長谷川和彦監督の訃報を聞いた。
思い出すのは、1979年、新宿住友ビルの広場だ。
浪人生が出くわした現場
79年、19歳。大学受験に落ちて、中野のアパートに住んでいた。
高田馬場の予備校からの帰り道、
バス代がもったいなくて、新宿の高層ビル群を抜けて歩いて帰るのが日課だった。
初夏の夕方、新宿住友ビル(三角ビルと呼んでいた)の広場を通りかかったら、
何か撮影をしていた。
田舎から出てきたばかりで、映画の撮影なんて初めて見る。興味津々で近づいたら、
いきなり怒鳴られた。キョトンとした。何が起きたのかも分からなかった。
邪魔にならない場所に立たされて、
そこから撮影されている人を見たら――沢田研二だった。
1979年の沢田研二だ。歌謡界の大スター。東京ってすごいところだと思った。
その作品が、長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』だった。
「俺はここにいた」
10月に公開された。受験生なのに、すぐ観に行った。
映画の中で、主人公の城戸誠が高層ビルを支えるシーンが一瞬出てくる。
そのシーンが映った時、心の中で叫んだ。
「俺はここにいた」
映画の中に、自分がいた場所が映っている。その場所に、あの日確かに立っていた。
それだけのことなのに、興奮した。
映画は、容赦しなかった
『太陽を盗んだ男』は、容赦しない映画だった。
高校教師が手製の原爆を作る。国を脅す。警察が追う。
1979年、原発は「安全」だと誰もが(信じさせられていた)時代に、
原子爆弾を個人が作るというストーリーは、相当な覚悟がなければ撮れない。
でも、俺たちは本当に信じていたか?
原発が安全だなんて。
誰も本気で信じちゃいなかった。ただ、そういうことになっていただけだ。
長谷川監督は、その嘘を映画にした。
映画もロック!
この映画の音楽は、井上堯之バンドが担当している。
全編を通して、緊張が続く。リズムは無機質で、観客を突き放す音。
ほんの挿入歌でカルメン・マキの「Easy Come, Easy Go」。
日本ロックも凄いと思っていた頃、浪人生なのに、ライブハウスを知り、通い始めた頃。
カルメン・マキの声が解く。
Easy come, easy go
なるようにしかならない。
偶然はない、すべて必然
あの日、新宿住友ビルの広場を通らなければ、映画の撮影現場を見なかった。
怒鳴られなければ、沢田研二を見ることもなかった。
映画を観なければ、「俺はここにいた」と叫ぶこともなかった。
その後、映画業界に入った。希望の大学には入れなかったが、映画の仕事には就けた。
1979年のあの日、新宿住友ビルの広場で、確かにあの現場にいた。
世の中に、偶然はない。すべて必然だ。
長谷川和彦が遺したもの
長谷川和彦監督は、多くの作品を撮らなかった。
だが、一本の映画が、一人の人生を動かすことはできた。
1979年、19歳。浪人生。予備校帰り。新宿住友ビルの広場。
そこで出会ってしまった映画が、これも私の原点。
『太陽を盗んだ男』は、今でも邦画No.1だと思っている。
世界は、今日もそのままだ。原爆も原発も。
長谷川和彦監督、ありがとうございました。
4500頁、15年の熱量を、今の視点で削り出す。
【再編集2026】プロジェクト始動。
ロックはここから始まった!
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