ピーター・クソン監督が蘇らせた第一次世界大戦の記録映像/映画『彼らは生きていた』






「映像の進化もココまで来たか」と驚きの声続出!!ピーター・ジャクソン監督、100年前のカメラマンに救いの手『彼らは生きていた』。

『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズなどで知られる名匠ピーター・ジャクソン監督の最新作。
本作は、第一次世界大戦の終戦から100年を迎えた節目である2018年にイギリスで行われた芸術プログラム「14-18NOW」と、帝国戦争博物館の共同制作で、帝国戦争博物館に保存されている記録映像を再構築することで誕生したドキュメンタリー映画。

イギリス本国のみならず、2019年度のアメリカ・ドキュメンタリー部門でNo.1ヒット、映画批評サイトのロッテントマトにて驚異の100%フレッシュを獲得するなど高い評価を受けている。

ジャクソン監督は、2200時間以上あるモノクロ、サイレント、経年劣化が激しかった100年前の記録映像に、修復、着色、3D化という3段階の作業を400人以上のアーティストを動員し実施。
修復作業には、バラバラのスピードで撮影されていた古い映像を現代の24フレームに修正するため、足りないフレームを作成するなど、今までにない最新のデジタル技術が施されている。
また、大戦当時は録音技術がなかったため、BBCが所有していた600時間以上ある退役軍人たちのインタビュー音声や、兵士たちが話す口の動きを読唇術のプロが解析した言葉や効果音を追加。完成作はまるでジャクソン監督に魔法をかけられ、命を吹き込まれたかのよう。

この度完成した予告編は、口笛で奏でられる第一次世界大戦の軍歌に乗せ、粒子の荒い不鮮明なモノクロ映像の中でイギリス兵たちが行進する場面から始まる。

その後、予告映像の舞台が戦場へ移ると、リアルな着色が施された修復後の映像に。
今まで遠い過去の出来事としてしかとらえられなかった記録映像がその瞬間から、菱形戦車や馬車、塹壕での兵士たちの姿など、躍動感溢れる映像へと変化していく。
また、「映画の撮影だぞ」とカメラを意識しながら話す若き兵士や、カメラ目線で笑顔を見せる兵士たち一人ひとりの表情もイキイキと輝き出し、現代に撮られた映画と見紛うほどの仕上がりになっている。

ジャクソン監督は、幾度となく命を危険にさらしながら手回しで撮影していた当時のカメラマンを思い、「記録を残すために撮影していたのだから、出来ればカラーで撮影したかっただろうし、誰もが映像は出来る限りよく見せたいと思うはず」と話しており、本作について、「現代の技術が、100年前のカメラマンに救いの手を差し伸べた映画なんだ」と語っている。

普通の青年たちが兵士となり、死と隣合わせの戦場を生き抜き、終戦を迎えるまでがドキュメンタリーでありながら、兵士たちの心の動きを感じられるひとつのドラマとして描かれる。

2020年1月25日公開



今年はコロナウイルス対策の影響もあって映画館に行っていません

この映画も観たい映画の一つです

余命宣告の織田無道が暴露「テレビはヤラセ」「除霊はできない」「有罪判決」

「一昨年に“ステージ4”で余命1年を宣告されました。でも、まだ生きていますよ(笑)。最近も“7月までもたない”と言われましたが、別の医師からは“免疫性が上がって、回復しています”と。がんは本当にわからないことが多いので、あわてないことです」

 末期がんで闘病中だという織田無道だが、血色はよく意気軒昂。ニコニコしているが、時折、見せる鋭い眼差しは“怪僧”と呼ばれたころと変わらない迫力だ。

「織田さんは1990年代に霊能者としてテレビに引っ張りだこでした。当時は宜保愛子さんもいてオカルトブームだったんです。水晶玉を使って霊視をするんですが、酒は飲むし女が好きという破天荒キャラ。神奈川県の円光寺住職で、信長の子孫を名乗っていましたね。2002年に虚偽登記で逮捕され、その後も給与トラブルがあり、テレビから消えました」(テレビ誌ライター)

「お祓いは気合」で住職稼業が一転
 最初から霊能者だったわけではなかったという。

「1980年代にお昼の番組に出たとき、お墓の撤去についての議論をしているうちに、呼んでもいない霊がカメラに映ってしまったんですよ。司会の宮尾すすむさんが“悪い霊が来てしまったらどうすればいいの?”と聞いてきたのですが、私の宗派にお祓いはないから、“それは気合です”とアニマル浜口さんみたいなことを口走ってしまった(笑)。その場で霊との闘いが始まって、それが全国に放送され、住職ではなくて“除霊をする人間”になってしまった。それから、“ここを除霊してくれ”という依頼がたくさん来たんですよ。私はまだ30代で若かったし、頼まれたら断れない性分だった」

 多いときで週に10本の番組に出演する売れっ子に。

「テレビを何百本もやっているとヤラセが出てくる。ある深夜番組で“あの木の下にこういう霊がいることにしましょう”と言われたことがあります。司会者から“織田さん、すごいですね。霊は本当にいるんですね”なんてふられて困りました。当時のテレビはヤラセだらけ。クイズ番組なんかはひどくて、最初から解答が渡されていたんです」

 バラエティー番組だからと割り切って出演していたという。バブルの余韻でテレビ業界はイケイケだった。

「1回の制作費が5000万円なんてザラ。海外ロケにも行って大盤振る舞い。ギャラもすごくて、1回で500万~600万円なんて普通でしたね。アメリカでシカゴのテレビ番組に出たときは1本で2000万もらいました。当時は1000万円もらって、それをひと晩で飲み切るなんてことが当たり前の時代だったんですよ。視聴率さえ取れれば、何でも可能でした」

 金銭感覚がだんだんおかしくなっていく。

「視聴率がよくなれば担当プロデューサーにボーナスが出るし、経費も上がる。だから、“今夜もどっと飲みましょう!”なんて言われる。楽しい時代でしたね。1万円札を見ても今の100円と同じ感覚でした。月に億単位の金を稼いでいましたね」

 テレビの黄金期の中で、もっとも輝いて見えたのが石橋貴明だったという。

「すごく面白いし、私ら坊主にとっても参考になることがいっぱいありました。禅には『有溝無溝』という言葉があります。構えはあってないのと同じで、最終的には心の闘いが勝敗を決定するものだという意味ですが、まさに石橋さんはその言葉どおりの人。僧侶でも普通の悟りでは到達できない領域です。“お笑いの達人”というレベルを超越した本当にすごい人です」

石橋貴明の凄みと勝新の力
 日本テレビ系の『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』に出演していて、石橋のアドリブに驚かされた。

「霊がとりついている人を呼んでスタジオ収録をしたんです。若い女性で、ミニスカート姿。そうしたら石橋さんが急に“霊がいる!”と、女性のひざを指さしました。カメラがひざのお皿をアップで映すと、人の顔のようにも見えますよね。彼女が出てきた一瞬で、ひらめきが芽生えたんです。いつも、よくそんな発想が出るなと感心していましたね」

 勝新太郎さんも、織田に強い印象を残した。

「彼の死後のことです。心霊番組で、夜中にお墓に行きました。カメラが回った瞬間に照明がパッと消えたんです。かわりに静止画を撮ろうとシャッターを切っても、ストロボがつかない。勝新さんの“力”を感じましたよ。勝新さんが納得するスタッフ、カメラマンでないと映させてもらえない。“お前らなんだ勝手に来やがって、玉緒に金を払ったのか?”ということではないでしょうか」

 2002年に逮捕されて有罪判決を受けたことについては、今も納得していない。

「まったくくだらない理由です。会ったこともない人間にテレパシーで虚偽登記などの文書偽造を指示したというバカげた判決。取り調べでは“織田よ、認めれば出られるんだよ。早く書類にサインしちゃえよ”と言われました。もっと重要な犯罪があるのに、私がテレビにバンバン出ていたから狙われたんでしょう」

 留置所には3か月ほど入っていたが、さほど苦痛ではなかったらしい。

「うなぎでも天丼でも、好きな出前を頼んで食べていました。不自由さはありませんでしたね。留置所から出た後も普通にしていましたよ。別に大した罪でもあるまいし。沢尻エリカだって、堂々と出てくりゃあいいんだよ」


 沢尻は違法薬物所持という重い罪状だが……。

「テレビはもともとデタラメな世界だから、デタラメなやつが出ていいんですよ。きれいごとなんか言っていられない。視聴率を取れなかったら番組がなくなっちゃうんですから、否応でもヤラセをやる。それで視聴率を取れているんだし、バラエティーだからいいじゃんということです。UFOや幽霊なんかはほとんどが合成写真のインチキ。でも、見ているほうが楽しければいいじゃないと思います」

死んだらどうなるわかっている
 相変わらずの怪気炎だが、体調がすぐれないことも。


織田の現在の体重は70キロと細くはないが、30キロも落ちたので体力的にもキツいようだ
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「長く座ったりしていると、脚が冷えて氷のようになってしまいます。すぐに疲れますが、夜にまったく眠れないんですよ。1日に2時間でも3時間でもいいから寝たい。1~2月は40度以上の高熱が出て、本当にキツかったんです。めまいがひどくて起きられなくなって、いよいよおしまいかなと思っていましたよ。食べ物も限定されて、体重も100キロあったのが、30キロ落ちて、今では70キロ。これからどうなるのかはわからないですね」

 それでも、死に対する不安はない。

「私は仕事で葬式もたくさんやっていますし、死んだらどうなるかわかっていますから。人間はわからないことに対して恐怖心を抱くんです。私は坊主なので、自分の真意、本当の自分悟りを示したうえで人生の幕を閉じたいですね。できれば70歳まで生きたい。 “人類のために”とか大それたことを言える立場でもないですが、自分自身の答えを出したいですね」

“怪僧”にとって死は恐れるに足らないものなのだ。

週刊女性2020年6月23日号
週刊女性PRIMEより全文を引用していますm(__)m


やっぱりね~って感じですね(^_^)
視聴者はいつまでも騙されませんよ
テレビ離れが加速している理由の一つだと思いました

Bob Marley & The Wailers – Lively Up Yourself

ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの「Lively Up Yourself:ライヴリー・アップ・ユアセルフ 」で、アルバムは74年『Natty Dread:ナッティ・ドレッド』ですね。

動画はLive At The Rainbow Theatre, London / 1977のようで、力強く、70年代の名盤『Live!:ライブ!』のような出来、レゲエでギターソロが映えるライブ盤『Live At The Rainbow 4th June 1977』も迫力ありです。

70年代後半、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのレコードは75年『Live!:ライブ!』から入った者にとって、魂を揺さぶるライブ名曲「No Woman, No Cry」「Lively Up Yourself」が、このアルバム『ナッティ・ドレッド』スタジオ盤の軽さに思わず「え~」と下をむいてしまうぐらいガッカリでしたが……

差にあらず、アルバム全体はすこぶる良いのです。今ではボブ・マーリーのアルバムでも、もの凄く評価されているのですね。



 


Natty Dread


 


70年代後半、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズは、正に未知との遭遇、ロック以外に同様な音楽があったと!

驚き、夢中になるのですが、『ナッティ・ドレッド』はレゲエの反骨とラスタと音楽の融合と入門的なモノになりました。

『ナッティ・ドレッド』は大好きピーター・トッシュ、バニー・ウェイラーが抜けて、奥様のボーカルユニット、アイ・スリーズを加入で、これも程よい合いの手になって、これが初期ウェイラーズとの違いなってるかもです。

で、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズはライブ盤が良い、80年代になって大学生78年『バビロン・バイ・バス』も超愛聴盤だった一時期は日夜問わず、聴きっぱなし、大学にも行かない大学生だった。

ライブが凄いのは、ホントのロッカーの証。

スタジオ盤は少しピコピコサウンドぽいけど、ライブ盤も聴くと違いが在りすぎる。
要はスタジオとライブを両方聴くべし!!(笑)

と云うことでおまけは「No Woman, No Cry 」を2曲でライブとスタジオ盤で、違います(笑)

Bob Marley & The Wailers -No Woman, No Cry

初めて聴いた時は感涙にむせび震えたライブ盤と


初めて聴いた時は軽さに思わず「え~これ何に~」となったスタジオ曲で(笑)
























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フィーバー333 “BITE BACK”

10月23日に新作EP『WRONG GENERATION』をリリースするフィーバー333が、同EPからリード・トラックの“BITE BACK”を先行配信した。

アメリカのミネアポリスで起こったジョージ・フロイドの傷害致死事件を受け、ボーカルのジェイソン・エイロン・バトラーはLAでの抗議運動に13日間参加。14日目に制作へ取り掛かり、8日後に完成したのがこのEPだという。

公式YouTubeチャンネルではビジュアライザーが公開になった。




“BITE BACK”について、ジェイソンは以下の様に語っている。

「この曲の全ては、俺が(ジョージ・フロイド事件の抗議行動にて)13日間ストリートで見てきたこと、そして、今起こさなければならないことについて表しているんだ。

ビルディングが燃え、抗争が起きていた。白人の同胞が、州兵の目の前に飛び出していくのを見た。なぜなら奴らは、後ろにいる黒人たちが持っていない力を持っていることを知っていたから。当然だろ? もしも街角になんかのクリーチャーがいて、そいつらが俺たちの生命を脅かすってことがわかるのなら、抵抗するってこと以外の選択肢が見当たらないから」


同EPのリリースに伴い、バンドは日本やオーストラリアを含む初のバーチャル・ライブストリーム・ツアー『WORLD TOUR FOR THE WRONG GENERATION』を行うことが決定している。


rockin'onより全文を引用しています




スティーヴ・ペリー「D・L・ロス脱退後、エディ・ヴァン・ヘイレンからジャムに誘われた」

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スティーヴ・ペリーが、今月6日に65歳で亡くなったエドワード・ヴァン・ヘイレンを偲び、『Rolling Stone』誌に電話を入れ、彼との思い出を語り、敬意を表した。

その中で、ペリーは「これは誰も知らないと思うけど」と、1985年にデイヴィッド・リー・ロスがヴァン・ヘイレンを脱退したとき、エドワードからジャムしようと誘われたとの逸話を明かした。

エドワードにどんな意図があったのかは不明だが、「エディから、こっちに来て、一緒にジャムすべきだって言われたんだ」という。「すごく光栄だって思った。僕はエディが持って生まれた才能に畏怖の念を抱いていたからね。彼はそう生まれついた。ものすごくやりたいって思った。僕ら、音楽的にどれほど素晴らしいことになるか話してたんだ。サミー(・ヘイガー)の前のことだ」

しかし、実現しなかったという。ペリーは、やりたいと思う一方で、こんな疑問も浮かんだそうだ。「唯一の問題は、“僕の声でデイヴィッド・リー・ロス時代を代弁できるのか? それに相応しいのは自分なのか、わからない”って思いを抱いたとこだ。そうしている間に、彼らはサミーを迎えた。彼はパーフェクトだった」

ペリーは1978年に参加した彼にとって初となるジャーニーのツアーで、オープニング・アクトを務めたヴァン・ヘイレンと出会ったという。

Ako Suzuki
BARKSより全文を引用しています


もしも、ペリーがヴァン・ヘイレンに加入していたらどうなっていたんでしょうね(*^^*)

やっぱりバラード曲をやったのかな~?

どんなバンドか見たかったですね


元ジャーニーのスティーヴ・ペリー、エディ・ヴァン・ヘイレンとの逸話の真相を明かす

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元ジャーニーのスティーヴ・ペリーはエディ・ヴァン・ヘイレンの訃報を受けて長年話されてきた逸話について真相を語っている。

逸話はヴァン・ヘイレンとジャーニーが1978年に一緒にツアーを行っていた時のもので、デイヴィッド・リー・ロスに苛立ったエディ・ヴァン・ヘイレンがワカモレディップを投げつけたところ、デイヴィッド・リー・ロスには当たらず、スティーヴ・ペリーに当たってお気に入りのサテン・ジャケットにかかってしまったという。スティーヴ・ペリーはその後泣き始めたとされていた。

今回、スティーヴ・ペリーは米『ローリング・ストーン』誌の新たなインタヴューで1978年のツアーで起きた事件について語っている。

「ある夜、エディ・ヴァン・ヘイレンに『大好きだよ』と伝えなきゃいけないと思ってね。ドアを開けて『やあ』と言おうとしたら、カッテージチーズのような容器に入ったワカモレディップが飛んできたんだ。連中はフードファイトをやっていたんだよ」とスティーヴ・ペリーは説明している。

「ドアを開けたところにワカモレディップの容器が飛んできて僕の左にあった鏡に当たって、最も高価な所持品にかかったんだ。当時はフレスノ出身の小さな街から出てきたキッズだったからね。あれはサテンのツアー・ジャケットで、背中に『Journey』と入っていたんだ。着ると、別人になれたんだよね」

「ワカモレディップが左の肩と腕にかかってね。それを見下ろした後、顔を上げたら連中は申し訳なさそうに『ヤバ』と笑っててね。彼らを見てドアを閉めて立ち去ったんだ。怒ったからね。トイレに行って怒っていたよね。最も高価なジャケットだったからね。いまだに気に入っているよ。それ以降は彼らに敬意を払うことはできなくなったね。サテンのジャケットからワカモレディップは拭き取ったよ」

スティーヴ・ペリーはこの事件で「泣いていない」として次のように締めくくっている。「ワカモレディップでは泣かなかったけど、どこかで神話のようになったんだよ。笑える話にね」

ツアー全体を振り返ってスティーヴ・ペリーはヴァン・ヘイレンとツアーを行ったことはいいことしかなかったと述べている。


「あのような音楽的才能の近くにいられたことは幸せだったよね。だって、人生を変えたからね。自分でやりたいこと、自分のソングライティングでやりたいことも変わった。評価するものも変わった。ヴァン・ヘイレンはジャーニーをよりよいバンドにしてくれただけでなく、多くのバンドをよりよいバンドにしたことはみんなに知ってほしいね」

インタヴューでスティーヴ・ペリーは1985年のデイヴィッド・リー・ロス脱退後に実現しなかったヴァン・ヘイレンとのコラボレーションについて語っている。スティーヴ・ペリーによれば、エディ・ヴァン・ヘイレンはサミー・ヘイガーの加入前にスティーヴ・ペリーをジャムに招待したものの、スティーヴ・ペリーは断ったという。

「エディはどこかで来てもらって、一緒にジャムで演奏すべきだと言ってきてね。エディの天性の才能は尊敬していたから自分としては光栄に思ったところもあったよ。彼は生まれながらの天才だったからね。すごくやりたかったよ。音楽的にどれだけクールなものになるか話していたりしたからね」

「でも、その時点でヴァン・ヘイレンの素晴らしさを体現するものって自分にはヴォーカル的に合わないと思ったんだ。違うタイプの歌い方なんだよね」

エディ・ヴァン・ヘイレンは咽頭ガンとの闘病の末に10月6日に亡くなっており、トニー・アイオミ、サミー・ヘイガー、オジー・オズボーンらは追悼の意を表している。

文章は、NME JAPANより全文を引用していますm(__)m




ペリーの言う通りですよね(*^^*)

ペリーのハイトーン・ボイスとヴァン・ヘイレンの演奏ってイメージ的に合わない気がしますね

ペリーはヴォーカリストに徹していたんですね

私もヴァン・ヘイレンのアルバム『5150』を買いました

ヴァン・ヘイレンって私が思っている以上に凄いバンドだったんですね

ペリーの言葉を読んで、改めてヴァン・ヘイレンの偉大さを感じました

JOURNEY 「Opened The Door」

私は今もジャーニーの大ファンなのです(*^^*)
私にとっての彼等の最大の魅力は、全体の美しさにあります
ロック・バンドに美しさは必要ない・・・って言われてるんですが、上質な音楽を愛することは仕方のないことです

美しくて、バランスのとれたロック・バンドがジャーニーです
この美しさが表現出来るバンドは、ジャーニーだけ
他には聴いたことがありません
多分、存在しません
今日ご紹介する曲は、今でも大好きな曲
「Opened The Door」

journey cd 1




リリース: 1978年

ソングライター
Gregg Rolie
Neal Joseph Schon
Stephen Ray Perry


Journeyを聴くなら、先ずはこの曲を私はお勧めします(*^^*)
究極の美しさを表現しています


■ 参加ミュージシャンは・・・

スティーヴ・ペリー
ヴォーカル

ニール・ショーン
ギター、バッキング・ヴォーカル

グレッグ・ローリー
キーボード、ヴォーカル

ロス・ヴァロリー
ベース、バッキング・ヴォーカル

エインズレー・ダンバー
ドラムス、パーカッション


"産業ロックだ"と随分と批判を受けたジャーニーですが、彼等が優れたバンドであることは多くの人が知っていますね

そして、彼等の楽曲は今も愛され続けています

ジャーニー愛が止まらない・・・

これからもずっと一緒です(*^^*)



ご視聴ありがとうございました
2020.10.21付 投稿記事を修正しておりますm(__)m