Bob Marley

ボブ・マーリーの遺した名言集【レゲエ】

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🔹ボブ・マーリーの名言🔹

★ 指をさして人を非難する前に、君のその手がよごれていないか確かめてくれ。

★ どうやって生きるかなんてことは、誰も他人に教えられないよ。
  それは、自分自身で見つけるものだ。

★ 音に打ちのめされて傷付くものはいない。それが音楽のいいところさ。

★ お前は逃げる。でも、自分自身からは逃げられない。




1945年2月6日、ジャマイカ生まれ。
61年にバニー・ウェイラー、ピーター・トッシュらとウェイラーズの母体となるグループを結成。
73年の『キャッチ・ア・ファイアー』でレゲエを世界に知らしめる。
バニー、ピーター脱退後も『ライヴ!』や『エクソダス』などの名作を発表。
ラスタファリズムに裏打ちされた高い精神性と普遍的なメッセージは、81年の病死後もレゲエのリズムとともに世界中のミュージシャンや人々に影響を与え続けている。

1945年2月6日にジャマイカ・セント・アン教区のナイン・マイルズで、のイギリス海軍大尉であり、ジャマイカ最大の建設会社「マーリー・アンド・カンパニー」を経営していた白人のノーヴァル・マーリー (英語) と、ジャマイカ人の セデラ・ブッカー (英語)との間に生まれる。
当時、父親は61歳、母親は16歳だった。
両親はボブの誕生後すぐに別れた。
父親は首都キングストンで、ボブは母親とその家族と共にナイン・マイルズで幼少期を過ごした。

ボブはナイン・マイルズ近郊のステプニーでステプニー・オール・エイジ・スクールに通い、そこで後に共にウェイラーズを結成することとなるネヴィル・リヴィングストンと出会っている。

ボブが10歳のときに父が死に、それまで受け取っていた経済的な援助がなくなった。
母は息子を連れ職を求めてキングストン郊外のスラム(トレンチタウン)に移り住んだ。
ここでバニー・ウェイラーと共に音楽活動を開始し、1959年に14歳のときには音楽に専念するため学校を中退した。

21歳の時に19歳のリタ・アンダーソンと結婚した。

ジョー・ヒッグスに音楽的薫陶とラスタファリ思想の教えを受ける。

1962年、レスリー・コンのビバリーズ・レーベルから「One Cup of Coffee」、「Judge Not」を発表しプロとしてデビューする。なお、上記2楽曲のシングルにはボビー・マーテル(Bobby Martell)と表記されていた。


1963年 ピーター・トッシュらとティーネイジャーズ(後にウェイラーズへと改名)を結成しデビュー。
当初は6人組だった。



ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにあるマーリーのプレート
悪性のメラノーマを発症し医師からは親指を切断することを勧められたが、マーリーは宗教的な理由でこれを拒否し、部分切除を行った。やがて腫瘍は全身に転移し、手を付けられない状態まで悪化した。

1981年5月11日、療養先のドイツからジャマイカに向けて帰国の途のつく途中で容態が悪化、アメリカ・フロリダ州の病院で妻と母に見届けられ、死去。
最終的な死因は脳腫瘍と癌の肺への転移によるものとされている。
36歳没。同月21日、キングストンにて国葬された。



泣かないで
ね、泣かないで
いい子だから、お願いだから、涙を流さないで
ね、泣かないで

俺は覚えてるよ
トレンチタウンの公営住宅の中庭に座り込んで
よく眺めていたね
善良な人たちに偽善者たちが混じりこんでるのを
これまで、俺たちはいい友達を持った
そして、いい友達を失ってしまった
これから輝かしい未来が始まるだろうけど、今までのことを忘れちゃいけないよ
だから、涙をふいて

泣かないで
もう、泣かないで
いい子だから、涙を流すのはよしな
ね、泣かないで

俺は、忘れないよ
よくトレンチタウンの中庭に座り込んでたね
ジョージが火を起こし
一晩中、まきが燃えていた
そして、俺たちはとうもろこしのお粥を作ったんだ
こんな思い出を(いつまでも)お前たちと共有し、また、伝えていきたいんだ

俺の乗り物はこの足だけだ
だから、無理だろうと押し進むしかないんだ
俺がいなくなっても

すべてうまくいくよ
だいじょうぶ

だから、泣かないで
泣かないで
いい子だから、涙を流さないでくれ
ね、泣かないで

泣かないで
ね、泣かないで
いい子だから、お願いだから、涙を流さないで
ね、泣かないで

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