
『ニュー・ベスト』は、1976年に日本独自編集で発表されたベイ・シティ・ローラーズのコンピレーション・アルバムです。
1976年8月20日に、アリスタ・レコードのレーベルで、東芝EMIから日本だけにリリースされています。
ジャケットや帯に英字で「Rock and Roll Love Letter」と記されているため、北米市場向けに編集された同じく1976年のコンピレーション・アルバム『ロックン・ロール・ラブレター (Rock n' Roll Love Letter)』と混同されることがありますが、内容は大きく異なっており、全く別のアルバムです。
ベイ・シティ・ローラーズが初来日した1976年12月以降に売れ行きが伸び、オリコン週間LPチャートでは、1977年1月31日付から2月14日付まで3週にわたって首位に立ったアルバムです。
取り上げられた楽曲は、
『エジンバラの騎士 (Rollin')』(1974年)から4曲(A3、A6、B1、B5)
『噂のベイ・シティ・ローラーズ (Once Upon a Star)』(1975年)から3曲(A5、B2、B4、B7)
『青春のアイドル (Wouldn't You Like It?)』(1975年)から2曲(A2、A4)
『青春に捧げるメロディー (Dedication)』(1976年)から2曲(A1、A7)
アルバム未収録シングル曲2曲(B2、B6)
ジャケット写真は、イアン・ミッチェル在籍時のものです。
トラックリスト
A面
1. ロックン・ロール・ラブレター
"Rock and Roll Love Letter"
(Tim Moore)
2. 恋をちょっぴり
"Give a Little Love"
(Phil Wainman, Johnny Goodison)
3. ベイ・シティ・ローラーズのテーマ
"Shang-a-Lang"
(Bill Martin, Phil Coulter)
4. ダンスはゴキゲン
"I Only Wanna Dance With You"
(Eric Faulkner, Stuart Wood)
5. エンジェル・ベイビー
"Angel Baby"
(Faulkner, Wood)
6. 太陽の中の恋
"Summerlove Sensation"
(Martin, Coulter)
7. マネー・ハニー
"Money Honey"
(Faulkner, Wood)
B面
1. サタデー・ナイト
"Saturday Night"
(Martin, Coulter)
2. ラブ・ミー・ライク・アイ・ラブ・ユー
"Love Me Like I Love You"
(Faulkner, Wood)
3. ひとりぼっちの十代
"My Teenage Heart"
(Faulkner, Wood)
4. 朝まで踊ろう
"Keep On Dancing"
(Young)
5. 想い出に口づけ
"Remember (Sha La La La)"
(Martin, Coulter)
6. 明日に恋しよう
"All Of Me Loves All Of You"
(Martin, Coulter)
7. バイ・バイ・ベイビー
"Bye, Bye, Baby"
(Bob Gaudio, Bob Crewe)
ベイ・シティ・ローラーズの特集を組んで主な楽曲やアルバムをご紹介させていただきました
お付き合いいただき、ありがとうございましたm(__)m
音楽には多岐にわたってジャンルがございます
皆様が心地良い音楽と出会えますように…
私もこれからも音楽に親しみたいですし、芸術的な音楽との出会いを心待ちにしています
最後に、メンバーのその後について記しておきます

■ エリック・フォークナー
(Eric Faulkner、本名:エリック・ファルコナー、Eric Falconer)
ギタリスト、ソングライター、歌手として活躍しています。
1953年10月21日、スコットランド、エディンバラにあるエディンバラ王立診療所(英語版)で生まれています。
幼い頃からヴィオラの演奏を学び、子どもオーケストラで演奏したこともあった。そのほかにもヴァイオリン、マンドリン、ベース、キーボードを演奏します。高等学校は、エディンバラのリバートン高等学校(英語版)に学んでいます。
KIP(旧名 Sugar)というグループで活動した後、1972年にベイ・シティ・ローラーズにギタリストとして加わりました。彼はその後、ローラーズが存続した1980年代までメンバーでした。
彼はローラーズが録音した楽曲の過半数において共作者に名を連ねました。その中には、いずれもスチュアート・ウッドとの共作で、全英シングルチャートでヒットした「マネー・ハニー」や「ラブ・ミー・ライク・アイ・ラブ・ユー」も含まれています。
1976年、ローラーズの全盛期に、フォークナーは睡眠薬の過剰摂取による自殺未遂騒ぎを起こし、メディアに大きく取り上げられています。ベイ・シティ・ローラーズのマネージャーだったタム・ペイトンはこの一件を宣伝に利用しようとして、救急を呼ぶより先にメディアに電話をかけたとも言われています。フォークナー自身は一貫して、これは自殺未遂ではなく、事故であったとしています。
フォークナーは、他の5人の元ベイ・シティ・ローラーズのメンバーたちとともに、契約上の不正によってロイヤルティーの支払いを怠っているとして、2007年にアリスタ・レコードを訴えました。
長年にわたって、彼はエリック・フォークナーズ・ベイ・シティ・ローラーズ (Eric Faulkner's Bay City Rollers) を名乗って、往年のローラーズの楽曲をレベリオン・フェスティバル(英語版)やリヴァプール国際音楽祭(英語版)など各地のフェスティバルで演奏し続けていました。
2015年2月、ウイルス性脳炎に感染したフォークナーは、一時的に重篤な状態に陥っています。当初は、順調に回復しつつあるようにも見られましたが、後遺症が残り、2015年8月以降は公の場での演奏は行わなくなっていました。その後、病状は回復し、2017年には、新曲を書き、録音しています。
2018年夏、フォークナーはステージに復帰し、8月の the Heart of Hawick Music Festival に出演しました。

■ スチュアート・ウッディ・ウッド
(Stuart John Wood、1957年2月25日 - )
スコットランドのミュージシャン、ソングライター、音楽プロデューサー
1974年にベイ・シティ・ローラーズに参加し、当初はリズムギター担当であったが、1976年にベースのアラン・ロングミュアーが脱退した後、ベースに転向しました。
ベイ・シティ・ローラーズが全盛期を過ぎ、活動休止となった後も、ウッドは様々な再結成の機会にしばしば参加しており、2015年から2016年にかけては、レスリー・マッコーエン、アラン・ロングミュアーとともに、ベイ・シティ・ローラーズ名義でイギリス各地で公演をおこない、注目されました。
その後も彼は、自らが率いる新世代のベイ・シティ・ローラーズと世界をツアーし続けており、2018年には来日公演も行いました。また音楽産業の裏方として、自ら設立した The Music Kitchen を通した音楽プロデューサーとしての活動もしています。2020年現在では、彼自身と3人のメンバーから成る Rollers というバンドでギターを演奏しています。

■ デレク・ロングミュアー
(Derek Longmuir、1951年3月19日 - )
スコットランドのエディンバラ出身の元ドラマー、1970年代のポップ・グループであったベイ・シティ・ローラーズの結成時からのメンバー。彼の兄アラン・ロングミュアーは、このグループでベースを弾いていた。
1980年代半ば以降は、看護師として働くようになっており、後述の不祥事の時点ではエディンバラ王立診療所で働いていました。その後も看護師として働き、ベイ・シティ・ローラーズ再結成の動きには関わっていません。
不祥事
1999年8月、ロングミュアーの自宅を強制捜査した警察は、多数の児童ポルノ動画などを押収。
2000年、ロングミュアーは、児童ポルノ所持の罪で、300時間のコミュニティ奉仕の判決を受けました。
判決文によると、彼は働いていた診療所から解雇されたというが、後に看護師登録は再認定されました。彼は裁判で有罪を認めたが、違法なポルノ自体は自分のものではなく、知人が置いていったものだという主張を貫いた。ロングミュアーによれば、有罪を認めたのは、「メディア・サーカス(英語版)」状態を避けたかったからだったということです。
2000年5月7日の『サンデー・ヘラルド (Sunday Herald)』紙のインタビューで、ロングミュアーの養子ホルヘ・ローレイロ (Jorge Loureiro) が語ったところによると、ロングミュアーは無実であり、この件は友人であった偏執的なアメリカ人のファンがでっち上げたもので、問題のディスクは、彼が逮捕される数日前に匿名で送られたものだったという。

■ パット・マッグリン
(Patrick James McGlynn、1958年3月31日 - )
スコットランドのエディンバラ出身の元ベイ・シティ・ローラーズのメンバーで、おもにリズムギターを担当。ベイ・シティ・ローラーズ脱退後には、自らのバンド、パット・マッグリンとスコッティーズ(Pat McGlynn's Scotties)でもヒットを出しました。
1977年5月にベイ・シティ・ローラーズを離れたマッグリンは、自分のバンドであるパット・マッグリンとスコッティーズ (Pat McGlynn's Scotties) を率いて活動。同年秋には英語原題ではセルフタイトルのデビュー・アルバム『パット・デビュー! あの娘はアイドル (Pat McGlynn's Scotties)』を出し、シングル「あの娘はアイドル (She'd Rather Be With Me)」をイギリスと日本でヒットさせ、大規模な来日公演も成功させています。
1980年代以降、ときおり企画されるベイ・シティ・ローラーズの再結成にしばしば参加しています。
2003年、かつてベイ・シティ・ローラーズのマネージャーだったタム・ペイトンを、1977年にホテルの一室で自分に性的暴行を加えようとしたとして訴えています。
しかし、警察は、ペイトンを訴追できるだけの十分な証拠はないとする決定を下しています。ペイトンには以前にも、未成年の少年に対する淫行を理由に逮捕された前歴があります。
2005年5月、かつてのローラーズのリード・シンガーだったレスリー・マッコーエンとともに、薬物関係の嫌疑で逮捕されましたが、後にその嫌疑は晴れています。
2009年には、過去のソロアルバム全5作が初めてCD化されたのを機に、23年ぶりの日本公演が行われました。
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マネージャー
"タム"・ペイトン(Thomas Dougal "Tam" Paton、1938年8月5日 - 2009年4月8日)
ポップ・グループのマネージャーで、特にスコットランドのボーイズ・バンドであるベイ・シティ・ローラーズのマネージャーとして知られる。
ボーカリストのレスリー・マッコーエンは後に、ペイトンはバンドのメンバーたちに薬物をやらせたと語り、「僕たちがちょっとばかり疲れていると、アンフェタミンを与えられた」としている。2005年時点の回顧で、マッコーエンは、「彼は僕たちを眠らせないように、スピードとかブラック・ボンバーを与えた。最後はもうお互いにいかにバカげた薬をやっているかを自慢し合っているような状態になってた」と述べている。
1970年代後半には、ペイトンはロゼッタ・ストーン(英語版)のマネージャーを務め、そのギタリストだったポール・ラーウィル (Paul Lerwill)、後のグレゴリー・グレイ(英語版)と恋愛関係にあった。
1982年、ペイトンは、当時、合意に基づく行為が合法とされていた21歳に満たない、16歳と17歳の十代の少年ふたりに対する性犯罪で有罪を宣告され、3年の懲役刑となり、1年間実際に服役した。当時、ゲイの性行為に関する合意が成立する年齢は、ストレート(異性愛)の性行為の場合の16歳よりも高かった。この不均等は2001年まで残っていた。
2003年1月には児童性的虐待により逮捕されたが、この疑いは後に晴れた。2004年4月、ペイトンは大麻を提供した罪で20万ポンドの罰金を課された。2003年には、1977年にあるホテルで、当時ベイ・シティ・ローラーズのギタリストだったパット・マッグリンを強姦しようとした、として告発された。警察当局は、証拠不十分として起訴しなかった。
2009年4月8日、ペイトンはエディンバラの自宅で、おそらくは心筋梗塞により70歳で死去した。
ペイトンは、ゲイであることを公言していた。
参考資料は、Wikipediaより引用しています
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