の対比。

"聴き流し"に生活の中で何度も再生される音楽になる。


いかにもAOR全盛期らしい洗練がある。それが、「The Night Owls」つながる。

 

このアルバムが出た1981年は、AORが"ジャンル"として完全に確立した時期。
アメリカ的な都市感覚を巧みに取り込んだ。その意味で、『Time Exposure』は
"外から見た80年代アメリカ"の鏡像かも。

 

FMラジオが"文化"だった時代

このアルバムが「どう聴かれていたか」という問題、たぶん買わずレンタルだったとか

カセットテープに録音、もしくは友人に借りたか。

 

1981年、FMラジオはまだ"文化"だった。ここで音楽をしった。夜に聴く番組があった。

クロスオーバーイレブンとか家にいる限り聴いた。タイマーして録音もした。

 

選曲と語り、深夜という時間帯──
すべてが、音楽をただの"楽曲の集合"ではなく、一つの体験だった。

 

『Time Exposure』は、FM向きに、輝く種類のアルバム。

「生活といしょの音楽」は配信がなくても、ラジオがあった。

 

と云うことでおまけは同アルバムから

 

Little River Band - Take It Easy On Me 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロックはここから始まった!

 

 

 

 

 

4500頁、15年の熱量を、今の視点で削り出す。
 【再編集2026】プロジェクト始動。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ビートルズ編④「ポール死亡説」の真実、1975年100円のLIFE誌が教えてくれた

ビートルズ編④ 「ポール死亡説」の真実、1975年100円のLIFE誌が教えてくれた 
 

 

古本屋で見つけた真実――ビートルズの「解散」の兆し

________________

日立の街で手にした自由、そして運命の2300円

 

1975年、中学3年。茨城県で当時最も人口の多かった日立市へ、田舎から転居した。
三度目の転校。またひとりぼっち。
だが、今度は違った。日立には、映画館があった。レコード店があった。古本屋があった。
ひとりで、好きな場所へ行ける自由。
親の目を気にせず、土曜の午後、古本屋の埃っぽい棚を物色する時間。

それは、転校を繰り返した少年にとって、初めて手にした「解放感」だった。
そしてある日、私は人生を変える買い物をする。
________________

お年玉で買った『ビートルズ事典』――2200円

中学生にとって、2200円は大金だった。
だが、どうしても欲しかった。『ビートルズ事典』。
お年玉を握りしめ、書店へ向かった。分厚い事典を開くと、                               そこには知らなかったビートルズの歴史が詰まっていた。
そして、その中に**「ポール死亡説」**の記述を見つける。

* 1966年、ポールは交通事故で死亡した?
* 現在のポールは「ウィリアム・キャンベル」という替え玉?
* アルバム『アビイ・ロード』のジャケットには暗号が隠されている
アビーロード交差点を渡るビートルズ

裸足のポールは「死体」。背景のワーゲンのナンバープレート「28IF」は

「もし生きていれば28歳」。
中学生の私は、この「謎解き」に完全に魅了された。
ロック・POP音楽の話題で、新たな友人たちに得意げに語った。

孤独から逃れるために、得意げに。まるで、自分だけが真実を知っているような気分で。

________________

古本屋で見つけた決定的証拠――100円の『LIFE』誌

そして数週間後、いつもの古本屋で運命の1冊に出会う。
『LIFE』誌(1969年11月7日号)
表紙には、ポール・マッカートニーの顔。
「これだ!」
事典に書いてあった、あの伝説の雑誌。

ポール本人が「死亡説」に反論した記事が載っている号。
値札を見る。
100円。
2200円の事典を買った直後だったが、迷いはなかった。
わずか100円で、決定的証拠が手に入る。
家に帰る道のりは、まるで宝物を手に入れた冒険者のような高揚感に包まれていた。
なかなか買えないLPアルバムより、このお宝を手に入れた興奮は、今もしっかり覚えている。
________________
 

「ポール死亡説」の熱狂――裸足のポールと28IF

事典に書いてあった「証拠」を、私は直ぐ覚えた。

 

* ジャケットで裸足のポールは「死体」を意味する
* 背景のワーゲンのナンバープレート「28IF」は「もし生きていれば28歳」
* ポールだけ目を閉じている写真がある
* 逆再生すると「ポールは死んだ」と聞こえる
* 『サージェント・ペパーズ』のジャケットには墓がある
ビートルズ『サージェント・ペパーズ』ジャケット

友人たちと、夢中で語り合った。
「ポールの左手がタバコを持ってるのは、葬儀の習慣だ」
「ジョンは牧師の白い服を着てる」
「リンゴは葬儀屋の黒い服だ」
そして今、手元には本物の『LIFE』誌がある。
英語なんて読めない。辞書を引いても歯が立たない。
それでも、この雑誌には「真実」が載っているはずだった。

________________

雑誌に写っていた「真実」

ページをめくる。
そこに写っていたのは、スコットランドの農場で家族と暮らすポール・マッカートニーだった。
妻リンダと幼い子どもたち。羊の群れ。静かな田園風景。

英語は読めなかった。でも、写真から伝わってくる「何か」があった。
怒り。拒絶。そして、疲労。
ポール死亡説の真実 LIFE誌 1969年---**解説:**ブログの主要キーワードは「ポール死亡説」、「ビートルズ」、「LIFE誌」、「1969年」です。画像は「LIFE」誌の1969年11月24日号の表紙であり、ポール・マッカートニーと家族が写っています。「Paul is still with us」という見出しは、ポール死亡説に言及しています。これらの要素を組み合わせ、30文字以内でSEO効果の高いALTテキストを生成しました。「ポール死亡説の真実」はブログのテーマであり、画像の内容(LIFE誌、1969年)と合致しています。

「私は死んでいない」――そう語るポールの目には、どこか諦めにも似た静けさがあった。
当時の私は、それを「死亡説の否定」として受け取った。
「ほら、ポールは生きてるじゃないか!」
私は「真実」を手に入れた。
だが、本当の意味を理解したのは、何十年も経ってからだった。
_______________

2026年の視点――それは「解散宣言」だった


映画宣伝のプロとして働いていた者として、あの記事を振り返ると、別の意味が見えてくる。
あれは、事実上の解散宣言だった。
ポールは、ビートルズから逃れるために、スコットランドの果てに隠れ住んでいた。
「もうバンドには戻らない」
その意思を、彼は言葉ではなく、水を浴びせる行為で示していた。
当時のファンは、それを「死亡説の否定」として喜んだ。
だが実際には、ビートルズという存在の死の兆しだった。
________________

 

プロの視点:「死亡説」というパブリシティの皮肉

 

今思えば、あの「ポール死亡説」騒動は、結果的に凄まじいパブリシティ効果を生んだ。
アルバム『アビイ・ロード』は、全米チャート1位を記録。
「謎解き」に夢中になったファンは、何度もレコードを買い、ジャケットを凝視し、逆再生を試みたという。
意図しない形で、ビートルズは「終わり」を演出していた。
そして、その仕掛けに乗せられた中学3年の少年がいた。
 

私は「ビートルズの終わり」で、孤独から逃れ、音楽好きの友達ができた。
________________
 

写真が語っていたもの――家族との平穏と、失われたバンド

英語が読めなかった少年時代、私は写真から「何か」を感じ取っていた。
ポールの目力。家族と過ごす平穏な時間。そして、どこか寂しげな表情。
あれは、バンドの崩壊と引き換えに得た、新しい人生だった。
ジョン・レノンは、ヨーコとニューヨークへ。
ジョージ・ハリスンは、ソロ活動へ。
リンゴ・スターは、俳優業へ。
そして、ポールは、家族とスコットランドへ。
4人は、もう同じ場所には戻れなかった。
________________

結び:2300円が教えてくれたこと
 

1975年、日立の街。
2200円の『ビートルズ事典』で「謎」を知り、100円の『LIFE』誌で「真実」を見た。
英語が読めなかった少年には、その意味が分からなかった。
でも、写真から感じた「得体の知れない真実」は、今も心に残っている。
ポールは生きていた。
でも、ビートルズは解散していた。
私の中で本当の「終わり」を実感したのは、1970年の解散発表ではなく、
あの100円の雑誌を手にした、1975年の冬だった。
________________
編集後記
中学生だった私は、2300円でほんとの「ビートルズの終わり」を知りました。
 

次回⑤では、『アビイ・ロード』語りたいです。これも皆さん思い出いっぱいのアルバム。
 あの「終焉の音楽」が、なぜ今も色褪せないのか。私も思い出もいっぱいです。



ロックはここから始まった!

 

 

 

 

気になった記事から、読み進めていただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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The Cars『You Are the Girl』|終わりの始まりを告げた1987年

The Cars:カーズの「You Are the Girl:ユー・アー・ザ・ガール」は、1987年リリースの6作目のアルバム『Door to Doo:ドア・トゥ・ドア』ですね。

 

The Carsの「You Are the Girl」は、80年代ニューウェイヴの終盤を象徴する楽曲のひとつ。

 

前作『Heartbeat City』の大ヒットの成功から3年、MTVとシンセの80年代も、

そろそろ終盤に差しかかっていた頃。このアルバムは結果的に、
リック・オケイセック、
ベンジャミン・オール、
エリオット・イーストン、
グレッグ・ホーキス、
デヴィッド・ロビンソン
――オリジナル・メンバーによる最後のスタジオ作品。

 

リリース年:1987年
  収録アルバム:Door to Door
  最高順位:17位(Billboard Hot 100)
  作詞作曲:Rick Ocasek
  ボーカル:Rick Ocasek & Benjamin Orr

The Cars Door to Door アルバムジャケット

ドア・トゥ・ドア(紙ジャケット/SHM-CD) - ザ・カーズ

 

翌1988年の解散を考えれば、「終わりの始まり」?
少なくとも私は、「まだカーズは続く」と思っていた。

「You Are the Girl」という曲

「You Are the Girl」はアルバムからのリード・シングルとして発表され、
Billboard Hot 100で17位を記録。結果的に、これがThe Cars最後のトップ40ヒットとなった。

 

この曲の肝は、やはりボーカルだろう。
作詞作曲はリック・オケイセックだが、

歌はリックとベンジャミン・オールのツイン・ボーカルで進んでいく。

少し突き放すようなリックの声。
そこに重なる、ベンの丸みを帯びた大人の声。
この対比があるからこそ、The Carsは「ただのニューウェイヴ・バンド」でない、未だに聴く。

サビは相変わらずのリック節、声が合う、

何故、YESのジョン・アンダーソンが合わないか、ずーと判らん(笑)
 

ひねくれているのに、きちんとポップ。
80年代後半らしい洗練はあるが、芯はちゃんと“カーズ”のままだ。

『Door to Door』の音作り

前作『Heartbeat City』は、サンプリングや打ち込みを前面に押し出したシンセ・ポップ路線。
商業的にはこれ以上ない成功を収めた。

ただし、その反動もあった。あまりの打ち込み中心の制作に、
デヴィッド・ロビンソンが疎外感を抱いていたと。

 

この『Door to Door』では、その流れを少し巻き戻している。
スタジオで実際に叩かれる生ドラム。
メンバーが同じ空間で音を出す、バンドらしい制作スタイルへの回帰。

チャート成績は最高26位と控えめだが、音を聴けばわかる。
 

これは間違いなくThe Carsのアルバムだ。

リック・オケイセックの美意識も、
少し屈折したポップ感覚も、失われてはいない。

そして、ベンジャミン・オールが2000年に亡くなった今、
彼が参加した最後のアルバムとして聴くと、どうしても一抹の感慨が残る。

同作からの2ndシングル、「Strap Me In」も忘れがたい。

 

ロックチャート4位を記録し、MVも制作されたこの曲には、
いかにもMTV全盛期らしい勢いがある。

一方で、ベンの甘いボーカルを堪能するなら
「Coming Up You」も良い。
 

が、アルバム全体の“最後の踏ん張り”を象徴するのは、
「Strap Me In」かな?と思う。

と云うことでおまけは同アルバムから

The Cars-Strap Me In
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4500頁、15年の熱量を、今の視点で削り出す。
 【再編集2026】プロジェクト始動。

 

ロック前

 

 

 

 

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The Cars – You Are the Girl

The Cars:カーズの「You Are the Girl:ユー・アー・ザ・ガール」は、1987年リリースの6作目のアルバム『Door to Doo:ドア・トゥ・ドア』ですね。

 

前作『Heartbeat City』の大ヒットの成功から3年、MTVとシンセの80年代も、

そろそろ終盤に差しかかっていた頃。このアルバムは結果的に、
リック・オケイセック、
ベンジャミン・オール、
エリオット・イーストン、
グレッグ・ホーキス、
デヴィッド・ロビンソン
――オリジナル・メンバーによる最後のスタジオ作品。

 

 

The Cars Door to Door アルバムジャケット

ドア・トゥ・ドア(紙ジャケット/SHM-CD) - ザ・カーズ

 

翌1988年の解散を考えれば、「終わりの始まり」?
少なくとも私は、「まだカーズは続く」と思っていた。

「You Are the Girl」という曲

「You Are the Girl」はアルバムからのリード・シングルとして発表され、
Billboard Hot 100で17位を記録。結果的に、これがThe Cars最後のトップ40ヒットとなった。

 

この曲の肝は、やはりボーカルだろう。
作詞作曲はリック・オケイセックだが、

歌はリックとベンジャミン・オールのツイン・ボーカルで進んでいく。

少し突き放すようなリックの声。
そこに重なる、ベンの丸みを帯びた大人の声。
この対比があるからこそ、The Carsは「ただのニューウェイヴ・バンド」でない、未だに聴く。

サビは相変わらずのリック節、声が合う、

何故、YESのジョン・アンダーソンが合わないか、ずーと判らん(笑)
 

ひねくれているのに、きちんとポップ。
80年代後半らしい洗練はあるが、芯はちゃんと“カーズ”のままだ。

『Door to Door』の音作り

前作『Heartbeat City』は、サンプリングや打ち込みを前面に押し出したシンセ・ポップ路線。
商業的にはこれ以上ない成功を収めた。

ただし、その反動もあった。あまりの打ち込み中心の制作に、
デヴィッド・ロビンソンが疎外感を抱いていたと。

 

この『Door to Door』では、その流れを少し巻き戻している。
スタジオで実際に叩かれる生ドラム。
メンバーが同じ空間で音を出す、バンドらしい制作スタイルへの回帰。

チャート成績は最高26位と控えめだが、音を聴けばわかる。
 

これは間違いなくThe Carsのアルバムだ。

リック・オケイセックの美意識も、
少し屈折したポップ感覚も、失われてはいない。

そして、ベンジャミン・オールが2000年に亡くなった今、
彼が参加した最後のアルバムとして聴くと、どうしても一抹の感慨が残る。

同作からの2ndシングル、「Strap Me In」も忘れがたい。

 

ロックチャート4位を記録し、MVも制作されたこの曲には、
いかにもMTV全盛期らしい勢いがある。

一方で、ベンの甘いボーカルを堪能するなら
「Coming Up You」も良い。
 

が、アルバム全体の“最後の踏ん張り”を象徴するのは、
「Strap Me In」かな?と思う。

と云うことでおまけは同アルバムから

The Cars-Strap Me In
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ビートルズ編③ 『白い怪物』の正体と「Dear Prudence」【再編集2026】

ホワイトアルバムの暗号と「いとしのエリー」への遺伝子

※1970年代、ホワイトアルバムに見入る少年たちの記憶をイメージした自作映像

 

― 小6のトラウマから54年、音楽の深淵へ ―

「人類が生き残るために、1枚だけアルバムを残せ」と言われたら、
私は迷わずThe Beatles――いわゆる《ホワイト・アルバム》を選ぶ。

だが、私とこの白い怪物との出会いは、むしろそれは、少年時代の私に刻まれた、
一種のトラウマから始まっている。


1. 1972年、学園祭の「音の地獄」

― 小6で浴びた『Revolution 9』の洗礼

72年小学6年生、12歳。地元高校の学園祭で、
ふらりと入った「音楽鑑賞会」の教室。

そこで流れていたのは、メロディもリズムもない、
不気味な声と物音が延々と続く、まるで音の地獄のような作品だった。

Number nine, number nine…

後になって知る。それがRevolution 9だったことを。

「 Let It Be」「Yesterday」を歌うビートルズしか知らなかった少年にとって、
それは音楽ですらなかった。だが、この“変な音楽”の記憶は、
脳の奥深くに、強烈な楔として打ち込まれた。

これが、ホワイト・アルバムの気持ち悪い出会いの最高の前振りだった。

The Beatles ホワイトアルバム

 

 

 

 
 
 

2. 大人になって気づいた「切なさの遺伝子」

― 『Dear Prudence』の寂しいメロの下降フレーズ

その後、本格的にロックを聴くようになり、何度もこの2枚組と向き合う中で、
私の心を執拗に捉えて離さない曲が現れる。

それがDear Prudenceだった。

ジョン・レノンのフィンガーピッキングは、執拗なまでに下降していく。
階段を降りるように進行する。

寂しさと切なさと緊張が続く、大人になり、
音楽を「構造」として聴けるようになったとき、

音楽の生まれる流れを見たと思っている。

 

この曲に流れる
**「切なさの遺伝子」**は、Mind Games
そして――いとしのエリーへと、確かに繋がっている。

桑田佳祐という稀代のミュージシャンが、ホワイト・アルバムの深淵から何を感じ、
日本のPOPロックへと変換したと、意味合いが解けた瞬間
 

音楽とは、偶然を装った必然の繋がりを感じた


3. バラバラの「個」と、孤独な少年

― 『Dear Prudence』という寂しさのメロの誠実さ

「Dear Prudence」は昔は調べまくった話によると、うら覚えの記憶ですが

いろいろなアクシデントが重なり、ビートルズは1968年、インド・リシケシュでの瞑想合宿へ。
John Lennonが書いた曲。合宿には多くの仲間も参加して、

ミア・ファローの妹、プルーデンス・ファローが

瞑想に没頭しすぎ、小屋に閉じこもってしまった。
仲間が彼女を外へ誘うために、この歌は生まれたと言われてる。

Won’t you come out to play?

この呼びかけは、決して説得ではない、相手の距離を尊重した、
誠実な声だ。

 

私の少年時代は、中学を三度転校した。
常に「よそ者」で、一人で自分を守るしかなかった。

 

だからこそ、ビートルズ4人がバラバラの方向を向きながら、
それでも同じ場所で鳴ろうとしたこのアルバムは、
 

私にとって共鳴感の究極のパートナーになったと思う。


2026年の視点

ライフ・ビートは止まれない(直ぐに止まりそうですが(笑))

2026年。私は66歳になる、12歳で浴びた『Revolution 9』の洗礼から、
半世紀以上が過ぎた。早すぎる、家では8歳レベル、4人家族で一番下扱い。

「物事を好き嫌いで決めなくて、なんで決めるの」とほざき、

家族に無視され知らん顔される(笑)

 

この50年以上経ても
どんな整えられた名盤よりも私はこのアルバムを通して、
 

自分自身の「孤独」と「革新」の履歴と重なりを感じる。

仕事は新しい事が大好きだった、でも人に命令される事は毛嫌いした。

 

 プルーデンス、
 空は青く、
 君もその一部なんだ。

 

あの日の少年に、そして今を生きる自分に、
同じモノがあり続ける


編集後記|皆様へ

ホワイト・アルバムを初めて聴いたとき、
あなたは「好き」それとも「嫌い」でしたか。

私は、その両方でした。

 

音楽好きな方々にも、思いのある、
長く付き合っている一曲が、きっとあるはずです。

 

それは、どんな曲でしたか。

 

 

 

4500頁、15年の熱量を、今の視点で削り出す。
 【再編集2026】プロジェクト始動。

 

ロック前

 

 

 

 

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気になった記事から、読み進めていただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィル・コリンズの影で──トニー・バンクスが1991年に見た「幕切れ」と『Still』

トニー・バンクスの「Angel Face」。 収録アルバムは1991年の**『Still』**。

Tony Banks(トニー・バンクス)は、ジェネシス創始期から在籍した紛れもない中核メンバー。

その彼が90年代に発表したこのソロ作は、今振り返れば非常に象徴的な、

ある種の「時代の節目」に位置していた。

トニー・バンクス『Still』アルバムカバー

 

 

Still

成功者たちの影で──トニー・バンクスという「もう一つの車輪」

ジェネシスは70年代のプログレ路線から、80年代のポップ──あえて言えばダンス寄り路線までを鮮やかに乗り切った稀有なバンドと思う。

  • ピーター・ガブリエル

  • フィル・コリンズ

  • マイク・ラザフォード

他のメンバーはソロでも華々しい成功を収め、とりわけフィル・コリンズは時代そのものを象徴する“メジャー・アーティスト”となり、その陰で、どこか地味に見えてしまうのがトニー・バンクス。

ジェネシスのポップ路線を牽引したのはフィルだと思われがちですが、実際にはトニーもまた両輪の一角。フィルのソロがジェネシスと地続きでヒットしたのに対し、同じ方向を向いていたはずのトニーのソロは、なぜか「いまひとつ」届かなかった。そんな印象がある。


アルバム『Still』と、Fish、ニック・カーショウの個性

久しぶりに『Still』を聴き返してみると、ゲスト・ヴォーカル陣の存在感が光ります。 Fish(フィッシュ)やニック・カーショウ。彼らの歌声には確かな個性があり、トニーの構築する世界を彩っています。

ただ正直に言えば、全体は「ジェネシスの亜流」と感じてしまう瞬間があるのも事実。

しかし、それは決して否定的な意味ではないと言いたい。

1991年という年。あれほど巨大な人気を誇ったジェネシスが、実質的な最終章に差し掛かったと感じさせた

**『We Can’t Dance』**が発表された年。 

『Still』は、まるでその終りに呼応するかのように、ジェネシス終盤の空気を静かに、そして真摯に引き受けているように思える。


1991年、小さな音量で語られた「幕引き」

巨大な成功のあとに、声を張り上げるのではなく、小さな音量で自らの歩みを語ろうとしたアルバム。 1991年の『Still』を聴くと、それは70年代でも80年代でもない、UKロックの一つの到達点に立っているような気がします。

 

21世紀に復活したジェネシスには、フィルの衰えが否応なく見えてしまい、正直なところ「懐メロ」以上の何かを見出すことはできませんでした。 旬の頃のミュージシャン、旬の頃のバンドをリアルタイムで体験してきた者にとって、時の移ろいはただ感慨を深めるだけのものでした。ポール・マッカートニーやストーンズが、別枠、凄いのかもしれないが。

 

と云うことでおまけは、アルバムの最後を飾る曲を。

 直訳すれば**「幕が下りる(The Final Curtain)」**。 

トニー・バンクス自身、この時すでに、何かの終わりを自覚していたのか。

 

Tony Banks -- The Final Curtain 

 

 

編集後記

ブログを書き始めて、もうすぐ15年。 4500頁もの熱量を積み重ねてきた中で思うのは、

音楽は単なる「過去の思い出」ではなく、今この瞬間も続く「人生の途中経過」です。

こうした少しマイナーな、しかし愛すべき作品を聴く時間が、幸せでもあります。

今回もインターネットラジオ「Radio Paradise」で気がつきました。

皆さんの「1991年の記憶」の頃のロック、POP、もちろん日本の曲でも、知りたいです。

 

 

 

4500頁、15年の熱量を、今の視点で削り出す。
 【再編集2026】プロジェクト始動。

 

ロック前

 


【再編集2026】ビートルズ編②1974年冬、上映会の幻惑『ストロベリー・フィールズ』の迷宮

4500頁、15年の熱量を、今の視点で削り出す。
 【再編集2026】プロジェクト始動。

 

ビートルズ 「Strawberry Fields Forever」

――「サージェント」のあとで、まだまだ世界は広いと感じ始めた――

 

「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」。

アルバムでは1968年『Magical Mystery Tour』
に収められている一曲ですが、この曲は、「迷宮」となった。


1974年冬、上映会という幻惑

中2で初めて聴いた『サージェント・ペパーズ』の衝撃が、

まだ体のどこかに残っていた1974年の冬。

ファンクラブの集いで、ビートルズのTV映画Magical Mystery Tour
を上映会で観る機会に恵まれた。

極彩色のバスが走り、支離滅裂なイメージが連なっていく。

ビートルズ、マジカル・ミステリー・ツアーのメンバー

いまなら、
“ロングPV的な先進的映像作品”と評価されている。

だが当時は、意味不明、判らんちん、駄作――
そんな低評価の言葉ばかりが、わずかな情報として伝わってきていた。

正直、心は少し怖気づいた。

 

それでも、
動くビートルズを観られる
 

それだけで、十分に幸福だった。上映中は無我夢中だった。
ただ、「もっと観たい」その思いだけが、強く残っている。

 

50年後、歩きながら、電車で、映像を観られる時代が来るなど、
当時の誰が想像できただろう。


そして始まる「迷宮」

ここで、問題が起きる。アルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』に入っている
「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が、

TV映画『マジカル・ミステリー・ツアー』には存在しない。

中学2年の少年には、チンプンカンプン、ビートルズの「迷宮」。

 

いまなら、検索一つで答えは出る。

「この曲は67年、『サージェント』のアルバム候補だったが、

シングルとしてリリースされた」

だが当時は、青盤(ベスト盤)も手に入っていない。

事の次第が分かるまで、長く時間がかかった。

――いまは便利だ。
だが、そのぶん探求心は失われたのかもしれない。


でも、その幻惑が、面白さを倍増させた

この少年を幻惑させた「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」。

リバプールの街を幻想的に描いた日本語訳、リバプールへの想像。

そして摩訶不思議な旋律。それらすべてが、

ビートルズの面白さを、何倍にも膨らませた。

 

オープニングのメロトロンの音色は、のちに夢中になる
キング・クリムゾン、レッド・ツェッペリン、

ロキシー・ミュージックへの
予行演習になっていたのだから、恐れ入る。


マイルス・デイヴィスというシメ

この曲を語るうえで、思い出すエピソードがある。

ジャズの帝王、Miles Davis

晩年、彼が自らのトリビュート的ライブで
選んだ曲の一つが、「Strawberry Fields Forever」だった。

 

1990年、東京ドームで行われたジョン・レノン追悼コンサートで、

マイルスが演奏「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」だった。

こびへつらわないマイルス。観客に背を向けるように吹くトランペット。

その音が、妙に焼き付いている。

少年時代、「なぜ映画にないのか」と迷走したあの感覚が、よみがえる。

 

偶然ではなく、必然として

ジャズという枠すら飛び越えた巨人が、なぜ、この曲を選んだのか。

 

そして私は、ビートルズと自分の距離感を「本物だった」

とどこかで信じている。

 

うぬぼれた幸せがあった。

 


The Beatles - The Beatles - Strawberry Fields Forever (Official Music Video) [2015 Mix]

 

 

ブログ15年分の記憶をいまの視点で削り出していると、
音楽は「思い出」ではなく、人生の途中経過だったのだと気づきました。

 

あなたにも、迷わせてくれた一曲が、あると思います。

それは、どんな曲でしたか。

 

 

 

 

4500頁、15年の熱量を、今の視点で削り出す。
 【再編集2026】プロジェクト始動。

 


ビートルズ編②1974年冬、上映会の幻惑『ストロベリー・フィールズ』の迷宮【再編集2026】

この記事は【再編集2026・ビートルズ編】の一編です。

 

ビートルズ 「Strawberry Fields Forever」

――「サージェント」のあとで、まだまだ世界は広いと感じ始めた――

 

「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」

アルバムでは1968年『Magical Mystery Tour』
に収められている一曲ですが、この曲は、「迷宮」となった。


1974年冬、上映会という幻惑

中2で初めて聴いた『サージェント・ペパーズ』の衝撃が、

まだ体のどこかに残っていた1974年の冬。

ファンクラブの集いで、ビートルズのTV映画Magical Mystery Tour
を上映会で観る機会に恵まれた。

極彩色のバスが走り、支離滅裂なイメージが連なっていく。

ビートルズ、マジカル・ミステリー・ツアーのメンバー

いまなら、
“ロングPV的な先進的映像作品”と評価されている。

だが当時は、意味不明、判らんちん、駄作――
そんな低評価の言葉ばかりが、わずかな情報として伝わってきていた。

正直、心は少し怖気づいた。

 

それでも、
動くビートルズを観られる
 

それだけで、十分に幸福だった。上映中は無我夢中だった。
ただ、「もっと観たい」その思いだけが、強く残っている。

 

50年後、歩きながら、電車で、映像を観られる時代が来るなど、
当時の誰が想像できただろう。


そして始まる「迷宮」

ここで、問題が起きる。アルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』に入っている
「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が、

TV映画『マジカル・ミステリー・ツアー』には存在しない。

中学2年の少年には、チンプンカンプン、ビートルズの「迷宮」。

 

いまなら、検索一つで答えは出る。

「この曲は67年、『サージェント』のアルバム候補だったが、

シングルとしてリリースされた」

だが当時は、青盤(ベスト盤)も手に入っていない。

事の次第が分かるまで、長く時間がかかった。

――いまは便利だ。
だが、そのぶん探求心は失われたのかもしれない。


でも、その幻惑が、面白さを倍増させた

この少年を幻惑させた「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」。

リバプールの街を幻想的に描いた日本語訳、リバプールへの想像。

そして摩訶不思議な旋律。それらすべてが、

ビートルズの面白さを、何倍にも膨らませた。

 

オープニングのメロトロンの音色は、のちに夢中になる
キング・クリムゾン、レッド・ツェッペリン、

ロキシー・ミュージックへの
予行演習になっていたのだから、恐れ入る。


マイルス・デイヴィスというシメ

マイルス・デイヴィス、トランペットを演奏

この曲を語るうえで、思い出すエピソードがある。

ジャズの帝王、Miles Davis

晩年、彼が自らのトリビュート的ライブで
選んだ曲の一つが、「Strawberry Fields Forever」だった。

 

1990年、東京ドームで行われたジョン・レノン追悼コンサートで、

マイルスが演奏「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」だった。

こびへつらわないマイルス。観客に背を向けるように吹くトランペット。

その音が、妙に焼き付いている。

少年時代、「なぜ映画にないのか」と迷走したあの感覚が、よみがえる。

 

偶然ではなく、必然として

ジャズという枠すら飛び越えた巨人が、なぜ、この曲を選んだのか。

 

そして私は、ビートルズと自分の距離感を「本物だった」

とどこかで信じている。

 

うぬぼれた幸せがあった。

 


The Beatles - The Beatles - Strawberry Fields Forever (Official Music Video) [2015 Mix]

 

 

ブログ15年分の記憶をいまの視点で削り出していると、
音楽は「思い出」ではなく、人生の途中経過だったのだと気づきました。

 

あなたにも、迷わせてくれた一曲が、あると思います。

それは、どんな曲でしたか。

 

 

 

 

※4500頁、15年の熱量を、今の視点で削り出す。

 【再編集2026】プロジェクト始動。

 

少年時代ロック前

ロックを聴く以前、
すでに心は音楽に触れていた。


Blue Öyster Cult-In Thee

Blue Öyster Cult:ブルー・オイスター・カルトの「In Thee」で、アルバムは79年『Mirrors :ミラーズ』ですね。

 

日本では、BOCというと――
76年「(Don't Fear) The Reaper(死神)」と、77年「Godzilla(ゴジラ)」。
この2曲が、70年代の代表曲としてまず浮かぶ気がします。

で、彼らって本来、ジャケットも“妙に凝ってる”。
幾何学だったり、戦闘機だったり、オカルトだったり。
バンドのマーク(例のフック&クロス)も含めて、
「気持ち悪いのに、知的で、ロック」みたいな匂いがある。

Blue Öyster Cult アルバムジャケット集

© Blue Öyster Cult / Columbia Records  ※本画像は非商用・レビュー目的で使用しています

 

ところが――『Mirrors』だけは異質。
ジャケが普通(笑)。
もちろんマークはいる。でも、雰囲気が違う。

Blue Öyster Cult Mirrors アルバムジャケット

 

 

Mirrors

 

 

だからこそ、このアルバムは1979年を反映しているかも。

70年代後半、米ハードロックは分岐点に立っていた。

プログレはもう呆られた? パンクする? ディスコは売れている。その狭間で、多くのバンドが
AOR風なり、POPなり 特にアメリカンロックは、この選択をしたのかなと思う。

 

In Thee ―― POPで、AORで、でもBOCらしい

このアルバムの中でも、「In Thee」はとりわけ異質で、そして面白い。AOR的。メロウ。
派手なリフも、ない。

 

でもでも、ここらへんのロック踊り場を、今思えば、そりゃあ、ニュー・ウェイヴ を聴いてしまうのも納得(笑)

 

久しぶりにBlue Öyster Cultの『Mirrors :ミラーズ』聴いて、ブルー・オイスターや、

あえて言わせてくださいドゥービー・ブラザーズが迷い道になったのが、判るような気になった(笑)

 

キッスは偉い!仲悪くても売れ筋ディスコティックしても、

ハードロックの素は残ってずーと継続していた…

 

と云うことでおまけは、代表曲で15年目で初めてあげます。

 

Blue Öyster Cult- (Don't Fear) The Reaper (1976)

 

 

 

あなたにとって好きだった“バンドが迷った1枚”って思ったアルバムがありますか?

 

 

 

 

 

4500頁、15年の熱量を、今の視点で削り出す。
 【再編集2026】プロジェクト始動。

 

 

 

 

ロックはここから始まった!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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