竹田の子守唄
とても切ない歌ですね
私はオフコースのレコードで初めて聴いたのですけど、元となった曲を今日初めて聴きました
竹田の子守り唄 / 山本潤子
Yellow channel Japanより引用いたします
リリース 1971年(昭和46年)2月5日
規格 シングルレコード
ジャンル 民謡
フォークソング
レーベル リバティ(東芝音楽工業)
作詞・作曲 (日本民謡)
赤い鳥 A面 竹田の子守り唄 B面 翼をください
(概要)
この曲は複数の被差別部落に伝わる子供の労働歌であり、題名に「子守唄」とあるが正しくは「守り子唄」であり、子供を寝かしつけるのではなく、部落出身で子守として奉公に出され、学校へ通ったり遊んだりする余裕のない10歳前後の少女の心情が唄われている。
明治時代中期の発祥とされるが、題名にある竹田地区の住民が実際に唄っていたのは、昭和初期に10代だった世代までであった。
(唄が広まる経緯)
1964年12月(または1965年1月)、東京芸術座が公演した労演主催の舞台作品である住井すゑ原作の『橋のない川』で、尾上和彦が多泉和人(おおいずみ かずと)のペンネームで音楽を手掛けることになり、主題に即した曲を使おうとしたが、尾上は部落問題を肌で感じることができなかったため実感を得るため、別の仕事で訪れたことのある被差別部落の一つである京都市伏見区竹田地区を訪れ、当地の部落解放同盟の合唱団「はだしの子」メンバーの1人の母親から、情緒たっぷりどころかカラっと明るく唄って教えてもらった民謡を編曲して使ったものである。
尾上が採集したのがたまたま竹田地区であったため『竹田の子守唄』とされたが、それ以前は題名が付いていなかった。きちんとした楽譜もなく、1番と2番でテンポも違った唄は、子守り奉公で苦労する中にも強く暖かい人間性を内在させ、『赤いサラファン』に共通する部分も感じられ、聞かせてもらった女性の唄を尾上が解体してつくったのが今日に知られる旋律である。
唄の後半に『ロンドンデリーの歌』のような、非常に豊かな音の広がりも加えた4分の2拍子で書き上げたが、発表後に複数の関西の研究者が「この唄は自分で採譜した」と主張、これについて尾上は、唄を聞かせた女性はその後は人前で披露することはなく、彼女の唄は発表されたものよりテンポが速い16分音符でなければならないと否定している。
それが合唱団のレパートリーとなったことで、当時のフォークソングの歌手たちにも広まり、その一人が後の赤い鳥の後藤悦治郎であった。
後藤悦治郎は、関西フォークの定例コンサート「大阪労音例会」で、大塚孝彦・高田恭子のデュエットが歌唱しているのを聴き、本作を初めて知って感銘を受ける。
後藤はフーツエミールというグループのリーダーだったが、レパートリーが英語の歌ばかりなことに不満を抱いていた。後藤はこの曲に触れたことでフーツエミールを解散し、赤い鳥を新結成するに至る。
赤い鳥の結成時は持ち歌が他に『カム・アンド・ゴー・ウィズ・ミー』しかなかったが、後藤は本作の練習には力を入れるほど心から惚れ込み、デビュー作としてシングルレコードを発売、結成7か月後の1969年11月の第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで本作を歌唱してグランプリを飾った。
ご視聴ありがとうございました






